3 好きだってわかった時
家に帰ると俺は、
「ただいま~~」
といつもの癖でそう言いながら、玄関に入りリビングに行った。
「お帰り」
父さんがリビングで、明るく俺を出迎えた。
「あ…」
父さんとはあまり、口を聞いていなかった。もう一週間も…。でも、いつもの癖でただいまって言ってしまった手前、ちょっと気まずかった。
「どこに行ってた?」
父さんが、また明るく聞いてきた。
「別に…」
とだけ素っ気無く言って、俺は2階にさっさと上がって行った。
部屋に入り、頭の中を整理しようと思いベッドにドスンと寝転んだ。
まず…。桃子ちゃんは、俺のことが好き。これは確実だ。なんて言ったって、本人が言っていたんだからな。
そして、葉一は菜摘ちゃんのことが好きだ。菜摘ちゃんは、誰を好きだかわからない。
で、俺は…?
こんな時、相談相手は父さんだった。母さんには話しづらくても、父さんはなぜか親友のようで、いろんなことを相談できた。でも…。
「はあ…」
今は、こんな話をする気にもなれない。
俺はPCを開いた。この前の続きを読めば、もしかして恋に関してのアドバイスがあるかもしれない。
父さんも、初めは母さんじゃない人と付き合っていて、母さんが好きだってことを自覚していなかったんだっけ。じゃあ、いつ?どうやってそれを自覚したんだ?
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俺は、くるみの前に住んでいたアパートを引き払う手伝いに行った。その時に、くるみが前に付き合っていた彼氏ってのと、ばったり出くわしてしまった。
そして俺は、二人の会話を聞いていて、なんとなく二人の関係が読めた。
何しろ俺は、くるみから話してくれるまで、いろいろと聞き出すのはやめようと思っていて、何が原因で死のうとしたのか知らなかったから。
元彼がいたことも、元彼と何が原因で別れたのかも知らなかった。でも、どうやら元彼はくるみの友だちと付き合い出し、くるみのことをふったようだった。
それも、くるみのことを強い女だとか、いっさい泣かないとかそんなことを言っているし、くるみよりもくるみの友達の梨香って人のことを庇っているし、俺は聞いていて無性に腹が立ってきた。
こいつは、くるみの何を見て来たのか。死ぬほど辛い思いをしているのもわかってやれなかったのか。今、くるみが泣くのを必死で堪えているのがわからないのか。
思わず俺はキレて、稔って奴にくってかかっていた。でも、俺の腕を掴んでくるみが、「もういいよ」って泣いたんだ。大粒の涙がくるみの頬をつたっているのが見えて、頭が一気に冷めた。
俺はその時、とんでもないお節介なことをしたんじゃないかって反省した。くるみと稔って人の問題であって、俺が口を出すことじゃかなったのかって…。
稔って人は、くるみの涙を見た途端に静かになり、そのまま立ち去って行った。
それから、すぐに車で江ノ島に俺とくるみは戻った。俺は帰り道気になって、お節介なことをしたんじゃないかってくるみに聞いた。でも、くるみは嬉しかったと答えた。あの涙は、嬉し涙だったって…。
それからだ。
ご飯を食べていても、風呂に入っていても、寝ようとしても、くるみのその泣いた時の顔が浮かんできてどうしようもなくなった。気が付くとその顔を思い出している。
仕事をしていても、いくら打ち込もうとしても、俺はいつの間にかくるみのことを考えている。
一緒にいると、なんだか苦しくなる。でも、時々無性に抱きしめたくなるほど可愛く見える。やばい、仕事も手に付かない。
その頃、俺と春香の誕生日のお祝いをみんながしてくれて、くるみは俺にガラスのイルカの置物をくれた。嬉しかった。どんな思いで買ってくれたんだろうって、そう思うとドキドキした。
その時に俺がいつもと違って様子が変なのをくるみが勘付いて、くるみの方から相談に乗ると言って来た。
初め、くるみのことで悩んでいるんだから、本人に相談するのはおかしなことだよなと思った。でも、思い切って話を聞いてもらった。
もちろん、くるみのことばかり考えているなんて、そんなことは言わなかった。ただ、ある人を思うといろんなことが手に付かなくて困っていると、そんなふうに相談した。そうしたらくるみが、
「それは恋だよ」
と教えてくれた。当の本人からそんなことを言われ、俺はものすごく戸惑った。
その頃には、俺は五月ちゃんのことは本気で好きにはなれないなって思えていたから、別れたんだ。五月ちゃんの事も、くるみには相談に乗ってもらってた。
本当に、面食らった。だって、相談もしやすい、一緒にいて自然体でいられる、くるみはそんな相手だったから。まさか好きになっているなんて、思ってもみなかった。
そのうえ、くるみが俺のことを好きになるはずもないって思っていた。
俺は7つも下で、弟みたいに思われていて、いつでも優しく相談に乗ってくれてて…。そんな俺のことを、男性として意識して見てくれることもないんじゃないかって、そう思うとどう考えてもこの恋が叶うわけないって思っていたんだ。
でも…。俺の思いは募るばかりだった。
だけどある日、俺の恋の相談を聞くのが、本当は辛いんだとくるみが本音を言ってきた。
そりゃそうだよね。くるみは彼と別れたばかりで、死のうとするほど辛い思いをしたばかりだし…。って、その時は俺思っていたんだよね。
あとから聞いたら、俺のことがくるみも好きで、それで聞くのが辛くなってきたって言った。そうならそうと正直に、言ってくれれば良かったものをさ…。
ま、いっか。それはまあ、おいといて。
俺は自分ばかりが相談に乗ってもらっていて申し訳ない、くるみの話も聞くよって言ったんだ。そうしたら、くるみは自分のことを話してくれた。
稔って人とは、結婚まで考えていた人でプロポーズもされたらしい。でも、親友の梨香って人と付き合うようになって、別れてくれと言われたとか。
酷い話だよな。誰が聞いてもくるみが悪いわけじゃない。親友の彼氏と付き合ったその梨香って人も、くるみと付き合っていながら、くるみの親友と付き合いだした稔って奴も最低だって思うよな。俺も当然そう思った。
でも、くるみは自分が俺の恋の相談を受けていて辛かったように、梨香も辛い思いをずっとしてきたんじゃないかって言い出した。
くるみの方がよっぽど辛かったろうにって思ったけれど、梨香はすごく優しくて、本当は稔を好きだったのに、私の話を聞いてくれていたんじゃないかって。だからずっと苦しかったかもしれないし、今も苦しんでいるかもしれないってさ。涙を流しながら、俺にそんなことをくるみは言った。
それに、自分が親に愛されていなかったこと、ずっと「あんたなんか生まれてこなければ良かった」と、言われ続けたことを教えてくれた。だから自分が大嫌いで、大嫌いでって言って、くるみはぼろぼろと泣いた。
俺は、くるみのことを全部理解していたような気になっていたけれど、何も知らなかったんだなって恥ずかしくなった。
くるみが抱えてきた苦しみは、俺には絶対に理解できないことだ。だって、俺は思い切り両親に愛されて育ってきたから。
自分が生まれてこなかったら良かったと思ったこともなければ、自分が嫌いだって思ったこともない。そんな俺が理解しようにも、絶対に無理な話だ。
だけど、理解は出来なくても、俺がくるみを愛することは出来る。愛して、会えて良かった、くるみが生まれてきて良かったってそう本気で思うし、それをくるみにちゃんと伝えることも出来る。
その想いが果たして、どのくらいくるみの心を癒せるのかはわからなかったけれど、でも、本気でくるみのことを全部愛しいって思ったのは事実だったから。
多分、俺はその時、くるみの苦しみをわかってあげられなくても、その苦しみや悲しみを受け入れること、そんな思いを抱えているくるみごと、まるごと愛すことを決心したんだと思うよ。
くるみはその時から、俺にちゃんと心を見せてくれるようになった。
どんな思いをしているのか、今までしてきたのか、泣いたり、思いを吐き出したりしながら、徐々にくるみの中にあった重苦しい辛い感情は、癒されていっているようだった。
俺は、くるみの抱えている苦しみに比べたら、くるみが俺のことをどう思っているかなんてちっぽけな悩みだって思えた。俺は、自分が好きな人が目の前にいること、それだけ好きになれる人に出逢えたこと、それだけで幸せなことだって、そう思って一気に気持ちがあがっていった。
俺のことを、弟だって思っていてもいい。でも、ほんの少しずつ、男として意識してくれたら…。なんて思い始めたんだ。
だから、デートに誘った。なるべくダンディな俺を見せられて、くるみがすごく喜ぶようなデートをしようってかなり頑張った。
それで、車で鎌倉の海の近くのレストランに行った。そこは、家族で何回か行った店で、何を頼んだらいいかも父さんにアドバイスをしてもらった。
くるみは、すごく綺麗に化粧もしてお洒落もして来てくれた。
一緒にご飯を食べて、店を出てからは海沿いを散歩した。
俺はすごく嬉しくて、でも緊張していた。俺のことを、ちゃんと男性として見てはくれないだろうか。このデートで見直してくれないだろうか。そんな気持ちで、めちゃくちゃ緊張していた。
それで、格好良く告白でもしようかと思っていたのに、なんか、格好悪くポロって本音が出ちゃって、くるみにはまったくいいところを見せられなかったんだ。
そのうえ、俺の想いを知ったくるみは、じゃあなんで恋の相談なんかしたのかって聞いてきた。普通は好きな相手にそんなことしないよねって…。
俺は、仕方なく本音を言った。相談するふりをして、本当はくるみの気持ちを窺っていたこと。
ものすごく格好悪い。格好悪いどころの騒ぎじゃない。情けない、卑怯な奴だ。嫌われても仕方ない。そんなふうに思えてきて、これまた格好悪いことを言ってしまった。
「嫌われるのだけはきついな」
って…。
でも、くるみは自分も同じ想いだって言ってくれた。俺のことがずっと好きだったって。
信じられなかった。まじで、まじで信じられなかった。俺のこと、慰めてくれようとしたのかとも思った。でも、くるみの本心だってわかって、本当に嬉しかった。
そして、両想いだってわかってから、俺とくるみは急接近していったんだ。
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「なんだ、俺の本当の父親って最低じゃん。母さんがいながら、他の子とも付き合っていたんだ。それも、母さんにプロポーズしておきながら…。それで、母さんショックで死のうとしたのか?」
なんだか腑に落ちなかった。
父さん、もっともっと、そいつのことを罵ってやればよかったのに。
菜摘ちゃんのことすら、憎く思えてきた。なんだよ。そんな二人の間に生まれた子かよ。
ああ、でも俺だってそんなやつの血を、受け継いじゃってる。俺だって、菜摘ちゃんのことを好きでいたのに、桃子ちゃんに心が揺れちゃってるじゃん。
ますます混乱した。恋のアドバイスどころか、余計こんがらがった気がする。
だけど、一つだけ確かなことがある。それは、けして菜摘ちゃんのことは、好きでいてはいけないということだ。
もし、桃子ちゃんへの想いがいっときの感情でしかなくて、桃子ちゃんのことはどうとも思っていなかったとしても、それでも俺は菜摘ちゃんのことだけは忘れなくちゃいけない。
「はあ…」
溜め息が出た。でも、今で良かったかもしれない。
もし、もっと好きになっていたら?もし、両想いだったら?もし、二人が結ばれてたとしたら?だとしたら、それから別れることを考えたら、今で良かったんだ。
そんなことを思ってみて、それからまた俺は何も考えないようにした。頭を空っぽにして、全てをリセットしてからベッドに入る。
そして、俺はまたすぐに眠りについていた。
翌日は祝日。連休が続く。ゆっくりと寝坊をしようと思っていたけれど、携帯がなって目が覚めた。出ると、菜摘ちゃんからだった。
「あ、寝てた?ごめん、起こしちゃった?」
かなり低い声で、俺は電話に出ていた。
「ああ、うん、でも起きるところだったから大丈夫」
「本当?実はね、今日早速暇だし行こうかと思って」
「どこに?」
「れいんどろっぷす」
「え?今日?」
「そう。桃子と行くから!あ、それとも、私邪魔かな~~?」
「え?なんで?」
「だって、なんか、仲良さそうだったし」
「……」
答えに困ってしまった。そんなことないよって言おうとした。
でも、桃子ちゃんと仲がいいって思っていた方が、菜摘ちゃんが俺から離れることが出来るんじゃないかとか、このまんま菜摘ちゃんが店に来なかったら、もう縁を切ることすら出来るんじゃないかとか一瞬にしていろいろと考えた。
「え?本当に私、邪魔?」
菜摘ちゃんの暗い声が、携帯から聞こえてきた。
「あいつ、葉一も誘ってみるよ。うちに来てから海でも行こう。あ、水族館とかどう?」
菜摘ちゃんの声につい、思わずそんなことが口から飛び出した。
「わあ、いいね!じゃ、決まりね。桃子にも言っとく。何時に行けるかな。11時頃には、お店に着くかな」
「あ、店11時からだから、ちょうどいいかも」
「うん、じゃあね!」
「うん」
電話を切って、その旨を葉一にすぐに電話で伝えた。葉一は、
「お前、いいの?4人でなんか会って…」
と言ってきた。何が「いいの?」なんだか…。
「いいよ。そんで、お前頑張れよ。俺は、桃子ちゃんと途中から別行動するから」
「まじでいいの?本気で言ってる?」
「本気って書いてまじ」
「冗談言ってる場合か?!」
「本気だって。チャンスあげるんだから、絶対頑張れよ」
「お前、まだ菜摘ちゃんのこと」
「もう、なんとも思ってない。俺は俺で、桃子ちゃんと仲良くするから遠慮するな」
「わかったよ」
はあ…。溜め息だ。いや、これで一件落着だ。
葉一はこんなことでもなかったら、自分が菜摘ちゃんを好きだってこと、絶対に明かさなかっただろう。俺に気を使って。
前にもあった。俺のことが好きな子を葉一は好きだったのに、必死でキューピッド役に徹した。付き合ったけれど、俺は長く持たずに結局別れてしまった。
しばらくして他の奴から、葉一がその子のことを好きだったってことを聞いた。アホじゃねえかって俺は葉一に怒ったけれど、あいつはいいんだよって笑っていた。
なんで、そうやって自分のことより他人のために動けるのか。その時にも俺は、自分の名前が嫌になった。「聖」なんて名前負けだ。友達の想いにも気付けず、何が聖だって…。
葉一には、父親がいない。小学校の時病気で亡くなっていて、それからずっと母親と二人暮らしだ。
お母さんが働いている分、家のことは葉一がやっている。それに俺のバイトの金は、遊びのために使っているけれど、あいつは生活費に入れているんだ。
俺よりずっと偉い。俺は、呑気でなんの苦労も知らず育ってきた。のほほんとさ。って言っても、今けっこう窮地か。
いや、そうでもないか。事実を知ったところで現実は変わらない。そうだ。のほほんと生きてこれたのは、父さんのお陰だ。
父さんがもし、俺のこと受け入れてくれなかったら、母さんはシングルマザーだったかもしれないしな。そう思うと、父さんに頭が下がる思いもした。それなのに俺、ろくすっぽ口も聞いてない。すんげえ嫌な奴だよな、俺。
11時ぴったりに葉一が店に来た。時間にいつも正確なんだよね。5分経って、菜摘ちゃんと桃子ちゃんも現れた。
「いらっしゃいませ。あら、菜摘ちゃん」
母さんが、菜摘ちゃんに笑いかけた。
「こんにちは、また来ちゃいました。あ!そうだ。母と父が今日ここに来るって言ったら、宜しくお伝えしてねって言ってました。今度二人で会いに来たいとも言ってましたよ~!」
「まあ、本当?」
俺はそれを横で聞いていて、ぎゅっと拳骨を握り締めた。
よくもそんなことが言えるもんだって。そして何も知らないで、呑気にそんなことを言ってる菜摘ちゃんが憎らしくも思えて、顔は笑っているけど心では、辛い思いを母さんはしているんじゃないかってものすごく心配になった。
案の定、母さんの目は笑っていなかった。
父さんも家にいて、リビングから店の方にひょっこり顔を出してきた。
「やあ、いらっしゃい。あれ?葉一君、しばらく見ないうちに、背、また伸びたんじゃない?」
「あ、こんにちは、ご無沙汰してます」
「これ、父さん」
ぼそっと俺は、桃子ちゃんと菜摘ちゃんに紹介した。
「え?若くないですか?!」
菜摘ちゃんが驚いていた。
「うん、まだ、39。サンキューなんつって」
父さんがぼけると、菜摘ちゃんが大笑いをした。
「あれ?あんまり面白くなかったかな?」
父さんは、桃子ちゃんにそう聞いた。
「え?いえ、面白かったです。すみません」
桃子ちゃんは、慌てていた。
「え~~と、紹介してよ。聖」
「ああ、萩原菜摘ちゃんと、椎野桃子ちゃん」
「はじめまして、萩原菜摘です」
菜摘ちゃんは明るくそう言った。
「椎野桃子です」
桃子ちゃんは、いつもの小さな声でそう恥ずかしそうに言った。
「ああ、はじめまして」
父さんは、優しくにこっと微笑んだ。
父さんにしたって、菜摘ちゃんは憎らしい相手じゃないのかな。母さんだって本当は、会いたくないんじゃないのかな。俺は今日、菜摘ちゃんを呼んだ事を後悔した。
そんな気持ちが多分、顔に思い切り出ていたんだろう。
「なんか、嫌なことでもあった?」
菜摘ちゃんに聞かれた。
「え?俺?別に…」
ものすごく、無表情で俺は答えていた。やばいな。これ…。空気悪くなるよな。
「あ、私、今日水族館すごく楽しみで!何年か前に建て直したんだよね。大きくなったって聞いて…。私、小学校の頃来て以来だから、本当に楽しみ。ね、早めに行かない?」
察知したんだろうな。桃子ちゃんが、必死でそう言ってきた。
「そうだよね~。行こうよ」
菜摘ちゃんが、俄然張り切り出した。
「悪いけど…、今日は桃子ちゃんと俺、菜摘ちゃんと葉一の別行動しない?」
俺はいきなり、別行動することを願い出た。
「え?」
桃子ちゃんが驚いている。
「私は、いいけど」
菜摘ちゃんは、ちらっと桃子ちゃんの方を見てそう言った。
「でも…」
桃子ちゃんはまだ、困っている感じだった。
「桃子ちゃん、困ってるよ。とりあえず4人で行かない?」
葉一がそう提案した。何言ってやがる?誰のためだ?
いや、実は、菜摘ちゃんと一緒にいるのが、限界に来ていたってのが1番の理由だ。あんなに好きだったのにな。ドキドキして、意識して、会うのが嬉しくて。でも今は、顔を合わせるのも結構きつい。
「俺さ、言ったじゃん。お前には」
「何を?」
何を言い出すのかと、葉一は目を丸くした。
「俺、桃子ちゃんと二人で水族館には行きたいから、別行動してくれって頼んだよな?」
「え…、いや、でも」
「なんだよ。忘れんなよ。菜摘ちゃん、そういうことだから。あとは葉一と二人で回って。ってかさ、別に水族館じゃなくてもどこでも、二人で行きたいところ行ってよ」
「え?」
さすがに菜摘ちゃんも目を丸くした。
その隣で、戸惑ってどうしたらいいか困っていたのは、桃子ちゃんだった。でも、多分俺が菜摘ちゃんのことで、演技でもしていると思ったんだろう。
「ご、ごめんね。菜摘。そうしてくれると私も嬉しい…」
顔を引きつらせて、必死で言っているのがわかる。
「わかったよ~。そうまで言われたら、二人の邪魔するわけにもいかないし。でもいつの間に?やっぱり、カラオケで二人でいなくなった時に二人っきりになっていたんだ!」
そんなやりとりを聞いていて、母さんは暗い表情をした。父さんは、黙って俺のことを見ていた。
「じゃ、先に桃子ちゃんと行くよ」
俺は、桃子ちゃんの手を掴んでさっさと歩き出した。
ドアを開けて、そのあとも早足で歩いた。なるべく早くに、あの二人から遠ざかりたかった。
しばらく歩いてからふと後ろを振り向くと、必死に駆け足でついてきている桃子ちゃんがいた。
「あ、ごめん」
手を離して、歩く速度を緩めた。
「ううん。こっちこそ歩くの遅くて…。小さいから歩幅も小さくてごめんね」
ああ、ずっとちょこちょこと、必死で走っていたんだろうな…。そう思うとまたいじらしく思えた。
そのまま俺は黙って、水族館へと足を向けた。
「あの…」
「え?」
「水族館、本当に行くの?」
「行くよ。なんで?」
「だって、演技だったんでしょ?だったら、もういいかも」
「え?何が?」
「菜摘、もう、疑わないよ。きっと、私と聖君が付き合っているって思ってるよ。それが狙いだよね?」
「……」
「それとも、私下手だったかな。演技してるのばれちゃったかな」
「……」
俺が黙っていると、不安げな顔をして桃子ちゃんは俺のことを見た。
「桃子ちゃんってあれだ」
「え?」
「小型犬に似てる」
「えっ?!」
「マルチーズとか、チワワとか…」
「…小さいから?」
「うん、っていうか雰囲気も。なんかおどおどしてて、目も丸くて…」
「おどおど…?してるかな、やっぱり」
「あ、悪い意味じゃないよ」
「……」
桃子ちゃんは、下を向いてしまった。やばい。俺の例え、よくなかった。健気で一生懸命で可愛いって言いたかったんだけど、さすがにそれは恥ずかし過ぎて言えなかった。
「悪い。その…」
まだ桃子ちゃんは、下を向いたままだった。でも、小さな声で、
「菜摘みたいに、どうどうとしたいっていつも思ってるんだ…」
と呟いた。
「え?」
「でも、なかなかできなくて…」
声が震えていた。泣きそうになっていたのかもしれない。
やばい!何が?泣かせたことが…。傷付けていることが…。
「水族館行こうよ。俺も最近行ってないし…」
「え?でも」
「行こう!」
俺はまた、桃子ちゃんの手を引いた。でも、今度はゆっくりと歩き出した。
桃子ちゃんは、振り返って見なくてもなんとなく手の温もりでわかった。きっと今、真っ赤だ。微妙に手も震えているのがわかる。
…やばい。今度のやばいはなんだ…?なんだっていうんだ…。
実はわかっちゃってる。とうにわかってる。手から伝わってくる緊張で、思い切り俺はそれを感じちゃってる。
俺、桃子ちゃんがすげえ可愛いんだ…。俺のためにいろいろと頑張ってるのもわかるし、今だってすごく緊張してるのもわかるし。
手はすごく小さくて、でもあったかくって柔らかくって…。
俺の顔も、真っ赤になっているかもしれなくて、振り返ることができなかった。だから、ずっとずっと前だけを見て歩いていた。
水族館は、連休だからか混んでいた。
「はぐれないように、手繋いどく?」
照れくさかったけど、手を繋ぎたいっていう気持ちもあってそう聞いてみた。
「……」
桃子ちゃんは、なんにも言わずにかすかにコクって頷いた。
うわ。可愛すぎる。何その表情、その仕草。どれをとっても可愛いじゃん。俺は桃子ちゃんにはばれないよう、顔はなるべく無表情に徹しながら心の中で叫んでいた。
「やばい!」
イルカを見て喜んでいる桃子ちゃんも、深海魚を見て少し怖そうにしている桃子ちゃんも、熱帯魚を見て、綺麗だって目を細める桃子ちゃんも、どの桃子ちゃんもすんげえ可愛い。
俺は、魚どころじゃなくって、ずっと桃子ちゃんを見ていた。目が合いそうになると、俺はふっと視線を外した。それから、また桃子ちゃんを見た。
手はずっと繋いでいた。少し震えていた桃子ちゃんの手は、だんだんと震えなくなってきていて、俺の手に全部を預けている感じがして、それがまた嬉しかった。
ゆっくりと水族館を見て回ってから、昼を食べに行くことにした。昼といっても2時近かったけれど、水族館の周りのレストランは混んでいて、俺は少し離れたお店に桃子ちゃんを案内した。そこからも、海が見えて桃子ちゃんは喜んでいた。
二人で、注文を済ませて水を飲んだ。俺は、目の前に桃子ちゃんがいることに喜びを感じつつ、
「水族館、満足した?」
と、有頂天になりながら聞いてみた。
「うん、とっても。ありがとう。楽しかった」
桃子ちゃんはそう言うと、少し悲しげに視線を下げた。あれ?なんで、そんな表情をするんだろうか。
もしや、有頂天になっているのは俺だけ?
「本当に?」
「え?うん…」
「でも、なんか寂しげだよ。本当は、みんなで見たかったとか?」
「ち、違う…」
桃子ちゃんは慌てて、顔を横に振った。
「ただ…」
「うん」
「これで、もう聖君とも会えないのかなって思ったら、なんか…」
「へ?」
「なんか、寂しいなって…」
「……?」
「ごめんね。こんなこと言ったら困らせるよね」
「え?なんで?」
「なんでって、だって…。もうなんの接点もないし。なのに私がこんなこと言ったら、聖君、優しいから困っちゃうでしょ?」
え?接点がなくなる?
「……。今日はいい思い出になった。ありがとう。忘れないね、私…」
そう言って、桃子ちゃんはにこっと微笑むけれど、目が泣きそうになっている。
「えっと…。接点がなくなるってどういうこと?」
「だって、もう会う必要もないし」
「なんで?これからだって、6人でまた会えばいいじゃん?」
「でも、でも聖君、今日も菜摘と一緒にいるの辛そうだった。本当は会うのも、辛いんじゃないの?」
「う、うん…」
そうか、見抜いていたんだ。
「そうだよね…。まだ好きだよね」
いや、そうじゃなくて。でもまさか、憎らしく思えてなんて言えないよな。だいたい、ついこの間まで菜摘ちゃんが好きだったのに、今、思い切り桃子ちゃんが好きになってるとも言いにくい。
ん?思い切り好きになってる?思い切りって今そう思った?俺…。
「あ…」
慌てて俺は下を向いた、今、瞬間絶対に顔が赤くなっていたはず…。
やばい。
やばい。
ばれた?
そっと桃子ちゃんを見たら、ハンカチで目を拭いていた。わあ!泣いてるんだ。俺が赤くなっているのなんて見ていない。泣いちゃっているよ!何か言え!俺!泣かせてどうする?もう俺に会えないって思ってるんだよ?!
「じゃ、二人で会えばいいじゃん」
「え?」
「俺と、二人で」
「ううん。いいの…」
「いいのって?」
「そんな、私のためにしてくれなくてもいいよ。悪いもの」
ああ。もっと、欲を出してくれ。俺とさっさと別れる方を選ばないでよ。
「いや、でもさ。これもなんかの縁だし、そんないきなりさよならってしなくってもいんじゃね?」
「え?」
「俺もそのうち菜摘ちゃんに会っても、なんとも思わなくなるかもしれないし」
「でも…」
でもじゃなくて…。ああ、じれったい。俺、なんとかしろよ。
「それに!言っとくけどさ、乗りかかった船だよ。もう降りるつもり?」
「?」
「俺が、傷付いているの助けてくれようとしたんでしょ?今日もさ」
「うん…」
「じゃ、こんな中途半端で、投げ出さないでよ」
「投げ出すって?」
「一応ね、俺、まだ傷付いている最中だし。その…。俺と父さんのことを知っているのは、桃子ちゃんだけだし、他に相談する相手もいないんだよ?」
うわ、なんてずるい、卑怯なこと言ってんの?俺。
「そっか。そうだよね…」
桃子ちゃんは、そう言うと少し考え込んだ。
「でも、私でいいのかな」
「いいも何も、桃子ちゃんしか知らないことだし」
「でも、それ、仕方なく話したことでしょ?」
「う…」
ああ、困った。どうすりゃいいんだよ?!
「だ、だとしても…」
もう、俺のほうもしどろもどろだ。
「ごめん。わかった。私、相談に乗る。途中で投げださない」
「……」
桃子ちゃんの顔つきが、いきなり変わった。
「私が、なんの役に立てるかわからないけど…。でも、何かの役に立てるなら嬉しいし」
桃子ちゃんは、俺のことをしっかりと見てそう言った。
今までより、ずっと桃子ちゃんが大きく見えた。
「うん。思い切り、役に立ってると思う。もうすでに」
俺は、その桃子ちゃんの力強い目に驚いていた。
「ほんとに?」
少し不安げに、桃子ちゃんが聞いた。
「ほんと!」
俺は、力強くそう答えた。
「良かった…」
桃子ちゃんは、ほっとした顔でそう微笑んで言った。
その笑顔は例えるなら、綿菓子。ふわっとしていて、甘くて、白くて…。
やばい…。今の俺、どんな顔をしているだろうか。どんな目で、桃子ちゃんを見ちゃってるんだろうか。視線を外して、なんとなく海を見て思わず、
「ああ、海、綺麗だよな…」
って誤魔化した。桃子ちゃんも海を見て、綺麗だねって答えていた。