26.決意
「お前が、ノールとちゃんと向き合おうとしなかった事だ」
その言葉に、スウリはぱちりと音が聞こえそうな程大きく瞬いた。
ウィシェルは思わず腰を浮かせていた。はっと気づいて、すぐに座り直した。
「あの頃はちゃんとあいつと向き合っていただろう? 自分の思った事を口にして。あいつに、考えている事を口に出させるのは、俺よりスウリの方が上手いって本気で思っていた」
騎士然としていない時のクゥセルは冗談が大好きで巫山戯るのが得意だが、それでも真実を見極めようと凝らされるその瞳の強さは何も変わらない。
いつもならばスウリを傷つけるだろうその言葉を諌めるウィシェルも口を噤む程の力があった。
そして、彼の言いたい事はスウリにも理解出来た。
皇妃となる前の彼女ならば、ノールディンの腕を引いて「そんな態度とるくらいなら、喧嘩でも売ってくれた方がマシだわ!」くらい言ってのけただろう。
でも、あの頃とは違うのだ。スウリは皇妃で、ノールディンは皇帝だった。
二人の認識は決して一つでは無かったのだ。
「そうして、彼の心を引っ張りだして、私は喧嘩でもすれば良かったと? そんな事は許されないわ」
ゆっくりと首を振るスウリを見て、クゥセルは目を細めた。
「確かに、あいつが本音を曝け出す事はあの城じゃあ命取りになっただろうさ。でも、二人だけで過ごす時間が欠片も無かったとは、言わせないぞ」
即位当初、若き皇帝ノールディンを侮る重臣は少なく無かった。それを捩じ伏せて独裁に近い執政を行えたのは、皇太子時代の仕事ぶりと冷徹な皇帝というイメージの為と言えよう。
彼が自身の無表情という特性を生かして作り上げた『氷帝』という偶像は、良くも悪くも衆目を集め、畏怖と尊崇の念を抱かせるに相応しいものだった。指導者としてのカリスマと言い換えてもいいだろう。
スウリは、彼の努力を壊すような真似をする訳にはいかなかったと訴えたが、その程度で誤魔化されるクゥセルではない。
「それとも、あいつはそんなに頼りなかったか?スウリの気持ち一つ受け止められない小さい男だと思ったか?」
「……そんな」
先ほどよりは弱々しく、彼女は首を横に振った。
彼女の中で、クゥセルの言う様な行動を起こさなかった理由は明白になっていた。けれどそれは、言葉にする事の出来ない、否、生涯口にしないと心に決めていた。
それなのにクゥセルは引いたりしなかった。
「極めつけは側妃を迎えた事? やっぱり不愉快だったか?」
その言葉に、スウリは心にある気持ちにぐっと蓋をした。
彷徨っていた視線をきちんとクゥセルに向ける。
「いいえ、それは違うわ。皇族として生まれ育ったノールにとって、側妃の存在は普通のことだわ。そうでしょう? お父様にも三人いらっしゃったのだから」
「確かにな。でも、そう言ってしまえるからこそ、お前の行動は不可解だよ。何故そんなに理解を示そうとする? ……皇妃の座に執着でもしていたのか?」
スウリは大きく目を見開いて、椅子を鳴らして立ち上がっていた。
「私はっ…………」
私は、その先に続けようとした台詞を頭に思い描いて、スウリは愕然とした。
言ってはいけないことを口にしようとしていた。
握りしめた両手の拳が小刻みに震えている。
口を閉ざして、逃げる様にその場を後にした。
これ以上この場にいれば、クゥセルのこの瞳が全て暴いてしまうだろう。スウリはそれが怖かった。
「スウリっ」
ウィシェルの呼び止める声が背中にあたるが、振り返る事は出来なかった。
隣室に飛び込んで膝を抱えた彼女には、頬を打つ高い音は耳に入らなかった。
打ったのはウィシェルで、打たれたのはクゥセルだった。
「ぃっつう……」
平手打ちをまともにくらったクゥセルは、少し赤くなった頬を擦った。
「あなたは、何度スウリを傷つければ気が済むの?!」
クゥセルは、ウィシェルから浴びせかけられる怒気に、髪をくしゃくしゃと掻き乱して答えた。
「俺だってやりたい訳じゃないさ」
苦々しいその表情は、その言葉が嘘ではない事を物語る。
「それでも、わかっただろう?」
「なんなの?」
クゥセルは目の前で仁王立ちするウィシェルではなく、彼女たちの寝室側の壁を見ながら言った。
「スウリには隠していることがある。いや、明かす気の無い想いが、あるんだろうな」
「隠している……? 明かす気が、ない?」
わかるような、わからないような。そんな心地でウィシェルは顔をしかめた。
「ああ、くそっ!」
座ったままのクゥセルが傍らの椅子を蹴りつける。倒れこそしなかったが蹴られた椅子は大きく揺れた。
びくりっ、とウィシェルが肩を揺らすと、すぐにそれに気づいた彼は謝罪した。
「悪い」
「いえ。あなたのそんな態度、初めて見たわ」
一瞬面食らったような表情をしたクゥセルは、両手で前髪をかきあげて、そのまま頭を垂れた。
「情けない話、俺だって戸惑っているんだよ」
目を見開き、ウィシェルは二の句が告げなかった。
ぐしゃぐしゃと髪を乱して、「ああ、くそっ」と先ほどより苦い色を濃くして言う。
「俺は、正直言って、皇妃のあの子は苦手だったよ」
「えっ」
顔をあげて言ったその言葉に、ウィシェルは瞬く。
「だって、そうだろ? 可愛がってた妹分が、久しぶりに会ったら隙の無い笑顔を浮かべてるんだぜ? 苦手っていうか、居心地が悪かったな……」
「だからって、今の言動が許される訳ではないわ!」
かっとなってウィシェルは怒鳴りつける。
「ああ、違う違う。そこはいいんだよ。あれはスウリが手に入れた武器で、防具だよ。俺たち騎士の持つ剣で、盾だ。あの子が努力した成果だ」
俺が言いたいのはそこじゃない。クゥセルはきっぱりと言った。
すっと椅子に深く腰掛け、姿勢を正す。
「俺にとって、皇妃様にお仕えする事は名誉な事で、誇りだった。それは揺るがない」
俄かに、近衛騎士団長クゥセル・タクティカスが顔を覗かせた。
けれどその表情はすぐに戻り、唇の端が引き上がる。
「まあ、だからって今回スウリに着いて来たのはそれが理由じゃないけどな」
ひょい、っと一度を眉を跳ね上げ、言い直す。
「いや、それだけが理由じゃないって言った方が正確だな。」
帝国の騎士たるならば、彼らが仰ぐべきは皇帝とその伴侶たる皇妃だ。その皇妃の近衛騎士団の長たる事は、クゥセルという騎士にとって己の自由と引き換えにしても惜しく無い程重要だった。
それが、妹のように大切な女性だというなら尚更だ。
彼女の痛みに寄り添い、その微笑みを護る事が、二年という年月の中で、クゥセルの生き甲斐になっていった。
「……簡単な話、俺がノールの頭ぶん殴って、何やってんだって怒鳴りつけたって良かったさ」
確かにそうだ、とウィシェルは思った。彼女は立場上皇帝に会う事など殆ど無いが、クゥセルは望めばいつだって会えただろう。まして、他人の目が無ければ気の置けない幼馴染みとして接していることは良く知っている。
ウィシェルの胸の内に浮かんだ疑問に答える様に、「それで話が済むならな」と彼は腕を組む。
「だが、スウリは甘んじてあいつの馬鹿な仕打ちを受け止めるんだよ。責めるでも無く、歯向かうでも無く。それが本来『当たり前のこと』なんだと自分を納得させてるみたいだったな。俺はそれが理解できなかった」
この旅が始まって以来、ウィシェルは初めて彼の本音を聞いた気がした。だから、黙って彼の次の言葉を待つ。
ふっとクゥセルは優しい笑みを浮かべた。
「だからかな。あの子が懐かしい笑顔を見せた時、俺は本当に嬉しかったんだ。ノールに離縁を告げた後のことだ」
「ええ。ええ、そうだったわね」
三人で久々にお茶を飲んだ時でもあり、クゥセルの言った言葉に「口が悪い」と笑ったあの時のことだ。
思い出して、ウィシェルは少しの胸の痛みとそれ以上に沸き上がった喜びの感情を思い出した。
目の前の男も同じだったのか、目が合えば少しだけ苦く笑う。
「帰って来てくれるんだって思ったんだよ。アンジェロの森にいた、あのスウリって少女が、俺たちの元に」
その言葉に、ウィシェルは目を大きく開いた。
要塞都市アンジェロにいたあの頃、彼らの間には奇妙な一体感があった。
それは、どことも知れない場所から来たスウリという名の少女がもたらした不思議な絆であった。
「この旅路に同行すれば、答えが出るんじゃないかと俺は思っている。その為なら、この損な役割だって引き受けてやるさ」
真摯で、真っ直ぐな瞳がウィシェルに向けられた。
彼の決意と、強い願いと、それからその言葉の意味するものを感じたウィシェルの体は震えた。