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悪女の葬式 

作者: みき
掲載日:2026/10/03

 私が自分の葬式を見たのは、棺桶から這い出して十分後だった。


 その日はよく晴れていた。


 大聖堂の高い窓から秋の光が差し込み、白い石床の上を細長く照らしている。祭壇には百本を超える白百合が飾られ、その中央に、一つの棺が置かれていた。


 棺の蓋は開いている。


 中には、私がいた。


 銀色の髪。


 薄い青の瞳。


 十八年間、鏡で見続けてきた顔。


 少し痩せているけれど、どう見てもクラリス・レイヴェルだった。


 つまり、私だ。


「……どういうこと?」


「声を落として」


 隣の男が、私の腕を引いた。


 エリオットというらしい。


 王都で葬儀を請け負っている家の息子で、つい十分ほど前まで私は彼のことを知らなかった。


 もっと正確に言えば、十分ほど前まで私は棺桶の中にいた。


 大聖堂地下の納骨堂。


 釘を打たれていない古い棺。


 暗闇の中で目を覚ました私は、夢中で蓋を押し上げた。


 物音を聞きつけてやってきたのがエリオットだった。


 彼は棺桶から出てきた私を見るなり、


「今日の葬儀、やめたほうがよさそうだな」


 と言った。


 意味が分からなかった。


 今なら分かる。


 確かにやめたほうがいい。


 死んでいるはずの本人が、ここにいるのだから。


「レイヴェル公爵令嬢クラリス」


 祭壇から、司祭の声が響いた。


 私は柱の陰へ身を寄せる。


「十八年という短い生涯において、多くの過ちを犯した娘ではありましたが、死をもってすべての罪が消えることを願います」


 ……待って。


 何、その紹介。


 普通、葬式でもう少し褒めない?


 少なくとも死者に対して「多くの過ちを犯した娘」は、かなり厳しいと思う。


 参列者からすすり泣きは聞こえなかった。


 むしろ、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。


「ようやくね」


「殿下もお気の毒だったわ」


「あれだけのことをしておいて、最後は自害ですって」


「悪女らしい最期だこと」


 悪女。


 誰が?


 思わず自分を指差しそうになった。


「私、悪女だったの?」


「俺に聞くな」


 エリオットが呆れた顔をする。


「有名だったぞ」


「知らない」


「本人だろ」


「だから困っているの」


 私は額を押さえた。


 頭が重い。


 記憶を辿ろうとすると、途中で突然道が消えている。


 最後にはっきり覚えているのは、夏の終わり。


 王宮の温室で開かれた茶会だった。


 私はそこで、王太子フェリクス殿下と話していた。


 そのあと、少し気分が悪くなった。


 侍女から水を受け取って――。


 そこまで。


 次が、棺桶の中だ。


「今日は何月何日?」


「十月二十二日」


「……二か月?」


 二か月が消えている。


 その二か月のあいだに、どうやら私は悪女になって死んだらしい。


 ずいぶん忙しい二か月だ。


「私、何をしたことになっているの?」


 エリオットが少し考えてから指を折った。


「救済院への寄付金を横領」


「してない」


「北地区の孤児院を立ち退かせた」


「知らない」


「聖女候補のセシリア嬢に毒を盛った」


「待って」


「王太子との婚約を利用して商人を脅した」


「待ってって言ってるでしょう!」


 思わず声が大きくなった。


 前にいた老婦人が振り返る。


 私は慌てて顔を隠した。


「……本当に私?」


「世間ではな」


「私、そんな器用な人間じゃないわ」


「それは反論としてどうなんだ」


 もっともだった。


 けれど、本当に覚えがない。


 寄付金。


 孤児院。


 毒。


 商人。


 どれも私には何の記憶もなかった。


 そして何より。


「フェリクス殿下は?」


「婚約は三週間前に破棄された」


「……そう」


 胸の奥に、少しだけ痛みが走った。


 恋をしていたのかと聞かれれば、よく分からない。


 幼いころから決められた婚約だった。


 けれど十年近く隣にいた人だ。


 好きではなかった、とは言えない。


 祭壇の右側に目を向ける。


 いた。


 金色の髪をした青年。


 フェリクス殿下。


 黒い礼服を着て、棺を見つめている。


 その顔には悲しみより、疲れが浮かんでいた。


「……あんな顔をさせたのは、私なのかな」


 思わず呟いた。


「分からないなら調べればいい」


 エリオットが言った。


「どうやって?」


「まず、一番簡単なところからだ」


 彼が棺を指差す。


「あれが本当にお前か確認する」


「私がここにいるのに?」


「だから確認するんだよ」


     


 葬儀が終わるまで待った。


 私にとって、自分の葬式は思ったより長かった。


 途中から腰が痛くなった。


 生前の悪評を紹介される時間も長かった。


 あとで司祭には少し文句を言いたい。


 最後の参列者が去り、大聖堂の扉が閉じる。


 エリオットは父親から棺の処置を任されているらしく、自然に祭壇へ近づいた。


 私は黒い外套で頭から顔を隠し、その後ろを歩く。


 近くで見ると、さらに似ていた。


 棺の中の女は、間違いなく私の顔をしている。


 けれど。


「左手を見せて」


「死体にお願いするな」


「つい癖で」


 エリオットが亡骸の左手を持ち上げる。


 私は息を呑んだ。


「ない」


「何が?」


「傷」


 私の左手首には、幼いころにつけた火傷の跡がある。


 七歳の冬。


 暖炉へ転びそうになった弟を助けたときについた。


 今でも親指ほどの白い傷が残っている。


 私は袖をまくった。


 ある。


 当然だ。


 棺の女には、ない。


「別人だ」


「でも、この顔は……」


 エリオットが亡骸の頬に触れる。


 しばらく確認してから、眉を寄せた。


「化粧じゃないな」


「でしょうね。化粧でここまで似たら怖いわ」


「魔法か」


 この国には、人の姿を多少変える魔法は存在する。


 髪の色。


 目の色。


 肌。


 けれど別人を完全に同じ顔へ変えるなど、私は聞いたことがない。


 そのときだった。


「あれ?」


 エリオットが亡骸の耳元を見る。


「何?」


「銀粉だ」


 髪をかき分ける。


 耳の後ろに、わずかに銀色の粉が残っていた。


「知ってるか?」


「……鏡銀」


 口に出した瞬間、記憶の端に何かが引っかかった。


 鏡銀。


 非常に高価な魔法触媒。


 姿を映す魔術に使われる。


 ただし、人間の姿を完全に写すには条件がある。


「血が近くないと使えない」


 私は言った。


「家族か」


「たぶん」


「姉妹は?」


「いない」


「本当に?」


「弟が一人だけよ」


 即答してから。


 なぜか。


 胸の奥に小さな違和感が残った。


 本当に?


 私は一人娘だ。


 弟が生まれるまで、ずっとそう言われて育った。


 姉も妹もいない。


 なのに。


 なぜ今、こんなに嫌な感じがするのだろう。


「服も調べよう」


 エリオットが言った。


「さすがに女性の服をあなたが調べるの?」


「仕事だ」


「便利な言葉ね」


「じゃあお前がやれ」


「やります」


 私は亡骸のドレスへ手を伸ばした。


 葬儀用の白いドレス。


 私が持っているものではない。


 裾。


 袖。


 胸元。


 目立ったものはない。


 けれど腰のあたりを触ったとき。


 布の内側に硬い感触がした。


「ここ」


 縫い目を少しだけ解く。


 中から、小さく折り畳まれた紙が出てきた。


 震える手で開く。


 文字があった。


『これをクラリスが読んでいるなら、私は失敗したのだと思う』


 息が止まった。


 続きを読む。


『ごめんなさい』


 たった一行。


 その下に。


 一つの名前が書かれていた。


 マリア。


 知らない名前だった。


     


 その日の夜。


 私は自分の屋敷へ帰らなかった。


 死者が正面玄関から帰宅するのは、さすがに騒ぎになる。


 エリオットの家が営む葬儀屋の二階にある小部屋を借りた。


 葬儀屋に泊まる公爵令嬢。


 人生とは分からない。


「マリア」


 何度その名前を見ても、思い出せない。


 けれど見覚えはある。


 文字ではない。


 響き。


 昔。


 どこかで聞いた気がする。


「家族に聞けば?」


 向かいでパンを食べていたエリオットが言った。


「父に?」


「一番早いだろ」


「私が生きていることを知らせて大丈夫だと思う?」


「……そこか」


「私を二か月閉じ込めた人が誰なのか分からない。屋敷の人間が関係していたら?」


「公爵も?」


「分からない」


 口にするだけで嫌だった。


 父を疑いたくはない。


 けれど今は誰も信用できない。


 自分の記憶すら信用できないのだから。


「だったら、記録を探すしかないな」


「何の?」


「マリアの」


 なるほど。


「あなた、葬儀屋なのに探偵みたいね」


「死んだ人間の素性を調べることもある」


「便利な仕事ね」


「公爵令嬢よりはな」


 少し腹が立った。


 翌朝から調査を始めた。


 まず、教会の洗礼記録。


 レイヴェル家の名があるページを調べる。


 私。


 弟。


 父。


 母。


 祖父母。


 マリアはいない。


 次に出生記録。


 いない。


 死亡記録にもいない。


「幽霊みたいね」


「お前が言うと洒落にならない」


 二日目。


 レイヴェル家と関係のある修道院を回った。


 三軒目。


 郊外の小さな女子修道院で、一人の老修道女が私の顔を見て固まった。


「……クラリス様?」


 私はフードを少し深くした。


「私をご存じなのですか」


「もちろんです。でも、あなたは……」


「死んだことになっています」


 老修道女は胸の前で印を切った。


「マリアという女性をご存じありませんか」


 その瞬間。


 彼女の顔色が変わった。


「知っているのですね」


「……こちらへ」


 小さな応接室へ通された。


 扉が閉じられる。


 老修道女はしばらく祈るように手を組んでいた。


 やがて。


「マリアは、あなたのお姉様です」


 世界が止まったような気がした。


「姉?」


「正確には、異母姉です」


 父が若いころ。


 まだ母と婚約する前。


 一人の女性と交際していた。


 身分の低い女性だった。


 その間に生まれた子。


 それがマリア。


「では、どうして私は何も……」


「公爵様は認知を望まれました。しかし、当時のレイヴェル家当主が許さなかったと聞いています」


 祖父だ。


 家柄に厳しい人だった。


 マリアの母は金を渡され、王都を離れた。


 数年後に亡くなった。


 残されたマリアは、この修道院へ預けられた。


「公爵様は時折会いに来られていました」


「父が?」


「はい」


「では、今も?」


 老修道女は首を横に振った。


「三年前から、マリアはここにはおりません」


「どこへ?」


「叔父様が引き取られました」


「叔父?」


 私は嫌な予感がした。


「アルベルト・レイヴェル侯爵です」


 父の弟。


 私の叔父。


 そして。


 父と弟に何かあった場合、レイヴェル公爵家に最も近い血縁者。


 背中が冷たくなった。


     


 そこから先は早かった。


 早すぎるくらいだった。


 エリオットが商人の記録を調べた。


 鏡銀を大量に購入した人物。


 叔父の執事。


 救済院から消えた寄付金の行き先。


 叔父と関係のある商会。


 孤児院を立ち退かせた命令書。


 私の署名。


 けれど筆跡は、よく見るとほんの少し違った。


 そして。


 聖女候補セシリアに毒を盛った夜。


 私を見たという証人は大勢いた。


 だが、全員が同じことを証言している。


『銀の首飾りをしていた』


 私はその首飾りを持っていない。


 マリアがつけていたのだ。


「つまり」


 エリオットが机いっぱいに広げた紙を見る。


「お前を消して、姉にお前の顔をさせた」


「そして、悪事をさせた」


「最後に姉を殺せば」


「クラリス・レイヴェルは悪女のまま死ぬ」


 婚約は破棄。


 公爵家の名誉は失墜。


 父が責任を取って爵位を退けば。


 誰が一番得をする?


 答えは簡単だった。


「叔父様」


 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


 けれど。


 一つだけ分からない。


「どうしてマリアは従ったの?」


 エリオットは答えなかった。


 強制されたのか。


 金か。


 脅迫か。


 それとも。


 本当に私を憎んでいたのか。


 自分が得られなかったものをすべて持っている妹。


 父。


 家。


 名前。


 地位。


 婚約者。


 恨まれていても、不思議ではない。


 それでも。


『ごめんなさい』


 あの一行が頭から離れなかった。


     


 答えを持っていたのは、聖女候補セシリアだった。


 毒を盛られたはずの彼女は、王宮の療養室にいた。


 命に別状はない。


「クラリス様」


 私を見た瞬間、セシリアは泣いた。


「やっぱり……」


「知っていたの?」


「途中からです」


 彼女はベッドの中で唇を噛んだ。


「あの方は、あなたではありませんでした」


「どうして分かったの?」


「クラリス様は、紅茶に砂糖を入れません」


「……それ?」


「はい」


 もっと劇的な理由を期待してしまった。


 でも、確かに私は入れない。


「あの方は毎回二杯入れていました。それから、猫が苦手でした」


「私は好きよ」


「知っています」


 どうやら本人を知っていれば分かる程度には違ったらしい。


「毒を入れられた夜、あの方は私に言いました」


 セシリアがゆっくりと話す。


「飲まないで、と」


「え?」


「皆が見ている前で毒を入れました。そして私に杯を渡したとき、小さな声で『飲まないで』と」


「でも、あなたは倒れた」


「少しだけ飲みました」


「どうして!」


「飲まなければ、あの方が殺されると思ったからです」


 セシリアは苦しそうに目を伏せた。


「毒は致死量ではありませんでした。あの方がすり替えていたんです」


 マリア。


 最初から叔父の言う通りに動いていたわけではなかった。


「それから、これを渡されました」


 セシリアが枕の下から、小さな鍵を取り出す。


「クラリス様が生きていたら渡してほしい、と」


     


 鍵は、王都の貸金庫のものだった。


 中には一冊の手帳が入っていた。


 マリアの日記。


 最初のページ。


『妹の顔になった。』


 胸が苦しくなる。


『鏡を見ると、知らない女がいる。正確には、知っている。町で何度も見たことがある。父に連れられて馬車で通る、綺麗な服を着た女の子。あれが妹だった。』


 次のページ。


『叔父様は言った。言う通りにすれば、母のお墓を守ってくれる。修道院にも寄付を続けると。』


 さらに。


『クラリスを憎んでいるかと聞かれた。分からない。会ったこともない人を、どうやって憎めばいいのだろう。』


 私はページをめくる。


 途中から、文字が乱れていた。


『孤児院の人たちには申し訳ない。裏口から出られるようにしておいた。』


『寄付金は叔父様の商会に流れた。帳簿の写しを残した。』


『セシリア様を殺せと言われた。できなかった。』


 最後のページ。


『たぶん、私はもう長くない。』


 その文字だけ、妙に落ち着いていた。


『叔父様は、クラリスが死んだことになれば全部終わると言った。私がクラリスの死体になるのだろう。』


 視界がぼやける。


『私は妹の人生を奪った。許してもらえるとは思っていない。』


 違う。


 そうじゃない。


 声に出したかった。


『でも、一度だけ話してみたかった。』


 次の行。


『紅茶に砂糖を入れない理由を聞きたかった。』


 私は笑ってしまった。


 涙が落ちた。


 変なところを気にする人だ。


『もし生きていたら、私の名前を覚えていてほしい。』


 最後。


『私はクラリス・レイヴェルではない。』


『マリアです。』


     


 自分の葬式から七日後。


 レイヴェル公爵家では、私の死を悼むための追悼会が開かれた。


 叔父も来ていた。


 当然だ。


 次の公爵になるつもりなのだから。


「兄上もおつらいでしょう」


 大広間で、叔父が父に言っている。


「クラリスは道を誤りました。しかし、もう亡くなったのです。どうかご自分を責めないで」


 父はやつれていた。


 一週間で十歳ほど年を取ったように見える。


 弟もいる。


 目が赤い。


 私は扉の外で、その姿を見ていた。


「行くのか?」


 後ろからエリオットが聞いた。


「ええ」


「怖くない?」


「すごく」


「なら正常だな」


「励ましている?」


「一応」


 私は息を吸った。


 大広間の扉を開ける。


 最初に気づいたのは、誰だったのだろう。


 分からない。


 ただ、会話が一つずつ止まっていった。


 最後には。


 百人近い人間がいるのに、音が消えた。


「ごきげんよう」


 私は言った。


「クラリス・レイヴェルです」


 誰かが悲鳴を上げた。


 父が立ち上がる。


 弟が椅子を倒す。


 叔父だけが動かなかった。


 顔だけが真っ白になっている。


「……そんな」


「叔父様」


 私は彼を見る。


「ずいぶん驚いていらっしゃいますね」


「クラリス……?」


「ええ。本物の」


 父が私の名前を呼んだ。


 今にもこちらへ来そうになる。


 でも。


 先に終わらせる。


「皆様」


 私は大広間を見渡した。


「私が救済院のお金を盗んだと聞いた方?」


 何人かが目を伏せる。


「孤児院を追い出したと聞いた方?」


 また。


「セシリア様に毒を盛ったと聞いた方?」


 ほぼ全員。


「では」


 私は叔父を見る。


「そのクラリスは誰だったのでしょう」


 エリオットが証拠を運び込む。


 帳簿。


 鏡銀の購入記録。


 偽造された命令書。


 セシリアの証言。


 そして。


 マリアの日記。


「嘘だ!」


 叔父が初めて叫んだ。


「そんな女は知らん!」


「そうですか」


「全部偽造だ!」


「マリアという名前も?」


「知らんと言っている!」


 その瞬間。


 父が立ち上がった。


「アルベルト」


 低い声だった。


「なぜ、お前がマリアの名前を知らない」


 叔父の顔が固まった。


 父が続ける。


「私は、お前にしか教えていない」


 静かだった。


 叔父は何も言わなかった。


 言えなかった。


 王宮の騎士たちが入ってくる。


 あとは。


 驚くほどあっけなかった。


     


 叔父は捕らえられた。


 関係した使用人と商人も次々に捕まった。


 父は私を抱きしめた。


 弟は泣きながら怒った。


「生きているなら早く帰ってこい」


 無茶を言う。


 私だって好きで死んでいたわけではない。


 フェリクス殿下とも話した。


「すまなかった」


 最初にそう言われた。


「あなたを信じ切れなかった」


 責める気にはなれなかった。


 二か月もの間、私の顔をした人間が悪事を重ねていたのだ。


 見抜けと言うほうが酷だ。


「婚約は?」


 殿下が聞いた。


 私は少し考えた。


「しばらく保留にしてください」


 彼は驚いたあと、笑った。


「分かった」


 それでいい。


 生き返ったその日に、人生の全部を元通りにする必要はない。


 私は一度死んだのだから。


 少しくらい自由に生きても、罰は当たらないだろう。


 そして。


 一つだけ。


 元通りにしてはいけないものがあった。


     


 マリアの葬式は、一か月後に行われた。


 今度の棺には。


 正しい名前が刻まれていた。


 マリア・レイヴェル。


 父がそうすることを望んだ。


 正式に娘として記録も残した。


 参列者は多くなかった。


 父。


 私。


 弟。


 修道院の人たち。


 セシリア。


 エリオット。


 それだけ。


 けれど、一度目よりずっといい葬式だったと思う。


 司祭が祈りを捧げる。


 誰も彼女を悪女とは呼ばなかった。


 私も。


 マリアがしたことを、全部なかったことにするつもりはない。


 誰かを傷つけた。


 恐怖を与えた。


 脅されていたからといって、すべてが許されるわけではない。


 それでも。


 彼女は最後に抗った。


 証拠を残した。


 人を助けた。


 そして私を生かした。


「ねえ、マリア」


 棺に白い花を置く。


「紅茶に砂糖を入れない理由だけど」


 後ろで弟が不思議そうな顔をした。


 気にしない。


「単純に、甘いお菓子と一緒に飲むからよ」


 答えを聞きたがっていたらしいから。


 教えておく。


「あなたは二杯入れていたそうね」


 少し笑う。


「たぶん一緒にお茶をしたら、そこでは喧嘩したでしょうね」


 返事はない。


 当然だ。


 でも。


 一度くらい。


 本当に一緒に紅茶を飲んでみたかった。


 棺の蓋が閉じられる。


 一度目の葬式で。


 王都の人々は言った。


 悪女が死んだ、と。


 けれど違う。


 あの日、棺の中にいたのは。


 悪女ではなかった。


 私でもなかった。


 ただ、自分の名前で生きることさえ許されなかった、一人の娘だった。


 だから私は。


 彼女の名前を忘れない。


 マリア。


 私の姉。


 そしてこの日ようやく。


 誰かに作られた「悪女」は。


 本当の意味で、葬られた。


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