39.嫻雅
オンドバル領主の執事に連れられてスウリが訪れた城館は白亜の館だった。
なだらかな丘の上に立てられた二棟の建物はシンメトリーを描きつつもそれぞれの個性を発揮している。
オンドバルの街に向きあう一棟は全くの白色で装飾が少ない。こちらが執務を行う館だという。
もう一棟は柔らかなクリーム色で、緑に囲われた居心地の良さそうな佇まいだった。領主とその家族や使用人の暮らす館だそうだ。
スウリが案内されたのは居館の方だった。
スザイにエスコートされて馬車を下りると、恰幅の良い中年の女性と侍女たちが待ち構えていた。
「ご機嫌麗しく。わたくしは居館の侍女長でベスと申します」
スカートの裾を摘み、彼女はかがんで一礼した。
挨拶を返そうとスウリが口を開こうとした時、がしっと腕を掴まれる。
「今日はお嬢様のお世話を仰せつかっております。さあ、奥方様がお待ちですので、急いで準備致しましょう!」
この年代特有とでも言うのだろうか、それとも彼女の個性なのか、その強引さでベスはスウリを別室へと連れ込んだ。
「あ、あの?」
別室と言うのは、言ってしまえば浴室だった。
戸惑うスウリに、侍女たちはにっこり微笑む。
「長旅でお疲れでしょう?」
背の高い女性がそう聞いてくるから、スウリは「いえ、三日では長旅の内には入らないかと……」と反論を試みる。
しかし何故か服が脱がされていく。
「え。あの、……」
どう考えても入浴する流れだ。
拒否の声をあげようにも、「三日も!」と、激しく衝撃を受けた様な声が背後から聞こえてきて気をとられる。
そちらを振り向けば、十代半ばの少女が胸を押さえて痛ましげな顔をしている。
驚きつつも、「そんなに驚かれる様な事では……」とか言っているうちに既に浴室にいた。
「まあ。馬車にずっと乗っていらしてはさぞや疲れもたまっているでしょう」
労る様に髪が梳かれ、「ゆっくりなさって下さい」と優しく声をかけられる。
そんなこんなで、はっと気付けばスウリは入浴が済まされ、華やかなドレスを着せられていた。
彼女たちの鮮やかな手並みには舌を巻いてしまう。
手際では城の侍女たちと良い勝負だけれど、強引さではこちらが上手ね……。
スウリはそんな事をぼんやり考えていたが、背中のボタンが止められていくにつれて、意識が切り替わるのを感じた。
すっと背中に芯が一本入った様な感じ、とでも言うのだろうか。
胸を軽く張り、表情も引き締まる。皇妃として生きるために身に付けたその感覚は、風が吹く直前の湖面に浮かぶ緊張感に似ていた。静謐で穏やかなものだ。
「ではスウリ様、髪を整えますのでこちらへ」
ベスに促され鏡台へと進むスウリの仕草に、侍女たちは静かに息を呑んだ。
自分たちの主の所作に似ていて、それでいて何処か違う。主のそれを形容する言葉が優美や華麗とするなら、スウリのそれは廉潔、あるいは清廉と形容するのが相応しかった。
共通するのは、人を惹きつけ、視線を捕える存在感。
全く無意識に所作を変えていた一方で、スウリは不思議な感覚を味わっていた。
ドレスを着たことで自分の意識が切り替わってしまった事もそうだが、ほんの三日前まで着ていたドレスをもう何年も着ていなかったように感じたからだ。
もう二度と、こんな服は着ないと思っていたのに……。
鏡台の前に腰を下ろしたスウリの髪を、ベスは全て結い上げたりはしなかった。上半分だけ結い上げて、生花を飾る。
小さな、白い薔薇だった。
身支度を整えたスウリはベスに連れられて廊下を進み、両開きの扉の前まで来た。
彼女はドアをノックし、部屋の中の人物に声を掛ける。
「奥方様、スウリ様をお連れしました」
「お入りなさい」
間髪を入れず、女性の声が答える。
ベスは扉を押し開くと、スウリを室内へと案内した。
大きな窓から陽光が射し込み、温室のように光に満ちた部屋だった。
廊下がこの部屋よりも僅かに薄暗かったため、スウリは目を細める。その狭い視界の中で、奥の長椅子に座っていた女性が立ち上がってこちらに歩み寄ってくるのを見た。
「お茶を淹れて参りますので、私はしばし失礼致します」
傍らのベスの声に、スウリは首を動かして彼女を見た。
あの強引さに礼を言うべきかどうか少し迷ったが、結局口を開く。
「どうも有り難うございました」
ベスは朗らかに笑んで、黙礼の後に退室した。
扉の閉まる音を背中で聞きながら、スウリは顔を正面に向けた。
そこには、オルナド・バーリク伯爵が佇んでいた。薔薇に例えられる美貌に微笑みを乗せて。
「お久しぶりですね、皇妃様」
甘みを帯びた声が久方ぶりに耳にする呼び名を口にする。そして、彼女は右手に持った扇をそのままに、優雅に膝を落として礼をした。
スウリも応じる為にドレスの裾を軽く持ち上げる。
皇妃としての微笑みを浮かべて礼をしたつもりだったが、目の前の女性の表情が堅くなったのを見た。
……何故?
そっと口元に手を添えると、口角が上がっていない事に気がついた。
ぞっとした。笑えていないのだ。
口端に触れる指が細かく震える。
この方の前では、無様な姿など晒したく無いのに……!
初めて会ったその瞬間から、彼女、エルディーザ・オルナド・バーリクはスウリの教師だった。
授業をしてもらった訳では無い。彼女の持つ気品、優雅さ、教養。それらが皇妃として振る舞う上でのお手本に最適だったのだ。スウリは僅かな時間で彼女から学んだそれらを何度も何度も思い出して、さらって、真似た。
侍女たちが二人の所作に似通った物を感じたのも無理からないことだったのだ。
だからこそスウリが勝手に思っているだけとは言え、師と呼ぶべきこの人の前での失態を犯した動揺は大きかった。
微笑みを浮かべようと思えば思う程、指先の震えははっきりとしたものになり、顔の強張りが際立っていく。
視界がぐらぐらと揺れて、膝をついてしゃがみこんでしまいたかった。
ふと、頬と手の甲にあたたかなものが触れた。
スウリが視線を上げると、彼女より上背のあるエルディーザが気遣わしげな表情で見下ろしていた。
その細く白い手が、口元に添えられたスウリの手ごと頬を包み込んでいたのだ。
「笑えないのなら、無理に笑う事はないわ」
そう言うと、目を見開いたスウリを抱き寄せた。
優しく髪を撫でながら、囁く。
「不甲斐ない甥が、本当にごめんなさい……」