1『翌日』
――全身で風を切る。
九月のはじめとなれば、早朝の五時といえどすでに太陽はその顔を表に出している。
空気は湿っていて、日向では太陽光にジリジリと焼かれるようだ。不快指数は数分ごとに上がっていくが、これでも昼間に比べれば生ぬるいという事実に、早朝のランニングに勤しむ響は辟易とする。
――序列決定戦。その一回戦目に勝利したのは昨日。
何度も魔術にその身をさらされ、二度も炎をくぐるという真似をして掴んだ勝利。
魔術学園に入学して以来、”落ちこぼれ”と蔑まれ続けてきた響の努力が、初めて報われた瞬間でもあった。言い知れぬ高揚感が全身を支配しており、何かをしたいという気持ちが体を突き動かす。
怪我の程度から、少なくとも一日は安静にしていろと言われていたにもかかわらず、それを無視して早朝の日課を敢行したのはそれが原因だ。
端的に言って、勝ったのが嬉しかったのだろう。
これまで一度も勝てていなかったからこそ、余計に。
とはいえ、全身の怪我が完全に治っていないのは事実。一歩踏み出すたびにどこかしらがヒリヒリと痛んだり、体の内部からよく分からない虚脱感が襲うこともある。
それも、美里の治療があれば数日と待たずに完治するだろうが。それまではペースを落とし、最大限体を気遣ったトレーニングを心掛けなければ。体を気遣うのならば、そもそもランニングをしないで安静にしていろと、美里なら言いそうだ。
垂れてきた汗を手で拭って、響はさらに体を前に押し出した。
達成感に酔いしれる響。なんと甘美なものなのだろうかと思わずにはいられない。
これを味わうためならば、響はどんな苦境にも立ち向かうだろう。
――初勝利の次の日の朝は、そうやって迎えた。
* * *
「――私の記憶が確かであるなら、貴方たちは紋章術の悪いイメージを払拭してくれる、という話だったと思うのだけれど」
怪しい雰囲気が立ち込めるプレハブ校舎の二階。机や紙束、その他あらゆる器具で埋め尽くされ、教室二つ分の広さを感じさせない一室に不機嫌な声音が発せられた。
魔女、という形容詞がこれ以上ないほど似合う紋章術講師――長津田春花は、手に持つ紙を机に叩きつけ、さらなる威圧感を放つ。
「それなのにこれはどういうことなのか、説明してもらいたいのだけど?」
その威圧感を向けられた先には二人の生徒。響と奏は、放課後、プレハブまで呼び出されていた。
師弟は互いに顔を見合わせ、それから訝しむ表情で髪に視線を向ける。すると奏が息を飲んだ。
学内新聞だ。一面には『学園最強、教師に圧勝!』の文字。だが奏が息を飲んだ理由はそこではない。
その下段。一面の中にあるもう一つの記事に、彼女の視線は釘付けだった。すなわち、『"落ちこぼれ"大勝利!?』という見出しに。
そうして沈黙する師の姿を視界の端に捉えながら、響も目を見張り呆然とせずにはいられなかった。
――そもそも春花が響単体ではなく、奏をも呼び出すのは非常に稀有な事態だった。
当然だ。厭世家たる春花は、授業以外において極力人とかかわりを持たない。だからこそ、普段から特別講義を受ける響はともかく、関係者とはいえ紋章術の抗議に直接関係のない奏を呼び出すことはまずありえない。
最初は放課後、美里に呼び出され、昨日の治療の続きが済んだところだった。
響の勝利にどう周囲が反応するかが予想できず、ふたを開けて見ればこれまで通りの待遇に、若干の寂しさと安堵を感じていた響に、美里はこう告げたのだ。
「そういえば、春花が君を探していたぞ。探していた、というか、私の携帯にメールを送ってきたのだがね。呼び出せと。どうせ今日の序列戦が終わるまで訓練場は使えない。行っておいてくれ」
なるほど、引きこもりの春花らしいと、苦笑いで応じた響は学園の辺境にあるプレハブまで向かい、そこで奏と出くわした。聞けば奏も呼び出しを受けていたらしく、ならば一緒に行こうということになって。
――そして、今のこの状況である。
新聞の見出しは"落ちこぼれ"の快挙を褒め称えるようなものだが、春花の不機嫌から、内容までそれに即しているとは思えない。
それにこの魔術学園に充満する、ある種、実力第一的な風潮から、例え内容が見出しに即したものであったとしても、素直に受け取ることはできなかっただろう。
目を見張っていた響は瞬きし、記事を読む。
――今年の魔術大会が昨日始まった。有名な"落ちこぼれ"こと菖蒲響と、新垣隼人の対戦があったのは、その三試合目である。序盤、新垣選手が優勢。菖蒲選手は逃げ惑うだけの無様な姿を晒していたが、中盤に反撃が始まる。遠目には分かりにくかったが、新垣選手によると紙を投げていたということだ。魔術を発生させるその紙により、"落ちこぼれ"であるはずの菖蒲選手は互角の戦いを演じ、最後には勝利した――。
比較的まともなのはここまでだ。その先から、内容は極端になっていく。
――この試合に関して、卑怯だという意見が飛び交っている。飛び道具を使うなど言語道断だろう。後の調査で、この紙は紋章術なのではないかという推測が出ている。確かに、魔術具の類であれば使用は禁止されていないが、いくらルールに反さないからといってやっていいことと悪いことがある。新垣選手によると、試合前には極論を用いた罵倒をされ、試合中には目潰しをされたという。なんと卑劣なことか。このような卑怯かつ卑劣で、恥を知らない"落ちこぼれ"の振る舞いに、私たちは断固立ち向かわねばならない――。
「…………」
読み終えた響は難しい顔。
確かに魔術師の常道からは外れた戦い方で掴んだ勝利だ。そこに反感を覚えられたとて仕方ないとはいえ、"落ちこぼれ"たる響が勝ちを得るにはそれしか方法がなかったのも事実だ。
「これは……」
「キュルゥ……」
隣で呟く声がして見ると、記事を読み終えたらしい奏は、その美しい双眸を歪ませて唇を噛んでいる。
いつの間にか実体化したキュルリンまで、うんざりしたような表情だ。
そうして各々似たような反応をする面々を睥睨し、春花はもう一度学内新聞を叩いて、
「で、どう責任を取ってくれるのかしら?」
「責任って……」
別に響にも奏にも責任はないのだが。だが春花はそれで納得しない。
「これでは美しくも美しい紋章の株は上がらないじゃない。というより、書かれ方を考えると評判は上がるどころか下がったと考えるべきね」
「まあ……はい」
「私がわざわざ、紋章と愛を育む時間を削ってまで特別講義をしたのに、これはあんまりではないかしら?」
「そうですね」
「結果は出ず、それどころか評判を貶める。紋章術にとって全く益がなく、損しか生まない。それなら私は、これ以上貴方に紋章術を教える必要はないのだけれど」
「え」
思わず間抜けな声が出て、春花をまじまじと見てしまう。
だがそこには普段と変わらない、魔女然として風貌があるだけで、今の発言が冗談の類ではないことを物語っている。端的に言うと本気だった。
「ちょ、それは困りますって」
「知ったことではないわね。紋章術が絡まないのなら、貴方の勝敗は私に関係ないもの」
「俺、試合で紋章術使いますし、絡まなくないですよ」
「今後の紋章術の使用を禁止するわ。愛を育むのなら止めないけれど」
「無茶な……」
平然と響の数少ない武器を封じにかかる春花。職権乱用ですらない、シンプルに理不尽だった。
響は横を見、師に助けを乞う。だが肝心の奏は未だに新聞を凝視していて、こちらに気がつかない。ブツブツと何かを呟いて思考に没頭している様子だ。
「キュルッ」
「キュルリン?」
そんな奏に代わって声を発したのはその使い魔だ。変わらず高い知能で会話の内容を掴んだのか、カーバンクルは春花に胸を張って、身振り手振りを混えながら、
「キュルッ。キュルルゥキュル。キュルル。ンキュッ」
「何言ってるのかしらこの毛玉は……」
「すみません、俺にも分かりません」
「キュルッ!?」
熱弁虚しく、なに一つ伝わらなかった。せいぜい仕草が愛らしかっただけだ。
バッサリ切り捨てられたキュルリンは、しょんぼりと肩を落として、
「キュル……」
一言残すと霊体化した。残念ながら、最後まで何を言っていたのかは分からなかったが。
茶番のようになっているものの、響の選択肢から紋章術が消えてしまうのは相当な戦力ダウンへつながってしまう。それだけは回避したいが、奏はなぜか一言も言葉を発せず、キュルリンは言葉が通じない。
消去法でこの状況を何とかできるのは自分だけと思い至った響は、意を決して口を開く。
「あー、先生、さすがにそんなにすぐ結果が出るわけないですよ」
「は?」
「えっと、ほら、今は使えないと思ってた紋章術が役に立ったことに対して周りが驚いてるだけです。それに一回勝っただけで、今までの印象が変わるわけもないじゃないですか」
「そういうものかしら」
「そういうものです。だから次か……その次……もしかしたらもっと後になるかもしれませんけど、ちゃんと紋章術の名誉は回復します」
「煮え切らないわね」
「はっきりいつになるかは分かりませんからね」
「とはいえ、確実に回復するのであれば協力はさせてもらうけれどね。疑わしいわ」
「でも、紋章術の評判が下がった今手を引くのは、悪い状態のままにするってことですよ」
「む……」
自分でも根拠のない、かなり適当なことを言っている自覚はあったが、身に着けたポーカーフェイスを前面に押し出して自信満々に宣言する。
響の説得を受けた春花は、その甲斐あって難しい顔をして唇に指をあてると考え込んだ。
「そもそも貴方が試合で紋章術を使うことで名誉が傷つけられるのならば、使用を禁止してこれ以上の損失を食い止める。より小さいマイナスにできるのならば、私は断腸の思いで受け入れるのだけれど」
「傷つけられませんって。これから勝っていけば回復するんですから、取るべきはより小さいマイナスじゃなくて小さくてもプラスでしょう」
数十年前にすでに傷つけられてるものではないのか、という言葉は飲み込んで、響は説得を続ける。
あと一押しだと、響は直感的に感じ取っていた。
「回復するのなら喜ばしいことであるわ。けれどね、前提として、貴方は勝てるのかという疑問があるの」
案の定、春花は確認するような問いを放ってくる。以前に投げかけられたものと同じ問い。それにかつての自分はどう答えたのだったろうか。
今の響は、その時の答えとは違う言葉を紡ぐことができる。
「勝てるかどうかは分かりません。――でも」
いったん言葉を切り、こればかりにはポーカーフェイスは使わない。飾らない、素の決意を宿した瞳でまっすぐに。
「勝ちます」
一か月半前の決意を繰り返した。
* * *
「ふう……」
プレハブから出ると不気味な雰囲気から解放されて一息ついた。
春花を納得させ、紋章術の特別抗議はこれからも付けてもらえることになった。肩の荷が下りた気分だ。だいぶ大口を叩いてしまった気がしないでもなかったが、今さらというものだろう。
――学園最弱の身分で序列二〇位以上が目標など、大言壮語以外の何物でもない。もちろん本気だが。
そんな思考に沈んでいると、ふと隣を歩く少女が一言も言葉を発していないことに気がつく。まだ傾き始めた程度の太陽を背後にしながら、何事かをブツブツと呟いているだけだ。
「あの、先輩、どうかしましたか……?」
春花に学内新聞を見せられてから続いているこの状態。心配せずにはいられない。
恐る恐る声をかけると、奏はそのままの体勢のまま、
「許せないわね……」
「はい?」
「ちょっと訂正してもらうように言ってくるっ」
ボソリと口にしたと思った瞬間、疑問の声を出す響を無視して奏は動き出した。第二訓練場に向かう進路から九〇度反転。その足は新聞部のある棟へ向いている。
「先輩!? ちょっ、ストップ!」
目を白黒させながら、響は制止の声を投げかけた。
奏はそれにいったん立ち止まり、半身だけ振り返って、
「なに? 菖蒲くん」
「一応確認しますけど、何を訂正してもらうんですか」
「もちろん、さっきの新聞に書いてあったことよ」
「そのために、新聞部に殴り込みに行くんですか?」
「殴りこまないわよ。ただ、ちょっと苦情を言いに行くだけ。あと、明日でもなんでもなるべく早く、今日の記事を訂正してもらうだけ」
「殴りこんでますってそれ。やめてくださいよ?」
昨日、勢いで響の名前を読んだことなど記憶の彼方に葬って、奏は相変わらず少しずれた見解で物を語る。
引き留める響に奏は唇を尖らせ、それから不満そうに全身で振り返って、
「菖蒲くんはあんな風に書かれて悔しくないの? 嫌じゃないの?」
「悔しくなくないですし、嫌じゃなくないですけど……実際、あまり褒められた戦い方でもないですから」
挑発、不意打ち、奇襲に目つぶし。文字に起こすとずいぶんと非道なことをしているものだと感じるものだが、”落ちこぼれ”である響が勝つためには必要なことである。だとしても、学内新聞の言う通り卑怯と言われても仕方のないことである。少なくとも、やられた側はいい気はしまい。
だからといって、今さらやめることはしないが。
響の言に、奏は渋い顔。反感を得られても仕方がないと断じる響を慮るように目を伏せた。
「でも、響くん頑張ったじゃない。三カ月間って聞いたら短く感じるかもしれないけど、期間から考えられないくらい、自由な時間なんてほとんどないくらい頑張ったじゃない。それを知らずにあんな風に書かれるなんて……」
「…………」
放課後や休み時間、通学時間に帰ってからも、響は様々な訓練をしてきた。シミュレーションも含めてだ。奏の言う通り、行きついたのが反感必至のものであったとしても、それだけで全否定するには無理のある努力量。
実情を知らない他生徒ならばともかく、響の努力を間近で見て来た奏としては思うところもあるのだろう。
「でも、訂正なんてしなくていいです。扱われ方が変わったわけでもないですし、実害はないんですよ」
「実害がなくても、私の気がすまないの」
「どうしてですか?」
「師匠が弟子のことを心配するのは当たり前のことでしょ?」
あくまで抗議に行く姿勢を曲げない奏。響としては、奏の弟子を慮る行動は好ましいものの、どうしても過保護な感じがぬぐえない。
そうして、響の制止を振り払って行動しようとする奏を見かねたのか、彼女の前に唐突に光の粒子が凝縮する。次の瞬間には、ついさっき霊体化したキュルリンが出現していた。
使い魔は視線を奏と同じ高さに合わせると、喉を鳴らす。
「キュルルル。キュルッ。キュルゥ」
「うん、そうかもしれない。けどねキュルリン……」
「キュルーッ。ンキュッ」
「うっ、その通りかな」
「キュルルゥ」
「分かったわよ。我慢する。私、我慢するから」
キョトンとする響の眼前で、自らの主を説得するキュルリン。響や春花相手には伝わらない言語も、奏相手であるならどういう原理なのか通じてしまう。
見事に実体化した目的を成し遂げて、奏は頑なだった意志を曲げた。
「相変わらずですけど、何で会話できるんですか。ていうかどんな会話してたんですか」
「それは内緒ってことで。会話できるのは長い付き合いだから、なんとなくね」
響ができなかった説得の手腕を知りたかったが、その内容は極秘だった。響にしてみれば読解不可能な言語による会話だったため、どういった内容だったのかは想像に任せるしかない。
大人しく諦め、それから再び第二訓練場に向かおうと奏とそろって歩き出す。
この時間ならば、すでに本日の序列決定戦は終わっているだろう。
そもそも奏との関係を秘匿していたのは、ひとえにその修行内容に踏み込ませないためであり、ひいては一回戦目の勝率を上げる事であった。
それが果たされた以上、以前のような警戒は必要ない。もっとも周りにひけらかすようなことはしないし、訓練する際には相変わらずひとけのないところだが。
この時期ならば第二訓練場。
直射日光をまともに受けるフィールドだけ残暑厳しき折には人気が皆無だ。
そうして第二訓練場に向かう途中、奏はおもむろに人差し指を立てた。
「――それで、菖蒲くん。今日からすることだけど。次の試合は三日後ね。それまでに次の相手の一回戦の試合映像を何回も繰り返し見て研究すること」
「はい」
響の次の対戦相手の試合が行われたのは昨日のこと。怪我の治療で役に立たなかった響を置いて、奏が撮影してくれた。しかもキュルリンと別れて別角度からも撮ったというから、情報は完璧だろう。
戦術を練る上で、相手の情報は必須だ。
奏は首肯する響に頷き返し、それから立てた指をもう一つ増やす。
「それともう一つ。今日から新しい課題を付け加えるわね」
「課題? 『体力強化』とか『知識吸収』とかみたいなのですか」
「そういうこと。『体力強化』に関してはこれまで通り続けてもらうとして、追加でもう一つ」
奏は肯定し、凛とした空気を作ると、
「手札を増やしましょう。――新しい魔術を覚えるの」
復活しました。
毎日更新できると思います。もしかしたら途中で変わるかもしれませんが。




