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黒死病

 ペストは世界中で何度も流行して来ましたが、ここでは14世紀半ばにヨーロッパの大部分で流行した時の話です。


 ペストの発生源はどこかと言うのは確定はしていないものの、中国の北方か南方の風土病だったと考えられています。それが何故ヨーロッパまでというと、当時ユーラシア大陸はモンゴル帝国が暴れ回っていた時期で、軍隊だけではなく商人たちも活発に活動し、人や物と共に病気も広がっていったと考えられています。

 当然ヨーロッパだけではなく中国やイスラム圏などでも流行していたのですが、正確な記録が無い為と、恐らく疫病の所為で社会が混乱し元が崩壊した事でモンゴルの所為だと死者の責任を押し付けられたのでは無いかと思います。


 ヨーロッパに流行が到達したのは1347年、イタリアから始まり西ヨーロッパから北へ、東へと広がりました。死者も正確な事は判っていませんが、ヨーロッパ全体で四分の一から三分の一、酷い場所では半分以上と言われています。当時は現代程社会の分化が進んではいないとは言え、半分の人が居なくなれば大変だと想像は付くと思います。

 ノーフォーク農業のところで少し触れましたが、黒死病による人口の減少が社会の変化を生み出し、中世を終わらせる事になります。その辺りについてより詳細に説明したいと思います。


 この時代人々の8割から9割は第一次産業、つまり農業や漁業、狩猟、採取、林業などに就いていました。その中でも多いのは農業です。農業の形態として三圃制の事をノーフォーク農業のところで述べましたが、当然それが全てではありません。あれは有輪重量犂が必要になるような粘土質の土が重い土地の場合です。その様にしなくても個人々々で耕せる土地なら夫々の農地に家を建てれば良い訳です。とは言え、井戸を共同で使うとか、外敵の恐れがあるなどある程度纏まった方が良い理由は農業都合以外にもあります。そうした関係で色々な形態の村があります。その形態も状況の変化で変わりますから、戦乱が続けば纏まって塀や堀を作る事もあれば、川の流れの変化で移動する事もあるでしょう。

 しかしどのような形態であれ、半分の住民が死ねば農地が失われ、共同体の維持が難しくなるのは同じです。井戸は維持が難しくなり、入会地(共同で使う土地。薪を採ったり枯葉を集めたり豚の放牧をしたりetc)の安全性が低下し、雪掻きや川掃除などの割り当てが増えるなど日本の田舎でも想像できそうな面倒なあれこれが増える事になる訳です。


 しかしながら当面は良い事も有ります。人口が減るという事は人手不足になるという事であり、給料アップのチャンスです。

 イギリスのウィンチェスターでは小作農の賃金が1.9倍になり、イタリアのフィレンツェ近郊では地代が6割に減りました。

 とは言え、14世紀前半と言うのはヨーロッパの人口が増え過ぎ、そうした人々が十字軍やレコンキスタ、東方植民と言うような形で膨脹している時代だったと言う点を考えると、実は黒死病で減らなければヨーロッパでは大きな混乱が起きていた可能性が高いという事です。人が大きく減った土地もあれば、あまり減らなかった土地もある。つまり人の余った土地から減った土地への流入が起きるという事です。

 トロント大学のラフティス教授を中心とした研究グループがイギリスのある修道院領の訴訟の資料を分析した結果、表面上14世紀の騒動は15世紀に入り農民の流入が落ち着いたように見えていたものの、その間に農地を一族の物として見るという考え方が失われ、土地が個人の物だという意識に切り替わってしまったという見解が出されました。それに対して反論なども有りますが、黒死病前には農地を分割相続した上で一族で共同して耕していたものが黒死病後は一子相続に切り替わった事は確かなようです。

 一族皆の土地という考えから自分個人の土地という考えに変わるという事は、一族でも貧富の差が生まれるという事です。兄弟で土地を分けて皆で耕していたのが、一人が全部受け継いで他の兄弟は下働きをするか村を出て行くか。

 村から出た人間は始めの内は人が居なくなった農地に行く事ができました。勿論土地自体は領主や富農であれ、地代を払う事で農民になる事はできます。しかし人口が回復すると農村には土地が無くなり、仕事を求めて都市に向かうしかありません。つまりは労働者として安く働く人材になるのです。


 これまで比較的被害の少ないとされていたドイツですが、ドイツでも13世紀には17万あった集落の内4万が消滅し、廃村になりました。そうならなかった村落が変わらなかったかと言えばその様な事は無く、ザルツブルグの例では70軒の農家(一族として)の内同じ農家が保有していたのは12軒のみで、荒廃したのが17件、隣人の土地に合併されたのが11件、別人のものになったのが18件、12件が不明というのが4年後の事でした。つまり単純に人が死んだと言うだけではなく、その後の人々の移動が起きているという事であり、恐らくそれにより社会的にも心理的にも変化が起きたと考えられるという事です。その一つとして廃村の原因の一つである効率の悪い土地の放棄と効率の良い土地への移住、そしてその結果としての集村化が起き、農民の領主に対する経済力や軍事力の強化に繋がる事になります。

 この結果後に宗教改革と絡んでドイツ農民戦争に繋がる事になります。


 一方フランスは百年戦争の最中でした。フランス国内を戦場にされ元々荒廃気味だった所に黒死病が流行しました。

 伯爵のところで少し触れましたが、フランス王家は元々パリ伯です。宮中伯でもあったので権威はあるのですが領地は少なく大貴族に遠慮しなければならないような弱い王家でした。好き勝手をする貴族たちはやり過ぎた者が多く、ジャックリーの乱やそうではなくても農地を捨てて盗賊になる農民で溢れ、その為中小貴族が次々滅んでいきます。また、盗賊になった農民達も貴族だけではなくそもそもの混乱の原因であるイギリス軍に対してゲリラ活動を行います。そうした中で活躍するのがフランスのデュ・ゲクランです。彼の活躍で領地を拡げ、没落した貴族を支援する事で権威を増していったのがフランス王家でした。後のジャンヌダルクを含めて王権を強化し中小貴族を整理する事に成功したフランスは一足先に絶対王政への道を進めるのです。


 黒死病の農民への影響はこのような感じですが、次に商人への影響を見てみましょう。

 黒死病前のヨーロッパの商業と言えば、ヴェネチアやジェノヴァなどのイタリアの商人による地中海貿易とハンザ同盟による北海・バルト海貿易、そしてシャンパーニュの大市などの内陸交易です。この内シャンパーニュの大市はあまり有名ではありません。それは黒死病によって衰退するからです。

 シャンパーニュの大市はシャンパーニュ伯が政治的影響力を駆使して貴族達に協力を要請して交易路の安全を確保した政治の影響の強いものでした。内陸部にあるシャンパーニュは河と陸路で人を集めていました。そして起きた黒死病は陸上輸送を壊滅させます。

 輸送に掛かるコストを考えた時、馬や馬車で運ぶ場合と船で運ぶ場合とでは船の方が安く済みます。なにしろ人件費が違うので。

 黒死病で人件費が高騰した結果内陸都市は商業ルートから外されるようになります。その代わりに海岸沿いの港湾都市が新しいルートに組み込まれます。そして船はより効率化を求めて大型化して行きます。


 陸路の欠点は他にもあります。海路以上に多くの人と接する為疫病に感染する可能性が増し、逆に交易路の住人達も疫病を運んでくるかもしれない商人を嫌うようになります。

 それだけなら海路も大差ないように思えますが、海路だとやってきた商人を船に隔離し疫病に掛かって無いか確認する事ができます。

 英語で検疫の事をquarantineと言いますが、語源はイタリア語のquarantina、40日を意味します。イタリアの港では船を40日間隔離し、その間に誰も病気になれなければ安全と見做すという規則が1377年にはできていました。正確には当初30日だったのですが、その後それでは不十分だと40日に改められました。まあ隔離と言っても船の上とは限らず港近くの小島に上陸してだったりしますが、交易で成り立つイタリア諸都市にとっては重大な問題だった筈です。


 陸路が衰退したのはヨーロッパだけではありません。この時代最も栄えていた交易路はシルクロードのステップルート、モンゴルの交易路です。それが混乱し、交易の上がりを得られなくなったモンゴル系支配者は税を確保する為無理を押し付けるようになり、国力は急速に低迷していきます。かつてドイツにまで進んだモンゴルの征服活動を支える国力は失われたのです。

 シルクロードのステップルートの西端は黒海で、オアシスルートの西端はシリアのアンティオキアです。黒海からヨーロッパを繋いでいたのはジェノヴァ、アンティオキアからギリシャ経由でヨーロッパを結んでいたのはヴェネチアです。当然こうした都市の交易は低迷する事になります。

 歴史の教科書ではオスマントルコが交易路を塞いだという事になっていますが、それはヨーロッパの一方的な見方で、ユーラシアの陸上交通の衰退でそうなるしかなかったのです。何れにせよそれ以前の商業活動は維持できない時代になりました。


 この時期にもう一つ大きな変化があります。それは中世温暖期の終わりです。

 中世温暖期がヨーロッパやモンゴルの膨張を産み、大陸を巨大な商業圏に変え、そして疫病を齎した。しかしそれと同時に世界は寒くなり始めるのです。

 中世温暖期の頃はイギリスでも葡萄を育てワインを作っていました。しかし15世紀には寒くて葡萄どころではなくなります。その代わりに盛んになるのが毛織物です。寒ければ暖かい服が欲しい。当たり前の流れで羊毛がイギリスやスペインで作られるようになり、毛織物自体はフランドルが生産地として栄える事になります。その毛織物を扱った商人達の集まり、ハンザが栄えていく理由でもあります。しかし後にはハンザを通じてではなく、自力で毛織物を作って売ろうとしたイギリスが台頭し、ハンザの衰退とともにフランドルも衰退する事になります。


 こうして商業環境の変化がヨーロッパにインドを目指させる事になるのです。折りしも造船技術が発達し、それまでのガレー船や小型船だけではなく、外洋に乗り出せる船が作られるようになっていました。大航海時代の始まりです。


 これが黒死病の齎したヨーロッパ商業の変化です。

 では次に宗教の変化です。


 ヨーロッパは言うまでもなくキリスト教全盛期でした。カトリックとギリシャ正教オーソドックスの二つがあるにせよ、基本的には日本人が中世ヨーロッパと言って連想するのはカトリックの一択でしょう。

 東ローマは色々面倒すぎるので無視します。


 黒死病の原因ともなった十字軍ですが、キリスト教会は医療活動にも熱心でした。イエスキリストが多くの病人を癒した話がある以上病人を見捨てるわけにはいきません。その為多くの聖職者が病人を癒そうとし、そして聖職者自身も黒死病に斃れました。場所によっては聖職者の死亡率は75%に上りました。しかしそうした努力にも拘らず黒死病は猖獗を極めました。

 その頃のキリスト教はトマス・アクィナスを代表者とするスコラ神学、つまり知性を重んじギリシャの理性とキリスト教を調和させようという主義が主流でした。主知主義とも言います。


 少し脱線しますが、光は粒子か波かと言う論争が近代に生まれましたが、その基礎はこの頃には生まれていました。光はガラスを通りますが、物質ならば何故ガラスを割らずに通過できるのかという疑問です。波動などと言う発想も、素粒子の大きさも測れない時代なので結論は光こそ神であるという事になるのですが、神は物を通過できる、だからマリアの胎内に処女のまま宿る事ができるという様にキリスト教と繋げます。

 あるいは色とは何かという話題もあります。色は何かの上に被せるものであり、本質を覆い隠す悪しきものであるという考え方があり、一方でステンドグラスを通る光が床に絵を写すように色とは光であり善なるものであるという考えがあります。その考え方により色をあちこちに使いステンドグラスを飾る教会と素の色の建物にステンドグラスも無い質素な教会が生まれるのです。

 中世と言うのはそれなりに教会が科学の萌芽である時代でもあったのです。


 しかし黒死病は説明を絶する事態です。昨日元気だった人が今日には死んでしまう。それまでのあらゆるものが崩れていく。メメントモリ。聖書にもこんな事は書かれていません。信仰厚き聖職者さえ次々に死んで行く。いや、信仰厚き者ほど死んで行くようにすら見える。その現実にそれまでの理性的なキリスト教は何も説明ができませんでした。

 代わって神秘主義が広まりました。個人的な神との合一を求める事が、偉い聖職者に祝福してもらう事より価値があると考えるようになるのです。

 そしてまたどうせ何時死ぬか判らないのだからと享楽的な風潮が生まれます。メメントモリ。何時だって死と踊っている様なものなのだからせめて楽しもうじゃないか。明日どうなるのかなんて神様しかご存じないんだから楽しもうが悲しもうが同じ事さ。


 こうした考えがそれまであった教皇や司教といった上位者への敬意を失わせ、個人と神との結び付きを考えさせるようになったのです。即ちプロテスタントの発生です。

 神と個人の間に教会や教皇は必要ではないという反教権主義、運命は神の手にあり人の行動で変わるものではないという予定説。それらは黒死病によって生まれてきたものなのです。


 最後に政治的変化です。

 最早説明するまでも無いでしょう。農民は力を持つ農民と貧しい農民が生まれ、後のブルジョアとプロレタリアになり、貴族は整理され王権が強化され、宗教的権威は没落し信仰が個人の物となり、商業は海を目指し、ヨーロッパの余剰人口は海を経て外へ向かう。即ち近代の到来です。


 こぼれ話的な話ですが、黒死病の直後農民が小金を持つようになった頃、その小金を使う場所として酒を飲ませる農家が生まれました。それまで酒と言うのは基本的に自家製で、祭など特別な時に飲むものでした。しかし小銭で普段から飲めるようになった。パブやタバーンと呼ばれる、所謂酒場の誕生です。

 ファンタジーではどこの村にもある酒場ですが、実際の中世では農村に酒場が生まれたのは黒死病の後です。それ以前は基本的に農民は小銭を持ってないので客になれなかったのです。


 黒死病というのは教科書ではそう言う事がありましたとあっさり通過する出来事の一つに過ぎませんが、実はこれだけ大きな変化の契機になっているのです。

 何故物事が変化したのか、歴史が動いた原因は何か。そんな風に改めて単語の意味を知るのは楽しいと思いませんか。


 ところで全部見た上でこうも思いませんか。

 全部太陽のせい。

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