2.断行
それから二日をフェリシエは寝台の上で過ごした。
口止めしていたとは言え、皇妃の体調不良を把握できていないはずのない皇帝は訪れなかった。
寝台から起きた皇妃フェリシエの首に大きめのペンダントが下がっていることに気づいた者は少なかった。
燻し銀の繊細な細工が美しいそれの内部に納められたものが何かを知っているのは、フェリシエ自身とウィシェルだけだった。
半月後、フェリシエはウィシェルと皇妃付き近衛騎士団長クゥセル・タクティカスと共に大会議場に足を運んでいた。
午前の会議が終わっていたが、議場にはまだ半数を超える議員が残っている。
議場全体を見下ろせる皇帝の席へと進む。周囲の議員たちが好奇の視線を送ってくる。
皇妃の座についた頃は会議に参加することも少なくなかったが、呼ばれなくなって久しいこの場所に何の感慨もわかなかった。ただ、これから成そうとすることへの緊張感と、とうとう決行できるのだという高揚感がフェリシエの胸にあった。
大臣たちに囲まれた皇帝ノールディンの背中を見つけた。なんて好都合、と歪みそうになる口元にいつもの完璧な皇妃の微笑みを張り付ける。
「陛下」
白い執務着の背中に声を掛けると、気付いていた大臣も今気付いた大臣も一様におざなりに挨拶をしてきた。これが今の自分の立場だと思い知り直しながらそれらに会釈を返す。
背後のクゥセルが自分の代わりに怒りを抑えるのを感じればなおのこと笑みは深くなった。
書類を置いた皇帝がようやく振り返る。
フェリシエを見て、僅かに眉根を寄せ、けれどそれ以外に表情らしいものは浮かべなかった。
「皇妃か。呼んでいないぞ。何の用だ」
その物言いに表情を変える必要もないと感じた自分をフェリシエは少し不思議に思ったが、皇帝への返答を口にする。
「お忙しいところ申し訳ありません。急いだ方が良い案件がありますので、お邪魔させていただきました」
周囲の人間たちは皇妃の言動よりも自分の仕事を優先させたいらしく、立ち去る気配もない。また、皇帝自身も人払いをする気配はない。
「手短にしろ」
皇帝の台詞に、ならばそうするべきだろうとフェリシエは口を開いた。
「では、離縁の手続きを御願いいたします」
再び手元の書類に目を走らせ始めた皇帝の表情は見えなかったが、一拍置いた後、その手が揺れた。
周囲の大臣たちのみならず、フェリシエの言葉の聞こえたものたち全員が目を剥いて微笑む皇妃を凝視した。
その視線を受けるフェリシエは背後でウィシェルが体を堅くしたのを感じた。クゥセルもまた激しく動揺しているようだ。
ゆっくりと皇帝の秀麗な顔がこちらを向く。
「なんだと?」
常より低まった声が静まり返った議場に響いた。
いっそよく聞こえた方がいいだろうと、不自然にならないよう心がけながらフェリシエは言葉を紡いだ。
「先だって流産いたしました。その際にこの先子を望めぬ体となりました。ですから離縁をお願いいたします。調べてみましたが、皇室の離縁に関して特にこれといった制約はないのですね。皇妃側からの必要な作業も無いとのことなので、書類等手続きは陛下の側にお願いいたしますわ。荷物は既にまとめましたので、城を出ても良くなったらお知らせください」
一気に言いたいことを言い切ると、戸惑った宰相が進み出てきた。
「お、お待ちください皇妃様。その、流産とは? 初耳ですが……」
「きちんとした結果が出るまでは伏せさせていました。診察はこちらのウィシェルが行いました」
手でウィシェルに進むように示すと、緊張した面もちのウィシェルが隣に並んだ。
「流産の後はショックで体調を崩される方も多いので、お話を伏せることは私からも進言させていただきました」
「で、では、この先お子を望めぬとは……」
そこでウィシェルは言い淀むように間を空けた。しかしすぐに視線を上げ、しっかりと宰相を見据えて言った。
「…………それもまた、事実でございます」
震える肩が真実味を帯びていた。
「そ、そんな……」
青ざめ、痛ましげな表情を宰相は浮かべた。
フェリシエは少し困ったように微笑んだ。
「そう言う訳ですので、皇妃の座を降りるべきだと思い至りました。宰相殿、どうぞ手続きの方を宜しくお願いします。そうそう。皇妃の部屋はもうしばらくお借りいたします。変えた方が宜しければそれも声を掛けていただければすぐに変わりますから」
宰相に軽く一礼すると、今度は一言も発しない皇帝に向き直った。
「御子を守れなかった事、心よりお詫び申し上げます」
両の手を胸の前で重ね、深々と頭を下げた。この事は、皇帝ではなく生まれることの無かった我が子への万感の想いを込めて言った。
しばしの後、上げたその顔は、痛ましげでありながらも鮮やかな微笑みを浮かべていた。その場にいた誰しもがはっと息を呑むほどだった。
「それでは、急ぎの案件は以上となります。御前、失礼いたします」
ドレスの裾を摘み静かに礼をした後、踵を返した。
その後ろに深く一礼したウィシェルがしっかりとした足取りで続いた。クゥセルは視線を一度皇帝に走らせた後、胸に拳を添えて騎士の礼をした後すぐに続いた。
フェリシエは議場を出るまで、議員たちの一様に驚嘆を見せる視線にさらされた。
廊下に出るとその視線から解放され、彼女はひっそり息をついた。
皇妃の部屋に戻ると、ルミアが出迎えてくれる。
ずっと何か言いたげにしているクゥセルに気付いていたフェリシエはお茶を3つ、ルミアに頼み、居間の長椅子に腰掛けた。
お茶の準備が整うと侍女達を下げ、クゥセルとウィシェルに席を勧めた。本来ならば臣下である二人が暫定とはいえ皇妃と席を同じくするなどあり得ないが、フェリシエは皇妃となる前から二人とお茶をすることが多かった。その為か、躊躇うことなく二人はフェリシエの向かいにある一人掛けにそれぞれ腰を落ち着かせた。
座った途端大きな溜息をこぼしたウィシェルに苦笑いをしながら声を掛ける。
「お疲れ様、ウィシェル。あんな所に引っ張りだしてしまってごめんなさいね」
「いいえ、とんでもないことです。必要であらばあのくらいはこなします。……こなしますが、緊張しすぎて疲れました」
そう言ってがっくりと肩を落とした。
そんなウィシェルに「ありがとう」と礼を言ってから、渋い顔をしたままのクゥセルに向き合う。
「クゥセル、どうぞ。言いたいことを言ってください」
その台詞にぴくりと身じろぎした後、クゥセルは怒気をはらませた口調で言った。
「あれは、どういったことですか」
「ふむ。あの場で言ったこと以上のことは何もないわよ?」
小首を傾げるフェリシエにクゥセルの渋面は下を向いた。
「流産は…………」
「本当のことよ」
「皇妃を辞すというのは」
「もう決めたことよ」
「……お子が望めないと言うのは」
「本当のことよ」
クゥセルの問いに即答を返す。最後の問いにだけ、うなだれていたウィシェルが一瞬、もの言いたげな視線を投げかけてきたが、黙殺する。
「もう決めた、ということは、どなたかに退位を促された訳ではないのですね?」
こんどは視線を合わせて確認するように聞いてきた。
その視線をまっすぐに受け止めてフェリシエは答える。
「ええ。もちろんよ」
「………………………………」
クゥセルの長い沈黙が続く。
ウィシェルがその居心地の悪さにもじもじと一人掛けソファで身じろいだ時、ようやくクゥセルが口を開いた。
「わかりました。フェリシエ様の御意志に従います。私は」
「あらま。もっとごねるかと思ったわ」
「ごねるとしたら、あの大会議場にいた爺どもでしょう」
「ふふふ。時々クゥセルは悪い言葉を使うわよね」
楽しそうにフェリシエが笑えば、クゥセルは僅かに目を細めた。
幼さの残るその笑顔は、以前はふとした瞬間に見せていた懐かしいものだった。しかし、最後にそれを見たのが一体何時のことだったか思い出せないことが彼の胸を締め付けた。