18.紕繆
トーバルの宿屋の一室では、お小言に憔悴して先に寝室に入ったスウリを除く二人、クゥセルとウィシェルが椅子に腰掛けていた。
「それにしても、どうしてあの方はあんなにひどい事ができたのかしら……」
ウィシェルがわずかに怒りを滲ませた声で呟いた。
「ノールディンの事か?」
クゥセルの問いに、深い溜め息とともに彼女は頷いた。
「アンジェロにいた頃はあんなにスウリを慈しんでらしたのに、最後はまるで手の平を返したかのように正反対の態度だったわ。……何か、ご存知なのでしょう? 幼馴染みのあなたならば」
目の前に座る男を見上げて言う。
クゥセルは果実酒の入ったグラスを傾けて、「薄いな」と呟く。
「クゥセル様!」
声を荒げるウィシェルに、彼は視線を向ける。
その真摯さに彼女は怯んだ。
「あいつとは、悪友みたいなもんだ。俺はあいつの考えていること全部がわかる訳じゃない」
「……もちろんです」
少しを身を引きながらも肯定を示すウィシェルに、クゥセルは告げた。ふっと窓の外に視線を流しながら。
「そうだな。ただ、言えるのは、人間は忘れてしまう生き物だってことかな?」
「忘れる? 何をです?」
「皇妃フェリシエと、スウリが同一人物だということ」
ウィシェルの問いに答えたのはクゥセルではなかった。
薄く開いた扉の向こうから出てきたスウリだった。
目を見開く親友に、彼女は小さく微笑んでみせた。
「起きていたの……スウリ」
「うん。お昼寝したせいか眠れなかったの。お水を貰おうと思って」
掠れたウィシェルの声に、はきはきと返答する。
机の上に用意された水差しからグラスに清水を注ぎ、飲み干す。
グラスを置いた彼女にクゥセルが質問を投げた。
「スウリは、あいつのアレをどう思っていたんだ?」
職を退こうとも騎士たるクゥセルが隣室にいたスウリの動向に気づいていない訳がない。
彼はこの会話に彼女が口を挟むと予想していた。
「なんて事をきくんですかっ」
ウィシェルが顔色を青くしてクゥセルを責めた。
だが、逆にスウリは彼女を落ち着かせようとした。
「私なら大丈夫よ、ウィシェル。大丈夫」
感情の昂りに震える肩を撫でる。
「でも、スウリ。ひどいわ、あんなこと聞くなんて。あなたは思い出したくもないことでしょう?」
一つ瞳を瞬いて、スウリはこの親友が愛しくて仕方がなくなった。
ぎゅうっと抱きついて囁く。
「ありがとう」
ウィシェルが抱き返してくれる暖かさを名残惜しく思いながらも身を離す。
「あのね、私、何回も失敗したの」
「……失敗?」
「そう。だから、ノールは、皇妃フェリシエに失望したの。それで、もう失望しなくて済むようにしたのよ」
わからない。ウィシェルの瞳はそう言っていた。
「『愛の反対は無関心』って、そう言った人がいてね。ずっと意味が良くわからなかった。愛の反対は憎しみじゃないのかって、私は漠然と思っていたの。でも、……憎しみって愛情の発露の一部なのね。期待するから、失望して、憎くなる」
きっとウィシェルが私のこと騙して『約束の指輪』の本を取り上げたりしたら、私はウィシェルを恨むわ。憎くて、復讐もするかもしれない。そう言ってスウリは笑う。
そんなことしないわ! 怒るウィシェルに、知ってる。そう言って、やはり彼女は笑った。
「反対にね、ノールは失望するのを止めたの。その感情を消してしまった。その結果は、『無関心』だわ」
「失望して怒ったの? だから、あんなに冷たく?!」
「違う。そうじゃないわ。怒りの感情もわかないのよ」
理解できなくて、理解したくなくて、ウィシェルは必死で言葉を紡ぐ。
「失敗って言っても、スウリはあんなに頑張っていたじゃない!」
ふるふるとスウリは首を振る。
「皇妃の仕事のことじゃないの」
じゃあ、何? ウィシェルの問いに、クゥセルがずっと指先で揺らしていたコップを置いた。
「笑ったんだ」
短い言葉を、スウリは否定しない。
「そう。ノールが失望するほど完璧な『皇妃の笑み』で、私は彼に笑いかけてしまったの」
彼が自分に求めているのが、そんなものではないと知っていたのに。
「……もう、寝るね。お休み」
そう言って寝室に入ろうとしたスウリの背中にクゥセルが声をかけた。
「スウリ」
首だけで振り返った彼女に告げる。
「あいつの、お前への感情は消えたんじゃない。凍ったんだよ」
僅かに目を見張って、それからスウリは言った。
「そうだとしても、きっかけを作ったのは私だわ」
静かに扉が閉められた。
腰を浮かせたウィシェルの腕をクゥセルが掴んだ。
「一人で泣かせたくないわっ」
自分が泣きそうな顔で、彼女は声を潜めて言った。
クゥセルは首を振る。
「まだ、あの子は泣けない。多分、な」
肩を震わせたウィシェルは、すとん、と椅子に腰を落とした。
寝室に戻ったスウリはベッドの上で膝を抱えて座っていた。
「もう、関係ない」
壁に向かって言う。
それから、首を倒して膝にこめかみを乗せた。
窓から覗く細い月を眺めながら再び口を開く。
「そう言えたら、楽なのに。ね、…………ノール」
そうして瞳を閉じる。
微睡むように。
懐かしい色を、瞼の奥に探すように。