40.守人
「オンドバルの女領主って、あいつの叔母上なんだよ」
ささやかれたその事実に、ウィシェルは首を捻った。
飲み込めていない様子の彼女に、クゥセルは付け足す。
「先代皇帝陛下の妹君だ」
「……皇女殿下?」
「そうそう」
自信なさげに呟かれたウィシェルの台詞に、彼は頷いてやった。
「……一体どうして皇女殿下が伯爵位を継いでいるの?」
普通は何処かの高位貴族に嫁いで、その妻として暮らすものだろう。伯爵夫人と呼ばれるのが妥当だ。いや、伯爵では家格が低く、皇女の降嫁先としては不釣り合いではあるのだが……。
問われたクゥセルは少しだけ眉間に皺を寄せた。
「彼女の夫、先代のオルナド・バーリク伯が亡くなったからだ」
続けられたクゥセルの話はこうだ。
先代皇帝の妹、エルディーザ皇女はジアン・オルナド・バーリク伯爵と結婚した。ところが、その五年後に彼が不慮の事故で急死したのだ。
問題は、夫妻の間に子どもがいなかったことだった。
ジアンの近しい血縁は男爵家に嫁いだ妹しかおらず、次期伯爵に最も近かったのは、遠縁の男だった。この男の素行はあまり宜しく無く、跡継ぎ問題は当然のように揉めた。
そこで、エルディーザが暫定的でいいから伯爵位を継ぎたいと申し出たのだ。
当時の皇帝はそれを以下の条件付きで許可した。
一つ、オルナド・バーリク家の近親から養子をとり、時期を見て確実にその者に爵位を譲る。
一つ、エルディーザ・オルナド・バーリクは爵位を譲るまで、皇女の立場を持って国政への干渉を禁ずる。
皇帝が危惧したのは、帝国内でのオルナド・バーリク領の立場と、妹の身の安全だった。
帝国最大の港湾都市オンドバルを有するオルナド・バーリク領。この領地が保有する財力は帝国全体の一割を占めていると言われ、その気になれば帝国から独立する事も可能な程だった。
歴代のオルナド・バーリク伯爵は弁えた人物ばかりで、皇帝に牙を剥いて領民を疲弊させるよりも帝国内における自由な気風を尊んだ。その為、皇家とも長く友好的な関係が続いていた。
しかし後継者候補の男は野心的だった。自分の欲望の為には犠牲も厭わないという報告が皇帝の手元にあがっていた。
その事実を知ったエルディーザは彼の伯爵位継承だけは防がねばならないと思った。その為に、夫の後を継ぐという困難な道を敢えて選択したのだ。
彼女の夫ジアンはとりわけ温厚で知られた人物で、領地と領民、そして妻をこよなく愛していた。彼の傍らで五年の月日を過ごしたエルディーザの意思は明確で、決意は固かった。
しかし件の男を排しても、伯爵位には様々な思惑や打算が絡んでくる。皇女として何不自由無く育ち、世間を知らない若いエルディーザを利用しようとするものが絶えないだろう事は容易く想像できた。
だからこそ、兄帝は先の二つの条件をつけたのだ。
一つ目は、伯爵位を本来の血筋に返すため。
二つ目は、彼女の持つ利権を伯爵位だけに抑える事で、エルディーザが悪意を持つ者に利用されることを最低のラインで阻止するため。
「よく、わかったわ。説明ありがとう」
「どういたしまして。……でも、なんで頭抱えるんだよ」
謝辞を述べながら、ウィシェルは机の上で苦悩していた。
「だって。私、どうしてその話を知らないのかなって思うと……」
城で皇妃に仕えていた人間として、結構恥ずべきことだ。
クゥセルはそれに軽く噴き出した。
「ウィシェルの頭ん中はきっとこうなんだよ。一に医療に関する事と家族とスウリがいて、二にスウリ以外の友人知人が続くだろう? その後は全部一律に、興味の有る無しで分けられてるとみたね」
ウィシェルは少し考えてみたが、なんだか微妙に的を射ている気がした。
「確かに他所の伯爵様に興味は無いわね……」
うーんと唸る彼女を面白そうに見ながら、クゥセルはにこやかに笑う。
その笑顔を見て、ウィシェルは当初の疑問に立ち返った。
「でもね、オンドバルの領主様があの方の叔母様だからって、スウリにとって安全とは言えないのではない?」
叔母の性格によっては、スウリが皇帝に恥をかかせたと捉える場合だってあるだろう。
クゥセルは、「あー……」と唸り声というよりも吐息に近いものを吐き出して、テーブルに肘をついた。
「あの方は、良くも悪くもお姫様だよ。かなり典型的な、ね。まさしく城の中で蝶よ花よと育てられたんだ。誰かを害するって発想自体が薄いだろうなあ。……まあ、俺らを怒る時は怖かったけどなー」
そう言って、彼は少し遠い目をする。
昔を懐かしむと言うよりも、思い出したく無い事を思い出してしまった悲哀のようだった。
「今時なあ。……を叩くか、普通」
ぼやいた台詞の一部が聞こえず、ウィシェルは聞き返した。
「え、今なんて言ったの?」
ひらひらと顔の横で振られた手の平が、「聞かないでくれ」と言っていた。