手ざわりを知る令嬢
「紙屋の娘の手」と笑われてきた手袋の令嬢が、夜会で、たった一枚の手紙に素手で触れたとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
指先は、うそをつかない。
少なくとも、リディア・ヴェルンの指先は。
その布を、誰が織ったか。その紙を、どこの水で漉いたか。その手が、どんな暮らしをしてきたか。
物心ついたころには、触れたものが、ぜんぶ指から話しかけてきた。
だから、いつも手袋をしている。
白い、薄い、絹の手袋。それ一枚あれば、たいていのことは、ぼんやりとしか伝わってこない。
* * *
「リディア。君、また手袋をしているのか」
王宮の夜会。大広間の入口で、婚約者のジルベール・ラフォンが、わざとらしく眉を上げた。
「せっかくの夜会なんだ。たまには外したらどうだい。……ああ、無理か。紙屋の娘の手だものな」
周りにいた令息たちが、くすくすと笑った。
ヴェルン伯爵家の領地は、北の山の中にある。冷たい川の水で漉く紙は、国じゅうの役所が使うほど質がいい。リディアも子供の頃から、紙漉き場に入りびたって育った。指先が少し荒れているのは、そのせいだ。
「ジルベール様。今夜は、どなたとご一緒に?」
「ご一緒も何も、君の婚約者は僕だろう」
ジルベールは笑った。その腕に、さっきまで別の令嬢の手が添えられていたことを、リディアは知っている。
男爵令嬢のマリエット・セラン。最近、ジルベールがよく夜会に連れて歩いている人だ。
先週、ジルベールから手紙が届いた。婚約を考え直したい、という手紙だった。けれど、婚約は家どうしの約束だ。理由もなく婚約を破れば、破った側が違約金を払う決まりだ。ラフォン侯爵家がヴェルン家に払う額は、小さなものではない。
(……理由を、作りに来たのね)
リディアは、手袋の指先を、そっと握りしめた。
* * *
騒ぎが起きたのは、王弟エドガー殿下の挨拶が終わった直後だった。
「皆さま、聞いていただきたい!」
ジルベールが、大広間の真ん中で声を張り上げた。その後ろに、青い顔をしたマリエットが、白い手袋の手を胸の前で握りしめて立っている。
「僕は今夜、リディア・ヴェルンとの婚約を、破棄させていただく!」
ざわめきが、大広間を走った。
「理由は、これだ」
ジルベールが、手にした紙の束を高く掲げた。手紙だった。五通ほどある。
「この半月、マリエット嬢のもとに、脅しの手紙が届き続けた。ジルベールに近づくな、近づけば家ごと潰す、とね。……封蝋を見てくれ。ヴェルン家の印だ」
近くにいた貴族たちが、首を伸ばして手紙を覗きこんだ。赤い封蝋に、山と川を組み合わせたヴェルン家の紋が、はっきりと押されていた。
「それに、この紙。ヴェルンの紙だ。国じゅうの誰もが知っている、あの白い紙だよ」
視線が、いっせいにリディアに集まった。
マリエットが、震える声で言った。
「わ、わたくし、怖くて……ジルベール様に、ご相談して……」
「もう大丈夫だ、マリエット」
ジルベールは、マリエットの肩を抱いた。それから、勝ち誇った顔で、リディアを見た。
「何か言うことはあるかい、リディア。……ああ、手袋の中で、指でも震わせているのかな」
リディアは、黙って一歩前に出た。
「その手紙、拝見してもよろしいですか」
「見たところで、何も変わらないさ」
「では、さわってもよろしいですか」
ジルベールが、笑った。
「さわる? ご自慢の紙屋の指で? どうぞ。いくらでも」
リディアは、右手の手袋の指先をつまんで、ゆっくりと引き抜いた。
大広間が、しんと静まった。
ヴェルンの手袋令嬢が、人前で手袋を外したのを見た者は、ここにはひとりもいなかったからだ。
* * *
一通目の手紙に、素手で触れた。
とたんに、指先から、いろいろなものが流れこんできた。
紙の目。繊維の長さ。水の冷たさ。乾かした日の天気。それから、この紙に触れた、いくつもの指。
「……ヴェルンの紙では、ありません」
リディアは、静かに言った。
「何だって?」
「よく似せてあります。でも、繊維が短い。うちの紙は、山の楮だけで漉きます。これは、麦わらがたくさん混ぜてあります。水も、北の山の水ではありません。もっとぬるい、南の川の水です」
ざわめきが起きた。ジルベールが、鼻で笑う。
「手袋娘の当てずっぽうだろう」
「分かります。この半年、うちの紙漉き場は、春の大水で止まっています。新しい紙は、一枚も外に出ていません。それより前の紙は、すべて役所に納めました。……役所の方なら、ご存じのはずです」
人垣の中で、財務院の年配の役人が、気まずそうに咳払いをした。役所の紙が足りなくて困っているのは、本当のことだった。
「それから、この紙と同じ紙を、私はもう一枚、知っています」
リディアは、手紙の端を、指でそっとなぞった。
「先週、ジルベール様からいただいた、婚約を考え直したいというお手紙。あれと同じ紙です。同じ水、同じ麦わら、同じ日に乾かした紙」
ジルベールの顔から、笑みが消えた。
「ラフォン家が、去年、南の川沿いの紙漉き場をお買いになったと聞きました。ヴェルンの紙に似せた、安い紙を作っているとか」
「……そ、それがどうした。似た紙なら、誰だって手に入る」
「そうですね。では、封蝋を」
リディアは、赤い封蝋に、人差し指の腹を当てた。
「ヴェルン家の印章は、三年前に、祖母が床に落として、右下の角がほんの少し欠けました。それからは、どの封にも、その欠けが写っています」
指の腹で、封蝋の縁をゆっくりとなぞる。
「この封蝋には、欠けがありません。三年より前の、欠ける前の封から、型を取ったものです」
大広間が、静まり返った。
「三年より前に、ヴェルン家の封のついた手紙を、何通もお持ちの方。……婚約したばかりの頃、私は、毎月お手紙を書いていました。ジルベール様に」
すべての目が、ジルベールに向いた。
「ば、馬鹿な。言いがかりだ! 手袋をした変わり者の、指先の当てずっぽうじゃないか!」
「では、もうひとつだけ」
リディアは、最後に、手紙の文字の上に指を置いた。インクの盛り上がり。ペン先の癖。強く押しこまれた、払いの跡。
「この字を書いた方は、細くて柔らかい、女の方の指をしています。右手の中指に、新しいペンだこがあります。それから……書いている間、ずっと、ひどく怯えていました。何度も手を止めて、書き直しています」
リディアは、顔を上げて、ジルベールの後ろに立つ人を見た。
「マリエット様。手袋を外して、手を見せていただけますか」
マリエットの肩が、びくりと跳ねた。
* * *
マリエットは、泣き出した。
手袋の下の中指には、赤くなったペンだこがあった。
「ジルベール様に……言われて……。リディア様のせいにすれば、婚約は向こうの落ち度で破れる、違約金も払わなくていいって。わたくしの家は借金があって、ラフォン家に、助けていただいていて……」
「黙れ、マリエット!」
「書きたく、なかったんです。……ごめんなさい、リディア様。ごめんなさい」
ジルベールが、何か言おうとした。けれど、その前に、大広間の奥から、低い声が響いた。
「ラフォン侯爵令息」
王弟エドガー殿下だった。
夜会の主催者として、さっきまで玉座の横で黙って様子を見ていた方だ。黒い礼装に、黒い手袋。五年前、城下の火事で子供たちを助け出したとき、両手にひどい火傷を負ったと聞いている。それ以来、人前で手袋を外したことはないそうだ。
「偽の封蝋で他家の名を騙るのは、王都の法で裁かれる罪だ。……財務院。南の紙漉き場の帳面を、明日までに調べておけ」
「は、はい、殿下!」
ジルベールの膝が、がくりと折れた。
あとで聞いた話では、南の紙漉き場の倉から、ヴェルン家の封を写した型が見つかったそうだ。ラフォン侯爵家は罰金を科され、ジルベールは家を継ぐ資格を取り上げられた。
マリエットは、自分から罪を申し出た。数日後、リディアのもとに一通の詫び状が届いた。ヴェルンの紙ではない、ありふれた安い紙だった。けれど、素手で触れると、一字一字、震えながら、それでも最後まで逃げずに書いた手の感じが伝わってきた。リディアは、その手紙だけは、捨てずにしまっておくことにした。
* * *
夜会が終わる頃、リディアは、大広間の外の露台で、ひとり夜風に当たっていた。
右手は、まだ素手のままだった。手袋をはめ直そうとして、指がうまく動かなかった。いろいろなものに触れすぎて、指先が、まだじんじんしている。
「冷えますよ」
声がして、振り返ると、エドガー殿下が立っていた。
「殿下」
「さきほどは、見事でした。……ヴェルン家の紙漉き場が止まっていることを、私はうかつにも知らなかった。役所の紙の件は、すぐに手当てをさせます」
「ありがとうございます」
殿下は、しばらく黙って、リディアの素手の右手を見ていた。
「ひとつ、お願いがあります」
「何でしょう」
「私の手に、さわってみてもらえませんか」
リディアは、目を瞬いた。
殿下は、ゆっくりと、右手の黒い手袋を外した。
月明かりの下に現れたのは、ひきつれた火傷の痕に覆われた手だった。指の何本かは、うまく曲がらないようだった。
「火傷を負ったばかりの頃、この手を見た人は、たいてい目を逸らしました。気の毒そうな顔をするか、怖がるか。……あなたなら、この手から何が分かるのか、知りたくなった」
リディアは、少しためらった。
それから、そっと、自分の素手を、殿下の手のひらに重ねた。
流れこんできたのは、熱さではなかった。
燃える梁。泣き叫ぶ子供の声。煙の中で、何度も何度も伸ばされる手。それから、その後の、長い夜。痛みで眠れない夜。それでも、翌朝には城下の孤児院へ足を運び、子供たちの頭を、この手袋の手で撫でる日々。
そして、ついさっきの、大広間。
ひとりで手紙に触れるリディアを見ながら、この手が、ずっと固く握りしめられていたこと。
(……私のために、怒っていてくださったの)
「どうですか」
殿下が、少し心配そうに聞いた。
「……一度も、嘘をついたことのない手です」
リディアは、言った。
「それから、とても、あたたかい手です」
殿下が、目を見開いた。
それから、困ったように、少しだけ笑った。
「そんなことを言われたのは、初めてです」
「私も、こんなにさわっていて楽な手は、初めてです」
ほかの人の手は、さわると、隠しごとや、ごまかしが、ちくちくと指に刺さってくる。だから、手袋がいる。
この手には、何もなかった。
「リディア嬢」
「はい」
「あなたが、手袋を外していられる場所を、作りたいと思います。……私の隣では、どうでしょう」
リディアは、重ねた手を、離さなかった。
指先は、うそをつかない。
この手が、今、どれだけ緊張しているのかも、ちゃんと伝わってくる。
「……喜んで、お受けします」
月明かりの下で、手袋をしていない二つの手が、ゆっくりと握り合わされた。
お読みいただきありがとうございました。
「紙屋の指」と笑われた指先が、紙一枚と封蝋ひとつで、本当のことを探りあてる。そんなお話でした。
書いていて楽しかったのは、露台の場面です。手袋を外せずにいた二人が、お互いの前でだけ、素手でいられる。それだけで、きっと十分なのだと思います。
シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。




