女王蜂の困惑
何度も繰り返した。何度も終わらせた。
色んなことをした。色んなクリス様を見た。多くの繰り返しの中で分かったことがある。必ずというわけではなかったけど、多くの場合、多くの繰り返しがそうだった。あの人の言う「話がある」は私にとって良くないことの前触れだ。
あの人はズルい人だから、いつも明言を避ける。曖昧な言い方をして、耳心地のいい言葉を並べて、けしてその心に触れさせてはくれない。そんな人だから。クリス様の「話がある」は私の滞った世界を簡単に変えてしまう。
どこにも行けないはずの世界を、終わらせる力を持っていた。曖昧なままの、醒めてしまった紅茶の様なぬるくて甘い世界を変えると決めた時のあの人は、私にとって恐怖でしかない。
だから巻き戻した。
学園の中庭でクリス様が私の名前を読んだとき嫌な予感がした。続けられた言葉は私が予想していた否定の言葉とは少し違ったけれど、この繰り返しを終わらせてしまうかもしれない未来を望む言葉は酷く恐ろしかった
崩れるように階段から落ちて、赤バラの香るあの日のお茶会へと舞い戻る。大丈夫、大丈夫。これで、巻き戻った。
「内示を受けてくれたこと、感謝するよ」
目の前では幼い姿のクリス様が少しだけ仰々しい言い回しで微笑みかけてくれる。
何度も繰り返した恒例行事。何度も伺ったお城の一室。あの庭園が見える大きな窓のこの応接室は、婚約者として内定した私とクリス様が改めて顔を合わせる場所だ。
私にとってクリス様との婚約は喜ばしいことだ。いつだって私の幸せはここから始まるのだから。ここから永遠の時間をクリス様と過ごせるのだから。
だから貴方との婚約には何一つ思い悩むことなんてない。愛しています。貴方が私を愛さなくても。貴方の心がどこにあろうと愛してさえいればずっと幸せな気持ちでいられる。私が死んだ分だけ、私の心はクリス様への愛で満たされる。
どんなに繰り返しても私を愛さない運命の人。どうかこの繰り返しが末永く続きますように。交わらない運命が永遠でありますように。
「差し当って、君に聞いておかなければならないことがある」
「はぁ」
幼いせいか少し舌足らずな言葉と、それとはちぐはぐな内容に思わず気の抜けた返事をしてしまう。
何かが、可笑しい気がする。何度も繰り返したのに、何度も見ていた光景なのに、何かが違う気がする。この人は、こんなにも真っ直ぐ私のことを見てくれる人だったかしら。こんなにも真剣な表情が出来る人だったかしら。
もっと、こう、曖昧な態度を取る人ではなかったかしら。切羽詰まったようなものではなく、ただ真剣に、真っ直ぐに言葉を向けられたことは今まで無かったはずだ。
「私たちは将来夫婦になるのだろう?」
チェアに向かい合って座る。私たちが挟むローテーブルには子供が好みそうなケーキたちと優しく香る紅茶が並んでいる。肉体と精神の年齢が釣り合っているなら喜んで手に取っていただろう品々だ。
けれど、今はその砂糖菓子たちも目に入らない。
「君を愛するにはどうすればいいか、教えて欲しい」
息が詰まる。待ってほしい、どうしてそうなったの。私は可愛らしい性格をしていない自覚はあるし、そもそもクリス様の好みのタイプでもないはず。それがなぜ、何の心境の変化があって。
今までも些細な言い回しのブレや、行動の変化はあった。けれどこの時点ではいつも大きな変化なんてなかった。だから変化があるのなら何かしらの積み重ねで差異が起こるのだと。いいえ。今はそんなことどうだっていいの。
これは何? どういう意味? 愛するって、え? どういうこと? クリス様の心の中に私はいないはず。それがどうして、教えて欲しいだなんて。
止まっていた息をする。上手く思考が回らない。警鐘、とでも言うのだろうか、胸の奥で早鐘を打つ音がする。
何かが可笑しい。この人が私を好きになるはずがない。こんなにも真っ直ぐに私を見るはずがない。
努めてゆっくり息を吸う。途中何度も突っかかりそうになるのに気を付けて、恐る恐る吐き出す。今までしていたはずの砂糖菓子や紅茶の甘い香りも今はもうわからない。それでもあの人は新緑の色をした瞳でそこにいる。
「ミランダ?」
彼が、クリス様が私を呼ぶ。ダメだ。多分、これはダメ。上手く返事も出来ない。
クリス様の中で何がどうしてそうなったのかわからないし、私もこれ以上はどうしていいかわからない。こんなの知らない。浮いた言葉を並べて誰かに見せるための笑顔を張り付けることはあっても、今までこんなことなかった。
だってこんな風に、クリス様が私を見つめるなんて、こんなことを言うなんて。ありえな……くはないのかもしれないけれど、こんなの本当に知らない。きっと何かの間違いよ。そう、そうに決まってる。
ああ、うん。そうだ。やり直そう。それがいい。そうすればきっと元通りになる。何事もなく、進まず、戻らず。何処にも行けない永遠の停滞に舞い戻る。
メイドたちが退室した後でよかった。そう思ったらいてもたってもいられず、はしたないとはわかっているけれど顔合わせを中座する為に立ち上がった。
「ま、待って!」
呼びかけを無視して走り出す。と言っても目的の場所はすぐそこにある。大きな窓。良く晴れた空。その下に広がるのは美しい庭園。
巻き戻りさえすればいつも通りになるはず。大丈夫、大丈夫。伸びてきた腕を交わして飛びつくように窓へと向かう。後ろでガチャリと紅茶を入れていたカップが倒れる音がした。
それでも、まだ長さの足りない子供の手足を精一杯伸ばして窓のふちに手を掛ける。いつもならこの瞬間はとてつもなく不安に襲われるのだけれど、今回ばかりはそれどころではない。
クリス様の慌てた声がする。何事かと扉を開けたメイドの悲鳴。もし戻れなかったらという不安よりも大きな違和感。目前に迫った死に、固く目を瞑る。
なんだかいつもと違う日常に、私は思わず窓の外に飛び出した。