『桜香る故郷』
『桜香る故郷』
あの日、作業着でのお迎えに恥ずかしさを感じた私に、愛子ちゃんが言った言葉は今でも耳に残っている。
「香ばしい匂いがするね」
ただそれだけの言葉だった。でも、その一言が私の心に刺さった。加工場の社長だった父と、実質的に工場を切り盛りしていた母の娘として、私は当時、その立場に複雑な思いを抱いていた。
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「ねえ、ママ。今日はどうして作業着なの?」
保育園の門の前で、長女の咲良が小さな声で聞いてきた。いつもならカジュアルなセーターか、せめてジーンズにきれいなブラウスを着て迎えに行くのに、その日は急な注文が入って、着替える時間もなかった。桜エビの加工工場で働く私にとって「忙しい」とは、そういうことだった。
「ごめんね、急いでたの」
咲良の隣には、いつも一緒に遊んでいる友達の愛子ちゃんが立っていた。愛子ちゃんのお母さんは、いつもきちんとした恰好で現れる。PTA役員も引き受けている教育熱心な人で、地元ではそこそこ名の知れた会社を経営するご主人を持つ奥様だ。そんな愛子ちゃんの目に、作業着姿の私はどう映っているのだろう。魚の匂いがする、田舎の加工場のおばさん—。そう思うと恥ずかしさがこみ上げてきた。
「香ばしい匂いがするね」
愛子ちゃんが私の方を見て言った。からかっているわけでも、嫌そうな顔をしているわけでもなかった。むしろ、純粋な好奇心と、少しの憧れのようなものさえ感じられた。
「サクラエビの匂いだよ。今日はたくさん干したんだ」
咲良が自慢げに答えた。私の仕事を恥じるどころか、誇りに思ってくれているようだった。
「へえ〜、いいなあ。うちのパパはお家に帰ってくるとき、いつもお酒の匂いがするだけだよ」
愛子ちゃんの言葉に、思わず笑みがこぼれた。
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あれから20年。
朝霞市の高層マンションの窓から見える景色は、故郷の桜浦町とはあまりにも違う。コンクリートとガラスの森。車のクラクションと人々の喧騒。すでにサクラエビ加工所もたたんだ今、あの頃の記憶は遠い夢のようだ。
祖父が創業し、父が継いだ加工場は、私が高校を卒業した後も存続していた。就職先で出会った夫を婿養子として迎え、私たち夫婦で家業を引き継いだのだ。でも、時代の流れには逆らえなかった。乱獲による資源の減少、輸入品との価格競争、そして地域の過疎化。桜浦町全体が活気を失っていく中で、ついに私たちは苦渋の決断を下すことになった。
「もう限界だね」
夫が言った日のことは今でも鮮明に覚えている。正しい決断だった。窓の外では、雨が強く降っていた。天候不良で漁に出られない日が続き、注文はあるのに商品を作れない状況が続いていた。そして、ローンの返済期限が迫っていた。
「うん...」
私たちは加工場をたたみ、朝霞市へ引っ越すことにした。咲良が大学を卒業になる頃だった。夫は知人の紹介で食品会社に就職し、私は縁あって会社勤めを始めた。新しい生活。でも、私の心の片隅には、常に後ろめたさがあった。代々続いた家業を守れなかった。桜浦町の人々の期待に応えられなかった。そして、いつか戻って再建しようと思っていた。だから、最近まで桜浦町へ足を向けることはなかった。
咲良は地元の大学に通い、今は東京の広告代理店で働いている。週末、彼女が遊びに来た。
「ママ、これ見て」
彼女のスマホの画面を見せてくれた。友人のSNSだ。「桜浦町に行ってきた!桜エビ最高〜♪」というコメントと共に、輝く海と富士山、そして桜エビの干物の写真が並んでいる。
「懐かしいね」
胸がキュッと締め付けられる思いがした。
「愛子さんから連絡があったんだ。覚えてる? 保育園の友達」
「もちろん。あの子のお母さんはいつもおしゃれだったわね」
「愛子さん、桜浦町に戻ってきたんだって。名古屋の企業を辞めて、Uターンしたみたい」
「へえ、意外ね」
「桜浦町で小さなゲストハウスを始めるんだって。『サクラエビハウス』っていう名前で」
咲良は続けた。
「それでね、私たちも桜浦町に行かない? 久しぶりにお墓の様子も見てみたいし」
窓の外を見た。五月の陽光が高層ビルに反射して、まぶしい。サクラエビの香ばしい香りが懐かしく思い出された。行くべきか迷った。あの町を出て行ってから、一度も戻っていなかった。顔向けできない気持ちがあった。でも...
「そうね、行ってみましょうか」
夫は出張中だった。今週末は私と咲良だけの旅になる。
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浜木海岸線から見る富士山の大きさは、記憶の中よりもさらに圧倒的だった。何年ぶりだろう、この道を走るのは。車のハンドルを握る咲良の横で、私は窓を開けた。初夏の風が髪をなびかせる。
「ほら、もうすぐ桜浦町だよ」
咲良が前方を指さした。遠くに見える青い海と、小さな町並み。
「愛子さんのゲストハウスは、ちょうど漁港の近くらしいよ」
昔の加工場もそのあたりにあった。心臓が少し早く鼓動する。
桜浦町に入ると、町は思ったほど変わっていなかった。シャッターが閉まった商店も増えたけれど、昔ながらの魚屋や駄菓子屋はまだ健在のようだった。そして、海へと続く道を曲がると、目の前に「サクラエビハウス」の看板が見えてきた。
木造二階建ての民家を改装したような建物。窓枠は桜色に塗られ、入口には桜エビを模したランプが灯っている。玄関先には、桜エビの干物が風にそよいでいた。
「懐かしい光景だね」
私がつぶやくと、玄関のドアが開いた。
「咲良ちゃん! 奈緒子さん!」
愛子が飛び出してきた。彼女は髪を短く切り、シンプルな麻のワンピースを着ていた。学生時代に見た彼女とは印象が違う。以前の都会的な雰囲気は影を潜め、代わりに明るさと温かみが感じられた。
「久しぶり、愛子」
「本当に来てくれるなんて嬉しい! さあ、中へどうぞ」
中に入ると、懐かしい香りが私を包んだ。桜エビの香ばしい香り。でも、それだけじゃない。浜の潮の香り。そして、微かに感じる木の香り。
「この匂い...」
「気づいた? このゲストハウス、実は奈緒子さんのお父さんの古い加工場を改装したんだよ」
驚いて愛子を見た。
「えっ? でも、うちの加工場はもう取り壊されたはずじゃ...」
「いいえ、取り壊される前に私の父が買い取ったの。最初は倉庫として使ってたんだけど、私がUターンすることになって、宿に改装することにしたの」
リビングには大きな窓があり、そこからは桜浦町の港と海が一望できた。昔、父と一緒に桜エビを干していた場所だ。あの頃は、この景色を当たり前のように見ていた。
「ここ、作業場だったでしょ?」
「よく覚えてるわね」
「だって、子どもの頃からここで遊んでたもの。奈緒子さんちの加工場が羨ましくて」
愛子が懐かしそうに笑った。
「私のお父さんは会社勤めで、いつも遅くに帰ってきて。でも奈緒子さんち、桜エビ加工場の社長さんの娘で、婿さんを迎えて家業を継いだじゃない。工場を仕切っていて、いつもたくさんの人を指揮していて...すごくかっこよくて素敵だなって思ってた」
ハッとした。あの頃、私は愛子ちゃんの家庭を羨ましいと思っていた。教育熱心な母親、安定した収入の父親、きれいな服、塾通い...。でも、愛子は逆だったのか。そして、彼女は私たちが加工場をたたんで町を出て行ったことを知っているはずなのに、そのことを話題にする様子はなかった。
「それで、大人になってからずっと考えてたの。いつか桜浦町に戻って、この町の良さを多くの人に知ってもらいたいって」
愛子は続けた。
「会社を辞めるって言ったとき、両親は大反対だったけど...でも、ここに戻ってきて良かった。毎日、浜の潮の香りと桜エビの香ばしい香りに包まれて暮らせるんだもの」
咲良が言った。
「すごいね、愛子さん。私なんて、まだ東京の生活が好きで...」
「それでいいのよ。誰もが同じ道を選ぶ必要はないもの。でも、たまには帰ってきてね。あなたのふるさとはいつでもここにあるから」
愛子の優しい言葉に、長年抱えていた後ろめたさが少し和らいだ気がした。
「愛子...私たち、加工場をたたんで出て行って...町の人たちに顔向けできなくて」
愛子は首を横に振った。
「誰も責めてないよ。みんな時代の流れだって分かってる。奈緒子さん達が、最後まで頑張ってたことは知ってるから」
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翌朝、私たちは愛子と一緒に桜浦町の浜辺を歩いた。早朝の海は静かで、漁を終えた船が帰ってくる姿が見えた。
「今日は桜エビ漁の日なの。この後、加工場に見学に行ってみない? 昔ながらの製法を守っている小さな工場があるのよ」
愛子の提案に、咲良は目を輝かせた。
「見てみたい! 小さい頃のこと、あんまり覚えてないから」
加工場は小さいながらも、活気に満ちていた。熱心に働く地元の人々、そして彼らを支える若い後継者たち。かつて私と夫が従業員たちに指示を出し、工場を仕切っていた日々が思い出された。
作業場に入ると、あの懐かしい香りが私を包み込んだ。桜エビの香ばしい香り。作業着姿の女性たちが、テキパキと桜エビを選別し、茹で、干していく。
「あら、奈緒子ちゃんじゃない?」
年配の女性が声をかけてきた。顔を見ると、かつて父の加工場で一緒に働いていた矢部さんだった。
「矢部さん、お元気でしたか」
「元気よ。あんたもすっかり大人になって...。この子が咲良ちゃんかい? 立派になったねえ」
矢部さんは咲良の頭をなでた。
「今日はちょうど良かったよ。桜エビを干してるところだから。奈緒子さん達も、こうやって丁寧に干すことにこだわってたよね」
矢部さんは私たちを作業場の奥へと案内した。そこでは、赤い桜エビが網の上に広げられ、天日干しされていた。私たちが工場を経営していた頃と変わらない光景。
「匂いを嗅いでごらん。これが本物の桜エビの香りだよ」
咲良は深く息を吸い込んだ。
「なんだか懐かしい気持ちになるね」
「生まれた時からこの匂いを嗅いでたからね。体に染みついてるんだよ」
矢部さんが笑った。
「でも最近は大変でね。漁獲量も減ってるし、若い人もなかなか残ってくれない。それでも、ここの味と香りを守り続けたくてね」
風が吹き、桜エビの香りが一層強くなった。矢部さんが続けた。
「でもね、最近少し希望が見えてきたんだ。愛子ちゃんみたいに、都会から戻ってくる若者が増えてきてね。彼らが桜浦町の良さを発信してくれるおかげで、観光客も増えてきた」
愛子が微笑んだ。
「矢部さんたちがいるから、私も戻ってこられたんです。この香り、この景色を守ってくれてありがとう」
矢部さんは私の方を見て、少し遠慮がちに言った。
「奈緒子ちゃん、みんなはどうしてる?」
「元気にしてますよ。夫は、今は食品会社で働いています」
「そう...あなたたちがいなくなって、町は寂しくなったよ。でも誰も責めてなんかいないからね。あなたたちが精一杯頑張ったことは、みんな知ってるよ」
その言葉を聞いて、私の目に涙が浮かんだ。ずっと恐れていたのは、町の人たちの非難の目だった。でも実際には、皆が私たちの状況を理解してくれていたのだ。
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その日の夕方、私たちは愛子のゲストハウスのテラスで夕食を囲んだ。愛子が用意してくれたのは、もちろん桜エビづくし。かき揚げ、かき氷風の桜エビ冷やし茶漬け、そして生の桜エビのお造り。
「すごい! こんなに色々な食べ方があるんだ」
咲良が目を輝かせた。
「桜浦町の人たちは昔から工夫してきたのよ。桜エビは桜浦町の宝だから」
料理を見ていると、工場で私と母が従業員たちに教えていたレシピが思い出された。結婚して家業を継いだ頃は、未来に希望を持っていた。このまま代々続いてきた家業を、私たち夫婦の代でも守っていけると信じていた。
愛子がワインを注ぎながら言った。
「奈緒子さん、覚えてる? 保育園の頃、私が作業着の匂いの事を言ったこと」
「もちろん。実は少し恥ずかしく思ってたから」
「そうだったんだ」
愛子は少し照れたように笑った。
「私、本当に羨ましかったんだ。奈緒子さんのお父さんは海と向き合って、大地に根を張って生きてる人だった。そして奈緒子さんと旦那さんも、その道を継いだ。うちの父は都会の会社で働いていて、毎日遅くに帰ってきて、疲れた顔をしてた」
夕日が海に沈みかけている。富士山のシルエットが夕焼けに映え、茜色の光が桜エビの干物を照らしていた。
「この景色、この匂い...朝霞市じゃ味わえないものね」
私はつぶやいた。愛子はうなずいた。
「だから私は戻ってきたの。都会の便利さも捨てがたいけど、ここにしかない価値があると思う」
咲良が言った。
「愛子さん、私もまた来てもいい?」
「もちろん! いつでも来てね。ここはあなたのふるさとだから」
ふるさと。その言葉が胸に響いた。
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滞在最終日の朝、私は一人で浜辺を歩いていた。朝日に照らされた富士山が、海面に映り込んでいる。波の音と潮の香り。そして、遠くから漂ってくる桜エビの香ばしい香り。
二十年前、私たちは町を出て行った。ローンの返済が滞り、加工場の経営が立ち行かなくなって。朝霞市での生活は悪くない。仕事も充実しているし、便利で快適だ。でも、ここで感じる風、匂い、人々の温かさは、都会では味わえないものだ。
遠くに愛子の姿が見えた。彼女は浜辺で何かを拾っている。近づいてみると、それは打ち上げられた流木だった。
「朝早いのね」
「ああ、奈緒子さん。おはよう。これ、ゲストハウスの装飾に使おうと思って」
流木は波に揉まれて、滑らかな形になっていた。
「愛子ちゃん、ありがとう。あなたがいなかったら、私はきっとふるさとの良さを忘れていたと思う。町を出ていって、後ろめたくて、ずっと戻れなかった」
愛子は首を振った。
「違うよ。奈緒子さんは家業をたたむしかなかったかもしれないけど、ふるさとの想いはいまのなお続いている。奈緒子さんの心の中にずっとあったんだよ」
彼女の言葉に、目頭が熱くなった。
「うちの人にも会わせたかったな。きっと喜ぶと思うよ」
「次はご主人も一緒に来てください。みんな待ってます」
「もしかしたら...いつか私たちも戻ってくるかもしれない」
「本当?」
「わからない。でも、可能性は捨てたくないの」
愛子は満面の笑みを浮かべた。
「待ってるね。そして咲良ちゃんも。彼女はまだ若いから、自分の道を見つけるのに時間がかかるかもしれないけど、いつかきっと桜浦町の良さを理解してくれると思う」
風が吹き、潮の香りと桜エビの香ばしい香りが混ざり合った。まるで故郷が私を迎え入れてくれているかのようだった。
朝霞市に戻る前に、私は父の墓参りをした。小さな墓地からは、桜浦町の町全体が見渡せた。港、加工場、そして海に浮かぶ漁船。
「お父さん、また来るね。...」
静かに手を合わせた。
帰り道、浜木海岸線から見る富士山が、いつもより大きく感じられた。それは単なる錯覚かもしれないけれど、私には意味があるように思えた。ふるさとが、私たち夫婦を呼んでいる声が聞こえるようだった。
「また来ようね、桜浦町に」
隣で運転する咲良が言った。
「ええ、もちろん。今度はパパも一緒にね」
車窓から見える海が、夕陽に照らされて輝いていた。サクラエビの香ばしい香りが、まだ私の服に染みついているような気がした。あの日、保育園の前で愛子ちゃんが言った言葉。
「香ばしい匂いがするね」
その一言が、二十年の時を超えて、私をふるさとへと繋いでいた。