汽笛の音が
汽笛の音で目が覚めた。札幌に来て8か月になるが、見た目は普通の通勤電車からその音が出るのにはまだ、慣れない。
札幌の人間はキシャと呼ぶのだと、新歓コンパで先輩から教わった。先輩は、札幌の中心部を占めるこの大学で、法学部の「良いゼミ」に所属し、その大人しめのテニスサークルの代表を務めていた。ここでは俺が法律だと冗談でも言って憚らず、このご時世で新入生に飲酒を勧めるような男だった。
私がサッポロビールを受け取ると、先輩はどこから来たの、と尋ねた。
「東京です」
「えっ、まじか! 俺、就職はそっちに行こうと思ってんだ」
どことない気安さと無知に、思わず微妙な顔をすると、先輩はどう取ったのか、
「梓ちゃんはさ、なんでわざわざ札幌に来たの?」
と言った。
「東京ってそんなに良いですか?」
そのあたりで周囲の視線が私たちに集まってきたのを感じた。
「そりゃあ、何度か行ったけど、何でもあるし、雪も積もらないからね。君が知らないだけで、ほんとだよ」
今、街が分厚い雪に覆われた今だから、先輩の言おうとしていたことも、周囲の視線の意味も分かる。たしかに部屋はあたたかく、毎朝のように屋根の雪はおろされ、道も線路も何の支障もないように運営されている。けれど、片付けられているのは雪だけなのだ。
中1のバレンタインの日、数センチ積もっただけで、東京の交通機関が軒並みパンクして、一斉下校になったのが懐かしかった。昼休み、先生が来るまでにみんなで急いでチョコを交換したり、好きな人にあげたり、お祭り騒ぎだった。いつまでも淡々と深々と続いて、心の中まで降り込んで来るような、札幌の雪とは違う。
先輩に上京した彼女がいること、そしてサークルでは周知の事実だったことを知ったのは、先輩と半同棲をするような関係になってからだった。
「またおかしなこと考えてるでしょ」
はっとして振り向くと、先輩がすぐ後ろに立っていた。腕を回し、額を私の肩口にあずける。
「だめだよ、思いつめちゃ」
雪に閉ざされる、とはこのことだろう。高3の頃、家も学校も居心地が悪くて、予備校の先生だけが頼りだったことを思い出した。その先生に、東京を出て、できるだけ遠くに行きなさいと言われてここまで来たのだった。北海道には自由があると信じてきたのに、結局これか。
先輩の体温を背中に感じながら、窓の外でビルの中をキシャが走っていくのを見た。ふいに強い衝動に襲われた。魔がさしたとしか言いようがなかった。口が勝手に動いて、声はうまく音にならなかった。
「さよなら」
えっ、と先輩が言った瞬間、その腕の力が弱まった。私は先輩を振りほどいて、鞄とコートを引っつかんで、玄関に向かった。その家はいい加減私のもので溢れていたが、そんなことは気にならなかった。待てよ、という先輩の声は、汽笛の音にかき消された。