30.追憶〜親愛
かつて、幾千幾万の神々がこの世界におわした頃、その大地は四人の皇帝によって統治されていた。
紅蓮に燃える赤き衣まといし、炎帝。
玲瓏たる白き衣まといし、氷帝。
廻転する緑の衣まといし、碧帝。
普遍なる黒き衣まといし、闇帝。
神である彼らに統治されたこの世界は、不足無く、幸福に満ちた世界だった。
しかし人々が文明を築き始めてから幾千年の後、神々は一人、また一人とその姿を隠していった。
原因はそれぞれだ。
寿命を迎えた神もいれば、人の世に嫌気がさしたと嘆きながら去った神もいた。
詰まるところ、神と人の間に距離ができあがるという、そういう時期が訪れただけの事であった。
しかし全ての人間が神の意思を理解して納得出来るはずも無く。彼らは様々な理由を持ち出した。
ある者は神々の気まぐれを罵り、ある者は神々を祀る者たちに責任を求めた。
そしてある者たちは、神々の存在よりも彼らのもたらした恩恵に執着した。
一つは魔法や魔術といった頂上の力。
今一つは、『聖域』という神の作った不可思議な力の満ちる場所。
そして最後が、『魔具』という魔法の力を秘めた装飾品の類いだ。
やがて神々が完全に世界を去ると、魔法や魔術は衰退し、滅びてしまった。
反面、不可侵の場所であった『聖域』と、純然たる道具であった『魔具』は、その数こそ減少したが確かにこの世界に残された。
「と、いうのが今の時代に至る経緯だよ。わかった?」
まだ後ろに何ページも残っていたが、イエンヤールの語りは終わってしまった。もっと続くと思っていたウィシェルの肩は、かくっと落ちてしまう。幻想の世界から、一気に現実に帰って来てしまった。
「え、と。……なんとなく、ですけど」
神妙に頷くスウリの隣で、ウィシェルは額に手を置いた。
それにしても……。子ども用の絵本のはずなのに、言い回しが難しい気がする。本当に私はこの本を読んでいたのだろうか……。
「つまり、今は神様はいなくって、聖域の不思議な力で私はここに来てしまった。そういう事ですよね?」
「そうそう。そういう訳でね。まあ、昔っから『界渡り』はこの国に来ていたんだ。彼らが持って来た知識や技術はこの国の発展にも大きな影響を与えていてね。それに感謝した先々代の皇帝陛下が『界渡り』を保護する法律を作ったんだよ」
考え込んでいたウィシェルも、イエンヤールのその言葉に顔を上げた。
「保護する法律……?」
聞いた事も無かった。
「うん? ああ。聞いた事無いでしょ? 多分かなり階層が上の貴族や、森番とかじゃないと知らないと思うよ。でも、本当にあるよ」
そこまで言うと、自分の拳をウィシェルの方へと向けた。一本ずつ指を立てながら説明する。
「『界渡り』を害してはいけない。これは、まあ、聖域に呼ばれて来た人を害するってのはこの国の人間としてはちょっと考えるのが難しいことだよね」
それだけエダ・セアの森にある聖域がこの国で神聖視されているという事だ。
イエンヤールは二本目の指を立てる。
「そして、『界渡り』を保護した土地の領主は彼らが独り立ち出来るまで保護する事ってね。法律違反すると罰せられちゃうから気をつけてね」
罰せられると言う割にそ口調は軽かった。
「あの…………」
小さな、呟くような声に、皆の視線が向いた。
その先では、スウリが俯いて、両手でスカートの裾を握り込んでいた。
「どうしたの?」
その思い詰めた様子に目を見張って、イエンヤールは彼女に聞いた。
「私、別に特別な力とか、知識とか、そんなもの持っていません」
言葉尻に震えが走る。
「だから、何もお返し出来ないです。保護なんて、してもらう資格、無いです」
その後何度か唇が空回りして、ようやく「ごめんなさい」と漏らした。
知らない世界で、自分には何の価値もないと告白したのだ。放り出される事だって覚悟しているのだろう。その証拠に、スウリは肩を震わせていた。
怖くて、怖くて仕方ないと、全身が言っていた。
「スウリ……」
ウィシェルは、そっと手を伸ばして彼女を抱き寄せる。
その光景を見て、ロッドは領主へと視線を向けた。
イエンヤールは唖然とした表情をしていたが、やがて天井を見上げた。
そうして口を開く。
「ああ〜。困ったー!!」
ぎょっとして、ウィシェルとスウリは顔を上げた。
そこには、頭を抱えるイエンヤールがいた。
「あの、領主様……?」
ウィシェルが声を掛けると、彼は泣きそうな顔で机に身を乗り出して言う。
「スウリ、君が僕に保護されてくれないと、僕、法律違反で捕まっちゃうんだけど!?」
「えっ、えっ?」
必死の訴えに、スウリは思わずウィシェルにしがみついていた。
「さっき言ったでしょ? 『界渡り』の保護は法律で決まっているの! だから、君がそれを拒んじゃったりすると、僕は罰せられちゃうんだよ! 帝都の騎士は怖いんだよ〜! アンジェロの騎士たちじゃちょっと太刀打ち出来ないんだよ!」
「え、……騎士?」
「そう! 精鋭部隊なんだよ! だから、僕を助けると思って保護されてよ! ね!!」
「えっ、……あ、は、はい! 宜しくお願いします!」
叫ぶイエンヤールにつられて、スウリも思わず叫んでいた。
彼女が承諾したその瞬間、イエンヤールはにっこりと微笑んだ。先ほどまでの動揺は奇麗さっぱり消え去っていた。
「良かった。有り難う」
「…………」
抱き合ったままのウィシェルとスウリは呆然と彼を見た。
つまり演技だったのだ。怒濤の展開が落ち着いて、ようやく気付く。
「いや〜良かった良かった。とりあえずね、スウリはロッドの屋敷にいてね。彼を保護者にしとくからさ。どうも『界渡り』の人って、自分を呼んだ聖域の傍が落ち着くらしくってね、しばらくはその近くに住んでた方がいいみたい。そこでこの世界の一般常識とか学んだりしちゃって〜。ね!」
イエンヤールの浮かべる朗らかな表情には、スウリへの気遣いの色が見えた。
彼は法律違反で罰せられる事など恐れてはいなかった。ただ、突然現れた異世界の少女との出会いを喜び、その少女を保護する役目を光栄に思っているだけだった。
ウィシェルがそれを悟ったのと同じ様に、スウリも気付いたのだろう。彼女はここに来て初めて、柔らかな笑みを浮かべた。
「うん。いいね。やっぱり、女の子は笑顔が一番だよ」
正面からその笑顔を見たイエンヤールは、笑みを深めて言った。