27.追憶〜黒彩
ウィシェル・ペディセラは要塞都市アンジェロに生まれた。
この都市は百年近く前、フォール大陸が戦争に明け暮れていた時代の帝都だった。その為守備に重点を置き、都市の周囲は分厚い赤茶色の城壁で囲まれていた。
平和な時代の訪れた今では、堅い鉄の門扉はいつでも開かれ、人々の出入りは深夜を除いて自由だった。
かつて皇帝の居城であった場所は領主の城館となり、規模は最盛期からは落ちたが、今でも十分に栄えた都市であった。
要塞都市アンジェロの特徴は、かつての帝都ということの他にもう一つある。
それは、城壁の外に広がる広大な森だ。正確に言えば、このエダ・セアという不思議な響きの名を持つ森の入り口にアンジェロが置かれていると言うべきだろう。
神々がこの世界を去り、魔法が滅びた今でも、この森、そしてその奥にある聖域は大陸中の人間にとって特別な意味を持っていた。
さて、ウィシェルの話に戻ろう。
ペディセラ家は裕福な家庭で、本家はアンジェロにある。この時の当主であるウィシェルの父オルドはその父ロッドの代から医師の職に就き、アンジェロの医薬局に務めていた。
ところがウィシェルが十歳のときに帝都の医薬局から役人が来た。オルドの薬剤に関する知識と経験を求めて帝都の医薬局で働かないかとスカウトに来たのだ。
ペディセラ家の居間で父がその役人にこう言ったのをウィシェルは聞いた。
「断る」
「何故です! 帝都からの要請ですよ?!」
役人の言葉の裏には、この上ない栄誉ではないかと、責めるような響きが含まれていた。
だが父の言葉はにべも無い。
「あんな面白みの無い植生の土地に興味はない!」
オルド・ペディセラの薬剤への情熱は、未知なる薬草への探究心と同じくらい強かった。
しばらくの間、誰も口をきけなかった。
しかし、諦めない役人は食らい付いてきた。
「で、ですが! 帝都には国中、いえ、世界中の薬草が集まります!」
その一言に、オルドはあっさりと前言を翻した。
この顛末は、今でもアンジェロの医薬局で語り草となっているらしい。
そんな経緯で、ペディセラ家の当主夫妻とその子どもたちは、次の年から居所を帝都に移したのだった。
成長したウィシェルは、父と同じ医師を志して、十四歳の年に帝都の国立医師養成学校に入学した。自身の努力も相まって、彼女は大変優秀な成績を残して卒業を果たし、翌年帝都の医薬局に雇用された。
新米医師として目紛しく過ぎていく日々の中で、夏にようやくまとまった休みをとる事ができた。
そこで彼女は要塞都市アンジェロに帰郷することを決めた。祖父も、彼女より先に医師として働きだした兄もこの街にいるからだ。
故郷に戻った初めの二、三日こそ実家でのんびりと過ごしていたが、四日目からウィシェルはエダ・セアの森で森番を務める祖父の屋敷に滞在する事にした。
祖父と屋敷の者たちに挨拶し、皆が元気で過ごしていた事に安心して、それから森へと出掛けて今に至る。
彼女が今何をしているかと言えば、就職祝いに両親から送られた薬草の図鑑を片手にうろうろと森をうろついていた。
もちろん目的があってそうしていたのだが、その姿は端から見れば迷い子のようだったろう。
しかしこの森は、特に今ウィシェルがいる辺りは聖域である泉に程近く、人の出入りが制限されている。その為、彼女を迷子と誤解するような相手に出会う事は幸いにして無かった。
本来ならばこの地は皇族や管理を任されているアンジェロの領主、そして森番ぐらいしか近づくことを許されていない。しかし、森番である祖父の権威を利用すると言っては言葉が悪いが、ウィシェルたちペディセラ家の人間にとっては幼い頃から出入りしている慣れた場所だった。
「凄い! この薬草もあるわっ」
興奮に頬を上気させてウィシェルは灰色の葉を手に取った。
薬草図鑑の中でも希少のマークがついている薬草だった。すかさず腕に引っ掛けた籠に入れる。
ほうっと息をついて、ウィシェルは分厚い本を抱き締めた。
「本当にエダ・セアは、植生が豊かなのね……」
この薬草図鑑を手に入れた瞬間から、ずっとこの森で薬草を探してみたかったのだ。父のような薬剤に特化した専門性を持つ事は無くても、医師として興味は尽きない。
そんな調子で歩いていくうち、森の木々が途切れる瞬間が訪れた。
聖域の泉にたどり着いたのだ。
さすがに容易く踏み込んでいい場所では無いと思ったウィシェルはその場を立ち去ろうとした。
ところが、そこで黒い色を見つけた。
夏の空の鮮やかな青と、同系色の森の緑。それを映した鏡のような泉のふちに、異質な黒がいた。
それは、黒い衣装を身にまとった少女だった。
膝を抱えてこちらに背中を向けるその姿は、ウィシェルの目にはひどく違和感を持って映った。
何かが自分たちとは異なるモノだ、と。
それでも、彼女は声を掛けるために口を開いた。この森で迷ってしまった人かも知れないから。
「あ、あの!」
決して大きな声では無かったが、黒衣の少女は振り向いた。
そうして、下草に覆われた地面に両手をついてウィシェルを見上げて、ふわりと柔らかく笑った。
その瞬間、驚いた事に、ウィシェルの中の彼女への違和感は溶ける様に消えてしまった。
ここに彼女が馴染んだ、そんな印象だった。
「ああ、良かった。もう、誰も通らなかったらどうしようかと思って!」
そう言いながら少女は立ち上がる。
同年代の中でも小柄なウィシェルより更に小さくて、年の頃は十二歳か、十三歳といった感じだ。
呆然としているウィシェルを見て、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「えっと……。もしかしてあなたもここがどこだか分からない、とか?」
その言葉に我に返ったウィシェルはぶんぶんと首を振った。
「いいえ! 大丈夫。分かるわ!」
そう言えば、少女は「良かった」と笑う。幼さと相まって、なんとも可愛らしい笑みだ。
「私は、ウィシェル。ウィシェル・ペディセラというの。あなたは?」
「私? 私は、……スウリ」
彼女はそう名乗った。