モン・サン=ミシェルへ(3)
女医は、木の床を踏み鳴らして身もだえている。
「一丁前に女かよ。余裕ぶっこいてんじゃねぇぞ、ユダヤ人が」
その横っ面を張り倒してやりたくなる衝動をラドムはぐっと堪えた。
口は悪いし、気遣いも配慮も皆無だが、しかし彼女に悪気がないのは分かったから。
笑いこける女医に苦い視線を送ってから、ラドムは自身の迂闊な一言を後悔した。
痛いのは傷でも腰でもない。
痛いのはこの胸だ。
アミに見捨てられたという思いが、どんなナイフより鋭くこの心を抉る。
もちろん、それは頭のアレな彼女なりに考えての行動だったはずだ。
ラドムを巻き込みたくない、そう言っていたのは紛れもなく彼女の本心だったろう。
しかし──痛い。
アミに捨てられたのは事実なのだ。
ガリル・ザウァーが全てという彼女にとって、遂に自分は厄介なお荷物になってしまったのだろう。
怪我をした自分を病院に連れて来て、そしてアミはどこへ行ったのだろうか。
片腕で、たった一人で──。
「やっぱり、こうしちゃいられない」
起きあがりかけた身体は、再び押さえ込まれる。
「女か何か知らねぇけど、傷だらけのユダヤ人をたった一人で放り出すわけにゃいかねぇよ。この辺りには、ドイツ軍も駐屯してる。せっかく助けたヤツを殺させたくはないからな」
存在を否定され、問答無用で命を奪われていく民族《ユダヤ人》に対して、それは現実的な言葉だった。
「……そのユダヤ人を助けたなんてばれたら、自分だって危ないんじゃないか?」
尚も抵抗を試みる少年に、女は露骨に顔をしかめてみせた。
「いいんだよ。アタシは世間が何と言っても戦争反対って立場を貫くんだからさ」
「何で?」
「そりゃ商売あがったり……!」
コホンと咳払いして女医は殊更真面目な表情を作ってみせる。
「反戦を語るのに言葉が必要か? その悲惨さは誰もが知ってることだろ」
「う、うん、たしかにそうかもだよね……」
そりゃ商売上がったりだからに決まってんだろ──その現実的且つ切実な、本音の叫びは聞かなかったふりをする。
「それに実際今は危ないぞ。二、三日前からドイツ船が次々に沈められてってんだ。ヤバイことが起こってるに決まってる」
「ドイツ船が……?」
偽装船のことだろうか?
背筋に薄ら寒いものが走るのを感じて、ラドムは眼を細めた。
「それは……《鋼鉄の暗殺者》の仕業か?」
個人名を出さないようにと、用心しながらのラドムの問いかけだったがマディーには伝わらなかったようだ。
赤毛の女医は聞いたこともない妙な異名より、無理矢理ベッドから起き上がろうとするラドムを止めるのに必死になっていたから。
「安静だって言ってんだろ! 動けねぇように、足の骨を折るぞ」
手負いのユダヤ人少年が、こんな所をフラフラ出て行きでもしてみろ。
数日後に屍になるのは目に見えている。
だから必死に止めてくれるのは、マディーの正義感なのだろう。
どれだけ感謝しても、足りない。確かにそう思う。しかし……。
ユダヤもドイツもフランスも関係ない、とラドムは思った。
「僕は、ひとりの女の子を助けたいだけなんだ」
そうして、ラドムはこの海岸沿いの病院を後にする決意を固めた。
しかし出て行くとなるとこれが意外と大変で。
傷口が塞がるまでの数日の安静を余儀なくされたばかりでなく、そもそもどこへ向かえば良いかも分からずに頭を抱える始末。
モン・サン=ミシェルへの行き道を請う際も、女医の杜撰さに難儀したものだ。
「あの、僕が着てた服は?」
「ああ、あの破れた汚いやつか」
あっけらかんと女医は言い捨てる。
「捨てたぞ」
「えっ、そんなの繕って着るのに……」
低く呻いたラドムをマディーは平然と見下ろす。
「アタシは繕いものとかしない主義なんだ」
「いやいや、僕が繕うんだけど……」
食い下がろうとするラドムが鬱陶しかったのか、女医は大袈裟に顔をしかめてみせた。
「今アンタが着てるそれ、構わねぇから持ってけ。売ってやるよ」
「えぇっ、コレ、売り物なんだ……」
ボロパジャマとしか見えないそれを見下ろして、ラドムはもう何も言うまいと心に決めた。
短い付き合いながら女のガサツな性格はつかめていたし、彼女の善意だって分かっていた。




