35.清風
ノール……
起きて、ノール………
聞き覚えのある声が繰り返し自分の名を呼んでいるのに、ノールディンは気がついた。
次の瞬間、閉じていたはずの瞼が開かれて、柔らかい陽射しが目に飛び込んで来た。
それだけではない。目前に、逆さまにこちらを覗き込む少女の微笑みがあった。
けれど彼女の顔はすぐに驚愕へと変わった。
「きゃあっ!」
小さく悲鳴をあげて視界から引っ込む。
ノールディンが視線をずらせば、寝転がった彼の頭の上辺りに彼女はしゃがみ込んでいた。心臓の辺りを両手で握りしめて、目を白黒させている。唐突に目を開いた彼に酷く驚かされたようだ。
「なんて目の覚まし方をするの?」
とがめる様な視線を彼に送って、それから安堵に似た溜め息をつく。
「……ああ、びっくりした」
しかし、少女のその姿にこそ、ノールディンは驚いていた。
髪を結わずに背中に流し、シンプルなワンピースを着ている。最後に見た時より幼い姿のスウリだ。
それに、鼻をくすぐる清々しい香り。緑の深いこの場所は、エダ・セアの森だ。
背中の下には地面を覆う短い草が隙間無く生えている。体を起こせば、直ぐ傍に聖域の泉があった。あの頃、いつも会っていた場所だ。
ノールディンが身を起こす間に、スウリは何度か深呼吸を繰り返していた。
やがて落ち着いたのか、一言も発しないノールディンに声を掛けた。
「ノール? 寝ぼけてる?」
「いや、起きた……」
彼女の名を呼ぼうとしたノールディンの意思に反して、彼の唇は勝手に動いていた。試してはみるが、指先の動き一つ自由にはならない。
過去を、夢で見ているのか……。
恐らく出会って間もない頃だろう。夏が終わろうとしている気配がした。
「クゥセルがね、ノールは寝起きが悪いって言ってたから」
「……から?」
「張り切って起こそうと思ったのに、あっさり目を覚ましちゃうんだもん」
スウリは少し唇を尖らせてみせるが、その表情からは怒りの気配は伝わってこない。
「それは、悪い事をしたな」
ふっ、と過去の自分が笑んだのを知った。
それから視界がぐるりと巡り、周囲を見渡していた。
「それで、そう教えた馬鹿は何処へいったんだ」
馬鹿、と吐き捨てるように言えば、スウリが返事を返す。
「散歩に行くって」
ノールディンの視線を追う様にスウリもぐるりと周囲を見回す。
けれど彼に背中を見せる様に捻った姿勢で、そのまま固まった。いや、肩が震えているから、笑いを堪えているのだ。
「……それにしても、ノールとクゥセルって……」
「何だ。言いたい事は言え」
口元を両手で押さえているせいでくぐもった声を発する少女に、憮然とした心地で先を促す。
するとスウリはとんでもない事を口にした。
「良く似てるよね。さっきクゥセルも、『その馬鹿は寝起き最悪だから、宜しくね!』って言ったのよ。……なんだか、長年連れ添った夫婦みたいに息ぴったり。相思相愛ね」
ノールディンはその言葉に頭が痛くなった。あんなのと相思相愛など、あってはならないことだ。
と、未だに震えているスウリの姿にピンときた。
「もしかして、からかっているのか……?」
多分、眉間には皺が寄っている事だろう。
「ふふっ……」
耐えられない、とスウリは軽やかな笑い声を立てた。
その楽しそうな様子に、ノールディンの口元は自然に緩む。
「まったく。俺をからかうなんて、あの馬鹿か、スゥリくらいだぞ」
そう言ってやれば、数回瞬いた後、彼女の瞳が悪戯っぽく輝いた。
「ふむ。じゃあ、とっても貴重な存在ね!」
僅かに瞠目して、それから過去のノールディンは小さく囁いた。
「ああ。そうだな。とても貴重な存在だ……」
晩夏の木漏れ日が遠くなった。
再び暗くなった視界に身じろげば、今度は自分の意思で目を開くことが出来た。
視界には赤い闇が広がっている。その赤で、ノールディンは今自分がいる場所が皇帝の寝室だと知った。
厚いカーテンに閉ざされているが、外の気配は既に朝だ。
ベッドの上で身を起こすが、ふわりと森の香りが周囲に広がった様な気がした。
一時動きを止めるが、一つ頭を振って意識を切り替える。目覚めたばかりとは思えない機敏さでノールディンは行動を開始した。