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黄昏の森

 紆余曲折あって、俺ことシヴァン・ルーデンシオは隕石の気持ちをその身をもって体験するという、史上類を見ない絶体絶命の大ピンチに陥っていた。


 空を切り、風を超え、音を砕きながら大地へと一直線に近づいていく。尋常じゃない浮遊感が全身を支配し、毛穴と言う毛穴が全て鳥肌へと変身した。

 

 迫りくる着弾へのカウントダウン。息つく暇も逃げる場もない詰みの世界。つまり俺の死は確定した。

 幾らデモンの身体能力がとんでもなくたって俺は人間だ。百歩譲ってデモンは助かるとしても、俺は百パーセント助からない!

 

「ヤバいヤバいヤバいヤバい死ぬデモン死ぬこれマジで死ぬ!! 死ぬゥゥ――ッ!!」

「死なん。余を信じよ」 

「この状況で何を信じるんだっつーのよォォォ――――ッ!!」

 

 デモンは魔法やらを駆使して減速する様子を一切見せない。宣言した通り、魔法は一切使わないつもりだ。

 もちろん俺にもそんな心当たりはない。そもそも、こんな状況で生還できる都合のいい魔法なんて存在しない!

 

 終わった。これは終わった。

 鮮明なまでに数秒先の未来が見える。迫り来る森林地帯にメテオと化して衝突した俺たちが、叩きつけられたトマトみたいに木っ端微塵に砕け散ってしまう光景が!


「どゥおおおおおおわああああああああァァァ――――――――ッッ!? がぼっ!? おぶっ!? ぶァがァァ――――ッ!!」


 人間の感覚で受容できる範囲を超えたスピードと共に、一切減速することなく大地の懐へ激突する。凄まじいインパクトが全身へ襲い掛かかったかと思えば、あっさりデモンから振り解かれた俺の躰は砲丸の如く吹っ飛ばされた。


 一、二、三度と、水切り石にでもなったような猛烈なバウンドを繰り返す。肺から無理やり空気を搾り取られ、間抜けな絶叫が連続で爆発した。

 四度目の衝撃は大木へのタックルだった。幾星霜かけて育ち続けた大木の幹が、横転を止められずにいた俺を受け止めてくれたのだ。

 そのお陰で、ようやく勢いが相殺される。

 

「げほっ! ぶほっ! ひぃ、ひぃひ、死ぬ、死ぬ、死んだ」

「死んではおらん。その身に触れて確かめよ」


 でんぐり返しの状態で木に持たれかかっていると、デモンが逆さまの状態で俺の傍まで歩いてきた。

 ああいや、逆だ逆。これは俺の方が逆さになっているんだ。

 超速降下の影響なのか、ぐるぐる回り続ける視界と頭を必死に抑えながら、俺は体勢を直して体に触れ、自分の無事を確認する。


「本当だ。どこも痛くない!」

「五体満足、傷一つないだろう。無論外のみならず中もな」


 ここが死後の世界ではないと知り、狂瀾怒濤を味わってスパークしていた頭脳が少しずつ冷却されていく。五月蠅かった心臓も、時間と共に鳴りを静めた。


 だが、落ち着いてくればくるほど、この身に降りかかった凄まじい体験の謎が浮上してくる。

 

 単刀直入に言って、あの高さから落ちて死なないどころか、傷一つないってどういうことだ? 魔法を使った形跡なんて無かったのに。

 しかも服や荷物までやたら頑丈ときた。少し破けた箇所はあるものの、ローブを含む衣装の被害は落ち葉や土汚れを少し被るだけで済んでいる。荷物に至っては中身の破損すらない。


 そんな疑問を崩すように、デモンは言った。


「鎧は強固で機能性に優れていればいるほどよいと言ったな。貴様に施したのはそういうことだ。その肉体は並のダメージでは傷ひとつ負わぬ。流石にあの高度から裸で落ちればただではすまんが、抜かりない。貴様の装備全てに耐衝撃加工を施しておいてやったのだ。サービスでな」


 当たり前のようにサラッと言っているが、末恐ろしい技を披露されたような気がする。

 服や装備が衝撃を吸収してくれたってのもトンデモ話だが、それ以上に超上空から叩き落されても生きられるほどって、堅いとかそういう次元の話じゃないような。


 ……というか、デモンは全然服にも汚れ付いてないな。彼女は安全に着地したらしい。ますます未知の能力を持った幼女だ。

 ただそうなると、何でそこまでの能力があるのに俺が放り出されてしまったのかって所が疑問だが。


「あのー。もしかして着地の瞬間手を離したのって、それを証明するためだったりします?」

「然り。論より証拠である」

「この悪魔! 本気で死んだと思ったんだからな!?」

「たわけが、余は魔王であるぞ、むしろ寛大な王の下賜と心得よ。それとも何だ? 脆弱な肉のまま空を舞って臓腑を破裂させた挙句、大地のおろし金に削り尽くされる血袋の命運を辿る方が良かったのか?」


 いやそもそも空を舞ってメテオ急行するんじゃなくて、馬車の旅を楽しみながらのんびり行く予定だったんですが!?


「貴様をわざわざ担いで跳んだ理由がまだ理解できんのか。あそこから既に実演だったのだ。いわば貴様の、新しい身体能力を試すデモンストレーションだな。必要なことだ。特に、未だ余を小悪魔(プチデビル)だと思い込んでいるような貴様には」

「色々ぶっ飛びすぎててわけ分かんねーよもう……」

「何故困惑する。これで多少の無茶なら歯牙にかける必要も無くなったのだぞ。余から懸命に励む貴様への、ささやかなぷれぜんとだ。遠慮せず喜べ」

「そこなんだけどさ、俺は人間なんだよな? こんなのどう考えたって異常だ。密かに体が怪物に変異してるとかじゃあ……」

「そんな訳なかろう。肉体の耐久性や敏捷性を向上させたにすぎん。貴様は死ぬまで人だよ。さぁ、安心の次は思う存分歓喜に震えるがよい、小僧。晩餐に黒甘汁(ココア)を添えつつ更に甘味を献上することを赦す」

「ああそうだな。晩飯後のおやつ全部抜きだ」

「何故。何故だ。何故そうなる。何故だシヴァン答えよ」


 許可も無く人の体を勝手に改造した挙句、あんなに怖い目に合わせておいてご褒美ちょうだいはココアより甘いぞデモン。

 こいつの召喚士(テイマー)として、そこはきちんと叱っておかなくちゃならない。実行へ移すにしても、せめて一言説明してからやってもらわなくちゃ色々困る。


 旨を伝えると、心なしかしょぼんとしながら『非礼を詫びる』と謝罪を口にするデモン。

 まぁ、悪意あってしでかした訳じゃないみたいだから、情状酌量の余地を見込んでココア抜きで済ませてやろうかなぁ。

 悪魔と人間で価値観が異なっているからこそ、擦れ違いで生まれてしまった事故なのだと納得しておく。自分でも甘いとは思うが。


 召喚士(テイマー)は特にそういったアクシデントによく見舞われるらしいしな。聞いた話だと、ドラゴンの親愛表現の甘噛みで全治半年の重傷を負った人もいるらしいし、目に見えて実害が無かっただけ俺はマシな方なんだろう。


 さておき、周辺の植生を観察する限り、デモンはやたらめったらジャンプしたのではなく無事『黄昏の森』へ運んでくれていたようだ。『黄昏の森』独特の植物が生えているからすぐに分かった。こういう時に召喚士(テイマー)としての環境知識はとても役に立つな。


 アカツキソウは生えてるけどボヤゴケが見当たらないってことは、まだ森の手前部分のようだ。良かった。ボヤゴケが自生している最深部はFじゃなくてCランク相当の規制かかってるくらい危険だから、もしそこへ遭難してたとしたら非常に不味かった。

 手持ちの方位磁針にも乱れはない。その他も特に問題はなさそうである。

 ならば、これからやるべき事はひとつ。


「よし。んじゃあこの話は終わりだ。仕事にかかるとしようぜ。働いてくれたら、おやつは抜きだがココアはつけてやらんこともない」

「請け負った。任せるがよい」


 相変わらず、食べ物のことになると途端に聞き分けが良くなるデモン。

 普段は傲慢不遜で魔王と名乗る高飛車の癖に、妙に素直で聞き分けが良いから不思議なもんだ。御伽噺のマグニディ=デモンシレウスだなんて、到底信じる気にはなれない。当の本人は魔王と言って憚らないんだが。


 本当はどんな種族でなんて名前なんだって何度聞いても、魔王マグニディの一点張りだ。

 デモンが只者じゃないのは確かだが、魔王ってのはどう考えても無理がある。千年も大昔に勇者の手で討伐された災禍の根源が、異界から魂魄の賛同者を呼ぶ『魔獣招来円環(サモン・ダイダロス)』でどうやったら召喚できるのか説明がつかないからだ。異界は死者の世界じゃないし。

 

「で、余は何をすればいい」

「木の実を探して欲しい。色は真っ赤で、触るとほのかに熱い小さな実だ。この辺りに落ちてるのもそうだな。そいつをこの袋に入る分だけ集めてくれ」


 言いながら、バッグの中から小さな巾着袋を取り出してデモンへと手渡した。

 見た目は革で出来たただの袋だ。大きさは手のひらサイズで非常にコンパクト。布地には幾何学的な魔法陣が刺繍されており、どことなく神秘的な雰囲気を纏っている。


 この袋は内部の空間が魔法で拡張されているマジックアイテムだ。パッ見小さくてショボいものの、これでも大体3㎏収容することのできる優れものである。

 最近マーケットで買った品なのだが、これが中々使い勝手がいい。一番安いやつだけどな。この手のアイテムは容量によって値段が大きく変わるのだ。


「よかろう。では用があったら念話で呼べ。それまで別行動だ」

「おう。あまり奥までは行くなよ、危険だから」

「余を誰だと思っている」


 甘いもの好きの不思議な能力を持った目つきの怖い子供だな、今のところ。

 なんて言った暁には間違いなく不貞腐れるので、曖昧な笑顔で返事しながら、俺は踵を返した。 

 予定より早く着いたから、今日の仕事は昼前までには済みそうである。



◆◆◆



 『黄昏の森』。俺の住む町から馬車で約3時間ほど東へ向かった先にある、特殊な森林帯の名前だ。


 この森に自生する植物たちは皆、黄色ないし赤色の葉っぱで一年中着飾っている。なんでも特殊な魔力を多く含む土壌の影響らしく、そんな背景もあって、通常の植物とは異なる不思議な性質や生態を獲得した種が多い。

 春だろうが夏だろうが冬だろうが関係なく紅葉しているため、森の入り口から一望すると、鮮やかな夕暮れ時のような哀愁漂う地平線に見えることから着けられた名前が、『黄昏の森』ってわけだ。

 

「初めて来たけど良い森だなぁ」


 落葉が積もり、辺り一面暖色の絨毯が広がる光景はまさしく壮観の一言に尽きる。

 乱立する樹々の幹は驚くほど白く、割れば中から甘い糖蜜の樹液が溢れ出て来そうな雰囲気だ。ところどころ顔を覗かせる千紫万紅の菌糸類や、火灯し頃の環境へ溶け込むように体色を適応させた小動物たちも、風景へ幻想的な命の温暖を与えていた。


 まるで御伽噺の世界へ足を踏み入れてしまったかのような高揚感が身を包む。ここまで浮世離れした光景なら、浮足立ってしまうのも仕方のないことだろう。

 なにせこう言った所は映像や絵画でしか見たことが無かったんだ。それが自分の足で、自分の目で、絶景を感じることが出来ている状況に、俺は子供のような興奮を隠すことが出来なかった。


 そのせいか、どうしても色々な物に目移りしてしまうのは自明の理で。


「……お、コナフキダケだ。こんなに沢山」


 シフォンケーキのように肉厚で大きな傘と、短いが筋肉質な成人男性の腕のように太い柄が特徴的なキノコが生えていた。

 それもひとつやふたつの騒ぎではなく、ある一区画に密集して群生している。


 黄色と赤で着色した粉砂糖を満遍なく振りかけられたかのようなカラーの菌糸類の名は粉吹茸(コナフキダケ)。『黄昏の森』の固有種である。

 名前の由来は、刺激すると尋常じゃない量の胞子を一斉に巻き散らして粉まみれにする性質から来ている。こんな風に群生していることが多いから、連鎖的に噴射されると煙幕顔負けの大粉塵に包まれることだろう。


 見る分には可愛いキノコなんだが、厄介なことに胞子の引火性が非常に高いという特性がある。胞子いっぱいの空間で一服しようものなら瞬時にドカン、あの世行きだ。火の元には十分注意しないといけない。


「さて、お目当ての実はーっと」


 まぁキノコはいいとして、仕事のために木の実を拾う作業に従事しなければ。


 目的の実とは、マキガワリという名前の果実である。森の樹々からそこそこ落屑している、真っ赤なドングリのような形の果実だ。

 なんでも内部に含まれている液状の胚乳を特別な製法で加工すると、薪の何倍も燃焼時間が長持ちしつつ高火力を捻出できる燃料になるらしい。


 ただ、一度に作れる量は微々たるモノな上に採集場所が危険なもんだから、コストパフォーマンス的にあまりよろしくなく、メジャーなエネルギー資源としては程遠い。火の質に拘る一部の料理人や鍛冶屋に需要があるって感じだ。今回の依頼主も鍛冶屋だった。


 俺は腰をかがめながら、森中に散らばっている木の実を拾い集めていく。

 ひたすら実を拾って袋へ詰め込むだけの地味な作業だが、これも大事な下積みだ。張り切って仕事をこなしていこう。


 もちろん、魔物にも注意を払いながら。

 Fランク指定とはいえ、油断すると後ろから一撃貰いかねない。自分は危険地帯で仕事をしているという意識だけは、常に持っておかなくっちゃな。

 


◆◆◆


 

「美味である」

「ンまいなぁ」


 そして予想通り、昼前にはノルマ分のマキガワリを回収し終えた俺たちである。

 そんな訳で、少し早いがランチタイムへと移っていた。

 といっても、ランチタイムだなんて高尚な響きに似合う大したメニューじゃない。昨日買っておいたパンとジャム、干し果物くらいだ。そこいらにあった丁度良さそうな倒木を椅子代わりにして、俺たちはモソモソと食べ進める。


 しっかし、見るだけで穏やかな気持ちになる万年紅葉樹林を眺めながら食べるジャムパンというのは、中々に乙なものだよなぁ。いつも食べてる物と変わらないはずなのに、美味しさが増してるように思えてくるから不思議である。


 黙って堪能するのも良いが、折角初めてデモンと二人きりの仕事をしているのだ。彼女の事をもっと知るためにも、コミュニケーションをとっておこう。


「ところで、今更なんだけどさ」

「なんだ」

「俺の召喚に応じてくれたのはどうしてなんだ? この三日間でデモンが予想以上に凄い召喚獣だって分かったんだけど、デモンの能力を知れば知るほど、なんで俺みたいな才能も血筋もない凡人に惹かれたのかが気になってきてさ」


 ここ、割と気になっていた謎だったりする。


 召喚とは契約者と召喚獣が魂レベルで行うマッチングを経て遂行される特別な儀式だ。そういった性質があるせいか、似た者同士なコンビが生まれやすいらしい。

 勇猛果敢で野心の強い人にはドラゴンが、清楚で清廉な人にはペガサスやグリフィンが、といった具合だ。


 一方、俺はこれといって何か秀でたものがあるわけではない、凡百の見本みたいな男である。

 自分で言ってて悲しくなるが、それが現実だ。別に勇敢なわけでも無いし、素晴らしい志や芯があるわけでもない。どこにでもいるような、俗に塗れたただの男でしかない。


 それがどうして、こんな特異なデモンが召喚されたのだろうかとずっと疑問に思っていた。だって別に王様志望も支配欲も高潔な血統もなにも無いのに、魔王を名乗るトンデモ『人類類似種(デミヒューマン)』が召喚されたのだ。不思議に思わないわけがない。


「ふむ」


 最後のパンを咀嚼して呑み込んだデモンは、口周りのパン屑を拭きとりながら、少しだけ考え込むような素振りを見せて。


「そうだな。言うなれば、清算のためだ」

 

 いつものように、掴み所の分からない言葉をぽつりと零した。


「清算?」

「左様」

「何の?」

「さぁ」


 なんだそりゃ。相変わらずよく分からない。


「話した所で、貴様には到底理解の及ばぬ領域だ。気にせずともよい」


 うーん、そうきたか。この質問は失敗だったらしい。

 ほとんど無表情なデモンの顔から真意を汲み取ることは出来ないが、何となく踏み込んでほしくない質問だったというのは理解した。もう少し浅いところから聞いておけばよかったかも。好きな食べ物はなんですかみたいな。


「ならもう聞かないでおくよ。変なこと訊ねて悪かった」

「気に留めるな。余は貴様を選び、貴様も余を選んだ。当面はそれでよい」


 幼い容貌に似合わない、大人びた哀愁を花のようにふわりと漂せながらデモンは言った。

 見た目は子供だし、素振りも時々子供っぽく見える奴だけれど、やはり人間とは根本的に違うんだと実感させられる瞬間がある。

 魔性のカリスマとでも呼ぶべきか。踏み込み難く、近寄りがたく、けれど何故か見惚れてしまう。そんな神秘的とも言える雰囲気だ。


 そんな、談笑を始めたばかりの時だった。

 話の途中で、デモンが辺りをキョロキョロと探り始めたのだ。

 おもむろに倒木の上へ立ち上がったかと思えば、五感全てを駆使してナニカを捜索するように、ぐるりと周囲を見渡していく。まるで猛獣の足音に気づいた兎のようである。


「どうしたんだ?」

「臭う」

「臭うって、何が?」

「下卑た淫売と青臭い乳の入り混じった臭いがする。不愉快だ。鼻が曲がる」


 言いながら、彼女の挙動が止まった。

 視線の方角は俺の背後。倒木の上で仁王立ちしたまま、デモンはその方向へ向かって微動だにせずに眼差しを飛ばしている。

 そこに何があると言うのだろう。というか臭いってなんだ? 別にそんな異臭なんて漂ってこない。あるのは鼻腔を通り抜ける爽快な森のフレグランスだけだ。


「……ん? お? いや、本当だ。言われてみると確かに変な臭いが……」


 釣られて鼻を鳴らしていると、なるほど、確かにどこか饐えた香りがする。痛んで間もない食べ物を嗅いだみたいな感じだ。


 しかしこの異臭は、その程度では収まらなかった。


 秒単位で強くなっている。始めは少しツンとする程度だったが、だんだん腐肉を彷彿させる腐敗臭に転じてきて、遂には鼻で息が出来なくなるほどの激臭に変わっていた。


 鼻で空気を吸うたびに咽そうになる。だんだん目が染みてくる。思わず口がへの字に曲がる。


 臭い、臭いぞ。なんだこれ臭すぎる! まるで肥溜めの中にでも放り込まれたかのような凄まじい悪臭だ。

 いや、それよりもっと酷い。風呂に入っていない汗だくの肥満が一ヶ月履き続けた靴下を鍋で煮ているかのような、最悪最低な臭いが充満している!


 鼻を摘まみ、口を使って息をしても死ぬほど臭い。眼の表面にピリピリとした痛みが走り抜けて、涙で視界がボヤけてくるほどだった。

 そして次の瞬間、「あっ」と糸が切れたみたいに、俺の嘔吐中枢が臨界点を突破する。


「ぐォええええッ、なんだこのにおい! どこから匂っておぼろろろろろ」

「……出してしまえ。多少は楽になるやもしれんぞ」

「で、でもんっ、おまえこの中でも平気なのかおろろろろろろろろ」

「じきに嗅覚が麻痺して慣れる。それまで耐えろ小僧」


 まさかここにきて幼女に介抱される成人男性の肩書を被る破目になろうとは。ううぐ、情けなくて別の涙が溢れそうだ。

 でも無理だった。これは人間に耐えられるものじゃない。俺はじっと耐えながら、ひたすら五感の麻痺を待ち続けた。

 

 やがて、胃袋の中身を全部ひっくり返したところでようやく激臭の大嵐に順応し始める。

 パンを包んでいた紙で口元を拭い、俺は顔を上げて前を見た。



 ()()()()()



「……は?」


 目と鼻の先にカオがあった。人間の顔の皮を何十何百と頭に縫い付けて作られたみたいな、悪趣味なぬいぐるみのような生命体の顔が。


 ふじゅーっ、ふしゅーっ、ぶじゅるるる――肉食獣のそれではない、人間を思わせる黄ばんだ臼歯が歪に並んだ口の隙間から、鼻どころか肺がもげそうになる臭気と共に、死戦期呼吸のような異音が漏れ出ている。

 おまけに粘々した白濁の唾液が絶えず歯間から滴り落ちていて、触れた落ち葉が真っ黒に変色しつつガスを放ちながら腐り消えていく始末。


 前兆もなく視界を埋めた正体不明の特徴はそれだけではない。

 今俺が目にしているのは()()()()()だった。

 バカでかい頸椎を剥き出しの筋肉で括り付けているかのような長ーい首が、森の上から垂れ下がって俺の前を陣取っていたのだ。

 

 俺は、頭を固定したまま眼球だけで上を見た。

 首と繋がる本体らしきものが目に映った。

 多くのヒトの死体を繋ぎ合わせて作られたような四足歩行フォルムの胴体が、傍の樹の幹にヤモリのごとくしがみ付いている。


「―――――」

 

 人間とは面白いもので、理解を超えた窮地に陥ると、不思議なほどに思考が冷静になってくる。

 おまけに考えるスピードまで速くなる。現に、俺の頭脳は召喚士(テイマー)試験の時よりも遥かに回転数が上がっていた。


 えーっと、こいつの名前は何だったかな。確か学院時代に図説で見た気がするぞ。結構メジャーな部類だったはずだ。

 ああ、あれだ。ドラウグル。無数の人間の骸や生贄を触媒に、肥えた悪霊やら邪悪なエネルギーをやたらめたらに詰め込んで造られた特製アンデッド。主に大悪魔(デーモンロード)が使役している、猟犬代わりの怪物だっけか。


 この化け物の一番恐ろしいところは、体がどれだけ欠損しようが追い詰められようが、一度目を合わせた標的を喰らうまで絶対に追跡を止めない執拗さにあるという。『ドラウグルと目が合ってしまったら迷わず遺書を書け』、なーんて文句があるくらいだ。はは。ははははははは。


 死んだ。

 間違いなく、死んだ。


「あ」


 俺の頭の倍くらい、大きな大きな口が開く。

 二重に歯が生えそろった異形の口内が、無情なまでに露わになって。生暖かくて死ぬほど臭い息が、顔面全体に降りかかって。

 俺は、驚くほど静謐に死を悟った。



「不快だ」



 刹那、破裂音。


 デモンの高い声が鼓膜を突いたと思ったら、目の前の怪物が煙に巻かれたように姿を消した。

 次の瞬間、まるで森林一帯が竜の襲撃にでもあったかのような破壊音が爆発する。

 間髪入れず、木が何本も倒壊していく筆舌に尽くしがたい大音響が、森全体へ波濤した。


 地鳴りがする。グラグラと体が小刻みに振動させられる。

 そこまできて、俺はようやくあの怪物が()()()()()()()のだと理解する。


「実に不愉快だ。一度ならず二度までも余の安息に横槍を入れるとは」


 揺らいでいた意識がハッと正気を取り戻す。無意識に呼吸が止まっていたらしい。急に酸素を求め始めた肺のせいで、俺は激しくむせ返った。


 同時にカチカチと歯が鳴る。情けないくらい膝が震える。

 たった今、ほんの目前まで『死』が迫って来ていた実感がぶり返し、俺の体は、隅々まで恐怖の触手に絡め取られてしまっていた。


 死ぬかと思った。空から落ちた時よりも鮮烈に死ぬかと思った。

 いいや違う。これから死ぬんだ。今度こそ死んでしまうのだ。

 だって、だって、()()()()()()()()()()()

  

 ドラウグルはこの世で一番執拗かつ恐ろしい猟犬だ。そんな化け物に俺は匂いを覚えられた。獲物として定められてしまったのだ。

 何であの化け物がこんなところに出たんだとか、そんな因果関係は知った事じゃない。

 事実として俺は怪物に狙われた。それは明確な死刑宣告よりも質が悪い現実なのだ。


 心臓がすぼまる。視界の焦点が不明瞭になっていく。

 自律神経が暴走し、汗と悪寒がとめどなく溢れ出す。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたような気分だった。

 自分でも何を考えているのか分からないし、何をすればいいのかも分からなくなっていく。


 それでもなお、隣の幼女は変わらない。 

 二本の足で君臨し、ただただ彼方を見据えるのみ。


「1分だ。1分間だけ時間を稼げ」

「は。え、あ。なん、なんですと?」

「その間だけ席を外す。貴様一人で1分間だけ生き延びよ」


 理解が追いつかず、即座に停止する脳神経。

 熱を持ち始めたのは、数秒後のことだった。


「生き延び――ちょ、ちょっと待ってくれデモン。おまえ一体何言ってるんだ!? 一刻も早くこの場から逃げないと不味いんだぞ! 訳の分からないこと言ってないで早く逃げねーと! ドラウグルなんて、あんな、あんなの相手にしちゃいけない!! 食い殺されるだけだ!」

「否。木端如きに背は向けぬ。そも、あの犬は一度逃げたところで貴様を地の果てまで追い詰めるだろう。それは実に面倒だ。故に、ここで始末する」

「始末って、ドラウグルだぞ!? 大悪魔(デーモンロード)が従えるAランクの不死身の怪物相手にそんなこと出来るわけ」

「訊け。シヴァン・ルーデンシオ」


 顔を掴まれ、幼子とは思えないパワーで固定された。

 真っ黒に染まった白目と、中央に浮かぶ星のような瞳と視線が交差する。不思議なことに、吸い込まれそうになるデモンの瞳は、恐慌していた俺へ幾許かの余裕を取り戻させた。


「貴様は死なん。駄犬の腹に収まることもない。余がそうはさせぬ。例え天地が滅びようとも、世界全てを敵に回そうとも、この盟約は必ず果たす。我が言の葉を信じよ、シヴァン」


 デモンは言う。まるで泣き叫ぶ赤子を優しく宥めるかのように。

 不思議と、その言葉には信頼できる何かがあった。理屈でもなければ、明確な確信があるわけでもない。魂が信じたとでも言うべきか。デモンの言葉には、それを信じさせる力が漲っていたのだ。


「あ、ああ」

「目に光が戻ったな。それでこそ我が契約者だ。さぁ、動くぞ小僧。どんな手を使ってもよい。1分間だけ逃げ延びよ。それさえ成せば、後は任せるがよい」


 バシッと背中を叩かれる。痺れるくらい痛かったが、逆にそれが活となって調子の乱れた肉体を引き締まらせた。

 

「小僧。これは第一の試練と心得よ。この戦いの経験は必ず活きる時がやってくる。それ即ち、逃走の極意である」

「逃走……?」

「左様。貴様の肉体や衣装は堅くしたが、それは戦いの術を持たぬ貴様の命を予期せぬ事故から守るためだ。呆気なく死なれては困るからな。だがそれでは足りぬ。ただ打たれるだけの身代わり人形では意味を成さぬ」


 だから、とデモンは繋げて。


「活路を開く術を身に着けよ。窮地において生き延びる策を、崖の端から生還する肝を、この場で掴み取れ」


 言い終えて、デモンの姿が消えた。

 眼を離していなかったにもかかわらず、溶け消えるような雲散霧消。

 けれど、それは決してデモンが逃げた訳じゃないと確信している。

 

 何をしに行ったのかは知らないが、デモンはやるべきことを片付けに行ったのだ。

 目の前の怪物よりも重要なナニカに感付いたのだろう。俺よりいち早く襲撃に気づいていたらしいデモンなら、この異端なアクシデントの裏側まで掴んでいたって不思議じゃない。だからデモンは、1分間だけ待てと言ったんだ。 


 けれど、一等級や二等級が相手にする様な化け物と戦える力なんて俺には無い。魔力は並、技量も並、才能は無しの三拍子だ。


 そんな俺に今出来ることと言えば、デモンの言いつけを守ること。

 だったら、やってやる。今日はかっこ悪いところばかりで散々なんだ。

 超危険生命体から逃げ切るくらい、意地でも成し遂げてやるしかない。


「……やるぞ、シヴァン。ここが正念場だ」


 自分で自分に言い聞かせ、無理やりにでも心を鼓舞する。

 吹き飛ばされた怪物が、この世のものとは思えない雄叫びと共に戻って来るのを目視しながら、俺は荷物の中から杖を取り出すと脱兎の如く駆け出した。

 

 制限時間は60秒。それまで何が何でも逃げてやる。

 デモンの言葉を信じるしか、俺の生き延びる道は無いんだからな!

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