夢であれたなら
「待たせてすまなかったね」
「いえ、一緒に帰りたいとわがままを言ったのは私ですから」
夕焼けに染まる空き教室。
先に帰るようにと言い含めたにもかかわらず、待っていたミランダはにこりと笑ってそう言った。夕日に照らされ彼女の頬が赤く色付いている。
時折生徒会の用事で遅くなる私を彼女はこうして空き教室で待っているのが恒例だった。特に何をするわけでもなく、この後二人で帰宅するだけにも関わらずだ。
彼女が私との時間を作ろうとしてくれていることがありがたくもあり、同時に巻き戻る前の記憶が嘘だったのではないかと不安にもなる。
いや、嘘なら嘘でいいんだ。ただの私の妄想で何事もなく国が回っていくというのなら一向にかまわない。趣味の悪い悪夢だったと忘れてしまえる。
ああ、疲れているのかもしれないな。生徒会、と言うと栗栖祐一の中では学園を牛耳っているというイメージを持っているらしいが、実際には中間管理職という方が正しいと思う。あるいは生徒からの意見を受け入れるための目安箱といったところか。
早くから父上公務のお手伝いをしてきて慣れていたつもりだったが、疲労という隣人はいつだって労働に寄り添っているということか。
「私、欲しいものがあるんです」
「それなら週末時間を作ろう」
おや、と思う。無論私に出来る範囲で叶えてやるつもりだが、彼女がなにかをねだるなんて珍しいこともあるものだ。
公務はあるが急ぎの物ではない。予定を組み直すことは可能だ。何が欲しいのかはわからないが、それで機嫌がよくなってくれるなら一向にかまわない。
時間を作ってその欲しい物とやらを取り寄せるなり、ともに選ぶなりすることもできる。
続きは歩きながらと思い彼女を振り返るも、相変わらず柔らかな笑顔を私に向けたままミランダは窓の縁に体を預けている。
何か他にも話したいことでもあるんだろうか。
夕暮れに染まる姿は婚約者であるという贔屓目を差し引いても美しい。
ああ本当に、こうしていると巻き戻る前の記憶などまるで悪い夢であったかのようだ。このまま何も起こらない平穏な日々が続けばいい。
彼女も凶行に走らず、父の王位を継いだ兄上の治政も平和そのもので、私自身も愛するこの国の為に尽くせたら。
そんなことを考えていたからか、それともまるで一枚の絵画の様な光景に心を奪われていたからか。彼女の呼び声に反応するのが少し遅れてしまった。
「ねぇ、クリス様」
ミランダがこちらを真っ直ぐ見つめている。
「私を見て」
愛を歌うような甘やかさで、詩でも詠むような軽やかさで彼女は囁く。
突然のことについ呆気にとられてしまった。何御言い出すのかと思えばそんなこと。いつだって見ているし、何なら私以外の目からも見ているのだが。
それについては先日友人たちにも少し言われたばかりなのであまりつつかないでほしいのだが。いや、私からの方はともかく、子飼いの者を付けていることはバレてはいないはず。そういう仕事が得意な者を選んだんだから、多分。
「どうしたんだい? 突然」
「私が欲しいものは、いつだって貴方なんですよ?」
夕焼けの空き教室で美しい婚約者との逢瀬。サブカルチャーに浸りきった栗栖祐一なら青春ラブコメの一ページとでも言うだろうか。甘い展開というモノに忌避はないが、些か気恥ずかしいというかなんというか。
無論彼女が望むならやぶさかではないが、基本的には国を支えていくための良き理解者であれたらそれでいいと思うのであって。
婚約者と恋人というモノは別物だと思うんだ。恋人とは違い婚約者というのは色々なしがらみが付いて回るビジネスパートナーの様なものだと考えている。
いや、別にミランダとそういう関係になるのが嫌と言うわけではない。私の心構えの問題なので嫌なわけじゃない。断じて。
「だから私を見ていてクリス様」
誰に言い聞かせているのかもわからない言い訳を脳内に駆け巡らせる私を他所に、彼女の体がぐらりと後ろに傾いて消えた。
は?
正直何が起こったかわからなかった。
脳が理解をするのに途方もない時間を要した。意味が分からない。何が起きた。吸い込まれるように窓の外へ消えていったミランダを追って窓枠に駆け寄る。
伸ばした手は届かない。そこから先は一瞬の様な、永遠の様な。掴み損ねた自分の手のひらの向こうに彼女が小さくなっていくのを見送るしかなかった。
私を待っている間、この見晴らしのいい三階の教室で景色を眺めるのが好きだと言っていた。何も今思い出さなくてもいいことが過る。あの時の彼女も、きっと。
大きなものが地面に落ちる嫌な音が耳にこびり付いた。
私にわかることは、ミランダが最後まで笑っていたことだけ。
「なん、で……ミランダ……」
悪い夢だと自分に言い聞かせる。
何度瞬きをしても夕焼けに染まる赤い光景が広がっていた。赤く染まる婚約者の姿が見える。頭から落ちたのかだろうか。呆然とする私を他所に他の生徒が眼下に集まってきた。
悲鳴、動揺、騒ぎは瞬く間に広がっていく。夢なら醒めてくれ。
力が抜けた。膝から崩れ落ちる。なんで。どうしてこうなった。理解が追い付かない。
今まで順調だったじゃないか。どこで間違った。どこが分岐点だった。音が遠くなる。目頭が熱くなる。息がうまくできない。目の前が真っ白になるという感覚はどうにも受け入れがたい。
なんで、どうして。そんなことばかりが浮かんでは消える。もう遠い記憶となった彼女の日記書かれていた『何度も何度もクリス様に殺してもらう月日を繰り返しました』という記述はこういうことだったのか。
ぐるぐると巡る思考を断ち切るように突然バツリという何かを断ち切るような大きな音が響いた。
「あの、ご気分がすぐれないのですか?」
さっきまで聞いていたそれと比べて少しだけ幼い声がかけられる。
顔を上げればそこには幼さの残るミランダが心配そうにこちらを見ていた。
柔らかな金色の髪と赤バラをそのまま映したように美しい瞳の、まだ幼さの残る少女が頬を赤らめながらそこにいる。
年のころは、五つか六つ。赤いバラが咲き誇る庭園で出会った彼女は間違いなく私の婚約者で。そして今日という日は間違いなく私とミランダが初めてあったあのお茶会の日で。
ああ、巻き戻ってしまったのだと、いやでも実感する。実際に自分が体験したにもかかわらず今の今まであの日記書かれていることをただの妄言として信じていなかったのだ。
心配そうな顔をするミランダを他所に乾いた笑いが漏れる。あの日記に書かれていたことが真実なら、この彼女は私の目の前で窓の外へと身を投げたミランダだ。
「あの、クリス様……?」
「ああ、いや、すまないね。私は少し休ませてもらうよ」
美しい筈のあの赤バラの瞳が空恐ろしく、私は逃げるようにその場を後にした。