梢は高く
かたりと軽い音をさせて手のひらに握り込んでいたペンをテーブルの上に転がす。何度目かもわからない学生生活の、何度目かもわからない試験期間を目の前にしている。
ああ嫌だ嫌だ。大元となる頭の出来が良くないから、いくら勉強してもその時限りで詰め込んだものは逃げ出して行ってしまう。教科書の文字列を見ても、ああなんかそんなのもあったなぁという感想しか出てこない辺り、私の頭の出来に付いては察してほしい。
長時間、という程でもないがそれなりに同じ体勢をしていたせいか肩がなんとなく重い気がする。大きくため息を吐き出せば、隣で同じ様にギルベルトとレノックスが同じように作業を中断し始めた。
相変わらず二人とはくだらないことを言い合いながらなんとなく緩い友人関係を続けている。関係値を具体的に言い表すなら、試験前の自習室で揃って机を囲んで課題を開く程度の関係だ。
「歴史は目が滑る」
「公式覚えんのマジめんどい」
「まだ一時間ほどしか経ってないぞ、二人共」
本音を言うなら私も試験勉強などしたくはないし、何ならこんなことを言っておきながら毎回それなりの試験結果を出している両隣を私は怒ってもいいと思う。もし神様という存在がいるのなら非常に不公平な存在なのだと後世に伝えていきたい。
窓から入る光は暖かく、集中しなければと口数が減るほど眠くなってくる。もはや試験前の追い込みと言うよりは睡魔との闘いになって来た。
この中から出るのだろうと明後日が期限の提出物をまとめつつ、聞き覚えのある記述をひたすら脳内に叩き込んでいく。いくら繰り返しているとは言え、細かく覚えていられないから毎回テスト前に覚えなおしだ。
まぁ、そんな感じで学業も学生会の仕事もそれとなくこなして過ごしている。もちろんミランダともこまめに交流しているつもりだが、彼女からするとどうだろう。
未だに建設的な会話が出来ているとは言えない。それでも仲は悪くないと思いたい。いっそのこと、対人にも公式があれば丸暗記で落第点を回避出来るというのに。
思考が他所に行きそうになるのを打ち切りひたすら手を動かす。悲しいかな、今後の展望も大切ではあるが、学生という身分に席を置いている以上、今は目前に迫った定期試験よりも重要視する物はあるべきではない。
そうしてせこせこと、紙にインクにと消費していると不意に視界の端に金色が揺らめいた。
「ここ、かまいませんか?」
男の園に花が来た。
私よりもずっと高く女性らしいソプラノ。長い金糸の髪と赤いバラを思い出すような瞳。ミランダがご友人であるナタリー嬢を伴ってそこに立っている。
「どーぞどーぞ。男だらけの所ですが」
「荷物を移動させます」
何がどういう吹き回しで、なんて問う間もなく左右に陣取っていた友人二人によって、机いっぱいに広げられていた参考書等が撤収させられる。おい、ナタリー嬢に笑われてるぞ。
思わず呆気に取られてしまったが、彼女たちも試験勉強をしに来たらしい。こうやってきちんと復習しているからミランダはいつも成績上位なんだろうな。とりあえず両サイドからわき腹を小突いてくる男どもの脛を蹴っておく。やめろ野郎ども、茶化すな。
いや、うん。でも確かに彼女からのアクションは素直に嬉しい。何を話しても響かない会話ばかりを繰り返していたからな。どういう心境の変化かはわからないがぜひこれを機に関係が好転することを願うばかりだ。
ただ一つ注文を付けるなら、試験前の追い込み中で今アクションを起こされても空回るのが目に見えているから何とも言えない。出来れば私と君のスペック差を考えて欲しかった。
紙に走らせるペンのスピードがさっきよりも落ちているのは目の前の席で教科書を捲る彼女がいるからか。今のところまだ無理だと断じるつもりはないんだが、叶うなら、早くその白く細い指を掴みたいものだ。
少しだけ長い瞬きをして提出課題に戻る。いくら学業を修めても、わからないことだらけで困ってしまう。
「クリス様」
不意に声がかかる。金色の髪が揺れて彼女がこちらを見た。
幼い頃の可愛らしい姿も好ましかったが、一番見慣れた年頃というのもあってか、今が一番美しいと思う。日に透けて光る髪も、朽ちることのない赤バラをはめ込んだような瞳も。もちろん欲目はある。それでもため息の出る程に美しいと言える。
近い。物理的な距離の話では無くて、多分今までで一番自然な形。薄い桃色の唇が開いて、次の言葉が紡ぎ出される。
「すみませんが、そちらの参考書を貸していただけませんか?」
「あ、ああ。構わないよ」
手元に置いていた参考書を手渡せば耳心地のいい声で礼を述べられた。課題に戻るふりをしてほんの少しだけ目の前に座っているミランダを盗み見る。細く白い指が参考書の上を這い、紙の上をペンが滑る音が微かに聞こえた。
当たり前のことだが、彼女が使っているのは前回の繰り返しの時に揃いで買った色の変わるインクなどではない。あれは、今もあの店に売っているんだろうか。
後になって気が付いたのだが、ミランダが「この色がいい」と言って買った緑のインクは、どうやら書き始めの色が私の瞳の色に似ていたらしい。いじらしいことだ。ただこういうことにすぐ気が付けない辺りが、私が男としてまだまだな一因なんだろうな。
最期にもう一度、白い肌に影が掛かるのを眺めてから手元の課題に戻る。
なんとなく、彼女の望む停滞というのはこういうことなのかなと思った。
何度も繰り返すのは不健全だが、こういうものならずっと続いてほしいと感じるのも頷ける。実際に無理やり停滞させ続けるかは別として。
相変わらず紙面の上で踊っているのは、なんとなくどこかで見聞きしたことがあるという程度に記憶に引っ掛かっている公式と文字列ばかり。
答えが用意されている分こっちの方がずっと楽だとわかっているのだが、「課題」という名前が付いているだけでどうしてこんなにやりたくなくなるんだろうか。うだうだ言っていても仕方がないので一応手は動かしているのだが、やはり気が重い。
せっかく目の前に、いつもよりも自然に話しかけられそうな人がいるというのに。
早鐘、というほどではないが、いつもより少しだけ早い胸の鼓動を誤魔化すようにペンを走らせる。
ああ、そうだ。試験が終わったら、ミランダを誘ってあの雑貨屋へ行こう。あの色の変わるインクを探してみよう。買う色は決まっている。あの時と同じ、彼女の髪によく似た黄色だ。
そして出来ればその時は、彼女にもあの時と同じ色を選んでくれたらと願う。