あなたの為に生きて、死ぬ(3)
「ちょっ、ちょっと待て。もぅ……って地元のガキんちょが知るわけないか」
全速力で逃げ出した少年の背を見送り、H.アッド・オンは一人ごちた。
もっとも自分の外観が他人に恐怖を与えるという自覚はあるらしく、逃げた少年を訝しむ様子はない。
「こんなトコロに《鋼鉄の暗殺者》がいるワケもないか」
弟の仇を討つために強引に隊を出てきたものの手持ち無沙汰と言うか、打つ手なしと言うか……。
次の行動を決めかねているところだ。
ここはモン・サン=ミシェルの北西にあたる場所だ。
地名で言うとグランヴィルの近郊といったところか。
《鋼鉄の暗殺者》が、一旦爆撃を受けたモン・サン=ミシェルに留まるはずがない。
その夜のうちに、おそらく目立たぬよう漁師の小船を使って島を脱出するはず。
そう踏んで海流を調べて、船が行き着く先として一番可能性の高いこの場所へ来たのである。
それなりに知恵を働かせてはきたものの、やはり行き当たりばったりにあの女を捜すというのは無謀だったか。
近くに町があるわけでもなし。
幹線から外れたこの地は人っ子ひとりいやしない。
そう考えると、先程の少年をあっさり見送ったのはまずかったか。
家か集落に案内させて、少しでも周囲の情報を集めるべきだった。
「《鋼鉄の暗殺者》──どこまでも追って、絶対殺す」
腰に下げた軍刀、懐に忍ばせた小振りのナイフ。
先ほど車の中で砥いだ刃の感触を思い出して、Hの頬に愉悦の笑みが張りつく。
異変に気付いたのはその時だ。
「何、このニオイ……?」
張りついた笑みが、今度は凍りつくのにそう時間はかからなかった。
鼻の粘膜を刺激する強い油の臭い。
息が詰まる感覚に、血流が異様な速度で体内を駆け巡る。こめかみがズキズキ痛んだ。
──しまった……!
痺れた頭がようやく危険を認識する。
毒草だ。
この周囲に毒性の蒸気を発散する草が生息しているに違いない。
息をつめて、足早にその場を立ち去りかけたH。
その長身に、小柄な影がぶつかってきた。
「何ッ?」
認識する暇もない。
パシャッ。
顔に掛けられた水を、彼は手で拭った。咄嗟に瞑った双眸を開く。
「何すんだよ、クソ餓鬼ッ!」
目の前にいたのは先程の少年。
その手には拾ったガラス瓶らしき物が握られている。
瓶の中にはくすんだ緑の葉と、液体の薄茶色が見えた。
これは、毒草の抽出液か。
「このッ……!」
反射的な動きで軍刀を抜き放つ。
少年の頭目掛けて振り下ろすも、刃先は空しく地面を穿ったにすぎない。
手の平に滲んだ汗に柄が滑ったのか。
いや、そうではない。
──足が動かな……。
グラリと傾く上半身を支えきれず、Hはその場に膝をついた。
見上げた先には堅く唇を結んだ少年。
一言も喋らない。
「なにをし……」
舌が回らない。
Hは地面に倒れ伏す。
全身の毛穴から、一気に多量の汗が噴き出すのが分かった。
手脚が冷たくなり、感覚が失せる。
額から血の気がなくなり、唇が痙攣を始めた。
下顎の靭帯が緩み、涎が地面を濡らす。
理解不能。自分の身に何が起きているのか?
多くの命を無慈悲に奪ってきた彼が恐怖に縛られた。
視野が徐々に狭くなり、突然の死を意識する。
少年はいつの間にか姿を消していた。
「クソッ、アイツ……!」
余計な情報を一片も漏らすまいとするかのように、無言を貫きやがった。
──幼いけど、暗殺者の資質十分じゃないかよッ。
小僧の面を思い出す。
瞬間、精神的衝撃か、或いは毒のせいか彼の双眸は目玉が零れそうに見開かれた。
「あのガキ……!」
思い出した。アイツ、あの時の……。
モン・サン=ミシェルからの帰り道、《鋼鉄の暗殺者》と一緒に居た子供だ!
何故さっき気付かなかったのかと、Hは己の鈍さを呪った。
《鋼鉄の暗殺者》の仲間であれば毒の知識や、この鮮やかな手腕のほども頷けよう。
「クソッ、クソッ……!」
声は次第に弱々しく、震えを帯びる。
Hの視界は闇に落ち、全身の痙攣もやがて止まる。
再び起きあがることができたのは、尋常ならざる彼の執念、そして燃え盛る怒り故だろう。
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