13.耿耿
「スウリ、スウリ、起きて……」
肩を揺すられて、スウリは目を覚ました。
「ん……? 朝?」
寝ぼけた声に、クゥセルは噴き出した。
「夜にもなっていないぞ。昼休憩だ」
そう言って先に馬車を降りていった。
港湾都市オンドバルへは宿場町での二泊を挟んで三日掛かりで行くことになる。その間幾つかの街に立ち寄るのだ。
ああ、そうか、とぼんやり思い出し、スウリは寄り掛かっていた相手から身体を起こす。
「ごめんなさい、ウィシェル。ずっと枕にしていたのよね?」
目を擦ろうとする手をやんわり握り、ウィシェルはハンカチを差し出した。
「いいの。疲れていたんでしょう? 朝、早かったし」
「馬車の揺れは心地いいのね」
受け取ったハンカチで目元を拭ったスウリの言葉に、近くにいた中年の女性が笑い声をあげた。
「はっはっは。前はそんなこと無かったんだよ? 街道が整備されたからさ」
「前?」
「ああ。主要街道が煉瓦敷きになったのさ。前みたいな荒れた道だったらお嬢ちゃんは舌を噛んで酷い目にあってたよ」
スウリの問いに彼女は朗らかに答えて馬車を降りていった。
「スウリ?」
気遣うようなウィシェルの声に、スウリは笑いかけた。
「お昼、だよね?」
「そうね。行こう」
差し出された手に自分の手を重ねて馬車を降りた。
外に出ると、クゥセルが籐の籠を下げて立っていた。
「天気がいいから外で食べよう。あの辺がいいだろう」
指差したのは馬車から程近い木陰だった。
敷物をひいて三人座り込んだ。
「いただきます」
手を合わせたスウリに続いて、クゥセルやウィシェルも食事を始めた。
籐の籠から出てきたのは酸味のあるパンを使ったサンドイッチだ。スウリがすっかり気に入ったリパルのジュースもある。
どこで買ったとか、何の具材を使っているかとか、他愛も無い話をしながら、やがて食べ終わった。
「今日はトーバル? の街に泊まるのよね?」
「そう。街って言っても小さいぞ」
食器を籠に戻しながらスウリが聞けば、クゥセルが答える。
「小さいって、知っているんですか?」
思わず口にしたウィシェルにスウリは注意する。
「敬語禁止」
「……知っているの?」
スウリを苦く見つめながら言い直したウィシェルの顔を見て、クゥセルは笑った。
「ウィシェルは慣れないなあ」
「爵位を持っている方ですので、いちおう」
唇を尖らせて微妙な嫌みを言う。
「もうナイナイ」
右手を顔の横で振りながらそう言う。
「無い? 何が?」
目を瞬かせるスウリに、にっこり笑いかける。
「爵位。タクティカス侯爵位」
「……どうしたの?」
彼女が首を傾げれば、実に楽しそうに答える。
「弟に譲ったんだよ。本当は親父に頼もうと思ったんだけどね、相談したら弟にやれって。そろそろいいだろうってさ。もちろん、補佐は親父に頼んだけどね」
果たして彼は本当に父親に『相談』をしたのだろうかとウィシェルはひっそり思う。
「そうだ。それで、俺がトーバルを知ってるかって話?」
「え、ええ。そう」
話を引き戻されて、戸惑いながらもウィシェルは頷いた。
「知ってるさ。師匠に付き合ってあちこち行ったからね」
「お師匠様?」
不思議に思って聞き返したウィシェルに答えたのはスウリだ。
「騎士団総長のゴールゼン様よ。色々、教え込んだって言っていたわ」
「言っていたって、もしかして総長に直接聞いたのか?」
「ええ。何度か奥方様も交えてお茶をしたわ」
こくこく頷くスウリにクゥセルは顎に手を当てて思案気にした。
「あの夫妻とお茶を? ……賭けを持ちかけられなかったか?」
思いがけない台詞にスウリも、ウィシェルさえ目を丸くした。
「まさか。クゥセルじゃあるまいし!」
「待って、スウリ。クゥセル様なら賭けを申し出るの?!」
スウリのあげた声にウィシェルが反応する。
「突っ込むのはそこか……」
顎に当てていた手を額に移して、クゥセルはぼやいた。
「そうよ。クゥセルは大の賭け好きよ」
「妙な話に持っていかないでくれるかな」
ウィシェルの不審げな視線を感じながら、クゥセルはスウリの口を閉ざそうと彼にしては控えめな台詞を口にする。
「でも、賭け好きはお師匠様ご夫妻の影響なのね……」
真面目な先代(今は先々代)タクティカス侯爵の息子がこんなにフランクなことをずっと疑問に思っていたスウリはそれが解消されたことに満足していた。
「まあ、全部って訳じゃないけどね。そうだ、食後のお茶を貰ってこよう」
誤魔化すように籐の籠を持ってクゥセルは立ち上がる。
それを見たウィシェルが声を掛ける。
「申し訳ありませんが、温かいお茶をお願いします。スウリはこれ以上身体を冷やしちゃ駄目よ」
最後はリパルのジュースを飲んでばかりいたスウリに注意をした。
「……うん。でも、美味しいのよ? これ」
「美味しくっても程ほどに!」
医者らしいお小言を背中に聞きながら、温かいお茶温かいお茶と呟いてクゥセルは席を立った。
敷物の上にいる二人から見えない位置に移動すると、彼は腰の剣の具合を確かめて昼食を買った店のテラス席に向かった。
少し外れた一席に、初老の男性が一人で座っている。出発前にスウリに話しかけていた老人だ。
「どうも」
クゥセルが声を掛けると、いかにも不思議そうに首を傾げた。
「やあ、どうも。何の御用かな?」
細い息を吐いた後、彼は半眼で男性を見据えた。
「こんなところで何をやっているんですか、外交大臣が」
「……お姫様にはばれなかったのになあ」
不思議そうに言う。
「成婚の儀の挨拶で一回会っただけの人間がわかりますか。まして、貴方はトレードマークの眼帯をしていないでしょう。……弟のほうですか」
「大当たり。いや、タクティカスの小倅もやるようになったな」
本気で言っているようだ。
意外と知られていないことだが、帝国の外交大臣は二人いる。シバ・ロンズとシュヌ・ロンズだ。この二人は双子で、兄の方が不慮の事故で左目を失っている。それ以来二人揃って左目に眼帯を着ける様になった。眼帯さえなければ見分けるのは容易い。
厄介なことに彼らは仕事を二人で分割して行う。一方が皇帝に謁見しているかと思えば、一方は遥か南で通商条約の締結をしていたりする。常に衆目の前では一人でいるのだ。しかも、いつでもどこでも『ロンズ』としか名乗らないものだからどちらか分からない。
その厄介な人間の片割れがここにいることがクゥセルは不審でならなかった。
「なんだその目は。一応仕事だぞ。オンドバルからコセナ諸島に渡るのだからな」
「それは一週間後の総統府謝恩会の為ですよね」
「良く知っているな」
「元同僚が道中の護衛に着くはずだったもので。……二日後に」
「早朝に宰相がこそこそしているからな、跡をつけたら可愛いお嬢さんと逢引しているじゃないか。普通気になるだろう」
堂々と胸を張って言う。
「良く見たら皇妃様だったからな。更に跡をつけた。で、ちょうどいいから馬車に便乗することにしたんだ」
「警護を置いて一人で旅立つんなら、せめて書置きくらいしてくださいね。まあ、俺には関係ないですけど」
どうせ書き置きなんかしていないな。そう思いながらも言う。
「冷たいなー」
「なんとでも」
肩を竦めて見せる。
「冷たいタクティカスの小倅は、皇妃様とどこまで行く気だい?」
「彼女の望むところへ。取り敢えず行き先については今夜にでも話しますよ」
「へえ。騎士っぽい答えだね」
温厚そうに笑う外交大臣シュヌ・ロンズに、クゥセルは釘を刺す。
「邪魔するんなら、貴方も眼帯が必要な様にしますよ?やっぱり見分けが付きやすいように右目かな?」
にこやかに言ったクゥセルに、シュヌ・ロンズはティーカップを持ち上げて返した。
「剣呑剣呑。無害な爺を脅さんでくれ」
籠を店に戻して、代わりに暖かいお茶を水筒に貰ったクゥセルは、それを片手にぶら下げながらぼやいた。
「何が無害な爺だ。狸め……」
当面スウリに手出しをするつもりは無さそうだが、世界中の狸と渡り合ってきた古狸のやることは全く読めない。今後に要注意だ。
オンドバルに着いたら無理矢理適当な船に乗せてやろうか……。
真剣にそんな事を考えていた。