42.心慮
元の衣服に着替えたスウリがスザイに促されて馬車に乗り込むのを、エルディーザは部屋の窓から見ていた。
真実を言えば、オルナド・バーリク伯を継いだ時に、彼女は義姉との約束を破る事を決めていた。
不器用ではあったが、それでも義妹を慈しんでくれた義姉との最後の約束を果たせない事は辛かったが、エルディーザにはそれ以上に守りたいものが出来てしまったのだ。
そんな彼女に陰ながらでも皇妃フェリシエを支えようと決意させたのは、他でも無く皇帝ノールディンであり、皇妃フェリシエであった。
二年前の成婚の儀の後で、私的な晩餐に誘われた時のことだ。何と言う事は無い会話のほんの一瞬、ノールディンが酷く優しい顔でフェリシエに微笑みかけたのだ。
エルディーザはまずそれに驚いたが、それ以上に、フェリシエの反応に驚いた。
この上なく美しいその笑みに驚くでも無く、まして見蕩れるでも無く、新しい皇妃は微笑みを返したのだ。
まるで当たり前にノールディンを受け入れるその光景は、これから幾多の困難を負うであろう彼女に肩入れすることを決断させるに充分すぎるものだった。
「本当に、あの子ときたら……!」
翻って、女心など知りもしない甥に不満と、それから苛立ちが募る。
みしっと手の中で音がした。
慌てて手元を見れば、気に入りの扇が今にもへし折れそうに曲がっている。
取り敢えず真っ直ぐに戻してから広げてみると、何とか羽根は折れずにすんだようだ。
幾つも並ぶ懸念に小さく嘆息をつくが、彼女には他にも片付けなければならない仕事がある。思い悩んでばかりもいられない。
次期オルナド・バーリク伯である義息子が帰ってくるまでは、領主としての仕事を一手に引き受けなくてはいけないのだ。
苛立ちに捕われた姿など、エルディーザ・オルナド・バーリク女伯には相応しく無い。
執務館に向かうべく、彼女は典雅な笑みを浮かべて踵を返した。
ウィシェルとクゥセルが待つ食堂に向かう馬車の中で、スウリは黒服のスザイと向かい合って座っていた。
膝の上にはエルディーザから預かった本。胸の上では銀細工のペンダントと小さな鍵がぶつかり合って、ちり、ちり、と小さな音をたてていた。
服の上からそっと胸元を押さえて、スウリは胸にあった疑問をスザイにぶつける事にした。
「スザイ様」
呼び掛けると、窓の外に視線を向けていたスザイがこちらを向いた。
「スザイで結構ですよ、スウリ様」
ああ、やはり。そう思う。
「どうして、私の名前を知っているのでしょうか?」
彼は小さく眉を上げた。
「おや、エルディ様は何もおっしゃいませんでしたか」
スウリが頷けば、スザイは目を細めた。
唇の端をほんの少し持ち上げて、口を開く。
「では、私がかつて『梟』であったと言えば納得頂けるでしょうか?」
梟、とは鳥の名前では無い。皇帝直属の諜報機関の名称だ。本名を隠して活動する彼らを総じて『梟』と呼んでいるのだ。
スザイの情報収集能力がその構成員だった事に起因しているならば、納得だ。
「そう、だったのですね……」
素直に感心してみせるスウリに、スザイは思う。
不思議な方だ、と。
先ほどまでのドレス姿では凛とした態度であったのに、今はどこかあどけない。それでもその内側にはしっかりとした芯を保っているように見えた。
それなのに、その芯を保とうとする懸命さが庇護欲を誘うのだ。
あの、人一倍警戒心の強い皇帝陛下の心を掴まれただけありますね……。
そこでスザイはいつもはしない気遣いをする事に決めた。
「スウリ様。一つご忠告を」
その言葉に、スウリは顔を上げた。
「オンドバルにて、不穏な動きをする者たちがおります。エルディ様のお膝元で好き勝手をさせるつもりはありませんが、どうか身辺にご注意を」
城を出れば全てが丸く収まるなんて思ってはいなかったが、やはり簡単にはいかないらしい。
「それはエルディ様には?」
少し心配になって聞いてみる。エルディーザのあの調子では、公的に人を動かす訳にいかないとなれば、自分の護衛をスウリに割くと言い出しかねない。
「報告する気はありません」
後でどれほど叱責を受けようとも、スザイは大切な主の身を危うくするような真似をする気は無かった。
「それなら、良かったです。私にはクゥセルがいますし。……一応、がつきますけど」
職務に忠実な近衛騎士団長の顔と、ここ最近の様な素の顔を織り交ぜては人を煙に巻くその姿が頭に浮かび、ついつい笑みが浮かんでしまう。
その落ち着いた様子に、スザイは思わず疑問を呈していた。
「随分と冷静でいらっしゃるのですね」
きょとん、と一つ瞬いて、それからスウリは困った様に笑った。
「あんな形で城を出た私に関わろうという人たちがいることには、驚いています。ただ、……そうですね。もうここまで来てしまったのですし、後はもう迎え撃つばかりだと開き直っているのですよ」
そして、スウリはスザイに向き合う。
「ご忠告、痛み入ります。よく気をつけます」
心からの謝辞を送る彼女に、スザイも微笑みを返した。