犠牲者たち(1)
惨劇の記憶。
潮と混ざった血の匂い。
それは噎せ返るような生々しさで今も鼻腔の奥に残っていた。
あの夜見た全てが、彼の精神を蝕んでいく。
男の名はブレーザー。ドイツの軍人である。
自分の指先が細かく震えていることに気付き、彼は拳を握りしめた。
不意に巨きな影がブレーザーの全身を覆う。
見上げた上空。
ドイツ空軍メッサーシュミットMe262A─1a──通称『シュワルベ』の機影が過ぎる。
味方の機体を見て、彼の精神は僅かに落ち着きを取り戻した。
ここは自分たちの場所だ。
あのような惨劇、二度と起こる筈がない。
「あの女……あの女が追って来る。いや、馬鹿な。そんな事あるわけがない」
ドイツ軍西方海軍・海軍部隊所属を示す軍服はボロボロで血に汚れていた。
ホルダーにも銃はない。すべて失ってしまった。
目を血走らせ、額には血管が浮いた幽鬼のような男。
まだ若いが、その貌は既に死相に侵蝕されている。
鋼鉄の少女による船での殺戮──あの事があった翌日、幽霊船のようにブルターニュ沿岸部に流れ着いたドイツ船。唯一の生き残りであるブレーザーは農村の作物を盗みながら命を永らえ、逃げ続けていた。
人に出くわさなかったのは運が良かったと言えよう。
手負いの敵国兵士。
現地人に見付かれば嬲り殺されるに違いない。
だからと言ってドイツ軍服を着ていなければ味方に合流する際、問答無用で射殺されかねないのでそれを捨てる訳にはいかなかった。
いくらこの国を味方が占領し、各所に基地と砲台を設けているとはいえ、闇雲に大地を進んで、それで仲間に遭遇出来るかといえばその可能性は限りなく低い。
初冬のフランス──空の透明な青にすら怯える始末。
もうすぐ夜が来る。
夜が来れば月が出る。
今宵は丁度三日月の筈だ。
細い銀の光──。
それは今の彼にとって悪夢のような色彩だった。
震える指。握り締めた拳も激しく痙攣し始めた。
ブレーザーの全身を恐怖が支配する。
十月二十四日──あの夜、彼はフランス沖で商船襲撃の任に就いていた。
民間商船に偽装した英仏の貿易船、或いは密航船に近付いて襲撃を行うのは、ドイツ兵にとってはいわば格好の小遣い稼ぎとなっていた。
大砲一発で走行不能にし、あとは乗り移って虐殺と略奪を繰り広げるという海賊行為である。
もちろん、ドイツ兵とて私利私欲だけで動いているわけではない。
敵勢力の海を支配下に置くことは難しい──だが、支配下に置き続けることはもっと難しいのだ。
頻繁に軍船を出して警戒していなくては、土地勘を持つフランス軍ががじわじわと海域を回復しようとしてくる。
それが誇り高いドイツ海軍軍人の仕事かと問われれば、確かに疑問の湧く任務ではある。
だが、ブレーザー自身も、彼の直属の上司であるK.アッド・オンもそんな声は気にも留めなかった。
上層部の命令に素直に従うことの何が悪い?
時にはこんな役得だってあるのだから。
初めは何故こんな所に女の子がいるのか、気にも留めなかった。
大方船倉に隠れていた密航者が、甲板の虐殺騒ぎを聞きつけて様子を見に上がって来たのだろう。
商船にはよくあることだったからだ。
ドイツ兵達は顔を見合わせ、下卑た笑い声をあげたものだ。
甲板に佇む女は、少女と呼んでも差し支えない年代であると見受けられた。
夜の空に靡く銀色の長い髪が、絵画のように幻想的な色彩を描き出している。
幼さの残る顔立ちはブレーザーの好みであったし、容貌に似合わぬ成熟した肢体、とりわけ豊かな胸に兵士達の視線は釘付けになっていた。
海の上の作戦が続いていたため女に飢えていた彼等は、少女の無防備な双丘を強引にもみしだく幻想を描き頭に血が昇るのを感じたものだ。
キレた上官は殺戮を求めてナイフを振り上げ船中を散策しているし、この船の乗組員は既に全員血祭りに上げている。
彼等の楽しみを邪魔するものは何も存在しない。
「お譲ちゃん、お名前は?」
猫撫で声で誰かが言った。
少女は大きな瞳を機械的にそちらに向ける。
「なに?」
ドイツ語を解さないのだろう。
フランス語での疑問の単語を少女の唇は紡いだ。
しかし男たちには言葉の意味などどうでもいい。
少々舌足らずな高い声は、久々に聞く女の音色だった。
船の舳先に座る少女に手招きする。
「こっちへおいで」
言葉というより、その動きにつられたように鋼鉄の少女はユラリ……身を傾けた。
次の瞬間。
刃を髣髴とさせる銀の軌跡が、一瞬の時間差をおいて随所で煌めいた。
銀と共に、鮮血の赤が海上に撒き散らされる。
常人離れした速さで、少女の拳が同僚達の左胸を穿ったのだ。
目の前で起こったその事態に、ブレーザーの脳は数瞬間思考を停止する。
何かの拳法の構えだろうか。
正確な突きが、有り得ないことに大の男の胸筋を破り、心臓そのものを貫いたのだ。
そいつが倒れるより早くに強引に腕を抜き、甲板を蹴って跳躍し次の獲物に襲いかかる。
倒れ込む同僚の下敷きになり、ブレーザーは甲板の血溜まりに突っ伏した。
命を守るための戦略ではなかった。
恐怖に縛られピクリとも動けない。殺戮の中、ただ息を殺すのみ。
彼はその夜の惨劇を体感した唯一の生存者となったのだった。
《鋼鉄の暗殺者》という名が脳裏を過ぎったのは、甲板に立っていた最後のドイツ兵が倒れた時だ。
ドイツ偽装船ばかりを狙う殺戮者の噂は、ブレーザーも聞いたことがある。
鋼鉄の腕でドイツ兵を皆殺しにする悪魔──それは船乗特有のありきたりな怪談話ではなかったのか。
いや、待て。
ブレーザーは思う。《鋼鉄の暗殺者》の話が下らない怪談として処理されているのは、誰もその姿を見た者がいないからだ。
つまり、遭遇した人間は確実に死んでいるからに他ならない。
僅か十数秒の間に十人のドイツ兵を虐殺した少女。
それが《鋼鉄の暗殺者》でなくて何だというのだ。
最後の犠牲者はKだった。
人望がなく、横暴でキレやすく、恐ろしい上官。
だが誰よりも腕の立つはナイフ使いは見たことがない。
それが一瞬で殺された。
少女の細腕に胸を貫かれて、だ。
瞼を閉じれば、あのときの「赤」が蘇る。
少女が腕を抜いた瞬間のことだ。
上官の傷口からドクン……ドクン……潰れた心臓の鼓動に合わせるかのように断続的に血液が噴き出したのは。
大量の血は甲板に倒れ伏したブレーザーの顔面を叩き、彼は恐怖と衝撃にようやく意識を手放せたのだった。
気付けばフランス、ブルターニュの海岸。
中世より建つ修道院モン・サン=ミシェルの姿が意外と近くに見えて、ブレーザーは現在地を悟ることができたのだ。
操縦する者のいない軍船だが、海流の影響で運良くこの場所へ流れ着いたのだろう。
無残な死体を乗せた船は今尚、湾に打ち捨てられたままであろうか。
あるいは、波にさらわれて幽霊船のように近海を漂っているかもしれない。
生きのびた奇跡を神に感謝することも忘れ、幽鬼のような面持ちでブレーザーは立ち上がった。
歩き続けて三日。
ようやく正常な思考が出来るようになったのはその頃だ。
早く味方に合流したい。
だが、所属部隊を失ったことを一体どうやって説明すればいいのだ。
一人の少女に殴られて皆死にました、などと真実を報告して一体誰が信じると?
いずれにしろ自分の軍人生命はお終いだ。
ならば、ここからどこかへ逃げるか──?
「いや、しかし……」
躊躇を繰り返した後、彼はある事に思い至った。
ドイツ国防軍第277歩兵部隊。
今年の夏に結成され、今は一旦解散された部隊である。
その主力が確か今もまだこの近くに駐屯している筈だ。
指揮官の名は忘れた。
しかしその副官の名は良く知っている。
H.アッド・オン──《狂気の刃》の異名を持つ有名な殺人狂は、彼の上司K.アッド・オンの双子の兄であった。
そこに唯一の希望を見出したかのように、ブレーザーは一点を見詰め歩き出した。
彼方にはモン・サン=ミシェルの壮麗な影が、今しも夕闇の中に消えようとしている。
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