44.世事
ノールディンとハインセルが向かった宿の一階にある小さな食堂には酒を呑む男が二、三人いるばかりだった。
「おっ、来たね!」
女将が朗らかに声を掛けてくる。
「ああ。こんな時間にすまない」
そうノールディンが答えると、彼女は大らかに笑った。
「若い子がいちいち気にするもんじゃないよ! むしろ残り物なんか出しちまって悪いね」
そう言って、数種類の料理がごちゃごちゃと乗った大皿をどかんとテーブルの上に置いた。ここに座れと言う事だろう。
特に何を言うでも無く席に着いたノールディンは、立ったままのハインセルに片眉をあげた。
「何をしている。さっさと座ったらどうだ?」
我に返ったハインセルは、その動揺を顔には出さずに黙って椅子に腰を下ろした。
「酒を二つ頼む」
「はいよ。何がいい? 果実酒?」
「……古酒はあるか?」
少し悩んで、ノールディンはそう聞いた。
女将は含み笑いをしてから、笑みを浮かべ言った。
「あるよ。とっておきのがね。……待ってな!」
厨房の奥にその姿が消えたのを確認して、ハインセルは声を潜めて忠言をした。
「このようなところで古酒など頼まれるのは如何なものでしょうか」
古酒とは、その名の通りに酒を長期間寝かせたものだ。店によっては五十年ものに巡り会える事もある。
しかし反面、管理が悪ければあっさりとお腐れ水となってしまうのだ。それを高値でやりとりする店もあると聞きかじっていたハインセルが警戒するのも無理は無い。
ところがいつの間にやら食事を口にしながらノールディンは言った。
「飯が美味い店は、酒も美味い。道理だ」
ハインセルはぎょっとした。
毒味もせずに!
「さっさと食え、冷めるぞ」
凄まじい勢いで食事がその口に消えていく。
近衛騎士をしている以上、皇帝の食事風景など日常的に目にしているが、こんなにマナーに無頓着に食べる姿など初めて目にした。食器は使うが、骨付き肉等は手掴みだ。
「はいよ! うちの自慢の古酒だよっ」
女将の陽気な声と共に、テーブルに二つの茶色いグラスが置かれた。その中の透明な液体がゆらりと揺れる。
またしてもハインセルが止める間など与えずに、ノールディンの手がその一方を掴んでしまう。
半分程飲んで、グラスがテーブルに戻された。
「美味いな」
「だろう?」
嬉しそうに笑う女将に向かって、ノールディンは唇の端を上げる。
その笑みを見たハインセルは、盛大に咽せた。
「……っ! ……げほっ、げほっ」
その勢いの激しさに、女将は目を丸くする。
周囲の客も「なんだ、なんだ」と注目してきた。
「……大丈夫か?」
さも嫌そうにノールディンが聞いてくる。
「……大丈夫です。失礼しました」
しばし間を置いて落ち着いたハインセルは謝罪した。
人目を引きたくない旅路だと言うのに、それをしてしまうのが皇帝陛下では無く、自分である事が酷く恥ずかしかった。
食事を終えて部屋に戻ると、ノールディンは椅子に腰掛けた。片足を隣の椅子に乗せてブーツの紐を緩め始める。
全くもたつく事の無いその様子にハインセルが見入っていると、彼は不機嫌そうに声を掛けて来た。
「食堂でのあれは何だ?」
激しく咽せた事を聞いて来ているのだろう。
「い、いえ……。へい……、ノルド様があの様に笑われるとは思わなかったもので」
どうもまだ『ノルド』とは呼び慣れず、たどたどしい物言いになってしまう。
「ふん。俺だって愛想笑いの一つ二つできるさ」
「あ、愛想笑いですかっ?」
思わず意気込んで聞いてしまった。
ますます眉間の皺を深めたノールディンは冷ややかな視線を送る。
「ゴールゼンと旅をしていた時に言われた」
クゥセルも一緒で、あちこちをふらふらと出歩いていた頃の事だ。
巡る街巡る街でノールディンはその美貌からよく衆目を集めたが、彼は生来の性質から一欠片の笑みも零さずに過ごしていた。
しかしそれが異常に人の目を引いてしまう事にその内気がついた。その面が気に食わないと風体の悪い人間から因縁をつけられたり、商売女の誘いが余計にしつこくなったりするのだ。
どうすればいいかとゴールゼンに聞けば、彼はこう言った。
「笑え! 愛想笑いでいいんだから、少しは笑っとけ。人間離れした様子を見せるから人の気を引いちまうんだよ。少しは人間らしくしとけ!」
かなり酷い物言いだが、一理はあった。
それなりに整った顔立ちのクゥセルがそんなトラブルに一切巻き込まれていない事が、それを実証している。
この悪友の顔を腹いせ混じりにいじくり倒して、表情筋の使い方を身に付けたのだ。
そこまで言われて、ハインセルは思い出す。食堂で何度か浮かべた笑みだったが、その目は全く笑っていなかった気がした。愛想笑いだったのなら当然だろう。
「さて、俺は寝るぞ」
「はい。では、自分は不寝番を……」
この居間の様な部屋に入ればいいだろうと思ってハインセルはそう言った。
ところが、主から帰って来たのは冷ややかな視線だった。
「お前は馬鹿か? 代わりもいないのに不寝番などしてどうする」
「いえ、しかし……」
「明日は早く宿を出る。梟もそこらにいるのだから、さっさと寝ておけ」
あっさりと隣室に入り寝台に潜り込んでしまったノールディンの背中を眺めながら、ハインセルはそっと溜め息をついた。
帝都を出発してたかだか半日だが、自分より余程ノールディンの方が世慣れているという事ははっきりしていた。
いかに騎士養成学校で様々な経験をしたと言っても、所詮ハインセル・イマジアは生粋の貴族なのだ。任務が無ければ、一人で帝都の街中へ繰り出す事も無かった様な人間なのだ。
こうなると、城を出る直前にしていた宰相とのやりとりにも合点が行く。
ハインセル一人を連れて城を出ると言ったノールディンに、宰相は当然の如く反対した。
「そんな事、許可出来る訳が無いでしょう。せめてあと一人は連れて行って下さい!」
激昂する宰相に対して、皇帝は冷淡に一言告げた。
「足手まといはいらん」
執務室の扉の脇でその会話を聞いていたハインセルは、僅かな苛立ちを感じた。
鍛え上げた騎士たちが足手まといになる訳が無いだろう、と。
勿論敬愛する皇帝陛下の言う事だ、それ以上の感情を差し挟む気は無かった。
しかし宰相の様子は違った。
うっと言葉に詰まり、結局その件を渋々と了承したのだ。
今なら彼の反応の意味が分かる。
はっきり言って今のハインセルはノールディンの足を引っ張っている。
彼に授けられた対処法が無ければ、ハインセルは次々とぼろを出し、やがて騎士だとばれてしまっていただろう。
そんな人間が何人もついて回ったら、『足手まとい』以外の何者でも無い。
先が思いやられて、深い深い溜め息がハインセルの口から漏れる。
結局、彼は溜め息を付き終わると、のそのそと皇帝の隣の寝台に横たわった。