17.瞑坐
漆黒の闇に、ぼうっとオレンジ色の明かりが灯る。
照らされたのは深い赤の色調の部屋、皇帝の寝室だった。
執務を終え、寝支度を整えた皇帝ノールディンは、手ずからランプに火を入れた。
皇妃フェリシエの引き起こした事態は徐々に波紋を広げている。いずれ城内だけでは済まなくなるだろう。
皇妃の誕生祭に関しての雑事は宰相に任せておけば問題無く片付く。
ノールディンは室内を進みながらそう思った。
心の内は奇妙に静かだ。
宰相の娘が騒いだ時に浮かんだ苛立ちも一時のものだった。
以前は皇妃の仮面の様な笑顔を見るだけで同じ様な感覚を味わったものだ。今では媚びを売る家臣を見るよりも感情が動かない。
あの時も、彼女は同じ微笑みを浮かべていた。
側妃ユーシャナを紹介したあの日。「どうぞ御自愛ください」と言うだけだったが、その笑みは一欠片も揺らがなかった。
側妃を迎え入れたのは五月蝿い一部の重臣を黙らせるためだった。
跡継ぎがいないと喚くから。即位以来一歩も譲らず執政を行ってきたのだ、ここらで一つ譲歩を見せても良かろうと。おかげで来期の余剰分予算の使い道が自由になった。
前例があったのも譲歩の理由にあげられる。父たる前皇帝にも皇妃と三人の側妃がいたのだ。ノールディンの母である皇妃と彼女たちの関係が悪かったという事も無い。自分がフェリシエ一人に拘っていたのが不思議に思えたのだ。
オルバスティン公爵の娘を側妃に選んだのも、政治的な視野からだ。大した野心も持たない公爵。例え周囲に唆されて妙な気を起こしたとしても、万事において控えめなユーシャナが自分の不興をかってまでそれを注進してくることは無いだろう。
考えながら、手にしたランプを窓際の小卓に置こうと歩み寄る。
「……なんだ?」
栓の開けられたままのワインボトルに気が付き、疑問の声を発した。
ランプをその脇に置く。
そこで、視察に出る直前、クゥセルが訪ねて来たことを思い出した。
皇妃に離縁を告げられたその日の夜、急な視察が決まった。
寝室に置いたままだった資料を取りに来たノールディンは、そこで侍従からクゥセル・タクティカスの訪問を告げられた。
「通せ」
逡巡も見せずに彼は答えた。
室内に入ってきたクゥセルに、棚から出したワインの口を開きながら聞いた。
「飲むか?」
きゅぽんっ、と音を立てて簡単に栓は抜けた。
「いや、いい。一つ、聞きたいことがあっただけだ」
気負わない声が静かに言った。
ノールディンは、その口調が幼馴染みとして接する時のもので、随分久方ぶりに聞いた事に驚いた。
背の高さの大して変わらない幼馴染みと視線を交え、皇妃のことか、とぼんやり思った。
だが、クゥセルが口にしたのは、意外な言葉だった。少なくともこの時のノールディンにとっては意外なものだった。
「ノールディン。お前はスウリを愛していたんじゃなかったのか?」
その時、自分の中のどんな感情をクゥセルが感じ取ったのか、彼には分からなかった。
口を開くが、言葉を発する前にクゥセルに遮られた。
「もういい。良くわかった」
小さく上げられた手の平はすぐに下ろされる。
それからクゥセルは「邪魔して悪かった」とだけ言って立ち去ってしまった。
部屋を後にした彼と入れ替わりにハインセルが現れ、視察に出発する時間だと知らせる。
後はもう、その出来事について考える暇など無かった。
物思いを断ち切って、ワインボトルを片付けさせようとノールディンはそれを持ち上げた。
しかし、ボトルの底が何かを引っ掛けて、それを弾き飛ばす。
煌めきが空を切って、絨毯の上に転がった。ランプの明かりを跳ね返して、赤い輝きを散らす。
ノールディンはボトルを再び小卓の上に戻して、その赤を拾い上げた。
細いチェーンを指に絡めて、目の高さに持ち上げる。
見覚えがある。
「これは母上の形見の、いや、スゥリに…………」
スゥリに贈ったものだ。
そう続けることは出来なかった。
頭を激しく殴られたような感覚がした。
フェリシエ。
鏡の娘。あるいは泉の精霊。
全て彼女を想ってつけた名では無かったか。
ノール。
両親亡き今、自分をそう呼ぶのは、幼馴染みと、彼女だけでは無かったか。
あの、最愛の少女。
「私は、何をしてきたのだ…………?」
ぐらりと足元が揺れた。
後退った身が小卓にぶつかる。
ゆらりと傾いたワインボトルが弧を描いて床に落ちた。毛足の長い絨毯に受け止められて、ごとり、と音を立てる。
黒い染みがどくどくと広がっていった。
そして深い赤の中で、白い一枚のカードが彼の視線を吸い寄せる。
サインは無い。
だが、書いた主は直ぐにわかった。昔より遥かに美しい字となったが、それでも独特の癖を残している。
『頂いた全てを返すことはできませんが、せめてこれだけは……』
これだけ、とは、この赤い石のネックレスのことだろう。
長椅子に座り込み、ノールディンは手の平で顔を覆い隠すようにした。そのまま拳を作り、額に押し付ける。
口の中に苦いものが広がる。
「違う。違う」
首を振る。
胸の内か喉の奥に痞えた何かが熱を帯びていく。
心が、皇太子であった時代に、彼女に出会った頃に、戻っていく心地だった。
「………………俺は、何をしなかったんだ?」
呆然と呟く。
長い時間、彼はその姿勢のままでいた。
自身と彼女だけが憩うことを許されていたその空間で、長い時間…………。