3.行動
二日が経った。
皇帝陛下はおろか宰相からも何の連絡も無い。
次の日には大会議場であった事は城中に知れ渡っていたが、それでも何も言ってこないのは不可解だった。
侍女達は物言いたげな瞳でこちらを見てくる。しかし決してその事には触れてこないのは、侍女長か侍従長によって何らかの指導が入っている為だろう。
フェリシエは半月前から段階を踏んで公務を減らし、ついに昨日からは何の予定も無くなっていた。その為と、「出て行け」と言われた瞬間に出て行けるようにする為に、この二日間必要以上に部屋から出てはいなかった。
だから会う人間は限られているし、その人達に城内の様子を聞くのも気の毒に思えて、皇妃になって以来初めて情報収集を止めていたのだ。
居間のソファに腰を下ろして暇を持て余していたが、思案の末に紅茶の入ったカップを左手に持ったソーサーの上に置いた。
「そろそろ潮時ね……」
急ぎの案件だと言ったはずなのに。そう呟いて、フェリシエは席を立った。
居間の扉を開ければ、控えの間がある。
そこでお茶のお代わりを持ってきたルミアと鉢合わせた。
「皇妃様? どうかなさいましたか?」
ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳は子リスのようだ。十六歳と言う年齢に相応しいあどけなさが見える。
にっこりと微笑んだフェリシエは口を開く。
「お茶のお代わりかしら?無駄にしてしまって申し訳ないのだけれど、出掛けます」
茶器の乗ったカートを押していたルミアの両手が大きく震える。
「お、お出掛けですかっ? ど、どちらへ? い、いえ、その、お部屋から出られるのですか?」
驚きと焦りで、言動がまとまっていない。いつでも丁寧に(いっそトロいと言い換えてもいいくらいののんびり加減で)他者と接するルミアだが、この様子は明らかに異常だ。
フェリシエは直ぐに理由に思い至った。
「侍女長か、宰相殿辺りからわたくしを部屋から出すなと言われているのでしょう?」
苦笑しながら言えば、ルミアはあっという間に顔色を真っ青にした。
「大丈夫。その宰相殿のところに向かうのです。何も城外に出るわけでは無いわ」
その一言に少女は涙を浮かべる程安堵した。
「宰相殿」
忙しげに側近達に指示を出す宰相の背中に、フェリシエは声を掛けた。
噂の皇妃の出現に宰相執務室の者達も動揺を隠せなかった。書類の山が一山崩れた事には流石にフェリシエも謝罪の視線を送らざるを得ない。
振り向いた宰相もやはり目を剥いて驚きを示した。
「これは、皇妃様。どうなさいました」
硬い声音に、フェリシエは微笑みを深め、室内の緊張感を和らげる事に努めた。
「忙しいところごめんなさい。少し時間を頂けないかしら?」
フェリシエの微笑みに僅かに肩の力を抜いた宰相だったが、視線をさ迷わせる。
「いえ、その、案件が立て込んでおりまして……」
仕事を理由にかわそうとする彼に、フェリシエは思案気に眉を顰めた。
「まあ。そんな所に来てしまって本当にごめんなさい。時間をとらせるのも申し訳ないから、ここでさっさと済ませてしまうわ」
ぎょっとしたのは宰相だ。皇妃が自分を訪れた理由など明白だ。皇帝陛下との離縁の話に決まっている。なのに、彼女はこんな人の多いところでその話を済まそうと言うのだ。
手元の書類にサインを書き込み、フェリシエに向き合った。
「今一段落つきました。こちらへどうぞ」
そう言って、廊下の先にある休憩室へとフェリシエを促した。
フェリシエは背後に従っていた近衛騎士に廊下で待つよう言いおいて、勧められた椅子に腰を落ち着かせる。
直ぐに彼女は話を切り出した。
「単刀直入に聞きます。離縁の手続きの件はどうなりましたか?もう三日目が過ぎようとしています。特別な手続きは無いという事ですのに、何に手間取っておいででしょうか?」
宰相としては、美しい笑顔にぶん殴られた心境だった。
直接的にも過ぎる攻撃だ。
「そ、それはですな、その、へ……」
うっかり口を滑らせそうになって、「ご、ごほん」と咳払いをして誤魔化した。
「まあ、皇帝陛下が私を部屋で大人しくさせろなどと仰ったのですか?ではその陛下はどちらに?」
宰相執務室の奥にある皇帝執務室は、扉の前に衛兵が立ってはいたが、人の出入りも無く静まり返っていた。外出していることが伺えたのだ。
「ぐっ……。へ、陛下は視察の為、一昨日からジャシーファダ地方に出向いています」
フェリシエの言葉が真実を突いていた為、宰相は妙な物を飲み込んだ時のように詰まってしまった。それでも長年の宮仕えで養った精神力で建て直し、フェリシエの質問に答えた。
答えを貰ったフェリシエは、人差し指を唇に添えて、ジャシーファダ地方についての情報を思い起こす。
黒い肌の民が多い南方の地域だ。城からは一日半がかりで行けたはずだ。
「では、早くともお戻りは明日ですね」
「そう、ですな。今回は時間を掛けずに戻られると仰られておりました」
ならば、今日が良いタイミングではないか。
フェリシエは手の平を合わせて、にっこりと微笑んだ。
その笑顔に、宰相はあらぬものを感じて仰け反った。
「では、明日の朝、私は出て行きますね。必要な手続き等本来は無いのですから。これまでお世話になりました」
「なっ?!」
皺だらけの宰相の顔が、驚愕に戦いた。
立ち上がり、席を後にするフェリシエの背中に宰相は問い掛けた。
「何故そのように急がれるのですかっ」
扉の前で立ち止まり、フェリシエは振り返った。
「皇帝陛下の誕生祭は再来月でしょう?」
「は?」
唐突に誕生祭の事を持ち出されて、宰相は首を捻った。
「あの、誕生祭が、何か?」
聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように、フェリシエは一言一言丁寧に言った。
「誕生祭こそ、新しい皇妃様のお披露目に最も相応しいでしょう?これ以上時を掛ければ、準備が間に合わなくなってしまうわ。ね?」
はっとしたように、宰相の顔に理知的な光が蘇った。長い間政略漬けだった頭が急に回転を早めた心地だ。
確かに、皇妃との離縁という汚点を覆い隠し、更に皇室への民の関心を再び惹きつけるには新しい皇妃というのは格好の広告塔になるだろう。
「それに、貴方達、重臣一同には私を引き止める理由が無いわ。そして、本来ならば、皇帝陛下にも」
宰相の顔が再び歪む。
嫣然とした微笑みを崩さずに、フェリシエは小さな会釈を持ってその場を後にした。