天賦の才
藤吉郎の目当ては案の定、牛太郎への借財だった。
長浜に城を築くための銭が足りないという身勝手な理由による。
牛太郎が頑として断っていると、藤吉郎は恩着せがましく小谷に招いてやったことを述べ始め、例のように牛太郎と藤吉郎の言い争いになったところで、物怖じしない新三が言った。
「材木なら、浅井様が竹生島に隠していたという噂がありますが」
「ほ、本当かえ!」
新三は南近江栗太群の生まれである。琵琶湖の恵みでその日を暮らしている船頭たちが噂していたことを説明すると、藤吉郎は長浜へとまっしぐらに飛び出していき、琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島へと船を走らせた。
竹生島には新三の言葉通り、大量の材木が眠っており、
「おみゃあ! 牛殿には勿体にゃあ子供だぎゃあにゃ! おりゃあの小姓になりゃれえ!」
「お言葉ありがたく存じますが、遠慮させて頂きます」
「おみゃあみてえな賢い子供が牛殿の小姓なんて勿体にゃあ。いつでも牛殿を見限って、おりゃあの元へ来るんだぎゃあ」
藤吉郎は早速、長浜の築城を始めようと人を集めたが、藤吉郎があれこれやかましく口を挟んでいたのも束の間、越前で異変が起きた。
朝倉氏を滅ぼして以降、上総介は旧朝倉家臣の桂田播磨守を越前守護代としていたが、桂田播磨守は圧政をもってして越前民衆の恨みを買い、これに乗じて、同じく旧朝倉家臣の富田弥六郎が民衆を扇動して土一揆を引き起こし、播磨守を打ち殺した。
富田は越前守護代を自称し、上総介に人質を差し出して、自分を正式な越前守護と認める旨を嘆願するが、上総介が悩む間もなく、今度は富田の圧政に民衆が怒り、一揆衆は加賀の本願寺教団の手を借り、一向宗を越前に引き入れ、富田を打ち滅ぼさんとする軍勢は十万人以上に膨れ上がった。
富田はわずか千人弱の兵数で、鳥合の衆の一向一揆勢を一度は潰走させたが、その後も寡兵にありながら大勢へのなかば無謀な突撃を繰り返したために兵卒たちの心は離れていき、最後は配下の者に殺された。
混乱のすえ、越前は加賀のように一向一揆衆が自治権を獲得し、上総介はこれの備えのため羽柴藤吉郎や丹羽五郎左衛門などを敦賀群へ向かわせた。
さらに、これに呼応したのかどうなのか、武田が動いた。東美濃岩村城に大膳大夫勝頼率いる軍勢が入城したとの報告が岐阜に入った。武田軍は矢継ぎ早に明智庄へ襲いかかり、長山城を取り囲む。上総介は嫡男勘九郎を連れて出撃し、大膳大夫と決戦に持ち込もうとしたが、山々が連なる明智庄近在は決戦に向かなかった。
織田軍と武田軍がどちらから仕掛けることもできずに睨み合っていると、長山城内で飯羽間右衛門という将が反乱を起こし、武田の手となってしまう。
上総介は仕方なく高野というところに城を築き、ここに織田古参の将、河尻与兵衛を置き、さらに小里というところにも城を置いて、守将を池田紀伊守にし、両者を武田軍の東美濃侵攻に当たらせた。
小谷で静養中の牛太郎は、岐阜に呼びつけられた。一日で来いという達しだった。牛太郎は梓を置いてあわてて小谷を出、輿の上にしがみつきながら担ぎ手たちを叱咤し、一昼夜をかけて岐阜に舞い戻ってきた。
「いつまでも遊び腐りやがって」
上総介の機嫌は相当の悪さで、これは間違いなく折檻されると牛太郎は覚悟して平伏したが、
「武田をどうにかしろ」
と、意外すぎる言葉であった。牛太郎は思わず顔を上げてしまい、いつものように扇子を投げつけられる。
「痩せても、お前はうつけだ」
「と、とは言っても、このうつけに武田をどうにかしろだなんて」
「徳栄軒とまともにやり合ったのは織田ではお前だけだ。自由にさせてやる。摂津のようにどうにかしてこい」
上総介は席を立って、牛太郎の前から去っていった。
牛太郎は上総介の姿がなくなっても、しばらく膝をついたまま、その場で悩みこんだ。
上総介の下知は対武田戦略の全権を牛太郎に与えることにも捉えられる。しかし、摂津を割ったときとは様相がまったく違う。武田家は摂津の豪族たちとは比べ物にならない大大名であるし、偉大な徳栄軒が死んだとはいえ、大膳大夫勝頼を中心とした一枚岩の武者軍団である。
付け入る隙がまるでない。――というのが実際である。
長篠。
後世からやって来た牛太郎は、史実に疎いせいで、己の境遇を有利にさせてこられなかった。しかし、織田軍が鉄砲という新戦法で武田騎馬隊を壊滅させたという大事件は、牛太郎でも知っていた。
先の二俣城の攻防及び三方ヶ原決戦では、それが長篠の戦いに結びつくのではないかと勘違いしていたためにひどい目に合ったが、すでに織田軍は二千丁の火縄銃を備えており、そのときがいつ来てもおかしくはない。
問題は長篠の戦いがいつなのかということで、実は上総介に全権を与えられた自分が武田軍と織田軍を長篠で引き合わせるのではないかと、牛太郎は考えた。
しかし、どうやって。
すべての経験が無いに等しい。織田軍は鉄砲隊を主とした戦いを今まで行ってきていない。過去には三段撃ち、三段撃ち、と、馬鹿の一つ覚えのように連呼していた牛太郎だが、金ヶ崎の退き口で沓掛勢が朝倉勢の大軍に飲み込まれてしまったのを目の当たりして以来、火縄銃が戦場でさほど活躍できるとは思えなくなっていた。
だが、対武田を上総介に委任され、徳栄軒及び山県三郎兵衛尉に苦渋を舐めさせ続けられてきた牛太郎は、これは簗田牛太郎冥利に尽きると思い、瞳には熱を、手には拳を握り締め、すっくと腰を持ち上げた。
ひとまず、長篠に行ってみるしかない。どうするかはそれからだ。
「えらい役目を仰せつけられましたね」
部屋を出ると、長谷川藤五郎が待ち構えていた。
「おやかた様は京の帝の元へ向かうそうですから、てっきり、オヤジ殿も連れていくために呼び出したのだと思っていましたよ」
「天皇陛下に会いに行くのに、信長様がおれを連れていくわけねえじゃんか」
「いやいや、それが、東大寺に納められている天下随一の香木、蘭奢待の切り取りの勅を所望するためとかで。オヤジ殿が香木に興じられているのはおやかた様も耳にしていますからね」
「よ、よくわかんねえけど、知っているの? おれが香木を漁っていることを」
「知る人は知っていますよ」
にんまりと笑みを浮かべた藤五郎から逃げ去るようにして城を下り、稲葉山麓の我が家に帰ると、於松を呼びつけた。いや、於松は先回りしていて、すでに部屋の窓の外にいた。
「三河に行くぞ」
「三河、ですかい?」
「家の連中には信長様の上洛に付いて行くとだけ言っておく。三河にはお前と新三の三人だけで行く。栗綱もいらない。歩きだ」
「それはどうして。まだ、旦那様にはこたえるんじゃねえんですか」
「黙って言うことを聞いてろ。新三にも京に行くから準備をしとけって言ってこい」
「へえへえ」
障子窓を隔ててそんなやり取りをしたあと、牛太郎は素襖を脱ぎ、半纏と股引を身に着けた。脱いだ着物と太刀、脇差は荷物にまとめる。
武田の忍びを警戒してのことだった。
いつぞや、さゆりが言っていた。武田の忍びは格闘には長じていないが、諜報には図抜けている。岐阜城下でも何者かに化けて必ずや徘徊しているであろう。
こちらの動きが筒抜けでは何もならない。
夕飯になると、牛太郎は家の者たちに説明した。上総介の上洛に先立って、京の朝廷に働きかけることになったから、今夜にでも早速、岐阜を立つ、と。
「父上が朝廷に?」
明らかに牛太郎の柄ではないことなので太郎が怪しんだが、牛太郎は今までも何度か働きかけたのだと嘘に嘘を塗り重ねて突っぱねた。
「だったら、俺たちも連れていってくださいよ」
七左衛門が不服そうであった。
「お前らは岐阜に残っていろ。いつ、いくさになるかわからねえんだから。それまで英気を養っておけ。格さん助さんには期待しているんだからよ」
心にもない牛太郎の言葉に、七左衛門は笑みを浮かべ、おとなしく引き下がった。
とはいえ、太郎には言っておくべきかと考え直す。家中の将たちと分け隔てなく顔を合わせられる侍大将の太郎なのだから、朝廷に働きかけなどしていないことなど、すぐにわかってしまう。
「太郎。お前だけには言っておく。おれは信長様から武田をどうにかしろって言われた。だから、とりあえず三河に行く」
自室に呼んだ太郎にそう伝え、三河行きの秘匿の理由も説明すると、
「父上のお考えはわかりました。家中の人たちにも京に行ったと言っておきましょう。ただ、どうして三河なのです」
徳川三河守に会いに行くなら浜松だろうし、武田の西上作戦は失敗したものの、二俣城はいまだ武田属であるし、敵との前線は今も変わらず天竜川沿いなのだから、行くべきは遠江であろうと太郎は言ってきた。
「お前は昔から武田担当じゃないんだからごちゃごちゃ口出しすんな」
太郎はむっとしてふてくされる。
「おれは昔から武田討伐に全身全霊を懸けている。武田はおれの宿敵だ。お父さんの好きにさせろ」
「宿敵、ですか」
「そうだ」
牛太郎は笑みを浮かべた。
「山県がおれを殺すか、おれが山県を殺すか、あいつとはそんぐらいの因縁だ」
梓に半殺しにされて以降、心身ともに気力を失くしていた牛太郎が、武田の名を、山県三郎兵衛尉の名を口にした途端、めらめらと蘇った。
いや、太郎に対して、武者の熱っぽさ、まるで少年のような気概を見せたのは初めてである。
「かしこまりました。ただ、鼻息荒くなるままに無茶はしないでくださいね」
太郎は頬を緩めて牛太郎を眺めていた。
「あ、そうだ。あと一つ、太郎にお願いがある。あずにゃんに黙ってのことだから、機嫌取りだけは忘れないように」
牛太郎は慎重すぎるほどに武田の忍びを警戒し、三河岡崎までの道程を、いつもとは変えた。今までは清州、沓掛、岡崎と三日、遅くても四日で辿り着いていた道のりを、東海道筋の各所でいちいち足を止め、十日をかけて岡崎へやって来た。
「京に行くのではなかったのですか」
子供の新三は行く先が花の都でなかったのが不満らしい。
「馬鹿だな。今から行くところは京なんかよりももっとおもしろい、天下分け目の決戦地だ」
新三は鼻で笑う。
「殿が天下分け目だなんて」
「クソガキが。今に笑えなくしてやる」
岡崎城下で宿を取ると、そこでしたためた書状を於松に渡し、松平善兵衛のところへ走らせた。
二俣城、三方ヶ原で共に戦った善兵衛は、本来は三河守嫡男次郎三郎信康付きの足軽大将である。ほどなく、牛太郎の書状で内訳を知った善兵衛が、百姓姿に扮装し、従者を一人だけ付けてやって来た。
武田との凄惨な戦いから丸一年、善兵衛の面構えは少し引き締まったようでもあったが、牛太郎と向かい合うなり目尻を崩して歩み寄り、三河武者らしいごつごつとした手で牛太郎の両の手を握った。
「お久しぶりです! 簗田殿! 森殿や玄蕃允殿はお元気ですか!」
「申し訳ないね。そんな格好させちまって」
「いえいえ、簗田殿のお頼みを断る者が徳川にいましょうか」
想像を絶する慕われように新三がぽかんと口を開けている。牛太郎は不敵な笑みを浮かべながら新三をしっしと追い払い、善兵衛と二人きりになると、切り出した。
「実は岐阜の信長様に武田をどうにかしろって言われたんだけど、おれが思うに、武田はにわか調略で屋台骨が揺らぐような連中じゃない」
「おっしゃる通りで」
「とすると、結局は奴等と浮沈を賭けていくさをしなくちゃならないわけだ。三方ヶ原みたいに。あんときは信玄のおっさんがいたせいでボロ負けだったけれど、今はあの化け物がいないし、今度はいくさに万端を尽くすつもりだ」
「次は織田様がきっちりと援軍を向けてくださるということですか」
「そうだ。でも、信長様ってのは、絶対に勝てるいくさじゃないと出てこない。絶対に勝てる方法を編み出さないと、武田との決戦はいつになっても出来ない」
「武田に絶対に勝てる策ですか......」
「ということで、長篠に行きたいんだけど」
「長篠城ですか?」
「そ、そうとも言うかな」
「長篠城のことを知りたいのであれば浜松に向かうべきです」
というのも、今の長篠城の守将は奥平九八郎貞昌という齢十九の若武者だが、これはつい最近家督を譲られたばかりで、その父、美作守貞能は長篠から離れ、三河守の傍らに仕えている。
「美作殿は奥三河の国人衆ですから、あの辺のことはお詳しいようです」
牛太郎は悩んだ。三河もそうだが、徳川軍の本拠地である浜松には大勢の忍びが網を張り巡らせているに違いなく、浜松城に登って三河守に面会をするといった目立った行動は控えたい。
自分が動いているということを武田には露も悟られたくない。
「美作守はとりあえず考えておく。今はひとまず長篠がどんなところか見てみたいんだ」
善兵衛が牛太郎をしばし見つめた。長篠にそこまでこだわっている理由が若干ながら不可解らしい。
ただ、彼は太郎や新三のように理屈っぽい男ではなかった。
「わかりました。長篠城に行きましょう」
そういうことで、善兵衛の先導のもと、牛太郎は於松と新三を引き連れて奥三河へ向かった。
奥三河というだけあって、三河国北東部の深い地である。
武田家の重要拠点である信濃国諏訪から東三河へと抜ける途上に長篠城は築かれており、東海地方に今川家がまだ君臨していた時期からの戦略的要綱であった。
今川家の没落以降、長篠城は徳川軍に属していたが、武田軍の西上作戦の折、徳栄軒本隊の支隊として諏訪から出撃してきた山県三郎兵衛尉の軍勢に降伏する。
しかし、武田軍が甲府へと撤退すると、昨夏、三河守家康は長篠城をすぐさま奪還する。
「美作殿は、一度は武田に属したのですが」
善兵衛の話によると、一時、奥平美作守は武田家に三人の人質を差し出して忠誠を誓っていたが、奥三河に勢力を取り戻したい三河守家康は美作守を自軍に引き戻したいと考え、 岐阜の上総介に相談したという。
「織田様の助言により、おやかた様は長女の亀姫様を九八郎殿に嫁がせることや領地の加増などをお約束したのです」
さらには武田徳栄軒の死も決め手となったのであろう、美作守は次男を初めとする人質三人の命と引き換えに、徳川方へと帰参した。
「当然ながら長篠城は東三河の要ですから武田は奪還を狙っているでしょうし、その守将が裏切った美作殿の嫡男ともなれば、武田大膳は牙を剥いてやって来るでしょうな」
牛太郎は新たな当主である大膳大夫勝頼をよく知らないので、果たしてあの徳栄軒の血を継ぐ者が感情的になっているだろうかどうか疑問であったが、西上作戦で武田軍を二個に――実際は東美濃侵攻隊と合わせて三個なのだが――分けて、山県隊が長篠城を攻めたことを考えれば、徳川、武田の両者が東海地方の覇権を争っている限り、長篠城は天竜川沿いの攻防戦線とともに、激戦の中心地であり続けるのだろう。
「長篠の戦い」を引き起こしたい牛太郎としては好都合である。ただし、武田軍の侵攻経路には、三河、遠江、東美濃の三方面がある。
三方ヶ原のときのように武田軍が全力を持ってして侵攻してくれば会戦は再度勃発させられるが、今の当主にその勇気があるだろうか。
武田全軍を長篠に引き入れられるかが課題の一つである。
とりあえず、それはまだいい。
長篠に何があるのかである。織田軍に有利な何があるのか。
一行は東海道を東進して豊河の宿までやって来ると、そこから吉田川沿いを北に歩いた。
進むごとに、左右に広がっていた小高い山々が押し迫ってくるようで、平地は狭まっていく。
「あと一息もすれば長篠城です」
善兵衛がそう振り返ったときには、すでに丘陵地帯であった。
長篠城に出向くのは後回しにしようと思い、土地の地侍との接触も避けて、牛太郎は於松に雨風凌げる程度の適当な廃屋を探させた。
於松が見つけてきたのは山あいに溶け込むように朽ちている廃寺であった。善兵衛は隠密行動に徹底している牛太郎に
「このような真似をせずとも」
宿泊先なら寺社なり地侍の屋敷なり用意できると何度も言ってきたが、牛太郎は首を振るばかりで、昆虫が駆け回っている本堂の様子に新三がうんざりと顔をしかめる。
「本当に武田の忍びが殿を追いかけているんですか?」
なかば怒っている。
「黙れ。臥薪嘗胆だ」
「意味がわかって言っておられるのですか?」
「ごちゃごちゃ言うんなら、一人で岐阜に戻ってもいいんだからな」
むっと口を噤む新三。
牛太郎は手拭いでさっと床の埃を払うと、その場に平然と寝転がった。岐阜や堺ではそれなりの贅沢はしているものの、摂津高槻でも似たような廃屋で寝起きしていたし、さらなる過去に至れば、
「美濃の調略のときは野宿ばっかだったんだからな。食い物は雑草だったしよ」
と、経験は豊富であった。
「私が聞いていたのは京だったのに」
信貴山城での軟禁生活でも愚痴をこぼさなかったのに、新三は半べそだった。まあ、この子供はまだいくさ場も経験していないから、工作活動全般の泥臭さとは無縁で仕方ない。
「今日は一休みするけど、明日はこの辺一帯を回るぞ。お前はおれの助手として連れてきたんだから、ちゃんと働けよな」
「疫病にかからないうちに帰りましょう」
「バカかお前は。病気にならなくても、いくさで死んだら元も子もないだろうが」
ハア、と、新三は溜め息をついて、とぼとぼと本堂を出ると、破れ布をどこからか拾ってき、それで床を磨き始めた。
翌日、牛太郎は長篠城の目前までやって来た。
信濃の山から注がれてきた二川がY字に合流して吉田川と変わる地点、断崖絶壁に長篠城は城郭を形成している。
「ここから先が奥三河。信濃へと続く山道です」
善兵衛の言葉を隣にして、吉田川の川岸から牛太郎はじいっと長篠の城郭を見つめる。
北方には山々が広がっていて、どう見ても大兵力を向かい合わせる決戦地には適していない。かといって、山道で待ち伏せるような方策では、敵方の兵力の大部分を削ぐ前に、武田軍は信濃へと引き返してしまう。
となると、決戦地は長篠城以南になる。
「難しいなあ」
いくら武田軍を引き寄せるためとはいえ長篠城を渡すわけにはいかない。
牛太郎の想定する「長篠の戦い」での大目的は武田軍の弱体化である。この玄関口に拠点を与えてしまえば、信濃の各所と繋ぐ補給線を構築されてしまう。そうともなれば、決戦地で大勝する前に武田軍は拠点へと引き返してしまい、まして、攻城戦は野戦の数倍の労力が必要だから、織田軍はじり貧に陥ってしまうだろう。
すると、長篠城を落とさせないままに、決戦地へと誘い込む手段が必要だ。百戦練磨の武田軍がそんな馬鹿な真似をするだろうか。
だいいち、牛太郎が想定しているいくさは、武田軍に長篠城攻めをさせなければ、何も始まらない。
「調略だな」
ぼそりと呟いた牛太郎に、新三が訝しがる。
「殿は本気で武田といくさをするつもりなのですか」
「するつもりなのですかって、もうあちこちでしているだろうが」
「しかし、簗田殿。もし、大きな野戦をお考えなら、三方ヶ原でもう一度迎え撃つか、それとも天竜川を渡って攻め込むか、どちらかではないのですか」
善兵衛の言うことはもっともである。しかし、牛太郎は長篠にこだわる理由がある。
歴史だからだ。
それともう一つ、鉄砲だった。
姉川の戦いと三方ヶ原の戦いで身に染みてわかったことだが、織田軍は弱すぎて、武田軍は強すぎる。徳川三河勢との連合でして、大兵力をもって立ち向かったとしても、十中八九、負ける。なにしろ、姉川で織田軍は、圧倒的に兵力で勝っていたはずなのに、浅井勢に危うく敗れそうだったのだ。
日の本一弱いと揶揄される織田軍が、日の本最強の武田軍に勝つためには、鉄砲を駆使する他ない。となると、広大な三方ヶ原は考えられない。天竜川近辺も二俣城が敵方の補給拠点となってしまうので、これも牛太郎の想定には入らない。
だったら、なぜ、長篠なのか。牛太郎は長篠城を背にして、元来た道を辿っていく。長篠は鉄砲戦術に有利なのか。
どこが有利なんだ。
普段は悪事にしか使っていない頭であまりにも考え過ぎ、あまりにも悩んでしまったから、牛太郎は苛立ってくる。
「それにしても本当になんもねえド田舎だっ」
チッ、と、舌を打つ。自分から言い出してこの田舎に来たくせに、にっちもさっちも行かなくなりそうだから、何かに当たらずにはいられなくなった。
「堺とか京だったらよ、こんなときには団子屋で一服茶でも飲みながら、頭をお休みさせるっていうのに、ここは山と川と田圃しかねえから、一休みすらできねえ。橋もこんな板っきれだしよ」
小川に掛けられた分厚い板の上に立った牛太郎は、これ見よがしに体を揺らして橋板をぎしぎしと軋ませる。
「ちょっと前の太ったおれだったら、こんなぼろ板割れていたぞ。お前のとこの政治はどうかしてんじゃねえのか。おい、善兵衛」
理不尽な怒りに善兵衛も苦笑い。
「落ちますよ、殿」
新三が冷ややかな目だが、
「おれはもう、昔のパターン化されたおれじゃない」
などと、笑みを浮かべながら意味不明なことを述べ、ぎしぎし鳴らせて遊ぶ。
「てか、於松のジジイはどこに行ったんだ」
と、ようやく止めた。
「さあ」
「たくっ。死にぞこないのくせにふらふらしやがって」
牛太郎は橋板を渡り、道端の畔に座りこむ。
「どうでもいいけど、腹が減ったわ」
「握り飯なら用意しておりますが」
善兵衛の従者が差し出してきたので、皆、牛太郎を囲みながら座り込むと、一人一つずつ冷えた握り飯を口にする。
白濁の空に雲が溶け込んでいる。小高い丘から鳥のさえずりが聞こえてきて、うららかな春のにおいだった。
「水はけが悪い地ですね。春先なのに田には水が張っていて」
背中に担いでいた荷物を下ろし、小川沿いに広がる野を眺めながら、新三が郡奉行にでもなかったかのような知った口をきく。
「こういう地をどうにかすれば、ああいった葦原も開拓できて、収穫は倍増するんでしょうけど」
どうも可愛げのない新三を牛太郎は「生意気だ」と一度は叱りつけようとしたが、やめた。大人のすることにいちいち口出しする少年ではあるけれども、目の付けどころはなかなか発展性のあるものだ。伸び伸びとさせれば、その性格はさておき、役に立つ人物になるかもしれないと思った。
「それができれば貧しい村々も豊かになるであろうがなあ」
と、善兵衛が言う。
「もっとも、それができないから、武士団は豊かな土地を求めていくさをし、戦乱の世は終わらないのだけどな」
「おい、新三」
牛太郎は、野原を眺めている新三をそう呼んで振り向かせた。
「だったら、どうやればそれができるのか考えてみろ」
「考えるも何も、簡単ですよ」
と、やはり生意気ではある。
「水を抜けばいいのです。川に」
すると、善兵衛が笑った。
「確かにそうだがな、お主、言うのはたやすいが、それは大変なことだぞ。いくら狭い土地でもそれなりの土木工事が必要だ。狭い土地というのは領主もそれだけ貧しいのだ」
「私はおやかた様ならそれができると思いますが」
善兵衛も、その従者も、新三の夢想に呆れたように笑う。たかが、一介の小姓のくせに、天下の織田上総介の政策を論じようとしている。
「天下に武を布いても、その後のことも考えなければ、同じことだと思います」
もはや、善兵衛たちは笑うだけである。ただ、牛太郎だけは新三の厚い面の皮をまじまじと見つめる。元服させてもいいかもしれない。
「どうでもいいけどよ――」
牛太郎は腰を上げると、小川沿いに広がる野原と、それを取り囲む丘を一望する。
「水はけが悪いって言っても、この程度だったらそうでもないんじゃないのか」
「いえいえ、簗田殿。今の季節はそうですが、雨期にでもなればそれこそ池のように水溜まりができてしまい、こうした地では稲穂が実っても、小舟に乗りながら稲を刈っていくのですぞ」
「殿は内政には疎いですから」
せっかく将来を見越してやっているのに小生意気な無礼者なのだから、牛太郎はせせら笑っている新三の背中を思い切り突き飛ばした。新三は悲鳴を上げながら畔から田へと転げ落ち、泥まみれになった。
「雇い主を馬鹿にした罰だ。ざまあみろ」
「あんまりじゃないですか」
新三は涙声で立ち上がるが、深いぬかるみに足を取られて、また転がり倒れる。牛太郎が畔からげらげらと笑い、善兵衛の従者が手を差し伸べるが、これもまた新三の体に引っ張られてしまって田の中へ転げ落ちる。
「何をやっておるのだ、まったく」
少年と大人が二人で悪戦苦闘している姿に善兵衛は苦笑する。
牛太郎はげらげらと笑う。が、二人がどうにかして畔にしがみついた姿に、ふとある日のことを思い出す。笑うのをやめると、半べそで泥を拭っている新三をよそに、小川を取り囲むうららかな景色を眺める。
そうして、ぽつりと呟いた。
「金ヶ崎山だ」
金ヶ崎からの退却戦、ではない。牛太郎が脳裏に蘇らせていたのは、その退却戦の前、金ヶ崎山城を織田軍が攻めかかったときだった。
苦い記憶である。丹羽五郎左衛門の部隊とともに、牛太郎率いる沓掛勢は、金ヶ崎山の裏手の沼地から攻め上がったのだが、深い沼地に人も馬も足を取られ、将校は馬を乗り捨て、兵卒は具足を脱ぎ捨てて、どうにか進軍した。牛太郎はというと、栗之介とさゆりに新調した甲冑を放り捨てられ、それでも沼地にはまってたった一人取り残され、栗綱とともにすごすごと引き返したのだった。
ここは、雨期にもなれば、池さえできるほどの水はけの悪い地だと言う。つまり、人も馬も金ヶ崎山の裏手のように進軍に苦闘することだ。
すると、牛太郎の目の前のうららかな光景に、鮮やかなまでに戦場が広がった。真っすぐに伸びてくる小川と、それに沿いながら広がる湿田と野原、それらを囲うように両側には小高い丘が続いている。
突撃してくる武田騎馬隊、それを待ち構える織田鉄砲隊。しかし、この水はけの悪い地において武田騎馬隊が通過できる場所は、限られてくる。
そこに防護柵を築き、二千丁の火縄銃を集中させる。さらに、この小川が堀の代わりになる。
「善兵衛。ここに走っている街道は、これだけなのか」
唐突に真顔になった牛太郎に、善兵衛は呆気に取られながらも、街道という街道は今来た道だけだが、丘の向こうに一筋、細い山道があると言った。
「なるほど」
牛太郎は口端にうっすらと笑みを浮かべると、
「おい、新三、於松のジジイが戻ってきたら探索だ。筆と紙を用意しろ。ここの地図を書け」
「ええっ? もう、泥だらけですよお」
「馬鹿が。ここをどうやったら開拓できるか、勉強だ。お前の意見を信長様に伝えてやる。もし、出来のいい意見書が作れたらどっかの土地でやってくれるかもしれないぞ」
「本当ですかっ? 本当におやかた様に伝えてくれるのですかっ?」
「おれは嘘と喧嘩は嫌いだ」
新三は喜々として跳ね上がり、下ろしていた荷駄から筆と硯をせっせと取り出していく。
「ちなみに善兵衛。ここは何ていうところなんだ」
「この地ですか? ここは在の者は設楽ヶ原と呼んでいるそうですが」
「シタラガハラね。ふむ」
牛太郎は一週間をかけて設楽ヶ原及び、その一帯を隈なく歩いた。
設楽ヶ原は、東西の丘までの幅は狭いところで三百メートル、広いところでも六百メートルぐらいであろう。北には御岳山が覆いかぶさり、ここから注がれる小川――連吾川が設楽ヶ原を南へと真っすぐに流れ、吉田川に合流する。
この地点は深い渓谷となっていて仮に東の丘に武田軍、西の丘に織田徳川軍が布陣した場合、武田軍が迂回戦法を取って西の丘の背後を突こうとしても、進路は長篠城から伸びてくる伊那街道のみしかない。
山の裾野から吉田川までの平地は全長二キロメートル余。連吾川を堀と見立てると、これの渡河地点――人馬が滞りなく進めそうな地点は三ヶ所であった。
牛太郎はこれらの事実を新三に事細かく書き残させた。
想像できる陣形、これに対抗する布陣は――牛太郎にはそういうことがわからないので、これを持ち帰って竹中半兵衛あたりに考えさせればよしとした。
「とりあえず、梅雨時になったらまた来よう」
とはいえ、決戦地の候補を見つけられたとしても、いかにして武田軍を長篠に引き込むか、設楽ヶ原に誘い込むかである。
調略、いや、肉を斬らせて骨を断つ。人々が謀略と呼ぶような、日の当たらない大仕掛けを施さなければ、一枚岩の武田家を操ることは難しい。
そうしたことを得意にしていそうな人間なら牛太郎の知人にはすぐに思いつくだけでも二人はいた。もっとも、毒を持って毒を制す、が、ぴたりとはまるような危険人物だけれども。
とりあえずは、奴らに話を持ち込む前にある程度の情報を仕入れなければならないだろう。牛太郎は一度、岡崎まで戻ってくると、善兵衛に奥平美作守と面会できるよう頼んだ。
「大袈裟にすると武田の目に引っ掛かるから、どこかの団子茶屋で落ち合うような手筈を取ってくれ」
美作守は一度は武田に属した男である。奥三河の情勢だけではなく、武田内部の情報もある程度は存じているだろう。
善兵衛が岡崎を立った翌日、牛太郎たちも後を追うように浜松へと向かう。
道すがら、牛太郎は考えた。手を染めようとしている相手は三国を治める菱の覇者である。徳栄軒信玄が没したとはいえ、その軍隊は健在、勇名馳せる諸将は数知れず、諜報網は網目のごとく張り巡らされている。
摂津工作では、確かに怪物たちと渡り合ってきた。しかし、武田家は怪物などと呼ぶのが可愛いほどの仁王である。
聳え立つ仁王を手玉に取ろうとする牛太郎の手元の持ち駒は、老人の於松と子供の新三という心細さ。岐阜の人間たちに目を広げたとしても、宿屋兄弟と弥次右衛門という有様。
牛太郎は大きな吐息をつく。
「あの馬鹿に土下座してお願いするしかないか」
できれば、徳川の人間にも手となり足となるような人間があればいい。ただ、もっとも近しい松平善兵衛は、血気盛んな若武者なのではかりごとには向いていない。
いや、善兵衛だけではない。三河武者というのは忠節厚く、戦場では誰もが豪傑と成り得るが、主君の三河守を筆頭として、土豪気質なのだろう、どこか垢抜けない凡庸さが見受けられる。
結論が出ないうちに浜松へと辿り着いた牛太郎は、城下の宿に腰を据え、善兵衛の返事を待った。
ほどなく、善兵衛がやって来た。
「本坂街道を北に戻っていくと、三方ヶ原の近くに茶屋があるそうです。美作殿は明日の昼過ぎ、そこに従者を一人だけ付けてやって来るとおっしゃってくれました」
「わかった。ありがとう」
浜松で長い時間顔を合わせているのはよくないということで、牛太郎は善兵衛を岡崎に帰した。
「ししし」
「何笑ってんだ、ジジイ」
「楽しくなってきましたよ」
牛太郎は新三や於松に計画の全貌を明らかにしていない。それでも、於松は悪事に鼻がきくのだから、もしも敵であったらと思うと、怖くなってくる。
「あ、そっか」
だったら、その怖さを利用すればいい。
「おい、じいさん。甲府に忍び込んでこい。下人でも草履取りでもいいから、武田の誰かに雇ってもらえ」
「ええっ?」
と、飛び上がったのは新三。
「そんなの無理ですよ。於松殿にそんな無茶をさせるなんて。だいたい、尾張訛りですぐにわかってしまいますよ」
「喋らなければいいだろ」
「そんな無茶苦茶な」
「ししし。いいんですかい」
「お前、そういうの好きだろ、どうせ」
「よくご存知で」
牛太郎は新三に言って、荷駄の中から竹細工の籠を取り出させ、その中にしまい込んでいた梓の小袖を手に取る。新三が眉をしかめる中、一度、香りを確かめると、その袖から二枚の大判を取り出した。
ぽいと於松の前に放り投げる。
「駄賃だ。好きに使え」
「へへっ。さすが旦那」
於松はみすぼらしい歯を見せて笑いながら、大判を懐にしまい込む。
「で、あっしはどうすればいいんでしょ」
「変な真似はしなくていい。その汚い鼻をきかせて、武田の怪しいところを探ってこい」
於松はほくほく顔で宿を出ていった。
「大丈夫なのですか、於松殿を甲府などに行かせてしまって」
夜、布団を並べていると、新三がぽつりとそう言った。
「死に損ないだ。ちょっとやそっとじゃ死なないだろ」
「そういうことではなくて、逆に於松殿が寝返って、殿のことを武田にべらべらと話してしまったら、それこそ、忍びを警戒している意味がなくなってしまうのではないのですか」
ふん、と、牛太郎は笑いながら寝返りを打つ。
「大丈夫だ。あのジジイは絶対に寝返らない」
「どうしてですか。何か根拠でもあるのですか」
「勘だ」
悪党の。
翌日、牛太郎は昼前には浜松の城下を出て、新三と共に三方ヶ原方面へと街道を歩んだ。
暦の上では春に入って間もないが、浜松一帯は季節が充ちたような暖かさで、夏を待ちわびる田畑が広がっている。
「一年前が嘘みたいだ」
無論、あのときは遠州の空っ風が手足をかじかませる冬だった。その寒さも忘れるほどの激戦だった。血と汗が飛び交い、牛太郎自身も山県三郎兵衛尉に耳を裂かれ、汗を滲ませながら命からがら栗綱を駆け抜けさせた。
真っ赤に染まった夕空が瞼の裏に焼きついている。
多くの男が散っていった。牛太郎の知人だけでも、中根平左衛門、青木新五郎、夏目二郎左衛門、平手甚左衛門。
あれからもう一年が経っている。それでも、まだ、一年しか経っていない。三方ヶ原の激戦から今まで、実に長い年月が降り注がれたようで、しかし、あっと言う間にまたここにやって来てしまったような心持ちでもある。
広大な三方ヶ原台地までやって来る。目の前には春の乳白色の空が広がり、そこに白や黄の野花が色を添えていた。
「殿」
気付けば、新三が振り返ってきている。
「ああ、すまない」
牛太郎は再び歩み始める。
しばらく行くと、なるほど、道端にぽつんと一軒、茶屋とは思えぬあばら家があって、ただし、濡れ縁を外に並べているところを見ると、やはり茶屋らしい。薄暗い中を覗き込んでみると、老婆がたった一人、亡霊のように座っていて、一瞬、牛太郎も新三も後ずさりしてしまった。
「い、一服、出してくれるかな」
「あいよお」
老婆はのっそりと背中を見せると、奥の間に吸い込まれるように消えていく。
「だ、大丈夫なのですか。本当にこちらなのですか」
「う、うん。多分、ここなら目に付かないんだろう、きっと」
とは言ったものの、小々の不安を覚えながら、濡れ縁に腰を下ろす。中を伺い伺い、そわそわと太股を揺らす。
「やはり、違うのでは。美作守殿がどんな御方か存じませんが、このような茶屋を利用するとは到底思えません」
「うーん」
そのうち、老婆が碗を二杯、危ない足取りで運んできた。震えが自然発生しているしわくちゃの手で濡れ縁にそれぞれの茶碗を置き、
「あんたら、小豆餅でも食うかい?」
と、笑った顔は於松のように歯が無かった。牛太郎と新三は仲良く顔を見合わせてしまう。
「有名なんだよお。うちの小豆餅。偉そうな人が浜松から食べに来るんだよお」
「そ、それならば頂こうかな。うん。おい、新三、お前が食べろ」
「ええっ? 殿が召し上がってくださいよ」
主従が揉めているのをよそに、老婆は勝手に中へと引っ込んでいってしまう。牛太郎も新三もなんだか言葉にならなくて、茶碗の熱い屑茶をすするしかない。
「でも、殿。この近辺で武田と徳川様はいくさをしたんですよね。どうして、この茶屋は何の被害も受けていないのでしょう。不思議ではありませんか」
「お、おいっ。怖いこと言うなよ」
牛太郎は震えながら中を覗き込む。
「だ、だいたいだな、やり合ったのはもうちょっと先を行ったあたりだ。退却したときはばらばらに逃げたから、街道沿いは多分、走っていない」
「はい、小豆餅」
急に老婆が出てきたので、牛太郎と新三はひっくり返りそうになった。
「おいしいんだからねえ。いっぱいあるから、何個でも食べなあ」
そうして、老婆はまた中へと引っ込んでいく。
黄な粉がふんだんにまぶされた小豆餅を牛太郎と新三はじっと見つめる。やがて、牛太郎は顎をくいくいとしゃくって、新三に食べるよう強要するが、新三は目をちらりと横に動かしてしまって、何も見えていない振り。
「食べたらうまいかもしれないだろ」
「だったら、殿がご賞味してみたらいかがかと」
「その前に毒味しろ。あのばあさんが武田の忍びだったら、絶対におれは毒殺されるぞ」
「毒味だなんて。今までそんなことを私にさせたことなんてないではありませんか」
「じゃあ、今日から毎回毒味しろ」
新三は泣きそうな顔で眉をしかめると、小豆餅を手に取り、両目を瞑りながら、半分かじった。中には餡がぎっしりと詰め込まれていて、見ただけで唾を誘うほどだった。
「ど、どうだ。痺れとかないか」
新三は瞼の端に涙を滲ませながら、恐々と口を動かしていたが、ややもすると、ぱっと目を見開いて、
「あ。甘いですけど、結構、おいしいです」
残りの半分を口の中に放り込み、晴れやかな笑顔ですべてを飲み込むと、屑茶をずるずると啜り、中の老婆へ呼びかけた。
「おばあさん、小豆餅、もう一個ください!」
「おい」
「いえ、大丈夫です。奥方様に頂いたお年玉の残りを持ってきているんで」
「そういうことを言っているんじゃねえ。毒味しろって言ったんだぞ。なんで、全部、食べやがるんだ」
そうして、牛太郎は中の老婆へ、小豆餅と屑茶のお代わりを頼んだ。
結局は二人で小豆餅に舌鼓を打っていたところへ、陣笠を被った旅人の風体をした男が二人、浜松の方向からやって来て、茶屋の前に立ち止まった。
奥平美作守だろうかと、牛太郎と新三がぼけえと眺めていると、前を歩いてきていた男が、もう一人の男に振り返り、どこかわざとらしく言う。
「ちと、喉が渇いたの。一休みしていこうか」
「へえ」
二人は牛太郎たちとは反対側の濡れ縁に腰かけ、陣笠を外した。彼らをまじまじと眺めていた牛太郎は、やはりただの旅人だろうかと首を傾げる。主人と思わしき男は厳めしい骨太の輪郭を持った見た目四十半ばの中年であり、嫡男に家督を譲って隠居をしたような男には見えない。従者と思わしき男はもっと若い。
「あんたら、小豆餅でも食うかい?」
老婆が同じことを言っている。
「小豆餅? ほう。それはいいな。ちょうど、甘い物を欲していたところだ」
主人の男が言ったが、やはりわざとらしい。牛太郎はどうしたらいいものか、迷った。自分たちも百姓風体であるし、かといって、美作守なのかと率直に訊ねるのも憚られた。
別段、怪しい人影がどこかに見え隠れしているわけでもないのだが、牛太郎は武田の忍びがどういうものなのかよく知らない。忍びと言えば、牛太郎の中ではさゆりか新七郎で、彼らなら老婆にさえ化けられるであろう。
「殿。奥平様ではないのですか」
と、新三が囁いてくる。どことなくせっつかれているのが癪になって、牛太郎は新三の太股をつねった。
「痛っ!」
新三が跳ね上がると、隣の男二人はこれに目を向けてきた。笑顔を見せてきている。
「やあやあ、虎猫にでも噛まれたか」
牛太郎は微笑を浮かべながら中年の男に目を向ける。
「そうかもしんないッスね。近頃、山から虎猫がやたらと下りてくるみたいで」
牛太郎はそう言いながら、中を覗いた。老婆はやはり亡霊のように座っている。小豆餅のうまさを考えてみると、一朝一夕でなかなか作れたものじゃない。忍びではないだろう。
「ここの小豆餅は結構な味ですけど、虎猫の連中は知っているんスかね」
「いや、知らん。わしもつい最近知ったばかりだ」
牛太郎は頷きながら屑茶をすする。
どこかの木の枝に止まっているひよどりが、そういう盛りの時期なのか、ぴいぴいとかまびすしく鳴いている。柔らかな日差しが包み込むのんびりとした台地に、甲高く潤った鳴き声が突き抜けている。
牛太郎は景色にぼんやりと吸い込まれているような目で言う。
「虎猫は、親玉が死んで以来どうなんスかねえ」
「ふむ」
と、男は小豆餅を二つに割ると、片方を口の中に放り込んで、しばらくは遠くの空を眺めながらもぐもぐと食べていた。
屑茶を流しこむ。
「美作の者が言うには」
男も牛太郎も軽い世間話をしているただの百姓と旅人のように、春の日和に馴染んでいた。
「タヌキは悪い奴ではないし、それと、虎がいなくなった飼い猫たちの将来を天秤にかけたら、タヌキと虎なら虎だが、タヌキと猫ならタヌキということだったらしいぞ」
それに、と、美作守は続けた。
「虎の子供の猫は虎の威光に甘んじたくないらしく、古くからの手下猫よりも、自分が昔から身近にしていた猫たちを重宝している」
「分裂しかけているんスか」
「いや、そこまではない。ただ、虎があまりにも偉大すぎた。虎ほどの求心力を持つ者が今の奴らにはいない」
「子供猫はどういう奴なんスか」
「一言で済ますなら豪気。しかし、それは虎の子である重圧と、正室の子でないがゆえの後ろめたさの裏返しだ。まだ、三十路前だし、血気はやる面もある」
だいたい想像がついた。付け入る隙はある。
牛太郎は腰を上げて老婆を呼ぶと、銭を持たせている新三に支払いをさせ、
「それじゃ、タヌキによろしくお伝えください」
と、言った。
美作守は微笑を浮かべながら牛太郎に目を向けてきて、
「百姓、耕せられるのかい」
「いい鍬が必要ッスね」
頭を軽く下げると、新三とともに浜松へと戻った。
「一度、岐阜に帰るぞ。しばらくしたら、畿内に行く」
すぐに浜松を立ち、各地で宿を取りながら、東海道を上った。尾張に入ると沓掛城に立ち寄り、新七郎に再会する。
「武田の忍びってのはどういう奴らなんだ」
出し抜けに牛太郎が言ったので、新七郎の頬の傷がこわばった。
「今度は武田を謀るのですか」
「さあな」
沓掛城の広間で肘掛にもたれかかりながら耳糞をほじる牛太郎だが、眼差しは影に染まっている。新七郎は頭を下げて愚問を詫びると、自らが知っている範囲だがと前置きした上で、言った。
「伊賀の流れを汲む者たちを雇っているという噂です。ただ、非常時以外は、直属に抱えている美少女の集団を各地に放っております」
「さゆりんやあーやみたいなもんか」
「いえ。甲賀流は小さい頃から暗殺術を仕込むので少し違います。甲斐のくのいちは格闘はまったく使えないらしいのですが、その分、忍びなら一目でわかるくのいち独特の気配がありません。拙者も見分けがつきませぬ。歩き巫女や遊女に化けているという話ですが、拙者は奴らに接触したことがありません」
牛太郎は耳をほじくっている指を止めて、新七郎をじっと見つめる。
「お前が言っていることってのは、結局、女なら誰でも怪しいってことなんじゃないのか」
「左様で。氏素性が不明の女は、まず、疑ってかかったほうがよろしいかと」
ちょっと、寒気がした。
「じゃ、じゃあよ、あいりんも、まさか」
「それはありませんな。あいり様は丹羽殿が養女にしたんですから。昔、沓掛城には女中がいなかったと言うではありませんか。丹羽殿はそうしたことに神経をとがらせているはずです。そもそも、あいり様の御父上は明智家の足軽組頭だった人です」
「そ、そうなの?」
新七郎は呆れた眼差しで一度口を閉ざした。
「とにかく、手前どもの家は大丈夫でしょう。奥方様は柴田家の娘ですし、お貞殿やおかつ殿は、齢も齢ですし、美女ではないですからな」
「ちょっと待て」
牛太郎は眉根を厳しくさせながら、肘掛から体を起こした。近頃、怪しいと言えば怪しい輩が簗田家にやって来ている。
「たとえ、本人がくのいちじゃなくても、繋がっている可能性は十分にあるんだろ」
「当然ながら。しかし、自覚のないまま繋がっている可能性もあります。例えば、他所の家の女中にくのいちが忍び込んでいた場合、よく、女どもは話をするでしょう。その流れで繋がっている場合もあります」
暗澹たる気持ちになった。梓やあいりたちの井戸端会議も危険ということだし、弥次右衛門の二人の娘も怪しくなってくる。
於松に調べさせたところ、弥次右衛門は確かに春日井児玉の農奴であった。二人の娘も実子である。
ただし、弥次右衛門一家が武田のくのいちたちと繋がっているかいないかは、想像していなかった。
牛太郎は二人の娘にまだ会ったことがない。もしも、彼女たちが美少女だった場合、武田のくのいちの意のままに簗田家の誰かを篭絡するつもりなのでは。
そういえば、七左衛門の馬鹿が変な真似をしたらしいし。
「ただ、旦那様。疑ってはきりがありませんぞ」
「わかってる」
うっかり謀略に手を染めてしまうと、こうなる。人の心を操り、素顔とは違うもう一枚の皮を被ってしまうと、自分自身がそうであるように、すべての人々も同じような仮面で顔を覆っているのではないかと、人間不信になってしまう。
人間の世界を形成しているのは真実ではなく、虚構である。人々はこの世の中の出来事のすべてを知っていない。この世の中のすべてを知る賢人など存在しない。一つ一つの真相は常に地べたを這うようにひっそりと漂っていて、その土台に築かれた営みの楼閣を人々は見聞きして、世界を実感している。
謀略家というのは、華やかな楼閣の日陰に漂う真相の中に埋没している。あるときは暗く冷たい真相を追及し、あるときは真相の光を闇の中へ抹消させる。世界を実感させる楼閣が虚構であることを彼らは認識しているのだ。
虚実を冷徹な感覚で割り切らなければならない。豪胆で、肝の据わった心持ちで、世の中の虚と実に向かい合わなければならない。
武田の見えない敵は当然ながら岐阜にはびこっているはずだ。
どうさばいてやろうか。沓掛城の広間に一人、牛太郎は燭台の炎をじっと見つめた。
岐阜もすっかり春めいていて、牛太郎と新三が帰ってきたころには桜の花も満開であった。
稲葉山の屋敷の門をくぐると、貞やかつが牛太郎の帰りを出迎えたが、一人、見かけぬ顔の小娘が足洗いの桶を抱えてどたばたとやって来る。
「これっ、たまさん。ご挨拶なさい」
と、貞に叱りつけられて、たまはあわてて桶を下ろすと、上がりかまちに平伏した。
「弥次右衛門の娘のたまですっ。奉公させてもらっています。よろしくお願いしますっ」
牛太郎はむすっと見下ろす。幼さがふんだんに残っているが、女の体である。たぶらかすほど妖艶でもなく、美少女でもないが、素朴さと従順さと懸命さが、返って牛太郎を疑わせた。
牛太郎は無言のまま上がりかまちに腰を下ろす。貞とかつには若い女を前にしてむすくれている牛太郎が意外だったらしく、黙って足を洗っている牛太郎をきょとんと眺めていた。
「私は小姓をさせて頂いている大蔵新三と申します。以後、お見知りおきのほどを」
新三が丸い顔をだらしなく緩めていた。牛太郎は新三を睨みつけるが、新三の視界にはたましか入っていない。齢が近いせいもあるだろうが、新三は女にはわりと間抜けらしい。
牛太郎は屋敷に上がると、梓に挨拶する前に新三を自室に連れていき叱りつけた。
「女に手を出したら斬り殺すからな」
と、太刀を鞘から抜いて、切っ先を新三の鼻先に突きつけた。牛太郎の目が本気だったので新三は口ごたえせず、やや震えながらうなずく。
「あと、絶対に三河遠江に行っていたことを言うんじゃねえぞ」
「は、はいっ」
太刀を鞘に戻すと、広間に出た。梓とあいり、それに駒がよちよち歩きでやって来て、小さい体でうやうやしく平伏すると、
「おじじたま。お帰りなたいませ」
「おおっ!」
牛太郎は歓喜して駒を抱き寄せ、でれでれとしながら頭を撫でた。
「練習したのです」
そうあいりが言うと、
「亭主殿がいつのまにかおらぬ間にな」
と、皮肉めいている梓の機嫌がやや悪い。
「い、いやっ、火急の用事でして」
本当なら、勝手にたまを奉公させていることを追求し、女たちに井戸端会議を控えるようたしなめるつもりだったが、梓の気配に臆して何も言えなかった。
貞とかつが大きな釜から茶碗に米をせっせとすくっていき、あいりが味噌汁を注いでいって、駒が手伝いそうにしてあいりを眺めており、治郎助と新三が皆の前へと運んでいき、栗之介が沢庵を摘み食いして、七左衛門も真似して摘み食いし、梓にぴしゃりと叱られて、太郎がにこにこと笑い、牛太郎は腕組みしてむっとしている。
「たまってのはどうしたんだ」
「たまは叔父上とともに城下の長屋に戻りましたよ」
「ここで食えばいいだろうが」
「家族で食事をしたほうがよかろう」
梓に言われて押し黙る牛太郎だが、どこか納得いかない。別にいてもいなくても良いのだが、牛太郎は弥次右衛門一家を不信がってしまっている。
「だいたい、俺が帰ってきたっていうのに、ヤジエモンは一度も顔を見せてないじゃんか。もう一人の娘もそうだし、嫁もそうだ。一回も会ってねえ。普通、雇い主なんだから御礼ぐらい言いにくるもんだろ」
いつもは主人の牛太郎が口を開けばやんややんやと反論する簗田家の一同だが、今回ばかりは至極もっともな言葉だったので、皆、押し黙ってしまった。
とりあえず、支度が整ったので、手を合わせていただきます。牛太郎は味噌汁をすすると、まずそうに米をかきこみながら言う。
「実はあいつら、曲者なんじゃねえのか」
「それはありませんよ、旦那様」
七左衛門の実に説得力のない否定に、牛太郎は睨みだけを返す。
「最初から曲者だったでしょう」
隣の太郎がつまらなそうに言った。
「しかし、急に彼らを召し抱えると言い出したのは父上なんですからね」
「お前がおれに下駄を預けたからだろ」
「だったら、今さらそのようなことを申してもらいたくはありませんね」
牛太郎は苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、ねちゃねちゃと口を動かす。新三ばかりを連れ歩いていたせいで、太郎のきつさを忘れていた。
「まあいいわ。勝手にしろ。ただ、仏のおれも、今までは問題児のシロジロが泥棒したりしたときは見逃してやったけどよ、曲者のあいつらだけは何か変な真似をしてみろ。家族全員叩き殺してやる」
牛太郎の物騒な言葉がやけに真実味を帯びた息の荒さなので、一同は皆、箸を止めて牛太郎を見つめる。
牛太郎だけが沢庵をばりばりと噛み砕く。
「どうしたのじゃ、亭主殿」
「いいえ、別に。てか、これからは駄目なものは駄目ってきっちりさせてもらいますよ。このたるんだ空気を引き締めてもらいますよ」
そう言って、一同に目を持ち上げた。
「いいな、お前ら。びしっとやれよ! びしっと! おれの許可もなしに銭だけもらってどっかに行くような真似をしたら打ち首にするからな! 仏の顔は三度までだけど、おれの顔は二回までだ!」
檄が飛んだあとの食卓は終始無言だった。
「皆さん、びっくりしていましたよ」
自室に戻り、机に向かって文をしたためていると、背後で新三が布団を敷きながらそう言った。
「政治をあまり食事に持ち込まないほうがよろしいのではないのですか?」
「持ち込んでないだろうが」
牛太郎は折り畳んだ文を新三に渡した。播磨姫路城の小寺官兵衛宛てである。
「明日、飛脚に持ってけ。三日後ぐらいには岐阜を出て、まず小谷の半兵衛のところに行くからな。そのあと、京に行って、坂本、堺、摂津、大和に行くからな。岐阜に帰ってくるのは秋頃だ。家のお父さんお母さんに挨拶しとけ」
文を受け取った新三はちらと牛太郎を覗き込む。
「かしこまりました」
「父上」
と、戸を叩く音があった。招き入れると、新三はすかさず太郎に平伏し、文を懐におさめて部屋をあとにしていった。
「なんだ」
太郎は牛太郎の前に腰を下ろすと、しばらくは顔を伏せて黙っていた。
「なんだよ」
「父上はご存知だったのですか。叔父上が一度は春日井に戻ろうとしたことを」
今度は牛太郎が黙りこむ。というよりかは、無視して布団の上に寝そべった。
「叔父上は百姓感覚が抜けないのですから、あまり厳しくしても仕方ありませんでしょう」
「そういうことじゃない。おれが心配しているのはどこでどうやって、この家で話していることが筒抜けになっちまうかってことだ」
「それは――」
太郎は苦々しく笑った。
「考えすぎでしょう。叔父上が間者だとしたら、最初から金銭を無心してくるような真似はしなかったはず」
「お前は油断している」
牛太郎は武田の忍びの噂を太郎に説明してやった。どこに紛れているのかわからないと。民衆の中なら当然のこと、女中や奉公人にだって扮装していたっておかしくはない。
太郎は小首を振りながら額に手を当てる。
「お気持ちはわかりますが、父上も拙者も家中のことは家では口にしていないではないですか。母上もあいりも織田家に何が起こっているかなど把握しておりません」
「用心に越したことはない」
牛太郎はそういう人間だった。こうだと決めると、周囲の声は一切聞かない。太郎はよくわかっている。昔は女の尻ばかり追っかけていたことも。甲府でだまされたことも。
「ところで、武田はどうなのですか」
と、どうしようもないので、息子は話を変えた。
待っていましたとばかりに牛太郎は体を起こし、そのくせ「うーん」と、あからさまに眉をしかめて顎に手を当てた。
「なかなか難儀なもんだ」
牛太郎は自分の努力を太郎に教えてやりたい気持ちでいっぱいだった。十年以上を共にしてきて、将校の格というのはすっかり抜かれてしまっている。なので、認めさせたいという思いが並々ならない。
「なにしろ、武田だからな」
しかし、設楽ヶ原のことも、武田の内部も口に出さない。それだけ巨大な敵に立ち向かっていることを知らしめてやりたいばかりに。
「三河は無駄骨だったのですか」
「そういうわけじゃないんだがね。そういうわけじゃ」
太郎はこれみよがしに出し惜しみをしている牛太郎をじっと見つめる。
「危険な真似や無謀な賭けには出ないでくださいよ」
むっとする牛太郎。
「おれがそんな単純な奴だと思ってんのか? ん?」
「単純かどうかはともかく、今までのことを振り返ってみれば言いたくもなります」
太郎は指を折りながら、これまでの牛太郎の危険で無謀な行いを挙げていった。美濃の調略、池田城では投獄された挙げ句に一騎駆け、金ヶ崎ではしんがり役を名乗り出たこと、二俣城に三方ヶ原の戦い。
「いい加減、おとなしくしてください」
「それは戦場での話だろ。おれだってもう二度といくさの真ん中に突っ込む気なんてない」
「いくさ場だけではなく、命を狙われることだってあるのですから」
「じゃあ、護衛に新七を寄越せ」
「命を狙われるような真似をしなければよい話です」
「おれを殺したって何にもならねえだろうが」
「いいえ。実際、甲府に行ったときに、女忍びに殺されかけたではないですか」
「ごちゃごちゃうるせえな! 子供はとっとと寝ろ!」
「そうやっていつまでも小姓の太郎扱いですか」
「お前だっていつまでも沓掛の駄目城主扱いだろうが!」
「はいはい。かしこまりました。子供はとっとと寝ますよ」
太郎はまるで昔の小姓の太郎を蘇らせたようなふてくされた表情を残して、部屋をあとにしていった。
新三は張り倒してでもきっちり教育しなければ。
翌朝、広間の食卓には玄蕃允がいた。なんでも、宿屋兄弟を毎朝しごいているらしく、弥次右衛門の姿もあった。
弥次右衛門は太郎か宿屋兄弟に釘を差されたらしく、牛太郎を確認するなり、挨拶が遅れてしまったことと、嫁や娘たちの顔を見せていないことをたどたどしい口調で詫びてきた。
「いつまでも百姓気分でいると、簗田姓を剥奪して、市中をクリツナとクロに引き回させて、松永弾正のところに飛ばして、娘たちはどっかの売春宿に売り飛ばすからな。覚悟しとけ」
人が変わったような牛太郎の強権ぶりに、家の者たちは委縮してしまう。
「そこまで言わなくてもよいではないか」
咎めてきた梓をぎろりと見返す。いつものようにおかしなことを言ったわけでもなく、封建制度下の家長たる男として恐怖を示しただけなので、さすがの梓も口を噤む。
「父上」
たしなめてきた太郎をぎろりと見返す。太郎は、ハア、と溜め息をつく。
すると、よせばいいのに、牛太郎は家長の威厳をしらしめられていることに図に乗って、訳のわからないことを語り出した。
「お前ら、よく聞け。簗田家っていうのは戦闘集団だ。男はいくさのために存在して、女は男を支えるために存在しているんだ。そこんところわかれ!」
しんと静まる広間。
「日頃から浮ついた気持ちで生活していると、いざっていうときに足をすくわれるからな。なので、これからはおれを旦那様と呼ぶのはやめろ。新三のように殿と呼べ」
最後が余計だった。
「気でも狂ったか、オヤジ殿は」
と、玄蕃允が呆れ返って勝手に食事を始めてしまう。
「おいっ! 玄蕃! お前、仮にもおれの家の飯を食らっているんなら、オヤジ殿とかそういう言い方はやめろっ! おれがいただきますって言ってから食べろっ!」
「なら、御託を並べてないで、早く言えばよかろう。わしらは腹が減っているのだ」
「御託だとお。おれはな、武士の心構えを言っているんだぞっ!」
「何が武士の心構えだ。オヤジ殿が言えたことか。隠れて叔母上の小袖の匂いに執心している物狂いがよくもまあ言えたことよ」
牛太郎は玄蕃允に指を差したまま凍りついた。
「おい。それを言っちゃまずいだろ」
栗之介が密やかに玄蕃允を咎めるが、その声は静まり返った一同の耳にまったく聞こえ渡っていて、玄蕃允は玄蕃允でつまらなそうな顔で箸をすすめる。
しらりとした視線を隣から痛いほどに感じた。
「気が触れているかもしれんが、別によかろう」
と、梓だけは笑っている。しかし、あいりが眉をひそめていた。貞にこそこそと囁き、自分の小袖がなくなったのは旦那様の仕業ではないかというようなことを言っていた。
「あ、あいり様」
と、貞は凍りついている牛太郎を慮ってあいりを制するが、あいりは不満らしく、牛太郎を睨みつけてくる。
七左衛門が口許を歪めていて、治郎助は気まずそうにしている。近頃、牛太郎にべったりとくっ付いている新三は、牛太郎の性癖に勘付いていたのだろう、知らぬ存ぜぬ無表情だ。
「父上、飯が冷めてしまいますぞ」
「う、うん。み、皆さん。ど、ど、どうぞ、召し上がれ」
牛太郎の言葉に、一同は釈然としないながらも箸を手に取る。その中で一人、あいりだけがじっとして牛太郎を睨み続けてくる。
「旦那様」
「は、はい」
「お食事を召されたら、玄蕃允様がおっしゃったこと、詳しくお聞かせください」
「うっ!」
唐突に牛太郎は腹を押さえると、
「腹が、腹が。ちくしょう、最近、腹の調子が悪かったから、クソッ、きっと、変な病気にかかっているのかもしれん。お、おい、鉢巻き。おれを部屋まで運んでいけ」
「私がお連れしますよ、旦那様」
腰を上げ、牛太郎を見下ろしてくるあいりが、かつてないほど大きく見えた。
あいりに追及された牛太郎だが、身に覚えがないと押し通した。玄蕃允が言ったことは梓の小袖のことであって、それは梓の承諾を得ている。愛する妻の香りを傍にしたいから匂いを嗅いでいるに過ぎないのだと、とにかくしらを切った。
あいりは梓とは立場も性格も違うので、さすがに強くは責め立ててこなかった。ただ、牛太郎がどこか開き直っているふうなので、不服そうではあった。
「もういいじゃないか」
と、途中から入ってきた太郎があいりをなだめ、牛太郎の部屋から出していく。去り際、太郎が残していった視線が軽蔑の色に満ちていたが。
結局、威張れなくなった。
牛太郎は、誰かに見つかって話を蒸し返されるのを恐れ、窓から部屋を脱け出す。玄関口に回ると草履を履き、こそこそと門をくぐり出た。
昨日から城に登る予定でいたが、まだ、朝雀が騒がしいし、腹も減っている。ということで、前田家に押しかけ、
「追い出されちゃったもんで」
と、女中に朝飯を恵んでくれるよう泣きついた。ほどなく奥方のまつがやって来る。腹が大きくなっていて、また、子を産むつもりらしい。
「どうしたのですか」
太郎と喧嘩をして飛び出してきたという嘘をつき、朝飯を頂戴しに来たとなると梓に殴り倒されるのでこの件は絶対に口外しないでくれるよう何度も言い含めてから、牛太郎は前田家の朝飯にありついた。
又左衛門は上総介に従って京に出ていて不在らしい。代わりに嫡男の犬千代が挨拶に顔を見せた。
「簗田殿も一緒に京に行ったのではなかったのかと母上が不思議そうにしていましたよ」
牛太郎は思わずむせ込んでしまい、ご飯粒をこぼしてしまう。
「あ、いや、違う、おれは一応、役目を終えたから戻って来たんだ」
「父上はお元気ですか」
「あ、お、おう。元気だったぞ。元気すぎるぐらいだ。アハハ」
前田家でのんびりと隠れたあと、牛太郎は城に登った。大手門をくぐると、番兵たちに声をかけていきながら、本丸には向かわずに市やその姫たちが住居にしている屋敷に向かう。
市の住まいの門前にも当然見張り番が立っているが、夜でもないので、
「簗田左衛門尉だ」
の一言で、見張り番は頭を下げてき、悠々と中に入る。玄関口で来訪を告げると顔見知りの女中頭が現れて、市に伝えて来るから上がって待ってくれるよう言われたが、
「いや、今日は侍女のさな殿に話があるんで、ここで待ってます」
と、上がりかまちに腰を置いて、さゆりが来るのを待った。
「なんや」
ほどなく、深い青にあやめの白の花が鮮やかな小袖を纏うさゆりがやって来た。
「あんた、おやかた様と一緒に京に行っていたと違うんか」
「まあ、いろいろあってだな。話がある。ちょっと来い」
「なんの話や」
「いいから来い」
牛太郎は辺りを確かめつつ、庭の奥までさゆりを連れていく。
「なんや。さっさとしい」
「頼みごとがある」
牛太郎は人目がないことを確認すると、その場にがばりと両膝をついて、さゆりの足元に額を押し付けた。
「おれの下に復帰してくれ! いや、復帰してください! お願いしますっ!」
「嫌や」
くるりと踵を返してしまうさゆり。牛太郎は彼女の足にしがみつく。
「話だけでも聞いてくれよお」
実は京に行っていたのではなく、上総介の命で対武田家の作戦を策定しなくてはならなくなったので、三河遠江に赴いていたとちょっと大げさにした。
「なので、さゆりさんに手伝って頂きたいと思いまして」
「知らん」
さゆりは立ち去ろうとする。牛太郎はしがみついて離さない。
「頼むよお。さゆりんがいないとどうにもならないよお。武田のことなんて何もわからないし、ちょこまか動ける人間もいないしさあ」
「何を言ってるんや。新七と彩がおるやんか」
「新七は太郎の手下になっているし、あーやは、その、あんまりそういうことさせたくないじゃん?」
すると、庭先から「うちたろう。うちたろう」と、女中から聞いたのだろう、茶々の声が届いてきた。牛太郎はあわてて手を離して起き上がると、半纏と股引についた土埃を払い落し、すたすたと立ち去ろうとしているさゆりの肩を掴む。
「頼むぞ」
しかし、手を振り払われた。
「頼まれん」
さゆりは、お茶々様、お茶々様、と、庭先へ駆け出して行き、牛太郎は失恋してしまった男の風情で立ち尽くす。茶々が侍女たちを従えてちょこちょことやって来て、結局、目的は果たせないまま茶々の相手をするしかなかった。
初も加わって、鬼の役をやらされた牛太郎は姫たちを追いかけ回す。棒きれをどこからか拾ってきた茶々にそれで叩かれながらも、唸り声を上げて走り回っていると、玄関口に一振りの白蘭――、いや、柔らかな陽光に輝く白の打掛、黄の小袖が春の日和にまばゆく映える犬がいた。
はっと目を奪われて、牛太郎は足を止める。侍女を一人だけ伴っていて、姉の市を訪ねてきたらしい。
「左衛門尉殿?」
訊ねたわりに、桃色の頬を微笑に緩め、揺れる花弁のようにはんなりと小首を傾げる犬。一応ながら痩せてしまっている牛太郎を確かめたらしい。
まこと、季節の情緒に染み込んでいる女性だった。秋なら秋の犬。春なら春の犬。充ち満ちた香りの中へといざなうような優美なたたずまいに、牛太郎の胸は年甲斐もなくふわりと掴まれた。
「すけぺい!」
と、茶々に膝をびしっと叩かれて、牛太郎は我に戻った。あわてて地べたにひれ伏す。
「お、お、お久しぶりでございますっ! 簗田左衛門尉でございますっ!」
そんな牛太郎をおもしろがって、茶々と初が背中に乗っかったり、頭を叩いたりする。やめてくだされ、やめてくだされ、と、頭をおさえながらも、その口許は馬鹿みたいに緩みっぱなしだった。
「おやめなさいませ」
犬は歩み寄ってくると、茶々と初の目線まで膝を折る。
「お茶々殿、お初殿、母上様に犬が来たとお伝えしてくれますか」
こくりと頷くと、二人は駆け出していった。
「どうぞ、表を上げてください、左衛門尉殿」
しかし、牛太郎はひれ伏したままで、色めき立ってしまっている顔を上げられず、犬は屈んだままで牛太郎の頭を見つめる。
なんだか、そのままお互いに黙ってしまった。
山から飛び立った鷹か何かが、長い鳴き声を空に響かせる。その声が旋回しながら消えていくと、犬から口を開いた。
「奥方殿にたいそう怒られてしまったそうで」
「恥ずかしながら」
「でも、お元気そうでなにより」
なんて、優しい声なのだろう。なんて、愛らしい口調なのだろう。地面を突いている両の手から力が奪われてしまいそうで、目玉の奥を支えているものがどこかに飛んでいってしまいそうで、もう、この場に跳ね上がって歓喜の声を放ってしまいそうで、本当に年甲斐がない、本当に見っともない、でも、本当にほのかな幸せを噛み締めてしまう。
「まさか、今日、お会いできると思いませんでした。ただ――」
続かなくなった言葉に、牛太郎はちらと目を上げた。すると、なんてことだろう、犬は恥ずかしそうにして横に視線を背けている。
「こ、ここにこうして来れば、い、いつかお会いできるとも」
牛太郎は見ていられなくて、あわてて額を地面にこすりつける。
「も、申し訳ございませんっ。かようなことをっ」
犬はそそくさと腰を上げると、逃げるようにして玄関口へと小走りに去っていく。牛太郎は後を追うこともできなければ、顔を上げてその後ろ姿を見ることもできず、ただただ、木か石にでもなったかのように地面にへばりついていた。
まずい。いろいろな意味でまずい。犬に捉われがちな己の心も、その犬が上総介の妹だということも、それに自分には鬼の女房がいるということも。
どうしたらいいのかわからない。いや、なんだか胸苦しい。じわじわと息が詰まっていくように。
この、どうにもしようのない不安定な安らぎ。
そもそも、何をしにここに来たのか忘れてしまった。
「いつまでそうしているんや、阿呆」
尻をえぐるように蹴飛ばされて、涙目で振り返ると、鼻先を突き上げているさゆりがそこにいて、フン、と、背中を返して立ち去っていく。
そっか。武田だった。
「お会いしたかった」
と、市が出し抜けに言ってきて、牛太郎はこの世の春を間近にしたが、すぐに市のそれが甘ったるい意味合いではないことに気づいた。
目を伏せる市の表情は虚ろげていて、しかし、眉間が硬い。
「どうしたんスか?」
「岐阜におりたくありません。家中の将でこんなことを言えるのは牛殿だけです」
「なんで岐阜に?」
市は黙ってしまった。
「姉上様は年賀の宴席の件に心を痛まれておられるのです」
茶々と初を両手にして、牛太郎を見送りに門前にまでやって来た犬がそう言った。
「兄上様とはお顔を合わせておられません」
「そういうことスか」
なんでも、賀宴の事件を知った直後はあの市も激怒しており、羽柴藤吉郎の仁は己の栄達のため、その義は上総介への機嫌取りに過ぎない、と、憤懣やるせなかったらしい。
「サルはぬつっとぢゃ」
茶々まで感化されてしまっている。
ここまで嫌われてしまって気の毒だなと牛太郎は思った。藤吉郎ではなく、女房の寧々が。
牛太郎は一礼を残して門をくぐり出、屋敷をあとにする。
「左衛門尉殿!」
犬の声に牛太郎は振り返った。
「こ、今度、来られるときは犬にも教えてください」
茶々と初が小さな手を大きく振ってくる。牛太郎はもう一度頭を下げ、背中を向けると、ひっそりとにやけた。
そんな気分のまま、城を下り、黙って脱け出して来たことも忘れて真っすぐに帰路を辿っていく。思うことは勿論武田のことではなく、犬のこと。犬が牛太郎に掛けてきた一言一言。やっぱり自分に気があるのだろうか、どこまで気があるのだろうか、どうして気があるのだろうか。
春の甘い風を吸い込んで、すっかり舞い上がってしまっている。
「駄目だ駄目だ。やめろやめろ」
と、自分の頭を自分でばかばかと殴る。
織田の姫ともあろう人が、自分などに気を持っているはずがない。
「でも、おれって痩せたしな」
そう言いながら、頬のあたりを撫でてみる。顎の辺りをさすってみる。梓に刑を処された直後はげっそりと痩せ細っていただけだが、あれから三カ月も経ち、食べる物は食べて、あくせくと動き回っている。
そういえば、近頃は自分の姿を確かめていない。にやりと笑う。きっと、いい男になっているに違いない。
牛太郎は足を速めた。梓かあいりに鏡を借りようと考え、あいりに詰め寄られたことはもう覚えていない。
そうして、我が家まで戻ってきたのだが、玄関の敷居を跨ごうとしたところ、庭先から何やら声が聞こえてくる。
どこか除け者にされた感覚で、そっと覗いてみる。庭先には家の人間たちが総出だった。縁側には女たちや太郎が立っていて、下では従者たちが一頭の馬を取り囲んでいる。
「あっ」
と、声を上げた。
そういえば、堺の馬喰に牝馬を注文したのだった。春になったら岐阜に連れてこいと申しつけていた。
馬を購入したことを存じているのは牛太郎と四郎次郎だけである。なので、牝馬を連れてきたらしき馬喰と従者たち、とくに栗之介が揉めているようであった。
「おいおい」
牛太郎は揉めごとに割って入っていくように、鷹揚な素振りで姿を出した。
「いいんだ、おれが堺で買い付けた馬だ」
「そんなの聞いてねえぞ」
と、牛太郎に気付いた栗之介が詰め寄ってくる。
「なんでこんな馬を買ってんだ。なんのために買ったんだ。誰が乗んだ」
「なんだよ、お前。何をそんなに怒ってんだ」
「必要ねえだろ」
栗之介は焼けた額に皺を集めてやたらと語気を荒げており、牛太郎はその理由がよくわからない。
「必要あるかないかはおれが決めることだ。お前が決めることじゃない」
「必要ねえだろうよ! 何のために必要なんだ、こんなおんなっ子!」
栗之介はやって来た牝馬を指差して、相当な不満らしいが、牛太郎が見る限り綺麗な馬だった。栗毛でおとなしいし、しかも、たてがみや尻尾は銀色だった。栗綱よりも見映えがいいと、牛太郎は思った。
「おい、馬喰。いい馬じゃんか。よくやったぞ」
そう言いながら牛太郎は牝馬の首をぽんぽんと叩く。牝馬は首を叩かれても栗綱のようにぼんやりとして微動だにしない。
「へえ。そう言ってもらえると連れきた甲斐がありやした」
「どこがいい馬だよ! 旦那の目は節穴だろ!」
「お前は黙ってろっ! ねじり鉢巻きのくせにうるせえんだよっ!」
牛太郎と栗之介のやり合いに、宿屋兄弟や弥次右衛門は眺めているだけしかなく、梓や女たちもさすがに馬のことはわからないので口を出してこない。太郎だけが溜め息をついている。
「いい馬だろうが! 髪の毛は銀色だしよ、格好いいじゃねえか!」
「そんなのはどうだっていいだろうよ! 色が変わっていたって、体つきはなんなんだ、これ! 痩せぎすで、張りがなくて、いくさ場でなんかてんで使い物になんねえよ!」
そう指摘されると確かにそうなので、牛太郎は馬喰を睨みつける。馬喰はあわてて両手を振りかざし、
「いや、だって、旦那様はおとなしくて、子だけ産めるような馬でよろしいとおっしゃったんで。軍馬を持ってこいだなんて一言も」
その言葉に一同はしんとした。
「ということだ、鉢巻き。おれは軍馬を持ってこいだなんて一言も言っていない。栗綱の嫁さんだ、こいつは」
「旦那」
栗之介はしばし牛太郎を睨みつけたあと、重々しい吐息をついた。
「あんたって奴は本当に、もう......」
牛太郎は眉をひそめる。馬喰に目をやると、この中年は愛想で笑っているだけである。宿屋兄弟や弥次右衛門も、栗之介の言葉の真意をわかっていない様子である。
「なんだよ。なんなんだよ」
「父上」
太郎が縁側から言ってきた。
「残念ながら栗綱は去勢されておりますぞ」
「は?」
「栗綱は金玉抜いてんだよっ!」
栗之介がそう叫んで、女たちは袖で顔を覆って、牛太郎は唖然とした。
栗綱はそもそも、どんな馬にも乗れないでいた牛太郎のためだけに、栗之介が仔馬のときから教育してきた。基本、軍馬は去勢されるし、性格をおとなしくさせるためならなおさらだった。
「そ、そんなの、聞いてねえし......」
牛太郎の弱々しい言葉が舞い散る花びらとともに風に流されていく。
「じゃあ、勿体ないから俺が乗ろうかな」
と、七左衛門がでしゃばる有様。「兄さんっ」と、治郎助に肘で小突かれて、
「いや、冗談だけどよ」
無知をさらけ出したのが主人の牛太郎という手前、何とも言えない気まずい空気が簗田家の庭先を覆い、ただ立ちつくすしかない牛太郎の背中はとても寂しい哀れな背中だった。
放心している牛太郎をよそに栗之介が言う。
「この馬は返す。木曽に連れてけ」
「そんなこと言われても、お代は返せませんよお」
空気に耐えられなくて、牛太郎はうつむいたまま立ち去ろうとする。
「おい、旦那っ。どうすんだよっ!」
「おれが悪かった。勘弁してくれ」
と、意味不明の返答。
ところが、そのとき、馬屋から轟音が響き渡ってきて、一同が目を向けると、黒連雀が鍵板をぶち破っていた。首を大きく揺さぶりながらいなないていて、その口がおかしなことになっている。
「クロっ!」
太郎が裸足のままで駆け下りてきた。唇を捲り上げ、歯を剥いている黒連雀をなだめようと太郎が立ちはだかるが、猛獣と化してしまっている黒連雀は太郎の声も聞かずに前後の脚で跳ね上がり、首を大きく揺さぶり、涎を撒き散らす。
「クロっ! やめろっ!」
「若、駄目だっ!」
栗之介が駆け寄っていき、太郎を抱えて黒連雀の前から引き剥がす。
「お前らも逃げろっ! クロの金玉は抜いてねえっ! 邪魔したら殺されるぞっ!」
従者たちはそこを逃げ出し縁側へとへばりつく。女たちは足を震わせながらどうすることもできず、貞だけが機転をきかせて駒の目を手で隠している。
牛太郎はというと、
「なんだよ、あの性獣は」
黒連雀の腹の下にそそり立っている生殖器の巨大さに釘付けである。
そのうち、尾花栗毛の牝馬も、襲いかかって来る怪物の気配を感じ取って尻っ跳ねをして暴れ出した。馬喰が必死になって口輪を掴み、牝馬の行動を制しようとする。
「だ、旦那も手伝ってくだせえっ」
馬喰の言われるがままに牛太郎は一緒になって口輪を掴み上げる。
そうして黒連雀は生殖器をそそり立たせたまま、前脚を高々と持ち上げて、天地が鳴動するがのごとくいななき上げ、そのまま、暴れ跳ねる牝馬の腰へ、組み伏せるかのようにして乗っかった。
牝馬は猛々しい黒連雀を受け入れて、おとなしくなってしまう。黒連雀は牝馬のたてがみの辺りまで首を伸ばし、そこを噛みつけると、腰を突き上げた。
「こ、これでお代は返せませんからね!」
馬喰が言う。牛太郎はこれで良かったような悪かったような、とにかく、黒連雀の凶暴な男っぷりに圧倒されてしまって声がなかった。
生命が宿ったのかどうかはともかく、馬喰にまんまとやられてしまって、尾花栗毛の牝馬を栗綱や黒連雀と共にさせるわけにはいかず、栗之介が沓掛に連れていくことになった。
「これから北近江に行くから駄目だ!」
とは言えなかった。何度繰り返してきたことだろう、思いつきで事を運び、結果、不利を招いてしまう。どうして、そう無駄な買い物ばかりをするのだと、堺で財を成していることを知らない左衛門太郎にこんこんと説教され、
「おれは金持ちなんだから、黙れ」
という喉まで出かかった言葉を何度も我慢し、牛太郎は黙って聞くしかなかった。
さんざんだ。
太郎から解放された牛太郎は、自室で一人、むすくれていた。三河から岐阜に帰って来てまだ二日目、朝は玄蕃允の裏切りによってあいりに詰め寄られ、昼は太郎に説教され、犬との淡いひとときもどこへやら、岐阜にいるといつもろくなことがないと、自分が招いた災いだということを省みもせず、太股を苛立たしげに揺らした。
思い立って、牛太郎は部屋の戸を開けた。調度、たまが前を通りかかったので、治郎助が鍛錬から帰ってきたら、ここに呼んでくるよう命じた。
「は、はい」
牛太郎は戸を閉めようとしたが、たまがその場にうつむいている。
「どうした」
「あ、あの」
顔を上げたたまは、不安げに眉尻を下げている。
「お父ちゃんは、その、頼りないし、あんまり使えねえかもしんないですけど、身寄りはここしかないんで、どうか、旦那様、どうか、おらたちをよろしくお願いします」
そう言って、たまは頭を下げて足早に立ち去ろうとしたが、牛太郎は呼び止めた。
「ちょっと、入りなさい」
牛太郎は自室の真ん中にどっかりと胡坐をかき、たまがうつむきがちにそろそろと入って来る。腰を下ろすよう申しつける。たまは戸を閉めて、肩をこわばらせながら正座する。
黒連雀のこともあるから、もしかしたら犯されるとでも思っているのかもしれない。
「言っておくけど、おれはキミがどんなに可愛かろうと、手を出すような真似はしない。なぜなら、奥さんに殺されるからだ」
確かにそうだとほっとしたのか、尻に敷かれている牛太郎がおかしいのか、たまはうつむいたまま唇をむずむずとさせた。あどけない。
「単刀直入に聞こう。キミは武田のくのいちを知っているか?」
「武田様ですか?」
たまはぽかんと首を傾げた。演技でそうしているようではなかった。くのいちという存在すら知らなそうな表情だった。
「いや、なんでもない。聞かなかったことにしてくれ。それより、キミはこの家に奉公していて楽しいか。それでいいのか。無理やりやらされているんじゃないのか」
「い、いえっ。そ、そんなことは。梓様もあいり様もみんな、優しくしてくれます」
「好きな男はいるのか」
「えっ?」
「好きな男はいるのかって聞いているんだ」
「い、いえ」
「格さんにちょっかい出されてないのか」
「格さん?」
「七左衛門の馬鹿のことだ」
「い、いえ。特には」
「そっか。まあ、いずれちょっかいを出してくるだろうから、そのときは遠慮なくおれに言うんだからな」
「は、はあ」
たまは最後まで何のことなのかわからない様子で部屋をあとにしていった。牛太郎は他意があってのことではなかった。よく見てみたら、なかなか可愛らしい娘だったので、ちょっと話してみたかった。
苛立ちもおさまった。
改めて、対武田の事案を考察した。
摂津工作のときのように自分があちこちを回っている間に、さゆりに指揮官になってもらおうと考えていたが、当のさゆりは意にも介してくれない。沓掛の新七郎でも申し分ないだろうが、新七郎はいつ戦場に回されるかわからない。
彩を使うのは嫌だし。
於松が甲府にうまく忍びこめたとしても、連絡が取り合えないのだから、意味がない。こちらから調略を仕掛けることもできない。
「さゆりんがいないと何もできないじゃん」
仰向けに寝転がって、天井を見つめる牛太郎は、泣きたくなってくる。上総介も上総介だ。結局は何をしろと言うんだ。貧乏所帯(表向き)の自分を大大名の武田に立ち向かわせるだなんて、何を期待しているのか。
治郎助がやって来た。
「何事でしょうか」
と、牛太郎に目の敵にされている治郎助は、今度は何を言われるのだろうと緊張の面持ちだった。
「夜、岐阜を出るから用意しとけ」
「え?」
「え、じゃねえよ。用意しとけって言ってんだよ。鉢巻きを連れていけねえから、お前が栗綱を引いていくんだからな」
「兄はどうすれば」
「格さんは邪魔だから連れてかねえ。新三も連れていこうかと思ったけど、どっかに行っているし、うるさいからいい」
「今晩ですか?」
「時間がないんだ! とっとと用意しろ!」
嘘だった。本当は岐阜の屋敷の居心地が悪くなっただけで、太郎やあいりに邪険に扱われるなら、今すぐにでも脱出したい思いからだった。
そう考えたとき、まともな人間は大嫌いな治郎助しかいなかった。
ただし、梓には断っておかなければ、へそを曲げられてしまうので、治郎助に旅の準備をさせている間、牛太郎は梓の部屋を訪ねた。
「また、行くのか?」
梓は眉をしかめた。
「なにゆえ、亭主殿はそのように忙しいのじゃ。昨日の今日ではないか。太郎は去年の暮れからずっと岐阜におるというのに」
「これが終わればゆっくりできますんで」
梓は牛太郎をいじらしく睨みつけてくる。やがて、腰を上げると折り畳まれた小袖を一着取ってきて、牛太郎に差し出してきた。
「もう、着る物も少なくなってきてしまったからの」
牛太郎はにやにやとしながら小袖を受け取ると、子供みたいに胸に抱きしめる。
「帰りに反物をたくさん買ってきますんで」
「早く帰ってきておくれ」
竹生島で隠し材木を発見して以来、長浜は連日大工たちの盛んな声が轟いているらしい。
岐阜を立ったと見せかけて、願福寺で一泊してから岐阜を出た牛太郎は、連れている人間が健脚の治郎助だけとあって、栗綱を小走りに進ませ、一日で北近江小谷へと辿り着いた。
例のように夜闇に紛れて竹中半兵衛の所在の寺を訪ねる。
「まこと、簗田殿の来訪は突然ですね」
半兵衛の部屋も相変わらず汚い。
「それで、今夜はどうされたのですか。石山のことでしょうか」
「石山?」
摂津石山の本願寺顕如を言っていた。対武田作戦にかまけて、摂津の情勢に疎くなっている牛太郎は、一向一揆衆が越前で自治権を獲得したことにより、織田と停戦中であった石山本願寺が再び動きを見せていることを知らない。
「顕如が、門徒の将の下間筑後守法橋を越前に遣わし、守護に任じたとかしないとか」
越前の機に乗じて、顕如が織田家打倒の大号令を再び発するであろうと半兵衛は言う。
「なるほど」
一向宗の動向を知りもしなければ、かといって牛太郎に別段あわてた様子もなかったので、半兵衛はすすっていた湯呑みを唇につけたまま止めて、じいっと牛太郎を見つめた。
「となると、また包囲網かな」
やけに他人事口調の牛太郎である。むしろ、それを望んでいるような表情でさえあった。
半兵衛は湯呑みを下ろし、そのままぼんやりと湯呑みの中を覗き込んだあと、すうっと牛太郎に視線を持ち上げ、口許をほころばせる。
「何か企んでいるのですね」
「企んでいるってわけじゃないけど、まあ、これから企む予定かな」
ふふ、と、軽やかに半兵衛は笑いをこぼす。この男は企みに無縁の生活を送ってきたはずがないのだが、調略謀略を駆使する者特有の血なまぐささがなく、天才肌なのだろう、女のような優しい顔つきに陰は浮かばない。いくさ場は例外だが。
そんな半兵衛の前に、牛太郎は新三に書かせた設楽ヶ原一帯の地図を広げる。半兵衛はそれが何を物語るのかすぐに判別できたらしく、瞳は途端に黒く研ぎ澄まされた。
「これはいずこの図でしょう」
「東三河の長篠の近く、設楽ヶ原だ」
「長篠?」
と、上げてきた視線は刃のように冷たくなっている。
「ということは、相手は武田ですね」
「そうだ。来年か再来年、おれは武田といくさをする」
「会戦ですか」
「織田と武田の浮沈を決めるいくさだ」
牛太郎の言葉に、半兵衛は闇に浸るような視線で見つめてきながら、口許を歪めて笑んだ。例外の竹中半兵衛が現れようとしている。
「おそらく」
半兵衛は持ち出してきた黒の碁石を地図の上に並べていく。
「小川を挟んで丘がこのように向かい合っていて、簗田殿がおっしゃったように、この一帯のほとんどが湿田であれば、武田は鶴翼の陣を敷いてくるでしょう」
陣形など知らない牛太郎だが、碁石の並びを見れば理解できた。黒の碁石は連吾川と並列して丘の上に並んでいる。
「昨年の西上の折りには武田軍は総勢二万五千だと耳にしましたが、もしも、会戦となった場合にはやはり同等の兵力をぶつけてくるでしょう。対して、織田徳川連合は、おやかたのことですから二万五千よりも多い兵力で迎え撃つはず」
仮にではあるが、と、前置きした上で半兵衛は続ける。
「簗田殿の思いを汲んで、おやかたが雌雄を決めるとなると、兵力を結集するはず。ここ最近の小谷攻めや伊勢長島では三万から四万を動員していたので、徳川を加えておそらく四万。となると、自らよりも兵力の大きい軍勢に立ち向かう場合の陣構えは鶴翼を定石とします」
「なんで?」
「強力な部隊を両翼に配置して、そこを突破し背後に回って包み込むのです」
三方ヶ原で徳川軍が取った陣形も鶴翼である。しかし、これは徳栄軒に読まれていた。寡兵が大勢に立ち向かう攻撃的な鶴翼の陣は、両翼の攻撃に頼るために中央を突破されると一貫の終わりであり、実際、徳栄軒は自軍の中央に山県赤備えに穴山・馬場の強力な部隊を配置して、徳川軍の陣をさんざんに打ち破った。
「本当にそうなるかあ?」
牛太郎は茶化すように声を上げたが、半兵衛が向けてきた目が突き刺さるようだった。
「そうなりますよ」
唸るような低い声に牛太郎は押し黙る。
そもそも、と、半兵衛は言う。牛太郎が選んできた決戦地の目のつけどころがあまりにも良すぎて、偶然にもほどがある。本当にこの図に間違いないのなら、連吾川沿いの平地は進軍不可能な湿地帯であり、渡れる場所は三か所だけである。そして、立ち並ぶ丘の両端をうまい具合に街道が二本走っている。
「絶対にこの街道を使います。間違いなく翼の一方には山県赤備え、一方には不死身の馬場美濃です。武田は数々のいくさで先鋒を務めてきたこの強力な二隊で突破をこころみます」
もちろん、中央の丘に総大将大膳大夫勝頼が本陣を布く。
「わ、わかった。じゃあ、鶴翼の陣に対して、檄弱の織田はどうするんだ」
「両翼を防御する他ありません。簗田殿、この設楽ヶ原で、本当にやる場合、考え方としては攻める武田に守る織田徳川という構成でなければなりません。両翼の攻撃に耐え、機会を見て反攻に転じるのです」
「じゃあさ、ここの街道に鉄砲隊を置けばいいことなんじゃないの」
牛太郎はなにげなくそう言って、手に取った白の碁石を、黒石から見た連吾川の対岸、街道の二点に置いた。
「鉄砲?」
半兵衛が眉間に皺を寄せて顔を上げる。
「ほら、金ヶ崎山でやったみたいにさ。山県クソ三郎とババミノはここしか通るところがないんだから、ここにいっぱい鉄砲を置いて、三段撃ちすればいいんだよ。柵もこしらえて。あと、平地の三か所にも。そしたら、鉄砲に撃たれっぱなしだろ」
牛太郎が並べていく白の碁石を半兵衛は凝視する。
「信長様は二千丁持っているらしいから、まあ、平均しても四百丁ずつ。三段に分けたら百......、えーと、百二十ぐらい? 一回で百二十発撃てるわけだから、下手クソでも十人ぐらいはやっつけられるだろう。それに川を飛んで渡ったり、よじ登ってきたあとだから、武田の勢いも弱めになるし、柵もそう簡単にぶち破れないだろ。あとは金ヶ崎のときみたいに足軽が出たり入ったりしてちょこちょこやり合ってさ」
牛太郎が一生懸命に碁石を動かしているのをよそに、半兵衛は笑みをうっすらと浮かべ、牛太郎を眺めていた。
「簗田殿。もしや、これは最初から存じていたことなのですか」
手を止めた牛太郎は目線を上げたが、言っている意味がよくわからない。
「簗田殿は後世から来た人ではないですか」
「ああ、そうそう。確か、そうだった」
「この設楽ヶ原でやるいくさというのは、後世から来た簗田殿は知っていたということなのですか」
「それはなんとも言えん」
なぜなら、「長篠の戦い」として知っていたからと牛太郎は言った。しかし、いざ長篠に様子を見に行ってみたら、長篠城近辺は決戦地に向いていなかったし、牛太郎が知っている点は大量の火縄銃を用いた決戦だったということであり、長篠城ではとてもじゃないが二千丁の火縄銃の使い道がない。
「そんで、あきらめかけてぐるぐる回っていたら、ここが見つかったってわけさ。だから、これが歴史通りに合っているのかどうかわかんない。わかっていたら、わざわざ半兵衛に聞きに来ないよ」
半兵衛は苦笑しながら顔を拭っている。
「恐ろしい」
笑いまじりにそう言った。
「まるで簗田殿が今までしてきたことがここで繋がったようではないですか。拙者どもは簗田殿の掌の上のような気さえしてきます」
「おれは半兵衛のことなんか転がしてねえぞ」
「いや、そういうことではなくて」
半兵衛が言いたいのは金ヶ崎山の直前、牛太郎が突如火縄銃を調達してき、自軍の沓掛勢に三段撃ちを習得させ、それを金ヶ崎山で行ったということは、まるで、「長篠の戦い」のためだったではないか。
「あれがなければ、おやかたは二千丁も調達していませんよ。それだって十兵衛様が進言してのことなのですから。十兵衛様が金ヶ崎にいなかったら、いたとしても簗田殿が火縄銃を調達していなかったら、これはなかったのですよ」
「だってそうだもん。山県クソ三郎ぶっ殺すために火縄銃をいっぱい買ったんだもん。そしたら、なんか、金ヶ崎山になっちゃっただけで」
半兵衛は笑うことしかできない。すっかり、どす黒い参謀竹中半兵衛は消えてしまっている。
「ただな」
と、牛太郎は言う。
「鉄砲をぶっ放すってことはわかっていても、おいそれと簡単にはできないわけだよ。だって、この後ろには長篠城があるんだぜ。武田が長篠城を見過ごしてここに来るかってのが一点と、あと、長篠城に大軍で攻めてかかるかってのが一点だよ。今の状況で武田が大軍をここに持ってくるかってなったら半々だろ。東美濃からでも遠江からでも攻めることはできるんだから」
「いや、長篠城は重要な要地ですから、ここが決戦場となる可能性は大いにあります」
「じゃあ、どうやって長篠城を渡さないまま、ここに誘い込むんだよ。それがおれにはわからない。常識的にそんなことやらないだろうよ。あともう一つ、ぐちゃぐちゃのところでやるには梅雨時が狙い目だけど、そんな都合良く攻めてきてくれるかってことだ」
「そうですね」
「そうですね、じゃなくてさ」
「うーん」
細い顎に手をかけて、図に眺め入る半兵衛。狂気が抜け落ちてしまっていて、どう見ても身に入っていない。
「しばらく、考えさせてください」
と、言って、図を筒状に丸めてしまった。
「頼むよ、半兵衛。今回は匙を投げないでくれよ。一世一代の大勝負なんだから」
半兵衛はにっこりと笑う。
「簗田殿はいつも大勝負ですね」