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1章 春ー智央sideー

 土曜の午後。駅のホームは、少し肌寒い風が通り抜けていた。

 塾で使ったテキストが入った鞄が重たい。

 肩に食い込むストラップを直しながら、僕はスマホを取り出して電車の時刻を確認する。

 あと五分。

 ふと、視界の端で動いた影に、なんとなく目を向けた。

 ──その瞬間、目が合った。

 茶色っぽい髪をラフに整えた短めのウルフカット。背が高くて、部活で鍛えているのが服の上からでもわかる。制服のシャツは少し乱れていて、それがなぜか自然に見えた。

 ……相変わらず目立つやつだな、と真っ先に思った。

「……あれ? 朝倉じゃん」

 視線があった瞬間、当然の様に名前を呼ばれた。

 名前が喉の奥で引っかかる。

「……堤」

 近づいてきた彼の笑顔は、昔と同じだった。

 明るくて、悪気のないまっすぐさで人の懐に入ってくる笑い方。

「うわ、マジでお前か。久しぶりすぎ。てか、変わってないなー」

 変わったのは、君の方だよ。

 そんな言葉が喉まで出かかったけれど、代わりに出てきたのは、聞き覚えのある笑い声だった。

「……なにしてんの? ここで。塾? てかそのバッグ、絶対勉強だよな」

 間髪入れずに、堤が言葉を畳みかけてくる。

 声が大きい。

 あの頃から変わらない。

「……塾」

 僕は短く答える。

 それ以外、言うことがなかった。

 いや、いくらでも言えたはずなのに、喉の奥がつかえて動かない。

「だよな。真面目そうだもんな、お前。中学のときからさ、ノート貸してもらってたじゃん、覚えてる?」

 覚えてるに決まってる。

 あのとき、軽く礼を言ってから彼が言った。

 

 ──「お前のノート、マジ見やすいな」


 それだけの一言に、あのときの僕は、少しだけ救われていた。

「てかさ、LINE交換しよーぜ」

 え、と顔を上げたときには、もう彼のスマホが差し出されていた。

「断る理由ないだろ? 中学の同級生だし。ほら」

 流れるようにQRコードが表示されて、無言のまま僕は自分のスマホを出して読み取る。

「おっけー、ありがと。じゃ、俺こっちだから!」

 彼は手を振って、反対方向のホームへと小走りで駆けていった。

 残された僕のスマホには、新しい名前が一つ追加されていた。

 いつもの土曜、いつもの帰り道。その景色が、今日は少しだけ違って見えた。


 家に着いてすぐ、制服を脱いで部屋に投げた。

 今日の塾は、集中していたはずなのに、どうも頭がぼんやりしていた。

 鞄の中でスマホが震え、通知の光がうっすらと反射して揺れる。

 画面を見ると、LINEが一件。


 ──堤 大樹


「今日はありがと!なんか懐かしかった笑」


 ……懐かしかった?

 たったそれだけのメッセージなのに、胸のどこかが少しだけ熱くなる。

 何か返さなきゃ、と思うけれど、指が止まる。

 こういうやりとりに慣れていない。

 「ありがとう」の返事って、どう書けばいいんだっけ。

 スタンプだけじゃ軽すぎるか? でも、文章にしたら重い?

 一度、「こちらこそ、ありがとう」と打ってみたが、硬すぎる気がして消す。

 「僕も懐かしかった」──いや、主語が強い。違う。

 「また会えてよかった」なんて、変だ。重い。

 なんでそんなこと送ろうとしたんだ。

 ……結局、少し考えてから打ったのは、たった一行だった。


「うん。こっちこそ、久しぶりだった」


 送信。

 画面を閉じた。でも数秒後、またすぐに通知が鳴る。


「だよな!てかさ、やっぱお前字きれいだったわ笑 塾ノートめっちゃ見やすかったの思い出した!」


 ……やっぱり、堤はLINEでもグイグイくるんだな。

 テンポが良くて、間がない。

 僕が一つ返す間に、彼なら三つぐらい送ってくるんじゃないかってくらい。

 でも──うるさい、とは思わなかった。

 むしろ、なんとなくその通知が、さっきよりも部屋を明るくしていた。



 数学の教師が黒板に式を書きながら、早口で説明している。

 整然と並ぶ文字を、僕も同じようにノートへ写していく。

 筆記の速度は速くも遅くもなく、丁寧すぎず、雑でもない。

 この学校にいる誰もがそうであるように、正解を静かに写し取るのが日常だった。

 教室は静かだ。

 誰かがふざけて騒ぐような空気はなく、机と椅子がきちんと並んだ空間に、淡々とした時間が流れていく。

 進学校らしい穏やかな規律――国立大学への進学率も高いこの高校は、中高一貫の男子校だった。

 けれど、僕は少しだけその輪から外れていた。

 小学生五年生から中学一年までは、父の海外赴任で海外に住んでいたせいで、中学からこの学校に進むことはできず、地元の公立中学に通っていた。

 高校受験でこの学校に入れたけれど、クラスのほとんどは中学からの持ち上がり組。

 話すきっかけも少なくて、いまだにどこか外側にいる気がする。

 とはいえ、それを気にしている生徒もほとんどいない。

 むしろ、誰と距離を取っていても、お互いに深く踏み込まない――そういうちょうどいい距離感が、この学校の良さでもあった。

 休み時間も、教室は静かだった。

 小さなグループがこぢんまりと話しているだけで、大声が響くこともない。

 全員がいい子で、朝倉智央あさくらともひさ──僕もまた、その一人に過ぎなかった。

「なあ、お前んとこ、受験対策セミナーとか申し込まれてる?」

 隣の席の男子が、小声で訊ねていた。

 別の男子が肩をすくめて答える。

「うん。親が勝手にやってた。予備校のやつ」

「わかる。うちも、気づいたら登録されてた」

 ──うちも、だいたいそうだ。

 聞き耳を立てるでもなく、僕はノートに目を落としたまま、心の中で相槌を打った。

 そういうものだと思っていた。

 将来の進路、模試の点数、志望校のランク。

 学校はそういう話ばかりで、僕もそこに身を置いている自覚はあった。


 帰宅後の食卓には、静かなテレビの音と、並べられた料理の香りが漂う。

 味噌汁からは湯気が立ち、サバの味噌煮は盛りつけの角度まできれいで、小鉢の副菜も、色味のバランスが取れていて、まるで料理雑誌の紙面のようだった。

 窓の外には、都心の夜景が静かに広がっていた。

 高層マンションの17階。

 遮音性の高いガラスは、外の喧騒を完全に遮断している。

 LDKは広く、壁際にはモダンな絵画、キッチンには最新の調理家電が揃っていた。

 床には一枚もののラグ。

 無駄な装飾はなく、全体に淡いグレーとベージュで統一されている。

 清潔で、整っていて、生活に不自由はない。

 けれど、ソファも、照明も、どこか触れられないような空気を纏っていた。

 母は、手元のスマホをタップしながら、「今日の夕飯は和食がいいと思って」とつぶやいた。

 僕は「うん」とだけ答えて、決められた席に座る。

 父はいない。

 今週も海外出張で、家に戻ってくるのは日曜らしい。

 この光景は、幼い頃からずっと変わらない。

「英検の結果、どうだった?」

 箸を取ろうとしたタイミングで、母が顔を上げた。

「……一次は通った」

「あら、よかったじゃない。じゃあ二次試験の対策もしなきゃね。今週、どこか空いてる?」

「……土曜は、塾がある」

「じゃあ、日曜のお昼かしら。……おじいちゃんに見てもらいましょうか。ほら、英検の二次、スピーキングあるでしょ?」

 母はスマホを手にしたまま、予定を確認するように言う。

「お父さん、日曜に帰ってくるって言ってたから、夕飯はそのまま外で食べましょう。予約しておくわね」

 感情のこもった会話というより、タスクを確認するようなやりとりだった。

 おじいちゃんに見てもらう、という言葉にも、僕はとくに驚かなかった。

 外務省の元外交官。

 長年海外にいたから、英語は母語に近い。

 高校の面接練習だって「私がやった方が早い」と母が言い出したのを、祖父が、お前は感情が出過ぎるからとたしなめ「私がやろう」と代わりにしてくれた。

 頼りになる。

 けれど、それは相談相手ではなく、家庭内指導員のようだった。

 別に、嫌ではない。

 きっとこうして、どこかの大学に進んで、それなりの仕事をして……そんなふうにして、生きていくんだと思ってた。

 食事を終えて自室に戻ると、スマホの画面が光っていた。


 ──堤 大樹


 LINEの通知だ。

 内容は見えなかったけど、名前だけで、ほんの一瞬、心臓が跳ねた。

 通知をタップする指を、一度だけ止める。

 なんで、止まったんだろう。

 画面を開くと、


「今日、寒くね?」


 そんな他愛もない一言が届いていた。

 僕はそのまま、何も打たずに画面を閉じた。



 塾の帰り道、いつもと同じ駅で降りて、コンビニに立ち寄った。

 特に用があるわけじゃなかったけど、帰宅するにはまだ少しだけ時間が早い気がした。

 棚をひととおり眺めて、チョコをかごに入れる。

 レジに向かおうとしたとき、ふと目に入った名札。


 ──堤


 まさか、と思って顔を上げると、品出し中の彼が、こちらに気づいて笑った。

「おっ、また会った! 朝倉じゃん!」

 コンビニの制服姿。なんか似合ってるのが、ちょっと腹立たしい。

「……バイト、してたんだ」

「そっ。バッシュ欲しくてさ。限定モデル出たじゃん、ナイキの新作のやつ。あれ超カッコよくない?」

 聞いたことのあるブランド名だったけど、具体的な商品まで僕にはよくわからなかった。

「お年玉、部費と遠征で消えたし、親に言えばたぶん買ってくれんだけど、なんかそれも違うかなって思ってさ」

 明るく、何気なく、堤は笑った。

 僕は、思わずその言葉に返すタイミングを逃した。

 欲しいものがあるから、自分で働く。

 そういう発想自体が、自分の中にはなかったことに気づく。

 たいていのものは、必要だと判断されたら与えられてきた。だから、何かが欲しいと思った記憶も、あまりない。

 その違いに、少しだけ戸惑った。

 僕の顔を見て、堤が「あー、わかんないか」と笑う。

「いいよ、あとでLINEで写真送っとくわ。マジで見るだけでテンション上がるぞ」

「……いい。別に」

「いやいや、そこは見ろよ。お前も足速くなるかもよ?」

「……関係ないし」

 そう言って笑う彼の声は、やっぱり大きい。

 でも、うるさいとは思わなかった。

 堤は僕の買い物かごをちらっと見て、にやりと笑った。

「チョコ? 真面目そうだけど、甘いの好きなんだな」

 からかうような言い方。

「……別に」

「そっか、じゃあまたな」

 それ以上は何も言わず、彼はまた品出しの棚に戻っていった。


 会計を終え、レジ袋を手にコンビニを出ると夜風は少し冷たくて、街灯の下を歩く人の影が長く伸びていた。

 角を曲がろうとしたとき、背後から軽い足音が聞こえた。

「おーい、朝倉!」

 振り返ると、コンビニの制服姿のままの堤が、小走りで追いかけてきた。

「……なに」

「これ。やっぱお前、ちょっと顔色ちょっと悪いぞ。疲れてんじゃね?」

 そう言って、彼が差し出したのは、コンビニの甘い缶コーヒーだった。

 パッケージは見慣れたもの。

 でも、あたたかい。

「……は?」

「糖分。お前、絶対ブラック飲めないだろ?」

「決めつけんな」

「まー飲んでみ。うまいから。俺も部活後に絶対これ。ってか、真面目系男子ほど甘いの好き説あるよな?」

 わけのわからない理屈を押しつけてくる。

 けど、断るタイミングを逃した僕は、その缶を受け取っていた。

 指先に、堤の体温が残っている気がした。

 彼はまた手を振って、店に戻っていった。

 レジ袋と、缶コーヒーと。

 予定外のものが二つ、手の中に残った。


 コンビニの袋を手にしたまま、僕は帰る道を少しだけ外れた。

 住宅街の角にある、小さな公園。

 時間が遅いせいか、子供の姿はない。

 ベンチに腰を下ろして、隣に袋を置く。

 缶コーヒーを取り出して、ぱちん、とプルタブを引くと微かな音と一緒に、ふわっと甘い香りが立ち上る。

 一口だけ、飲んでみた。

 想像よりもずっと甘かった。

 けれど、悪くなかった。


「真面目系男子ほど甘いの好き説あるよな?」


 さっきの言葉が、ふいに思い出されて、自分でも気づかないうちに、少しだけ口元が緩んだ。

 夜風が通り抜ける。

 でも、缶の温度はまだ手の中にちゃんと残っていた。


 帰宅後、勉強の合間、机の上に置いてあるスマホが小さく震える。


 ──堤 大樹


 LINEの通知が一件。

 開くと、そこには一枚の写真が貼られていた。

 黒地に金のラインが入った、派手なバッシュ。

 見たこともないモデル名。

 背景には、スポーツ用品店のガラスケースが映っている。


「これ! これが今欲しいやつ! マジでかっこよくね?」


 ……思ったより、本気で欲しがってるんだな。

 知らない世界だった。

 少なくとも、僕の日常にはなかったもの。

 興味なんてなかったはずの写真を、なぜかもう一度拡大して見た。


 ──欲しいって、こういう気持ちなんだろうか。


 返信は、しなかった。

 けれど画面を閉じたあとも、写真の残像だけは、しばらく頭の中に残っていた。 



 日曜の夜。

 都心の隠れ家のようなレストランに両親と僕は居た。

 駅から少し離れた路地裏、看板も控えめで、知っていなければ通り過ぎてしまいそうな店。

 店内は照明が抑えられ、柔らかい音楽とグラスの触れ合う音が心地よく混ざっている。

 席はほぼ満席。けれど、騒がしさはなく、客たちはそれぞれ静かに食事を楽しんでいた。

 皆、身なりが整っていて、声のトーンも落ち着いている。

 誰もが「ここにいること」に慣れているように見えた。

 母が選ぶ店は、だいたいこういうところだ。

 僕は、テーブルにかけられた白いクロスを指でなぞっていた。

 シワ一つないその布は、どこか制服のシャツを思わせる。

 母が選んだコース料理が、テンポよくテーブルに運ばれてくる。

 父はネクタイを緩めながら、赤ワインのグラスをゆっくり回していた。

「ここのワインは、なかなかだな」

 味について語るのは、いつも父の役目だった。

「お義父さんたち、元気だったか?」

 前菜を口に運びながら、父が母に尋ねる。

「ええ、変わりなく。智央の英語を見てもらったの。来週、英検の二次があるから」

「へぇ、また英語か。お義父さん、相変わらず厳しかったんじゃないか?」

「まあ、それなりにね。でも智央、ちゃんと答えてたわよ。リスニングも悪くないし、発音も褒められてたし」

 母の声は淡々としているが、内容は合格点の報告だった。

「来週が二次か。……受かったら、何か欲しいものでもあるか?」

 ワインを一口飲んでから、父がふと思いついたように言った。

 僕は、その言葉に少しだけ戸惑う。

 欲しいもの。

 その言葉に、一瞬、返事が遅れた。

 ……欲しいもの?

 頭の中を探る。

 けれど、何も浮かばなかった。

 欲しかったものは、たぶん、もうだいたい与えられていた。

 必要なものは、聞けば出てきたし、頼む前に準備されていたことも多かった。

 だから、自分から欲しいと思ったことが、あまりなかった。

「……別に、ないかな」

 父はそれ以上は聞かず、「そうか」とだけ返して、またワインに視線を戻した。

「うちの会社、秋から新しくロンドン支社で新規事業を立ち上げていてな。今、その関係でバタバタしてる、来週また向こうに行ってくるよ」

「海外赴任の話、また出てるの?」

 母が尋ねる。

「ああ。まあ正式に決まったら話すよ。智央も、大学こっちで受けてもいいし、向こうでも選べるようにしておいた方がいいだろう」

 当然のように差し出された選択肢。

 でもそれは、自分の意志で手にした選択ではなかった。

 ふと、思い出したのは、数日前の夜。

 LINEで送られてきた、黒と金のバッシュの写真だった。


 ──欲しい、って、ああいうことだよな。


 スマホはポケットの中。

 でも、彼の言葉とあの写真は、勝手に脳裏に浮かんできた。



 ホームに風が吹き抜けるたび、制服の袖がかすかに揺れた。

 学校帰りの学生たちがそれぞれスマホをいじったり、友達としゃべったりしている中、僕は一人、電光掲示板をぼんやりと見上げていた。

 電車が来るまで、あと三分。

 何気なくポケットからスマホを出し、時間を確認する。

 今日は塾がないから、学校の図書室で少しだけ勉強をし帰るところだった。

「……あれ、朝倉?」

 後ろから聞こえた声に、反射的に振り返る。

 やっぱり、堤だった。

 制服のシャツのボタンを一つ外して、ネクタイを緩めている。

 多分朝はきっちりセットされていたであろう髪が少し乱れていて、夕方の斜めの光が、彼のシルエットをやたらと立体的に見せていた。

「また会ったな。お前、もしかしてこの時間、いつも同じ電車?」

「……たまたま」

 否定も肯定もしきれないまま、そう返すと、堤は「そっか」と笑った。

 軽い調子だけど、そのまま僕の横に立つ。

 距離が近い。

 けれど、不思議と嫌じゃなかった。

「てかさ、また塾?」

「……違う、今日は塾じゃない、……図書室で勉強してたから、今、帰るところ」

「真面目だな、俺は今日は部活サボった。なんか、体育館の空気重くて」

 たぶん理由になってないけど、堤の口から出ると、それもちゃんと理由に聞こえる。

 電車が到着して、ドアが開く。

 人がぱらぱらと降りていく中、僕と堤は、言葉を交わすでもなく同じ車両に乗り込んだ。

 優先席のそばを避けるようにして、真ん中あたりのドア付近に立つ。

 いつもなら、片耳にイヤホンを入れてスマホを見るところだけれど、堤がすぐ隣にいるからか、今日は何も出す気になれなかった。

「……なにその顔。眠い?」

 横から声がする。

 少し身を傾けて僕の顔を覗き込むように。

「別に。眠くはない」

「ふーん。でも勉強で疲れてんだろ。顔に出てるわ、お前ん家厳しそうだもんな。中学でもずっと学年一位だったし、高校も進学校だろ?」

 他人の顔をそんなにじっと見られること自体、慣れていない。

 目をそらすタイミングを探して、なんとなく窓に視線を移した。

 ガラス越しに映る自分と堤の姿が重なる。

 堤は僕より頭ひとつ分くらい背が高い。制服のシャツも、彼の肩幅のせいでどこか余裕がありそうに見える。

 隣で並んでいると、まるで自分だけ小さく縮こまっているような気がした。

「それが普通だし……」

 小さく答えながら、映った自分の姿をもう一度だけ見てしまう。

 堤の隣でぼんやりとした顔をした自分が、ガラスの奥で少しだけ頼りなく見えた。

「俺なら、少し息つまっちゃうかもな。まだ2年になったばっかだし、そんなに全力で走ってたらバテるって」

 首を傾げながら言う堤の口調は軽いけれど、どこか本気で言っているようにも聞こえた。

 最寄りの駅に着くと、堤は当然のように一緒に降りた。

 僕のほうが改札は反対方向だけど、なぜか並んで歩いていた。

「……今日さ、ちょっと寄ってかね?」

 ふいに、堤が言った。

「……どこに?」

「ゲーセン。駅前のとこ。新作の音ゲー入ったって言ってたから、試してみたくてさ」

 さっきまで軽口を叩いていたのと同じ声で、でもなぜか、その一言だけは少しだけ空気が違って聞こえた。

「……行かないけど」

 即答したつもりだったけど、足が止まりかけていたことには、自分でも気づいていた。

「だよな。お前、そういうの興味なさそうだし」

 堤は笑って、手をひらひらと振った。

「じゃ、またな。……今日もLINEするかも」

 そのまま歩き出す彼の背中を、僕は見送った。


 別に、行きたかったわけじゃない。

 でも、どうしてあんなにすぐ断ったんだろう。

 ゲーセンなんて、たぶん中学のときに一度、同級生と行ったきりだ。騒がしくて、何を楽しむ場所なのかもよくわからない。

 けれど、誘われたことが、妙に心に残っていた。

 ──次、もしまた誘われたら。

 そんな仮定が、自然と頭に浮かんでくる。


 風呂から上がって、部屋の明かりだけをつけた。

 ベッドに腰を下ろして、スマホを手に取る。

 通知は来ていなかった。

 だからこそ、自分から開いたLINEのトーク画面が、やけにまぶしく感じて指が止まる。

 打っては消して、また打って──を繰り返すこと数回。

 「さっきはごめん」も違う。

 「誘ってくれてありがとう」は、なんだか他人行儀すぎる。

 言葉が、うまく見つからなかった。

 ……けれど、迷った末に送ったのは、たった一行。


「次、寄ってもいい?」


 送信ボタンを押して、画面を伏せた。

 返事は、すぐには来なかった。

 けれどその通知が来るのを、僕はどこかで、静かに待っていた。

 教科書を広げたけれど、内容はまるで頭に入ってこない。

 英単語の羅列が、意味を持たない記号みたいに並んでいる。

 心ここにあらず、という言葉が、こんなにもはっきり自分に当てはまるとは思わなかった。


 

 結局、返事が来なかった。

 「次、寄ってもいい?」と、そう送ってから何度もスマホを見た。

 けれど、通知は来ない。

 既読にもならない。

 今までの堤なら、もっとすぐに何か返してきたはずだった。

 軽いスタンプでも、どうでもいいような一言でも、テンポよく──まるで、呼吸をするように。

 ……でも。

 考えてみれば、僕はこれまで堤が送ってきたメッセージに、ろくに返信なんてしてこなかった。

 一言で返して、すぐに会話を終わらせるか、既読だけ──。

 求められるままに、与えられるままに、それだけで満足していた。

 ──こっちから何か返したことなんて、ほとんどなかったじゃないか。

 求めるだけで、返さなかった……当然だ、そんなの。

 ……飽きられたのかもしれない。

 そう思った瞬間、呼吸が少しだけ浅くなった。


 朝からなんとなく体がだるくて昼過ぎに保健室に行き、熱はなかったけれど学校を早退することにした。

 駅に向かう途中、雲が厚くて、風が少し冷たく、制服の袖を握る手にかすかに力が入る。 

 駅前、いつも通りの人通り。

 その中で、ふと視線が止まった。

 ゲームセンターの前。

 制服姿の堤が、二人の友達と並んで立っていた。

 笑っていた。

 何か面白い話でもしていたのだろう。

 体を軽く揺らして、無防備な笑顔を浮かべていた。

 ああ、と思った。

 この感じ、知ってる──僕の知らない堤 大樹。

 手を挙げようとしたけれど、指が動かなかった。

「……」

 立ち止まって、ほんの一瞬だけ、足を前に出そうとして、やめた。

 近づいたら、邪魔になる気がした。

 あの輪の中に、僕の居場所はない気がした。

 たぶん、ないんだ。

 ……最初から。

 スマホを取り出してみる。

 画面は黒いまま。通知は、まだ何も届いていなかった。


 自宅の玄関のドアを開けた瞬間、違和感があった。

 いつもならテレビの音だけが響くリビングに、今日はその音がなかった。

 母はダイニングに座っていて、スマホを伏せたまま、こちらを見ていた。

「……塾から連絡があったわ。今日は休んだって」

 声は少し低めで静かだった。

 でも、その温度のなさが、逆に背筋を冷やした。

「体調、悪かったの?」

「……うん。少し」

「なら、なおさら。ちゃんと連絡を入れないとだめよ。体調の管理も、予定のうちでしょう?」

 予定のうち──その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。

 母は深く息をついてから、言葉を選ぶように言った。

「智央、自分で自己管理ができないなら、もう少し環境から整え直しましょうか。夜のスマホも控えて、週末のスケジュールも見直す。そういうところから」

 それは提案の形をしていたけれど、実質は命令だった。

 言い返せなかった。

 反論したところで、意味がないことを、僕は知っていた。


 部屋に戻って、ドアを閉める。

 机の上には、昨日から開きっぱなしの教科書。

 スマホを取り出して、画面を見たが、あたりまえのように通知はない。

 僕の送ったメッセージは、今も既読にならないまま、ただそこにあった。

 机に向かってみたけれど、ページの隅に日付だけ丁寧に書いたままノートは白紙。

 今日、塾に行かなかった分の課題を終わらせないといけない。

 本当はもう、勉強に取りかかっていなきゃいけない。

 なのに、手は動かなかった。

 焦りはある。

 でも、どうしてもページをめくれなかった。

 スマホは、画面を伏せたままベッドの端に置いてある。

 見ないようにしていた。

 見たところで、通知が来ていないことを確認するだけなのに。

 それでも、頭の中はそのことでいっぱいだった。

 数字の並んだ問題集を見つめていても、

 ふとした瞬間、あのメッセージの画面が思い浮かんでくる。

「次、寄ってもいい?」

 あのたった一行が、今の僕の全部みたいだった。


 ──ピロン。


 短く、乾いた音が部屋に響いた。

 反射的に手が伸びて、画面を開く。


 ──堤 大樹

 1件のメッセージ。


 指先が、わずかに震えているのがわかる。

 画面をタップすると、その中に、あの声のままの言葉が並んでいた。


「ごめん、スマホぶっ壊れてさ! やっと復旧した! てか、マジで寄ってくれるの?」


 文字を見た瞬間、目の奥がじんと熱くなった。

 堤の言葉は、いつも通りだった。

 軽くて、間がなくて、乱雑で。

 でも、今はそのいつも通りが、何よりも嬉しかった。

 感情が体の奥からじんわりと浮き上がってくる。

 たいしたことない文章。

 なのに、それだけで全身があたたかくなるなんて、そんな自分に驚いた。

 たった一つの通知で、ずっと閉じ込められていた息が、やっと吐き出せた気がした。

 指が少しだけ震えたけれど、ためらわずに文字を打つ。


「うん。寄る」


 それだけ送信して、スマホを伏せる。

 さっきより、部屋の空気が少しだけ柔らかく感じた。



 土曜の午後、塾の帰り道。

 まだ外は明るかったけれど、肩にはさっきまで使っていたテキストが入った鞄の重さが残っていた。

 駅前のベンチに座り、スマホを確認する。


「もうすぐ着く! ごめん、ちょっと遅れる!」


 堤からのLINE。

 それを見て、鞄を膝の上に乗せたまま、そわそわと待つ自分に気づく。

 制服のまま、街の中を歩くのはなんとなく気恥ずかしい。

 だけど、私服に着替えてから来る時間はなかったし、今日はこのままでいいや、と半ば開き直っていた。

 ふと前を見ると、横断歩道の向こうから堤が小走りで駆けてきた。

「朝倉! ごめん、待った?」

 息を切らせて、僕の前に立つ。

 Tシャツにパーカー、スポーツブランドのリュックを背負っている。

 部活帰りじゃなく、ちゃんと私服で来たという雰囲気がどこか新鮮だった。

「全然。今来たところ」

 自分でもベタな返事だと思いながら、ついそう答えていた。

「今日さ、俺ひとりで来たから。部活のやつら誘おうと思ったけど、なんか……二人で行く方が、楽しいかなって思って」

 あっけらかんとした言い方だったけど、その言葉の意味を考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

 ゲーセンに入ると、光と音の洪水みたいな空間に一瞬だけ圧倒された。

 普段は通り過ぎるだけの場所。

 中に入ったのは、たぶん人生で二回目。

「なにやる? やっぱ音ゲーかな? これ、めっちゃ楽しいんだよ!」

 堤が先導するように筐体の前へ。

 明るい画面と、はじけるような曲が流れている。

「僕、こういうの……あんまりやったことないけど」

「大丈夫大丈夫、下手でも全然面白いから! ほら、これ押すだけ」

 僕は堤にルールを教わりながら、とりあえずスタートボタンを押してみた。

 画面の指示通りに手を動かすけど、リズム感はまるで自信がない。

 音楽に合わせて叩いてみるけど、ボタンを間違えたり、反応がずれたり散々で、横で堤がリズムよくボタンを叩いているのを、思わず横目で見てしまう。

「はは、朝倉リズム感全然ないじゃん!」

 堤が笑う。

 でも、その笑い方は全然馬鹿にしてなくて、一緒に遊んでること自体が楽しい、そんな感じだった。

「いや、無理だこれ……」

 そう言いながらも、僕は少しだけ、楽しいと思っていた。


 音ゲーが終わるとUFOキャッチャーの方に腕を引かれた。

 並んでガラスケースを覗き込む。中には、丸いフォルムのパンダのマスコット。

「これ、絶対取るから見てろよ!」

 堤は真剣な顔でレバーを動かす。

 1回目は失敗、2回目で少し動く、3回目でギリギリ爪に引っかかって──

「よっしゃ! ……うお、落ちろ、落ちろ!」

 パンダのぬいぐるみが、カタン、と取り出し口に落ちた。

「やったー!」

 堤はそのまま、ぬいぐるみをこっちに差し出す。

「ほら、やるよ。今日の記念!俺もうパンダ家に三匹くらいいるし」

「……え、いいの?」

「いいって。朝倉の人生二度目のゲーセン記念な!」

 思わず、手が震えそうになるのをごまかしながら受け取る。

「ありがとう」

 少しだけ口元が綻んだ。

 ぬいぐるみは小さくて、手触りがよかった。

 そして堤の温度が、ほんのり感じられた。少しだけドキドキする。

 今まで、こんな風に思ったことは一度もなかったのに。

「そういえばさ、この曲、知ってる? 前にYouTubeで流れてたやつ」

 また音ゲーの画面を見ながら、堤が話しかけてきた。

 スマホを耳に当てて、イントロが流れる。

 柔らかい声。

 シンプルな英語の歌詞が重なっていく。


 I wanna walk with you under the neon lights

 I wish I could tell you what’s on my mind

 Every time you smile, my heart skips a beat

 But I can’t say it, so I just keep it


(君とネオンの下を歩きたい本当の気持ちを伝えられたらって思う君が笑うたび、胸が跳ねるでも言えないから、隠してる)


「……あ、なんか良い歌詞だな」

 堤がスマホを見ながらつぶやく。

「……君とネオンの下を歩きたい、か」

 ふいに、僕は歌詞の意味を訳して口に出していた。

「あ? そっか、英語得意だよな、お前」

 堤と視線が合う。

「……いや、たいしたことないけど」

 でも、そのフレーズがなぜか心に残った。


 本当の気持ちを伝えられたら。

 君が笑うたび、胸が跳ねる――

 言えないから、隠してる。


(……なんで、こんなに気になるんだろう)

 歌詞の一つ一つが、妙に胸に引っかかった。

 理由はよく分からない。

 ただ、歌の続きを訳そうとした時、うまく声が出なくなって、顔が熱くなった。

「……歌詞、続きは?」

「え? あ、うん……But tonight, maybe I’ll take a chance……でも今夜、もしかしたら、勇気を出してみる……みたいな?」

 なんでもないふうを装いながら、スマホから視線をそらす。

 なんでだろう。さっきから、妙に胸がざわつく。

 ただの歌詞なのに。

 理由は分からないけど、顔が少し熱い気がした。

「……どした?」

 すぐ隣から、少しだけ声のトーンが下がった堤の声。

 さっきまでの軽さが、ほんのわずか和らいでいる。

「……別に」

「顔、赤いけど、具合悪い?」

 堤が僕の顔を覗き込んできた。

 その距離の近さに、ますます息が詰まる。

 思わず一歩だけ後ずさると、堤が小さく笑った。

「なんか今日、いつもより反応いいじゃん」

 からかうみたいに言うけど、その声はどこか、優しかった。

「……うるさい」

「はいはい、じゃ、次プリクラでもとるか?」

「や、やだよ、撮らないし」

 僕の反応を冗談みたいに軽く流しながら、堤が前を向いて笑った。

 でも、その笑い方が、今までより少しだけ静かだった気がした。


 ゲーセンを出ると、もう日はだいぶ傾いていた。

 駅までの道を並んで歩く。

 人通りは多いけれど、二人でいると不思議と静かに感じた。

 ふたりきりで並んで歩くなんて、中学の帰り道ぶりかもしれない。

 パンダのぬいぐるみは、鞄の奥にしまった。

 でも、重さは不思議と消えていなくて、むしろ心のどこかに残っている気がした。

 沈黙が続いた。

 だけど、気まずくはなかった。

 堤も何か考えているような横顔で、時折、ふっと笑う。

「……なんか、意外と楽しそうだったな、朝倉」

 ふいに堤が言った。

「え?」

「今日。最初、めっちゃカタかったじゃん。でも、途中から普通に笑ってた。朝倉ってこういう顔もするんだなーって思ってさ」

 その言い方がなんとなく照れくさくて、僕はつい顔を伏せた。

「……堤が勝手に楽しませただけだろ」

「かもな。でも、俺も楽しかった。今日、二人で来てよかったなって思ったし」

 堤の声は、いつもの調子より少しだけ静かで、なんだか本当にそう思ってくれている気がした。

 そのとき、ふと自分の心がざわつく。

 楽しかった。

 たしかにそうだ。

 でも、その楽しいの中には、今まで感じたことのない何かが混じっていた。

 このまま歩幅を揃えて、隣を歩くただの友達でいられるなら――それでもいいような気がしたし、でも、本当はどこか、それだけじゃ足りない気もしていた。

 駅の改札の前で足を止めた。

「……今日はありがと」

「いや、こっちこそ。めっちゃ楽しかった!」

 堤が、いつもの調子で手を上げかける。

 そのとき、胸の奥から、ふいに言葉がこぼれた。

「……また行こうよ、今度」

 自分でも、出すつもりじゃなかった声。

 堤が、一瞬驚いた顔をした。

「え?」

「……ゲーセンじゃなくても、映画とか、さ」

 言いながら、顔が熱くなるのが自分でもわかった。

 堤が、すぐにパッと笑う。

「マジで? じゃあ次は映画な! お前が観たいの、なんでも付き合うから!」

「……うん」


 家に帰って、制服を脱ぐと、鞄の奥からパンダのぬいぐるみを取り出した。

 部屋の明かりの下で見ると、思っていたよりも可愛い顔をしている。

 小さな体を両手で包み込んで、ベッドの上にそっと置くきながら僕は今日のことを思い返した。

 最初は恥ずかしかったゲーセンも、気づけばずっと楽しかった。

 歌詞を訳して顔が熱くなったことも、改札で思わず「また行こう」って言ってしまったことも――どれも、夢みたいな時間だった。


 スマホが小さく震えた。


 ──堤 大樹


「今日はありがと! めっちゃ楽しかった。正直、朝倉と二人で出かけるの最初ちょっと緊張してたけど、俺もまた一緒にどっか行きたいなって思ってたから、誘ってくれてマジ嬉しかった!次、映画でもなんでも付き合うから教えて!」


 画面の光が、やけにまぶしかった。

 自分から「また行こう」って言ったことも、それを堤がまっすぐに喜んでくれたことも、全部あたたかい気持ちに変わっていく。

 スマホを握りしめて、短く返信を打つ。


「……うん。今度は映画、観に行こう。連絡する」


 ベッドに転がったパンダのぬいぐるみを、もう一度手に取った。

 今日みたいな日が、また来ればいい。

 そんなことを思いながら、スマホの画面をもう一度眺めた。



 映画の約束は、「英検、終わったら誘うよ」と僕が言ったことで、自然と未来の楽しみになった。

 2次試験までの1週間、毎日みたいにLINEのやりとりが続いた。


「面接練習、どうだった?」

「うちの祖父に見てもらった。英語の発音がまだまだって言われた」

「絶対いけるって! 朝倉なら!」

「自信ない」

「じゃあ俺が応援してやるから、なんかあったら言えよ?」


 問題集をめくりながら、画面に堤の名前が光るたび、誰かが応援してくれるって、それだけで、ほんの少し勇気が出た。

 受験前日の夜にも、堤からLINEが届く。


「明日だろ? がんばれよ! 終わったら絶対映画な!」


 たった一言が、こんなに心強いなんて、今まで知らなかった。

 2次試験が終わった日曜の夕方、堤から「どうだった?」のメッセージが届く。


「なんとか答えたけど、たぶんギリギリ」

「余裕っ! 終わったならご褒美タイムな! 来週の土曜、映画!」

「うん」


 合格発表の日の放課後。

 スマホには朝から何度も堤からLINEが来ていた。


「どうだった? もう発表見た?」

「合格した」

「マジ!? おめでとう! じゃあ今日どっか行こうぜ!」


 予想もしなかった今日の誘い。

 戸惑いながら僕は「いいよ」と返信した。


 放課後、駅前のカフェ。

 ふだんは混んでいる店も、今日はたまたま空いていた。

「ほんとに合格したんだな。すげーよ朝倉」

「……うん。ありがとう」

 堤が無邪気に笑う。

 メニューを見るけど、なんとなく落ち着かない。

 普段なら迷わずブラックを選ぶけど、今日は堤が「奢るよ」って言ってくれるから、前にもらったコーヒーを思い出しながらカウンターの写真を見て、甘いカフェラテを頼んだ。

 注文を受け取ると、カップにはホイップクリームがのっていた。

 指先で、そのカップをそっとなぞる。

「甘いのやっぱり好きだろ?」

「……別に。今日は、なんとなく」

 ひと口飲むと、ほっとしたような甘さが舌に広がる。

 ――特別な日だって、今日は、ちゃんと覚えておこう。

 堤とのテーブル越しの会話は、ずっと近い気がした。

 でも、時計の針が進むのがやけに早く感じる。

 そう思った瞬間、スマホが震えた。

 母からのLINEだ。


「今日は早めに帰ってきてね。夕食の時間、遅れないように」


 なんでもない内容だったはずなのに、急に現実に引き戻された気がした。

「……もう帰らないと」

「そっか。親、厳しいもんな」

「……うん」

 名残惜しさを、隠すようにして席を立つ。

 駅の改札で堤は「じゃあ、また映画な。今度は土曜な?」と笑った。

 どうしよう……

 もっと一緒にいたい。

 もっと話していたい。

 でも、その言葉は喉の奥で絡まったまま出てこなかった。

 戸惑う僕の顔を見た堤がぽんと頭を撫でた。

「な、何?」

「ん、そうして欲しそうだったから」

 あっけらかんとした声。

 でも、その手のあたたかさが、さっきまでの物足りなさを、一瞬だけ満たしてくれた気がした。

 頬が熱くなったのをごまかしながら「……うるさい」とだけ返して改札を抜ける。

 後ろから、「またなー!」という声が追いかけてきたけど、僕は振り返ることはできなかった。


 家に帰って、部屋に入り制服を脱ぐ。

 ベッドの上には、前にもらったパンダのぬいぐるみが転がっていた。

 スマホを充電器に挿しながら、さっき堤に触られた頭のあたりを、思わず手でなぞってみる。

 ……まだ、少しだけあたたかい気がした。

 ベッドに寝転び、パンダを抱えてみる。

 ぬいぐるみの柔らかさと、今日の帰り道の感触が重なって、胸の奥がふわふわと落ち着かない。

 スマホには新しいLINE通知。


「今日はありがとな! 次の映画、何観たい?」


 画面を眺めたまま、しばらく返事が打てなかった。

 もっとうまく話したい。

 もっと隣で笑いたい。

 でも、どうすればいいのか、自分でもまだよくわからない。

 パンダのぬいぐるみを抱えたまま、


「うん、考えとく」


 そう返信した時、母が部屋の扉を軽くノックしながら入ってきた。

 僕は思わずパンダを手放した。

「智央、英検の合否どうだったの?」

「……うん。合格だった」

「そう、よかった。お父さんにも、おじいちゃんにも、あとでちゃんと報告しておいてね。きっとふたりとも喜んでくれるわ」

 母が何気なくベッドの上に目を向け、パンダのぬいぐるみを手に取ろうとした。

「それ、いつまでも置いておくの? もう高校生でしょ?」

 咄嗟に、僕はその手を止めていた。

「……捨てないで」

 思わず強い声が出た。

「え? どうしたの」

「……友達にもらったから。捨てないで」

 母は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、結局パンダには触れず部屋を出ていった。

 胸がどきどきしていた。

 ぬいぐるみをもう一度、両手で抱える。

 普段、僕は母に逆らうことなんて滅多になかった。

 それでも――どうしても手放したくなかった。

 こんなふうに誰かの言葉に反抗したのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「捨てられなくてよかった……」

 パンダはただのぬいぐるみじゃない。

 堤からもらった優しさと思い出がこの中にぎゅっと詰まっているから。



 土曜の映画を前に、堤とLINEのやりとりが続いていた。


「映画、何にする?」


 そう送ってから、スマホの画面をしばらく見つめる。

 自分から映画に行こうなんて言ったのに、正直どんな映画が面白いのかなんて、まったくわからなかった。

 家で「英語の教材」として観ることはあっても、娯楽として映画館に行くなんて、ほとんどなかったからだ。

 ネットでいろいろ検索してみたけど、どれもピンと来ない。

 きっと堤なら、アクションでもアニメでも何でも楽しんでくれるんだろう。そんな気がして、なかなか自分から「これがいい」とは言えなかった。


 ──通知音。堤からだ。


「恋愛のもアリだし、アクションも好き。朝倉が観たいのにしようぜ」


 スマホを持つ手が、少しだけ汗ばむ。

 僕が観たいもの……と聞かれると、どうしてこんなに言葉が出てこないんだろう。


「話題のやつはどう? 正直、映画館あんまり行ったことなくて……」


 メッセージを送りながら、自分の恥ずかしい一面を見せてるようで心臓がバクバクした。そしてスクリーン越しの世界に疎い自分を、ちょっとだけ情けなく思う。

 すぐに返事が来た。


「じゃ、試しに予告編だけ観てみようぜ」


 すぐにYouTubeのリンクが送られてくる。

 僕も検索した時に気になった映画の予告を貼り返すと──


「俺もこれ、気になってた!」


 と返信がすぐにくる。


「ほんとに? じゃあそれにしよう」


 短いやりとりだけど、まるで何か大きな約束を交わしたような気分だった。

 ふと、勇気を出してもう一言送ってみる。


「探偵もの、同級生はみんな観てるけど、実は一回も……」


 画面の向こうで、堤が笑ってるのがわかる気がした。


「まじ? じゃあ俺が初につきあってやるわ!」


 僕はちょっとだけむっとして、すぐに返す。


「変な言い方すんな」


 それでも堤は、さらに畳みかけてくる。


「じゃ、二人で観るのが初ってことで」


 ……しばらく既読の文字だけがついて、沈黙が続いた。

 胸の奥が妙にざわついて、スマホを見つめたまま動けなくなる。


「……てか、こういうの、なんか緊張するな」


 画面に現れたその一言で、こっちの肩の力が抜けた。


「うん、ちょっと」


 たったそれだけ。

 だけど、不思議とお互い笑っているのが伝わる。

 メッセージだけなのに、やりとりの一つ一つが、直接顔を見て話すよりずっと近い。

 スマホを伏せて、深く息を吐く。

 映画の内容よりも、その前後でどんな顔をして堤と会えばいいのか、そればかりを考えていた。

 土曜が来るのが、待ち遠しいなんて──少し前の自分なら、絶対に思わなかったことだ。



 土曜日、塾が終わると、僕は教室を飛び出すようにして駅へ向かった。

 テキストの入ったバッグが肩に食い込む。

 いつもは反対方向の電車なのに、今日は渋谷行きのホームに立っている。

 携帯の時計を何度も見ては、気持ちだけがどんどん焦っていった。

 駅につくと、人混みの中で、呼吸が少し浅くなった。

 普段はあまり来ない場所。

 だけど、背の高い堤の姿はすぐに見つかった。

「ごめん、待たせちゃった」

 改札を抜けて駆け寄ると、堤はいつものように明るく笑った。

 前と同じような私服。

 けれどどこか、今日は少しだけ違って見える。

 僕も今日は私服だった。

 といっても、Tシャツにパーカーを羽織っただけで、着崩した感じはなかったと思う。

 塾の帰りだと気づいたのか、堤が「バッグ重くない?」と気遣ってくれた。

「大丈夫。慣れてるから」

 答えながらも、なんとなく心が浮ついていた。

 映画館までは、思ったよりもすぐだった。

 途中、渋谷の賑やかな通りを歩きながら、他愛もない話をする。部活のこととか、友達のこととか、時々ぼそっと僕にしか分からないような冗談を言ってくる。


 映画館に着くと、チケットを見せて売店に並んだ。

「ポップコーン、一緒でいいよな?」

 堤が当たり前のように聞いてきて、僕も自然と頷いていた。

 並んでドリンクとポップコーンを買い、ふたり並んで薄暗い劇場の席に座る。

 映画は、思っていたよりずっと面白かった。

 物語に引き込まれながらも、ふと横を見ると堤が真剣にスクリーンを見つめている。

 その横顔を盗み見てしまう自分がいた。

 途中、ポップコーンに手を伸ばした瞬間、堤と同じタイミングで、指先がふいに触れ合い、びくりと小さく肩が跳ねて、堤と目が合った。

 堤が不思議そうな顔でこちらを見ている。

 その視線が絡み合った瞬間、頭の中が真っ白になった。

「……あ、ごめん」

 堤は小さく笑って、僕もつられて少しだけ笑った。

 でも、その指先の感触は、ずっと残ったままだった。

 ――映画の内容よりも、こうして隣に堤がいることの方が、僕にはずっと特別に思えた。


 映画館を出て、すぐ近くの喫茶店に入った。

 雑居ビルの半地下にある小さな店は、外の喧騒とはまるで違う空気が流れている。

 カウンターには紅茶の香りが漂い、ざらりとした古い木のテーブルが静かに時間を刻んでいた。

 グラタンとミルクの混ざった甘い紅茶、それだけで十分だった。

 映画の感想は、お互いに「面白かったな」みたいな他愛のない言葉で済ませる。

 でも、こうして並んでいるだけで、それでいいと思える。

 会話が途切れても、気まずくならなくなったのは、きっと堤のおかげだ。


 店を出ても夜の渋谷は、まだ賑やかだった。

 けれど、その雑踏の端で僕らは少しだけ世界から切り離されて歩いている気がした。

 信号を渡るタイミングで、堤がふいに口を開いた。

「なあ、朝倉ってさ……ずっと一人だった?」

 唐突すぎて、思わず歩みが止まる。

 点滅する信号の青に追われて、道の隅へと立ち止まると、堤は真っ直ぐ前だけを見ていた。

「……何、それ」

「いや、なんか。前から思ってたけど、お前って誰にも頼ってないよなって。困ったときとか、ちゃんと誰かに頼んでる?」

 少し考えて、僕は小さく首を振った。

「……迷惑、かけたくないだけ」

「ふーん……でも俺は別に、かけていい相手だけど」

 それは本当に何気ない声だった。

 でも、その一言の端だけが、普段と違って聴こえた。

 夜の街の灯りが、ふいに遠く感じる。

 道端に並ぶ飲み屋の看板や、賑やかな声も、僕らの世界には届いてこないみたいだった。

 胸の奥が、ざわざわと騒ぐ。

 堤の言葉を冗談だと思えなかった。

「……そういうの、簡単に言うなよ」

「別に簡単に言ってないし。……俺、朝倉には頼られたいっていうかさ。もし何かあったら、マジで言って?」

 歩き出した堤の足音が、アスファルトの上に小さく響く。

 僕はその少し後ろを歩きながら、返事ができなかった。

 堤の視線はずっと前を向いたまま。

 それでも、不思議とあたたかさだけが胸に残っていた。

 駅の灯りが、遠くでゆらゆらと滲む。

 渋谷という街の片隅で、僕の普通だった日常が、また少しだけ変わっていく気がした。

 堤がふいにポケットからスマホを取り出して、画面をちらっと見せる。

「あ、さっきの映画の感想、SNSでめっちゃ盛り上がってるな。朝倉、次また行くならどんなのがいい?」

「……うーん、まだわからない」

 そんな他愛のないやりとりをしながら電車に乗り、やがて、地元の駅の改札に着く。

 地元の駅に着くと、夜風がほんの少しだけ冷たく感じた。

 駅前のロータリーには小さなバスが何台か停まっていて、街灯の下に人の影がぽつぽつと伸びていた。

 改札を抜けると、堤はふいに振り返り、ちょっと照れたように手を振った。

「じゃあ、ここで」

「うん、今日はありがと」

 堤が笑う。

「楽しかったな。……また映画、行こうぜ」

「……うん」

 ほんの少しだけ、帰りたくなかった。

 手を振る堤の背中を見送りながら、もっと一緒にいたかったという気持ちが胸の奥で静かに膨らんでいく。

 足元のアスファルトには雨上がりの水たまりがまだ残っていて、駅の灯りが揺れていた。

 スマホが軽く震える。

 堤からのメッセージ。


「今度はポップコーン、二種類買おうな」


 僕は小さく笑って、「うん。また今度」と返す。

 家までの道すがら、ふいにガラスに映る自分の顔が目に入る。その表情は、いつもよりほんの少しだけ明るく見えた。

 夜風が、どこかやさしく感じられた。



 六月、梅雨入り。

 下校時の駅のホームには、雨の湿気がまとわりつくように漂っている。

 改札を抜けると、蒸し暑さで制服のシャツがじっとりと肌に貼りついた。

 最近、堤と僕は時間を調整して会っている。

 僕の塾のある日はさすがに無理だけど、堤の部活がある日は僕は学校の図書室で勉強をした後、時間を合わせている。

 駅の階段下、いつもの場所に傘をさして立っていると、斜め向こうから、見慣れたシルエットが駆けてくるのが見えた。

 堤は小走りで階段を下りてきて、僕の顔を見つけると、手をひらひらと振る。

「悪い、待たせた! 部活、思ったより長引いちゃってさ」

 そう言いながら、傘の雫をぶるっと払いながら堤が笑う。

 制服はやっぱり少し湿っていて、髪が前より少しだけ伸びてきた気がする。

「大丈夫。そんなに待ってない」

「朝倉って、ほんと律儀だよな。絶対時間より早く来てるだろ」

 からかうように笑うその声を、──もっと聞きたい、もっとそばにいたい。

 そんな気持ちが、自分でも気づかないうちに大きくなっている。

 傘の内側で雨音が小さく響いていた。

「最近、週末もなかなか会えないから」

 ポツリとこぼすと、堤は「だな」と素直に頷いた。

「ごめん、こっちも部活の大会近くてさ。土曜も練習で潰れちゃって」

「……うん。知ってる」

 知っていたけど、やっぱりどこか、物足りない。

 画面越しのやりとりだけじゃ足りない、直接会うたび、そんな思いが強くなっている。

「じゃ、帰るか!」

 堤が笑って、僕の手からそっと傘を取った。

「俺が持つよ。朝倉、小さいから濡れそうだし」

 あっけらかんと、当たり前みたいな顔で。

 堤の方が背が高いから、持ち上げた傘の下にすっぽりと二人が収まる。

 僕は、手持ち無沙汰になったまま、鞄だけを持って歩いた。

 肩が触れそうな距離。

 傘を差し出してくれた堤の横顔を見つめる。

 いつも明るく、誰にでも優しい堤の、そのさりげない優しさが、今日の雨の日の景色みたいに、心に深く残り、梅雨の湿度よりも、隣にいる堤の体温のほうが気になった。

 傘越しに見える灰色の空の下、駅から家までの短い道のりが、いつもよりずっと特別な時間に感じられた。

 雨の音が、傘の上でずっと鳴っている。ふたりで歩く距離が、今日はなぜかやけに短く感じた。

 このままずっと、傘の下にいられたらいいのに――そんなことを考えてしまう自分が、少し可笑しかった。




 あれから、しばらくお互いの予定が合わなかった。

 LINEのやりとりは、いつもどおり続いている。

 「部活終わったー」「今日も塾?」

 そんな短い言葉のやりとりを重ねるたびに、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。


 だけど──

 どれだけやりとりが続いても、画面の向こうの堤には会えない。

 本当はもっと、声が聞きたい。

 もっと、隣で笑ってほしい。

 ――そんな風に思う自分に気づいて、スマホを握る指先が、じわっと熱くなった。

 ほんの少しだけ、欲張りになっていく自分がいる。


 週の半ば、塾帰りのホームでスマホを開く。

 画面の向こうの堤に「今週末、部活どう?」とメッセージを送ると、少しして既読がついた。


「ゴメン、今週は大会前で朝から練習。終わったら連絡する!」


 わかっていた答えのはずなのに、画面の文字を見つめていると、胸の奥がすこしだけ沈んだ。


「そっか、頑張って」


 できるだけ明るい言葉を返したけれど、その短い一行が、画面の中でやけに静かに見えた。

 送信したあと、画面をしばらく見つめていた。

 既読がつくのを待ってしまう自分が、少しだけ情けない。

 けれど、その既読の二文字だけで、胸の奥の重さがほんの少しだけ軽くなる気がした。

 今週は会えない。

 そう思いながらスマホをしまおうとした時、堤から「今どこ?」とLINEが届いた。


「今、八幡、乗り換えるとこ」

「おっけ、少し待ってて、そっち向かう!」


 外はまだ雨が降り続いている。

 ベンチで少し待っていると、堤が傘を持ってやってきた。

 髪が少し湿っているのは、さっきまで外にいたからだろう。自販機の灯りがぼんやりと彼の横顔を照らしている。

「今日も塾?」

 近づいてくる足音と一緒に、少しだけ掠れた声。

「うん。月曜と木曜は21時まで、その後、少し自習室使ってきたからこの時間になった」

「ちゃんと休んでんの?」

「……そっちこそ。部活、今終わったの? 大会近いんだろ。無理すんなよ」

 顔を合わせて交わす、他愛ないやりとり。

 だけど、その一つ一つが、今はどこか特別で、胸の奥がじわりと温かくなる。

 ホームの屋根に、雨が細かく打ちつける音が続いている。

 人の少ない時間帯、二人並んで自販機にもたれかかる。

 電車が来るまでの短い時間が、妙にゆっくりと流れる。

「……前よりさ」

 堤が少しだけ、僕の顔を覗き込む。

「朝倉って……素直にLINE返してくれるようになったよな」

 なんてことない調子なのに、不意に心の奥をくすぐられた。

「……それ、お前が変なこと送ってこなくなったからだろ」

 視線を外して、わざと素っ気なく答える。

 でも本当は、会えたことがただ嬉しくて、胸の奥がじわっと熱くなっていた。

「いやいや、俺は元から真面目だし」

 すぐさま返してくるその声が、どこか照れているようで、ふいに笑ってしまいそうになる。

「嘘ばっか」

「マジだって」

 少しだけ意地悪なやりとり。

 けれど、本当は——もっとこうして話していたい。

 言葉にならないまま、その思いがふたりの間に静かに残る。

 電車が入ってくる音が遠くに聞こえた。

 僕らは同時に顔を上げて、並んでホームへ歩き出す。

 雨の匂いと、ぬるい風と、ほんの少し近づいた心の距離。

 その一歩一歩が、今はただ嬉しかった。

 やがて電車がホームに滑り込んできて、ふたり並んで乗り込む。

 終電近くで車内はがらんとしていて、自然と並んで座る。

 堤がスマホを取り出し、僕のほうにそっと画面を向けて、くだらない動画を一緒に眺める。

 何気ないやりとり、肩が少し触れそうな距離――誰もいない窓に映るふたりの影が、ひどく親密に思えた。

 この時間が、ずっと続けばいいのに――。

 そう思いながら、僕は自分でも気づかないくらい小さく息を呑む。

 この距離を、もう手放したくないと、思った。


 四月、春の嵐のように突然目の前に現れた君が、今はこの雨のように、静かに僕の心を濡らしている。

 優しく包み込むように、じわりと広がって——。


 どうしよう。僕は、君のことを好きかもしれない。


1章 春ー智央sideー 完

お読みいただきありがとうございました!

春夏秋冬で書く予定です、次回は夏、また書いたらアップしたいと思います!

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