19.立志
翌朝、宰相は皇帝執務室に呼び出された。
「おはようございます、陛下」
室内に入って挨拶をする。
しかし直ぐに唖然とした。
いつも整然と片付けられている執務室の机に、皇帝の姿が見えないほど書類が積んであったのだ。
「ああ。来たか」
書類の山の間から顔を出したノールディンは椅子から立ち上がって、宰相の方に歩み寄った。
「陛下、これは一体……」
良く見れば、机の上だけでは無い。床の上にも書類が山積みだ。
「引継ぎの準備だ」
「引継ぎ? これが全てですか?」
宰相は目と耳を疑った。皇太子時代に半年間城を離れた際にも相当量の引継ぎを行った。しかし皇帝となった今では殆ど城から離れず、正確に言うと離れられず、引継ぎも精々が一週間分だ。この量でも、三週間持つかどうかといったところだろう。
「どちらかに、視察に?」
そんな予定は聞いていない。
「いや、……私用だ。皇妃と話をしてくる」
「はっ?」
かくん、と宰相の顎が落ちた。
「すまないが時間が欲しい」
しょぼつく瞳を瞬いて、そろそろと皇帝を見上げれば、少し困ったような表情をしていた。
珍しいものを見た、そう思いながらも、宰相として聞くべきことを聞こうと口を開く。
「連れ戻されるおつもりですか?」
宰相として聞いたつもりが、非難めいた言葉になってしまったことに、言ってから気がついた。
瞠目したノールディンは、微かに首を捻った。
「……いや、わからん。あれが作り上げた膳立てに乗ることが、真実最善かもわからんのだ」
口数の少ない皇帝が良く喋ることに、内心驚きつつも宰相は苦笑いした。
「あまり時間は差し上げられませんが、思うようになさってはいかがですか。あの方に対しては、そうするのがよろしいかと」
「手間を掛けさせる、爺」
先ほどから、驚かされることばかりだ。まさか皇帝位に着く前の呼び名で呼ばれるとは思わなかった。
嘆息をついて、宰相は顔の前で人差し指を立てた。
「一つ、お教えしておきましょう。夫婦円満の秘訣は結婚当初の気持ちを忘れないようにする事だそうですよ。我が家では毎日そうしています」
おしどり夫婦で知られる宰相夫妻の一家言だ。
「……お前達は一体何をしているんだ?」
ノールディンの問い掛けに、宰相は思った。
帝国一の切れ者の名を欲しいままにする宰相ドルド・バセフォルテット(六十二歳)が、まさか二十歳年下の妻と新婚の頃の愛称で呼び合っているとは決して言えない……、と。
藪を突付いて蛇が飛び出た瞬間だった。