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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
7/15

策動2

 春日山城を訪れてから四日後、太郎と久太郎は岐阜への帰路についた。

 ただ、上杉軍や一向一揆衆の状況、来るべき戦地の選定に、飛騨路は取らずに越中から加賀と隈なく歩き回り、そうして越前、北近江へと南下してきた。

 岐阜に帰国したときにはすでに稲葉山は季節の風に色あせていて、天正元年という激動の年が暮れようとしていた。

「やっぱり、岐阜が一番落ち着きますよ」

 長い旅で少々痩せこけたようにも見える久太郎が、安堵して笑った。

「今年の年末はゆっくりできそうですし」

 北陸を歩き回っている間、太郎も久太郎も岐阜の上総介や自分たちの家族と文のやり取りを怠っていない。[牛太郎を除く]

無論、織田家の状況のある程度は把握している。といっても、初秋の伊勢の敗退以来、織田軍の出撃は河内若江城攻めだけで、金ヶ崎の退き口から始まった対包囲網にあれだけ忙しく各地を転戦し、常に岐阜に漂っていた物々しさも、各将の軍勢が一時の休息のために自領に戻っているおかげで、今は平穏に落ち着いている。

 さて、年が明ければどうなってしまうのか、そんな考えは今だけは野暮だ。どちらにしろ、激しい日々がすぐにやって来るのだから、うがった考察などせずに与えられた休息を十分に満喫しなければ罰が当たるだろう。

 そんな賑やかな空気が、冬の澄んだ岐阜の城下にはあった。

 太郎と久太郎はまずは報告にと岐阜城に上がったが、上総介は不在だった。鷹狩りに出かけているらしい。

 そういうことで報告は明朝とすることにし、久太郎と別れた太郎は久方ぶりに稲葉山の家路を辿った。

 駒は父の顔を忘れていないだろうな。と、ちょっとだけ不安になりながら、黒連雀の口輪を引きつつ我が家の門前までやって来た。

 いや、門前からちょっと離れたところ、坂の下り口で太郎は立ち止まった。

 大声を上げて、何か揉めている。

 門の下で一人平伏している半纏姿の中年の男がおり、それを取り囲むようにして栗之介、小姓の新三、篠木於松、それと二人見たことのない男たちと栗綱に跨った牛太郎がいる。

 太郎は屋敷の前で人目も憚らず行われている揉めごとに割って入ろうとしたが、よく見てみると様子がおかしくてその足を止めた。

 牛太郎と栗綱の姿がである。

 牛太郎はなぜか陣羽織をまとっていて、それは一見すると漆黒の地の地味な物だったが、襟や袖口に細く走っている銀縁が輝いていて、太郎は眉をしかめる。陣羽織の下には胴丸だけを身に着けている。黒い袴に籠手も身に着けていて、兜は被っていない軽装であるが、織田のいくさは一休みという状況の中で、父の姿はどう見ても異様である。

 さらには栗綱。顔、胸、尻に白銀の房が備えられている一方で、なぜかたてがみが丹念に三つ編みにされている。どころかあの黒漆の鞍まで背負っている。

 正月はまだしばらくだというのに、なんなんだあの姿は。さては堺で散財したんだな。それで母上や家の者に自慢したいがために、あんな格好をしているのか。口うるさい息子はまだ帰ってこないと思って。

 ぶつぶつと脳裏で呟いた太郎は、早速、門前に駆け寄った。

「だから、そこをどけっ! おれはお前みたいなどこの馬の骨だかわかんねえ奴なんかに用はねえっ! どかねえと踏み潰すぞっ!」

 と、牛太郎が馬上から門前にひれ伏している男に罵っているところへ、

「何をしているのですか、父上っ!」

 太郎は飛び入った。

「あ、た、太郎くん......。か、帰っていたのかい」

 牛太郎は怒声を放っていたのもどこへやら、途端に愛想笑いを浮かべてくる。

「お、若。お前も今帰ってきたのか」

 栗之介が太郎に歩み寄り、口輪を受け取りながら黒連雀の鼻面を撫でる。於松がひょこっと頭を軽く下げ、新三と見知らぬ男二人がいちいち丁寧に平伏した。

「若様っ! お初にお目にかかります! 俺は宿屋七左衛門と申しまして、こいつは俺の弟の治郎助です!」

「宿屋七左衛門に治郎助ですか......」

「ししし」

 と、於松が笑う横で、牛太郎が罵声を浴びせていた中年が唐突に太郎の足元に這い寄り、太郎の顔を見上げた。

「太郎! 俺は、おめえのおっかあの弟だ! 春日井児玉の弥次右衛門だ! おめえも児玉の生まれだろ! なあ! この人に言ったって何も信じてくんねえんだよ!」

 ふいに男から飛び出た驚愕の言葉に声をなくして立ちつくす太郎。

「だから、テメーはとっとと出てけや!」

 と、牛太郎はいつになく軽快に栗綱から下馬してきて、自称太郎の叔父を突き飛ばし、柴田権六譲りの太刀を抜いた。

「もういっぺんそのデタラメ言ってみろ! 叩き斬ってやる!」

「でたらめなんかじゃねえよお! 本当だってば!」

「この野郎お。おいっ! 格さん! 助さん! この不届き者を取っちめてやりなさい!」

 すると、宿屋七左衛門、治郎助と名乗ったはずの屈強な若者二人が、牛太郎の声に機敏に立ち上がり、自称叔父の両脇を抱えて引きずり上げた。

「やめてくれ! 本当なんだ! 太郎!」

「ししし。こういう騙る野郎っていうのは長良川に沈めちまったほうがいいですよ、旦那」

「そうだ。よし。沈めろ沈めろ!」

「長良川より木曽川のほうがいいのではないですか?」

 新三があどけない顔してそう言うと、

「そうだ。よし。木曽川まで連行しろ!」

 と、牛太郎がまるで野盗の親分みたいに大声を上げる。

 若者たちに掴まれてあえぐばかりの自称叔父を前に、太郎はまったく整理ができなくて、何もできない。宿屋兄弟という新たな家臣もそうだし、突然現れた正体不明の男の真偽もそうだし、牛太郎の散財のことも叱りたいしで、何から手に付けていいものかわからない。

 いや、まずは、この男の真偽のほどなのだが、それを明らかにする手立てはなかった。

 突然、自分の前に現れた丹羽五郎左衛門の招介で沓掛城主となった牛太郎の小姓になる八歳まで、太郎は確かに尾張春日井群の児玉というところで実母と二人慎ましく暮らしていたが、親族というのものには会ったためしもなかった。

 幼年時代のことは曖昧な記憶であるし、実母の姿はひっそりとした思い出に留め置きたいので、自分の生い立ちなどは無理に調べないようにしている。

 だから、自称叔父などにはあまり関わり合いたくない。むしろ、牛太郎が一方的に怒り狂っているのも理解できた。天涯孤独の身から織田の侍大将に出世した自分に取り入ろうとして、こういう男が現れてきてもおかしくないからだ。

「太郎! 頼むよお!」

「気安く呼んでんじゃねえ! この不良野郎! 本当に殺すからな、おら!」

 殺生を好まない牛太郎がいつになく激怒しており、抜き身の太刀を握ったまま、男の腹を蹴飛ばした。

「何をやっておるんじゃっ!」

 門から梓がつかつかと出てきた。いつのまにか、玄関には家の女たちが出てきていて、抜刀騒ぎに恐々とした顔でいるが、梓だけは鬼の形相でいて、一瞬にして青ざめた牛太郎から太刀を奪い取り、それを放り捨てると、牛太郎の頬を平手で打った。

「門前で太刀を抜くとは何事じゃっ! いい加減にせいっ!」

「い、いや、梓殿。これには訳が......」

「訳も何も家の前を血に染めるつもりか!」

 豪華な陣羽織もむなしく牛太郎はしゅんとうなだれて、梓が宿屋兄弟と自称叔父に睨みをきかす。兄弟は梓の鬼の形相に怯んでしまって手を離し、自称叔父はへなへなと座り込んで、挙げ句にしくしくと泣き出した。

 於松はにたにたと笑っており、栗之介は黒連雀と栗綱を連れて庭先へ入っていってしまい、新三も素知らぬ振りでそのあとに付いていった。

「お主たち、何者じゃ」

 宿屋兄弟はあわてて平伏し、自分たちは新たに牛太郎の家来となった者だと名乗る。

「そうなのか、亭主殿」

「は、はいっ! そうですっ!」

「この者もか」

 と、梓は泣き出している男を差した。

「いいえ! こいつはただの騙り野郎です!」

「違うっ! 本当なんだっ! 俺は太郎の親の弟なんだ!」

 途端、梓の鬼の形相は曇った。唇を固く引き結びながらじっと男を見つめたあと、その顔を太郎に向けてくる。

「そうなのか、太郎」

「わかりませぬ」

 どうしたらいいのかも。


 さかのぼること一カ月前――。

 織田軍が若江城を攻略し、松永弾正忠帰参の許しも上総介から得たことでようやく信貴山城の軟禁生活から介抱された牛太郎は、一度、京の相国寺に戻ったあと、摂津高槻城の高山飛騨守と茨木城の荒木信濃守に顔を見せ、その後に堺に入った。

「高槻でおかしなことがあったんスけど」

 と、とと屋に押しかけた牛太郎は、田中宗易の点てた茶を頂戴したあと、そう言った。

「飛騨守の息子の右近助とかいう奴は死んだって聞いたんですけど、なんか、いたんですよね。息子みたいなのが」

「右近助様は死の淵から生還したそうですよ」

 牛太郎が飲み干した茶碗に湯を打ちながら、宗易は穏やかな顔だった。

「殺傷騒ぎのあの件で、見舞った太刀は首の骨まで達していたそうですが、見事に蘇生されたそうで。以来、キリシタンへの信仰心もより強くなったとか」

「ふーん」

 牛太郎は興味なさげに喉を鳴らしたが、新七の奴、仕留めそこなったのか、と、胸中穏やかではなかった。高山右近助の暗殺は牛太郎が命じたわけではないが、邪魔者らしいので新七が勝手に殺そうとした。

 ただ、それが仕留めそこなったとなり、もしも、自分を殺しにかかったのが新七だと把握していたらうまくない。

 もっとも、新七は扮装していたから、今の禿げ頭を見ても右近助はわからないだろうけれど。

 そんなことより、牛太郎がとと屋に押しかけたのは、馬を買いたいからであった。

「馬なら栗綱という名馬をお持ちではないですか」

「いや、栗綱の奥さんが欲しいんですよ」

 宗易はやや唖然とした。牛太郎はよく宗易にありとあらゆる注文をするが、それがいつも突拍子がないので、宗易はまたかといった調子で苦笑する。

「馬の奥方ですか」

「別に嫌ならいいんスけどね」

 宗易に対して牛太郎は毎度この調子である。宗易はがさつな将たちに茶の手ほどきをする織田お抱えの茶頭で、家臣たちに教養を身に着けさせたい上総介に結構な地位を与えられているのだが、牛太郎は初めて会ったときに宗易を怒鳴り散らした経緯があるので、以来、この男には強気である。

 宗易も宗易で牛太郎は一度言い出したら聞く耳を持たないことを知っているので、呆れつつも牛太郎に馬喰を紹介した。

 翌日、牛太郎は中島四郎次郎と共に馬喰に会いに行き、注文をつけた。色は栗毛で、性格は赤子でも跨ぐことのできるおとなしさ。それがあれば、あとはどうでもいい、と。

 馬喰は早速木曽の馬産地で見つけて来ると言ってきたので、だったら、春までに岐阜に持ってこいということで前金を払って牛太郎と四郎次郎は引き上げた。

「いいんスか? 栗之介殿に無断で」

 四郎次郎は終始、それを心配していたが、牛太郎は一蹴する。

「別にいいだろうが。無断も何も、おれの買い物なんだからいいだろうが。馬鹿か、お前は」

「変な馬、つかまされなければいいんスけどね」

「お前に言われたくねえよ!」

 そして、翌日には、彩を連れて甲冑をこしらえに出かけた。前田又左衛門の烏帽子兜を見て以来、欲しくなってしまっていた。

「いいんですか、旦那様。若君に言われますよ。どこからそんな金銭が出たんだって」

 彩は終始、それを心配していたが、牛太郎は途中で呉服屋に立ち寄って、彩にたくさんの反物を買ってやり、願わくはその中で一度着たものの一着をくれてほしいと言ってみた。

「それは無理です」

 一蹴された牛太郎は、とぼとぼと呉服屋をあとにしようとしたが、反物を見ていたら藤吉郎が自慢していた陣羽織を思い出して引き返した。店の番頭にああせいこうせいといちいち注文をつけたあと、店を出た。

 その後、織田家の御用商人で茶頭でもある今井彦右衛門宗久を訪ね、甲冑販売もしている彼に、馬の乗り降りに支障のない軽い鎧はないかと相談してみた。

「ありませんな」

 たまには天啓ひらめくごとく発案をしてくる牛太郎だが、たいてい言い出すことはいつも荒唐無稽なものだと宗久はわかっているので、畿内の利権の大半を牛耳る豪商らしくふてぶてしい顔でにべもなく牛太郎を一蹴した。

「そんなことよりも、そろそろ火縄銃をご購入しませんか。近頃、簗田殿の軍勢は兵数が増えてきていると耳にしますがね」

 絡みつくような視線で頬に笑みを浮かべる宗久に、牛太郎は頭を掻いてごまかすと、何の成果も得られずに屋敷をあとにした。

「クソッ。強欲商人めっ」

「旦那様、だったら、胴丸だけを身に着ければいいのではないですか」

「?」

 牛太郎はよくわかっていない。

「旦那様は今まで綱しか巻いてこなかったのですから、そこまで防具にこだわる必要はないのではないですか」

 言えている、と、牛太郎は空を仰ぎながらこれまでの戦場を思い出す。身の危険を感じたときというのは、たいがい栗綱から落ちているときで、落馬さえしなければ栗綱が守ってくれる。

 いや、そもそも、今後、いくさの最前線に出るつもりは毛頭ない。無様な姿を晒したくないというわけで、重い甲冑を着込んで自分一人では栗綱に跨れないばかりに、周りの者たちにえっちらおっちらと担がれたくないだけだ。

「じゃあ、そうしよう」

 彩の助言により牛太郎は宗久の屋敷に引き返そうとしたが、なんだか、あの顔を見たくないので二日連続でとと屋に向かった。

 畿内の情勢はわりと落ち着きを取り戻しているので、倉庫業のとと屋も繁盛していた。ふんどし一丁の荷役たちが忙しく動き回っており、馴染みの番頭も帳面片手に声を張り上げている。

「あ、彩さん」

 牛太郎と彩がとと屋の庭先に回ろうとしたところで声をかけてきたのは、四郎次郎が営む水運業の船で水夫として働いている助次郎だった。

 下は藍染めの股引、上は尻切り半纏一枚だけを羽織っており、巻きつけたさらしの上には胸板が盛り上がっている。水玉模様の手拭いを小粋な前結びで頭に巻いており、まあ、まばゆいほどの男だった。

 二十歳である。元々はとと屋の荷役で次郎と名乗っていたが、兄の太郎とともに牛太郎に、兄は格太郎、この弟は助次郎と名を与えられ、以降、宗易の薦めもあって、兄弟は牛太郎が裏で糸を引く四郎次郎の水運業の船乗りとなった。

「なんだよ、お前」

 牛太郎は助次郎を警戒している。

「何を油売ってやがるんだ」

 牛太郎が娘と思って可愛がっている彩に、助次郎が心を寄せていることを牛太郎は知っている。なので、一度は彼ら兄弟を自分の従者にしたものの、それを知ってからは遠ざけている。

「ち、違います、旦那様。下ろした荷を運びに来ただけです」

 牛太郎の配下にある人間の中で、助次郎は珍しく素直な性格である。意地の悪い牛太郎の言葉にも、好青年らしい焦りを表す。ただし、助次郎に限って、牛太郎はそれが嫌なのだ。

「だったら、さっさと仕事しろ!」

 理不尽な牛太郎の怒声に若干の不満を眉根に見せながらも、助次郎は頭を下げて走り去っていた。

「急にどうしてですか。あんまりじゃないですか」

 彩が少々目を大きくして怒っている。

「あんまりでもなんでもない。おれはああいうふうに仕事中に女に声をかけてくる軟派な野郎なんてのは大嫌いなんだ。だいたい、なんでおれに先に挨拶しないで、彩殿っ、なんだよ。おかしいだろ」

「それはそうかもしれませんが、助さんは毎日一生懸命励んでいますよ」

「なに?」

 むすくれた顔で見上げてくる彩に牛太郎は瞳をてらてらと燃え上がらせる。

「助さんだと?」

 最低でも、助次郎と彩は顔を合わせれば会話をするぐらいの仲ということなのだろう。

 裏を返せば、そこまで親密ではない。が、このまま放っておくと、以前に、自分も殿方に心を寄せてみたいなどと言い放っていた彩が、好青年の助次郎に奪われてしまう可能性は非常に高い。

 だいいちに、牛太郎は堺に居座れない。常に監視の目を置けない。四郎次郎にそれを命じたところで当てにならないし。

 ならば、助次郎には消えてもらおう。

 宗易は出払っていたが、今しばらく待てば帰宅するらしいので、牛太郎と彩は差し出された煎茶をすすりながら宗易の帰りを待つ。

 その間、牛太郎の脳裏には策と謀が螺旋のうねりのようにめまぐるしく働く。違う船乗りに金品を与えて、航行中に海へ突き落させてしまうか。それとも、四郎次郎から金品を盗み出し、それを理由に四郎次郎を追い込んで、どうせ四郎次郎は盗まれたのだと責任転嫁するだろうから、どさくさに紛れて助次郎に罪を被せてしまうか。

「やっぱり、とと屋様がお出しになられる茶はおいしいですね」

 湯呑みを小さな手に抱えてにっこりと笑う彩。さゆりにこき使われていたときの鋭さはすっかり抜け落ちて、団子茶屋の看板娘らしい愛らしさだった。

 牛太郎は微笑み返したあとに、ひそかに拳を握り締める。彩を絶対に男の手に触れさせたくない。

 ただ、彩が実に可愛らしいように、助次郎も簗田一派とは考えられないほどの好青年である。冷静に考えればそんな青年を殺してしまうのは非常に惜しいし、さすがの牛太郎も愛情とは言えない独占欲だけで一人の若者を追い落とすのは気が引けた。

 でも、彩には触れられたくない。

「あ」

 と、牛太郎は思いついて声を上げた。彩が不思議そうに首を傾げる。

 おれの直属の家来にして堺から切り離しちまえばいいんだ。

 思い立ったら猪突のごとく動き出すのも牛太郎で、帰ってきた宗易に甲冑師を手配してくれるよう頼むと、彩を先に帰らせて船着き場にさっさと出向き、四郎次郎を呼びつけた。

「格太郎と助次郎は今日で上がりだ。おれの家来にさせる」

「えっ! なんでスか! 格と助はあっしには欠かせない者たちッスよ!」

「お前の下にはいっぱい船乗りがいんだろうが! おれには家来がジジイしかいなくて、新七は沓掛行っているか太郎に付きっきりだし、他には生意気な小姓と馬丁だけなんだぞ! お前の我がままに付き合ってられるか!」

「そんなあ。今更、それはないッスよお。さゆりちゃんを呼び戻せばいいじゃないッスかあ」

「うるせえ! 言うことがきけないんだったら、クビにするからな!」

 何かにつけて反抗する四郎次郎をねじ伏せると、その晩には格太郎助次郎兄弟を屋敷に呼び、自分の従者になって、ゆくゆくは与力にしてやるからという心にも思っていない言葉で釣り上げ、武者に憧れていた兄弟も喜んで牛太郎の配下になると言った。


 新たに格助兄弟を従えた牛太郎は、岐阜への帰路を辿る。すると、途中、南近江で取った宿で、兄の格太郎は突然言い出した。

「旦那様。武士になるんなら、名を変えたいんですが」

 主人から貰った名を変えたいなどと無礼ではあるが、格太郎は助次郎と違ってわりと図々しいほうだったし、牛太郎も名のどうのこうのはあまりわからないので好きにさせた。

「じゃあ、俺は今日から七左衛門で」

 と、前から用意していたような素早さだ。

「お前も変えろよ」

 そう兄に促された助次郎だったが、難しい顔をして首を傾げた。

「しかし、せっかく旦那様に頂いた名だし」

 兄とは違って律儀な助次郎に、牛太郎は瞳を輝かせながら笑みを浮かべる。

「だったら助平郎にしたらどうだ」

「そ、それはあんまりじゃないですか、旦那様」

「似合いじゃんか」

 どこまでも助次郎に嫉妬している牛太郎。見る者によっては冗談とも本気ともつかない愉快そうな顔であった。

「どうして、俺が助平なのか、わかりません......」

 助次郎は理不尽を理不尽と理解できない好青年である。泣き出しそうな顔でうつむいてしまっている。それを見兼ねたのか、ただのでしゃばりなのか、黙って眺めていた新三が口を挟んできた。

「治郎助というのはいかがでしょうか?」

「はあ?」

 牛太郎はただのでしゃばりだと見た。

「なんだ、お前。偉そうに言い出したと思ったら反対にしただけじゃんか」

 せせら笑う牛太郎に新三はむきになって詰め寄ってくる。

「違いますよ! 頭の次を治めるの治に変えていますよ!」

「フン。ガキが考えそうなことだ。もうちょっと格好いい名前を付けてやったらどうだ」

「そこまでおっしゃるならば、殿のお考えを聞かせてくださいよ」

「ふむ。助平郎だな」

 助次郎は大きな溜め息をついた。

「もういいです。治郎助で」

 結局そうなった。無論、牛太郎はこの兄弟を七左衛門、治郎助などと呼ぶ気はさらさらない。

「姓はどうすんですかね、旦那」

 にたにたと笑いながら於松が言ってくる。

「姓も決めています。宿屋です」

 兄の七左衛門の言葉に、牛太郎は一瞬、声を失ってしまった。そのあと、鼻で笑った。

「宿屋はないだろ。宿屋は。シロジロだって一応は中島だぞ。本気で言ってるのかよ」

「はい。俺も弟も元は摂津の木賃宿の倅ですから。いくさのあおりを食らって焼けてしまいましたけど。オヤジもおふくろも死んじゃって」

「そ、そっか」

 いろいろと忸怩たるものがあるらしいが、深いところまでは聞かないことにした。

 身の上をあまり知ってしまうと、彼ら兄弟、特に治郎助に感情移入してしまう。それならば彩と一緒にさせて幸せにさせてやろうかなどと思ってしまわなくもない自分もいる。

 それよりも、太郎やあいり、さゆりや新七郎、彩といい、どうして親を喪った若者ばかりが集まって来るのだろう。齢も皆揃って二十前後。

 もっとも、太郎以外の皆はすべて戦乱の被害を受けた上でのことで、それだけ今の時代というのは業に満ち溢れている。

 高貴な身分の茶々や初、江にだって父親はいなく、一歩遅れれば母親でさえ喪いそうだったのだし。

 いや、そのことはもうやめよう。

「お前ぐらいだな」

 と、牛太郎は岐阜への道すがら、馬上から新三に言った。

「何がですか?」

 きょとんとした表情が似合う丸顔だ。

「いや、なんでもない」

 生意気ででしゃばりな少年だが、岐阜を出てから今まで、屁理屈めいた逃げ口上は言うものの弱音はあまり吐かない。むしろ、体質的に辛さの感覚がないのかもしれない。信貴山城に軟禁されていたのは新三も同じことであったが、それに対しての不平不満はまったくなかった。

 生意気さとでしゃばりさが抜ければ、使える人間になるかもしれないと牛太郎はちょっとだけ思った。

 牛太郎一行はのんびりと東進していき、岐阜を目前にした大垣でも一泊した。

「さてと」

 寝床から覚めた牛太郎は腰を上げると栗之介を呼び出し、堺でこしらえた胴丸や陣羽織を荷物から取り出すよう命じた。それと、栗綱に黒漆の鞍を背負わせるよう申しつける。

「何を考えてんだか......」

 とは言ったものの、栗之介は理由をいちいち訊ねなかった。主人の牛太郎との付き合いもだいぶ長くなってきて、だいたいはわかっていた。

 牛太郎も栗之介のぼやきにいちいち反応しない。

 真新しい陣羽織をまとって颯爽と現れた牛太郎に、一行の者どもたちは驚き、やがては表情を強張らせた。

「だ、旦那様。まさか、出陣なのですか」

 治郎助の声が緊張に震える。

「そんな訳ないだろうが。出陣だったら、お前らにも準備させるわ」

「じゃあ、なんで」

「凱旋帰国だ」

 さも当然のことのように胸を張り上げる。

 者どもの顔つきは苦笑に引きつった。ただし、七左衛門は違った。この男だけには海原を駆け抜けてきた船乗りらしい見栄が染みついているらしく、鳶色の瞳をきらきらと輝かせて牛太郎に憧憬の眼差しを注ぎ込むと、

「だったらもっと洒落込みましょうよ!」

 と、張り切り始めて、しばらく待ってくれるよう言い残すとどこかへ駆け出していった。

 首を傾げ傾げ一同は七左衛門の戻りを待っていると、だいぶ待たされていったんは宿の中に引き上げたのち、七左衛門が一人の男を連れて戻って来た。

 連れてきた男は風呂敷に包まれた箱を携えている。七左衛門は箱の中身をどうだと言わんばかりに牛太郎に見せてくる。中身は銀色の房だった。

「ははあ」

 牛太郎はにたりと笑った。騎馬装束である。牛太郎は武田の赤備えを目の当たりにしているので、すぐにわかった。すぐに銭を払った。

 他の者どもが呆れて眺めるだけの中、牛太郎と七左衛門の二人はぼんやりとしている栗綱にせっせと房を着けさせていき、しまいには七左衛門の提案で栗綱のたてがみを一束一束にして三つ編みに結んでいった。

 上機嫌な牛太郎を筆頭に、一行は岐阜へ入った。

「若に見つかったらどやされるぞ」

 栗之介がそう言ったが、

「大丈夫だ」

 と、牛太郎は屁とも思わなかった。

 なぜなら、軟禁から解放されたあとの堺でくつろいでいる間、頻繁に梓と文のやり取りを行っており、北陸に出向いている太郎の戻りが伸び伸びになっていることを把握していた。

 うるさい奴はいない。

 おそらく、今までの中でもっとも我が家が恋しい帰参であったろう。

 が、稲葉山の屋敷の門前で牛太郎の戻りを待ち望んでいたのは、物乞いだった。

「誰だ、お前」

 牛太郎の機嫌は一挙に冷めてしまう。従えている一同も栗之介以外は新参だから、なんとなく主人の様子を眺めるだけである。

「お、俺は春日井児玉の弥次右衛門」

 牛太郎は眉をしかめた。身なりは牛太郎の普段着のような半纏股引で、しかも薄汚れているし、頬骨が浮き上がった痩せぎすの浅黒い肌、言葉づかいは無礼を通り越して、自分でも何を喋っていいのかわからないといった調子のたどたどしさ。いかにも百姓、いや、百姓に雇われている農奴だった。

「ヤジエモンだと? 知らねえよ、テメーみてえなのは。どけっ」

「違うっ! お、俺は太郎のおっかあの弟なんだ」

 牛太郎の表情は固まった。

「た、太郎にお願いが」

「旦那」

 栗之介が振り向いてきて言う。

「構っちゃいけねえよ」

「わかってるよ。おい、格さん助さん。こいつをどかしなさい」

 牛太郎の命に七左衛門と治郎助は歩み出したが、弥次右衛門とやらが大声を張り上げてくる。

「違うんだ! 本当なんだ! 嘘みてえなこと言ってっかもしんねえけど、本当なんだ!」

「黙れっ! だったら、テメーが太郎の親戚だっていう証拠はあんのか!」

「そ、それは、ね、ねえけど」

 男があまりにも朴訥すぎて、ただの騙りではないかもしれないと牛太郎は不安になった。

 太郎は丹羽五郎左衛門長秀が町娘に産ませた子である。

 牛太郎はそれを知っているが、太郎は知らない。家族も知らない。織田の人間でも知っている者はいないのではないか。

 牛太郎が十年以上も秘匿し続けてきたことだ。

 もしかしたら、この男が本当に太郎の叔父であった場合、真実を知っている可能性は高い。

 だから、太郎に会わせることは許されられない。

 もし、丹羽五郎左衛門の子であると太郎が知ってしまった場合、一心不乱にここまでやって来た太郎のすべてが崩れてしまう。

 牛太郎は思った。こいつを殺してしまおうと。しかし、門前を血で汚すわけにはいかないので、一度追い出して、新七郎に仕留めさせる。

 どうせ、こんな人間が死んだとしても、行方知れずで片付くに違いない。

 だが、予想に反して太郎が戻ってきてしまったのだった。



 天涯孤独であったはずの左衛門太郎に血縁者がいる。

 簗田家は屋敷をひっくり返すような大騒ぎ、ではなく、皆、口数を少なくして、素知らぬ振りをしなければならない、しかし、一方で身を切り刻まれるような耐え難い苦渋に襲われる。

 一度は弥次右衛門を殺そうと考えた牛太郎であったが、太郎に出くわされてしまったのと、梓に割って入られてしまったのもあって、どう決着をつければいいか苦悩し、とりあえずは屋敷には入れたくないので、「今晩、話を聞いてやる」と、男を城下の願福寺に向かわせた。

 陣羽織も胴丸も脱ぎ捨てて、普段着の半纏に戻った牛太郎は、自室で梓と二人、男の処置のしようを決めかねていた。

 太郎はいない。

「拙者には親族なんておりません。父上と母上、妻と娘、それにこの家の者、拙者の家族はそれだけです。ただ、拙者にはあの方を追い出すこともどうすることもできません。何かすれば、それを知った家中の人たちが情け知らずと噂してしまいますから。だから、処置は父上の一存に委ねます」

 つまり、追い出せということなのだろう。

「気丈には振る舞っておったが」

 梓にいつもの勝ち気さはなく、ただ視線を落としている。

「血縁者がいないのといるのとではまったく違うものじゃ」

「でも、あいつが本当に太郎の親戚かはわからないッスよ」

「しかし、もしも本当に縁者であったら、あの者はきっと村に戻って言いふらすに違いない。にべもなく断られたと。そうでもしたら、太郎の評判は落ちてしまうではないか」

 だから、殺す。とは、言えない。梓がそうしたことを許すはずがない。

 力ずくでも早々と引きずり剥がすべきだったと牛太郎は悔やんだ。梓や太郎に見られなければ、摂津工作でそうしたように誰にも知られずに手を汚せられるのである。

 どうしたらいいものか。

 もしも、騙りであったら、どうせ意地汚い男であろうから、簗田左衛門太郎は非情だと騒ぎ立てる。騙りであったら目的は金銭だろう。はした金でもくれてやって黙らせておき、しばらくはむしり取られるかもしれないが、逆にそれを逆手にとって堂々と処罰してしまえばいいのかもしれない。

 もしも、言っていることが本当であれば――。

 厄介である。

 目的は何か。無論、それでも金銭かもしれないし、親族を手玉にして仕官する狙いなのかもしれない。ただ、そうした野心がまったくない男という可能性も無きにしも非ずで、ただ単に太郎に用事があるのか、何か伝えたいことがあるだけの来訪かもしれない。

 これが太郎でなければこんなには悩まないだろう。追い出すか、雇ってしまうか、それだけの選択で構わない。実際、簗田家は慢性的に人手不足なのだから、この戦国乱世に人間性もへったくれもなく、ただの人手として雇ってしまえばよいのだ。

 しかし、太郎は目も当てられない宿命を抱えて生きているのだ。まして、その宿命を本人が存じていないという仕打ち。

「ただ、亭主殿。太郎の気持ちもあるであろうが、このさい雇い抱えてしまうのも手ではないのか」

 梓は知らないからそう言う。牛太郎は長々と溜め息をついた。その仕草を梓は馬鹿にされたと勘違いしてしまったらしく、眉尻を吊り上げてきた。

「わらわが何かおかしなことを申したかっ」

「ち、違うんです。こ、これには深い訳が、ふかーい訳がありまして」

 牛太郎は仕方ないと思った。井戸端会議に余念がない梓だが、決して口が軽いわけではないし、大丈夫だろう。

「実は、太郎は――」

 牛太郎は辺りをきょろきょろと見回し、於松が窓の外にいるかもしれないので、梓の耳に口を近づけた。

「丹羽五郎左殿の隠し子なんです」

 梓はゆっくりと牛太郎に顔を向けてきたが、何か言おうとして開けた口をそのままにして固まった。

「これを知っているのは多分、あっしと竹中半兵衛、もちろん五郎左殿もそうですけど、他には信長様も知っているかどうか。太郎は――、知りません」

「嘘じゃ」

「嘘じゃありません」

 牛太郎は瞼をきつく細め、現実を受け入れられない梓を見つめる。

「嘘じゃ」

 梓の瞼にはみるみるうちに涙が溜まってくる。そう。辛い。

「五郎左殿はあっしがそのことを知らないと思っています。だから、五郎左殿はあいりんを二つ返事で養女にしてくれたんです」

 はっ、と、梓は瞼を大きく広げた。彼女もすべての合点が一致できたようだった。

 牛太郎は、太郎が自分の小姓になったときから竹中半兵衛の仲介で養子縁組してまでのことをすべて梓に話した。

 なぜ、町娘の子でしかなかった子供が、桶狭間で勲功第一の手柄を得た武将の小姓に突然なれたのか、なぜ、五郎左衛門は忙しい身を削ってまで沓掛の政務を見てくれたのか。

 それはすべて息子のためなのである。

「それを太郎は知らぬというのか。気が付いてもいないというのか」

「多分、ちっとも気付いてないッス。考えたくないんでしょう。本当の父親が誰かなんて」

 例えば、織田軍が延暦寺など一連の虐殺劇を繰り広げたとき、雑兵たちはここぞとばかりに女を犯した。そうしたいくさの中での強姦は織田軍だけの話ではなく、むしろ、敵領地の焼き討ちでは当然のことのように行われているので、もしかしたら太郎も、そういうところから生命を宿されたと思っているのかもしれず、そうすればあまり考えたくはない。

「しかし、よりにもよって」

「だから、どうすればいいかわからないんスよ。おいそれとあいつ雇えないんスよ。もしも、あいつがそれを知っていたら、太郎はおかしくなっちゃいますよ」

「そうじゃな」

 梓はがっくりとおかっぱ頭を垂らし、溜め息をついた。鬼梓の片鱗もなかった。

 夫婦は沈黙した。子のない彼らにとって、太郎は養子と言えども、たった一人の子である。梓は梓で、実の親子ではないひずみが生じて涙ながらに太郎と言い争ったことがあるほど、梓にとって太郎は子なのであり、牛太郎は牛太郎でそれこそ今の新三よりも小さかったときの太郎を知っているのだ。そこから梓を迎え入れるまではずっと、罵り合いを絶やさないながらも二人三脚でここまでやって来たのだ。

 うるさくてやかましくて自我ばかりが強い子だが、今でも鮮明に覚えている。右も左もわからずにただ幼かっただけの太郎が、牛太郎を「殿様」と愛らしい顔を不安げにさせながら見上げてきたときのことを。

 ああ、そうか。それを考えると、あいつも立派になったな。

 それを考えれば、なおさら、わずらわしさなく健やかに暮らしてほしい。

「梓殿」

 牛太郎は呟きながらも、尖った眼差しを梓に上げた。

「太郎のためだと思って許してください」

 いつにない牛太郎の厳しい顔つきに梓は戸惑った。おそらく、彼女は牛太郎のこんな顔を見たことがない。

「な、何をじゃ」

 自然、声は女らしく震えている。

「今回ばかりは目を瞑ってください」

 牛太郎は梓に暗い視線を据えたまま、傍らに置いておいた太刀の鞘を握り締めた。鍔が、かちゃ、と鳴った。

「だ、駄目じゃ。そんな真似は駄目じゃ」

 鬼梓の目が泳いでいる。

「是非に及ばず」

 摂津で培った、梓の知らない謀略家の凄味を見せつけて彼女に声を失わせた牛太郎は、太刀を手にして腰を上げると、人が変わったように女房に一礼を残して部屋を出た。

 真正面を睨み据えながらずかずかと縁側を行く。岐阜を出るときには色どり豊かだった庭先の草木もすっかり枯れている。

 梓は追ってこない。

「ししし」

 於松が庭先で背骨を曲げながら笑っている。どうせ、盗み耳を立てていたのだろう。

「行くぞ、ジジイ」

「いやあ、旦那といると本当に飽きないですねえ」

 広間まで来ると、初めての岐阜なのに待ちぼうけを食らわされている宿屋兄弟に、付いてこいと顎をしゃくった。兄弟はなんのことなのかわからない様子だったが、牛太郎の気配が変貌してしまっているので、黙って立ち上がった。

 屋敷を出ると、稲葉山を下りる。

 牛太郎の算段はこうだった。とりあえず、目的を知っておかないと、もしかしたら裏で動いている人間がいないとも限らないので、話は聞いてやる。一通り聞いたところで、格助兄弟の力でさらってしまう。於松に警戒させながら夜道をかいくぐって木曽川まで行く。そこで斬り殺して、死体を川に流す。

 願福寺に向かう牛太郎の額には汗が噴き出していた。自らの手で人を殺めるのはこれが初めてである。いくさでもない。使ったのはせいぜい栗綱の脚である。

 そんな自分に殺人ができるか。

 いや、殺す。絶対に。



 一行は無言のまま、願福寺に到着した。男は痩せぎすの体を門前の柱にもたせかけていて、しなびた干物のようだった。

「あ、あ、た、太郎は」

「話を聞いてやる。来い」

 門をくぐり本堂を訪ねると、掃除をしていた小坊主に一室を借り受けたいと申し出た。たかが小坊主でも簗田家に世話になっていることぐらいは把握しているので、住職に取り次ぐような真似もせずにすんなりと部屋まで導いた。

「それでは、ごゆっくりと」

 小坊主が下がると、牛太郎は

「入れ」

 と、男に睨みをきかせた。その威圧感に怯えを見せながらも弥次右衛門は恐々として部屋に入り、牛太郎は太刀と脇差を外して宿屋兄弟に渡す。

「お前らは外で待っていろ」

「いつでも呼んでくだせえよ、ししし」

 於松の危ない笑みから顔を背けると、戸を閉め、牛太郎は男と差し向かって座った。

「用件を聞いてやる。太郎に会いに来た目的はなんだ」

「お、俺は本当に嘘なんか言ってねえ」

「用件を言えっ!」

 弥次右衛門は肩をびくりと震わせると、背中を縮こまらせながら牛太郎を見た。

「よ、用件って言うほどのもんじゃねえ。た、太郎に助けてもらいたくて」

「どういうことだ」

「そ、その、なんて言えばいいのか、お、俺っちはすげえ貧乏で」

「銭か」

 男は鶏がらのような首でこくりとうなずく。牛太郎は震える手を握り締めておさえた。

「下衆野郎」

「ち、違うんだ! 俺も、俺っちも、やっぱり、そんなことはしたくねえんだけど、でも、もう、どうしたらいいかわかんなくて」

 すると、男はうっうっと嗚咽を漏らし始めた。

「俺も、今まで太郎のことなんか面倒見なかったのに、いまさらこんなことしちゃ駄目だってわかってんだ。でも、でも、どうしたら、どうしたら」

「泣き脅しは通用しねえぞ、カス」

 しまいに男は突っ伏してしまう。

「堪忍してくれえ。太郎に会わせてくれえ」

「だいたいな、テメーが太郎の叔父だっていう証拠なんかねえんだぞ。太郎だってそんなのがいたなんて知らなかったんだからな。てことは、テメーは太郎に一度も会ったことねえだろうが」

「い、一回だけあるよ!」

 男は急に泣き顔を上げてくる。

「太郎が赤ん坊だったときに一回だけ姉ちゃんに会ったよ!」

「じゃあ、お前――」

 牛太郎の唇は震えていた。

「太郎のオヤジが誰だか知っているんだな」

 男は首を横に振った。

「知らねえ。姉ちゃんも誰なのか教えてくんなかった。姉ちゃんは誰にも言わなかった。だから、多分、野盗か、旅のやくざ坊主だ。きっと、そいつらにやられちまったんだ」

 嘘はついてなさそうだった。もし、五郎左だと知っていたら、それを理由にゆすってくるはずだ。

「そうか。わかった。ただ、お前には死んでもらう」

「えっ!」

「邪魔だ。この世から消えろ」

「なんでっ! なんで、俺が殺されなくちゃなんねえの! なんでっ!」

「テメーみてえな卑しい奴がいると太郎の将来に傷がつくんだっ! せいぜい地獄でおれを呪ってろっ! おいっ! お前らっ!」

 戸がばちんと開いて、宿屋兄弟がなだれ込んできた。弥次右衛門はあわてて飛び上がり、兄弟の脇からすり抜け逃げようとしたが、船乗り上がりの屈強な若者の拳で男は吹っ飛ぶ。

「お前ら! さらっちまえ!」

 治郎助が男を床に押さえつけると、七左衛門が腰にぶら下げていた手拭いを取り外す。男は暴れ回りながら泣き叫ぶ。

「堪忍してくれえ! 俺には児玉に女房も子供もいるんだあっ! 二人も、二人も娘がいるんだあっ!」

「娘?」

 七左衛門が男の口に手拭いを押し込め、そのまま締め上げる。

「娘ねえ......」

 牛太郎はもがき回る男を見つめる。於松がひょこひょことやって来て、懐から取り出した短刀で、にたにたと笑いながら男の衣服を裂いていく。

「二人か」

 牛太郎は天井を仰ぐと、悪事を巡らせ始めた。

 そんな牛太郎をよそに、於松が、切り裂いた衣服の布で男の手足を手際よく縛り付けていく。

「太郎の叔父さんで、二人の娘か」

 脳裏に浮かんだのは堺にいる彩の顔である。そして、治郎助をもう一度見た。

「旦那、出来上がりましたぜ」

「まあ、待て。格さん、そいつの口の手拭いを取ってやれ」

 牛太郎はにたりと笑っていた。

「え? いいんですか」

「いいから、取れ」

 七左衛門は首を傾げながら、のたうち回りながらもごもごと何かを言っている男の口を解放してやる。

 男は自由になった口で早速叫んだ。

「俺が何をしたって言うんだ! なんで、こんなことすんだ! なんて、ひでえ男なんだ、あんたは!」

「まあ、落ち着け。事と次第によっては助けてやる。お前の娘ってのはいくつなんだ」

「十五と十三だよ! だから、堪忍してくれよ!」

「ほほう。十五歳と十三歳ね。で、結婚してんのか」

「してねえよ!」

 牛太郎は陰のある笑みを浮かべながら宿屋兄弟をちらと見る。

 牛太郎は言った。

「おっさん、おれの与力になれ。太郎の叔父さんってことで特別に簗田姓もくれてやる。ただし――」

 牛太郎は宿屋兄弟を指差した。

「こいつらにお前の娘を嫁がせるのが条件だ。で、格さん助さんは晴れて簗田一門の与力だ」



 牛太郎の企み。

 治郎助に対するただの嫉妬から来ている。

 弥次右衛門が太郎の本当の叔父であるかどうかは、今となってはもはやどうでもよくなってしまっている。

 弥次右衛門の処置は牛太郎の一存に委ねられている。だったら、迎え入れてしまえばいい。太郎の叔父と認めてしまえばいい。

 すると、弥次右衛門は簗田家の一門だ。

 弥次右衛門には年頃の娘が二人いるらしい。これを宿屋兄弟に嫁がせてしまえば、治郎助の毒牙から彩を守ることができる。

 簗田一門という餌を宿屋兄弟にぶら下げてしまえば、断るすべもないであろう。

 天下布武を目指して北摂津を転覆させた人間とは思えぬ、ひどく矮小な計略であったが、牛太郎はほくそ笑んでいた。

「今、何と言ったのじゃ」

「だから、このおっさんは今日から簗田弥次右衛門。で、おっさんの娘を格さん助さんの嫁にするんです」

 あまりにも唐突すぎて、家の者、皆の開いた口が塞がらない。

 眼福寺から戻ってきた牛太郎は、新七郎や彩、四郎次郎以外のすべての簗田家の人間を広間に集めた。もちろん、太郎も呼んだ。

 そうして、言ったのである。弥次右衛門は太郎の叔父に間違いない、と。

 当の太郎は、ややうつむき加減に押し黙っているだけだ。

「い、一生懸命働くんで、よろしくおねげえします」

 華やかな女たち、屈強な男たちを前にして、ぼろでも纏っているかのような弥次右衛門はぼそぼそとそう言いながら床に額をこすりつけた。

「ま、ヤジエモンは真面目な奴なのに貧乏で可哀想な奴なんだ。これは見捨てておけないし、それに簗田家の結束のためにも、格さん助さんには一門になってもらいたいなと思っていた矢先だったからな」

 ちょっと前には弥次右衛門に馬上から罵声を浴びせていた男の明らかな嘘に、一家の者たちは怪訝な顔つきになった。

 ところが、いつもはこういうときになると決まって口火を切る太郎が、

「わかりました」

 と、素直に従った。

「ただ、彼らを一門にするというのは早急すぎます。拙者は彼らが何者なのかも知りません」

「お前は黙ってろ。この家の主人はおれだ。お前がヤジエモンを叔父さんとして迎え入れたんなら、あとのことには口を出すな」

 封建制度のこの世の中にあって家長は絶対である。だが、この独裁者の身代わりの速さがあまりにもおかしいので、誰の顔にも疑念が表われていた。

 そもそも、牛太郎が「簗田家の結束」などと言い出すのが一家の人間には解せない。

 ただ、弥次右衛門と七左衛門だけは牛太郎の一言一言に熱心に聞き入っていて、急に嫁を押し付けられてしまいそうな治郎助は栄達を夢見る兄とは違って不安げな表情だった。

「何か変じゃ」

 梓が牛太郎を薄ら睨みながら言う。

「おかしい」

 梓の言うことはもっともで、あれだけ厳しい顔つきで太刀を手に取って出ていった牛太郎なのに、帰ってきてみたら、ころりと話を変えてしまっている。

 鬼梓の気配が見え隠れしているが、牛太郎はついさっき梓を初めてねじ伏せた自信から、ふてぶてしく口を開いた。

「いや、話を聞いてみたら、可哀想な奴だったので。それに、本当のことを言っているようですしね」

 おかしい。あいりも貞もかつも、牛太郎の不遜な態度に揃って眉をひそめた。梓に対するあの態度は今までには有り得ない。

「とはいえだな、亭主殿」

 梓の睨みは徐々に光を帯び始め、語気も強くなってきていた。

「それならそれで結構だが、なにゆえ、その話が飛躍して、この者の娘たちをこの兄弟に嫁がせるとなったのじゃ。あまりにも急ではないか」

「善は急げと言うじゃないですか」

 牛太郎はへらへらと笑う。

「でも――」

 妙な空気が漂う中で口を開いたのは新三だった。

「御家来を一門にして、家の結束を強くさせるのは古来もののふの時代から行われてきたことですよ」

「そうだ、新三。いいことを言うじゃんか。いいですか、皆さん。この格さんと助さんはね、とても働き者で、とても忠義のある若者なんですよ。こんな人たちこそ簗田家には必要なんじゃないんですか?」

「何を言ってんだか」

 ふいにぼそりと吐いたのは栗之介だった。

「どうせ、彩を治郎に取られたくないからだろ」

「バっ、お、おいっ!」

「なんじゃとっ!」

 梓が鬼の形相でおもむろに立ち上がった。

「ち、違うんですっ! 鉢巻きは馬鹿だからなんか勘違いしているんですっ!」

「そういうことですか、父上」

 太郎の目は犬畜生でも見るかのようであった。

「違うっ! 誤解だっ! おれは簗田家のけっ――」

 梓の拳が牛太郎の鼻っ柱に飛び込んできて、牛太郎は瞼の裏に衝撃の光を走らせながらひっくり返った。

「お主は、お主は、何度、わらわを裏切れば気が済むのじゃっ!」

 そのあとはいつもの有様であった。いや、浮気をしたと勘違いしているので、いつもよりひどかった。

 牛太郎がすべての威厳を奈落の底に叩き落とされている中、太郎もあいりも、女中たちも、栗之介も、やれやれと言った具合で広間を出ていく。

 新参の者たちだけが梓の鬼の所業に身動きできないでいた。

 血反吐を吐きながらぐったりと横たわる牛太郎をよそに、梓は宿屋兄弟の前に出て腰を下ろすと、恐怖に震える兄弟に深々と頭を下げた。

「申し訳ない。亭主殿の勝手な行いによってそなたたちを惑わせてしまって。さすがに一門という訳にはいかぬが、どうか、どうか、わらわの顔に免じて亭主殿を許してくれ」

 このとき、七左衛門も治郎助もこの家の本当の主人が誰なのか初めて知った。そして、何があろうと絶対に逆らってはならないことも肝に銘じ、

「いやっ、奥方様っ、顔を、顔を上げてください。一門だとかそんなの、どうでもいいんですっ」

 と、七左衛門はあわてた。

 新三は部屋の片隅で歯をがちがちと鳴らしている。

「許してくれるか?」

 持ち上げてきた梓の目は潤んでいた。

「許すも許さないも滅相もございませんっ!」

「じゃ、じゃあ、お、俺は、ど、どうしたら」

 褐色の弥次右衛門も顔色が悪くなってしまっている。

「む、娘を嫁にするってのが、条件って」

 梓は口端を固く引き結ぶと、一度、こくりと頷いた。

「一度言ってしまったことじゃ。弥次右衛門殿は簗田の身内として、家族を岐阜に呼びなされ」

「い、いいんですか?」

「是非に及ばずじゃ」


 牛太郎と彩はそういう間柄じゃない。ただ単に牛太郎が娘のように可愛がるあまりに治郎助をやっかんでいるだけだ、と、栗之介が梓に言ってはくれたものの、配下の者たちを巻き込んでしまった今回ばかりは、どこまでも許されなかった。

 冷たい夜風が吹きつける晩、荒縄でぐるぐる巻きに縛られた牛太郎は栗綱や黒連雀のいる馬屋に放り込まれ、寒さと凍えで体を震わせていたところ、栗綱が寄り添ってきてくれたので死には至らず、むしろ、栗綱の温かさに涙を流し、心の底から反省し始めたが、翌朝になっても梓の怒りは収まっておらず、

「縛り付けてしまえ」

 と、宿屋兄弟の手によって庭先の木の幹に縛り付けられた。

「旦那様、恨まないでください。俺たちもまだ死にたくはありません」

 七左衛門が言うと、

「本意ではありません。もちろん、拙者は彩さんを手込めにしてしまおうだなんて思ってないですから」

 治郎助が言った。

「も、もういい。忘れてくれ」

「何をこそこそ話しておるのじゃっ!」

 小袖をたすき掛けにして、おかっぱ頭に鉢巻きをした梓の手には、猛将の佐久間玄蕃允もひれ伏した木刀がある。

「そ、それだけは勘弁してください、梓殿ォッツ!」

 梓が振り抜いた木刀が牛太郎の腹を叩き、牛太郎は目玉を剥き出して呻きを上げた。

「そなたと彩には何の関係もないと栗之介は言っておったが、正直に言え。本当に何もないのかっ!」

 まるで、出会った当初のときの梓だった。小袖をからげ、腕輪をじゃらじゃらと鳴らしながら、男と言えば誰にでも噛みついていた狂犬のときを彼女は蘇らせている。

「な、何もありませんっ! 天地神明に誓って何もありませんっ!」

「ならば、治郎助が彩に惚れていようと、彩が治郎助に惚れていようと構わぬではないか! 何がそなたには不都合なのじゃっ!」

「不都合も何も、鉢巻きの野郎が勘違いしているだけッスよ!」

 しかし、梓が振り抜いてきた木刀が、今度は肩口に下ろされ、ぎゃあっ、と、牛太郎は涙線を爆発させながら叫び上げる。

 梓の瞳孔は開きっぱなしだ。

「栗之介が勘違いしているだけなら、そなたはなにゆえ七左衛門や治郎助に娘を嫁がせようとしたのじゃ」

「だ、だからっ! 簗田家のけっそ――」

 木刀が反対の肩口に振り落とされた。痛みに耐えかねる喚き声は空を割らんばかりだった。

「ちゃんちゃらおかしいっ! 正直に言わんかっ! 何が目的で七左衛門や治郎助に娘をやろうとしたのじゃっ!」

 これは折檻ではなく、拷門だということを牛太郎はようやくわかった。梓の納得した答えを返さない限り、これが永遠に続くか、それこそ木曽川に沈められるかのどちらかだ。

 牛太郎はもはや白状するしかない。

「すいません......。あーや恋しさのあまり、つい......」

 梓の木刀を握り締める手が、わなわなと、いや、ぶるぶると震え始めた。

「で、でも、違うんですっ! 本当に、本当に、何もないんですっ! 本当に太郎とか駒みたいに、娘みたいな可愛さで――」

 ぐわっ、と、虎か龍かのような巨大な黒い影が目の前に聳え立ったと思ったら、直後に牙に襲われるかのごとく木刀が脳天目掛けて振り落とされてきて、牛太郎は失神した。


 梓から受けた惨憺たる拷門により三途の川を間近にまでした牛太郎は、数日間、体を起こすことすらできないほどであり、下の世話を貞にしてもらうという辱めまで受けた。

 さらに、触らぬ神にたたりなしを地で行くように、自室で寝込んでいる牛太郎に面会を求めてくる家中の将も、どころか家の人間でさえ貞とかつだけというむごたらしさである。あれだけくっ付いていた於松も音沙汰ないし、小姓の新三ですら、とばっちりを恐れて主人に顔を見せなかった。

「旦那様」

 粥だけしか食せず、布団の中でげっそりと痩せてしまっている牛太郎に、初老の貞が言ってくる。

「梓様は旦那様の頭を剃らせ、自分も仏門に入ると息巻いておりますよ。手遅れになる前に、梓様にお許しを頂きなされ」

「も、もう、いいわ」

 牛太郎の開いている目は半ば白目を剥いており、声も虫のようにか細い。

「ぼ、坊主に、な、なったほうが、ま、ましだ」

「何をおっしゃいますか。旦那様も梓様もまだ四十前ではないですか」

「お、おれは、もう、十分に生きた......」

 かつては牢獄に放り込まれ、たまに上総介に折檻を受けるさすがの牛太郎も、今回ばかりは応えていた。自分が行きつく平穏の場所とは多分この世にはないと思っていた。

 貞が大きな溜め息をつく。

「旦那様。貞は旦那様と梓様の御子を見ない限り死ぬに死ねません」

「子供なら太郎がいるだろ」

「若様ではなく、梓様の御子です」

「そりゃ無理な話だ」

「なにゆえです」

 牛太郎は視線だけを貞に向けた。さすがに老けたなと思った。

「だいたい、わかるだろ。おれが種無しか、あずにゃんがそういう体なのか、どっちかだ」

 貞は黙り込んだ。

 夫婦になって丸六年になる。各地を駆けずり回って忙しい牛太郎とはいえ、岐阜に帰ってくればやることはやっている。牛太郎は別段、実子が欲しいと思っていないし、梓も梓で子をせがまないので、子作りという形式状で夜を営んでいるわけでもないが、それでも、子が出来てもなんら不思議はない。

 でも、出来ないのだから、そういう推測が立つ。

「だから、いいんだ。坊主になったって。あずにゃんだってそれがわかっているから出家するだなんて言っているんだ」

「いいえ!」

 と、貞は大きな声を張り上げた。

「そのようなことをおっしゃっているから御子が出来ないのです! 御子は授かり物です! 欲しいと思っていなければ八百万の神様はくれません!」

「もういいだろ、勘弁してくれ」

「いいえ! 勘弁なりません! この貞は十四で柴田の家に仕え、梓様がお生まれになってからはずっと梓様の傍におったのです。浮世の恋もせず、女も捨てて、ただひたすら梓様のお幸せを願ってきたのです。だから、梓様に御子が出来ないかぎり、貞は死ぬに死ねないのです」

「そんなこと言ったって無理なもんは無理だ。だいたい、もうあずにゃんはおれと寝たくないだろ。もう、めちゃくちゃじゃんか」

「だから、お許しを頂きなされ」

 牛太郎はまるで母親のようにやかましい貞から逃れるようにして目を瞑る。

 すると、貞は大きな声で、おかつさん、おかつさん、と、二回り若い同輩を呼び出した。

「どうしたんですか、お貞さん」

「旦那様を起こしてあげましょう。梓様にお許しを願うそうですから」

「ちょ、ちょっと」

 と、牛太郎は最低限の抵抗をしたが、自力で動かす体力も気力も失われているので、されるがままに二人の女中に体を起こされ、左の腹を貞が、右の腹をかつが抱えて、無理やり歩かされる。

「やだっ! 嫌だっ! やめてくれっ!」

 牛太郎が足を踏み出さないでいると、今度は、あいりさま、あいりさま、と、貞は元女中を呼び出した。奉公癖が抜けきっていないあいりは、打掛を引きずりながらそそそっと、すぐさまやって来て、

「お呼びですか」

「旦那様をお運びするのを手伝ってくだされ。梓様にお謝りされるそうですから」

「まあ、そうですか」

 恨めしそうな目つきの牛太郎を無視してあいりはにこりと笑う。

「かしこまりました」

 あいりが貞と交代して左の腹を抱えると、貞が前方に回り、腰を屈めると大男の牛太郎を背負い上げた。

「や、やめろっ。お貞はバアさんなんだから、やめろ」

「なんのこれしきっ」

 よたよたとした足取りながらも、貞はあいりとかつの手を借りて牛太郎を梓の茶室の前まで運びこみ、そこで力耐えたように牛太郎をひっくり落とした。

「何の騒ぎじゃっ!」

 と、戸の向こうから梓のがなり声が届いてきて、牛太郎は震える。相当の不機嫌さである。

「旦那様が梓様にお詫びしたいそうです」

「いらんっ!」

 しかし、貞は勝手に戸を開けると、三人で牛太郎を茶室に転がり入れてしまい、二人きりにさせると、ばちんと戸を閉めてしまった。

 梓が仁王のように目を剥いて睨みつけてくる。牛太郎は逃げ場もないし、何のしようもないしで、転がったまま顔だけを梓に向けて声を震わせた。

「お、お、お詫びを」

「詫びじゃと?」

 と、梓の目玉がいっそう大きくなって、まったく、古今東西ここまで恐ろしい生物がいたのか、空想の化け物でもここまでではないのではないか、そう思えるほど、梓の顔つきは般若面だった。

「わらわはそなたの詫びを何度聞けばいいのじゃ」

「いや、もう、もう、変な真似はしません。だから、だから」

「知らんわあっ!」

 梓ががばっと立ち上がったので、牛太郎は思わず目を瞑って顔を背けてしまう。

「好きにするがいい! 彩をここに呼び寄せ、側に上げればよかろう! 好きにせいっ!」

 そうして、梓は牛太郎を跨いで茶室を出ていってしまい、さらに外から、貞やかつ、あいりを叱りつける声まで届いてきた。

 これは本格的にまずいと感じ、牛太郎はただでさえ悪い顔色をさらに真っ青にさせた。


 梓の臍が曲がっているかぎり、簗田家に真の平和は訪れない。刺すような緊張と、息が止まるような緊迫に常にさらされ続ける。

 なんとか、自力で歩けるようになるまで回復した牛太郎は、それまで逃げていた新三を捕まえると、棒きれを杖代わりにし、新三に支えてもらいながら稲葉山を登った。

 向かう先は柴田家である。

 義兄の権六郎に仲介してもらおうと思った。

 しかし、権六郎に居留守を使われた。馬もあるし、従者も多いので、明らかに屋敷にいるはずだった。それを突っ込んでも、奉公人はいないの一点張りである。

「クソが......。クソ兄貴が......」

 屋敷をあとにした牛太郎を冷たい風が容赦なく吹きつけてくる。

 おそらく、梓が暴れ回ったことを耳にしたのだ。権六郎は火の粉が降りかかってくるのを避けているのだ。

「殿......」

 生意気な新三も、歩むたびに毎度痛みに顔を歪める牛太郎の姿に泣き出しそうな顔である。

「もう、離縁されては......。いくらなんでもひどすぎます。柴田様もわかってくれるはずです」

「そんなことできるわけねえだろ」

 うう、と牛太郎は呻きながら、路傍の大きな石の上に腰を下ろし、ぜえぜえと肩で息を切りながらも、呼吸を整えていく。

「おれとあずにゃんの結婚を決めたのは信長様だぞ」

「そんなこと言ったって、いずれは奥方様に殺されてしまいますよ! 言語道断ですよ! おやかた様だってご理解されますよ!」

 牛太郎は、か細い溜め息をつく。

「お前はまだうちに来て間もないから知らないだろうけど、ああ見えてあずにゃんは面倒見のいい奥さんだし、お母さんなんだ」

 新三はあからさまに大きな溜め息をついた。

「殿を半殺しにして、どこが面倒見がいいんですか」

「黙れ。それ以上言うとクビにするぞ」

 新三は眉尻を吊り上げて、むすっとしている。

「誤解させるようなことをしたおれが悪いんだ。だいたい、このままじゃあーやだって岐阜に帰ってこられないだろ」

 理解できない、というふうに新三は首を横に大きく振るが、牛太郎は呻きながら腰を上げると、よろよろと歩き出した。

「どちらに行かれるんですか!」

「城だ」

 鬼梓に物を申してくれるのは上総介だけだと思った。

 普段の何倍もの時間をかけて岐阜城に辿り着き、目通りを願ったが、上総介は馬駆けに行ってしまっているらしい。

「それにしても、こっぴどくやられましたね」

 梓が暴れたことはすでに城内にまで回っているらしく、長谷川藤五郎もぼろ雑巾のような牛太郎を見て、憐れみの眼差しだった。

「どうして、そんなことになったんです」

「ご、誤解されたんだ。浮気をしたって」

「誤解じゃなくて、本当にしたんじゃないんですかあ」

「してないっ! 断じてしてないっ! すればこうなることはわかっているんだっ!」

「はいはい。わかりました。で、おやかた様に何用なのです」

「ちょ、ちょっと、信長様に言ってもらって、梓殿に許してもらおうと」

「無理に決まっているじゃないですか」

「な、なんでだよ」

「だって、大笑いしていたんですから。簗田殿が奥方に折檻されたという話を聞いて」

 牛太郎は肩をがっくりと落とした。そうだった。今でこそ、いくさに出れば魔王だが、本来上総介は子供のように悪戯好きで、過去にも藤吉郎が寧々を嫁にしたいと願ったとき、逆に佐々内蔵助をけしかけさせて揉めごとを起こさせた前科がある。

 それを考えれば、上総介に仲を取り持ってもらいたいと言ってしまったら、さらなる大ごとにさせられてしまうかもしれない。

 じゃあ、一体、誰が梓を言いくるめてくれるんだ。そう、牛太郎が絶望していると、藤五郎がふいに言った。

「お市様に頼んでみればいいじゃないですか。簗田殿はお市様に一目置かれているんですし」

 あ、そっか。いや、しかし、

「そんなことをして、信長様に怒られないか」

「大丈夫じゃないですか? そういう刺激があったほうが、お市様のためにもなるでしょうし」

「ほほう。言われてみればそうだ」

 と、牛太郎の目はみるみるうちに活力を取り戻していく。なるほど、確かに市は言っていた。もしも、梓に疑われるようなことがあったら、自分が弁明してやると。

「さすが、竹だな。お前は本当に女たらしだぜ」

「それとこれとは関係ないでしょ」

 藤五郎が苦笑も気にせずに牛太郎はにやにやと口許を綻ばせながら、藤五郎に手を掲げて背中を向けると、新三の手を借りつつ、よろよろと市の住まいの屋敷を目指した。


 牛太郎の来訪を知って、茶々と初が小躍りしながら縁側を駆けてきたが、瞼が落ちくぼみ、頬は痩せこけ、小姓に支えられながらひょこひょこと歩く牛太郎を目の当たりにして、姫たちはぎょっとして立ち止まった。

「お久しぶりです。お姫様」

 姫たちの目線にゆっくりと、痛みに顔をしかめながらも屈みこんだ牛太郎は、市を頼りに来ただけあって瞳の色だけは冴えている。

「お元気でしたか」

「う、うちたろうなの?」

 茶々は丸い瞳をぼうとさせて唖然としている。

「そうですよ」

「うちたん、かわいちょう」

 と、初が眉尻を垂らしていた。

「大丈夫大丈夫。そのうちまた、まんまるぶくぶくになりますから。それで、もしよかったら母上様のところまで案内いただけますか」

 茶々と初はこくりと頷くと、牛太郎の手を引いた。しかし、子供の加減でそうしてしまったので、牛太郎は呻き上げた。

「うちたろう......」

「大丈夫大丈夫。ただ、ちょっとだけゆっくり歩いてもらえますか」

 茶々と初は泣き出しそうな顔でこくりと頷いた。今度は牛太郎の手を撫でるように握ってそろそろと歩き出す。

 そのうち、向かいからゆっくりと、鼻先を突き上げたお得意の格好でさゆりが現れた。

「聞いたで。えらいやられようやな。まるで、負けいくさの帰還やないか」

 言うほど、彼女の表情は心配そうではない。

「どうせ、女に手を付けたのが奥方に知られてしまったんやろう」

 このときほど、さゆりの声が忌々しかった日はなかった。ついこの間まではさゆりの不在を寂しがっていたくせに、今ではいなくなってよかった、いや、どうしてここにいるのだと、むしろ腹を立てた。

「お前はうんこだ」

 と、訳のわからないことを言ってさゆりを睨みつけると、

「いい気味や」

 鼻笑いを返され、むかむかしながら彼女の前を横切っていく。

 姫たちの導きで市の前に通され、新三を外で待たせた。

 市は別人のような牛太郎に驚いて、口を袖で覆った。

「どうして、そのような姿に。なにゆえ、梓殿はそこまで」

 市も簗田家の騒動を知っているらしい。

 牛太郎は逆に情けなくなってしまった。この話はいったいどこまで広まっているのだと。すると、泣けてきてしまう。摂津を転覆させ、市や姫たちを救い出し、今まで何度命懸けで働いてきたことだろう。それなのに、そうしたことはほとんどの人に知られずじまいで、これぞ簗田牛太郎と言われんばかりの醜聞ばかりが人々の耳にされるのだ。

 ただ、目の前の市は牛太郎を評価してくれている。それが枯れ切った体に染み込むようにありがたくて、牛太郎は市や姫たちの前にありながら、おいおいと泣き出した。

「うちたろう......」

 茶々が小さい声で呼びかけながら、牛太郎の顔を覗いてくる。

「いぢめられたのか?」

「違うんです。お茶々様。違うんです」

 牛太郎は涙ながらに、違うんです、違うんです、と、そればかり繰り返した。

「泣かないで。うちたろう」

 茶々が小さな掌で牛太郎の頭を撫でてきた。牛太郎はいっそう泣いてしまう。

「母上たま。うちたん、かわいちょう」

「いいんですよ、初。牛殿もたまには泣きたくなるんです。初もいつも泣いているでしょう」

 牛太郎は突っ伏して泣き続けた。後にも先にもここまで泣かないのではないかというぐらい泣いた。その間、ずっと茶々が牛太郎の頭を撫でていた。初も姉を真似して牛太郎の頭を撫でた。

 そうして、十分泣きつくしたあと、嗚咽を混じらせながらもようやく弁明を始めた。

 市はうんうんと親身にうなずいていた。茶々と初にはなんのことだかさっぱりわからなかったろうが、市の膝の上でおとなしくしていた。

「あっしはただ、堺にいる女中が恋しくてそうしたんじゃないんです。可愛いばかりに、馬鹿な親父みたいな気持ちでそうしちゃったんです」

 でも、

「梓殿は前からどこかしら疑っていたんで、聞く耳を持ってくれないんです。あっしは梓殿以外の女なんて我慢、いや、興味がないのに、梓殿はもう頭の中が大噴火してしまっていて。もう、こんな梓殿が聞く耳を持ってくれるのなんて、信長様かお市様しかいないんです」

 一通りのことを言い終えると、市はしばらくの間黙っていて、何かしら言いたそうにもしていたが、牛太郎が姿からしてあまりにも気の毒だったのだろう、

「さな」

 と、さゆりを呼びつけると、誰か屋敷の奉公人でも麓の簗田家まで使わして、梓をここに連れてこいと言った。

 半刻ぐらい待つと、梓が貞とともにやって来た。梓は敷居の向こうで深々と頭を下げて現れたが、市が中に入るよう伝えて顔を上げた途端、縮こまっている牛太郎を発見して、拳を握り、それをぶるぶると震わせ始めた。

「そなた......、お市様に泣きつくとは......、なんて無様な真似を......」

「やめんかっ!」

 今まで聞いたこともない甲高い声でぴしゃりと言い放った市に、梓はあわてて頭を下げた。牛太郎は心の底でひっそりと喜んだ。

 いや、ぬか喜びも有り得る。梓が納得しなければ、お市様にすがるとはなんて見っともない真似を。そなたも殺してわらわも死ぬ、などと、我が家に帰った途端に今度こそ殺される。

「いかなる理由であれ、殿方を虐げるとは言語道断ではないか! 梓殿!」

 浴びせかけられている梓の肩がわなわなと震えている。間違いなく納得していない。

「まして、そなたの夫は織田の宿老、簗田左衛門尉政綱ではありませんか!」

「え?」

 と、牛太郎は間抜けな顔を上げてしまう。梓も思わず顔を上げてしまう。宿老は家中を差配する者たちでも最上級の幹部である。牛太郎はまかり間違っても宿老どころか、家老でもない。正体不明の珍奇衆筆頭である。

 無論、市が間違うはずがない。

 夫婦が唖然としていると、市はふいに和やかに微笑した。

「いいえ。牛殿は宿老です。わらわにとって、茶々や初、江にとって、牛殿は一番の家臣でございます。そして、梓殿はその牛殿の妻でございましょう。ならば、わらわたちのために仲良くして頂かなければなりません」

 市は、牛太郎や梓などとは格が違った。別格だった。いつも、母親らしく、それでも少女のように可憐ににこにことしているが、市なのである。時代の革命児織田上総介の妹でありながら、反逆者浅井備前守の妻だったのだ。時代の激動を真正面から受けた戦国の女なのだ。

 桁が違う。市の前では牛太郎も梓も小物だ。

「牛殿。梓殿。そなたたちはわらわや姫たちのために働きなさい。つまり、天下泰平のために働きなさい」

 その言葉の背景に聳え立つのが小谷山であることが、牛太郎にも梓にもわからないはずがない。

「働けますか? 共に仲良く働けますか?」

 市は小首を傾けながら、満面の笑顔だった。

 梓はもう肩を震わせていなかった。おかっぱ頭を深々と下げ、「かしこまりました」と、言った。

「牛殿も」

「は、はい」

「それでは仲直りしましょう。もう、昨日までのことは忘れて。お互いに」

 市に笑顔で促されて、牛太郎はそろりそろりと梓に視線を向ける。

 梓がぎらりと目を合わせてきた。

「あずさどの。牛殿は浮気なんかしていませんよ」

 梓は不服そうに牛太郎から視線を背けるが、市がお互い向き合って頭を下げろと言った。どちらも悪いし、どちらも悪くない。それが夫婦なのだと。

 しょんぼりとしている牛太郎に梓は渋々向き合い、痩せこけた夫を恨めしそうに見つめてくる。

「先に謝らんか。それだけは譲れん」

 市がくすくすと笑う。

「あ、はい......」

 牛太郎は頭を下げ、何十回目かのごめんなさいを口にした。

 梓は口を真一文字に結びながらも、見据える瞳をうるうると濡らしている。悔しいのか、なんなのか、この夫婦にしかわからない何かしらを牛太郎に訴えかけると、瞼をつむりながら頭を下げてきた。

「ひどい目に合わせて、申し訳なかった」

 そして、今度は梓が畳の上に突っ伏しておいおいと泣き始める。鬼の目にも涙か、などとはもちろん牛太郎は口にせず、微笑む市に背中を撫でられ慰められる梓を目の当たりにして、金輪際、誤解されるような変な真似はよそうと心に誓った。


 日に日に陽の沈みが早くなっていく。頭上に広がる空は、冬枯れの稲葉山を包み込むような紫だった。

 まともに歩けない牛太郎をおぶっているのは梓である。坂を下る梓の足取りに新三と貞がおろおろとしながら支えていく。馬鹿な真似はやめろと皆が何度も言っているのに、梓は意地になったかのように聞かない。

「梓殿。もう、いいですよお。勘弁してください」

「勘弁せん。けじめじゃっ。亭主殿を歩けなくさせたのはわらわじゃっ」

 馬鹿だなあと思う。単純で激情家。いくつになっても尾張の女大将。こんなことをするのなら、最初からやらなければいいじゃないか。

 でも、そんな理屈が通用しないのが梓である。

「亭主殿は天下の将じゃ。わらわはその女房じゃ。亭主殿は天下の将じゃ。わらわはその女房じゃ」

 一歩一歩、足を運ぶたびにそれを念仏のように唱える。

「天下の将。その女房。天下の将。その女房」

 牛太郎の重みに必死に耐えながらそれを呟くさまが本当に滑稽だから、梓をあれだけ恐れ、非難していた新三も笑ってしまっており、しまいには新三も梓に合わせて呪文を唱え始めた。

「天下の将も、その女房もよろしいですが――」

 牛太郎の尻を抑えながら貞が言った。

「御子も加えなされ、梓様」

「つまらぬことを申すでない、お貞。わらわはうばずめじゃ」

 梓の唐突な告白に貞は立ち止ってしまい、新三は調子を合わせるのをぴたりと止めた。

「重いっ!」

「あ、も、申し訳ありませぬ」

 お貞があわてて牛太郎の尻を支える。

「そういうことだ、お貞。おれと梓殿の間には子供ができない。あきらめろ」

「し、しかし、わかりきったことでは」

「わかりきったことじゃ。のう、亭主殿」

「どうですかね。あっしに種が無いのかも」

 すると、二人はくすくすと笑った。

 陽はゆるゆると落ちていく。朽ち葉が梓たちの足元をさわさわと流れていく。空にひびを入れている木の枝の間には星がうっすらと瞬いていた。

 貞がしくしくと泣いている。

「何を泣いておるのじゃ」

「貞は、貞は、旦那様や梓様のことを何もわかっておりませんでした。梓様に仕えて三十年余、旦那様に仕えて五年以上、何もわかっておりませんでした」

「本当にお貞は何もわかっておらん」

 梓は額に汗を滲ませながらも、頬を緩ませて笑った。

「子供たちなら大勢いるではないか。太郎、あいり、新七郎、彩。それに七左と治郎とやらも最近出来た。玄蕃もそうかのう。新三もそうじゃ。父上も母上もおるが、そなたは一番小さいからの」

 梓に微笑みかけられて、新三は赤くなってしまった。牛太郎が杖代わりにしていた棒きれを路傍の雑草目掛けて照れ隠しに振り回した。

 激動の一年もそろそろ暮れていく。

 梓の華奢な背中に支えられ、牛太郎はなんだかほっとしてしまった。目を瞑りながら、眠るようにしておかっぱ頭に頬を乗せる。

 漂うのは梓の香り。


 大晦日である。

 なんとか、憂いを残さずして年を越せることになった簗田家の一同は、尾張春日井から家族とともに城下の長屋に移住してきた弥次右衛門も含めて、屋敷の一年の煤を落とすと、夜には広間に集って除夜の鐘を聞いた。

 暮れにかけて岐阜の屋敷は一挙に人が増えたし、年越しの特別な雰囲気も手伝って、駒が上機嫌だった。あいりの膝を離れて輪の中をぺたぺたと歩き回ると、なぜか、治郎助がお気に入りである。治郎助の膝をぱしぱしと叩き、丸い目であうあうと話しかける。最初、治郎助は簗田家のたった一人の愛娘に恐縮していたが、太郎に相手をしてやってくれと言われて、恐る恐る駒を抱き上げた。駒はきゃっきゃと大喜びだった。

 いまだ回復していない牛太郎が、か細い溜め息を長々とついた。

「結局、駒ちゃんもそういうことなのね。そういうことなのね......」

「まだ、そのようなことを言っているのか、亭主殿は」

「そうですよ。父上にあれこれ言われる治郎の気持ちにもなってみてください」

「いい男ってのは何につけても得だ」

 と、陰気な老人のようにぐちぐち言う。そんな牛太郎に新三が唇を尖らせた。

「殿は罰当たりです」

「なんだと?」

「新三。言っていいことと悪いことがあるぞ」

 太郎が咎めると、新三はますます頬を膨らませて、しょぼくれながらも牛太郎を上目に睨む。

「だ、だって――」

 なぜか、新三の顔が赤らんでいく。

「お、奥方様がいるじゃないですか。殿には。お綺麗な奥方様が」

「まあ」

 と、目を大きくさせたのはあいりである。顔つきを厳しくさせていた太郎も苦笑してしまう。

「世辞がうまいのじゃな、新三は」

 梓もすっかり愉快そうである。

「せ、世辞じゃありませんっ。私は、殿が恨めしくて仕方ありません」

「おい、新三」

 牛太郎だけがむすっとしていた。

「おれはお前みたいに人の奥さんに色目を使う野郎が一番大嫌いなんだ。恨めしいなら出ていっていいんだぞ」

「何をむきになっておるのじゃ。亭主殿は本当に自分勝手な男じゃな」

「お前、まさか梓殿が恋しくて仕方ないから、年末だっていうのに自分の家に帰らないんじゃないだろうな」

 と、むきになっている牛太郎は聞かない。

「違います。私は殿の小姓ですから、いつなんどきでも離れないだけです」

「口だけ達者の色ボケマセガキが。変な真似しやがったらただじゃおかねえからな」

 ついこの前に変な真似をした男がこれだから、家の者たちは呆れて笑うしかなかった。

 やがて、新年の訪れを報せる百八回目の鐘が突かれた。

「年が明けましたか」

 太郎がしみじみと天井に見入っている。

 激流の渦が巻いていたような一年が、無常のうちへ消えゆくように静かに去った。

 いい一年であるように。

 皆の願いであった。無論、牛太郎も。

 今年こそ、虐殺がないように。今年こそ、悲劇がないように。今年こそ、三百六十五日、途切れることなく梓と仲良くできるように。


 当然、新年の初めは上総介への挨拶である。

 年越しに寝てしまうと白髪や皺が増えてしまうという迷信を信じている一家の連中は、皆が夜通し起き続けたうえで初日の出を拝み、太郎もそれは例外ではなかったようで、瞼をこすりこすり、稲葉山の坂を登っていく。

 牛太郎はというと、一人だけぐっすりと寝た。日の出も見ていない。

「父上、寝てしまったせいじゃないですか。白髪が何本かありますよ」

 杖をつき、新三の手を借りながら歩んでいく牛太郎は、太郎に言われて自分の髪を触ってみた。

 もちろん、牛太郎はそんなものが迷信だと思っているから、

「違う。きっと、あずにゃんにぼこぼこにされたせいだ」

 太郎は苦笑する。

「今年こそおとなしくしてくださいね。くれぐれも夫婦仲睦まじく。母上を怒らせるのは父上しかいないんですから」

「言われなくてもわかっているわい」

 天正の年号になってから、初めての正月である。

 上洛以来、畿内を駆け回り、ときに窮地に立たされた織田家にとって、各地に散らばっている諸将が上総介の元に一挙に会する新年は、久しぶりのことだった。

 この日だけは戦乱の世が嘘のように城下は平和な賑やかさに包まれていて、稲葉山も岐阜城を目指す諸将たちの列で華々しかった。

 途中、近江坂本城からやって来た明智十兵衛に遭遇した。牛太郎の歩行が遅いので、追いつかれたのだが、最初、共を十数人連れている十兵衛は、他人行儀にこちらに頭を下げてきただけで牛太郎に気付かなかった。太郎が声をかけて、初めてぎょっとした。

「や、簗田殿ですか」

「アハハ......」

「弾正忠に軟禁されていたと聞きましたが、まさか――」

 岐阜駐在の将は牛太郎の醜聞を知っている。さすがに岐阜の外までには広まっていないらしい。

「恥ずかしいことに、奥さんに......」

 牛太郎が正直に告白すると、十兵衛は絶句した。

「そ、そういえば、左衛門太郎殿は越後に出向いたそうですな。ど、どうだったのですか、不識庵は」

 と、十兵衛は鬼梓との関わり合いを避けるようにして唐突に話を変えた。

 太郎が上杉軍の印象、不識庵の人柄などを十兵衛に話しているうち、天守閣に辿り着いた。

 城に上がると、大広間には諸将がずらりと座していて、古参の見慣れた顔もあれば、近頃織田家に仕官したらしき新しい顔もあった。摂津茨木の荒木信濃守もいれば、大和信貴山城の松永弾正忠と、牛太郎に馴染みの顔もある。

 ただ、牛太郎が太郎に支えられながら入ってくると、信濃守も弾正忠も、いや、佐久間右衛門尉、柴田権六郎、丹羽五郎左衛門といった重臣の面々から、前田又左衛門や佐々内蔵助といった母衣衆の者まで、唖然とし、声を失った。

 ほとんどの人間が鬼梓の噂を聞いているのだろうが、ここまでとは思っていなかったのだろう。

 そうした視線になんとも言えない複雑な気分になりながら、牛太郎はいつものように列の端、末席に太郎とともに腰を下ろした。

「お、おみゃあ......」

 最初に声を出したのは、浅井攻めの大功により結構な上席に座している藤吉郎だった。しかし、藤吉郎はそれだけ言って、また、唖然とした。

「う、う、牛太郎」

 佐久間とともにもっとも上席にいる権六郎が、たどたどしい口調で呼びかけてくる。

「お主は、む、無役だが、左衛門尉なのだから、末席ではいかんだろ」

 もしかしたら、居留守を使った罪滅ぼしなのかもしれなかった。牛太郎はおもしろくなくて、ふてくされぎみに、自分は席を与えられているだけでもありがたいと言ったが、

「そ、そういうわけにはいかんだろ」

 と、又左衛門が言った。彼もまた、牛太郎の無残な姿に憐れみを表していた。

「牛はおれより上だろ」

 あの又左の言葉とは思えず、まったくもって、同情でしかない。

「いい気味だ」

 佐々内蔵助だけがにたにたと笑っていた。

「おみゃあだって梓殿にやられたって話なのによく笑っていられるもんだぎゃあにゃあ」

「なんだ、この野郎」

「新年早々やめんか!」

 と、いつものように丹羽五郎左衛門が二人を叱責している間に、森勝蔵がやって来て、

「そもそも左衛門太郎殿が侍大将なのだからここに座っていては示しが付きませんでしょう」

 と、今日はさすがに酔っていない。

 ということで、太郎と牛太郎は席を移動し、十兵衛の脇に腰かけたが、十兵衛が自分は無官位なのだからと牛太郎を上座に置かせようとする。すると、佐久間右衛門尉が無官かもしれないが坂本五万石の城主が沓掛三千石の下座じゃおかしいだろうと、あれこれがやがや席順で揉めたすえ、牛太郎が腰を下ろした列は、重臣数名のあとに、藤吉郎、十兵衛、牛太郎、太郎という並びになった。

 向かいには弾正忠や信濃守がいる。弾正忠は寝たふりをして常に瞼を瞑っているが、たまに薄目を開けて牛太郎を見てき、目が合うと瞼を閉じる。

 信濃守は気の毒そうに牛太郎を見つめてくる。

 上総介が入ってきて、将たちは一斉に平伏した。上総介は一度上座に仁王立ちし、雁首そろえる家臣たちに威圧感を与えながら睥睨すると、ようやく腰を下ろした。

「表を上げろ」

 その声に諸将は揃って顔を上げ、牛太郎も上総介の顔色を確かめた。眉間に皺はなく、わりと機嫌が良さそうである。

「正月だ」

 と、上総介は言う。

「まあ、騒げ」

 偏屈な人間らしい手短な言葉だったが、意外と頬を緩めていて、晴れがましい賀宴への喜びが滲み出ていた。

 長ったらしい新年の口上を佐久間右衛門尉がだらだらと述べたあと、膳がぞろぞろと運ばれてきて酒宴となった。

 さしあたっての話題は織田軍の今後の展開についてだった。重臣たちは長島がどうの、武田がどうの、北陸がどうの、と、各方面の情勢に詳しい将たちに話を向けていたが、妙なのは上総介が上座でおとなしく盃を舐めていたことである。

 家臣が上総介に答えを求めたりしても、「ふむ」とか「ああ」とか相槌を打つだけで、話題に興味がないふうだが、機嫌が悪いようでもない。心ここにあらずといった具合で、一人、何かに楽しんでいるように口許を緩ませている。

「父上」

 と、太郎が体を寄せてきて囁く。

「何か、変ではないですか」

 牛太郎は頷いた。自分たちの主人はただただ宴席の雰囲気を楽しむような出来た人間ではない。おそらく何かを企んでおり、急に何かを言い出すのである。

 多分、自分だろうな、と、牛太郎は思った。梓から暴行を受けたことに瞳をときめかせていたらしいから、女房の話をしろ、か、梓を連れてこい、とか、おもしろがって言い出すに違いない。

 ところが、牛太郎の目論見は外れた。上総介の楽しみは牛太郎をからかうようなちっぽけなものではなかった。

 むしろ、常人には到底考えられなかった。

「宴もたけなわになったところで、余興だ」

 目を輝かせながら唐突にそう言った上総介を、何事が始まるのかと諸将が注視すると、広間の正面の戸が開き、長谷川藤五郎など近習たち三人が、それぞれ白木の上に金のどくろを携えて入ってきた。

 三体のどくろはもっとも下座、上総介の正面に並べられ、そのまがまがしさに諸将はざわめきこそしなかったが、唖然呆然とし、場の空気は揺らいだ。

「お、おやかた様」

 権六郎が、白い歯を見せている上総介に訊ねる。

「あれは一体」

「わからねえか」

 上総介は非常に愉快そうであった。

「あれは朝倉右衛門督と浅井下野守、それと新九郎だ」



 諸将はどくろを目の当たりにして、それぞれ、上総介の愉快さを理解しようと努力した。

 何が上総介の真意であって、そこまで上機嫌なのだろうか、と。

 浅井朝倉に対してかような怨念を抱いていたのか、その執念というものは地獄の底まで果てしないのだろうか。

 いや、もしかしたら上総介なりの供養なのかもしれないのではないか。最後には敵として打ち砕いたものの、備前守長政を気に入っていたのは事実だ。どくろを肴にして酒を飲むことにより、死者を成仏させようとするならわしがどこかにあるらしいし。

 だが、諸将たちにははっきりとわからない。なにしろ、彼らの主人は言葉が短いのである。

「誰か、踊れ」

 と、口端に笑窪を作ったまま、それだけである。

 即座に反応し、前に跳ね出てきたのは藤吉郎である。

「おりゃあが!」

 藤吉郎はひょこひょこと跳ね回りながら、禿げ頭をぽりぽりと掻きつつ、前歯を剥いたり、ぎょろぎょろと辺りを見回したり、猿の真似事だった。

 サルの奴が、またでしゃばりやがって、と、誰もが思い、白々しく視線を送るものの、藤吉郎は気にも留めずに飛び跳ね回り、やがて、どくろの前にやって来た。

 藤吉郎は一体のどくろを手に取り、首を傾げたり、きょとんとしたりする。やがて、どくろの頂頭部が盃状にくり抜かれていることに気付いた藤吉郎は、ぱか、と、それを手に取り、金箔のどくろ盃を口に挟むと、ぴょんぴょんと、やはり猿のように走り始め、柴田権六郎の前で止まった。

 次にやった行動に誰もが息を呑む。藤吉郎はどくろ盃を権六郎の膳に置き、傍らにあった徳利で酌をしたのだった。

「なんていうことを」

 太郎が驚愕して呟く。

 権六郎の肩が震えている。

 しかし、張り詰めた緊張を上総介の大笑いが切り裂いた。

「過ぎた真似だ!」

 と、たった一人、笑っている。主人が愉快にしているものだから、諸将たちも合わせて笑うしかない。

「おい、権六! 飲んでやれ!」

 上総介に促されて、権六郎は髭の下に引きつった笑みを見せながらどくろ盃に両の手を添え、上総介に向けて盃を持ち上げると、酒をくいっと飲んだ。

 藤吉郎がにかっと笑いながら、頭をちょこんと下げ、自席に戻る。

「どうだ、権六。酔狂な味だろう」

「い、いかにも、美味であります」

 上総介はげらげらと笑い上げる。浅井朝倉を討伐したときでさえ笑わなかった男が、この怪しい宴席では子供のように腹を抱えている。

 気難しい主人が上機嫌であるのはよいことだ。

 だが、狂っている。上総介も、藤吉郎も。牛太郎は胸底から暗くなってくるような思いだった。吐き気さえもよおした。あれが浅井備前守の頭の一部だったらと思うと、涙が滲んだ。

 上総介の真意など牛太郎にしてみればどうでもよくなってしまっている。ただひたすら悔しい。朝倉右衛門督、浅井下野守がどういう人物であったかは知らない。だが、浅井長政は出来過ぎた男であった。敵を敵として憎まず、己の残酷な生涯を戦乱の快男子として貫いた。

 今、風のようだったあの男が、どくろにされてしまっている。しかも、金箔など塗りたくられて。

 牛太郎には上総介や藤吉郎が賊の親分と子分にしか見えなくなってきた。

「そこまで美味ならば、皆の者もどくろの酒を味わってみろ」

 上総介の言葉に一瞬、座は凍りついた。

「権六、回してやれ」

 瞼を大きく広げ、その瞳は好奇の黒に彩られている。せっつくような眼差しでらんらんとさせている。

 権六郎は笑みを浮かべながら脇の重臣、池田紀伊守にどくろ盃を渡し、徳利で酒を注ぐ。

「どうだ?」

 上総介はいちいち訊ねる。紀伊守は「美味であります」と金太郎飴であった。上総介の表情がやや曇る。

「回せ」

 紀伊守は丹羽五郎左衛門にどくろ盃を渡した。徳利の酒を受ける五郎左の手は震えていた。五郎左はちらと一度上総介を見た。

「何を震えていやがる、五郎左」

 上総介の語気が若干荒くなっていた。五郎左は上総介を少年時代からよく存じている。視線を伏せると、

「あ、あまりにも珍妙なことで、つい」

「お前は馬鹿真面目すぎる。たまには肩の力を抜いて、騒いでみろ」

 と、上総介は笑い声で言った。五郎左は震える手で盃を上総介に向けて持ち上げ、

「頂戴いたしまする」

 両目をぐっと瞑りながら、ぐい、と、盃の中を飲んだ。

「どうだ?」

「か、肩の力が抜けたようでございます」

 かっかっ、と、上総介は甲高い音で笑い立てる。

 牛太郎は五郎左がやった様子を目にすると、瞳孔を広げたままうつむき、額の脂汗を感じながら、止まらない震えを抑えるように太股をぐっと握りしめる。

 上総介の真意がわかったような気がしてきた。上総介は憎さ恨みでこのような真似をしているのでもなく、だいいち、神仏嫌いなのだから供養などとんでもない。ただ単に遊んでいるだけなのだ。おもしろいと思ってこれをやっているのだ。

 まして、どくろをわざわざ金箔に塗るという周到さである。昨日今日思いついたことではなく、ずっと以前から、賀宴の席でこれをやろうと計画していたに違いない。

 子供じみている。が、子供じみているからこそ、危うかった。もしも、へそを曲げさせてしまったら、子供のように激怒する。

 そして、牛太郎は盃が回されている列に座していた。

「父上」

 と、太郎が囁きながら牛太郎の手を握ってきた。牛太郎はすがりつくように視線を向ける。太郎は口許を引き結んで、目だけで言ってきた。

 飲みなされ。さもないと、打ち首です。

 ところが、逆効果だった。妙な重圧を感じてしまい、備前守の微笑みも一緒に思い出してしまった。牛太郎は信仰を持たないが死者への情緒は人一倍強い。死んだ者たちはこの世には当然いないし、あの世などもないと思っているが、牛太郎の記憶の中では人々は生きていた。

 むしろ、そうした人々が牛太郎の芯の一部でさえある。

 だから、飲みたくない。申し訳が立たない。備前守はおろか、市にも茶々や初にも。自分はそんな野蛮な男になりたくない。

「簗田殿」

 目の色がおかしくなってしまっている牛太郎を見兼ねた十兵衛が、上総介の目をかいくぐりながら声をかけてきたが、牛太郎はどこかに行ってしまっている。

「簗田殿」

 十兵衛は声を小さくさせながらも、語気は叱責するようでもあった。

「しっかりなされ、簗田殿」

「いにゃあ、このような酒は今まで飲んだことにゃあです。おやかた様、もしよかったら、おりゃあにこのどくろ盃をくれませんか」

「調子に乗りやがって」

 しかし、上総介はまんざらでもない。藤吉郎はまったく上総介の真意を捉えていた。気難しい上総介の折檻を受けながらも、草履取りから長浜十二万石の城持ち武将になれたのは、これだった。諸将にどんな目で見られようと、上総介にさえ嫌われなければ構わないのである。

 牛太郎も、諸将には嘲られながらも、上総介には認められているという点で藤吉郎と多少似通っている。ただし、藤吉郎のような機嫌取りはできない。

 大役をひっそりとこなし、それをひけらかすこともないが、なぜか馬鹿さ加減が付きまとう牛太郎のさまを、上総介が好んでいると言っていい。欲深なところもあるが、牛太郎には憎めない率直さがあった。馬鹿馬鹿しさがあった。

 回し飲みが終わらない様子からすると、もしかしたら、上総介は、牛太郎が何を言い出すのか、それを無邪気に期待し、梓の件を突っ込んでこないのも、そのためかもしれなかった。

 牛太郎は人間性を失うような言葉は吐きたくない。そもそも飲みたくない、手に取りたくもない。

 だが、そんなことをしてしまえば、上総介は激怒する。絶対に。この日が来るまで子供のように胸躍らせていただろうから、折檻どころではないかもしれない。

 そうして、どくろ盃は藤吉郎から十兵衛にまで回ってきてしまった。

 十兵衛は物思いにふけるような涼しげな眼差しで、藤吉郎の注ぐ酒を受けている。上総介が笑窪を作って眺める。牛太郎は目を背けるようにしてひたすらうつむく。諸将たちがしんと見守る。

 酒を受けた十兵衛は、どくろ盃を手にしたまま、なみなみと揺れる酒を静寂の目でじっと見つめていた。動かなかった。

 牛太郎も、時間が止まっていることに気付いて顔を上げた。

「飲めませぬ」

 十兵衛は言った。時間が凍った。十兵衛は盃を手前の膳にそろりと置くと、一歩腰を後ろにすると、深々と頭を下げた。

「拙者は一度は越前朝倉右衛門督様に世話になった身でございます。それ振り返りますれば、恐れながら拙者には恩義を反故にするようなことはできませぬ」

「このキンカ頭がっ!」

 上総介はおもむろに腰を上げ、激怒した。

「恩だとっ! 義だとっ! テメーは誰の禄を食んでやがるっ! 右衛門督を見限り、義昭を見限ったテメーが、いまさら、恩義だとっ!」

 上総介は上座から、だっ、と飛び下りてくると、鬼の形相で十兵衛の前に駆け寄ってき、平伏する十兵衛の頭を踏み潰した。

「余興に水を差しやがって!」

 何度も何度も足蹴にされる十兵衛は、黙って耐えていた。牛太郎は震えもしてなかったが、身動きも取れない。髷を引っ掴まれ、顔を上げさせられた十兵衛に上総介が

「飲めっ!」

 と、どくろ盃を押しつける。十兵衛は口を開けない。

「飲まんかっ!」

 そのうち、酒のすべてがこぼれてしまい、上総介はどくろ盃を叩きつけると、十兵衛を殴り倒した。

「坂本に失せろっ! このキンカ頭があっ!」

 上総介は吐き捨てたあと、目に留まった膳を片っ端から蹴飛ばし、ひっくり返していきながら、広間を出ていった。


「十兵衛殿っ!」

 大手門をくぐろうとしていた十兵衛を呼び止めると、太郎の肩を借りながら、牛太郎は歩み寄っていった。

「どうかされましたか」

 十兵衛は優しげに笑みを浮かべてくる。

 牛太郎は頭を下げた。

「面倒かけてしまって、すいません」

 わかっていた。気が動転してしまっている自分をかばって、わざと上総介を怒らせたことを。

「なんのことですか。面倒を引き受けるほどの器ではありませんよ、拙者は」

「拙者からも御礼を述べさせてもらいます」

 と、太郎も揃って頭を下げた。

 ハア、と、十兵衛は素軽い吐息をつく。

「なかなか、痛いもんですな、おやかた様の折檻は。羽柴殿も簗田殿も大変でしょう。そろそろ、いい齢なのですから、体を張るのもいかがなものですぞ」

「すいません」

「これはこれは。らしくありませんね。奥方の折檻がそこまで応えましたか」

 十兵衛は牛太郎の肩をぽんぽんと叩いてきた。梓の折檻が結構応えているせいもあるだろうが、十兵衛の言葉が身に染みて、牛太郎は言葉がなかった。

「簗田殿、拙者は嬉しいのです」

 唐突にそう言った十兵衛に、親子は揃って目を丸めた。

「これですよ」

 十兵衛の手が牛太郎の腰の物を手に取った。水色桔梗紋の入った脇差である。ずいぶん昔に十兵衛が牛太郎にくれたものだった。

「いつもこれを差して頂いてくれている。目にするたびに思い出すのです。簗田殿と初めて会った菩提山の秋を」

 十兵衛は微笑みを浮かべたあと、くるりと背中を返した。

「坂本にもたまには寄ってくだされ」

 風雅な男とも、きざな中年だとも思った。ただ、大手門をくぐっていく十兵衛の後ろ姿は大きく見えた。

 本当にあの男が時代を変えてしまうのだろうか。牛太郎はあまり考えたくなかった。



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