きっと何者にもなれない男の話
彼に至るまでの話。
日常の終わりというのはいつだって唐突だ。
その日もいつもの様に朝起きて顔を洗って適当にパンを腹の中に押し込んで、満員電車に疲弊しながら会社に行くことで俺の一日が始まる。
駅のホームに設置された自販機が「今日も一日頑張ってください」とコーヒーを吐き出しながら無機質な電子音成を上げた。
以前は一々小銭を出すのが面倒だったが、最近はもっぱらキャッシュレスがどうのと世間が騒ぎ出したおかげで、ワンタッチで目当ての物が買えるのでありがたい。
その弊害か、タップ一つで預金残高が減っていくという恐ろしい目に合うこともなくはないのだが。
そんなことを考えながら自販機から吐き出されたコーヒーをポケットに放り込む。周囲をちらりと見渡せば、疲れた社会人と若々しい学生が律儀に並んでいて美しいコントラストを描いている。今から俺自身もあの一部になるのかと思うと朝から憂鬱な気分になった。
嫌だ嫌だと思っていても、働かなければ生きてはいけないし、食べていけない。だから俺は今日も働くためにこの列の一部になる。爽やかな朝日なんてなんのその。陰鬱な朝の風景の完成だ。
ため息を呑み込んでまだあまり活動を始めていない頭で現実を逃避する。
最近の癒しはもっぱら適当に突っ込んだスマホアプリのキャラクターだ。何だったかで踏んだ広告に出てきた女性キャラクターのお胸のディテールが好みだったのでインストールしたが、そのゲームは女性向けの恋愛シミュレーションRPGで。
ついでに言うなら広告に出てきた女性キャラはショップ店員で本編にはほとんど出てこない仕様。これもう広告詐欺だろ。一応ある男キャラクターを攻略する時にライバルキャラ(女)の友人として顔を出すらしいが、本当にそれだけだ。広告詐欺だ。
そのキャラクターに会うためだけに意味もなくショップ画面に移動し、お胸をタップすることで日頃の鬱屈した気分を打ち払っていた。うん、大きいことはいいことだと思う。
ただ俺はちゃんとTPOのわかるちゃんとした大人なのでこんな往来で画面の中の彼女の胸に慰めてもらうことはしない。どうせやるなら落ち着いて楽しめる家でやるよ、ぬるぬる動く乳揺れをゆっくり楽しめるからな。
そのゲーム、大人の事情で先週サービス終了したんだけど。新しく何かいいお胸のゲームはないだろうか。大きなお胸に癒されたい。
ふいに駅構内にアナウンスが流れた。もうすぐ電車が来るらしい。
来た電車に乗って三十分程揺られれば悲しいことに会社に付いてしまう。そうなれば今日も仕事の時間が始まってしまう。そう思うだけで気が重くなった。
せめてもの抵抗として、なるべく人の少ない車両に乗るようにしているがそれでも朝の通勤ラッシュなのだ。どうやってももみくちゃにされる未来しか見えない。
人と関わるのが面倒でSEになったはずなのにどうして満員電車人で人と関わり(物理的)を持たなくてはならないんだ。まぁ、在宅できる会社に就職できなかったからなんだけど。
いっそフリーに転向するべきか。そうすれば出向の会社のシステムと関係のない要望も聞かずに済むのか。
でもなぁ……そういう輩はどこにでもいるっていうし、何より今の環境を変えるには勇気がいるんだよな。
そんなことをつらつらと脳内で考えていると突然人の波が動き始めた。隣のホームからの乗り換え民が駆け込みでやって来たんだろう。駆け込み乗車への注意喚起のアナウンスが流れる。
気持ちはわかるさ。朝は皆急いでいるものだし、乗り越えがあるなら少しでもいい位置が取れるように走って隣のホームへ行きたくなるものだ。でもそれは自分に害がない、余裕のある時の考えであって、実害が出てしまえばその考えは簡単に反転してしまう。
人に押された。ホームに並んでいた連中がそれぞれその場に留まろうと踏ん張る者と流れに飲まれるのを恐れ避ける者に分かれる。
そして俺の前に並んでいる連中はどういった偶然か、皆後者を選んだ。
目の前にぽっかりと空間が空く。人の波に押された。バランスを崩して、体がよろけた。
悲しいかな、踏ん張るスペースもなく、視界に広がるのは茶色く汚れた線路の敷石。常々落ちたら痛そうだなと考えていたが身をもって確認する羽目になるとは思わなかった。
痛みと衝撃に息が詰まる。甲高い悲鳴と早く上がれと急かす声がする。
うるさいこっちは胸と腕を打っているんだ。そもそもお前らが押したのが原因だろう。悪態を呻いている間にも地面を伝って嫌な振動が、直ぐそこまで来ていた。
確か電車を止めるとものすごい額を請求されるんだったか。親兄弟配偶者等がいない場合はどこに請求されるんだろうなぁ。なんて、しょうもないことを考える。
速報か何かで関東某所の駅で人身事故により運転見合わせ中なんてテロップが出たりするんだろうか。被害者は二十代のサラリーマン男性。身元の確認を急いでいます、ってか。
お昼のワイドナショーでどこの誰とも知らないコメンテーターが周りの人は助けられなかったのか、とか。何故駅に落下防止のフェンスを釣りつけなかったのか、なんて好き勝手言われるだけは業腹だが起こってしまったのだから仕方ない。
とやかく言う連中は一度朝の通勤ラッシュを経験してから言ってくれ。
目の前に迫りくる鉄の塊を見上げて不謹慎ながらに笑ってしまう。多分、助からない。
避けようもない現実に恨み言よりも先に諦めがやって来た。
ゆっくりと目を閉じる。
ああ、そういえば。コーヒー飲み損ねたな。
【何者にもなれなかった男の話】