25.胡桃
馬車の旅の二日目。それは退屈との戦いであった。
完全に幌で覆われた馬車の中。それは、外の景色を眺めることも出来ない薄暗い空間である為、本を読むなどの目を使用する行為は全くままならない。出来る事と言えば、連れと会話をするか寝るか、そのくらいだ。
だが今日の分の退屈は終わりを告げる。
馬車が止まり、二日目の宿泊所であるイエラトリの街に着いたのだ。
「おお〜!」
いつも通り先に降りていたクゥセルが、右手を額の上にかざして、感嘆の声をあげる。
何事かと思ってスウリとウィシェルが彼の横に並ぶと、丘の上に巨大な風車があった。
三人の立つ場所とその丘は幾らか離れているが、それでも首を反らして見上げないといけない程大きかった。
「大きいわ!」
目を丸くするスウリに、クゥセルが話しかける。
「いやあ。あんなでかいの、前は無かったんだけどな」
「クゥセルが遊び回っていた頃ね」
楽しげに言う彼女に、クゥセルは少しばかり考えてこう言った。
「例の師匠の弟子になることの代償だ。必然だよ」
ウィシェルは胡散臭いものを見る目で彼を見た。もう一方の弟子を思い出せば、クゥセルの人格形成における師匠の役割の小ささは明白だった。
「風車って、小麦の脱穀とかに使うと思うけど、あれは何に使っているのかしら?」
この辺りは広葉樹の林が広がり、小麦の栽培には適さないだろう。それに、その木々のお陰であまり強い風も吹かなさそうだ。それを踏まえてのスウリの疑問に、二人の連れはもちろん答えられない。
回答をくれたのは馬車に同乗していた初老の男性だ。
「あれはクルミの殻を砕くのに使おうと思ったらしいよ」
スウリが振り向けば、彼はにこやかに笑っている。
背後ではクゥセルが「またからんできやがった」と嫌そうに顔を歪ませているが、女性二人は気づかない。
「クルミの殻、ですか?」
「そう。この街の特産はクルミの実と木材だからね」
実はこれもココの木材だよ、と自分の持つステッキを持ち上げた。上品な飴色に磨かれた細いステッキだった。
「でも、この林に囲まれてちゃ風があまりなくてね。途中で頓挫したそうだよ。今じゃただの観光名所さ。ちなみにクルミ料理の方は絶品だから是非味わうといいよ」
それだけ言って立ち去っていった。
彼の背中と大きな風車を代わる代わる見たスウリは呟いた。
「とても物知りな方ね……」
「本当に。だれかさんと違って」
横目で『だれかさん』を眺めやれば、横を向いてぶつぶつと何か言っている。聞き取れなかったウィシェルは声を掛けてみた。
「ねえ、クゥセル。どうかしたの?」
はっとしたように振り向いたクゥセルは、にっこりと爽やかな笑顔を浮かべた。
「なんでも無い。さあ、今夜の宿を取りにいかないとな!」
そう言って、自分とウィシェルの荷物を持ち上げて建物の並ぶ方向へと歩いていった。
直前まで「あの糞爺、やっぱりオンドバルについたらふんじばって何処行きとも知れない貨物船に乗せてやる」と悪い顔で呟いていた事など微塵も感じさせなかった。
この街の宿は一つしか無い。規模はかなり大きく、長い廊下の両側に真四角の部屋が幾つも並ぶ。構造は木と釘だけで作ったと言いたくなる、とてもシンプルなものだった。
それは何故かと言うと、この辺りの子どもを集める学校を新築した際に、残った旧校舎を改装した宿だからだ。
今夜の宿泊客は乗り合い馬車の客しかいないそうで、有り余っているからとクゥセルは二部屋とった。当然、クゥセルが独り部屋で、スウリとウィシェルが同室だ。
食事を終えたスウリたちはクゥセルの部屋でのんびりとお茶を啜っていた。
「はあ〜。美味しかった。ね、ウィシェル」
スウリが満足げに呟けば、ウィシェルもこくこくと頷いて同意を示す。
「ね。あのクルミのソースとかって、一体どうやって作っているのかしら。甘くて、でも少し辛くって」
「最後の焼き菓子も絶品だったわ」
にこにこと話し合う二人を見ながら、クゥセルも笑みを浮かべる。
「女の子はホント、甘いもの好きだよね」
彼の台詞に顔を見合わせた二人は同時に言った。
「三つも食べてた人が何言ってるの?」
クゥセルの返答は簡単だ。
「俺は甘党なんです〜」
確かに彼は菓子屋と飲み屋の場所はどこに行っても熟知していた。
「あれ?でも、クゥセルってお酒も好きよね?」
「ん?うん。大好き」
きらきら輝く笑顔で答えられた。
「酒は親父の血だろうなぁ。甘い物好きは……、あれかな。弟のせいだな」
「キィドル君?」
クゥセルの弟にはスウリも何度か会った事があった。兄弟が似ているところは精々母親譲りの髪色くらいだったと思う。
「そ。あいつ菓子作るの趣味なんだよ。八歳くらいからかな、始めたの。それから毎週一回は菓子作りの日でさ。慣れてくると毎日作るのな。俺とお袋は喜んで食ってたけど、親父が段々死にそうな顔になって来てさ。毎日毎日屋敷中に甘ったるい匂いが漂ってるもんだから!」
話している内容は同情していることを示しているが、口調には全くその気配は無い。いや、むしろ腹を抱えて笑っている。
しかし、普通は毎日食べていたら、彼の父親の様に嫌いになるものではないだろうか。ウィシェルは無言で首を傾げた。
「最終的には離れを造って、そっちがキィの専用厨房になったんだよ」
その彼が、今ではタクティカス侯爵家の当主である。
唐突に、スウリの胸に申し訳ない気持ちがこみ上げて来た。
「という事は、キィドル君はこれからはそのお菓子作りが出来なくなってしまうのかしら?悪い事、しちゃったかしら……」
それを聞いたクゥセルは、ひょい、と片眉を上げた。それから、にやりと口元を歪める。
「仕事に慣れれば時間なんて幾らでもとれるさ。領地に引っ込んでりゃ好き放題だよ」
クゥセルと違って、キィドルは騎士養成学校に通っていない。帝都にある私立の学校に通っていたのだ。おっとりとした性格の彼が騎士になる事を望まなかった事もあるが、何より家で菓子作りに没頭することを選んだのだった。
学校を卒業した今は、家で父親や兄の補佐をしている。城に務めている訳では無いから、彼が帝都に居続ける理由は特に無かった。胸を張って領地に居座れる立場だ。
「ふむ。そう言う事なら、いいの、かな?」
疑問の余地はまだあるが、タクティカス家の事情にこれ以上突っ込むのもどうかと思ったスウリは、どことなく納得してみせた。
「いいのいいの」
無責任に彼は言い切った。
「タクティカス家の先代は厳格な方だと伺っていたけれど、そうでもないの?」
この場で唯一、クゥセルの父親に会った事のないウィシェルが聞いた。
それに対して、クゥセルはひらひらと右手を振った。
「親父は確かに厳しい人だけど、別に頭は固く無いからね。あれ、ウィシェル、知らなかったっけ? スウリの養家って親父の妹の家なんだよ」
「えっ。あ、そうだったかしら?」
数度訪ねて行ったというのに、すっかりその辺は頭に無かった。
「親父の口利きでそう言う事になってね。だから、スウリが俺との関係を従兄弟って言ったのは、間違っちゃいないんだよ。な」
最後は確認するように、スウリに言った。
「そうね」
頷く彼女に、クゥセルは少し改まった表情で続けた。
「あの頃の事があるからな、不思議なんだよ」
「……何が?」
戸惑って眉根を寄せるスウリに、彼は膝の上で手を組んで、身を乗り出して告げた。
「お前が、ノールとちゃんと向き合おうとしなかった事だ」