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民の望んだ皇妃  作者: 界軌
本編
36/85

36.薔薇

 大きな窓から射し込む陽光の暖かな部屋に、女性の軽やかな笑い声が響く。


 あちらこちらに飾られた薔薇の花が甘やかな薫りを漂わせている。


「ふふっ」


 長椅子の肘掛けにもたれる様に座るその人は、白い繊手に持った扇を口元に添える。


「ふふふふふふ……」


 彼女は、堪えきれないといった様子で肩を震わせる。


「もう一度、聞かせてちょうだい……」


「はい」


 彼女の脇に控えた男性が、軽く頭を垂れる。左目につけた片眼鏡がきらりと光った。


「皇妃フェリシエ様が皇帝陛下に離縁を告げられ、城を出たとのことでございます」


 ばらり、と開かれた扇の陰で貴婦人は唇の端をますます引き上げる。数多の薔薇も霞むほど美しく、艶やかな笑みだ。


「なんて、なんて面白いこと!」


 感極まった様に高らかに笑った。


 そして、ある瞬間、ぱちんっと扇を閉じた。


「スザイ!」


「はっ」


 片眼鏡をかけた執事の名を呼ぶ。


「わたくしが、この国の皇帝を恨んでいる事は知っているわね」


「よく、存じ上げております。エルディ様」


 彼女は呼ばれた名に瞳を眇めて、扇をスザイに突きつける。


「女伯とお呼びなさい」


「申し訳ありません。オルナド・バーリク女伯閣下」


 その台詞と静かな一礼に、満足げな笑みを浮かべて唇を開く。


「そう。それで宜しいの」


 そしてテーブルの上に置かれた一通の手紙を手に取った。今朝、早馬が持って来たものだ。


 封筒から取り出して開いた便せんには、知己の文字が並んでいる。少し切迫感を感じているのか、乱れ気味だ。


「城を出られた皇妃様が向かう先は、……」


 手紙の文字をなぞりながら彼女が呟けば、スザイが回答をもたらす。


「港湾都市オンドバルと報告が来ております」


「ふふふふ、ふふ。本当に、……なんて素晴らしいこと。我が所領に来て頂けるとは」


 テーブルの上に手紙を戻すと、エルディ、エルディーザ・オルナド・バーリクは立ち上がり、窓辺に寄った。


 磨かれたガラスの前で足を止めた彼女は、振り向いて、陽射しの眩しさに目を細めたスザイに命じる。


「彼の方がオンドバルに来られたら、丁重にお迎えなさい」


「畏まりました」


 女伯の忠実なるしもべは左手の指先を揃えて胸に当て、深く礼をした。





「オルナド・バーリク?」


 ウィシェルが疑問の声を発した。


 答えるのはクゥセルだ。


「そ。それは古代の言葉でね。意味は……」


「海の、恵み」


 軽やかにスウリが付け足す。


「で、そのオルナド・バーリクを短くしたというか、言い易くしたのが、『オンドバル』って訳」


「なるほど」


 初めて知ったウィシェルは頷く。


「だから今でもあの辺りを治めている領主は『オルナド・バーリク』を名乗っているんだよ」


「アンジェロの領主様は『アンジェロ』を名乗っていはいなかったから、全然つながらなかったわ」


「まあ、アンジェロは昔の帝都だし?そりゃ事情が違うさ」


「そうよね」


 港湾都市オンドバルがどんな都市か、その基礎知識をウィシェルがクゥセルから教わっている最中であった。


 知っているスウリは時々茶々を入れる他は退屈で、眠くて仕方が無かった。


 幾度目かの欠伸をかみ殺し、また馬車の覆いを持ち上げる。


 馬車は林の中を進み、代わり映えのしない景色にスウリが飽き始めた頃、クゥセルが言った。


「お。見えたぞ」


「なにが見えたの?」


 スウリも目を凝らすが気になるようなものは見えない。そんな彼女にクゥセルは右側に並ぶ木々を指差した。


 細い木々の合間から、青くきらめくものが時折覗く。


「海だ」


「わあっ…………」


 スウリは久方ぶりに見た海に歓声をあげた。要塞都市アンジェロも帝都も内陸の街だったため、もう何年も海など来てはいない。


「さすがにまだ潮の香りはしないね」


 クゥセルが言うが、スウリは海に夢中だった。瞬きもせず、じっと途切れ途切れに見える青い色を探す。


 そのうち家屋が目立ち始め、更に街道が海側から逸れていくと全く海は見えなくなってしまった。


 それだけで昂揚していた気分は萎んでしまい、「ああ……」と肩を落として席に戻った。


「またすぐに見れるわよ」


 ウィシェルが優しく言うので、スウリは少しだけ笑ってみせた。子どものようにはしゃいだ事が少し照れくさい。


「今度は街中が潮の香りでいっぱいだよ。お嬢ちゃんなんかはすぐに飽きちゃうんじゃないかい?」


 笑いながら、中年の女性が声を掛けてくる。


 この三日間ですっかり親しくなったイエノという女性だ。


 帝都に住む息子さんに会いに行った帰りだそうで、荷物は帝都のお土産ばかりだった。


「街中そうなら、飽きる前に慣れてしまいそうですね」


 スウリの言葉に、「確かにそうだ」と言ってイエノは笑い声を立てる。


「ああ、でもねえ、あの街で唯一潮の香りがしないと言われている場所があるんだよ。知っているかい?」


 スウリもウィシェルもすぐにクゥセルを見上げた。大概の事は彼が知っている。


 いちいちこっち見るのやめてくれよな〜、とぼやきながらもクゥセルは答えてくれた。


「城館の薔薇園だろう?」


「大当たり! 先代のご領主様が奥方様の為に作られたんだけどね、一般公開されているんだよ。一部のプライベートスペースを除けば、温室だって見られるんだから。時間があったら一度行ってみると良いよ」


「素敵ですね」


 にこやかに笑いながら答えるスウリを見ながら、残る二人はこう思った。「絶対に行く訳にはいかないな」と。


 スウリ自身だって、さすがに城館に近づくのは危険だろうと考えていた。









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