第五話 たまごサンド
五月半ばの教室。
世界史担当の教師が黒板にチョークを走らせている。
旧時代的な光景だが、これはこの学校の理事長の趣味らしい。一応、黒板やチョークは旧時代そのままではなく、黒板消しを使っても黒板は汚れを少しも残さず、チョークは折れることはない。定期的に注入される魔力がそれを可能にしている。
教師が教科書片手にこちらを振り向いて、
「――えー、こうして、インフィ教は世界的な宗教になりました」
と授業内容をまとめた。
インフィ教……ね。
そういえば、ルビーはインフィ教なのだろうか? と私は板書をノートに写しながら考える。
私が住む東ヒノデ島という国でもインフィ教は国民に知られているほうの宗教だが、国民全員がインフィ教というわけではない。それどころか、宗教そのものに関心がない国民も多い。
それに較べて、ルビーの出身国であるジュエランドは戦後もしばらくはインフィ教が国教だったはずだ。しかしその後様々な宗教があることから、インフィ教のみを支援する国家の動きが一部から反感を買い、インフィ教は国教ではなくなった。
しかし今でも、インフィ教の信者はジュエランドの国民の7〜8割を占めている……。
いや、別に。ルビーがインフィ教徒でもなんの問題もないのだけれど。
心に僅かな濁りを感じる。
私はヘアピンをつけている左こめかみをさすり、深呼吸した。そして、それまでの考えを振り切った。
昼休み。
いつも通り、購買のサンドイッチを買いに行く。いつもなら瑪羽も着いてくるのだけれど、今日はお手洗いに行くから待ってて、と言われた。
じゃあお手洗いの場所に近い廊下で待つか。
お財布を片手に……と教室を出た時、見覚えのある背中が二人ぶん視界に入った。
花房朋子と骸小路ゆらだ。せっかくだし、彼女たちに声をかけていこう。
「ねえ、朋子とゆらもお昼?」
私は二人に話しかけた。立ち止まり、先に言葉を返したのは朋子だった。
「わ、いろはちゃんだ! うん、私達、今からお昼だよ」
そう言って、朋子は茶色の瞳を細めてにっこりと笑った。次に歩きスマホをしていたゆらもこちらを見て、
「いろちゃんじゃないデスか」
と言った。ちなみにいろちゃんとは私のことだ。いろはの「いろ」を取っていろちゃんらしい。
「朋子とゆらは今日、購買で何買うか決めてる?」
私が聞くと、
「愚問デスね」とゆらがなぜかドヤ顔で言った。
「あはは、ゆらちゃんは最近、クリームパンにハマってるんだ」
朋子が解説してくれる。なるほど、以前からゆらは菓子パンが好きだったみたいだけれど、今はクリームパンに目がないのか。
「因みにいろはちゃんは、今もサンドイッチ好きかな?」
朋子が尋ねてきたので「もちろん」と答える。そうなんだね、と朋子は微笑んだ。
「クラスが離れても、そこは変わらなかったね、私達」
朋子は嬉しそうに言う。私もなんだか嬉しくなった。
そう、私と二人はクラスが別なのだ。
私や瑪羽は二年A組で、朋子とゆらは二年B組。
とはいえ隣のクラスなので、体育などで授業が合同になって一緒にいられる時もあるけれど。
「私もね、変わらずだし巻き玉子好きだからいつもお弁当に入れてるんだ」
朋子が言うと、ゆらが「そうなんデスよね」と言い、
「トモモはだし巻き玉子とサラダだけは絶対、弁当に入れてマス」
トモモと言うのは朋子のニックネームだ。ゆらしか使っていないけれど。
ゆらは続けて、
「しかも聞いて下さいよ、いろちゃん。トモモったら、頼んでもいないのにゆらチャンのぶんまでサラダ作ってくるんデスよ?」
「ついにそうなったんだ……」と私。
すると朋子は少しむくれた顔で、
「だって、クリームパンだけじゃ栄養が偏っちゃう。それにサラダは残しても私が食べるし、少しでいいから食べてほしいとしか言ってないよ」
「野菜なんて滅びればいいのデス」
「まーたそんなこと言って――」
二人のやり取りを見ていると、なんだか心が安らぐ。そうして午前の授業での疲れを癒されていた。
「……何してんの?」
背後から突然低い声をかけられる。
青井瑪羽。
彼女がお手洗いから戻ってきたのだ。
「えっと……瑪羽ちゃん? 久しぶり、だね」
瑪羽の不機嫌さを察知したのか、朋子が瑪羽に声をかけた。ゆらは目を泳がせながら高速でスマホの画面をスライドさせている。
そういえば、二年生になってから二人が瑪羽と顔を合わせるのは初めてかもしれない。
「……どうも」と瑪羽は不機嫌そうに挨拶した。
「あ! 分かったデス!」
ゆらはスマホをしまって言った。
「めう子、髪切りましたネ!? ゆらチャンにはお見通しなのデス!」
「……はあ」
なんだそんなことか。的な吐息を漏らした瑪羽は、
「まあ、切ったけど。ていうか月一で切ってるけど」
と答えた。私はそれに対して、
「瑪羽ってその短髪、よく維持できるよね」と言った。
それを聞いた瑪羽はこちらをじろっと睨んで、
「あんただってショートじゃん。てか」と言った後、
「でも瑪羽の方がかわいい」という私の発言と、
「お手洗いに行ってる間に――」という瑪羽の発言が被った。
私はしまった、と思い、
「ごめん、話すタイミングが重なってしまった。瑪羽は続きを話していい」
瑪羽に続きを促した。しかし彼女は話し始めなかった。
「……瑪羽?」と声をかける。
「いろはのバーカ!!」
突然、瑪羽は大声でそう叫んだ。
廊下にいた誰もが驚き、瑪羽の方を見た。そして、瑪羽は何故か私の背後に回り込み、
「ほんっといろはって馬鹿なんだから! 馬鹿だから背中支えてあげなきゃ歩けないわよね!」
背中をぐいぐい押してきた。
「な、何? 急に」
私が後ろを向こうとすると、
「いーから、こっち見るなっ!! 馬鹿」
瑪羽にとてつもなく怒られるため、仕方なくそのまま購買に行くことになった。恥ずかしいんだけど……。
「くふふふ。ゆらチャン的にも、今のめう子の顔はゲージュツ点高いからそのまんまにしておきたいってことで、いろちゃんには見ないでほしいデスね」
「いろはちゃんには悪いけど……ちょっと分かるかも」
ゆらは無駄に楽しそうだし、朋子まで苦笑を浮かべている。なぜ……。
その不恰好のまま、よろよろと購買部へと歩を進めた。
目的地に着く頃には、瑪羽も私から離れ、四人で話しながら歩いていた。
「はっ! クリームパンがあったのデス!」
購買部に入った瞬間、ゆらが早足で人の群れの中へ行ってしまった。
「ゆらちゃんの目には、クリームパンが見えてたんだね。すごいな……」
朋子は本気で感心しているらしい。それに対し瑪羽は、
「はん、そんな能力、あっても役に立たないわよ」と笑った。
「そんなことはない。今、役に立っている」
私は思わず反論した。
「へー、あんた、ゆらの味方するのね」
「味方するとかじゃなくて、瑪羽の言い方が気になっただけ」
「言い方? いつも通りでしょ」と瑪羽は言う。
「そうだけど……あっ!」
私は瑪羽の頭を越えた先にお気に入りのサンドイッチがあるのを見つけた。
「サンドイッチ買ってくる!」
私は嬉しくなってサンドイッチを買いに行った。
二片パックのたまごサンドを二つ、合計四片ぶんのサンドイッチと紅茶をレジに持ち込み、会計を済ませる。
私のお気に入りのサンドイッチはたまごサンド。ここの購買部のたまごサンドは具のたまごがぎっしり詰まっていて、パンもふわふわで美味しい。
食べ物も飲み物もお気に入りのものを入手できた私は、快い気分で瑪羽と朋子の元へ足を向ける。二人はお弁当のはずだから、購買では恐らく買わずに待っていると思われる。
「?」と私は周囲を見渡す。
瑪羽も朋子も見当たらない。さっき人混みを避けたこの辺りに立っていたのに。
私は行き場をなくして棒立ちする。私を避けて人の波ができる。
「どうしたのかな?」「何あいつ」「友達いないんじゃない」というささやき声が聞こえてくる。
遠い昔の幻聴かもしれない。
そんなに遠くないか。遠くあってほしいという私の願望だったかもしれない。
とにかく私は一人になって――。
「――いろはっ!!」
背後から腕を掴まれた。パンの袋をぶら下げていない方の左腕。
それは瑪羽の声で。
「ごめん……。私、いろはを一人にしたわね……」
瑪羽は痛々しい表情で謝った。真実、痛みをこらえてるみたいに。そして、
「いろはとずっと一緒にいるって約束したのに」と言った。
「……だから、そんな約束は交わしてない」
私はまた否定する。遅れてゆら、朋子もぱたぱたとやってきて、
「ごめんネ! 新しいパン、いくつ買うかで悩んじゃったデス!」
てへぺろと舌を出すゆら。朋子は申し訳なさそうに、
「いろはちゃん、何も言わずに行っちゃってごめんね。新商品の見出しが見えたの。で、帰ってきたゆらちゃんの誘いに私も乗っちゃって……」
「めう子は一人が嫌だからついてきたんデスよね?」
ゆらの問いに、瑪羽は素直に頷く。瑪羽は続けて、
「いろはを待ちたかったけど、学校で、しかも人目のある場所で一人ぼっちって思われるの絶対イヤだったから……。でも、そのせいでいろはが一人になって……」
「大丈夫だよ、瑪羽。そんなに気にしないで」
私はそう言ったが、瑪羽はずっとつらそうだ。どうしたものか……。
その後、四人で教室へ帰る時も瑪羽の元気はなかった。
「めう子は大丈夫なのデス?」
こそっとゆらが私に聞いてきた。
「なぜ私に聞くの?」
「元はトモモが聞いてきたデスが」
ちらりと朋子の方を見る。目が合ったが、困ったように微笑まれた。
「ゆらチャンも心配デス。なんとかしてクダサイ、いろちゃん」
両手を合わせて拝まれる。そんなことをされても……。
「いろは」
とりあえず右隣を歩いていたいろはに声をかける。
「……何よ」と低い声で返事される。続けて、
「言っておくけど、こそこそ話してたの聞こえてたわよ」
と、会話の出だしはこれ以上なく最悪だった。
「あの……」と私は思考をめぐらせるものの、
「だから、何!?」
瑪羽が怒り出すまで何も言葉は浮かばなかった。彼女は両手をグーにしてぷるぷる震えている。そんなに手を強く握ったら、爪が刺さって手が痛くなりそう……。あ。
「瑪羽。手だして」と私は言った。
「は?」
瑪羽は訝しげな表情でこちらを見る。
「いいから、手」と繰り返す。
彼女はおずおずと、両の手を前に出した。
「これ一緒に食べたい」
私はそう言いながら、たまごサンドを瑪羽の手のひらに乗せた。
「え……えっ?」と瑪羽は戸惑っている。
「今日はどうしても瑪羽にたまごサンドをあげたかった。じゃないと、瑪羽、手をぐーって握る。でも、手のひらにサンドイッチがあれば握らないから」
私の説明を聞いた瑪羽は、呆然とした。
左隣のゆらは「ゆらチャン、意味が分からないのデス……」と嘆いている。更に隣の朋子に至っては、
「ごめん、もう一回言ってもらっていい……?」
と言っている。聞き取れなかったのだろうか。
「だから、」
「ねえいろは」
私が先程の説明を復唱しようとした時、瑪羽は手のひらを見ながら、
「……ありがとう。ここの購買部のたまごサンド、美味しいのよね。ありがたくもらっとくわ」
そう言って、今度は私の目を見て本当に嬉しそうに笑った。