空を駆ける童女
目が覚めたら、体がムキムキになっていた。
「どういうことなの……」
洗面所の鏡の前で上半身裸のまま立ち尽くして、濁流のように押し寄せる困惑を呻き声に変え吐き出していく。
というのも、鏡に映っているのが自分じゃなかったからである。
いや、間違いなくこいつはシヴァン・ルーデンシオなんだが、昨日まとはえらい違いようで度肝を抜かれてしまったのだ。
だって起きたら筋肉が増えてるんだぞ。焦らない方がおかしいだろ。
万能職の仕事は基本的に肉体労働だ。だから少ない体力のせいで依頼未達成になりました――なんて情けないオチを防ぐために鍛えてはいた。
けれど、俺は職業こそ召喚士ではあるが根幹のところは魔導士と大差ない。つまり基本的に魔法での後援役が主なポジションであり、拳闘士やら剣術士のような近接を得意とする連中ほど鍛えちゃいなかったのだ。あくまで魔法が使えなくなった事態を想定し、それを補える程度である。
だというのに、鏡に映っている俺は近接格闘職に負けず劣らず引き絞られてしまっているではないか。
骨格は変わっていないからゴリラと呼ぶには程遠いものの、筋肉の部位がはっきり区別できるほど膨れ上がっている。腹筋なんか鎧のようにバキバキだ。一周回って気持ち悪い。
「……あー、これ夢か。明晰夢って奴。リアルだなぁ」
頬を抓る。クソ痛い。おいなんだこれ夢じゃないぞ。
「マジ? マジなのこれ?」
いやいや待て落ち着け冷静に考えろ。普通の人間は一晩眠っただけでビルドアップなんかしない。
つまりこうなったのには相応の理由があるってことだ。
脳ミソの引き出しをひっくり返して思い出そうとするが、記憶に靄がかかっているような感じがして酷く不鮮明だ。まるで深酒し過ぎて気付いた時には家で寝ていたかのような心境である。
ええい思い出せ。昨晩の俺は一体全体何をしていた?
飲み会が終わって、一泊するための宿へ着いて、シャワーを浴びて、今日のための支度を諸々済ませたあとに床へ着いた。
一連の行動に何の違和感も見当たらない。つまり原因はここじゃあない。
変わったところは他にあったか? と脳のさらに奥底まで掘り起こす。
薄ぼんやりではあるが、シャワー上がりのデモンから髪を乾かせと命令された一部始終が浮かんできた。俺には無いロングヘアーの手入れに四苦八苦させられたような気がする。
でもこれは違うな。髪乾かしただけで細マッチョになる奴があるか。どんな美容法だソレは。
眉間を指で抑え、海馬の発掘をひたすら続ける。特に一番不鮮明な眠る直前の記憶を、絡まった糸を丁寧に解いていくように探っていく。
そういえば、いざ就寝しようとベッドへ移ったらいきなり首筋を噛まれたんだっけ。
ああそうだ、『動くな小僧』からノータイムでガブッといかれて死ぬほどビビッたんだ。
段々思い出してきたぞ。確か噛まれて直ぐに麻酔でも打たれたような睡魔に襲われて、俺は糸の切れた操り人形さながらに撃沈したんだよ。
で、気付いた時にはこうなっていた。
「………………」
コレじゃん。絶対デモンに噛まれたせいじゃん。
聞いたことがある。『人類類似種』の中には概念異能と呼ばれる魔法とはまた違った特殊な能力を持つ個体や種族がいて、例えば吸血鬼なんかには噛んだ相手の身体機能を改造する能力があるんだとか。他にも対象を自分の使い魔として侵食した例があったっけな。
デモンの正体は未だ掴めないままだが、少なくとも彼女は小悪魔に類似した悪魔科の特異個体で間違いない。
分類上、吸血鬼も悪魔科に属する魔物だ。近縁と思しきデモンが似た能力を持っていてもおかしくはないだろう。
ただ、何故いきなりこんな真似をしたのかが気掛かりだけど。
「効果は現れたようだな」
カチャン、と施錠していたはずの鍵が呆気なく突破される音がしたかと思えば、眠たそうに半目を擦っているデモンがぶかぶかの寝間着を引き摺りながらやってきた。
さも当前のように着ているこの服は俺の予備だ。昨晩荷物の中から強奪された。当然サイズなんかクソくらえ状態なので、もはや服を貝の代わりにしているヤドカリにしか見えない有り様である。
相変わらずこいつの求めているものというか、考えてることが分からない。身嗜みにかなり気を使っているのかと思ったらこれだからなぁ。
……そういえば、結局あの黒いドレスはどこから持ってきたんだろうか。ついぞ口を割ってくれなかったし、盗品じゃないと良いんだけども。
「おはようデモン。当たり前のように鍵を開けて入ってきた件についてはもう何も言わねぇ。だがひとつだけ答えてくれ。これは一体どういうことだ!? きちんと説明しなさい!」
「なんだ。躰の調子に不足があるのか?」
「え? いや、どちらかと言えば何だか軽いし、むしろ絶好調だけども」
「そうか。では仕舞え。朝から見苦しい姿を見せるなこの露出魔」
「勝手に洗面所へ入って来たのはお前だろうが!? というか全然説明になって無いんだが!!」
「肉の体とは即ち鎧。鎧は強固で機能性に優れていればいるほどよい。つまりそういうことだ」
「どういうことだよ!!」
答えになっていない答えだけをぶん投げて、デモンは再度欠伸を一瞥しながら俺の横を通り過ぎていく。
向かう先は言うまでもなく洗面台だ。そのまま子供用の足場を使って足りない身長を補い、パシャパシャと顔を洗い始めてしまう。
「それで」
シャツの袖に腕を通して前のボタンを締めていると、デモンがタオルで顔を拭いながら言った。
「今日は何をする?」
「仕事をしながら帰る。昨日、依頼達成手続きと一緒にもうひとつ依頼を受けてたんだ」
デモンと共に部屋へ戻り、身支度を整えていく。衣装棚から取ったローブを羽織り、杖の調子を確認し終えたところで、俺は依頼書の控えをデモンへと手渡した。
今回受けた仕事はアイテムの納品だ。王都から俺の町へ向かう途中にある『黄昏の森』で、そこに自生している特産の果実を採集するというのがミッションである。
俺たち万能職は『黄昏の森』のような危険区域へ足を運び、薬や道具やらの素材を調達してくるのも大事な仕事のひとつとなっている。それは他者からの依頼に留まらず、個人的に赴いて貴重な品々を調達し、市場へと流す行動も含まれる。これを探索と呼ぶ。
もっとも、侵入できる危険区域は当然階級によって制限がかけられている。俺は六等級だから、危険度Fランク指定の場所までしか入っちゃならないって感じにな。
「さーて、出発するぞ。次の馬車便まで余裕はあるが、念のために早く停留所へ着いておこう」
「その必要は無い」
え? と荷物の最終チェックをしていた俺は思わず振り返る。
デモンはいつの間にかあの黒いドレスに着替えていた。依頼書と寝間着を俺に返すと、鍵をひったくってそのまま部屋の外へ出てしまう。
慌てて後を追いかける。しかしデモンの移動スピードは無駄に早く、追いついたと思ったら既に受付さんへ鍵の返却を済ませたところだった。
こちらに目もくれず、宿からスタスタと出ていくデモン。『おい、どこへ行くんだ!』と声を張るがリアクションのひとつもない。
仕方ないと、俺は荷物を背負い直して駆け出した。
「待てってば! どこ行くつもりだ、停留所は真逆だぞ!」
「馬車はトロ過ぎる。さっさと森へ行って仕事を済ませて帰るぞ」
「だから、乗らないと森の近くまで行けないの! それにそっち行ったって何もないぞ、路地裏なんだから」
「人目につきたくないだけだ。さぁ手を寄越せ小僧」
人気のない路地裏の奥まで俺を導いた困った召喚獣ちゃんは、相変わらずの四白眼で俺の顔をじっと見ながら小さな手を差し出してきた。
一体何をする気だ? ――怪しみながらも、恐る恐る彼女の手を取る。
その時だった。
小さな体が発揮出来るものとは思えないほどの腕力で、一気に引き寄せられたかと思ったら。
次の瞬間。王都の全体図が、俺の視界の全てを占領していた。
「は」
何が起こったのか分からず、スパークする脳細胞たち。
わずか一呼吸足らずの時間で襲い掛かって来た超常現象は、恐ろしい速度で俺を白痴の谷へ突き落とす。
肌を刺すような凍てつく寒さを味わい、びゅおおおおっと耳を掻き回す空を切る音に包まれながら、ただただ茫然と、目の前の光景を瞳に焼き付け続けるしかなかった。
この国で最高の栄華を誇る大都市の王都が、小さくなっていく光景を。
やがて、ナメクジの匍匐前進のようにゆっくりと、焼き切れていた思考が繋がってきて。
お世辞にも良品とは言い難いマイぽんこつ脳ミソが、この認識し難い状況の答えをやっとの思いで弾き出した。
――俺は今、空の彼方を飛んでいる!!
「はぶばっ、おふっほ、ふほァおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
10歳足らずの童子が、俺を俵のように担いで飛んでいる。
高く、高く、さながら天蓋を目指す竜のように。雲一つない満天の青空を、俺たちは優雅に舞い踊っている!
そして当然の帰結だが、こんな訳の分からない上昇劇を披露していても、いつかは限界がやってくる。
では果てしない上昇が収まった時、次に訪れるアクションとは何か?
もはや口にするまでもないが、端的に言えば俺は死んだ。
「いやァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア降ろしてちょうだァァああああああああああ――――――――――いッッッ!?」
「今降りているだろう。それと口を閉じろ馬鹿者、舌を噛むと言ったはずだ」