1.決断
※流血シーンがあります。
(あまり残酷描写とは言い難いかもしれませんが、気をつけてください)
その知らせは、皇帝と褥を共にした翌日もたらされた。
「…………皇妃様、皇帝陛下が後宮に側妃を迎え入れられたと」
青ざめた顔で侍女ルミアは言った。
皇妃フェリシエは読んでいた本から目を上げ、この二年間で身につけた完璧な微笑みをその顔に浮かべた。
「そう…………。ではいずれ挨拶に来られるわね」
「そ、そんな冷静に! 皇帝陛下は皇妃様に何も仰っていなかったのに!」
動揺するルミアを見上げ、自身の荒れ馬のように暴れる胸の内を必死で押さえつけてフェリシエは口を開く。
「皇帝陛下にとっては当然の行動でしょう。二年も御子を産んで差し上げられなかった私の落ち度だわ。さあ、そろそろお茶を淹れて? 今日は料理長自慢のケーキなのでしょう?」
その言葉に自分の仕事を思い出したルミアは少し戸惑いを見せた後は綺麗な一礼を見せてその場を離れた。
フェリシエは窓の外に目をやり、そっと小さな溜息をもらした。
その夜、皇帝ノールディンはフェリシエの元を訪れることは無く、文の一通、使いの一人も寄越すことはなかった。
翌日の午後、皇帝陛下に連れられて側妃ユーシャナが挨拶に来た。
皇帝陛下の名前だけを告げる簡素な紹介の後、フェリシエに深く頭を下げたユーシャナは小柄なフェリシエとは正反対と言える女性だった。
直に二十歳の誕生日を迎えるフェリシエは年の割に幼い容貌で、美しさよりも可憐さが目立つ。身長も男性の中では大柄な皇帝と並ぶとその胸の辺りに頭が来てしまう。
しかしユーシャナはそのフェリシエよりも頭一つ近く大きく、皇帝と並ぶとバランスの良さが際だった。また、その肉体も二十一歳という年齢にふさわしく豊満で肉感的だ。しかし態度は謙虚で皇妃に敬意を示し、側妃として完璧だった。
自分は自分と割り切って皇妃として二年を過ごしてきたフェリシエは滲んでくる劣等感に耐え抜き、鮮やかな笑顔でその挨拶を受け取った。
ただし発した言葉は
「どうぞ御自愛ください」
の一言だけであった。
恐縮したユーシャナを連れ、皇帝は何を言うでもなく皇妃の部屋を立ち去った。
それから一月半、昼はもちろん公務、夜は公務か夜会か側妃を理由にフェリシエの元に訪れることは無かった。
フェリシエは皇妃としての公務をこなし、時折夜会に出ては挨拶程度の言葉しか発しない皇帝の隣でにこやかに微笑んでいた。
ただ、静かに穏やかに、努めてそうして過ごした。
一度、公務で訪れた初等教育機関で一人の子どもの放った一言が彼女を揺らした。
「皇妃様、僕は先だって皇帝陛下の元に側妃としてあがったユーシャナ様の弟でユージン・オルバスティンともうします。姉のことどうぞよしなに御願いいたします」
そういって頭を下げた利発そうな少年は確かにユーシャナと同じ色合いの栗毛をし、顔立ちもどことなく似ていた。
一瞬大きく見開いた瞳を瞬き一つして治めると、どうにかフェリシエは口を開いた。
「ご丁寧に、有り難うございます」
それが少年の言葉に対する返答では無かったことを気づかせたくなくて、フェリシエは極上の笑みを浮かべた。
その笑みを目にしたユージンは幼いながらに頬を染めてもじもじと下を向いてしまった。
帰りの馬車の中で、フェリシエはオルバスティン家について思い返していた。ユーシャナが挨拶に来たときは気にする余裕が無かったが、今日訪れたこの教育機関は高位貴族の子弟の養育を目的としている。彼の少年ユージンの挨拶でようやくユーシャナが貴族の娘であることに思い至ったのだ。
そうして思い出したオルバスティン家。公爵の位で、国の中枢で働く者も多い。いずれユージンも優秀な政治家となることだろう。
心に澱が溜まっていくのを感じた。
それから半月、相変わらず皇帝は忙しさを理由にフェリシエの元を訪れず、側妃との夜の回数を重ねていた。
夏も終わりに近づいた頃、フェリシエは皇妃専用の湯殿にいた。もともと人に手を掛けられることの苦手な彼女はこの日も一人で入浴していた。
まだ暑さの残る夕刻ということもあって、そろそろあがろうといつもより早く湯から身を起こした。
数歩進んで壁のアルコーブに置いてあるタオルをとろうとしたその時、強烈な眩暈がフェリシエを襲った。伸ばした右手はタイル張りの壁を滑り、床に激しく膝を打った。支えきれなかった為、ついで腰も打つ。
このくらいで済んで良かったと顔を上げた瞬間、腹部に激痛を感じた。「ぅう…………」低いうめき声を漏らしていた。
どのくらいかがみこんでいたのか、痛みが幾分和らいだ。
ほっとして、次の瞬間、すうっと背筋が冷えた。大腿部に生ぬるいぬめりを感じる。おそるおそる下を見ると赤い血がタイルの目をじわりじわりと走っていく。月のものの時とは比べものにならない量だ。
ふつん、と何かが途切れたような気がした。
「ふ、ふふ……………………」
喉の奥からこもるような声が漏れた。
「あは、あはは…………」
フェリシエは笑っていた。自分が滑稽すぎて、笑った。
そして、右の目から真珠のような涙が一粒こぼれ落ちた。
湯殿の外に控えていた侍女たちはその笑い声を聞いて驚いていた。なにがあったのかと入り口に駆けつけ、声をかける。
「皇妃様っ?何かございましたかっ」
焦ったルミアの声に、フェリシエは鋭い声をあげた。
「開けないで! 貧血を起こしただけです。ウィシェルを呼んでちょうだい」
湯殿の扉に手を掛けていたルミアは声の鋭さにびくりと手を震わせた。すぐ後ろにいた侍女が「私、ウィシェル様を呼んできます」そう言って駆けだした。
侍女達の様子を察したフェリシエはすぐに穏やかな声に戻した。
「ごめんなさい、少し転んでしまって恥ずかしいの。だから中に入るのはウィシェルだけにしてちょうだい」
常と同じ穏やかな物言いに侍女達の間に安堵の空気が流れた。
「では、お体を冷やさないようになさってくださいね」
気遣うルミアの声に優しい声が返った。
「ええ。もちろんよ。ありがとう」
鈍い動きで傍らにあったバスローブを羽織る。体を動かす気はおきず、ただその場でじっとしていた。
しばらくして湯殿の入り口がにわかに騒がしくなった。
「皇妃様、ウィシェルでございます。入っても宜しいですか?」
気遣いのこもった暖かな声が聞こえた。皇妃付きの王宮医師ウィシェルだ。
「ええ、呼び立ててごめんなさい。入ってください」
微かな音とともに滑り込むようにウィシェルが入室した。衝立によってかくれる場所にいるフェリシエは「こっちよ」と声を掛けた。
すぐに道具の入った鞄を持った白衣のウィシェルが現れたが、その場で大きく目を見開き固まった。
「こ、皇妃様……」
「この量だと、流れてしまっているでしょう?」
微かに笑みを滲ませてフェリシエは尋ねた。
「失礼致します」
すぐ脇に膝をついたウィシェルはふっくらとした指をフェリシエの首元に伸ばし、そこを撫でた後、瞼を返し、と一通りの診察をした。出血の個所を確認し、既に止まっているのを確認すると、丁寧に汚れを落とした。触診し、そうして変えるまいとしていた表情を苦しげに歪めた。
「…………皇妃様、流産です」
絞り出すように小さな声でそう言った。
フェリシエは頷くと床に流れた血に触れた。
「小さすぎてわからないわよね……」
ぽつりと呟いた言葉にウィシェルは泣きそうだった。バスタオルを大きく広げて、囲い込むように覆って血を吸い取った。その赤を内側に折り込んで、さらにもう一枚で包み込んだ。
「こちらは、私が……」
そう言って黙り込んだウィシェルにフェリシエは頼んだ。
「それを燃やして、その灰を私にください」
「フェリシエ様っ……!」
今度こそウィシェルは涙をこぼした。
浴室の血を洗い流し、フェリシエは力の入らない体をウィシェルに支えられて脱衣所まで進んだ。顔色の悪い皇妃を見た侍女達は驚きつつも着実に仕事をこなし、あれよあれよという間にフェリシエは寝台に半身を起こして横たわっていた。
「それでは失礼いたします」
最後にルミアが一礼して退室すると、皇妃の寝室にはフェリシエとウィシェルの二人きりになった。
「フェリシエ様、灰の方は後ほどお持ちします……」
視線を床に落としたままのウィシェルにフェリシエは穏やかに微笑んで礼を言った。
「ありがとう、ウィシェル。辛いことを頼んでしまってごめんなさい」
その言葉にウィシェルはきっぱりと首を振った。
それから、戸惑いを表す沈黙の後、再び口を開いた。
「フェリシエ様。先ほどは詳しく調べませんでしたが、もう一度子宮の状態を調べさせて頂きたく思います。お若いので、大きく傷ついていなければ次のご懐妊も期待できます」
「いいえ」
打ち返すような早さでフェリシエは返答した。
ウィシェルは何を否定されたのかわからず瞬く。
「いいえ。検査は不要です。それより、御願いがあります」
寝台の上で身じろぎ、フェリシエはウィシェルの目の前ににじり寄った。両手でウィシェルの右手を握ると、浴室で考え、決断したことをウィシェルに告げた。
「陛下と離縁します。その第一の理由を流産後の不妊症としたいのです。だから、どうか、そうしてください。御願いです」
握った右手を胸元に引き寄せ、しっかりとウィシェルと視線を合わせて訴えた。
ウィシェルは呆然とした後、大きく目を見開いて体を震わせた。
「わ、私に偽証を行えとおっしゃるのですか?」
「酷いことを頼んでいるのは百も承知です。ですが、考え抜いた結果です。もう、決めたのです」
しばし見つめあううちに、ウィシェルの体の震えは徐々に収まっていった。幾度か喉を鳴らし、そうしてフェリシエの両手に自分の左手を添えて、彼女は言った。
「陛下との離縁は何の、いえ、どなたのためですか?」
そんなことを聞かれるとは思っても見なかったフェリシエは苦く笑いながらも率直に答えた。
「わたしの為です。お腹の子が流れたと知った瞬間、ここでこうしているわたしがどれほど滑稽かを思い知りました。それを知ったら、もう、耐えられない、耐えられなかった」
出会った頃のような率直な物言いを取り戻し始めたフェリシエにウィシェルは悲しさとほんの少しの喜びを感じた。
握られていた右手をするりと抜いて、フェリシエの両手を強く、力を込めて包み込んだ。
「不肖、このウィシェル。フェリシエ様の一世一代の大芝居に協力させて頂きます!」
力強い宣言に、フェリシエはくしゃりと皇妃らしからぬ微笑みを浮かべた。目尻に涙が浮かんだのをウィシェルは見た。