28.追憶〜渡渉
森の聖域で出会った少女、スウリの手を引いて、ウィシェルは祖父の屋敷に戻った。
スウリはウィシェルの抱える本と薬草の入った籠を見て、「どちらか持つわ」と申し出てくれた。だから今は、ウィシェルが薬草図鑑を抱えて、スウリが籠を抱えていた。
穏やかな沈黙を保ったまま、二人は屋敷の玄関扉をくぐった。
「ここは私のおじい様の家なのよ」
それを聞いて、スウリは小さく「……お邪魔します」と呟いた。
その気後れした様子に、思わずウィシェルが口元を緩めると、陽気な声が聞こえた。
「まあまあ、ウィシェルお嬢様。随分ゆっくりのお散歩でしたこと!」
屋敷の使用人たちを取りまとめるチファ夫人がからかう口調でそう言ったのだ。ペディセラ家の人間が一つ事に夢中になると容易く時間を忘れることを熟知した人ならではの台詞だ。
「あら? そちらのお嬢様は?」
屋敷に入ってからはウィシェルの背後に隠れるようにしていたスウリに気づいた夫人は、覗き込むようにして彼女を見た。
スウリはぴくりと肩を揺らしたが、控えめに微笑んだ。
「あら……」
「泉の傍で会ったのよ。どうも迷ってしまったみたいだから連れて来たの。……おじい様に報告しないといけないものね。呼んで来てもらっていいかしら?」
スウリの笑みに少し目を見張った夫人にウィシェルは頼んだ。
「ええ。そうですね。居間で少々お待ちください」
快諾して、彼女は二階の書斎の方へと歩いていった。
その背中を見送って、ウィシェルはスウリに向き直った。
「おじい様はこのエダ・セアの森を管理する森番なの。迷子でも一応報告しておいた方がいいから、ちょっとお茶して待ちましょうね」
迷子なら早く家に帰りたいだろう。そう思ってウィシェルは殊更優しく声を掛けた。この森に踏み入った人間について把握するのも森番の役目だが、その為にこの幼い少女を不安がらせるのは彼女の本意ではなかった。
「エダ・セア?」
しかし少女から帰って来たのは疑問だった。
「そうよ。……まさか、エダ・セアの森だと知らないであそこに居たの?」
「…………その森の名前は聞いた事がないわ。……あの、ね、ウィシェル。あ、ウィシェル、さん?」
否定の意味で首を振ってみせた後で、スウリはウィシェルの名前に敬称を付けて言い直す。
年長者への配慮をしたのだろう。そう思うが、ウィシェルとしては彼女にそう呼ばれるのはなんだかむずがゆかった。
「ウィシェルで良いわ」
苦笑しながら言えば、スウリの方でも違和感を持っていたのだろう。こくり、と素直に頷いた。
「じゃあ、ウィシェル。私って、……ま、迷子なのかな?」
眉根を寄せて不可解そうに言うスウリに、ウィシェルは首を傾げた。
「だって、道がわからなくなったんでしょう?」
「ん、と。というか、ここがどこだかさっぱりわからないと言うか…………」
戸惑っているのだろう、彼女は瞳を揺らす。
スウリの伝えたい事の意味がわからなくて、ウィシェルは更に首を傾げた。
その時、階上から低く重い声が掛けられた。
「ウィシェル」
振り仰げば、玄関の差し向かいにある階段から祖父ロッドが降りてくるところだった。
「おじい様。ただいま帰りました」
彼女の挨拶に「ああ、お帰り」と返したロッドは、階段を下りきるや、すぐに視線を孫娘の隣へと移した。
「君が、泉にいたという人か?」
いつでも鷹揚に構えている祖父にあるまじき性急さだ。その表情には焦りか、驚きが見え隠れする。
それに驚いたウィシェルはぽかりと口を大きく開けてしまった。
だが祖父はそれに注意するでも無く、ただスウリを見つめている。
少女は、手にした籠の持ち手を両手で握り直して答えた。
「そう、です」
「君は、ここがどこだかわかっているのか?」
台詞はまるで彼女を責め立てるようなものだったが、ロッドの口調はむしろ慎重さを含んで堅い。
「ウィ、シェルに、エダ・セアの森だと聞きました。今さっきですけど……」
「では、ここから一番近い街が何と言うのかは知っているかい?」
ふるふるとスウリは首を振る。
ウィシェルは彼女のその仕草に目を見張った。この辺りに住んでいて要塞都市アンジェロを知らないなんて、そんなことがあるわけは無いからだ。
孫の様子に気付いていないのか、スウリをじっと見つめたロッドは再び口を開いた。
「この調子で続けても埒が明かないな。単刀直入に聞こう。……君は、全く別の場所にいたはずが、気付いたら泉の傍にいたんじゃないかね?」
そんな馬鹿なことが、そう言いそうになった口をどうにかウィシェルは手で押さえ込んだ。
だが、ウィシェルの考える事とは裏腹に、スウリは頷いた。
「そう、です。あ、私、学校から帰って……。それで、家に帰って。でも、気づいたらあの場所にいて、だから…………」
必死で自分の状況を訴える少女に、ロッドは痛ましげな視線を向けた。そして、彼女に言う。
「ならば私から君に話さなければならない事がある。そうする事は、私が果たすべき役割なのだ。聞いてもらえるかな?」
戸惑って、混乱している少女の肩にそっと手を触れようとしていたウィシェルは、その手を止めて祖父の言葉に疑問を抱いた。
彼の言う『役割』とは、森番のことだろうか?だが、森番の仕事はこのエダ・セアの森の管理ではないのだろうか?
籠を握った手にぎゅっと力を入れて、スウリは再び頷いた。
その反応を確認すると、ロッドは彼に続いて二階から下りて来ていたチファ夫人に向き直った。
「今夜から、彼女は我が家に滞在する。部屋の準備を頼めるか?」
「もちろんです」
柔らかく笑って、夫人は了解を示す。
「それから、しばらく書斎で話をする。お茶の準備を。何か食べるかい?」
最後はスウリに尋ねて言った。
彼女は小さく首を振って「大丈夫です」と答えた。
「おじい様……」
話を聞く時に傍に居させて欲しいと頼もうとしたウィシェルの声に、被せる様にロッドは言った。
「ウィシェルは部屋にいなさい」
それだけ告げると、祖父はスウリを促して二階の書斎に籠ってしまった。
階上を見上げるウィシェルの足下には薬草の入った籠が残された。
随分長い時間、二人は話し合っていたようだ。もう夕食時は過ぎてしまっていた。
なんだか気になって、部屋でじっとしている事も出来なくなったウィシェルは、お茶を貰おうと自室を出た。
一階に下りる階段の手すりに手を置いた時、背後で扉の開く音がした。
ばっと振り返ると、祖父が押さえた扉を抜けてスウリが廊下に出て来るところだった。
ウィシェルは駆け寄って彼女に声を掛けた。
「スウリ!」
床に視線を落としていた彼女はウィシェルの声に顔を上げて、静かに笑みを浮かべた。
「おじい様とのお話、やっと終わったのね」
ほっと息を吐きながら言えば、スウリは不思議そうな顔をした。
緩く首傾けて、口を開く。
「心配、してくれたの?」
「もちろんよ! こんな長い時間話をしているなんて、一体何があったのかって……」
思わずその先の言葉を飲み込んだ。
目の前の少女がそれはそれは嬉しそうに微笑んだからだ。
「ありがとう」
本当に嬉しそうにそう言った。
それを見ていたロッドは、努めて穏やかに口を挟んだ。
「疲れただろう。今日はもう休むといい。チファ夫人を呼んでこよう」
「もう来ていますよ」
タイミング良く現れた夫人に連れられてスウリは客間へと立ち去った。
ウィシェルは一瞬振り返った少女に軽く手を振って見送った後、祖父に向き合った。
「おじい様、どういう事なのですか?スウリが一体何だというのです?」
ウィシェルより頭一つ程背の高い祖父は、ふっと息をついて彼女を書斎に招いた。
部屋に入って扉を閉めた彼は切り出した。
「エダ・セアの森番を次に引き継ぐのはお前の父だろう」
「はい。そう聞いています」
「そしてその後を継ぐのは恐らくお前の兄。つまりお前は知らなくても良い事だ」
仲間外れ的なその発言に、少しむかっとしたウィシェルは頬をぴくりと引き上げた。
しかし次の祖父の台詞に、その苛立ちは霧散した。
「だが、お前には彼女を見つけ、保護した責任がある。知るべきだろう」
「せきにん…………」
言葉の意味まで反復するかの様に呟く孫を見て、ロッドは続ける。
「あの子は、スウリはこの世界の人間では無い」
「はあ」
納得したような台詞にも聞こえるが、ウィシェルはそんなものしてはいなかった。むしろ疑問符が頭の中で隊列を組んで右から左に歩いていった。
「聖域の泉にはおよそ百年に一回、『界渡り』が訪れる。その『界渡り』、つまり今回の場合はスウリだが、彼女を保護してアンジェロの領主様に引き合わせることが、森番のもう一つの役割だ」
「界渡り? そんな。それはお伽噺の中のことでしょう?」
聖域には未だ未知の力が眠っていて、時折その力を発揮する。そうした内容を題材にした本は幾つもあるし、ウィシェルも読んだ事があった。
だが、それはあくまでも作られた話だ。神々はこの世界を去り、魔法が滅びたのだから、聖域ももはや形だけのものになっている。多くの人がそう思っているだろう。
「物語になっているのは作者の意図を孕んで作られたものも多い。だが、ここ、エダ・セアの森の聖域に関して言えば、それは事実を元にしていると言える。……界、つまり世界の事を指すのだが。こことは違う世界から、こちらの世界に渡って来た者を『界渡り』と称すのだ。それは往々にして人間であるが、時折は用途不明の物である場合もあるらしい。……どちらにせよ、聖域によってこちらに渡って来たものの管理はアンジェロの領主様に任されているのだ」
「……ご領主様に」
「そうだ」
ロッドは言う。
「明日、スウリをアンジェロの城館に連れて行く。お前は」
「もちろん行きます!」
迷い無くウィシェルは答えた。
短い時間の触れ合いしかしていないというのに、ウィシェルはスウリを可愛いい友人か妹のように思えていた。
加えて、祖父の言った『責任』だ。その意味するところを自分なりに考えて、その結果、胸に込み上げたのは熱い想い。
不安げにするあの少女を一人になどするものかと、ウィシェルは使命感に燃えていた。