あなたの為に生きて、死ぬ(1)
これは慣れた音だった。
絶え間なく響く銃声。乾いた連続音は耳鳴りか?
──いや、違う。
波の音だと気付いて、少年の意識は浮上を始める。
「…………ドム、……ろ、ラドム」
始めに柔らかな弾力を頬に覚えて、少年はぼんやりと目覚めた。
体中に熱を感じる。
「……しろ、ラドム。しっかり……」
──何?
「……しっかりしろ、ラドム。起きろ、ラドム」
耳元で際限なく同じ台詞を繰り返す舌足らずな声は、よく知ったものであった。
「…………アミ?」
頬が押し潰している柔らかな感触。
身体のだるさと内側からの熱っぽさ以外の熱が顔を覆い、ラドムはがばと飛び起きた。
自分のホッペが枕にしているこのぷにゅぷにゅ感は何だ?
アミの胸? ──まさか!
「そんなサプライズは御免だ!」
「お、おぉ、ラドム。今の不思議発言は寝言か?」
すぐそばに突っ立っていた銀髪の少女が、大きな瞳を見開いて自分を見下ろしていることに気付く。
「い、いや、アミ? そんな所に……? じゃあこのぷにぷには何……?」
何となく薄ら寒い感覚を覚えて、ラドムは今まで自分の頭があった位置を見下ろす。
そして彼は再びの意識喪失を体感しかけた。
「………何これ?」
そこには、白目を剥いた大きな魚がぐったり横たわっていたのだ。
プニプニした感触は、そいつの腹であったらしい。
「ぐっ……!」
内陸部に育った彼は魚を食べつけない。
この生臭さ。テカったウロコ……。
見ただけでこみ上げてくるものがある。
口元を抑え、顔色は蒼白だ。
「まさか枕にしてたとは……」
魚の腹をアミの胸と勘違いしたなんて、自分でもどうかと思う。
両手で頭を抱えてうずくまった彼を見て、アミが怪訝そうに首をかしげた。
「どうかしたか?」
「……いや、ちょっと色気づいた自分が許せないんだよ」
気を失った彼にその枕をあてがった犯人は、ケロリとした顔で魚の尾をつかんだ。
「おいしそうだな」
……そ、そうか?
最早、突っこむ気も失せてラドムは現状の把握の方にスイッチを切り替える。
「僕は、どのくらい意識を失くしていたのかな」
海に落ち、凄まじい速さの海流に呑み込まれ、間近に迫る死に恐怖した記憶が蘇る。
再び目覚めることが出来たのは運が良かったに過ぎない。
海流に踊らされながらも、アミと同じ所に流れ着いたのも然り。
「バラバラになってもわたしが探してやる。心配するな、ラドム」
少年の小さな呟きを聞き咎めたらしいアミが人の良い笑顔を見せる。
「そんなに寝てないと思うぞ。半日くらいか?」
「そ、そうかな?」
顔を赤らめて、彼は周囲を見回した。
時間に関してはアミの感覚を頼るしかあるまい。
彼自身、波にもまれて全身に力が入らないという状態である。
疲労があまり回復していないことを考えれば、半日よりももっと短い時間だったかもしれない。
曇っていて辺りの視界も悪い。
晴れてさえいれば相当遠くからでもモン・サン=ミシェルの威容は見えるはずだが、今はその目標も確認できやしない。
「どうしようか……」
打たれ強いはずのラドムが言葉を失ったのは、現在地の特定が困難という理由からではなかった。
彼らの足元は狭い岩場。
そして目の前に聳えるのは切り立った岩。十メートル程あろうか。ほとんど崖といっても良い。
言うまでもなく、背後は広大な海。
陸地に戻るには、この崖を登らなければなるまい。
「また凄い所に打ちあげられたな」
海には漁船の影すらない。
のんきに魚を拾っているアミの神経が正直、信じられない。
この辺りは、後に第二次世界大戦《W.W.Ⅱ》最大の激戦地であるノルマンディ上陸作戦が敢行されたように、比較的面積のある浜が広がっている。
このように切り立った崖は滅多にない。
ならばこんな地形は限られてくる筈だ。
「アミ、ここはどこ辺りだと思う?」
「そう言われても分からない」
「大体でいいんだ。地元だろ、アミ」
「そう言われても分からない」
二回繰り返した。
「アミ、ちょっとは考えてよ……この脳筋!」
「えっ、なにキン? それは美味いやつか?」
「……もういいよ」
ここでやり合っても仕方がない。
「登るしかないか……でも」
満潮になればこの辺りも水没する可能性がある。
それに、上に登ればモン・サン=ミシェルも見えるかもしれない。
でも──。
ちらり。
少女の右腕に視線を走らせる。
正確には、右肩から先がない彼女の姿に。
「ユージン・ストナーのところで義手を換えそこなった。しょうがない。外れたのは、義手が寿命だったからだ」
残る左手で何故か大切そうに抱えていた魚を、彼女は実に名残惜しそうに地面に置いた。
両手があれば持って行く気だったようだ。
アミって本気でバカだろ──そう言いたいのをぐっと堪える。
片手を失った少女が、さしてショックすら受けていない様子で崖壁面の岩のとっかかりを左手でつかんだからだ。
どこか麻痺したその感覚に、ラドムは言葉を詰まらせる。
だが、どうしてやることもできない。
結局、彼女の動きを真似るように少年も無言で岩肌にしがみ付いた。
「大丈夫か?」
左手と足だけでするすると器用に崖を登りながら、アミがこちらを見下ろす。
「両手があれば、キミを抱えて登ってあげられるのにな」
何となくすまなさそうな調子に、ラドムは複雑な表情でうなずきを返した。
──いつもの彼女だ。
少々間が抜けているものの、穏やかで思いやりの深い、いつものアミ──いや、昨日初めて言葉を交わしたラドムにとっては自分が知っている彼女、というだけにすぎないのか。
だからこそ、ひどく戸惑う。
今のアミは、ロムと対峙していた彼女と同一人物とは思えない。
仲間の心臓を潰そうとしていた人間とは──。
「もうちょっとだぞ、ラドム」
崖の最後は上からアミが引っ張りあげてくれたので、何とか登りきることが出来た。
「ふぅ、お腹すいた……」
こんな状況でもどこまでものんきに、彼女はぺたんこの腹に手を当てている。
「アミも普通の食べ物、食べるんだ?」
「んん?」
「……てっきり機械油でも飲むのかと思ったから」
「なんで?」
きょとんとした間抜け面をみせる。
彼女に皮肉は通じない。
憑き物が落ちたかのように屈託ない笑顔を向けてくるアミに「ごめん」と口の中で呟いてから、ラドムは誤魔化すように周囲に視線を転じた。
崖の上は草原、それから小高い丘がある。
広がった視界を海に向けるも、曇り空の彼方に希望のシルエットは見えはしなかった。
それどころか周囲には人家、人の姿すらない。
「やっぱりあの魚、持ってくればよかったな」
未練がましく崖の下を覗きこむ少女の襟首をつかんで止める。
下手をすれば取りに下りて行きかねない。
「アミ、意地汚いこと言ってる場合じゃないだろ。まず……あっ」
グゥ。
少年の腹が派手な音を立てる。
弾かれたようにアミが笑い出し、ラドムは頬を赤らめた。
「僕もお腹、空いてる……」
まず、船で腹を切られ相当量失血した。
その傷もさることながら、よく考えたら目覚めてから一度も食事を取っていないことに気付く。
水しか飲んでいない。
五日間昏睡状態だったらしいし、その前もワルシャワからの逃亡で体力はすり減っていた。船での密航中だって満足に食べられたわけではない。
あげく海に飛び込み、急な海流に呑まれた。
よく立ち上がれるものだと、自分でも感心する始末だ。
しかし一旦意識するともう駄目だった。
右に左に、フラフラと身体が傾ぎ始める。
「大丈夫か? ラドムはここにいろ。だれか人を……だれもいなかったら食べ物をさがしてくる」
「ちょ、ちょっと待って」
当てもあるまい。
草原に向かって走り出したアミを、ラドムは慌てて止めた。
それは小さな自負と意地だったろうか。
──彼女に一方的に守られたくなんか、ない。
「僕も行く」
「いいから。ラドムはここで休んでいろ」
「いや、僕も行く!」
どうあっても己の意志を貫くつもりで、彼はヨロヨロ歩き出した。
「ラドム、無理す……」
無理するな、という言葉を少年は強引に遮る。
「二手に分かれよう。その方が捜索範囲が広がる。またこの場所で合流しよう」
「いいけど、ラドム……」
明かに気遣いの視線を、少年は振り切って背を向けた。
絶対に、守られたくなんか、ない。
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