女王蜂の逃走
何かが可笑しい。
目の前に広がっている光景は見慣れたあのお茶会の筈なのに、何ひとつ変わらないはずなのにどこかが違う。暖かな日差しに赤いバラは咲き誇り、色とりどりのドレスを纏った幼い貴族の娘たちがかわるがわるあの人の周りに行く。
巻き戻った。いつもの様にクリス様の前で、次の繰り返しに移った。未だに騒がしい胸の奥を落ち着かせるために目の前に出された果実水の喉に流し込む。
冷たい液体に目を細め、ゆっくりと息を吐く。私の愛しい停滞が始まるはずなのに、どうにも心が晴れないのは私の知らない所で何かが起こっているからなのか。
貴族の娘たちに囲まれるクリス様は、相変わらず完璧な笑顔で挨拶をしている。変わったところは見当たらない、……はず。
柔らかな目元も、風に揺れる赤金色の御髪も。私の愛しいあの人のままなのに。ここ数回の繰り返しは何かが可笑しい。クリス様はクリス様のままなのに、どういうわけかあの人が口にすることのないはずのことお話になられる。
ドレスの裾を揺らす。今日のドレスはフリルをたくさんあしらったこの頃一番気に入っていたドレスだ。
大丈夫、きっと大丈夫。ほんの少ずれただけ。今までだって違う言動や選択はあった。だからここ数回の差異もただ少しいつも通りから反れただけに過ぎない。きっとそうよ、そうに決まっている。
現に私の愛しい停滞は今も続いている。いつもの様にこの赤バラの庭園に帰って来た。いつもの様に繰り返せばいい。交わらない運命を永遠に愛し続けていればいい。
真っ直ぐな言葉も、真剣な瞳もその繰り返しの中で起こった僅かなブレに過ぎない。クリス様の心の中に私はいない。クリス様が私を愛することなんてない。新緑の瞳はいつだって私じゃない誰かを追いかけていた。
ここ数回の繰り返しの中であの人になんの心境の変化があったのかわからない。あの人は心を私にはくれない。だから、きっとあれは何かの間違いよ。
一歩、手入れされた芝の上を踏み出す。ここでどのような行動を取ろうと、私とクリス様が婚約者になることは変わらない。私の繰り返しはいつだってあの人の瞳に移ることから始まる。
息を吸って、吐き出す。甘いお菓子と紅茶の匂い。それからバラの香りが風に乗って優しく香る。
暖かな日差しを浴びて永遠に交わらない運命の人の元へと向かう。
きっとあの言葉も必要になったから言ったに過ぎない。曖昧な言葉が多いけれど、あの人は求められればそれに応じて自分を演じられる人だ。だから、喜んではいけない。後でまた苦しくなってしまう。
愛するのは私だけでいい。愛されたくないわけではないけれど、どうせ私を見てくださらないのなら、愛さなくていい。けれど……あの真っ直ぐな瞳は、今まで正しく合うことのなかった視線は何を意味しているのだろう。
私を愛するにはどうすればいいか、なんて。きちんと夫婦になるには、だなんて。どうしてあんなことをおっしゃったの? あの人があんなことを思っていたなんて他の繰り返しではなかったのに。
クリス様のことは愛しているけれど、クリス様が私を愛することはないのに。何かが可笑しい。何かが違う。私の永遠の停滞が壊れてしまうような、花弁に一滴の夜露が落ちるような。そんな恐怖と歓喜が入り混じった自分でも制御できない感情が胸の内に渦巻いている。
いくつかのテーブルを通り過ぎ、何人かの令嬢の隣を追い越していく。まだ幼い少女たちの中心に、絵本の中から出てきたような完璧な笑顔を称えたあの人がいる。
ゆっくりと視線を上げたクリス様と目が合った。
「君は……ホーネット家のお嬢さんだね」
ドキリと心臓が跳ねる。初めて会った時と同じような感覚。あの時もこうして心を奪われた。私は何度でも、クリス様に恋をする。愛されることがなくても、報われることがなくても。永遠に交わらない運命を繰り返すの。
好きです。愛しています。私の運命の人。
美しい赤金色の御髪と優し気な碧の瞳も。嫌悪に染まる双眸も、困惑に満ちた表情も。すべて。きっとこれからも何度も繰り返して、何度も貴方を愛して、何度も貴方の前で死んでを繰り返すでしょう。
「ミランダ・ホーネットと申します」
「ああ、よろしくね。ミランダ嬢」
完璧な王子様に応えるように丁寧に膝を折る。微笑むクリス様に巻き戻る前の新免な眼差しを思い出してしまった。
あんなにも力いっぱいに名前を呼ばれたのは初めてだった。もちろん今までだって何度も名前を読んでくださった。けれどもあんな風に、鬼気迫るようなものはそうなかった。
強い高鳴りを感じる。つい動揺して飛び出してしまったけれど、今更ながらに頬に熱が上るのを感じる。溢れそうになる高揚感と多幸感を呑み込んでにこりと微笑み返す。
何度も来た赤バラの園は記憶と変わらず美しい。そしてその美しい光景に水を差すかのようにざわつく胸の内を私は抑えきれずにいる。
何かが可笑しい101回目の繰り返し。何が、なんて曖昧な言い方をしなくともわかっている。私の目の前の人が、だ。
クリス様の中の何かが変わってしまっている。そんな気がする。姿形は私の愛したクリス様と変わらないのに、あの人らしからぬことを言う。
これは本当に繰り返しの範疇の差異なのだろうか。それとも、何かが決定的に変化してしまったのだろうか。もしそうだとしたら、私はどうしたらいいのだろうか。
……ああ、守らなくては。私の停滞を。壊れないように、壊されないように。何処にも行けない私の永遠を、繰り返さなくては。その為には。
目の前では変わらずクリス様が新緑の瞳を細め笑っている。多分、きっとこの人は私の知らないことを考えている。私が諦めた言葉を与えようとしている。それはいけない。それを受け入れてしまったら、私の永遠は壊れてしまう。それを、回避するには。
ゆっくりと息を吸う。にこりと笑顔を張り付けたまま私は、愛してやまない人の前から逃走することを決めた。