29.追憶〜城館
翌日の昼過ぎ。ウィシェル、ロッド、そしてスウリの三人を乗せた三頭立ての馬車はエダ・セアの森を通り過ぎ、要塞都市アンジェロの城門をくぐり抜けた。スピードを落として大通りを走り、やがて突き当たった先に領主の住まう城館はあった。
かつて皇帝の居城だった城館は広大で、何より堅牢だった。城壁と同じ赤茶色の塀に鉄の門扉で守りを堅め、衛兵が二人立っている。
門扉の手前で動きを止めた馬車に近づいて来た衛兵は、馬車の正面に掲げられた『鏡に絡み付く蔦』の紋章を確認した。
「ロッド・ペディセラ卿とお見受け致します」
背の高いほうが声を掛ければ、御者が頷いて返答する。
森番であるロッドは、ここアンジェロでは貴族に並ぶ地位に位置し、彼を軽んじる者などいなかった。
「訪問の旨は既に伺っております。ご領主様もお通しする様にと。どうぞ」
その一言の後、重苦しい音と共に門扉が開かれた。
城館の入り口へと続く真っ直ぐな道を進む馬車の中、進行方向に向かって座っていたウィシェルは流れる風景に懐かしさを覚えていた。幼い頃は母とともに歩いた事があったからだ。
ちらりと左側に視線を送れば、スウリが背中を座席の背もたれにつけながらも視線は外の景色に釘付けになっているという微笑ましい光景があった。
城壁の内部は領主の家族が住む居館を最奥に配して、手前に政治が行われる執務館、その周囲を小館が囲む構造になっている。彼らが向かっているのは執務館だった。
やがて馬車は執務館の巨大な外扉の前で止まり、三人は外に出る。
出迎えたのは領主の秘書だという男性で、彼に先導されて城館の中の広い廊下を進んだ。
領主の執務室付近に差し掛かると豪華さはいや増して、いっそ重々しささえ感じる様になってきた。
さすがにここまで奥に入った事の無かったウィシェルは気後れを感じながら歩く。
祖父を伺えば、平然と前を歩いている。
その経験の深さに羨みを感じていると、繋いでいた左手がぎゅっと握られた。
驚いて傍らを見れば、手に力を込めて来たスウリは眉根を寄せて辺りの様子を伺っていた。きょろきょろと落ち着き無く彷徨う視線と、続いてウィシェルの袖を掴んで来た左手が彼女の不安を伝えて来る。
それを見て、ウィシェルは気後れしてまごついていた自分を恥じた。傍らには全く未知の場所に怯えている幼い少女がいるのだ。年長で、しかもこの街の出身である自分がしっかりしなくてどうすると言うのか。
握られている左手をしっかりと握り返した。
はっとしたようにスウリが見上げてくるから、視線を合わせてにっこりと笑いかけた。
そうすると、少女は少し肩の力を抜いて目元を和ませてくれる。
ウィシェルはどうしようも無く嬉しさを覚えて、袖を握る小さな手を右手でぽんぽんと優しく叩いていた。
「領主様がこちらでお待ちです」
立ち止まって口を開いた秘書の声に、ぴくりとスウリの肩が揺れた。
彼は目の前の扉を叩く。
「領主様、ロッド・ペディセラ卿と界渡りのお方がお見えです」
ややしばらくして返答があった。
「入りなさい」
柔らかく穏やかな声は、ウィシェルが数年前に年始の挨拶で聞いたものと同じだった。まさしく、要塞都市アンジェロの領主の声だ。
秘書が扉を開き、先に中に入る。
「失礼致します」
部屋の奥に佇む人物に軽く頭を下げてから、彼は三人に部屋の中に入るよう促した。
まずロッドがタイル敷の床に足を踏み入れる。
少し硬い表情で深く一礼をする。その硬さは決して緊張では無く、領主に払う敬意のようにウィシェルには見えた。
「お久しぶりでございます。ロッド・ペディセラ、森番のお役目に従い罷り越しました」
ウィシェルも、スウリとくっついたまま部屋に入った。
祖父に続いてしっかりと頭を下げる。自然、スウリもそれに倣った。
頭を上げたウィシェルとスウリが見たのは、丈の長い上着を着た四十代くらいの男性だった。三人の視線が自分に集まるのを待って、彼はゆったりと微笑んだ。
「ああ、ロッド。ご苦労だったね」
少し厚手の裾を揺らしてこちらに歩み寄る。
ロッドに声を掛け、彼の小さな頷きに、自身も頷きを返す。
それから三歩程下がった位置に立っていたウィシェルとスウリに向き合う。
「さてさて。こっちはロッドのお孫さんだよね」
視線を向けられて、ウィシェルは「ウィシェル・ペディセラです」と、もう一度礼をした。
にこりと笑みを返して、今度はスウリに向き直る。
「ということは、君が今回の『界渡り』ということでいいのかな?」
顔の位置を合わせようとしているのか、少しだけ屈んで彼は言った。
スウリはそっとウィシェルから手を離し、その手を重ねて丁寧にお辞儀した。
「……スウリと言います」
ぎこちなく堅い声だった。しかし、領主はそんな態度も微笑ましいと言いたげに笑みを深める。
スウリの頭が元の高さに戻るのを待って、彼は口を開いた。
「僕はこの要塞都市アンジェロの領主で、イエンヤール・ウード・ワルスって言います。宜しくね」
すかさず右の手を差し出してくる。
彼の意図が掴めないでいるスウリにウィシェルはそっと囁いた。
「スウリ、握手よ」
はっとしたスウリは若干慌てて手を差し出した。
その小さな手をしっかり握って、イエンヤールはにこにこと機嫌良さそうにしている。
「いやあ、まさか僕の代で『界渡り』が訪れるなんて。やってるもんだねえ、領主って」
得した得した、と少年の様に笑う。
その横でロッドが、ごほん、と咳払いをする。
「領主様、不謹慎です」
その一言に、さっとイエンヤールは顔色を変えた。
「ご、ごめんね! 僕にしてみたら幸運のように感じる事だけど、君にしてみたらとんでもなく困った事だよね! 自分の都合ばっかりで喜んだりして……。本当にごめんね!」
まだ握っていたスウリの手を自分の両手で包み込んで、必死の形相で謝罪して来た。
先の言葉も全く悪気が無いし、今も真剣に謝っているということが、ひしひしと伝わってくる。
謝られている本人はきょとんとしているし、その隣のウィシェルだって一体どう反応すれば良いのか分からない。
おかしい。子どもの頃に見たときは、威厳とまではいかなくても、人々が彼の言葉に従うのは当然だと、そう思える雰囲気をまとっていた気がする……のに。その雰囲気は何処に行ってしまったのだろう。
まだ謝罪の言葉を続けようとするイエンヤールを遮ったのは秘書だった。
「領主様、ここで立ち話もなんでしょう。席に落ち着かれてはいかがです。スウリ様も、どう見てもお怒りのご様子ではありませんよ」
秘書の言葉を聞いたスウリは幾分冷静さを取り戻した。というより、自分より動揺している人間が目の前にいれば、そうせざるを得なかった気もする。
「あの、私、特になんとも思っていないです。大丈夫です。気にしないで下さい」
イエンヤールはスウリの言葉に目尻を落とした。
彼女の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「いいこだね。優しい子だ。ありがとう」
困った様に笑うスウリと、泣いていた子どもが笑ったような表情をするイエンヤール。表情だけ見れば、大人と子どもが逆転したような、なんとも奇妙な光景だった。
「さて。じゃあ、こっちに来て座ろうか。ムーオ、お茶を頼むよ!」
スウリの頭から手を離すと、一転、イエンヤールは朗らかに言った。
軽く一礼して部屋を去ったところから、どうもあの秘書の名前がムーオらしい。
領主から部屋の奥にあった応接セットに座る様に言われ、各々席に着く。長椅子にスウリとウィシェル、その正面の長椅子にイエンヤール、脇にある一人掛けにロッドという配置になった。
既に用意されていたのだろう。茶器を載せたワゴンを押して、すぐにムーオが戻って来た。
四人分のお茶を準備すると、彼はイエンヤールに一冊の薄くて大きめの本を手渡した。
「ああ、ありがとう。じゃあ、何かあったら呼ぶから……」
「隣室に待機しております」
イエンヤールの意図を心得たムーオは、ワゴンとともに扉の向こうに去った。
自分の前に用意されたお茶を一口啜ると、イエンヤールは「さて」と話を切り出した。
「さて、えーと。何処から話せばいいのかな? ロッドは何処まで話したの?」
ロッドの方へ話を振れば、彼は静かに口を開いた。
「ふむ。……私が話した事は、ここが彼女のいた世界とは別の世界であることと、『界渡り』の処遇に関しては領主様に一任されているということくらいですね。あとは、……彼女の事情の方を少し聞いています」
穏やかな口調の中で、最後の一言だけは少し言い難そうだった。
スウリもそれに反応したのか、僅かに身じろいだ。
二人の微妙な様子に、ウィシェルは違和感を感じるが、結局口は挟まなかった。
「そっか、じゃあ、この世界とか国とかについては何にも話していない?聖域とか、その辺のこととか」
それを聞いて、ロッドは小さく嘆息した。
「貴方が常々『この世界とか国のことについて色々説明するのは領主の役割なんだから、森番がその役割をとっちゃ駄目だよ』と仰っていたのを、私が忘れていたとでも?」
「もちろん、ロッドは約束を護る男だと言う事は良く知っているよ。確認しただけさ、それだけさ!」
とても良い笑顔でイエンヤールは言った。
「じゃあ、本当に初めっから話そう」
うんうんと一人頷いて、先ほどムーオから受け取った本を膝の上に立てた。
正方形のその本の表紙には、淡い色合いで小さな一対の指輪が描かれていた。その上には題名なのだろう、文字が踊っていた。
「約束の、指輪」
その文字を口に出して読んだのはスウリだった。
興味があるのだろう。身を少しだけ乗り出して、まじまじと表紙を見ている。
「お。良かった、文字は読めるんだね」
イエンヤールのその言葉に、スウリとウィシェルはかわりばんこに声を上げた。
「あ」
「……本当だ」
そして、顔を見合わせて、同時に首を傾げていた。
一緒に薬草図鑑を覗いたりもしていたのに、今まで全く気がつかなかったことが不思議だったからだ。
「言葉が通じて、文字が読めれば、大抵のことは何とかなるよね。大丈夫大丈夫」
そう言うと、イエンヤールは膝の上の本を開いた。
ウィシェルも子どもの頃に何度も読み返した懐かしい絵本だ。
「子ども用とはいえこの世界の成り立ちを知るには、これは本当にいい教科書なんだよ」
開かれたページには、四人の男性が緑と青に彩られた大地の四方に立っている絵が描かれていた。
「かつて………………」
この言葉から始まったイエンヤールの語り口は、その場にいる者を物語の中に引き込んだ。