16.動機
「港湾都市オンドバルから船に乗って、チルダ=セルマンド大陸に渡るわ」
彼女の言葉に反応を返したのは左側だった。
「……ああ、確かにそっちに行くならオンドバルからしか船出てないよな」
すっと無表情になって頷くクゥセルはとても怖かった。
びくりと肩を揺らすスウリに、ウィシェルが呆然とした声をあげる。
「た、大陸に渡るって……。何考えているの? チルダ=セルマンド大陸? 船で二週間、ううん、半月はかかるところじゃない」
チルダ=セルマンド大陸とは、帝国のあるフォール大陸の東に隣接する大陸だ。大きさもほぼ同じくらいと言われている。様々な国があり、盛んに交易も行われているところだ。しかし生活水準なども似通っているので、商人や旅行者を除けば、人の行き来は少なかった。
「どうせ行くなら本当に知り合いのいないところがいいと思って」
大きな手の平でクゥセルは頭を抱えた。
「思い切りが良すぎる……」
港のある都市に行くのだから海を渡る気はあるだろうと思っていたが、精々帝国領内、あるいは近海の島国だろうと予想していたのだ。
まだ開いた口の塞がらないウィシェルは、瞬くばかりだ。
「だから、ね。二人ともそんなところまで付き合っていられないと思ったらいつでも」
帰っていいのよ。そこまで言わせては貰えなかった。
「却下」
そこだけ二人の声はぴったり揃っていた。
「……理由って、それだけ?」
衝撃から少し回復したクゥセルが顔を上げて聞く。
そこでスウリは視線を泳がせた。
「スウリ?」
その様子にウィシェルも我に返った。
「えっ、えと。そう、ほら、あの……」
目を細めたクゥセルは脳裏に浮かんだ事があった。
「ウィシェル。すまないけど、スウリのバッグの中を確認してくれないか?」
「は? ……ええ、いいけど」
さっとスウリは顔色を変えた。
「だ、だめ! だめよ!」
寝室にバッグを取りに行くウィシェルを止めようと立ち上がるが、腕をクゥセルに引かれて再び椅子の上に戻ってしまった。
「ちゃんと話してくれるんだろう?」
先ほどの無表情から一転、優しげな笑顔でクゥセルは言った。
すぐに戻ってきたウィシェルは眉根を寄せていた。
「なにこれ? 凄く重いわよ、スウリ」
服だけしか入っていないと彼女は主張していたはずなのに。そう思いながらバッグを開く。もちろんクゥセルに中身が見えないように。
綺麗に畳まれたシャツの奥に茶色いものが見えた。
見覚えがある。
手を差し入れてそれを掴む。引き出して、机の上に置いた。
それは、厚みのある一冊の本だった。いや、一冊ではない。更にウィシェルはバッグの底に収まっていたものを次々と出していった。
最初の一冊を手に取って、クゥセルが言う。
「『約束の指輪』上巻。七百ページってところか。皮の表紙」
「もちろん、中巻に、下巻もあるわ。番外編を掲載した愛蔵版ね」
「ああ、こっちは子ども向けの絵本か」
少し大きめの薄い本を持ち上げてクゥセルは呟く。
彼らが喋るたびにスウリの首は下を向いていく。
すっかりばれてしまった。
城を出て行くと決意した彼女が行き先について考えた事はかなり単純だ。
要塞都市アンジェロに戻るという選択肢は初期段階で消していたし、近隣の国ならば彼女の顔を知っている者も少なくないだろう。だったら、いっそフォール大陸を離れてはどうかと思い至った。
傍らには愛読書の『約束の指輪』。意思を固めるのに、本を開くまでもなかった。
しかし一緒に行動すると決めた人間にとってはそう単純に行くはずも無い。
「なあ、ウィシェル。この物語の舞台はどこだったかな?」
わざとらしくクゥセルが言えば、スウリの親友はそれに応えた。
「ええと、確か、最初から最後までチルダ=セルマンド大陸だった気がしますが」
「ああ、そうだったそうだった。英雄王バルスの冒険を描いたこの物語の舞台はチルダ=セルマンド大陸だった」
「本当にスウリはこの物語が好きね。まさかここまで持ってくるなんて」
「す、凄く大事なのよ……。ウィシェルがくれたものだし……」
平坦に話す二人の迫力に押されて、スウリは肩身がものすごく狭かった。
「そう。ありがとう。でも、それとこれとは別問題よね?」
「はい……」
小さくなって返事をするスウリを挟んで、二人はにっこりと微笑んだ。
ダブルサウンドの小言は就寝時間まで続いた。
…………そして、夜は更ける。