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下の下には俺(した)がいる  作者: サクラソウ
2章『落ちこぼれ魔術師の序列決定戦』
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14『魔獣襲来』

 悲鳴の原因はそう遠くないところにあった。

 響たちがいるショッピングモールの二階の吹き抜けからうかがえる、階下の様子。そこは端的に言って地獄――一〇年前と比すれば生温いが――だった。


 ソファーや観葉植物は破壊され、床には割れたガラスが散乱している。その阿鼻叫喚に拍車をかけるのが人だ。

 半狂乱になって逃げ出す者、腰を抜かして立てずにいる者、そして血を流して倒れる者。

 見たところ怪我人はいても死者はいないようだが、驚天動地に変わりはない。ただ、そこにそれがいるということが、これ以上ないほどの圧迫感となってこの空間に降り注いでいる。

 混乱を引き起こした主は、己の存在を誇示するかのように悠然とそこにいた。


 印象として第一に来るのは、黒い、ということだろう。全身が硬質な黒い体毛に覆われ、その下には体毛に隠されながらも認識できるほど分厚く太い筋肉を蓄えている。

 毛がないのは手足、尻、それと顔だ。

 目は見開かれ、そこから覗く眼光は爛々と危うく光り、口から覗いた牙は臼のよう。嚙みつかれれば、響の腕くらいたやすく砕かれてしまいそうだ。

 全長はざっと二メートルと少し。相対すれば当然のように危機感を抱かざるをえないような存在。その正体を端的に表現するならば――


「魔獣……っ!」


 階下の大猿を視界に入れ、双眸を開きながら響は驚愕した。

 大猿は狂気に染まった眼光を振りかざし、悠然と周囲を見回す。それから二本の足で立ちあがり、胸を逸らせて大きく息を吸い込むと、


「キィィィィイ――ッ!」


 雄たけび。空気を震わせる音の暴力に、響は思わず耳を覆って顔をしかめる。叫んだ大猿は上げていた両腕を下ろすと、猿特有の四足歩行でもって進行を始める。

 その足が一瞬止まり、大猿が相貌を響のいる方へ向けて――瞬間、響の腕が引かれ、物陰へと引きずり込まれた。

 数秒の後、大猿の歩行音が遠ざかっていくのが感じられた。顔だけを出して確認すると、魔獣は遅々とした足取りで人が逃げて行った方角に向かっている。


「ヒビキさん、何してるんですか。見つかったらアウトですよ。すぐに逃げましょう。三年生ならともかく、私たち一年生じゃ魔獣の相手はまだ早いです。即デッドです」


 魔獣の動向を観察する響に声がかけられる。当然のごとく瑠璃だ。面白そうだし見に行こう、などと言う判断を下した本人が、即座に撤退を決意していた。

 こんな時でも変わらない瑠璃に思えたが、心なしか顔が引きつっている。さすがに死ぬ可能性があることを考えると、普段通りとはいかないのだろうか。


 ――魔獣は、魔力に汚染されることで生じる災害のうち、特に獣の形を取ったもののことを言う。


 その定義に照らし合わせるのならば、あれは間違いなく魔獣だ。脅威度のほどは不明だが、サイズや雄たけびに含まれていた魔力量からいって脅威度EからD――魔術師ならば単騎でも相手が可能なレベル――といったところだろうか。

 なるほど、出会った瞬間即座に死を覚悟するような手合いでないことは確実だ。一〇年前のキマイラと比べれば路傍の石のような存在。だが、響たちはまだ学生。それも半年前に入学したばかりの一年生だ。仮に遭遇したとしても、対応は一般人と変わらない。すなわち、逃亡だ。


 一般人と比べれば戦いにはなるだろうが、下手な攻撃は魔獣の神経を逆なでするだけだ。そもそもが大型の獣として生じる機会の多い魔獣だ。クマの相手をして生きて帰ることが至難なように、一般人にとっての魔獣もそれと変わらない。むしろ魔獣の方が気性が荒い分、危険だ。


 故に瑠璃の言う逃亡という選択肢は至極真っ当。逃げて、後は知らせを聞いて駆けつけてくる魔術師にすべてをゆだねるだけ。しかし、


「……でも、あいつは人がいる方に向かっていった」


 大猿の速度は決して早くなかった。せいぜいが人が早歩きした程度。普通に考えれば、走る客に追いつくことは不可能だろう。

 だが、パニックに陥っている今では、統率された避難など望むべくもない。ショッピングモールの通路が広いと言っても限度がある。休日に来ていた人がなだれ込めば、簡単にパンクするだろう。


 パンクして立ち往生した客がひしめき合う場に大猿が現れれば。

 もし響の想像通りになるのならば、大参事は不可避だ。多くの人が文字通り血を流すことになろう。


「それを避けるには、時間を稼ぐしかない、よな」


「はあ」


「今ここであれと戦えるのは、俺たちだけだよ。なら、やるしかない」


「あ、そうですか。頑張ってください。ルリさん、こっちから逃げますんで、お猿さんの気を引くにしてもこっちはやめてくださいね。それじゃ」


「ちょっと!?」


 魔獣と戦うことを決心する響を華麗にスルーし、自分の逃げる算段を立てる瑠璃。すべてが台無しになる感覚に浸りながら、響は背を向けるサイドポニーを呼び止め、


「正義感とか、そういうのは……」


「ありますけど、そういうのは自分の命を最低限守れてからですよ。確かにあのお猿さんはあのキマイラと比べたら蟻んこですけど、私たちはその蟻んこ以下です。お砂糖です。戦っても面白くないですよ」


 瑠璃の言っていることは正しい。自分の身も守れないのに、分不相応な正義感など振りかざして何になる。蛮勇は簡単に人を殺すのだ。


 ――それなら、自分の身さえ守れればいいということになる。


「分かった大猿は俺が何とかするよ」


 あっさりと瑠璃の逃亡を承諾し、それどころか一人だけ残る選択をした響に、珍しく瑠璃が目を身を見張る。


「いや、ヒビキさんに死なれたら、向こうひと月の私の楽しみがなくなるじゃないですか」


「知らないし、死なないよ。別に勝とうとするんじゃなくて、時間を稼ぐだけだし。それくらいなら、今の俺ならできるよ」


「出来ませんよ」


「出来るよ」


 馬鹿を見る目で否定する瑠璃に、否定の言葉を重ねる。

 すでに序列戦を三度勝ち抜いた身。うち一度は、紋章術を著しく制限されながら勝利した。

 響の火力を鑑みれば、浄化することは厳しいだろうが、注意を引いて時間を稼ぐ程度なら十分可能なはずだ。

 幸い、今日はタロットを一ケース持ってきている。お使いの際、紙の種類などを確かめるために、横着してホルダーごと持ってきたものだが、運がよかった。万全の状態ならば、そう負ける気はしない。


「そういうことだから、気を付けて。あ、お使いの荷物、預かっておいてくれると助かる」


「え、本当に本気ですか? 試合じゃないんですよ? 殺し合いなんですよ?」


 瑠璃の問いには答えず走りだす。ずいぶんと時間を取ってしまった。大猿も、かなり移動したはずだ。急がなければならない。

 駆ける響に恐怖はなかった。



 * * *



 大猿は、最初に発見した地点から二〇〇メートル離れたあたりにいた。進行速度から考えると遅いが、これまでに通った通路には破壊の痕跡がちらほらと見えたので、遅い原因はそれだろう。

 だからといって、安心していい材料にはならない。


 前方――大猿の見据える先に、過剰なほどひしめき合った人の群れがある。放送やメガホンで店員が避難指示を出してはいるが、パニックになった人々は聞き入れている余裕がない。

 魔獣災害はそこまで高頻度で起こるわけではない。避難訓練を受けていようと、いざ脅威が目の前に出現すれば、どうすればいいのか分からなくなって当然だ。


 そんな事情など、魔獣は鑑みない。


「キィィィィイ――ッ!」


 雄たけび。空気を振動させる、微弱な魔力をまとったそれが、人体に及ぼす影響は騒音だけにとどまる。だが、背後に忍び寄る魔獣の存在を知らしめるには充分だった。


 最後尾にいた客が騒音に耳をふさぎ、反射的に振り向いて大猿を認める。

 悲鳴が起こった。悲鳴は悲鳴を呼び起こし、連鎖する恐慌となって伝染する。あっという間に阿鼻叫喚に包まれた場は、魔獣を刺激するには充分すぎるほどの恐慌だ。


「キィィィィイ――ッ!」


 再び雄たけびを上げて、大猿が地を踏み跳躍。避難する客たちとの間に空いた数メートルの距離を詰めにかかる。その勢いならば客の元まであと二歩。時間にすれば一秒ない。


 ――その足を止める。


木よ(wood)っ!」


 魔術陣から放たれた蔦が宙を走り、飛び上がる大猿の足に絡みついた。普通ならば力で劣っている時点で、蔦の反対側を持つ響が跳躍の勢いに振り回されるだけだろう。だが、”落ちこぼれ”の生成する蔦にそれほどの強度はない。

 ぶっつりとちぎれて、大猿のバランスをわずかに崩すにとどまる。


 勢いをわずかばかりとはいえ削がれた大猿は、眼前まで迫りつつ客には届かない。大質量が避難民一歩手前に着地する瞬間を狙ってホルダーを開放。一枚のタロットを抜き放った。


 ――(ignis)


 火球が放たれ、分厚い筋肉に覆われた体に衝突。はじいたような音がして、大猿の体毛からうっすらと煙が出る。しかし、ダメージはない。

 せいぜい強打の威力しかない響の魔術では、魔獣の体毛と筋肉の防御を突破することはできないのだ。

 だが、注意を引くことには成功した。

次回は月曜日です。

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