41.被展
晩夏の陽射しが射し込む室内で、スウリとエルディーザは一つの長椅子に寄り添って座っていた。
互いに寄り添い合うと言うよりは、エルディーザの方がしっかりとスウリを抱き寄せているような姿勢だ。まるで、雛を守る母鳥のように。
落ち着きを取り戻し始めたスウリは、一転してそんな状況に戸惑いを覚えていた。
「エルディーザ様、もう大丈夫です。……醜態をお見せして申し訳ありませんでした」
自分よりも高い位置にある細い肩にそっと手を添えながら言えば、エルディーザはごく僅かに体を引いた。
スウリの顔を覗き込むようにして傾けられた顔に浮かぶ感情は、小さな不満だった。
その表情に、スウリはノールディンの面影を見た。父譲りの美貌を謳われた彼の顔は、叔母であるエルディーザとも良く似ているのだ。
小さく息を呑むが、すぐにエルディーザの顔に浮かんだ微笑みが彼の姿を霧散させる。
女性らしい愛情に満ちたそれは、決してノールディンには出来ない種類の笑みだった。
「大丈夫よ。あの困った子どもたちは私が後でしっかり叱っておいてあげますからね」
しかしその柔かな表情のままエルディーザが発した台詞は、スウリにとって意外なものだった。思わずきょとんと瞬いてしまう。
「叱る、のですか?」
「もちろん。これでもあの子の母親代わりをしていた事もあるのだから」
ノールディンの母親は彼が三歳の頃に亡くなっている。それからエルディーザが嫁ぐまで、ノールディンとクゥセルは悪戯をしては彼女に叱られ、城を抜け出しては小言を授かって来たとクゥセルが言っていた。「自分の母親に怒られるより怖かった……」とも。
あの冗談のような言葉は真実だったのだ、とスウリは内心で頷いた。
そんな彼女に気付いているのかいないのか。少し沈黙を作った後、エルディーザはぽつりと言った。
「貴女の事についてはね、お義姉様から頼まれていたの……」
「……お義姉様から、ですか?」
装飾品が薬指の指輪一つという白い指がスウリの手を包み込んで、その甲を優しく撫でる。
「ノールディンのお母様よ。亡くなられる少し前に、私を呼んでこう仰られたわ」
可愛いエルディーザ。あの子に、ノールディンに望んで嫁いでくれる方がいらしたら、その人を支えてあげて頂戴。
病に蝕まれて痩せてしまった手に強く握りしめられた感触が、エルディーザの手に蘇る。
彼女は未だ忘れられないその感触を手放す為に、瞳を閉じた。
現実に今手の中にある小さな温もりを感じながら、再び両目を開く。
「ノールディンはね、顔はお兄様にそっくり。でも、性格というか、性質はお義姉様にそっくりなの。無表情で、感情をあまり表に出さない。お義姉様は、それを甚く心配されていたわ」
クゥセルと転げ回ったり、二人揃ってゴールゼンに首根っこを捕まえられる息子を見ながら、義姉がしみじみ言っていたのをエルディーザは思い出す。
あの子の伴侶は苦労するわ……、と。
隣国の王女だった皇妃は、結婚当初その性質が災いして先代皇帝と色々あったらしい。らしい、と言うのは、幼かったエルディーザに詳しく話してくれる者がいなかった為だ。故人の噂話は自重され、結局彼女がその事情を知る事は無くなってしまった。
ともあれ、実感のこもったその言葉は若いエルディーザには重々しく聞こえた。
「本当ならば、新しい皇妃様は皇太后様が何くれと無く支えてくれるものだけれど、自分はそれが出来そうにないと悔しそうだったわ……。その想いを私に託されたのよ」
そこでエルディーザは深く溜め息をついた。
「けれど、私はそのお言葉に添う事は出来なかった。……そう。オルナド・バーリク伯の爵位を疎ましく思ったのは初めてだったわ」
ノールディンが皇妃を娶った時エルディーザは既に爵位を継いでいたし、先代皇帝との取り決めは代が代わろうとも有効だ。
国政への干渉を禁じられた彼女が帝都にいるフェリシエを支えるのは無理があったのだ。
「そんな、エルディーザ様……。そんな風に仰らないでください」
握られた手から伝わる温もりが、自分をこんな風に想ってくれる人がいたという事実が、スウリを困惑させた。
それでも、この優しい美しい人の苦しそうな顔は胸を締め付ける。
スウリは自分の手をエルディーザの手から引き抜いて、逆にしっかりと包み込んだ。
「思いやってくださるだけで充分です。……充分なのです」
瞳に涙を滲ませて、エルディーザは唇を震わせた。
「フェリシエ様……。いいえ、スウリと、そう呼んでも?」
皇妃としての名では無く、元の名前を呼ばれて、スウリは瞬いた。
そういえば、スザイもそう呼びかけてきたと、ふと思い至る。
けれど、こちらを伺う様に小首を傾げる目の前の女性に気が付いて我に返った。
「ええ、勿論。そう呼んで頂きたいです」
そう答えれば、エルディーザは華の様に艶やかに微笑んだ。
「ありがとう、スウリ」
零れそうだった涙を拭った彼女は、傍らに置いてあったものを手に取る。表紙を一撫でしてから、「これを貴女に」と言ってスウリに手渡した。
それは、革張りの日記帳に見えた。
ぐるりと周囲にベルトを回し、本の開きの部分に鍵穴がついている。
しげしげとそれを見つめるスウリの横で、エルディーザは首から下げた鎖を手繰り寄せてそれを引き出した。
鎖の先についた小さな鍵を、日記帳の鍵穴に差し込んで鍵を開けた。本のベルトを外して、表紙を開く。
そこに書かれた文字に、スウリの瞳が大きく開かれた。
「『皇妃様を陰ながら見守る会』、会員名簿……?」
今日で一番の驚きを覚えて、その文字とエルディーザを何度も何度も見返した。
「え。あの……、これは、一体…………」
どこか哀しげな微笑みを浮かべて、エルディーザはスウリの疑問に答えてくれた。
「私が出来る事と言ったら、陰で貴女の味方になってくれそうな方を探すことくらいだったの。だから、こういう会を作って人を集めたのよ」
白い指先で、一通の手紙を差し出した。
「会員の一人よ。貴女が城を出た事を知って、大急ぎで送ってくれたの」
中を見ていいのかと視線で問うと、エルディーザは首を縦に振った。
封筒から取り出した手紙の内容は簡潔だ。皇妃が城を出た旨と、何か手助けは出来ないだろうかと乱れた字で書いてある。
差出人の名前まで辿り着いて、スウリはその手紙をぎゅっと胸に抱いた。
「……ローリィ様」
騎士団総長ゴールゼンの妻、ローリィ。慣れない社交場に立つスウリを、時に鮮やかに、時に強引に、幾度も助けてくれた人だ。
あんなにお世話になっておきながら、何も言わずに出て来た事が今更ながら悔やまれる。
便せんに並ぶ言葉の端々に気遣いしか無い事が、嬉しくも申し訳ない。
「その本は貴女に預けるわ。そこに名を連ねている方々は、今はまだ表立って何も出来ないかもしれないけれど、貴女の味方だと言うことを知っておいて欲しいの……」
「いいえ、お預かりすることなんてっ」
できません、とは言わせて貰えなかった。
手の中から手紙が消えて、小さな鍵が潜り込まされたのだ。
「すぐにオンドバルを離れる訳ではないのでしょう? 疲れているでしょうから、今日は一度帰ってお休みなさい」
無理に連れて来てしまってごめんなさい、と告げられる。
「エルディ様……」
名を呟く事しかできないスウリを抱き締める事で、彼女は自身の思いを伝えようとした。
「私は、貴女を深く傷つけたノールディンの叔母だわ」
彼の名に、思わず肩が揺れた。
どうして、この方の前ではこうなってしまうのだろう……。
友人たちの前では納めてしまえるものが零れてしまう。そう、苦く思うスウリの耳にエルディーザの声が届く。
「でも、貴女の事も深く想っているわ」
体を離して、視線を合わせる。
「すぐに信頼してもらえるとは思っていない。だからこそ、この本は私と会員たちの決意の証となるでしょう!」
決然と言う彼女に、スウリは頷いた。
この本に名を連ねると言う事が、どれほど勇気のいることか分かるからだ。
帝国の重臣たちはおおむね皇妃フェリシエに批判的だ。騎士団総長ゴールゼンや宰相のような人間は少数派なのだ。
そんな中で『皇妃様を陰ながら見守る会』に参加し、まして名簿に名を記すなど、身の破滅を招きかねない危険な行為だ。エルディーザへの信頼が篤いとも言えるし、会員たちの覚悟が強いとも言える。
「この本が、貴女に混乱をもたらす事は予想出来るわ。けれどどうか、彼女の、彼女たちの想いを疑ったりしないで……」
真摯な訴えに、ただ静かに、スウリは頷いた。