伯爵
貴族の爵位というと公侯伯子男の五段階があり、公爵が一番偉く男爵が一番下という順番だという認識が一般でしょう。日本の明治から第二次世界大戦までの間の爵位についてはその通りなのですが、ヨーロッパについてはそれだけではヨーロッパの人がイメージする爵位とは違ってくるのです。
日本の爵位である公侯伯子男というのは元々古代中国の爵位でした。日本では古くは姓や冠位十二階、律令の位階制度などが有りましたが、明治になり華族制度が施行され、華族令の第二条の「爵を分て公侯伯子男の五等とす」という法律で決められました。
明治と言えば外国との調整に忙しい時期でもあり、この五爵を外国の爵位と調整する必要があり、英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに対応すると決めたのですが、英国やヨーロッパの爵位を良く知らないままに決めた為後々混乱する事になります。
ヨーロッパの爵位と言うのは元々はローマ帝国崩壊後に最初に主要部を統一したフランク王国が作った制度が元になります。フランク王国は現在の独仏伊を含む地域にあった国であり、それらの国に引き継がれていくのですが、英国はフランク王国に含まれなかった為少し違う体系になりました。従ってヨーロッパの爵位を話す場合大陸と英国を別に語る必要があります。
しかしながらここでは大陸側の話だけをしたいと思います。
フランク王国はゲルマン系フランク族が中心になって生まれた国です。しかし中国で征服民族が中国化するようにフランク族はガリアのローマ人と交わりローマ化してしまいます。多くの文化や単語を取り込み、統治制度などもローマの制度を取り入れます。
大陸の爵位はラテン語とドイツ語両方の表記があります。伯爵に当たるのはラテン語からきたcount、ドイツ語のgrafですが、ラテン語の方は語源的には「仲間」と言う意味で、ローマ皇帝の仲間、代理人を意味し、本国から派遣されてきた高官や本国の廷臣を意味します。ドイツ語の方は語源は「書く・描く」を意味する言葉で、書記を意味します。これも王直属の高官という事です。英語のearlは「酋長」というような意味であり、大陸とは別の物なので同じ伯爵とは言えません。
ラテン語系はフランスやイタリアで、ドイツ語系はドイツで使われるようになりますが、元は同じで皇帝や王の直属の部下を意味します。
子爵はviscountという名前の通り元々countの副官を意味します。つまり大陸の爵位で言う伯爵は皇帝や王の直属の部下であり、日本で言うなら江戸時代の譜代大名と同じなのです。
では外様に当たるものはと言うとラテン語系ならdukeで、語源は公式ではない軍事司令官、つまり豪族や酋長などを意味します。語源から言うなら英語のearlと同じです。これはドイツ語系ならherzogかfürstになります。語源的にはherzogは豪族や小国の王を意味し、fürstは一番を意味する言葉で英語のfirstと同じですが、ラテン語で言うならアウグストゥスが就いたprincepsと同じです。つまり軍事的に一番偉い奴と言う意味で、独立勢力の長を意味します。ドイツ語でプリンツ何某と呼ばれる人はこれですが、英国では大陸と違い王子を意味する単語になってしまっているので日本人は混乱してしまう原因になっています。
herzogとfürstのどちらが上かと言うと時代や場所で違うので何とも言えません。英語で対応するのはdukeとprinceですが、英語のprinceは大陸と意味が違うので単純には同じと言えません。herzog、dukeは日本語では公爵ですが、fürst、princeは日本語では公爵、大公、親王、王子など人による状況です。何れにせよ公爵と言うのは元は外様を意味する称号でした。
伯爵というか、grafに戻りますが、意味として譜代大名であるので更に細分化されます。辺境伯とか宮廷伯と言うような爵位を目にしたことがあると思いますが、伯爵が譜代大名だからこそそうした爵位が生まれるのです。逆に外様である公爵にはそのような役目はやってきません。こうした役目付き伯爵の内領土的に大きいのは、国境で敵国や蛮族に対峙する辺境伯です。markgrafの語源はそのまま国境伯爵ですが、辺境伯と訳されています。時代が下ると辺境伯は伯爵じゃ不満だと言い出し、今後はmarquessと名乗り伯爵より上の爵位として扱えと言い出します。これが侯爵です。従って侯爵は比較的新しい爵位なのです。
pfalzgrafは王宮のあったプファルツの伯爵と言う意味ですが、日本語ではプファルツ伯とも宮中伯とも訳されます。
宮殿の事を英語でpaleceと言いますが、count palatineと言うものもあります。これは宰相であるプファルツ伯とは違い宮殿で役割を持つ臣下の事であり、親衛隊だったり大臣だったりしますが、シャルルマーニュの12勇士を通じて聖戦士と訳されるpaladinになります。
ところで伯爵の領地はcountryであり、現代では郡を意味しますが、外様ではなく譜代大名の領地と思えば狭くても当然でしょう。しかし狭くても経済的にとか軍事的に重要な土地を任されるのもまた当然で、例えばフランスのパリを治めていたパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に就くのは伯爵と言う地位が特別なものである事を示しています。外様大名は広くても大老や老中になれないのと同じ事です。
領地が郡より大きかったり小さかったりする場合もあります。地方全体だと方伯、城一つだと城伯、自由都市だと自由伯など色々ありますが、これらはドイツ系だけの話で、ローマ帝国時代の土地の利権が既に明確なフランス、イタリアなどではそうした分け与える土地が無かったのです。ドイツ系では子爵は存在しないのですが、伯爵としては小さな城伯が子爵相当とされます。
さて、外様である公爵、辺境伯の侯爵、譜代の伯爵、譜代の副官の子爵ときて最後に男爵ですが、男爵は一番基本的な貴族です。ラテン語の語源では男、戦士と言うような意味で、baron、ドイツ語語源では自由人を表すfreiherr。
封建制と言うのは王に領地を与えられ、その代償に忠誠を誓うのですが、王から与えられるのではなく、自分自身の土地を持つ者、日本語的には豪族か国人というのが近いでしょうか。
自由人、自由民と言うのは誰にも従っていない、従属民ではないと言う意味です。ゲルマン人が流入し暴れている時代に、一族や従属民を纏めて土地を守った豪族等を指しますが、自分一人で生き抜いている放浪の騎士なども自由民になります。自力救済が基本である中世と言う時代に自分の身と財産を守れる人間が自由民であり、自分では守れないので守ってくれる誰かに従うのが従属民です。
では中世の貴族のイメージを今一度。
大領地を持つけれど国王に従うか微妙な公爵。
元辺境だけれど周辺が何時までも蛮族とは限らない。周りが発展すると辺境じゃなくなり豊かになる。そんな状況で辺境伯改め侯爵です。
王都で大臣やったり重要拠点を任されてる都会派貴族の伯爵。
伯爵の副官や反抗的な公爵の監視などの役割の子爵。
農村の守り手にして土着の豪族男爵。
爵位は単純に順位があるだけのものではなく、夫々に意味があります。特に中世は土地と爵位称号が結びついているので複数の爵位を持つ事も珍しくありません。フランス王でありながらパリ伯でもあるとか幾つもの爵位を兼ね備えるとかいう貴族は多いし、その領地が複数の国にある事さえあります。逆に特定の領地の領主が手柄を立てたからと言って領地も増えないで爵位だけ陞爵するとかいう事は基本的にありません。例外的に手柄を立てた男爵が子爵になる事はあります。
しかし爵位を勝手に名乗るのはありです。伯爵だったけど今日から独立して大公を名乗ろうというのはありなのです。但し認めないという誰かに攻め込まれる可能性もありますが。
ヨーロッパの爵位も近代に入ると変わってきます。封建制が終わり、公爵も男爵も絶対君主の前では等しく部下であり、全ての爵位が伯爵と同じ存在になる訳です。男爵が戦争の手柄や献金で子爵に陞爵してもおかしくない時代です。本来伯爵領だった領地が公爵領に陞爵した事もあります。フランスのリテルという土地は元々伯爵領でした。しかし16世紀に公爵領に陞爵しました。その後公爵領をマゼラン枢機卿が買い取り、リテル公爵領はマゼラン公爵領と名前を変えます。
外様も譜代も無い、全てが王の部下。爵位なんて飾りです。しかし飾りだからこそ名誉を重んじるのであり、ノブレス・オブリージュと言い出し、名誉を汚されると決闘を始める。中世的な爵位のイメージも無くなり、首相が公爵でもおかしくない時代になるのです。
鉄血宰相ビスマルクは出身はユンカー(地主貴族)でしたが、プロイセン首相になるとビスマルク=シェーンハウゼン伯爵に、その後ドイツ帝国になりドイツ帝国の首相になるとビスマルク侯爵、そして引退時にザクセン=ラウエンブルク公爵の内諭を受けるも辞退しています。面白いのはその爵位の名前で、シェーンハウゼンはビスマルクの出身地で、別に伯爵領ではありませんが、シェーンハウゼン宮殿という宮殿がある場所としても知られる土地です。ビスマルク侯爵は領地とは関係なく本人の名前自体がそれだけの名誉あるものなのだと言っているのでしょう。ザクセン=ラウエンブルク公爵はかつてあったザクセン=ラウエンブルク公国からの名で、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でプロイセン国王ヴィルヘルム1世が手に入れた土地と爵位でありその時点では領地付きの爵位でビスマルクはザクセン=ラウエンブルクの宰相に兼任で任じられています。そしてドイツ帝国成立後に公国は解体され爵位は領地と共に消滅しました。その爵位のみを復活させビスマルクに与えようとしたヴィルヘルム2世はどう考えていたのでしょうか。
このように爵位は近代には元の意味を失ったとは言え、オーストリア=ハンガリーの1867年から1918年までのオーストリア首相26人中公爵が1人、侯爵が4人、伯爵が10人、男爵が5人、その他(von付き)6人で、やはり侯爵や伯爵が多いようです。