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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
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小谷城の戦い

 明智十兵衛光秀、細川兵部大輔藤孝、さらには荒木信濃守村重を配下に組み従えた織田上総介は、大軍勢を率いて入京し、十兵衛と兵部大輔を足利義昭に使わして恫喝した。

 出家し、人質を寄越せ。さすれば、和解に応じる。

 義昭は恫喝に屈しなかった。彼は京都所司代村井民部少輔貞勝の屋敷に兵を送りこんで、ここを包囲させ、焼き払った。

 義昭が征夷大将軍とあって、ある程度は我慢しているつもりの上総介であったが、義昭のしようについに堪忍袋の緒が切れた。

 村井民部の屋敷が焼き払われてから翌々日、上総介は全軍に指令を発した。義昭の勢力基盤である京市街地の北半の上京と、南半の下京に焼き討ちを命じる。

 規律をもっとも重視していたはずの織田軍であるのに、今はその見る影もない。比叡山延暦寺の一件といい、まさに鬼夜叉である。

 これに恐れおののいた京の町衆は金銭をかき集め、上京の町衆は銀千三百枚を、下京の町衆は銀八百枚を上総介に差し出し、焼き討ち中止を求めた。

 上総介は下京の焼き討ちを中止させた。が、上京の焼き討ちは実行した。上京には足利幕臣や、幕府に組みする商人が多かった。

 徹底されていた。

 深夜から翌日までに上京の数々の寺院が焼き払われ、周辺の村々が一夜にして消滅した。織田兵卒たちは寺院に殴り込み、ありとあらゆる宝物を強奪し、さらには逃げ出した僧たちを追いかけてその身ぐるみを剥がし、彼らを拷問にかけてまで金銀の在り処を吐き出させた。

 その対象は僧だけではなく、家財道具を背負って逃げ惑う一般市民にまで向けられ、男は身ぐるみすべてを剥がし取られて殺され、女は強姦の餌食となり、子供は連れ去られた。

 人々は織田上総介を魔王と呼んだ。

 この所業に足利義昭は恐怖を覚え、心を痛めた正親町天皇は上総介に義昭と和睦をするようはたらきかけた。

 天皇の勅令とあって、両者和睦の席に着いた。

 上総介は京をあとにすると、岐阜へは戻らずに、南近江の守山という地に陣を敷いた。近くの鯰江城には観音寺城落城以降も抵抗を続ける六角右衛門督義治が籠っており、上総介は柴田権六郎勝家、佐久間右衛門尉信盛、蒲生左兵衛大夫賢秀、丹羽五郎左衛門長秀の四名に、鯰江城の四方に付け城を築くよう命じた。

 更に上総介は近在の百済寺が鯰江城をひそかに支援しているという諜報を受けて激怒し、この百済寺を一晩で焼き払った。

 鯰江城は一時の猶予も与えられないまま落城し、五月、上総介は守山をあとにしたが、やはり岐阜には戻らずに磯野員昌が城主を務める佐和山城に入った。

 上総介は琵琶湖上の佐和山にて大船の造船を命じた。足利義昭が再び反抗したときのために、琵琶湖の水運を使って兵を進軍させようと考えたのであった。

 織田勢がようやく岐阜に戻ってきたのは六月に入ってからである。

「それにしても、叔母上。オヤジ殿はいつ戻ってこられるのか」

 玄蕃允が白米をがつがつと頬張りながら訊ねたが、

「知らん」

 梓に睨みつけられ、玄蕃允は思わず箸を休め「は、はあ」と、視線を伏せる。

「それよりなんなのじゃ、お主は。岐阜に戻ってきて、一番に寄るのはここか? なんなのじゃ。早く嫁を迎えて落ち着かんか。馬鹿者が」

 梓の妙な苛立ちを前に、食卓は静まってしまう。

 おそらく、またしても父の牛太郎が文を出さないでいるのだろう。とはいえ、家の雰囲気は梓の機嫌の行方で決まる。放っておくわけにもいかないので、左衛門太郎は口を挟んだ。

「摂津は目の離せない状況のようです。なので、父上は戻ってきたくても戻ってこられないのでしょう」

 四月に下剋上を起こした荒木信濃守は、指揮系統を失った池田家の旧二十一人衆を懐柔していき、高槻、茨木に飽き足らず摂津池田、更には伊丹の支配を目論んでいるという話を、摂津から戻ってきた新七郎から聞いた。

「ならば、文でも寄越したらどうなのじゃ」

 やっぱり。

「亭主殿はわらわをないがしろにしすぎておるのではないか」

「そんなことはありませんよ、奥方様」

 と、あいりがなだめる。

「旦那様は奥方様を常日頃から思っております。私は何度も何度も旦那様の口からそうしたことを聞きました。きっと、旦那様も辛い思いをしております」

「そうですよ、梓様」

 お貞が更にかぶせた。

「旦那様は今や織田家でも名前の通った御方なのですから、いろいろと忙しいのですよ。梓様がやきもきされていては、旦那様も気兼ねなくお勤めできませんでしょう」

 梓は頬を膨らませて並べられている夕食をじっと見つめる。少女のころから傍らにいるお貞には逆らえないらしい。

 芯の通った母だが、まあ、そうしたところは箱入り娘だけあっていつまでも子供のままである。良く言えば健気、悪く言えばわがまま。とはいえ、三十を越えても若々しさを保っているのは、そうした幼さからなのであろう。

「父上に報せなくてはまずいなあ」

 居室に戻った太郎は、駒をあやすあいりに向けて苦笑すると、机の前に座り、筆を取った。

「何度繰り返されたことか。また、父上は母上の折檻を受けてしまうぞ」

「でも、旦那様も一通ぐらいは寄越してもいいのに。どうしてすぐ忘れてしまうんでしょう」

「昔からそうじゃないか」

 太郎は微笑みながら筆を進めていった。


 沓掛勢は昨年の小谷攻め以来、沓掛に戻っていない。武田軍の西上、伊勢長島での蜂起、畿内の一進一退の情勢により、織田の全軍がすぐさま出撃できるよう、沓掛勢だけではなく、大半の土地の兵卒が岐阜に詰めている。

 そのため、岐阜の城下に長屋が建設され、沓掛勢も分け与えられた長屋が生活の基盤である。

 太郎は来るべきいくさに向けて、沓掛勢の訓練に熱していた。京での焼き討ちはただの強奪でしかなく、またしても精神だけがすり減る行軍であったが、やがて訪れる浅井朝倉との戦いに目を向けることでそれを忘れようとしていた。

 沓掛勢は四百人に増えている。それに足して、壊滅した九之坪勢を玄蕃允が一から立て直し、百名。簗田家が抱える軍備は、足軽兵四百余に、鉄砲隊が二十、弓衆が五十、騎馬十という体制であった。

 岐阜郊外の野原で、黒連雀に跨りながら玄蕃允とともに鍛錬を眺めていると、歩み寄って来る馬上の者がいた。

 丹羽五郎左衛門であった。たった二人だけの従者を連れて現れた五郎左に、太郎はあわてて下馬し、片膝をついて迎えた。

「よいよい。そう、かしこまるな。わしはお主の父親ではないか」

 と、五郎左は馬から下りて、太郎の腕を取って体を起こさせる。父親と言っても、五郎左はあいりの養父となってくれた人間だけの話であり、太郎はさほど近しいところを感じていない。

 ただ、小さいころから世話をされてきたのは事実であり、五郎左が自分にそうやって目をかけてくれるのも、そうした感慨からなのかもしれないと思った。

「お主が精を出していると聞いてな。どのようなものかと思って参ってみたのだ」

「これはわざわざ。ありがとうございます」

「ふむ。しかし、沓掛の兵卒たちは精悍になったものだ」

「いや、五郎左殿」

 と、口を出してきたのは玄蕃允である。重臣を「五郎左」呼ばわりとは猛将だけあってなかなかふてぶてしい。

「左衛門太郎殿の兵卒はいっときかなりの人数を減らしたんですよ。五郎左殿の口利きで、銃やら騎馬やらを回してもらえませんかねえ」

「なんなんだ、お主」

 五郎左は生意気な玄蕃允に冷めた目つきである。

「佐久間の人間なのに、どうして沓掛勢の世話をしておる」

 五郎左は近江戦線が長かったせいで、事情を知らない。さらにはかつて牛太郎の目付役として沓掛を切り盛りした五郎左には、玄蕃允の物言いが気に入らなかったらしい。太郎は険悪な空気を漂わせる二人の間に割って入って、理由を説明した。

「なるほどな。そういえばお主は佐久間の爪弾き者であったな」

「五郎左殿とはいえ、今の言葉は聞き捨てなりませんな」

「まあまあ、お二人とも。それより、丹羽様、まあ、沓掛勢に声でもかけてやってあげてください」

 太郎がなだめすかして、ようやく五郎左と玄蕃允は顔を背け合った。玄蕃允がふてぶてしく去っていき、五郎左は「まったく」とぼやく。

「今の若い者ときたら。あやつといい森殿の次男坊といい、まったく。太郎、お主の垢を煎じて飲ませてやったらどうだ」

 太郎は苦笑いするしかなかった。


 この時期、西上作戦を行っていた武田軍は三河遠江から甲府へと撤退している。

 武田徳栄軒が死んだ。

 春先からまことしやかに流れていた噂であり推測であったが、あれほどの無類の強さを見せていた武田軍が撤退するなどとは、徳栄軒の死以外には考えられなく、やがては諜報によって得た報せにより、確実なものとわかった。

「天は皮肉なものだ」

 太郎を城内に呼び寄せた勘九郎信忠は、そう呟いた。

「あと一年生きていれば義父は我らを駆逐し、武田菱の旗を京に打ちたてたであろうに」

 まるで、それを願っていたかのような言いぶりに太郎は内心驚いた。そもそも、武田軍の西上作戦以降、勘九郎と徳栄軒の娘、松姫の婚姻関係は解消されている。

「しかし、若様。徳栄軒殿の死によって、我ら織田は窮地を脱出する絶好の機会を得たのですよ」

「絶好の機会とは言い得て妙だな」

「はあ」

 首を傾げる太郎に、勘九郎は薄ら笑みを浮かべる。

「我が稲葉一鉄らと共に長島に攻め入っている間、父は京を焼き討ちし、その残虐ぶりは女子供に至るまで容赦しなかったというではないか」

「さ、左様でございますが、しかし――」

「簗左衛門」

 と、勘九郎だけの呼び方で太郎の口を制した。

「お主は天下の将か、それとも父の犬か。お主とて佐久間や柴田などとは違って、兵卒の暴虐など好まぬであろうが」

 上総介の配下であり、勘九郎の配下でもある太郎は黙ってうつむくしかない。

「聞けば、京雀たちには父は魔王などと呼ばれているそうだが、父も父で己を第六天魔王などと自称しているあつかましさよ。一体、誰が父の蛮行を止めるのだ」

 太郎はふと思ってしまう。若様は謀反を企んでいるのではないか。もちろん、今ではなく、いずれであるけれども。

 たしなめなければなるまいと、太郎は顔を上げた。しかし、恐ろしすぎて口にも出せなかった。

 だいたい、若様はどうしてこんなにも苛立っているのだろう。

「まあ、よい。今日、お主を呼んだのは摂津のことだ」

「摂津ですか?」

「左様。世間では荒木信濃守とやらが中川瀬兵衛という豪傑とともに池田家に反旗を翻したとなっておるが、それは違うとカツが言っておった」

「勝蔵殿がですか? なんとおっしゃっていたのですか?」

「お主の父親の左衛門尉だ。今回の摂津の反乱劇には左衛門尉が絡んでいるに違いないとカツが言っておった」

 実は太郎もよく知らない。摂津工作に従事しているのは心得ているが、牛太郎がどういう動きをしていたか、新七郎も多くを語らなかったし、噂にも入ってきていない。

 だから、太郎は笑った。

「勝蔵殿は父上を買い被りすぎなのでは。もし、荒木信濃守殿の反乱に織田方が絡んでいたとすれば、それはおそらく明智十兵衛様か細川兵部様でしょう」

「あのカツが他人を買い被るか?」

「それはそうですが」

「左衛門尉は切れ者なのではないのか」

「まさか!」

 太郎は腰を浮かせた。あの父が切れ者などとは、相手が勘九郎でなければ大笑いしている。木下藤吉郎にさんざんこき使われ、惚れた女にはさんざん袖にされ、いざ女房を持ってみたらさんざん尻に敷かれ、摂津池田では信濃守や中川瀬兵衛に騙されて一時期投獄され、ときたま戦場で顔つきを変えるけれども、それは切れ者などとは程遠い猪突猛進のいくさ振りである。

「若様、冗談もほどほどにしてください。もしも父が切れ者であったら、拙者は今頃織田家の重鎮の倅です」

「まあ、そうであるが」

 勘九郎は納得いかない様子であったが、太郎は相手にせず、今までの牛太郎の愚行ぶりをべらべらと並べ立てた。

 そのうち、勘九郎は牛太郎の愚行を聞いて愉快になったらしく、当初の苛立ちも忘れて声を上げて笑っていた。

 勘九郎の前をあとにし、稲葉山の坂を下っていくと、前から五騎、六騎ぐらいの集団が坂を上がってきた。

 まるで、栗綱の馬体か、いや、それ以上に黄金のように輝く栗毛馬に跨っているのは、上総介であった。

 川で水泳でもしてきたのか、上総介は浴衣なんかを羽織っていて、いつものように片方の肩をはだけさせている。一大勢力を築くようになった今でも、上総介は暇を見ては城下に繰り出して遊んでいる、いや、肉体の鍛錬に勤しんでいる。

 太郎は坂道の脇に避けると、地面に膝をついて、頭を下げた。

「なんだ、こましゃくれ」

 上総介は太郎の前までやって来て、馬を止めた。

「奇妙にでも呼ばれたか」

「左様で」

「どうせ、くだらぬ愚痴でも聞かされたんじゃねえのか」

 太郎は黙るしかない。勘九郎も勘九郎だが、上総介も上総介である。言いにくいことを軽々しく訊ねてくる。

「まあいい。それより、お前、加賀に行ってこい」

「か、加賀ですかっ?」

「ああ。今、誰を向かわせるか調度考えていたところだ。そうしたらお前と会った。だから、お前が行ってこい」

「か、加賀とは一体、何用で」

「不識庵だ」

 上杉不識庵謙信のことであったが、上総介はただそれだけを言っただけで馬を歩ませて去っていってしまった。

 太郎は困った。上総介のあの感じであると、ひどい思いつきで言ったような気もするが、そうした気分屋である一方で、上総介は回りくどい説明を言うのも聞くのも嫌う短気な性格だ。

 実際、木下藤吉郎のような、上総介の機微を理解し、それを先回りするような小賢しい人間を上総介は気に入る。

 とはいえ、加賀に行っている暇なんてあるのだろうか。現在はまさに足利義昭の動きに対して臨戦態勢を敷いている段階であり、明日、出陣となってもおかしくはないのだ。

 太郎は困った。なので、柴田家に立ち寄った。

 血は繋がっていないが、柴田家の当主、権六郎勝家は梓の兄であり、太郎からすれば義叔父ということになる。

「これまた唐突であるな」

 もみあげから顎にかけて髭を勇壮にたくわえた権六郎は、太郎の話を聞くと、太い腕を組んで、うーむ、と唸った。

 三好三人衆と戦った二年前の野田福島城や、苦戦を強いられ撤退を余儀なくされた去年の伊勢長島の一向一揆との戦いで、権六郎はしんがりを務めた。この二戦のしんがりがなければ、他方面で蜂起した反織田に上総介は対処できず、織田領は包囲網の餌食となっていたであろう。

 そんな猛将で、家中では佐久間右衛門尉に次ぐ重臣でもある権六郎は、新参武将や若者たちになかなか厳しい目を向けているが、太郎にはなぜか甘かった。

「確かに先日、織田は上杉と同盟を結んだが、目的がようわからん。まあ、二三日様子を見てみろ。おやかた様は考えをころりと変えているかもしれん。もしも、咎められることがあったら、わしにそう言われたと申すのじゃ」

「でも、そうしたら、柴田様にご迷惑ではないでしょうか」

「いや、おやかた様にお叱りを受けるかもしれんが、どうせ、すぐにいくさじゃ」

「はあ」

 太郎は釈然としないまま柴田家をあとにした。戦場では奇策を用いて機転を働かせる太郎だが、それ以外のところでは不器用な部分があり、言ってみれば政治には向かない軍人将校だった。

 まあ、とりあえず二三日待つことにして、その間、加賀の情勢などを調べてみた。

 しかし、二日後、権六郎の言う通りいくさになった。足利義昭が勅令を破棄して、再び挙兵したという一報が岐阜に入ったのである。


 京は動乱している。

 武田軍の西上作戦の中止によって、包囲網の一角が崩れ、織田と反織田は五分五分、いや、織田軍の総帥上総介による警戒力と指揮力、弱すぎる織田兵の唯一の長所である機動力、兵数や軍備といった火力、更には強力な指揮官たちが揃う統率力を考えれば、足利義昭は挙兵を無謀なまでに早めた。

 おそらく、徳栄軒の死を知って、せっかく築いた包囲網を無碍にさせたくないあまり気を焦って、冷静さを欠いたのかもしれない。

 ともかく、義昭は二条城に側近を置いて、自らは宇治川に囲まれた要害となっている槇島城に立てこもり、諸国の各勢力に上総介打倒の令状をばらまいた。

 さらに、かつての天敵三好三人衆の一人である岩成主悦助友通を淀城に置き、各地の勢力の一斉蜂起を待った。

 だが、足並みはまったく揃っていなかった。義昭の挙兵に加勢したのは畿内の三好三人衆ぐらいで、大和の松永弾正忠や河内の三好左京大夫は武田軍の撤退に不利を悟ったか一向に動かず、越前朝倉は例のように小谷方面へ進軍を開始したものの、朝倉一門の不和がここにきて一気に噴き出しており、北近江浅井にいたっては虎御前山の大砦を前にして動くに動けない状況だった。

 上総介は足並みの乱れを一挙に突くように二万余の大軍を連れて早々と出陣し、たった一日で佐和山に到着すると、先に造らせておいた大船で兵の大半を坂本まで運ばせ、そこで明智十兵衛と合流し、翌日には二条城を包囲するという驚愕の速度だった。

 二条城は一切の抵抗も見せずに開城し、四日後には槇島城へと進軍した。

 この日、宇治川の水量はふんだんで、織田の諸将は渡河をためらっていた。

 沓掛勢は柴田隊に属しており、太郎はいくさの気配に興奮しきりの黒連雀をなんとかなだめ、権六郎の命に従って宇治川の流れが落ち着くのを待っていた。

 が、命知らずの隊が渡河を始めた。兵卒の体は胸まで浸かり、馬も体半分で川の中を泳いでいる。なかには濁流に流される人馬も。

「あの野郎っ! まさか酒を食らっているんじゃないのかっ!」

 玄蕃允が思わず声を上げた。命知らずの者たちが背負っている旗印は森家の鶴丸紋である。

「遅れを取るかあっ! 皆の者、続けえっ!」

 と、玄蕃允が勝手に兵卒を従えて川の中へ駆けていく。

「若君!」

 新七郎が困り顔で指揮を求めてきて、太郎は唇をひとしきり噛み締めたあと、意を決して鞭を振るった。

「仕方あるまいっ!」

 また、軍紀違反か。

 森勢に遅れまじと、沓掛勢は濁流の中へと突っ込んでいく。馬上から降り、甲冑の重量に悩ませながら、すいすいと足を掻いていく黒連雀とともに宇治川の対岸へと進んでいく。

 このとき、普通なら、渡河に気付いた敵方が城から打って出て対岸から矢を放って来るものだが、まったくなかった。ただ、太郎はこれを不思議に思わなかった。なぜなら、頭の中はいくさから離れてしまっていて、勝手に飛び出していった軍紀違反について、上総介や権六郎にどう言い訳しようか、そればかり考えていた。

 だが、背後からかまびすしい押し太鼓の音が聞こえてきた。上総介本隊からであった。太鼓の音を聞いて、織田勢は次から次へと川を渡り始めた。まるで、早くしろと、上総介が急かしているような太鼓の響きである。

 結局、森勝蔵隊が槇島城に一番に攻城をしかけた。が、すでにもぬけの殻だった。

 義昭は逃げたらしい。

「天下の征夷大将軍が逃げ出すとは」

 濡れそぼった黒連雀が、首を上下に振り乱している。暴れられなかったのが不満らしい。

「クロ。あんまりそう戦いたがるな」

 太郎は黒連雀の首をぽんぽんと叩くと、暴れ馬の手綱は兵卒に任せて 脱いだ兜を小脇に抱えながら、玄蕃允と共に本陣に向かう。

「なんだと、この野郎っ!」

 向かう途中、揉めごとを目にした。

「宇治川に腰が引けていたくせに言ってくれるじゃねえか!」

 勝蔵が詰め寄っている相手は、黒母衣を背中に流す佐々内蔵助成政だった。どうやら、勇んで突っ込んでいったものの、空振りに終わった勝蔵を内蔵助が冷やかしたらしい。

 玄蕃允がぼそりと呟く。

「あの馬鹿」

「おうおう、お前は誰に掴みかかってんのかわかってんのかあ? こんな真似してただで済むと思ってんのかあ? 謹慎だぞ、謹慎」

「ほざけ、この筋肉ダルマっ!」

 勝蔵は内蔵助を兜もろとも殴り飛ばした。しかし、内蔵助は顔をもっていかれただけで、勝蔵に振り向き直ると、瞳孔を広げながらにやりと笑う。

「きかねえなあ、若僧!」

 内蔵助の右拳が飛んだ。さしもの勝蔵も、織田の狂犬の拳に体を吹っ飛ばされた。

「この野郎ォっ!」

 起き上がった勝蔵が内蔵助に掴みかかって、周囲の諸将も大勢で止めに入っていく。玄蕃允も、もちろん、太郎も。

 大の男たちに引き剥がされながらも、なおのこと掴み合おうとする勝蔵と内蔵助であったが、赤母衣を翻しながら、黒鉄器の烏帽子兜を被った男がぬうっと現れた。

「やめんかっ!」

 前田又左衛門利家であった。

「仲間割れしている場合かっ! 互いとも頭を冷やさんかっ!」

 又左の怒声に揉み合いはぴたりとおさまり、しんと静まりかえる。

 勝蔵がぼそりと言う。

「なんだ、尻込み又左か」

「なっ!」

 内蔵助もぼそりと言う。

「拾阿弥を叩き斬ったお前には言われたくないわ」

「へ、減らず口叩くなっ! わ、わしは子供が四人もおるのだぞ! お主のようにいつまでも暴れていられんのだ!」

 内蔵助も勝蔵もハアと溜め息をつき、半ば面白半分でそれを止めていた連中も、なんだかしらけてしまったかのようにぞろぞろと解散していった。

 仲裁に入ったはずの又左衛門だったが、むっとしながら立ちつくしている。

「前田殿が止めに入らなければどうなっていたことか」

 と、太郎は又左を慰めた。

「そうだろう。そう思うであろう。お前ならわかるだろう。ああいううつけを止めるのは俺のような大らかな人間なのだ。わかるだろう?」

 かつてのかぶき者の言葉に、太郎も内心、よく言えたもんだ、と思った。

「ま、まあ、とにかく、おやかた様のもとへ」

 そう言って、太郎は体を返した。

 と、そのとき、本陣の裏手から飛び出ていく黒い影を目にして、太郎は歩みかけていた足を止めた。

 又左が立ち止まっている太郎に目を丸める。

「どうした」

「い、いえ、今、本陣から熊みたいなものが」

「熊だと?」

 又左は大笑いした。

「宇治に熊がいるか! いたらそれこそ、おやかた様は喜んでしまうわ!」

 太郎は首を傾げる。確かに変な物体を目にしたのだが、錯覚であろうか。


 上総介本隊が槇島城を攻略した同時刻、近在にある淀城を望んで、木下藤吉郎秀吉隊が陣を張った。

 三好三人衆の一人、岩成主悦助が立てこもった淀城は、木津川、桂川、宇治川が合流する地点に築かれた天然の要害で、四方を取り囲むには地理上はおろか、兵数としても困難であった。

 しかし、兄の藤吉郎は是が非でも落としたいらしい。

「近江から出張ってきて手ぶらで帰るわけにはいかにゃあ」

 藤吉郎は包囲網が組まれて以降、北近江の戦線といい、上総介から大任されることが多い。藤吉郎は上総介に寄せられる期待の大きさをひしひしと感じ取っていた。彼にとって、一戦一戦が出世街道の分かれ道であり、失態は絶対に許されなかった。

「でも、兄上」

 小一郎は鼻息の荒い藤吉郎に釘を刺す。

「戦功欲しさに無茶な真似をすれば、それこそ、おやかた様のお叱りを受けますよ」

 すると、朱の軍配を携えて床几に座る藤吉郎は、小一郎に視線をぎろりと向けてくる。

「おみゃあに言われなくたって、わかってりゃあ」

「じゃあ、どうするのです」

 視線を厳しくさせるだけで、押し黙る藤吉郎。ややもすると、すっくと腰を上げて声を上げた。

「半兵衛! 半兵衛はおるきゃあ!」

「なんでしょう」

 陣幕を捲り上げて、一之谷兜の竹中半兵衛が入ってきた。

「おみゃあ、なんとかしにゃあか! 槇島城が落城の伝令が入ってきたんだぎゃあぞ!」

「なんとかせいと申しましても、攻城策はさきほど申し上げたではありませんか」

「他の策を考えいと言っているでにゃあか!」

「水攻めしか思いつきません」

「水攻めなんかできるきゃあ! さっさと落とさにゃあならなにゃあんだぎゃあ! 水で囲って日干しにするなんて、何カ月かけるつもりなんだぎゃあ!」

「そうおっしゃられても、攻城というものは一日一晩でできるものではないことなど、殿もよくご存知でしょう」

「それはそうだぎゃあが、なんとかせんかえ!」

「いくさの勝利とは一朝一夕で得られるものではありませぬ」

「おみゃあって奴は、本当にくそ真面目だぎゃあにゃあっ!」

 名参謀の半兵衛に無理を強いている兄に呆れ果てていると、小一郎様、小一郎様、と、陣幕の裾から従者が小声で呼びかけてきていた。

 半兵衛と藤吉郎の言い争いを横目に、小一郎はそっと従者に歩み寄る。

「なんだか、よくわからねえ娘がやって来まして、これを小一郎様に渡せと押し付けてきたんですが」

 従者は小一郎の顔を伺いながら、一通の折り畳まれた文を差し出してきた。

「娘だと?」

「へえ。畿内訛りの百姓娘みてえな小汚ねえ女だったんですが」

 とにかく、小一郎は文を受け取って中を開いてみると、こう書かれてあった。


 淀城の諏訪三將を寝返らせた。こいつが主悦助に、城から打って出て野戦をするよう進言する。信長様には伝えた。じきに勝竜寺城から細川さんが援軍に来る。相手を叩きのめすよう、今から準備をしておけ。 簗田左衛門尉牛太郎


 追伸

 おれが調略を仕掛けたってことは絶対に誰にも言うなよ。とくに太郎には絶対に言うなよ。


 小一郎は一瞬、文を疑った。なぜ、簗田牛太郎が調略を仕掛けているのか。しかも、その功績を公言するなと念を押してきているのも不可思議である。

「半兵衛殿」

 小一郎は兄と喧嘩別れして出て行った半兵衛を呼び止めると、文を見せた。半兵衛は目を通したあと、ハハ、と、軽やかに笑う。

「これはまさしく簗田殿の字です」

「し、しかし、なぜ、簗田殿が調略などを。それに誰にも公言するなとは一体」

 半兵衛は微笑を浮かべたまま、文を胴鎧の中へしまい込む。

「簗田殿は摂津工作に従事してきましたからね。三好の連中と何らかの脈があるのでしょう。それに誰にも公言するな、特に太郎には、と書かれてありますゆえ、おそらく、また親子喧嘩でもしたか、それとも岐阜の鬼嫁を怒らせてしまっているのか、とにかく今は太郎に居場所を知られたくないのでしょう」

「なるほど」

 と、小一郎も思わず笑ってしまう。

「それにしても」

 半兵衛は再び陣幕を捲りながら言った。

「不憫な御仁ですね。手柄を上げてもそれを大っぴらにできないとは。まあ、簗田殿らしいと言えばらしいのですが」



 木下隊とこれに合流した細川兵部大輔の軍勢は、淀城から打って出てきた岩成勢と対峙すると、岩成勢諏訪隊が織田方に寝返り、孤立した岩成主悦助は奮戦したものの、細川家中の者に討ち取られた。

 これを期に勢力基盤を失った三好日向守長逸と三好下野守政康も消息不明となり、悪妙馳せた三好三人衆は歴史の表舞台から消えることとなった。

「さすが半兵衛だぎゃあ! さすがおりゃあの右腕だぎゃあ!」

 藤吉郎は、岩成勢に調略を仕掛けたのが牛太郎であることを、半兵衛から聞かされている。

「三好三人衆を追い払ったこの勢いで、浅井もひとひねりだぎゃあなあ!」

「兄上」

 小一郎が厳しい眼差しで牛太郎の文を押しつける。

「もう一度ご覧下され。このことはおやかた様もご存知なのですからね」

「にゃあにゃあ、そうかえそうかえ」

 藤吉郎は小一郎から文を奪い取ると、笑顔のままそれをびりびりと破っていき、欠片を初夏の空めがけて舞い散らせてしまった。

「それはそうと、牛殿は何をやっているんぎゃあにゃあ? 畿内まで来たことだし、堺にでも顔を出してみようきゃあ?」

 にゃっはっは、と、藤吉郎の笑い声はいつまでも響いた。

 槇島城落城により、幕府のすべての機能が終焉すると、上総介はかねてから朝廷にはたらきかけていた年号改元を実現する。

 この夏、元亀四年は天正元年と改まり、織田上総介信長の時代が始まった。

 これに乗じたのだろう、調子者ぶりを発揮した藤吉郎は、二条城にて姓を変えたいと上総介に求めた。

「ハシバだと?」

 古今東西聞いたことのない姓に、上総介は眉をひそめた。

「なんなんだ、それは」

「ハシバの羽は丹羽様の羽、ハシバの柴は柴田様の柴でございますぎゃあ。おりゃあもこのご両名にあやかっておやかた様のために身命を賭す覚悟の表れですぎゃあ」

 上総介は藤吉郎の神経の図太さに笑った。

「よかろう。お前は今日から羽柴藤吉郎秀吉を名乗れ。俺が許してやるわ」

 まさに絶頂の藤吉郎である。

 丹羽五郎左はにこにこしながら太郎に言った。

「藤吉郎はまあ調子の良い奴だが、それでいて頭のきく奴よ。家中の者の姓を一字ずつ取るとは、考えそうで思いつかんもんだ。太郎もあやつとは仲良くしておいたほうがいいぞ」

 五郎左は、少年時代には上総介と兄弟のように仲が良かったのも手伝って、織田家中の席次は五、六番目ぐらいであろう。

 そんな五郎左を藤吉郎は立てたのだから、悪い気がしないはずがない。

 しかし、もう一人の重臣はおもしろくなさそうであった。

「あの人もどきめ。勝手にわしの字を奪い取りおって何様のつもりだ。運だけで生き残ってきたくせに、まったく腹立たしい奴だ。太郎、あんなサルとはさっさと縁を切ってしまえ。牛太郎にも言っておけ」

 藤吉郎の改姓は権六郎に至っては逆効果だったかもしれない。しかし、藤吉郎ぐらいの男なら、はなから藤吉郎を毛嫌いしている権六郎が納得しないことなど想像できたに違いない。

 太郎には藤吉郎の頭の中がよくわからない。

 出世頭の藤吉郎の改姓は、五郎左や権六郎だけではなく、諸将の間でも物議をかもした。

「計り知れん男だな」

 と、前田又左衛門は好意的であった。

「藤吉郎は昔からそうだ。あいつは凡人では思いつかんことをやる。もっとも、凡人では百姓から一軍の将にまで登り詰められなかっただろうがな」

「腹立たしい男よ」

 とは、佐々内蔵助であった。

「いつか斬り捨ててくれる」

 内蔵助の異常なまでの敵愾心の理由を太郎は知っている。かつて、藤吉郎の女房の寧々を内蔵助と藤吉郎とが取り合ったのを、太郎は八歳のときに目にしている。

 今でもそれを妬んでいるとは恐ろしい男だと思う。

「あやつは百姓の小倅だから仕方ありませんな」

 玄蕃允は目上の藤吉郎を「あやつ」呼ばわりであった。

 重臣家の若当主である勝蔵はどう思っているかと気になった太郎だが、勝蔵は槇島城でのいくさが空振りになって、日々、やけ酒を食らっているらしく、当分は距離を置くことにした。

「まあね、太郎殿」

 上総介の小姓上がりの側近である堀久太郎秀政は、太郎と齢も近く、太郎が馬廻衆であったときからの仲である。

「サルの知恵は、ここなんですよ、ここ」

 上総介に愛されるほどに美青年の久太郎は、すらりと通った鼻先を自らの指先でちょんちょんと叩いた。

「鼻が利くんですよ。おやかた様の匂いがわかるんです」

 太郎は首を傾げる。

「でも、太郎殿はサルの真似なんかしちゃいけませんよ。おやかた様が太郎殿に求めているのはいくさの将としての太郎殿なんですから」

 解せない。いくさの将としても、藤吉郎は同じ侍大将の太郎より功績の質量とも遥かに上回っている。

 そんな折、ふと疑問が湧いた。藤吉郎と尾張時代から苦楽を共にしてきた牛太郎はどう受け止めているだろうかと。

 織田軍の岐阜への帰陣はすでに決まっているが、太郎は上総介に目通りを願い、一時の暇を求めた。

「父に会っておりませぬゆえ、二、三日、堺に行かせて頂きたく存じます」

 断られないと考えていた。修羅道に徹する上総介だが、たまに家臣に家族を大切にするよう申しつける意外な一面も持っており、それに娘の名付け親にもなってくれた主人である。

「ならん」

 ぶっきらぼうに断られた。

「一刻の猶予もねえ。だったら、あんな奴より嫁や娘に会え。あいつは好きにさせておけ」

 わからない。上総介のその人情も、牛太郎を野放しにさせておく理由も。

 幕府を滅ぼし、三好三人衆を駆逐して京の安定を取り返した上総介と織田勢が岐阜に帰陣したのつかの間、一報が飛び込んできた。

 北近江である。

 昨夏、簗田勢は羽柴勢とともに小谷城近在の山本山城の弱体化に成功したが、その山本山城城主、阿閉淡路守貞征が織田方へ内通してきた。

 これまで、難攻不落の小谷城を包囲できずにいたのは、小谷城と琵琶湖の間に支城が並んでいるためであり、この中でも天然の山城である山本山城が支城配列の中心であった。

 阿閉淡路守の寝返りを好機と見た上総介は躊躇することなく立ち上がり、夜中にも関わらず、岐阜城下には出陣の法螺貝がけたたましく鳴り響かせた。やがては無数のたいまつが闇を赤々と染め上げ、織田の将兵たちは休む間もなく岐阜を飛び出した。

 一日をかけて大垣を抜けると、織田軍はそのまま虎御前山南西に位置する小谷城支城の月ヶ瀬城を攻撃し、丸一日で攻め落とした。

 さらに、虎御前山に本陣を置いた上総介は、軍勢の一部を山本山城に入城させ、もう一部は小谷城を回り込ませて、北方の山田山に布陣させる。これにより、織田軍来襲を知って、あわてて出陣した越前朝倉勢であったが、小谷城までの通路を遮断された。

 嵐のように北近江に上陸してきた織田軍の機動力に浅井方は混乱し、小谷山城郭を形成する一角の焼尾砦に配置されていた浅見対馬守が織田方に寝返る。

 これを受けて、虎御前山の軍議にて、上総介は諸将を睨みつけながら声を唸らせた。

「新九郎の首を取る」

 三年越しの復讐戦が始まった。



 織田勢三万。

 浅井勢五千。

 朝倉勢二万。

 これが野戦であったなら、七分三分で上総介の優勢であるが、なにぶん織田勢は攻城方であり、浅井朝倉は籠城方である。

 まして、浅井勢が立て籠っているのは小谷城という名城であった。

 これこそまさしく、姉川の戦いに始まった織田対浅井朝倉の攻防が三年もの長きに続いた理由であった。

 だが、情勢はこの三年の間に変わった。武田軍撤退をきっかけに上総介は織田家存亡の危機を脱出し、各地で反織田勢力を集中的に撃破した。

 背後に差し当たっての脅威はない。

「小谷城よりも先に、まずは邪魔な朝倉を蹴散らす」

 虎御前山本陣の軍議、上総介の執念が伝わってくるようで、太郎は息を呑んだ。浅井よりも先に朝倉を壊滅させると言うのである。

「時が来れば一乗谷まで突っ走るぞ」

 諸将が上総介の言葉をどう受け止めたかわからないが、太郎は本気だと思った。北近江の浅井を見張りながらも、敦賀を突き抜け、朝倉本拠の越前一乗谷まで二万の大軍を追撃するなど尋常でない戦略だが、上総介は法螺を吹かない性格である。

 このときから、太郎の口数は減った。燃え滾るものと、くすぶり続ける焦燥感をぐっとこらえながら、膠着した睨み合いが決壊される瞬間を待った。ここで功績を上げなければ、簗田左衛門太郎広正の価値は侍大将の役職と比例しなくなる。

 姉川の戦い以来、活躍していない。

 作夏の山本山城下での浅井勢との小競り合いでは、上総介が上機嫌になるほど活躍した。しかし、包囲網の苦境を乗り越えるため、織田諸将はめまぐるしく戦い続け、近江戦線では羽柴藤吉郎秀吉という偉大な将校を生み出した。比叡山延暦寺の焼き討ちでは明智十兵衛光秀が諜報の才能を活かし、第六天魔王の完璧な虐殺劇のお膳立てをした。摂津の野田福島や伊勢長島では柴田権六郎が見事に退却戦を乗り切った。

 それだけではない。公にされていないことであるが、佐久間玄蕃允と森勝蔵が武田騎馬隊相手に鬼神のごときいくさぶりであったことを、上総介は知っている。

 そして、父、簗田牛太郎が二俣城で武田の進軍を足止めさせたことも。

 実は太郎は口惜しさを感じていた。もしも、牛太郎だけではなく、自分も浜松に向かっていたら、勝利こそはなかったものの、玄蕃允や勝蔵ぐらいは奮戦したはずだ。

 いや、二俣城を死守できた。

 おごりだろうか。違う。牛太郎にできて、自分にできないはずがない。あの人のことは昔から知っていて、誰よりも知っている。簗田左衛門尉は愚将だ。

 かつて、烏帽子親となってくれた竹中半兵衛に説教されたことがある。

 勘違いするな。お主は簗田殿がなかったら、ここにいない。お主は自分で己の道を切り開いているかと思っているみたいだが、簗田殿がなければ、その切り開く道すらなかったのだ。

 確かにそうだ。自分が率いている沓掛勢も、跨っている黒連雀も、牛太郎がいなければ手に入れられなかったものだ。

 だが、

「俺は違う」

 まあ、結局は愚将の牛太郎に功績で敗北している現実が、太郎には悔しくてたまらなかった。

 天涯孤独の自分を拾ってくれ、あいりや駒といった幸福を与えてくれた牛太郎には感謝している。簗田牛太郎という人は、過程はどうであれ、裸一貫の身から簗田家という慎ましいながらも慈しみに満ちた一家を築き上げた偉人である。

 しかし、

「父上は将としては愚なのだ」

「若君」

 じっと思い詰めている太郎に、新七郎は語調を厳しくさせた。

「旦那様とご自身を比べることこそ愚かだと思いませんか」

 太郎は珍しく表情をむっとさせた。彼は牛太郎以外の人たちには当たりのよい青年で、いくさに対する厳しさはあるが、配下や兵卒たちにも物腰柔らかく接する。

 ある意味、人間臭い部分を見せるのは牛太郎とやり合っているときだけで、その他の人と話すときは、自分自身の感情を超然とさせようと心掛けている。

 だが、このときばかりは声に怒気をはらませた。

「その言葉は覚悟があってのことだろうな」

「覚悟の有無はともかく、旦那様がご自身の才覚を若君と比べていましょうか」

「何が言いたいっ!」

 滅多にない太郎の怒りであったが、新七郎は動じることなく冷めた眼差しのままで静かに言う。

「他所のことなど気にするなと言うことです」

「気にしてなんかいるか」

「いいえ、気にしていましょう。拙者が旦那様の下におり、若君から離れていた一年の間に、若君はすっかり変わられた様子で」

「なんだと」

 ただ、眉尻を吊り上げながらも、太郎は怒りの中に佇むちょっとした冷静さで、新七郎の人間性の変化に気付いた。

 堺に行く前の新七郎はもう少し無邪気な男であった。ところが、帰ってきてからの新七郎には、常に張り詰めた感がある。何か、耐えがたい物を背負い続けている重苦しさと、それを消し去ろうとする冷徹な感情がないまざって、得体の知れない鋭さを体中から放っている。

 すると、太郎はふと感じてしまった。牛太郎を始め、新七郎や早之介など、堺に行っていた連中は、想像を絶する修羅場を乗り越え、まるで自分を置いてけぼりにするかのように成長してしまったのではないか。

「若君はもっと正々堂々としており、勝利を純粋に求めている方でした。しかし、駒様がお生まれになってからは、戦場での勝利よりも、家中での処世術に執心されていらっしゃる」

 図星であった。

「黙れっ!」

 太郎は生まれて初めて激しい憎悪を表情に表した。

「ここで俺に斬られるか、もしくはこの場からさっさと去れっ!」

 新七郎が、蛇がとぐろを巻くようにしてじろりと睨めつけてくる。太郎はとうとう頭に来てしまって腰の太刀に手をかけたが、新七郎がぬうっと立ち上がり、その不気味さに思わずためらった。

「言っておきますが、若君は旦那様には適いませんぞ。今どこで何をやっているかも知らない時点で、適いませぬ」

「ならば父上は何をやっておるのだ!」

「おやかた様のお側におりますよ」

 新七郎はうっすらと笑みを浮かべると、太郎の前から去っていった。

 太郎は柄に手をかけたまま、唇を震わせる。何が起こっているのか知らない。たったそれだけで、自分の存在価値は失われていくようであった。


 進路を遮断された朝倉勢二万は、やむなく北近江の玄関口である小谷城北西の山麓一帯に布陣した。

 このころの朝倉家は、この国の一族集団らしい典型的な仲間割れを起こしていた。

 当主は十一代目、左衛門督義景で、上総介信長と同年代である。

 左衛門督義景は可もなく不可もない男であった。いや、その辺の土着豪族とは違い、越前一国を束ね、敦賀湾沿岸に影響力を持っていたのだから、戦国大名としては可もないが、一家の当主としては不可もなかった。

 左衛門督の不幸は上総介信長の登場である。

 金ヶ崎の戦いで口火を切った織田勢との長い対立により、朝倉家と左衛門督の平凡な日々は消し飛んだ。毎年、雪が解ければ出兵し、大した成果も得られないまま越前に帰ってくる。

 数々の遠征の失敗により、朝倉氏一門には次第に不満が募っていき、こうなると、自然、当主左衛門督の才覚や人格に嫌悪するようになった。

 そもそも、なぜ、足利幕府の再興を望む義昭を突っぱねたのか、なぜ、織田勢と対立したのか。先見の明がまったくない。おやかたは暗愚だ、と。

 そして、今回、足利幕府に終止符を打った織田の激流が北近江にも迫ってきて、左衛門督は浅井救援の下知をくだした。

 が、一門重臣衆はこれを頑なに拒否した。長年の戦いで軍全体が疲弊しているからという理由で。

 恐ろしい出来事であった。織田の勢いは留まる事を知らず、これを放っておけば小谷城の落城も目に見えている。北近江が織田の勢力下になってしまえば、次は越前に侵攻してくるのが当然なのだ。

 そんなことは誰にでもわかる。しかし、一門重臣たちは、援軍の指揮を拒否した。

 左衛門督はやむなく自らの腰を挙げて、北近江にやって来たのだった。

 すでに朝倉氏の内部は崩壊しつつある。無論、上総介が把握しているところであった。彼はかつて朝倉の客将であった明智十兵衛の情報を元に、この三年間、調略を重ねてきたのだった。

 浅井もろとも朝倉を滅ぼす好機である。

 今までいくさを一門重臣たちに任せてしまっていた左衛門督義景は、司令官として何の経験も持っていない。

 対して、上総介は歴戦の男である。

 小谷城を包囲し、朝倉兵の入城を阻止した現状ではあるが、朝倉勢が北西に布陣したことで、包囲線の一角は敵を背後にも置いてしまっている。二万の大軍を三万の一部だけで食い止めつつ、小谷城を攻めかかるのは時間も労力も莫大に費やさざるを得ない。

 戦局として、浅井の不利は変わりないが、朝倉勢は不利でもなく、むしろいくさのしようでは有利であった。

 だが、朝倉勢の大将は経験の乏しい左衛門督であり、織田勢の司令官はあの織田上総介信長である。

 復讐戦への激情でもってこの戦線に挑んでいる上総介だが、一方で緻密すぎるほどの戦略を展開していた。

 山田山に兵を陣取らせて朝倉勢の進路を阻んだと同時に、実は朝倉勢をおびき寄せていた。

 つまり、朝倉勢に包囲線の背後を取らせ、いくさのしようでは有利に運ばせられると錯覚させたのだ。

 左衛門督は上総介の目的が小谷城攻略だと思い込んでいる。よもや、ここで朝倉氏を壊滅させる気でいるなど考えるはずがない。

 二日間、織田と浅井朝倉は互いの動きを牽制し合っていた。

 上総介が動いたのは嵐の日であった。嫡男、勘九郎信忠に虎御前山本陣を任せると、自らは千人の馬廻衆を率いて、打ちつける雨で視界もままならない中、大嶽山下の焼尾砦に入った。

 この動きを朝倉勢はおろか、織田の将校たちも知らない。まさか、こんな嵐の中で動くとは誰も考えていない。

 桶狭間以来の奇襲であった。

 上総介は焼尾砦を出ると、朝倉勢最前線の大嶽山砦五百人を電光石火の攻撃で降伏させ、この将兵たちを朝倉本陣へと逃がした。

 経験の浅い左衛門督に、奇襲という衝撃的な敗北を報せるためであった。

 上総介は砦に一部の兵卒を置くと、自身は間髪入れずに北東の丁野山へと進軍し、ここも降伏させて、兵たちを本陣に逃がした。

 味方の目まであざむいた上総介は丁野砦から北近江に陣取る全軍に通達した。

 左衛門督は必ず撤退する。この追撃を逃さぬよう覚悟しろ。

 もちろん、この通達は柴田権六郎の指揮下にある太郎のところにも届いてきている。

「おやかた様は感情で盲目になられているようだ」

 陣中の床几に座りながら、権六郎が言った。

「たかだか前線の砦を落としたところで、二万の軍勢が引き返すとは思えん」

 太郎も同感であった。上総介のこの戦いにおける意気込みはすさまじい。ただ、それが返って冷静さを欠かせているのではないだろうか。

 こう考えたのは権六郎や太郎だけではない。織田の将校たちのほとんどが上総介からの通達をうがった気持ちで受け止めていた。

 朝倉勢との前線に布陣していたのは、上総介の他、佐久間右衛門尉隊、柴田権六郎隊、滝川彦右衛門隊、羽柴藤吉郎隊、丹羽五郎左衛門隊、稲葉一鉄隊と、歴戦の経験豊かな将たちであった。

 このすべての将たち、調子者の藤吉郎でさえ、朝倉勢は退却しないと決めつけており、ゆえに動かなかった。

 戦局もさることながら、彼らには自負しているところがあった。若かりし頃の上総介は確かに自らの足で戦場を駆け抜けていたが、大軍団となった今では違う。上洛作戦のときも、包囲網に耐え忍んでいるときも、前線で槍を振るっていたのは自分たちであって、上総介は大戦略を指揮していたにすぎない。時々刻々と変化する最前線の機微を悟るには、司令官の上総介よりも指揮官である自分たちのほうが優れている。

 二万の軍勢が退却するはずがない。

 優れた織田の将校たちであるが、この辺りが、尾張の田舎武者さがいまだ抜け切れていない点であったろう。

 相手方の大将は経験の浅い左衛門督なのである。

 追撃準備に取り掛からないでいる各将の状況を知った上総介は、頭に来てしまった。二つの砦を落とした翌日、上総介は自らが手勢の馬廻衆を率いて、朝倉勢本陣のある余呉へ猛進した。

 上総介は余呉への途上にある各地の陣所を次々に襲いかかった。左衛門督義景のいる余呉の本陣には、この一連の攻撃の先陣を切っているのが上総介自身だという報告が入り、左衛門督は恐れおののいた。

 昨日の砦の攻撃だけに留まらず、当主自らが鬼神のごとく駆け抜けてきている。右衛門督は上総介がまるで何十人もの兵卒たちを斬り捨ててきていると妄想してしまい、その恐怖から、彼を武田徳栄軒か上杉不識庵ぐらいの軍神と過大評価してしまった。

 軍神に攻め立てられて勝てるはずがないとばかりに、右衛門督は全軍撤退を指令した。

 あわてたのは右衛門督だけではない。上総介自らが切り込んでいったことを知った前線の織田将校たちである。さらには上総介の通達どおり、朝倉勢が撤退の動きを見せている。

 各々真っ青な顔をして、進軍の法螺貝を鳴らさせた。泥水を跳ね飛ばし、馬に鞭を振るいながら、皆が皆、全速で上総介のあとを追った。

 諸将たちが上総介に追いついたのは余呉への途上、木之本の地蔵山というところであった。

 天下に名を馳せる猛将たちが、上総介の前にずらりと並んで額を地面にこすりつけた。

 もちろん、権六郎も太郎もいる。

「このうつけ者どもがあっ!」

 怒りの絶頂にいる上総介は、佐久間右衛門尉も丹羽五郎左衛門も、重臣新参関わらず、端から順に諸将の頭を蹴飛ばしていき、あるいは鞭で引っぱたき、調子者の藤吉郎にいたっては頭を地面に踏み潰した。

「テメーらに何度となく言ってきたというのに、この有様はなんなんだ! あーっ!」

「申し訳ありませぬ!」

 と、言った権六郎を上総介はぶん殴った。

「申すことがねえなら、黙って言うことを聞きやがれっ!」

「お、おやかた様!」

 権六郎が頬をさする傍らで、涙声で叫んだのは佐久間右衛門尉であった。

「さ、左様に仰せられても、わ、我らのような家臣はなかなか、お、おりますまい!」

「なんだとお」

 佐久間の口答えに上総介が瞳孔を押し広げてしまって、諸将たちに戦慄が走った。

「貴様あ......」

 手足を出して暴行を働くなら、ともかくの怒りは発散されるであろうが、それすらもしないで握った拳だけを震わせている上総介のしようは、怒りが最高潮に達しているのを表していて、平伏する太郎は脂汗を垂らした。

 しかし、いっときの寒気のする沈黙ののち、上総介は怒りを押さえこんだのか、フン、と、鼻を突き上げた。

「失態を棚に上げて己の器量を自慢するなど、片腹痛いわ。岐阜であったなら斬り殺しているところだが、貴様らの失態、このあとの働き次第で許してやろうじゃねえか」


 細川兵部大輔藤考は京の相国寺に立ち寄っていた。簗田左衛門尉が西笑承兌という若い学僧に指南を受けているという話を明智十兵衛から聞き、近頃、左衛門尉という男が妙に気になる兵部は、承兌を訪ねて左衛門尉の正体を掴もうとしたのだった。

「先の上京の焼き討ちで当方の寺が難を逃れられたのは簗田殿のおかげなのです」

 清貧な微笑で承兌がそう言い、兵部はその理由を訊ねた。

 実は上総介が上京下京の焼き討ちを命じたとき、それを知った左衛門尉はどこからか無数の織田永楽銭の黄旗を持ってきて、それを相国寺の境内のいたるところに立てるよう進言してきた。

 そもそも、上京焼き討ちに作戦という作戦はなく、織田の下級兵卒たちに乱暴狼藉を働かせるだけのものであった。兵卒たちは相国寺が織田の敵か味方かも知らないので、織田永楽銭が占拠しているこの大きな寺社は、どこかの隊の駐在地だと勘違いした。

「簗田殿は意外と細やかな人です」

「しかし、大胆でもある」

 兵部は北摂津で起こった下剋上の経緯を承兌に話した。

「それに松永弾正忠」

 今、上総介が織田を包囲している諸勢力を一個一個撃破できているのは、その機動力もさることながら、一個の勢力を攻撃している最中に、他の各方面の勢力を足止めさせているからである。

 例えば、義昭の一度目の決起で、上総介がそれを恫喝し、京に炎を放ったときである。上総介が岐阜から出陣する前、稲葉一鉄の軍勢に嫡男勘九郎や森勝蔵を加わらせて伊勢長島を攻めさせている。

 また、浅井は虎御前山の砦に張り付けさせておいて動かせなくしており、朝倉には一門衆に調略を仕掛けて足並みを乱させていた。

 その折、摂津では荒木信濃守、高山飛騨守が足利幕府に反旗を翻し、これらの一連の繋ぎ止めによって、上総介は京に大軍を送りこませられた。

 さらに、義昭が槇島城に立てこもったときは、これに呼応したのが三好三人衆だけであった。大和の松永弾正忠や河内の三好左京大夫は動かなかった。

「織田家中の人間は知らないが、実は簗田殿があの弾正忠をねじ伏せたのだ」

 弾正忠が動かなかった理由、それは左衛門尉が弾正忠に密かに面会し、このまま義昭に付いても弾正忠の利益にならないと説得したためであった。

 上総介を裏切った弾正忠だが、武田徳栄軒の死による反織田の劣勢にどうしたものか悩んでいた。一度は裏切った自分を上総介が許すはずもない。しかし、このまま行けば上総介にいつかは滅ぼされてしまう。

 そんな中で左衛門尉がやって来たのは、弾正忠にとって願ったりかなったりであった。左衛門尉を介せば、滅びの道は辿らなくても済む。

「無論、簗田殿は弾正忠のそうした心理の隙を狙っていたのだ」

 弾正忠が動かなかったことにより、河内の三好左京大夫も日和見を決め込んだ。

 このおかげで、上総介は槇島城を攻撃し、さらには北近江に軍勢を引き返すことができた。

「承兌殿は簗田殿をよく存じているらしいが、実は簗田殿はおやかた様の指南役なのではないか」

 織田軍が取っている戦略行動である。

 各方面から向かってくる敵勢力に対して、敵戦力を合致させず一部に拘束させておいて、主力を持って敵を一部ごとに撃破していくことを内線作戦と言う。

 織田軍は、北は越前から東は三河、南に伊勢長島、西に摂津という範囲を大きな戦場に見立て、各地をそれぞれの戦場にするのではなく、上総介自らが率いる織田軍主力が大きな戦場を縦横無尽に駆け回り、一個一個を壊滅していっている。

 主力が主戦場と見立てて、そこで戦いを始めたとき、他の方面では動きがまったくない。いや、なくさせている。

 北近江、伊勢、摂津はおろか、三河でも武田軍が撤退したあと、徳川勢がすぐさま反抗を開始し、長篠城を取り戻している。

「これは簗田殿がおやかた様に進言したのではないのか」

 兵部がそこまで左衛門尉にこだわっているのは、織田の部将の中で、唯一自由奔放を許されているのが簗田左衛門尉だけだからだった。さらに、左衛門尉の動きは弾正忠を懐柔したときといい、淀城の内部に亀裂を走らせたときといい、上総介の作戦と連動している。

 しかし、承兌は笑った。

「兵部殿、それは買い被りすぎですよ。簗田殿は自分から動くような人ではありません。誰かに命じられて動くか、それとも切羽詰まってようやく動き出すような人なのです」

 そもそも、今現在、左衛門尉が織田家中から姿を消し、人知れずこそこそと動き回っている理由、それは上総介に命令されていて動き回っているのか、何か利益を企んで動き回っているのかは知れないが、姿を消さざるを得ない切迫している理由なら承兌は知っていると言った。

「拙僧はお会いしたことはありませんが、簗田殿の奥方は織田家中では有名な恐妻らしいのです」

 織田永楽銭の黄旗を持ってきたとき、左衛門尉は頬冠りを被り、つぎはぎだらけの着物を纏っていた。どうして百姓のような身なりをしているのか承兌が訊ねると、

 誰にも見つかりたくないんだ

 と、言った。

「なにゆえ。私の前にはよく顔を見せるぞ。よくわからぬが、女を口説く和歌を作ってくれと言って」

「ははあ。それは兵部殿が優れた歌人であることを簗田殿が誰かから聞いたのでしょう。簗田殿が姿を消しているのは、どうやら岐阜の奥方を怒らせてしまったことをご嫡男の文から知ったそうで、それでほとぼりが冷めるまで家中の人々に見つからないようにしているようなのです。兵部殿に和歌の師事を求めるのは、奥方の怒りを鎮めるために送っているのでしょう」

 兵部は少し唖然とした。左衛門尉が恐妻家であるのは兵部も耳にしたことがあるが、そこまでして妻を恐れているとは、どことなく愚かしい。

 もしかしたら、それこそ愚将と呼ばれているゆえんか。

「まあ、北近江に行った簗田殿は次には何をするでしょうね」

「北近江にいるのかっ?」

「御存知ではなかったのですか?」

 兵部はうなずいた。

「退却した朝倉の追撃戦が敦賀まで続いているというのは私も聞いたが、まさか、簗田殿もそれに参加しているのだろうか」

「いえ、それはないでしょう。織田様の主力にはご嫡男の部隊も入っているようで、簗田殿はご嫡男に見つからないようにしているのですから」

 ふーむ、と、兵部は唸った。

「見ようによっては奇人だな」


 そのころ、噂の奇人は小谷城郭を包囲する四方の織田勢の様子を、望遠鏡を覗き込んで確かめていた。

「信長様はまだ戻ってきていないようだな」

 夏の霞んだ青空の下、虎御前山の砦には織田永楽銭の旗指し物が見え隠れしているが、数はそれほど多くない。主力部隊が朝倉追討戦から戻ってきたら、四方は黄旗で埋め尽くされる。

「なんや、それ。何か見えるんか」

 青い小袖を着たさゆりが望遠鏡を物珍しがって手を伸ばしてきたが、頬冠りをした牛太郎はさゆりの手をはたいた。

「触んなっ。これは南蛮船長から金十枚をはたいて買ったんだからなっ。世界に十個ぐらいしかない貴重品なんだからなっ」

 西洋で発明されたばかりである。なので、精度も良くないが、オランダ人の船長が持っていた筒を望遠鏡だと一目でわかった牛太郎は、周囲に自慢したいがために堺の団子茶屋のヨハンを介して入手した。

「いやー、よく見えるなー、やっぱ、金十枚をはたいただけあるわー」

 すると、望遠鏡をさゆりに奪い取られてしまう。

「おいっ!」

 さゆりは、フン、と、顔を背けると小谷山の谷に望遠鏡を投げ捨ててしまった。

「ああっ!」

「私に見せてくれないからや。いい気味や」

 さゆりが草履をぺたぺたと鳴らしながら小谷城本丸の屋敷に帰っていく中で、牛太郎は望遠鏡が吸い込まれていった谷底をしばらく涙目で覗き込んでいた。


 話は少しだけさかのぼって、上総介が虎御前山に本陣を置いた日のこと。

 百姓姿の牛太郎は、さゆりと共に虎御前山にこっそりと現れた。京、堺、摂津、大和と、あちこちの人間たちと面会する忙しさの中で、急遽、上総介から呼び出しの書状が届いた。

 さゆりの導きでけもの道を上がって本陣まで辿り着いた牛太郎は、しばらく木陰に隠れて様子を伺っていたが、上総介の側近かつ男色相手の一人である長谷川藤五郎を見つけ、

「竹。おい、竹」

 と、上総介が呼んでいるのと同じ藤五郎のかつての幼名で、木陰から手招いた。

 藤五郎は涼やかな目を牛太郎に向けてきたが、一度、知らんぷりした。

「おいっ、竹っ」

 そうして、藤五郎は口許をにやにやとほころばせながら歩み寄ってくる。上総介の寵愛を受けているせいか、鼻持ちならない面がある美青年で、

「なんなんですか、その格好は。オヤジ殿」

 と、玄蕃允や勝蔵の真似をしたりもする生意気さもあった。

「どうだっていいだろ。そんなことより信長様に会わせろ」

 藤五郎は本陣館をちらと一瞥する。

「お会いすればいいじゃないですか」

「お前なあ、なんでそう意地悪するんだ。おれが人目を憚っていることを知っているだろうが。信長様に伝えて、さっさと周りの連中を追い払ってもらえよ」

「いちいち面倒だなあ。いくらあの梓殿だからって、抱いてしまえば何もなかったことにしてくれるでしょう」

「おれはお前みたいないい男じゃないんだ。さっさと行ってこい」

「はいはい」

 ようやく、藤五郎が館の中へ入っていき、しばらくすると、館の縁側に藤五郎が現れ、牛太郎を手招いてきた。

 上総介の御前にまで連れていってもらうと、藤五郎は会釈を残して去っていく。牛太郎は頬冠りの手拭いを外し、床几に座る上総介の足元に平伏した。

「仰せの通り、やって来ました」

「なんだ、その格好は」

 戦場にあって気が立っているのか、上総介の声音は厳しい。

「あ、いや、正体がばれたらまずいんで」

「お前、まだそんなことをやってがるのかあ? いい加減、梓にもこましゃくれにも詫びを入れろ」

「いや、梓殿には細川さんに教えてもらった短歌を送って機嫌を取っているんですけれど、でも、まだ、やっぱ怖いんで」

「うつけが」

「へえ」

 と、上総介の説教に慣れてしまっている牛太郎は、適当な相槌を打つだけ。

「ところで、あっしなんかを呼び出して、なんでしょう。手紙に書いた通り摂津は信濃守が伊丹城に攻め込もうとしていますが、ま、勝手にやらせておけば今のあいつらなら勝つでしょうし、松永弾正も信長様に謝りたいとか言っていますし、今のところあっちのほうは何かあるわけでもないです」

「べらべらべらべら口達者になりやがって」

「あっ、い、いや」

「お前、このいくさが終わるまでこの砦にいろ」

「えっ? なんでですか?」

「いいからいろ」

 と言われても、姿をくらましている理由を知っている上総介や長谷川藤五郎、堀久太郎といった側近以外に顔を見られたくないので、牛太郎は上総介の許しを得て館の奥深くに閉じこもっていた。

 数日後、上総介が馬廻衆を率いて虎御前山を下りていったと同時に、引きこもっている牛太郎の部屋に上総介の実弟、三十郎信包が訪ねてきた。

 三十郎は勘九郎とともに虎御前山の守りを任されている。

「牛太郎、折り入っての頼みごとなのだが」

「なんでしょう」

 三十郎は上総介によく似た切れ長の瞼を持っているが、性格は兄とは違って穏やかだった。神妙な顔つきでしばらく視線を伏せていたが、牛太郎に顔を上げると言った。

「兄上がお主をここに呼んだのは他でもない、妹のことなのだ」

 むう。彼らの妹の市の婚姻を進めたのは牛太郎である。その名前だけでも暗澹たる気持ちになった。

「市を小谷城から連れ戻して来てほしい」

 牛太郎は思わず溜め息をつきそうだった。どうして虎御前山に呼ばれたのかわかった。

 上総介は鬼に徹しているが、本当は妹の市を救い出したい。しかし、諸将に復讐戦を位置付けている手前、そのような人情をおくびにも出したくはない、もしくは出せなかった。

 その点、牛太郎は織田家中で行方不明同然である。牛太郎が勝手に動き回っていたことにしてしまえば、上総介の面目も立つのだった。

 第六天魔王も可愛い妹の兄貴か。だからといって、回りくどい真似しやがって。

「お主ならやってくれるな、牛太郎」

 三十郎は物腰の柔らかい口調であったが、その言葉は「市の婚姻を進言した牛太郎こそ決着をつけろ」という意味合いを含んでいるかのようでもあった。

 当然、牛太郎は断れない。

「因果なもんやな」

 と、さゆりがにやにやと笑いながら言った。虎御前山のどこかに隠れているさゆりはときおり牛太郎の部屋に忍び込んできていたが、小谷城の潜入に協力するつもりは甚だ皆無の様子であった。

「前にも言った通り、私は調略にもいくさにも参加しないかんな」

 牛太郎はふてくされる。

「だったら、なんでここまで付いてきたんだ」

「おもしろそうだったからや」

「ふざけんな、クソッ」

 牛太郎もさゆりにそうした行動をさせないと言ってしまった手前、さゆりを頼れなかった。

 結局、牛太郎は単身小谷城へ潜入することになった。小谷城には市の輿入れのさい、これに供してそのまま小谷城に入った藤掛善右衛門永勝という織田一門の男がいて、三十郎信包は忍び上がりで尾張の元盗賊であった者の子、篠木於松を使い走らせ、善右衛門永勝に牛太郎の潜入を手引きするよう伝えた。

「小谷城に潜伏だなんて、旦那は大変な仕事を与えられちまいましたねえ、ししし」

 深夜、牛太郎を迎えに来た篠木於松はどう見ても老人であった。小柄で、猫背で、笑って見せた口の中には歯が三本ぐらいしかない。同行者がこの不気味な老人だと知って、牛太郎は寒気を覚えた。

 なんでこんな奴が織田の陣中にいるんだろう。牛太郎は於松のあとをついて虎御前山を下り、切り開かれた小谷山の城郭の影や小怪をぬうように進んでいったが、於松はとにかく歩くのが遅かった。警戒しているからではない。単純に老人だからだった。

 ただ、老人だけあって、長年培った勘というものがあるらしい。城郭を張り巡らす浅井兵に一度も見つかることなく牛太郎は本丸近くで待っていた藤掛善右衛門の手引きで小谷城に潜入した。

「じゃ、おれはこの辺で」

 役目を終えた於松が暗闇の中に消えていき、

「それでは簗田殿、こちらへ」

 と、善右衛門の導きでかがり火の明かりを避けながら城郭の切り立った先端に建てられている屋敷の中へ入っていった。

 市姫か。廊下を行く牛太郎の胸中には複雑な思いが湧き起こっていた。市姫に合うのは三、四年ぶりで、最後に会ったときはまだ織田と浅井が盟友関係のころだった。

 どんな顔をして会えばいいものか。

「簗田左衛門尉殿をお連れしました」

 膝をついて、板戸の向こうにそう伝えた善右衛門に習って、牛太郎も頬冠りを外してその場に両膝をついたが、

「入れ」

 と、男の声だった。

 牛太郎はあわてて善右衛門に視線をやった。善右衛門はなぜか唇を押し込めて視線を逸らした。

 牛太郎は震えるだけで動けなかった。嵌められた。戸が開き、広間に一人、胡坐を組んで座っていたのは甲冑姿の浅井備前守長政だった。

 しかし、備前守は牛太郎の姿を確かめるなり微笑する。

「久方ぶりだな、簗田牛太郎殿」

 なんなんだろう。三年もの長きに渡って血を流し合ってきたというのに、備前守長政は、最後に会った盟友関係のあの日から何も変わっていない。織田に向ける憎悪も感じられないし、長い戦いでの疲労も、滅亡を近くしている悲愴感も見受けられなかった。

 本当に織田軍はこの男と戦ってきたのだろうか、そう疑ってしまえるほど、備前守の目元は涼やかである。

「ど、どうして――」

 牛太郎は言葉にならなかった。怒っていないのか。憎んでいないのか。織田を、信長を、自分を。

「いやな、虎御前山から乱波が来たと善右衛門殿が教えてくださってな、内容はというと、簗田殿が市や子供たちを説得しに来るというではないか」

「浅井様は」

 善右衛門が頭を下げたまま言った。

「市様や姫君たちの命を救いたいと日頃から考えておられたのです。しかるに、拙者は浅井様に伝え申しました。簗田殿が小谷に来ると」

「わしはお主を待っておった。ずっとな」

 牛太郎の視界は涙で霞んだ。この青年の偉大さに感じ入り、同時に姉川の戦いからの三年間を無碍にさせてしまったことに恥入り、悲しみ、後悔した。

 あのとき――、姉川での決戦が始まる前夜、牛太郎の元に届いたのは助けを求める備前守からの密書。それを反故にしていなければ、歴史は変えられた。市だけではなく、この青年ももしかしたら助けられた。

 だが、時はもう止められない。



 油蝉の声が小谷の山を満たしていた。

 牛太郎の潜入を容認した備前守だが、織田の将を引き入れたことが将兵たちに知られるとまずいということで、牛太郎にはそのままの百姓姿でいるよう求めてきた。

「市に会ってもらおう」

 真夏の日差しが注ぎ込まれる青々とした庭には、白い蝶々がひらひらと飛んでいた。崩壊の予兆などまったく感じられない穏やかな日であった。

 甲冑を鳴らす備前守のあとに牛太郎は付いていき、すだれに仕切られた居室の前までやって来た。

 中では女児の声が跳ねている。外に控えていた侍女が備前守の来訪にすだれを上げていった。

「市、客人だぞ」

 光がこもれる居室には、白桃色の小袖に身を包んだ市が二人の小さな娘を相手にお手玉を披露していた。傍らには赤子を抱いている侍女がいて、あと、齢の通った女と、若い女がいた。

 牛太郎はそれを目の当たりにして、岐阜の我が家にあった光景とふと重ねてしまう。いや、梓や寧々、まつといった家来衆の女房たちの集まりとは違って、市の周囲には華やかさも慎ましさもあった。

 しかし、戦場を永遠に駆け回る男にとって、女たちの平和とはなかなか目にできないものであった。

 平和だった。

 備前守に客人だと紹介された牛太郎に、市も娘たちもきょとんとしていたが、牛太郎が頬冠りを外して平伏すると、市はようやく気付いて、声を上げた。

「ああ、牛殿ですか、お待ちしておりましたよ」

「お、お、お久しぶりでございます」

「小谷までわざわざ。大変であったでしょう」

 牛太郎はちょっと変だなと思った。もう少し驚かれてもいいものじゃないかと、寂しくもなった。まるで、牛太郎の来訪を知っていたかのように平然としている。

「簗田殿はお主たちを引き取りに来たのだ」

 備前守がそう言う。牛太郎は、市が頑として小谷城から出ていかないと言って強情を張っていると聞いている。しかし、備前守の言葉に市は、ふふ、と、夏のそよ風のように笑った。

「神出鬼没とはまさに牛殿のことを言うのでしょうね」

 母親になった市は、生来の美しさに加えて、すべてを包み込むような慈愛も得たかのようで、少女の市しか知らなかった牛太郎はたまらずどきまぎしてしまう。

「お、お、お市様のためなら、あ、あっしは、や、山でも、海でも、空でも向かいます」

「お上手だこと。でも、牛殿が梓殿を娶られたということはとっくに存じていますわ」

「そ、そ、そういう意味、意味ではなくて」

「何をでれでれしているんや」

 その声に牛太郎はあわてて顔を上げた。突然の来訪者を怪しんでいる下の娘を膝の上に抱えたのは、青の小袖を纏ったさゆりだった。下ろした髪がしっとりと潤っていて、肌もきめ細やかになっていて、ここにやって来たときはただの侍女かと思っていたが、よく見てみると特徴的な丸い鼻である。

「な、な、なんで、お前が!」

 騒ぎ立てた牛太郎に備前守はきょとんとし、娘たちは怯え、市は軽やかに笑う。

「お市様の警護とあんたが変なことせんための見張りや」

 なんて、でしゃばった真似を......。だったら、最初から素直に協力すればいいものを......。

「さな殿からお聞きしましたわ」

 市が訳のわからないことを言う。

「簗田殿がこちらにやって来ることを」

「さ、さな......?」

 牛太郎はさゆりにそろりと視線を向ける。

「私の本当の名前や。さゆりは忍び名や」

「ちょ、ちょっと、待て、おいっ!」

「ど、どういうことなのだ、簗田殿」

 何をとち狂っているんだ。牛太郎は汗でびっしょりになった。

「旦那様。さな殿は簗田殿の御家来なんですって。くのいちのようですけど、今まで男装して簗田殿にお仕えされていたそうですわ」

 あわわ。牛太郎は額に噴き出した汗を手拭いでぬぐいながらも、目の前を真っ暗にしてしまう。

「さな殿が子供たちを小谷から連れ出してくれるそうで」

「さ、左様か」

「でも、さな殿がくのいちで簗田殿の御家来であることをここだけの秘密」

 つぼみの開花のような微笑を浮かべる市。上の娘はじっと母親を見つめ、下の娘はさゆりの胸に顔を埋めながら、牛太郎を睨んできている。

「さな殿がおれば安心してこの子たちを任せられますわ。そうでしょう、簗田殿? お話しは聞きましたよ。さな殿と共に数多のいくさ場を駆け抜けてきたのでしょう?」

 牛太郎はさゆりをぎろりと睨みつけた。すると、下の娘が牛太郎を指差し、

「さな、はよ、やっちけて」

 ぐぬぬ。

「これ、初」

 備前守が下の娘に歩み寄り、さゆりの膝の上から抱き取ろうとしたが、初はちょこちょこと逃げていってしまい、今度は市に抱きついてしまう。

「そのような物騒な物をお召しですから、初が怖がっておりますわ」

「なんともまあ、悲しいものだ」

 備前守は笑いながらその場に腰を下ろした。転がっていたお手玉を拾うと、それを父親をじっと見つめている上の娘に、

「ほれ、茶々」

 と、放り投げた。掌にお手玉を受け取った茶々は、しばらくじいっとそれを見つめていたが、急に牛太郎に向けて目尻をきっと吊り上げてきて、お手玉を投げつけてきた。

「ぬちはなにものなのぢゃっ! なのななれ! ぷれいもの!」

 菊人形のようにおとなしい子供だと思っていたら、その小さな体からふいに弾き出た勝気さをどこかの誰かと重ねてしまった牛太郎は、怯えながら額を床にこすりつけた。

「あ、あっしはお、織田の、あ、いや、姫君様のお父上の友人の牛太郎ですっ」

「うとをもうつな! ぬちは茶々たちをたらいにきたぬつっとぢゃろう!」

「これ、茶々」

 血相を変えている茶々を市が抱き寄せようとするが、茶々は小さな手を振り回していやいやすると、転がっていたお手玉を再度牛太郎に投げつけてくる。

「ぬつっとはててけ!」

 牛太郎は頭を抱えながら、子供に向かって真面目に訴える。

「な、なんで、あっしが! 盗人だったら、そこの女だってそうじゃありませんか!」

「さなはかわいいからぬつっとぢゃない! ぬちはみにくいからぬつっとぢゃ!」

「そんな!」

 お手玉を投げ尽くした茶々は牛太郎に駆け寄ってくると、牛太郎の頭を小さい手で何度も叩いてきた。

「堪忍してください、姫様!」

「これ、茶々! やめんか!」

 備前守が茶々を引き剥がして、牛太郎はようやく解放された。


「勝手な真似しやがって。どうしてくれんだ。あ? 忍びから足を洗って、次は吉田早之介をやめて、今度はさゆりんをやめて市様の侍女か? そんなでたらめな物語がまかり通るわけねえだろうが!」

「お市様もおやかた様も了承してくださったんやからええやないか」

「お、おやかた様だと......?」

「そや。私は浅井の人間や」

「ふざけんなっ! 何を滅茶苦茶なことを言ってやがるんだっ! そんなこと許されるはずがねえだろっ!」

「誰が反対するんや。あんただけやないか」

「当然だろ! お前の雇い主はおれだぞ!」

「はあ? 私はあんたの家来をやめたはずやけど。高槻で言っていたやないか。いくさも調略もせんて。ただの女やって」

「そういう意味で言ったんじゃない!」

「じゃあ、なんなんや。どういう意味なんや。私はあんたのなんなんや」

「こ、心の恋人だ......」

「あほくさ」

「す、好きだって言ったじゃんか、おれのこと!」

「何を言ってんの? 夢でも見ておったんか?」

「い、言わせておけば、こ、この野郎っ!」

「やめんか!」

「何がやめろだ、この野郎。そうやって綺麗につくろっているのだって、おれを誘惑するつもりだからだろ」

「いやっ。やめてっ」

「うっせえ。どうせ、いやよいやよもいいのくせに。本当はこうしたかったんだろ、んー? くんくん」

「やめいって言っているやろうがっ!」

「い、痛ててっ! や、やめろっ!」

「ここであんたの選択肢は三つや。このまま腕をへし折られても私を抱こうとするか、それとも騒ぎ立てられて城内の兵に捕まって、おやかた様の計らいで小谷から解放されたはええけど、このことを知った岐阜の奥方に殺されるのがええか、それとも素直に私の言うこと聞くか。どれか一つや」

「き、聞きます」

「ほんまやな」

「いてててっ! 聞きます! 絶対に聞きますっ! 是非とも聞かせてください!」

 腕ひしぎ十字固めから逃れられた牛太郎は、しらりとした顔で衣服の襟を正すさゆりを、肩でぜえぜえと息を切らせながら睨みつける。

「てかよ、お前が来たんだったら、最初からおれはいらなかったんじゃねえのか」

「さあな」

「さあなも何も、言っていたじゃんか。さゆりんがいれば安心してうんたらかんたらって。だったらさっさと連れ出せよ」

「お市様は出ていくと言ってないやろ」

「むっ」

「あんたが命じられたのは娘たちじゃなくて、お市様やろ」

「じゃ、市様も連れ出せ」

「それは無理な話や」

「なんでだよ」

「惚れておるからや。おやかた様に」


 浅井備前守長政はすべてが備わっている最高の男だと牛太郎も思う。ただ、彼は不幸だったのだ。

 金ヶ崎の戦いで備前守が寝返る前、上総介は備前守に全幅の信頼を置いていた。

 浅井は裏切る。

 と、牛太郎が忠告したにも関わらず、上総介は笑い飛ばした。

 どうして新九郎が俺に背く。

 つまり、上総介がそこまで愛すほど、備前守にはそうした気配が微塵も感じられない健康的な好青年であった。

 備前守は不幸な男だ。浅井の裏切りの最大の要因は、義兄の上総介が浅井との約束を反故にして、浅井と古くからの盟友である朝倉領に侵攻したことであった。

 あのとき、備前守は義兄の上総介に付こうとしていたらしい。だが、隠居した父の下野守久政や古い重臣たちが、畿内を蹂躙する綺羅星大名の上総介をさほど好んでいなかった。

 折しも、将軍と上総介の仲が悪くなり始めたときでもあった。

 備前守は古い人間たちの憤りを抑えきれず、渋々、金ヶ崎に向けて出兵してしまった。

 もしも、あのとき、上総介が和をもって貴しとしていたら、備前守は今頃、徳川三河守のような飼い犬ではなく、上総介の右腕だったかもしれない。

「金ヶ崎に向けて兵を出したときから、こうなることはわかっていたことだ」

 備前守は自嘲するような笑みを浮かべる。

「わしだけではなく、市も」

 牛太郎は視線を伏せてしまう。金ヶ崎の戦いから大きく変貌した上総介だが、とどのつまり、上総介の異常なまでの激しさは傲慢なだけなのではないかと、達観してしまっている備前守を前にして牛太郎は感じ入ってしまう。

 今までの虐殺、焼き討ち、どれも織田の天下布武を成し遂げるために必要な悪なのだと言い聞かせようとしてきた。しかし、それは正論ではなかったようだ。

 魔王とは、その名の通り、巨大な利己主義者らしい。

「こうなることはわかってもいたが、浅井の当主である以上、戦わなければならなかった。だから、わしは考え方を変えるようにした。義兄上に勝負を挑んだのだと。尾張の天才にわしは勝つのだと」

 ただな、と、備前守はにこりと頬を崩し、牛太郎を澄んだ眼差しで眺めてきた。

「やはりかなわなかった。武田殿が撤退されるまでの間、義兄上の耐えようは強靭であり、撤退されてからの動き方は目を見張るほど鮮やかであった。半年もしない間に、もう畿内を制圧せんとしている」

「恨んでいないんですか」

 一回りも年上の牛太郎が馬鹿みたいなことを訊ねると、備前守はあっはっはと笑い上げた。

「それは恨んでおるさ。この時代をな」

「時代をスか」

「左様。だが、この時代でなければ得られなかったものもあった。市も子供たちも、それに浅井新九郎という男も、この時代であればこそ得られた。ゆえに恨みはすれこそ、不満はない」

「た、例えばなんですが」

「なんであろう」

「もし、あっしが手柄欲しさに長政様の首を取ろうとしたら、くれますか」

「やらんよ」

 備前守はにんまりと笑っていた。

「簗田殿、市と子供たちを頼んだぞ」

 浅井家は風前のともし火だ。この国の中で虫けら同然でしかなくなってしまっている。ただ、浅井備前守長政という男以上の男がこの国にいるだろうか、牛太郎は廊下を行く中で考えた。

 牛太郎は数々の戦場を見てきている。存亡を賭けたいくさ場で、大きな華を開かせた男もいれば、鮮やかな散り花を咲かせた男もいた。

 備前守がその男たちのどれとも違うのは、破滅を迎えるだけの長い時間の中で、戦国の男としての意地で反抗を続けながらも、一方ですべてを許し、醜い真似もせずに男として家族を愛し、人間として生きた喜びを実感している。

 これに惚れない女がいないわけない。

「もしかして、お前もそのくちか」

 と、若干の嫉妬もこめてさゆりを睨みつける。

「何がや」

「いや、いいから、とっとと通せ」

 さゆりは首を傾げると、燭台の火がゆらめく障子戸の向こうに声をかけた。

「お市様。織田の盗人が見えられました」

 くすくすと笑い声が聞こえてくる。牛太郎は一度、拳を構えて殴る真似をしたが、逆にさゆりに殴る真似をされて腰を怯ませた。

「どうぞ、お入りください」

 さゆりがそろそろと障子戸を開けていき、牛太郎はその場に手をつく。

「夜なんかに来て、はしたない真似をしてすいません」

「いいえ。さ、どうぞ、中へ」

「し、失礼します」

 居室の中へ入ると、さゆりがするすると障子戸を閉めていった。

 二人きりの状況にあがってしまっている牛太郎をよそに、市は針仕事をしている。

「ご、御自分でおやりになるんスか。その、ぬ、縫い物を」

「ややこのべべでございますわ。母親らしいことをしてあげたくなったのですが、何をすればわからなかったので、こうしてべべを縫っているのです」

 邪推かもしれないが、それはつまり、離れゆく子にせめてもの遺品を残したいということなのだろうか。

「わらわを口説きに参ったのでしょう?」

「えっ!」

 牛太郎はあわててかぶりを振った。

「そ、そんな、滅相もない! お、お市様を、く、く、口説くだなんて、そんなこと!」

「違いますって、簗田殿」

 目尻を緩ませて、牛太郎を柔らかく眺めてくる市。不思議と、この女性に妖艶さは皆無であった。だが、美しい。大袈裟に例えれば、菩薩のようである。

「わらわを説得しに参ったのでしょう?」

「あ、は、はい」

「梓殿とは円満なのですか?」

「えっ?」

「あ・ず・さ・どの」

 牛太郎は近頃すっかり必需品の手拭いで額を拭う。少女のころから知っている市なのに、まともに目を見られないほど舞い上がってしまっている。

「あ、は、あ、あー、はい。なんとか、まあ、喧嘩したり、仲が良くなったり」

「ふふ。梓殿がまさか簗田殿の奥様になろうだなんて、誰が思ったでしょうね」

「あ、あ、いや、市様はあずにゃ、あ、いや、梓ど、いや、あ、あ、梓を存じているのですか」

 というのも、市が備前守に嫁いだのは織田家の美濃攻めの前で、牛太郎と梓が知り合ったのは岐阜の城下である。そもそも、梓を娶ったことすら知らないと思っていた。

「もちろん。梓殿は尾張中の女の憧れでしたわ。いいえ、今の世で、自分の生き方を貫き通している女性は梓殿ぐらいでしょう」

 雲上人の市に女房をべた褒めされて悪い気のしない牛太郎は、頭をぽりぽりとかいた。そんな梓に惚れられているのだから、まるで自分が褒められているようだった。

 とはいえ、市の言う、自分を貫き通す女性が、この戦国の世で果たして正しいのかどうか、疑問でもある。いや、だからこそ、牛太郎と一緒になる前の梓は、織田家中の男たちに厄介な女と見られていたのだろう。

「殿方にも生きざまがあるように、女にも生きざまがありまする。きっと梓殿も、同じ立場なら今のわらわと同じ道を選んでくれるはずです」

 牛太郎は市の真意を聞いてはいない。しかし、市は暗に言っていた。説得は聞かないと。

「多分、そうッスね」

 しみじみと言いながら、やめようと思った。いくら、自分みたいな人間が言ったところで無駄だろう。

「もし、長政殿があっしで、市様が梓殿だったら、梓殿はあっしと一緒に死ぬって言うでしょうね」

 牛太郎は脱力してしまって、長い吐息をつく。

「そうしたら、きっとあっしも止めないッス。だって、梓殿がそう言ってくれたら嬉しいですもん」

 ようやくわかった。市に対して備前守が強く出ないのを。

 一人で死ぬのは寂しい。だから、一人で死ぬなら誰かと死にたい。そして、それが愛している者であったら、なおさら、その人間と一緒に死にたい。

 だが、牛太郎たちは、彼ら夫妻と決定的に違う点がある。

 子供がいない。備前守と市にはいる。

 それでいいのか。

 とは、口に出さなかった。言わなくても、母親の市はわかっているのだから。わかっていてもなお、備前守との死を選びたがっているのだから。

「簗田殿には感謝しております。この浅井家に嫁がせてもらって」

 牛太郎は何も答えられない。市は、子供たちとともに生き残っても、思い馳せて死んだとしても、どちらにしても不幸すぎる。選択肢はない。市自身が選択するしかない。

 それでも、織田家臣、簗田左衛門尉として、牛太郎は市を力ずくでも小谷城から引きずりおろさなければならなかった。

「でも、市様」

 なので、結局は市の胸を一刺しに貫くしかなかった。

「小さい子供に絶望はありません。希望もありません。あるのは親のいる幸せと、親のいない不幸だけです」

 牛太郎の言葉に市は笑みを消し、夢のない瞳でただうつむく。牛太郎は頭を下げると、居室を去った。

 さゆりには目もくれず、牛太郎はずかずかと廊下を行く。

 牛太郎に実子はいない。それでも、あんなことが言えてしまうのは、人の弱味を見つけられているということだった。

 謀略を操ってきたからこそ、怪物たちとの交渉を乗り切ってきたからこそ、最後には市に鋭い刃を突きつけられたのであろう。

 だが、牛太郎は逃げるようにして足早に廊下を行く。視界の中のものは何も目に入らず。

 唇を噛み締めずにはいられなかった。


 左衛門太郎広正は遠い昔のときの自分を見ていた。

 雪原と化した西美濃の光景。雪を降らせていた雲が去り、朝空は抜けるように青く、白銀の山々が陽光を浴びて静かに連なっている。

 人の姿はこの者だけしかない。

 彼はうつむきながらただただ足を運ばせていき、雪をざくざくと踏みしめていき、あてもなく、あてもなく、歩いていた。

 着物は返り血で染められている。

 十四歳。

「どうして、お前はそこまで躍起になっているんだ」

 と、太郎は彼に問いかけるが、少年の耳には何も届かなかったようで、うつむいたまま歩いていく。

 哀れだ。太郎は唇を噛み締め、押し黙って彼についていく。

 少年は何を求め、何を得るためにそうしているのだろう。この先に待っているものなど大したものではないのに。

 銀世界の広大な静寂は、少年の姿をともし火のように小さくさせていた。

 どのぐらい歩いただろうか、やがて、少年は老婆とすれ違った。老婆はずっと腰を曲げて歩いてきたので、少年には気付かないでいた。何事かをぶつぶつと呟いてもいる。

『す、すまぬが』

 少年が老婆に声をかけた。少年の声は寒さから、声までかじかんでいた。

『ぼ、菩提山とはどこにあるのか』

 老婆は始めて顔を上げたが、少年の姿を確かめたなり、腰を抜かして尻もちをついてしまう。

『お、お助け、お助けくだせえ』

 老婆は肩をひどく震わせながら、少年に向けて両手を合わせ、お助けくだせえ、お助けくだせえ、と、ひたすら命乞いしてくる。

『ち、違う。おれは違う。菩提山を教えてくれ』

『ぼ、菩提山は、あ、あの、あの山でございます』

 老婆は顔を伏せたまま、連なる山々の一つを指差した。

『ありがとう』

『鬼じゃ。鬼じゃ。お助けくだせえ。お助けくだせえ』

 少年は雪原を行く。嗚咽しながら。

『あいり殿......。あいり殿......』

「どうして泣くんだ」

 太郎の声を無視して、少年は頬をぬぐいぬぐい足を進める。

「卑下することはないだろう。お前は立派に生きているじゃないか」

 すると、少年はぴたりと足を止め、血塗られた顔を振り向けてくると、充血しきった眼で太郎を睨みつけてきた。

「貴方様に何がわかります」

 少年の眼差しは飢えていた。すべてに。

「貴方様に拙者の何がわかりますかっ!」

 少年はかつての自分。簗田姓も名乗っていなければ、ただの小姓の太郎だった。

 あれから何年経ったのだろうか。左衛門太郎広正は今、漆黒の鎧兜に身を固め、槍を小脇にたずさえ、黒毛の馬と共に山を駆け抜けていた。

 鬱蒼と茂る木々の葉から陽の光がこもれている。樹木の根が地上に張り出していて、先日の大雨がところどころに泥水の溜まりを残している。手綱を押し通しにされていきり立つ黒連雀はかまわず泥を跳ね飛ばし、それは馬上の太郎の顔にも、背中に指した織田永楽銭の黄旗も汚した。

 小怪を虎か豹のように突き進んでいく太郎と黒連雀に簗田勢の兵卒は付いていくのがやっとの状態であった。

 それでも構わず太郎は手綱を押す。黒連雀は太郎に応えるようにしなやかに四股を躍動させる。

 進めど進めど小怪の先の木漏れ日は進む先で、進めば進むほど山が彼らをさ迷わせるかのように木々の葉と草が更に視界に茂っていく。

 ただし、道はあった。

 ここを行けば、敦賀へと抜ける。

「クロ」

 馬上に揺れながら太郎は語りかける。

「お前ならわかってくれるだろ。今の俺の気持ちを」

 織田の侍大将とは名ばかりの兵数、家格、そして、己。

「だから、なんだ。俺は昔から俺だ」

 小怪を抜けた。視界が広がったそこは、遥か先に敦賀湾が望める山の先端であった。

 そして、三つ盛木瓜の紋を旗指し物にした朝倉勢百人余が行く手を阻むようにして構えていた。

 朝倉勢の退却は混乱を極めているにも関わらず、しんがりを務めているとは、誰に命じられたのでもなく、自らの意思なのだろう。

 将校は気概のある者、部隊は強靭であると見られた。

 彼らは太郎と黒連雀を待ち構えていたかのように、槍を並べて一斉に駆け出してきた。

 真夏の日差しを漆黒の鎧兜で跳ね返しながら、太郎は黒連雀の手綱を引き絞って、足を止めた。首を振り乱して暴れる黒連雀を手綱で操りながら、波濤のように襲いかかって来る朝倉勢をたった一人で見つめた。

「一兵たりとも通させるなあっ!」

 馬上の将校の檄が飛んでいる。

「名のある奴だ! 手柄を立てろっ!」

 突進してくる兵卒が口端に泡を立てながら叫んでいる。太郎はひどく冷たい眼差しを押し寄せてくる波に注ぎ込みながら呟いた。

「手柄などない」

 瞬間、太郎の背後から簗田勢が一気に飛び出てき、太郎は槍を朝倉勢目掛けて振り落とした。

「者ども! 殺せえっ!」

 黒連雀の脇腹を蹴飛ばす。簗田勢の兵卒たちと共に駆け抜けながら、

「精神一到! 恩賞、勲功などは無用! 殺戮あるのみだ!」

 叫び、瞳孔を広げた。

「相手を殺すことだけを思い、念じろっ! 我らは金ヶ崎からの修羅だっ!」

「佐久間玄蕃允が相手してくれるわっ!」

 突進してくる朝倉勢に馬上から一番槍を振り入れたのは玄蕃允であった。彼の槍は最初の敵兵の首を一瞬で掻き切り、続けざまに二人目を突き殺した。

 さらに、玄蕃允に続いて簗田勢兵卒が槍を突き出していき、そこへ黒連雀が突っ込んでいって、数人を弾き飛ばした。太郎の振り抜いた槍が敵兵を見事に一閃し、返り血が頭上に降った。

 血管を浮き上がらせる黒毛の馬上から、血気凄まじさに怯えている敵兵を睨み下ろした。

「どうした、命乞いしてみろ」

 そう唸り上げた太郎は、有無も言わせぬままに槍先を敵兵の顔面に突き刺す。そして、あろうことか、串刺しにしたまま死体を持ち上げ、また再び別の敵兵を睨み下ろす。

「俺は簗田左衛門太郎だ」

 太郎は槍を引き抜くと、間髪入れずに黒連雀の首を押した。黒連雀が前脚を振り上げて、敵兵を踏み砕いてしまい、そうしている間に、一人、また斬った。

「どうしたっ!」

 唖然としてしまっている簗田勢に向かって太郎は吠え上げた。

「我らは戦場の鬼ぞ!」



 織田軍の追撃戦は苛烈を極めた。

 余呉を抜けて、敦賀へと誘われる刀根坂で朝倉勢に追いつくと、上総介本隊を加えたうえでの織田軍の至上課題は敵の殲滅であった。

 目についた者には一切の逃亡を許さず、その首をことごとく跳ねていき、勇敢にも立ち向かってくる部隊は芥子粒のごとく踏み潰した。

 絶命した兵卒は三千、将校は二十以上。

 それでも上総介は猶予を与えない。敦賀へと侵入すると、待ち構えている敵部隊を全軍をもって撃破していき、その足を止めることもなく木ノ目峠を越えると、朝倉本城のある一乗谷へ突入した。

 北近江から一乗谷までの追撃戦はわずか五日。二万の軍勢はもはや離散していた。

「若」

 簗田勢の兵卒たちがかかげるたいまつが黒煙を立ち昇らせる中、新七郎が言った。

「大勢は決しております。ご慈悲を」

 馬上の太郎は新七郎を睨み据えた。

「慈悲だと?」

 この五日間で、太郎の眼差しは血に飢えた獣のように研ぎ澄まされていた。求めようとしているものも、得ようとしているものも、そこには何もない。追撃と殺戮を繰り返してきた男の目は破壊への衝動を抑えられていなかった。

「新七。お前に何がわかる。これはおやかた様の命だ」

 そう言うと、太郎は軍勢に進軍を命じた。

「女子供、残らず叩き斬れっ! 一乗谷を根絶やしにしろっ!」



 北近江では二万人を引き連れていた朝倉軍であったが、目も当てられない退却戦の有様の末、左衛門督義景を護る兵卒の数はわずか五百人であった。

 左衛門督は、従兄弟で朝倉重臣の朝倉孫八郎景鏡の助言で一乗谷城を捨て、孫八郎景鏡の領地である大野郡に逃亡する。

 このとき、火あぶりにされて追い出される鼠のごとく、朝倉勢に猶予があまりにもなさすぎたため、女たちには満足に輿などを与えられず、ほとんどが着の身着のまま裸足で城を脱出するという惨状だった。

 左衛門督の一乗谷城の放棄を知った上総介は、柴田勢(簗田勢)、西美濃三人衆の部隊に左衛門督の追尾をさせた。

 さらに、北近江戦線にも兵を出していた平泉寺を羽柴藤吉郎が調略し、所領安堵と引き換えに織田方へ降伏させて、左衛門督の逃げ場を失わせる。

 左衛門督の所在を追っている間にも、織田軍は一乗谷を焼き払い続け、根絶やしの言葉がまこと当てはまるほどの虐殺劇を繰り広げる。

 北陸に繁栄を築いた一乗谷という町は消滅した。

 窮地に立たされた左衛門督義景であったが、それでもなお、抵抗を夢見ていた。南近江の六角勢のように、北陸の一向一揆衆と組み、辛抱すれば、やがて好機は訪れるであろうと自らを励ました。

 しかし、大野郡に移った左衛門督を待ち受けていたのは、孫八郎義鏡の裏切りであった。朝倉の終焉を絶対視した孫八郎は左衛門督の宿所を取り囲むと、左衛門督に忠誠を誓う男たちの最後の抵抗を受けながらも、最後にはかつての主君を自害に追い込ませた。

 孫八郎は左衛門督の首を携え、上総介に降伏を申し入れた。

「しかしながら、上総介殿」

 孫八郎は上総介の前に平伏したまま瞼を押し瞑り、嘆願した。

「かつての主君の首は携えたものの、左衛門督の子や女房など、これらの者には非はありませぬ。どうか、彼らの命だけはお許しくだされ」

 主君を裏切った孫八郎のせめてもの罪滅ぼしだったのであろう。上総介は冷たく研ぎ澄まされた眼差しでしばらくの間孫八郎と左衛門督の生首を眺めていたが、

「あいわかった」

 と、孫八郎の条件を受け入れた。

 だが、その後、陽が暮れると、上総介は一乗谷に置いた本陣に丹羽五郎左衛門長秀、それに、左衛門太郎を呼び出した。

「連中を一人残らず殺せ」

「しかし、おやかた様」

 と、五郎左が戸惑った。

「降伏の条件は連中の命の保証であったはずでは。ここで約束を反故にしてしまったら、今後の領土の平定に響きまする」

「殺せと言ったら殺せっ! 俺に刃向かうか、五郎左っ!」

「しかし、おやかた様っ!」

 五郎左が逆らうことは滅多にない。ただ、彼は今の軍事よりも将来の国造りであったのだろう。上総介が家督を継ぐ前は親友同然の仲であったので、五郎左はわりと物を申せるほうだった。

「だったら、テメーは岐阜に戻れ。できねえなら帰れ」

「そのようなわけには行きませぬ! 拙者は織田のため、おやかた様のために――」

「こましゃくれ」

 と、上総介は五郎左を無視して、太郎に目を向けた。

「お前はやれるな?」

「御意」

 太郎はそれだけを言うと、甲冑を鳴らしながら腰を上げた。かがり火が照らすその横顔は感情がない。

 柴田勢の傘下にある太郎を上総介が直々に呼び出したのは、おそらく、刀根坂から一乗谷にかけての非情な活躍からであった。

「太郎!」

 と、五郎左が呼びかけるが、太郎はただ五郎左を見下ろして、

「禍根は残してはなりませぬ。朝倉の滅亡の原因は金ヶ崎にて我らを生き残らせてしまったためです」

「そのようなこと、お主の父が喜ぶと思ってか」

「拙者は簗田左衛門尉の子である前に、織田の武将です」

 太郎は踵をくるりと返すと、兜を小脇に抱えたまま去っていく。

「倅はああ言っているが、テメーはどうなんだ。あ? 五郎左。丹羽五郎左衛門とは織田の武将か、それともこましゃくれの親父なのか。どっちだ」

 すると、五郎左はあろうことか上総介を睨みつけた。上総介はにやにやと笑っている。

「おやかた様。そのようなことは口にしないでくだされ」

「なら、やれ」

「おやかた様は変わられました」

「お前が変わっていないということだ。いつまでも尾張の地侍でいたいのなら、丹羽の家督をこましゃくれに継がせてやってもいいぞ」

 五郎左は腰を重々しく上げると、上総介に一礼して、その前を去った。

 翌日、丹羽五郎左衛門の部隊と簗田勢は、岐阜に送るという名目で列を成して進んでいた朝倉の女子供たちを急襲し、皆殺しにした。


 上総介は一部の軍勢を越前に残し、北近江へと馬首を返した。

 一日で虎御前山の砦に入ると、すぐさま軍議を開き、小谷城の全軍包囲を決定する。

 そのうえで、上総介は、この北近江に執念を燃やしている男に命じた。

「サル、お前が攻城の先陣を切れ」

 小谷城本丸は備前守長政が立てこもっており、父親の下野守久政が小丸に立てこもっている。それを繋ぐ京極丸の攻め落とし、小谷城郭の分断を藤吉郎に任せた。

「お任せくださりゃれえ!」

 諸将の憧憬と嫉妬の眼差しを交互に浴びながら大声を張り上げた藤吉郎だったが、この調子者の野心というのは立身への飽くなき情熱によって支えられていて、本陣から自部隊に戻るかたわら、命じられた以上の成果がどこかにないものかと考えた。

 そうして、すぐに思いついた。

「お市様を助けるだぎゃあ」

 これを聞いた竹中半兵衛と羽柴小一郎は呆れ顔であった。

「助けると簡単に言っても、どうやって小谷城から連れ戻すのです」

 小一郎が言うと、半兵衛が重ねた。

「明朝には京極丸の攻城を申し渡されたというのに、お市様はその攻撃先におられるのですよ。そもそも、お市様にそうした御心があれば、とっくに小谷から下りてきているはずでしょう」

「なんだ、おみゃあ。無理だって言うのきゃあ?」

「左様」

「おみゃあな、無理なものをやってこそ、初めて功が立つもんだぎゃあろ。それににゃ、おやかた様がもっとも願っているのは北近江の地でもなく、備前守の首でもにゃあ。お市様だぎゃ」

「だからといって、兄上の言うことはいつも無理難題すぎます!」

「うつけだぎゃあな、おみゃあは」

 藤吉郎は耳をほじくり、取り出した耳糞を小一郎に吹きかける。

「あきらめたらそこでいくさ終了だぎゃ。だいたいにゃ、最近の半兵衛はすぐに無理だ無理だと騒ぎ立てているぎゃあな。天下の参謀にゃんて言われていた美濃のころはどうしたんだぎゃあにゃあ」

「拙者は天下の参謀などと自らを思ったことなどありませぬ。拙者は殿の参謀にすぎませぬ」

「おりゃあの参謀ならどうにかせんかえ!」

 小一郎と半兵衛は揃って溜め息をついた。

「それににゃ、おりゃあはどうも気になることが一つあるだぎゃ。おみゃあらにはわからんだろうけどにゃ、これは大出世者の勘というやつでにゃ、気になることが一つあるだぎゃ」

「なんなんですか」

「牛殿だぎゃ。淀城以来、あの男の音沙汰を聞かにゃあけども、もしかしたら、あの男はひそかに北近江にいるんでにゃあか。だいたい、あいつは昔からおりゃあを出し抜く傾向のある男だぎゃ」

「考えすぎですよ、兄上」

「いんや、あいつは北近江にいるだぎゃ。それで、ひそかにおりゃあを出し抜いて功を立てようとしているだぎゃ」

「勘で人の匂いがわかれば苦労はしませんがね」

「だったらいいだぎゃっ! おみゃあらには任せられにゃあっ! おりゃあが勝手に探りを掛けるだぎゃあっ!」

 藤吉郎は馬鹿みたいな金切り声を放つと床几を立った。ずかずかと陣を出ようとする藤吉郎を小一郎が呼び止める。

「どこに行くのです!」

「於松のところだぎゃ。あのくせ者の爺さんならなんか知っているだぎゃ」

 そう言いながら藤吉郎は二人に振り返り、睨みを与える。

「攻城はおみゃあらが勝手にやるだぎゃ。おりゃあはもうやる気がなくなったぎゃ。でも、今のうちだぎゃあ、おりゃあの気持ちを変えられるのは」

 小一郎と半兵衛は何も言わず、ただ藤吉郎を見つめるだけだった。

「もういいだぎゃ!」

 藤吉郎は地団駄を踏みながら篠木於松のところへ出ていった。



 物見により、朝倉家の滅亡は小谷城にも届かれ、もちろん、牛太郎の知るところにもなった。

「簗田殿」

 藤掛善右衛門が眉間に皺を寄せ、頬に汗を伝わせながらにじり寄ってくる。

「もはや猶予はございませぬ。今すぐにでもお市様を説得してくだされ」

 牛太郎は両の手を両の袖に入れて、目を瞑るだけである。

 市に小谷城脱出を促して以来、彼女の返答を聞くどころか、牛太郎は居室にこもりきりで何もしていない。

 手を付けたくなかった。

 むしろ、牛太郎は市に関わることを恐れている。

 牛太郎は後世からやって来た人間であった。幸か不幸か、史実の知識が乏しいがために歴史を大きく操作することができない。そのため、この時代の人々と何ら変わることなく、同じようにもがき苦しみ、同じように喜びを共有していたりもする。

 しかし、牛太郎は後世からの知識を活かし、それを意識して歴史を構築してしまったことが二つだけある。

 一つは桶狭間の戦い。もう一つは市の婚姻であった。

 どちらも上総介に進言したのは他ならぬ牛太郎であり、この二つこそ歴史の転換を決定づけた一大事であったと言っても過言ではない。

 桶狭間はいい。今川義元という男の命を奪うことになってしまったが、これは勝者と敗者が確定される闘争の結果である。牛太郎は今川義元という男を一目見ただけであったが、彼は戦国武将であった。野心も抱いていれば、死も覚悟している戦国の男であった。

 桶狭間は牛太郎の助言によって時代が引き寄せられたとしても、それは闘争の結果なのである。

 だが、市のことは次元が違った。

 市と備前守長政の婚姻が、たとえ、時代の宿命であったとしても、これを決定づけたのは牛太郎であり、それはつまり、市と備前守の人生を牛太郎が決めてしまったことに繋がってくる。

 もしも、あのとき進言していなければ――。

 時代というものを、たった一人の人間が操ってしまってよいものなのだろうか。

 仮に、人間をこの地上に産み出したものが神だったとしても、時代を構築していくのは神ではない。一人一人の人生が積み重なって出来上がった産物が時代である。

 地上を支配した王だけでは時代は築けない。道端で野垂れ死んでいった者もいたから、今の時代がある。誰かの人生が欠けてしまったら、今はない。この世にあまねく多くの動物と、草木と、人々があったから、今、世界には昼と夜がある。

 だから、牛太郎はなんとなく思っていた。時代の重さと一人の人生の重さは等しいと。

 大袈裟に言えば、時代は牛太郎の次の一手を待っている。市を生かすか、死なすか、それだけで今後の歴史は大きく変わっていく。

 だが、それでいいのか。市の人生を決めるのは市でなければならないのではないだろうか。たとえ、彼女が俗に言う戦国の女だとしても、一人の男の操作的な行動によって彼女の人生を決めてしまうのは、あんまりではないか、いや、人間の尊厳への冒涜ではないのか。

 そもそも、時代を、そして人々の人生を操作するのは異常なことだ。本来ならこの世に存在しない技術だ。神にしか成せない業なのだ。

 後世から来たという理由だけで神になってしまえるほど、牛太郎はエゴイストになれなかった。彼は数々の死を目の当たりにしてきたし、一人一人の人生の尊さも感じてきたから。

 市の人生は市自身が決めてほしい。牛太郎のせめてもの罪滅ぼしであった。

「あきらめたんか」

 と、さゆりが言う。

「まあ、私はお市様はお市様でいてほしいわ。残していく姫様たちが不憫やけど、惚れた男と最後を供にしてもらいたい」

「お前は――」

 牛太郎はそのあとを言い淀み、吐息を一つつくと、また言葉を直した。

「さゆりんらしくないな」

「何がや」

「いや、さゆりんはもっと冷徹だっただろ。人の生き死にだとか、感情だとかより、自分たちにどんな利益があるかで判断するような人間だっただろうが」

 さゆりは切れ上がった目でしばし覇気を失いかけている牛太郎を見つめていた。そうして、重々しく唇を開いた。

「私はお市様に託しているだけや」

「何をだよ」

 やたらむきになっているさゆりに牛太郎が微笑すると、さゆりは恨めしそうな眼差しを牛太郎に送ってきた。

「あんたみたいなグズにはわからんわ。女の気持ちなんてな」

 さゆりはあからさまな溜め息をつくと腰を上げ、去り際に言葉を残していった。

「私はお市様の気丈さに女として惚れておる。あんたの家来でもなんでもなくなった今の私の生きがいは、あの人の姫様たちや。姫様たちは私を好いてくれておる」

 牛太郎は別段、さゆりに何の言葉をかけるでもなく、去っていく彼女を見送った。

 それでいい。忍びくずれでしかなかったさゆりが、新たな生きがいを見つけてくれたならば。

 抱かせてもらえないのが口惜しいけれど。

「ししし」

 戸の向こうから不気味な笑い声が聞こえてきて、牛太郎は眉をひそめた。戸がするりと開き、現れたのは猿みたいにしわくちゃで小柄な篠木於松であった。

「いい女じゃないですか、旦那」

 於松は躊躇することもなく腰を曲げながらも居室に入ってきて、部屋の中をきょろきょろと見まわしたあと、牛太郎の前に緩慢な動作で座り込んだ。

「なんだよ、ジジイ。盗み聞きしやがって。虎御前山に戻ったんじゃなかったのかよ」

「戻りましたけどね、また、忍びこんじまったわけです」

 三本しかない歯を見せて笑いながら、首筋をぽりぽりとかき、そこからはシラミだか皮膚かぶれだか正体不明の白い粉がぼろぼろと落ちている。

「ありゃあ、くのいちでしょ、旦那」

 牛太郎は黙りこんで於松を見据えた。於松は織田方の何者かに違いないのだが、怪しすぎて容易に言葉を発せられなかった。

「くのいちに惚れられるとは、噂の愚将とは程遠い御仁ですな」

「何の用で来たんだ。言っとくけどな、おれはお前みたいな汚らしくて怪しい奴は大嫌いなんだからな」

「へっへっへ。おれのことを好いている御方なんていませんよ。ししし」

「どうでもいいわ。で、何の用だ」

「へえ。まあね、羽柴藤吉郎様からのことづてですわ」

「なんだと?」

「明朝、京極丸を攻撃することが決まりましてね。羽柴様いわく、お市様を安全なところに避難させられよとのことですわ」

「なんなんだよ、それ。なんで、藤吉郎殿がおれがここにいることを知っているんだ」

「あっしが教えたんで。その代わり、褒美に一両頂きました。ししし」

「てっめー」

「そんで、本丸を攻城するときは羽柴様がお市様のお迎えにあがるから、簗田様はお市様を火の手が上がる前にお助けしなされ、とのことです」

「ふざけんなっ! そんなことできるならとっくにしているって言っておけっ!」

「いやあ、でもね、簗田様」

 於松はしわくちゃの顔でへらへらと笑いながら言った。

「羽柴様のそれって、おやかた様の命を受けてのことなんですわ」

 牛太郎は返す言葉を失くした。


 小谷城潜伏は本来ならば密命である。さらには、上総介の指令ではなくて、彼の弟の孫八郎信包からの嘆願であった。

 だが、本当に市の救出を上総介が藤吉郎に命じたのであれば、織田軍の公的な指令に違いなかった。

 市を小谷城から引きずりおろさなければ、藤吉郎はおろか、牛太郎も許されないだろう。なにせ、あの第六天魔王は虐殺にはためらいも見せないくせに、家族への情愛は人一倍強い。

 市の人生がどうのこうのというより、牛太郎は、自身の今後も大きく左右される瀬戸際に立たされた。

 腰を針金のように曲げながらにやにやと笑う於松を前に、牛太郎は表情を苦渋に満たしながら、黙りこんで悩み続けた。

 どうすればいいんだ。

 根底には人間としての苦しみがあるが、それをさておいても、市を小谷城から退出させる手段がなかなか見当たらない。

 市が自発的に動いてくれれば、備前守も止めはしないだろう。だが、市がここに留まることを決心しているので、備前守も何も言わない。

 そもそも、自分ごときの説得で決心を翻すようなら、藤掛善右衛門あたりがとっくに市を岐阜に連れ戻していたはずじゃないか。

「どうします、旦那」

 於松が色褪せた瞳で牛太郎をじっとりと見つめてきた。

「どうしますも何も――」

 牛太郎が口を開いたそのときだった。突然、夜の静寂を切り裂くように砲声が鳴り響き、牛太郎の居室も若干揺れた。

「おいっ!」

 と、牛太郎は思わず立ち上がる。

「な、なんだ、今のは!」

「あれえ」

 於松は呆けた顔である。

 立て続けに銃声が聞こえてきた。

「おいっ! 攻撃は明日じゃなかったのかよっ!」

「あいやあ。あっしは確かに羽柴様から明日って聞いたんですけどねえ。気の短いおやかた様のことだから、攻城を早めたのかしらん」

「かしらんじゃねーよっ! クソジジイッ!」

 牛太郎はあわてて居室を飛び出した。廊下を突き進んで庭先に出てみると、太鼓と半鐘の音が夜の帳を打ち響かせている。兵卒たちの掛け声もかすかに聞こえてきた。

 攻防は牛太郎のいる本丸と小丸の間を繋ぐ京極丸からであった。

 喚声の轟く闇の向こうを唖然と眺める牛太郎の後ろを、本丸に詰めている奉公人や女中たちが叫び声を上げながら右往左往に駆けていく。

「こりゃあ、明日の夜までには持たないかもしれませんなあ」

 いつのまにか於松が牛太郎の背後にいた。まったくもって他人事であった。

 もしかしたら、と、牛太郎は邪推した。上総介や藤吉郎は、於松を自分のところに寄越し、攻城は明日と伝えておいて、実はそれは浅井方を翻弄する策の一つだったのかもしれない、と。

 牛太郎は太ももをぐっと握った。悩む猶予はもうないのかもしれなかった。

 闇夜の砲声に阿鼻叫喚とする人々をくぐり抜けていきながら、牛太郎は市の居室に向かった。居室の前にはすでに兵卒たちが五、六人ばかり構えていた。

「なんなんだ、お前は! 奥方様に何の用だ! 持ち場に戻れ!」

 奉公人と思われたらしい。

「うるせえ! どけっ!」

 構わず障子戸に手を掛けた牛太郎だったが、兵卒たちに掴まれて引き戻されてしまう。牛太郎は負けじと兵卒たちの腕の中で暴れ倒し、

「お市様っ!」

 と、戸の向こうに呼びかけた。

「あっしです! 話を聞いてください!」

「無礼者っ!」

 と、牛太郎は兵卒たちに庭先へと放り投げられてしまう。それでも牛太郎は縁側に這いつくばっていき、上がり込もうとするが、今度は顔面を蹴飛ばされてしまった。

「下郎がっ! あまりしつこいと斬り捨てるぞっ!」

 兵卒が太刀を抜いてきて、牛太郎は尻ごみしたが、声だけ発した。

「お市様っ! どうか、考えを改めてくださいっ! 姫様たちに寂しい思いをさせないであげてくださいっ!」

「なんなんだ、貴様っ!」

「さては織田の間者だなっ!」

「お市様っ!」

 叫び続ける牛太郎に業を煮やした兵卒たちが襲いかかって来て、牛太郎は逃げた。庭先を裸足のままで駆けていったが、足を絡ませて転んでしまい、兵卒たちが迫ってくる。

「やめんかっ!」

 縁側から声がした。牛太郎も兵卒たちも声のしたほうに振り向くと、そこに立っていたのは二人の侍女を従えながら、腕に赤子を抱き、両脇に茶々と初を連れたさゆりだった。

「奉公人ごときに目を取られて奥方様の警護を怠るとは何事かっ!」

 茶々は小さな唇を押し込ませて牛太郎をじっと見つめてきていた。初はさゆりの足にしがみついて泣き声を上げていた。

「し、しかしっ!」

「今、敵がここに来たらどうするのだ! 奥方様を敵の手にかけるつもりかっ!」

 ただの侍女の言葉である。しかし、子供たちを従えながらそこに仁王立ちしているさゆりの気配は神々しくもあり、凄味もあった。まるで、市かのように、さゆりが姫たちの母親であるかのようなたたずまいであった。

 牛太郎はここぞとばかりにさゆりの足元へと這いつくばっていき、さゆりが声を放った。

「早く戻れっ!」

 兵卒たちは姫たちに刀を向けるわけには行かず、太刀を鞘に戻すと、渋々と持ち場に戻っていった。

 牛太郎は吐息を荒げながらさゆりを仰ぎ見た。

「なんで、お前がお姫様たちと一緒なんだ。お市様はどうしたんだ」

「お市様は部屋におられる。おやかた様と共に自害される。私らは姫様を連れて、おやかた様に最後のお別れや」

「ふざけんなっ! 何を勝手な真似していやがんだっ!」

 牛太郎は腰を上げると、口をへの字にしてむすくれている茶々を思わず抱き寄せた。

「こんな小さい子たちを親と離れ離れにするつもりか! せめてお母さんと一緒ぐらいにさせろよっ! お前は本当にそれでいいのかよっ!」

「それが戦国の定めや」

「何が定めだっ! そんなもん、おれが決めてやるわっ!」

 茶々が白い歯で唇を噛みしめながら、牛太郎を見上げてきていた。大嫌いな彼に抱かれても嫌がることもなく、ただ、一言、

「うちたろう」

 と、目を潤ませた。

「お姫様。あっしがなんとかしてみせますから。あっしがなんとかしてみせますから、いい子でいてください」

 そう言って、茶々を縁側に下ろすと、さゆりを睨みつけ、

「お前はお姫様たちと一緒に部屋に戻っていろ」

「どうするつもりや」

「どうもこうもねえ。おれが長政殿を討ち取ってこの戦争は終わりだ!」

 牛太郎は縁側に上がるとさゆりや茶々を振り切るようにして廊下を駆け抜け、騒乱している人々たちをくぐり抜け、あるいは突き飛ばしていきながら、備前守のいる居館へと向かった。

 大広間にはすでに陣幕が垂らされてあって、庭先にはかがり火がこうこうと燃やされていた。京極丸の戦線に対処しようとする将兵たちの怒号が飛び交っていて、牛太郎はそのどさくさに紛れこんで大広間の前へとやって来た。

「長政殿っ!」

 突然現れた奉公人風情の大男の怒鳴り声に、番をしている兵卒も、中に揃っていた将校も一斉に腰を上げた。

「なんだ、貴様っ!」

 すぐさま、牛太郎は兵卒たちに揉みくちゃにされるが、

「やめろ。その方は簗田左衛門尉殿だ」

「お、おやかた様っ!」

「どういうことですかっ!」

 備前守長政はゆっくりと腰を上げると、兜の下の端正な顔に涼しげな微笑を浮かべた。

「彼は俺の友人だ。姫たちのあとを任せるために俺が呼んだ」

「織田の者を城に呼び寄せていたとは、なにゆえ!」

「黙れっ! もはや雌雄は決しておる! それにこの方は織田方を城内に手引きするような無粋な真似をするような御仁ではないっ! 現に命をかえりみず、この場に姿を現しているだろうがっ!」

 身勝手な言葉にも聞こえなくなかったが、進退極まってしまっているせいか、将たちは取り立てて騒ぐこともなく黙りこんだ。

 沈黙の中、備前守は牛太郎にゆっくりと歩み寄り、兵卒たちに腕をほどかれて平伏する牛太郎に言った。

「市のことであろう。話を聞こうか」


 大広間は人払いされ、鎧兜に身を包んで床几に腰かける備前守と、その前に平伏する牛太郎二人きりとなった。

「前代未聞のことだ。城が攻められている最中で、敵方の将と二人きりになろうとは。いや、降伏の交渉の場であったら、おそらくこういう場になるのであろうな」

 牛太郎は視線を床に伏せたまま黙っていた。

「して、ついに市を説き伏せられたのかな」

「いえ」

「それでは何用であろう。別れの言葉でしょうかな」

「それとも違います」

 銃声、それに武者押しの声がかすかに耳に届いてくる中で、牛太郎はずっと顔を伏せたままでいる。

「長政殿にお願いがあります」

「なんでしょう」

「お市様を説得してください」

 沈黙が訪れた。

 牛太郎は備前守の顔色を伺わないまま、ひたすら彼の返事を待った。

 備前守の本音、それはおそらく、愛した女を織田に返したくない。金輪際、上総介の目に市を入れさせたくない。

 上総介に勝負を挑み、完膚無きまでに叩きのめされ、すべての一切を失おうとしている備前守。しかし、彼は唯一の、ささやかにして最大の抵抗を上総介にしようとしていた。

 市は返さない。

「説得しても聞かぬ。市にはさんざん言ってきたことだ」

「いいえ。あっしにはわかります。長政殿がお市様を手放したくないことを。長政殿がお市様に生きろと申されれば、お市様は聞きます。あっしにはわかります」

「簗田殿」

 長政は澄んだ声で言った。

「顔を上げてくだされ」

 牛太郎はしばらくの間、顔を伏せていた。

「簗田殿」

 と、促されて、牛太郎は仕方なく表を上げた。

 備前守は柔らかい眼差しで微笑んでいる。

「せめてもの反抗も、簗田殿は許してくださらぬか」

 屈託のない表情で備前守はそうこぼしたが、牛太郎は冷たい目でじっと見つめる。

「それならば」

 と、口を開くと、固唾をごくりと飲み込んでから、自らが発する次の言葉に覚悟を持った。

「あっしと共に落ち延びてください」

 牛太郎は自分で言って自分の言葉に震えてしまった。市も備前守も説き伏せられなければ、歴史は変わってしまう。それなら、どちらにせよ歴史が変わってしまうなら、備前守も市も生かして、歴史を変える。

「あのくのいちは変装の達人です。長政殿を生かすことぐらい、あっしら簗田の者どもにとっては訳ありません」

 自分のケツは自分で拭いてやる。おれがけじめを取って時代を動かしてやる。

 自然、彼の目はぎらついた。

「長政殿。あっしは友人と呼んでくれた人を見殺しにできません。だから、ひそかにこの小谷城を脱け出してください」

 備前守の顔に笑みはない。

「お願いですっ! あっしの心意気をどうか汲んでくださいっ!」

 牛太郎は額を床に擦りつけ、ひたすら叫んだ。

「あっしが長政殿を守りますっ! いつの日か、お市様やお姫様たちにまた会える日まで長政殿を守りますっ! お願いですっ! あっしはあんたも死なせたくないし、お市様やお姫様たちに可哀想な思いをさせたくないっ!」

 備前守は軽い溜め息をついた。

「簗田殿」

 牛太郎は床にへばりつくように頭を下げ続け、両の目をぎゅうっと押し瞑り、汗を体中から噴き出していた。

「簗田殿のお気持ちは嬉しい限りだ。それがたとえ策だとしても、今のわしにはその言葉だけでも嬉しい」

 思わず顔を上げた。

「違いますっ! 本気ですっ! 策なんかじゃありませんっ!」

「わかっておる」

「わかっていませんっ! あっしは本当に死なせたくないんですっ! わかってくださいっ!」

「もうよいっ!」

 備前守の咆哮が部屋に響き渡り、牛太郎はそろそろと視線を落としていく。

 備前守は瞳孔を押し広げたまま、ただただ唇を震わせる。

 砲声が轟いて、部屋がかすかに揺れた。

「簗田殿、一つ言っておこう」

 か細い声に牛太郎が顔を上げると、悲痛さだけに表情を強張らせる備前守の瞼の奥には光るものがあった。

「この人生が惨めな敗北者の人生であったとしても、わしは浅井新九郎長政という男だ」

 そうして、備前守は腰を上げた。宙を仰ぎながら一つ長い吐息をつくと、兜の紐をほどき、それを放り捨ててしまった。

「わしの負けだ、簗田殿。付いて参れ」


 備前守のあとに従い縁側を行くと、さきほど牛太郎を追い回してきた兵卒たちが一斉に膝をつき、

「お前らはもうよい。ここを離れて曲輪の守備につけ」

 備前守の言葉に一瞬戸惑ったが、

「いいからいけ」

 再度の命に兵卒たちは一礼を残すとぞろぞろと去っていった。

「市、わしだ」

 備前守の呼びかけに、障子戸が開いた。中には市を取り囲むようにして姫たちが三人、それに二人の侍女と、さゆりがいた。

「ちちうえぇっ」

 初がおもむろに駆け寄ってきて、備前守の足に抱きついた。彼女は途端に泣き声を上げ、言葉にならない声で、父上、父上、とさかんに呼び続けた。

「なんだ、初。武者姿は嫌いじゃなかったのか」

「ちちうえぇっ」

 牛太郎は見ていられなくて、顔を背けた。

「泣くでない、泣くでない。よしよし。初は泣き虫でいかんな」

 備前守は初を甲冑越しに抱き上げ、その小さな体を揺らした。初は初で備前守の首に抱きつき、延々と泣き続ける。

「そろそろでしょうか、旦那様」

 市はここにあって微笑を浮かべている。

 そんな市のかたわらで、茶々は相変わらずむすくれていた。ただ、瞼には涙が溜められていた。彼女は母親のように気丈に振る舞おうとしているようであった。

「ああ、そろそろだ」

 備前守は腰を屈めると、茶々を呼んだ。

「茶々、別れだ。わかっておるな?」

 茶々は首を振る。

「そなたが初と江を守るのだぞ」

 茶々は首を振る。

「茶々。最後に父上の口を吸うておくれ。な、茶々」

 茶々は泣き上げた。わんわんと声を上げて泣いた。そうして、初がそうしているように備前守に駆け寄ると、父親に抱きついて言った。

「いやぢゃあっ! わらわもちちうえたまとははうえたまといっちょぢゃあっ! いやぢゃあっ!」

 さゆりが眉間に皺を寄せながら目を瞑っている。牛太郎は腰の手拭いで顔をおさえ、鼻を啜り上げた。胸が引き裂かれるとはまさにこのことだった。

「いやぢゃいやぢゃいやぢゃあっ!」

「さな殿」

 と、市がさゆりに呼びかけて、さゆりは顔を歪めたまま腰を上げた。備前守に歩み寄ると、暴れ回る茶々を引き剥がし、初は侍女が引き剥がす。

「旦那様、江も抱いてあげてくだされ」

 備前守は市に歩み寄り、赤子を受け取った。江はつぶらな瞳を父親に向けたまま、ぼけえっとしていた。

「肝の据わった子だな。母上に似たのか、のう、江」

 指先で頬を触られた江だったが、何が気に入らなかったのか、父親にぷいと顔を背けてしまった。

 備前守も市も笑い上げた。茶々と初は暴れ泣いていた。牛太郎はしくしくとうつむいていた。

「さて、あんまり共にしていると名残り惜しくなってしまう」

 もう一人の侍女に江を渡した備前守は、

「市」

 と、笑顔であった。市は溶けていくような眼差しで備前守を見上げる。その華奢な肩に備前守は籠手越しの手を置き、言った。

「お主も生きてくれ。姫たちのために」

 思わぬ言葉に、備前守を見つめる市の瞳はみるみるうちに色を失くしていく。

「あとはもう何も言わせないでくれ、市」

 茶々や初が泣き叫ぶだけで、さゆりも侍女たちも時が止まったかのように、半ば呆然と、半ば震えながら二人を見つめた。

 牛太郎は頬の涙を手拭いで何度もぬぐいながら、浮世とまったく離れた二人だけの悲しみの世界で見つめ合っている備前守と市の姿から目を逸らさなかった。

 二人の姿をみんなに伝えよう。岐阜の梓に、戦場の太郎に。簗田家の連中どもに。備前守と市は交わす言葉もいらないほどのおしどり夫婦であったと。

「かしこまりました」

 市は美しい微笑を浮かべながらそっと目を閉じて、ゆっくりと頷く。

 澄み上がった瞼からは涙が一粒、こぼれた。


「藤吉郎殿に伝えろ。明日の朝にお市様たちを小谷城から連れ出すから、そのときだけ攻撃をやめろってな。長政殿にも話を付けてあるって」

 牛太郎が言うと、篠木於松はにたにたと笑った。

「備前守を口説くとは大した腕ですねえ、旦那」

「いいから行け」

 於松は笑い声を弾ませながら闇の中に消えていく。

 柵と石垣に張り巡らされた京極丸が、たいまつとかがり火によってあぶり出されるように浮かび上がっている。太鼓の音と喚声がいっそう大きくなったようで、まるで終末を間近にしているような赤い夜であった。

 配下の沓掛勢のほとんどを喪った金ヶ崎の地獄から足掛け三年。

 長かった。

 姉川、二俣、三方ヶ原、池田に高槻。息もつけなかった日々が、今、ようやく終わろうとしている。

 織田信長の時代が到来する。

 しかし、牛太郎には重圧から解き放たれた充実感など皆無であった。

 金ヶ崎山で死に物狂いだったとき、まさか、この戦いの結末を小谷城から眺めるとは思ってもいなかった。

 いい加減、もう、帰りたい。嫌なことは全部忘れて。しがらみを脱ぎ捨てて。

「殿」

 背後から声がして、牛太郎は振り返った。まったく身に覚えがないその呼び方に何事かと思ったら、庭先にひっそりと佇んでいたのはさゆりだった。

「なんだ、お前か」

 牛太郎はさゆりのふざけた冗談に吐息をつくと、また京極丸の火に見入った。

「よくやったわ。立派や」

 牛太郎の胸にはなんら響かない。ただただ無視して悲愴な光景を見つめる。

 ゆっくりと歩み寄って来たさゆりは、牛太郎の隣に並ぶと、物悲しげな大男の横顔を見上げた。

「上総介にとってあんたはいなくてはならん男になった。あんたは誰にもできんことをした。キンカ頭にもサルにもできんことをやった」

「慰めているのか」

 牛太郎は瞳だけを動かしてじろりと見下ろす。

「お市様を長政殿と一緒にさせたいだなんて言っていたくせに笑わせんな」

 黒い瞳でじっと見つめてくるさゆり。

「理想と現実は違う。私の理想はいつも現実からかけ離れておる。そんなことはわかっているんや」

「もういい。やめろ、そんなことは聞きたくない」

 牛太郎はさゆりを振り払うように背を向けると、その場から歩み出した。

「殿」

 さゆりの声に牛太郎は足を止める。

「私は今日からさなになります。お市様たちと共に日々を過ごします」

 そっと振り返ると、戦火の香りを乗せた初秋の風が二人の間にそよそよと吹いてきていた。

「今までありがとう」

 大きな夜空を背中にして、彼女のしなやかな髪が風に流れている。

「フン」

 牛太郎は鼻先を突き上げながら顔を背け、瞼をこすりながらぶつくさ呟いた。

「どうせ、おれもお市様も岐阜に帰るんだから、今生の別れみたいに言うな。馬鹿らしい」


 地平線の彼方が白み始め、闇から青へ、空がゆっくりと開かれていく。

 織田軍の攻撃は停止され、早朝の風が吹く小谷山は、何かを待つような張り詰めた静寂に覆われていた。

 戦火の喧騒もなければ、鳥の声もまだない。時の経過を知るには、浮雲のたなびきだけだった。

 大手口の門へと向かう道中、それを見送る夜通し戦っていた兵卒たちは、自分たちの前から去っていく愛すべき姫たちの姿に悲痛な面持ちであった。

「奥方様!」

 何者かが一行の前に飛び出してきて、地に膝をついた。具足をまとい、汗と埃で顔を汚している彼は、おそらく一兵卒に過ぎなかった。

「どうか、我ら浅井のことを、この小谷のことを、忘れないでくだされ!」

 顔を見ることでさえ憚られるというのに、こうして高貴な市の前に飛び出してきた無礼者であったが、藤掛善右衛門も、尾張からずっと付いてきていた奉公人も、侍女や牛太郎も、彼と市の間を遮らずに、ただ見つめた。

 市が腰を屈めながら、兵卒に微笑みかける。

「忘れませんよ。一日たりとも」

 そう言いながら、市は兵卒の手を取った。

「小谷には感謝しております。今までありがとう。そして、わらわたちのことも、決して忘れないでおくれ。わらわたちは、そなたたちの武運と幸福を離れても願っております」

 兵卒は嗚咽を漏らした。すすり泣く声がそこかしこから聞こえてきた。

「さあ、お市様」

 善右衛門が促し、市は腰を上げる。そうして、見送りの兵卒たちに静かに頭を下げた。

 そのとき、牛太郎は初めて知った。市は、備前守だけの市ではなく、この浅井すべての市であったことを。

 彼女こそが、戦国の女性であった。

 大手門が軋みをあげながらゆっくりと開かれていく。門の向こうには、引き渡しの協定通りに織田方の兵の姿は一切なかったが、予定と一つ違うのは朱の襟の陣羽織を纏った小柄な男がただ一人、頭を地にこすりつけて平伏していたことだった。

 羽柴藤吉郎である。途端、牛太郎の気持ちはすぐに濁っていく。昨夜からの悲愴を越えた清廉たる時間が、俗物の権化みたいな男の登場によって一気に現実に引き戻されたかのようであった。

「なんなんだ、あの真似は。出過ぎたことをしおって」

 善右衛門が思わずこぼし、他の付き人たちも藤吉郎の見え透いたしように顔をしかめる。

 さすがの市も足を止めてむっとしている。

「サル殿はまるでこの浅井を侮辱しておる」

「お市様、是非、無視してください」

 牛太郎が言うと、市は再びつかつかと歩み出し、やがて、一行は門をくぐった。

「市!」

 その声に、皆、振り返った。

「茶々! 初! 江!」

 門がゆっくりと閉じられていく中で、備前守長政は馬から下り、そこでじっと立ちつくしながら、一行を見送ってきた。

「皆、健やかに暮らせ! さらばだ!」

 門が閉められ、一行は小谷城から遮断された。

 市の瞼から涙がとめどなく溢れている。初も江も女たちの腕の中で寝ていたが、茶々だけが父親の最後の姿を見ていた。ただ、茶々は泣いていなかった。昨夜はあれだけ泣き叫んでいたのに、最後はむっとした表情のまま閉められた門の向こうを見つめ続けていて、見兼ねた牛太郎が、

「姫様」

 と、声をかけると、茶々は小さな瞼にいっぱいの涙を溜めながら、牛太郎を見上げてきた。

「ははうえたまとやくとくちた。なかんて」

 牛太郎は茶々の視線まで屈み込むと、茶々の肩に手を置き、

「あっしが父上様の代わりにお守りします。だから、これからは盗人呼ばわりしないでください」

 茶々はこくりと頷く。牛太郎は悲しくも気高い小さなその子を胸の中に抱き締めようとした。

 が、後ろから藤吉郎に突き飛ばされて、横に転げ倒れた。

「姫様。これからは、この羽柴藤吉郎秀吉が姫様たちをお守りするぎゃあ、ご安心くださりゃれえ」

 藤吉郎は満面の笑みである。

「いやぢゃっ!」

 茶々は手を伸ばしてきた藤吉郎から逃げ出し、転げ回っていた牛太郎にすがりついてきた。

 藤吉郎が牛太郎に冷めた目を向けてくる。

「なんだぎゃあ、早速、姫様を手なずけたんかえ。そんなことしておやかた様の御機嫌を

伺おうと見え透いているんだぎゃあ」

 牛太郎は藤吉郎を睨み返していたが、フン、と、鼻を背けて腰を上げた藤吉郎は、また、表情を一変させると、市に歩み寄っていった。

「お市様、このたびのご心労察するに余りますぎゃ。この藤吉郎がおやかた様の元までしっかりとお送りしますんで、ご安心してくださりりゃあ」

「いらんっ!」

 市が涙を流しながらも、目尻を吊り上げ、見たこともない怒気をはらませていた。

「そなたの所業にわらわらは侮辱された思いじゃっ! 顔も見たくないっ! 去れっ!」

「にゃ、にゃあ......」

「去れっ!」

「しょ、所業とは、しかし、おりゃあはお市様のことを思って――」

「そなたに思われるような市ではないわっ!」

 市は着物の裾が汚れるのも構わず歩き始め、付き人たちも藤吉郎を横切っていく。牛太郎は茶々を抱き上げると、呆然としている藤吉郎に去り際、一言添えた。

「ドンマイ」



 京極丸攻めをしていた羽柴隊が市とその姫たちを救出した。

 前線から飛び込んできた驚愕の報せに左衛門太郎は腰を上げたが、しかし、冷静さを取り戻して、すぐに床几に落ち着いた。

「一体、何が起こったのだ」

 左手には佐久間玄蕃允が、右手には新七郎が同じようにして腰かけている。

「半兵衛様の調略であろうか」

「あのサルと竹中殿だったらやりかねないでしょうな」

 そう言うと、玄蕃允は下唇をひしゃげ上げながら、つまらなそうに吐息をついた。

「このまま小谷城が落ちれば、浅井攻めはサルに始まりサルに終わったってことになりますな」

 新七郎は視線を伏せたままじっと押し黙っている。

「藤吉郎殿はここぞというときに大胆なことをする。昔からそうだ」

 太郎は、正直、適わないと思った。戦場でいくら敵兵を薙ぎ倒していっても、藤吉郎がすべてをかっさらってしまう。

 それほど、市の救出の印象は絶大である。

 しかし、自分にもある程度の兵力さえあれば、と、太郎は忸怩たる思いで拳を握り締めた。藤吉郎のような大胆な発想力はないとしても、戦場の指揮官として立てば、織田家中屈指の将である自信はある。

 いや、そう信じていないと、やっていられなかった。

 なにやら、陣幕の外が騒がしい。

「何事だ」

 新七郎に目を向けると、新七郎はのそりと腰を上げ、陣幕を捲り上げた。すると、そこには兵卒に囲まれて、頬冠りをした大男が立っていて、

「よお」

 と、右手を掲げながら入ってきた。

「オヤジ殿っ!」

「父上っ!」

「どもども。お久しぶりですね」

 どこかよそよそしく、どこかこそこそと入ってきた牛太郎は、まず、新七郎の肩をぽんぽんと叩いて、彼に微かな笑みを浮かべさせたあと、口を開けて突っ立っている玄蕃允の前を横切り、同じく呆然としている太郎をどかして、床几に座りこんだ。

「お、オヤジ殿、どうして、ここにいるんだ」

「いやあ、暑い暑い」

 頬冠りの手拭いを外して、それで額の汗を拭き取っていく牛太郎。

「こんな暑い中、よくまあ甲冑なんて着ていられるな。昼間になったら蒸し鶏にでもなっちゃうんじゃないの」

「オヤジ殿こそ、なんなんだ、その格好は」

「ちょっくら野良仕事をね」

 問いにまともに答えようとしない牛太郎が計り知れなくて、太郎は何も言葉にできずただ突っ立っていた。

「おい、新七。お前、堺に行ってねじり鉢巻きと一緒に栗綱を連れてこい。もう、さすがに歩くのは疲れた」

「かしこまりました」

 新七郎は剃り上げた頭を軽く下げたが、太郎が制止する。

「ちょっと待ってください。どういうことなんです。まだ、いくさの最中だっていうのに新七郎を外すわけにはいかないでしょう!」

 牛太郎はふてぶてしい表情で衣服の中に手拭いを突っ込ませ、何も答えない。

「父上っ!」

「なんだよ。いちいち大声出すな」

「今まで何をしていたのです! どこにいたのです! なぜ、ここにいるのです! まずは訳を説明してください!」

 牛太郎は鼻をほじっている。

「父上っ! 何を隠しているのですか!」

「まさか、オヤジ殿」

 玄蕃允が言葉を選ぶようにして言った。

「オヤジ殿がサルと一緒にお市様を連れ出してきたのか」

 牛太郎はちらりと玄蕃允を見た。しかし、何も答えず、鼻クソを弾き飛ばした。

「まことですか、父上......」

「そんなことよりよ、太郎。沓掛の連中から聞いたぞ。お前、一乗谷で暴れ回ったそうだな」

 牛太郎が向けてきた厳しい眼差しに、太郎は思わず視線を逸らしてしまった。牛太郎がそういう真似を嫌っていることを知っている。

「お、おやかた様の命です」

 この養父の前で言葉を濁してしまったのは、これが初めてかもしれない。なにしろ、上総介の命という以外の弁明が見当たらなかった。

「そっか。まあ、あんまり無茶して怪我しないようにな」

 拍子抜けするような軽い声でそう言うと、牛太郎は腰を上げる。

「疲れたから寝る。出陣ってなっても、おれはしないからな。わかったな」

 そうして、陣の奥に引っ込んでいこうとしたが、ふと足を止めて、振り返ってきた。

「あと、太郎。岐阜のあいりんに手紙を出して、あずにゃんの様子を探っておけよな。事と次第によっちゃ、岐阜に帰るのは中止にするから」

 雰囲気が変わった気もするけれど、やはり、どこかでは馬鹿馬鹿しい牛太郎に、なんだか、しらりとしてしまう太郎。

「母上は御機嫌ですよ。父上が出し続けている短歌で」

「そ、そっか! ふむ......。だったら、いいや。うん。じゃ、頑張ってな」

 牛太郎は笑顔で奥に引っ込んでいった。


 市と面会を果たしたあと、上総介自らが馬に跨り、全軍に京極丸への総攻撃を命じた。

 出陣していく簗田勢の騒がしさに牛太郎は一度目を覚ましたが、過ぎ去った嵐のように喧騒が去っていくと、か細い油蝉の鳴き声に夏の終わりを感じながら再び眠りについた。

 ――。

 ハア。ハア。クソッ。おればっかりにこんな思いさせやがって。なんで、おれが一人でコンビニに買い出しに行かなくちゃなんねえんだ。佐久間と森のクソ野郎。後輩のくせに自分たちだけがぶがぶ酒飲みやがって、空っぽになったらおれに行かせるなんて、とんでもねえ奴らだ。

 だいたい、なんだって、せっかくの日曜日にバーベキューなんてやるんだ。しかも、おれの家で。どうせ、後片付けするのはおれだけなんて目に見えてるわ。

 あずにゃんが出しゃばるからよ......。浅井君が転勤だからって勝手に送別会するのはいいけどよ、なんで、よりにもよっておれの家なんだよ。

 本当なら今日はさゆりんとデートだったのに。今日こそさゆりんとデュフフのはずだったのによ!

『あれ、お父さん』

 むっ。太郎。隣に連れているのはあいりちゃんだな。久しぶりに見たらめっちゃ可愛くなっているじゃねえか。こんな可愛い幼馴染みだなんて、ふざけやがって。

『どうしたの、一人で。そんなに両手に抱えちゃって』

『気付いたんなら片方ぐらい持て』

『やだね。僕はバーベキューなんかとは関係ないし』

『なんだと! お前だって織田の人間なんだから、会社のレクリエーションぐらい参加したらどうなんだ! クソガキ!』

『レクリエーションじゃないでしょ。お母さんたちの井戸端会議の延長でしょうよ』

『まあまあ。おじさん、私が一つ持ちますから』

 さすが、あいりちゃんは違うな。出来た子だ。それに比べてうちの太郎ときたらよ!

 ハアハア。クソッ。ようやく着いたわ。コンビニ、遠すぎるんだよ。だから、おれはこんなところに家を買うのなんて嫌だったんだ。そもそも、柴田の馬鹿兄貴さえごちゃごちゃ言わなければ家なんて買わなかったんだ。クソッ。

『はいはい、お酒買ってきましたよー』

『おせーよ、オヤジ』

『も、森っ! 誰にそんな口叩いてんだ、こらっ!』

『あー?』

『いや、なんでもないッス。どうぞ』

 クソッ。奥様方の前で恥欠かせやがって。まあ、どちらにしろ、マタザの奥さんもサルの奥さんもいるから、どうせ、おれの昔の醜態を話して笑っているんだろうから、今さら、恥もへったくれもないけどよ。

『撃てえーっ』

 ううっ。ガキども、どこからそんなに水鉄砲を調達してきたんだよ。

『こらっ! やめなさい! 茶々! 初! 簗田さん、ごめんなさいね』

 あはあ。浅井君の奥さん、拭いてくれるのはありがたいけど、そんなに近寄られたら、フヒヒ。

『お父さん、鼻の下が伸びてるよ』

『なっ、なんなんだよ、テメー。バーベキューとは関係ないんじゃなかったのかよ!』

『お腹空いたし』

『お前、手伝いの一つもしてねえくせにメシだけありつこうとしてんじゃねえっ!』

『まあまあ、いいじゃないですか、簗田さん。さあ、一杯』

 むう。浅井君に言われちゃ仕方ねえな。

『さ、仕切り直して、乾杯』

『乾杯』

 ごくごく。ふー。使い走らされたあとのビールはうまいぜ。

『簗田さん、いろいろとお世話になりました。娘たちも簗田さんに会えなくなって寂しがりますよ』

『いやいや、浅井君、今生の別れじゃないんだから。二三年したら戻って来るんだろ。また、そのときになったら、こうしてうちでバーベキューでもやろうじゃないの』

『そうですね。それじゃあ、楽しみにしていますよ』

『それより、サル、いや、羽柴さんはどこに行ったんだ』

『え。さっきまでいましたけど』

『にゃあにゃあ、これだぎゃこれだぎゃ、浅井君』

 うわあ。どっから持ってきたんだよ、そのゴルフクラブ。わざわざ、車に取りに戻っていたのか。

『タイガーウッズと同じモデルだぎゃ。高かったんだぎゃあからにゃ。ま、これで三百ヤードは軽く越えるだぎゃあにゃ』

 ――。

 光のまばゆさにうっすらと瞼を開けると、真緑の木の葉が風に揺られてさわさわと踊っていた。

 瞳の奥に揺らめく倦怠感が、砕け散る光をしばらくの間、見つめさせる。雲が溶け込むような白濁の空は、今ここにいることが夢か現実なのかを判然とさせなかった。

 風が運んでくる晩夏の香りは、季節を燃え尽くしたかのような、それでいて爽快な香り。

 遠く、打ち鳴らされる太鼓の音が聞こえてきて、牛太郎はようやく目を覚ますと、体を起こした。


「牛太郎には申し訳ないが、今回の件、兄上の中では預かり知らぬことになっている。市の救出に我ら兄弟は関わっていない。藤吉郎が勝手にやったことだと」

 三十郎信包の言葉に、牛太郎はただうなずいた。

「最初から承知しています」

 仕方ないことだった。いっときは、浅井すべてを滅ぼすと配下の前で公言してしまった以上、上総介には譲れない意地があるのだろう。

 どちらにしろ、手柄を上げたと素直に思ってもいないのだが。

「恩に着るぞ、牛太郎。して、市がお主に会いたがっておる。顔を出してやってくれ」

「わかりました」

 牛太郎は三十郎の前をあとにすると、市たちが避難しているという居室へ向かった。

 上総介自らが小谷城へ向かったことで、館は静まり返っている。

「左衛門尉」

 足を止めて振り返ると、勘九郎信忠がたった一人、甲冑姿で突っ立っていた。

「それでいいのか、お主は」

 どうやら、三十郎との会話をどこかで盗み聞きしていたらしい。

「なんなら、われが父上に話を付けてやってもいいのだぞ」

「若様」

 と、牛太郎は笑った。

「あっしはそういうつもりで小谷城に行ったんじゃないんです。お市様が無事なら、それでいいんス」

「すべて藤吉郎の手柄になるぞ」

「別にいいッスよ」

 牛太郎は勘九郎に一礼すると、その場を去った。

 居室の前までやって来て、戸の向こうに来訪を告げると、中から市の声がして戸を開けた。

「お疲れなのに、お呼び出ししてごめんなさい」

 市は一人だった。侍女も姫たちもいなかった。

 牛太郎は戸を閉めると、市の前に腰を落ち着け、頭を下げた。

「お市様に比べたら、あっしの疲れなど大したことじゃありません」

「今頃、あの方は腹を切られる準備でもしているのかもしれませんね」

 牛太郎は何も答えられず、ただただ頭を下げている。

「ごめんなさい。誰かと話していなければ、耐え切れないのです。今のわらわが心を開けるのは牛殿しかおりません」

 そう言うと、市は牛太郎の前に一枚の紙を差し出してきた。

「これは、旦那様がある日の歌会で詠んだ歌です」

 牛太郎は紙を広げると、備前守が詠んだとされる歌を眺めた。


 けふもまた尋ね入りなむ山里の花に一夜の宿はなくとも

(今日もまた山里に花を求めに行くのだろう。一夜を過ごす宿はないとしても)


 牛太郎の脳裏に備前守の微笑みがまざまざと蘇った。

 理想と現実。その狭間で懊悩する備前守の胸中が歌には表われている。もがき苦しみ、世にさ迷い、それでも理想を求め続けた男の呟きであった。

 にも関わらず、備前守は微笑を浮かべていたのだ。

 牛太郎は天を仰いでしまう。

 無常だ。

「きっと、あの方が抱えていた苦しみなど、兄上にも、織田の者たちにもわからぬことなのでしょう。わらわには、それが残念で仕方ありませぬ」

 市が鼻をすすっている。

「お市様」

 と、牛太郎は唇を噛みしめながら言った。

「織田の者でも、あっしはわかっています。長政殿は誰よりも格好よかったです」

「ありがとう、牛殿」

「故郷に帰りましょう、お市様」

 市は瞼の下をぬぐいながら、こくりと頷いた。



 小谷城は落ちた。

 京極丸を攻め落としたのち、織田軍は下の丸へ突入し、下野守久政が自害したことを確かめると、続いて本丸に総攻撃をかけ、備前守長政が絶命したことを確認した。

 浅井朝倉との戦いがここに完結されたが、しかし、上総介はいつものように論功行賞の場を設けず、将兵たちに一人の少年の行方を草の根を分けてまでも探させた。

 備前守長政の嫡男、市と婚姻する前の子である万福丸の亡きがらが見当たらない。

「オヤジ殿」

 例のように虎御前山の館の居室に隠れていた牛太郎のもとに、長谷川藤五郎がやって来て、しかめっ面で言う。

「おやかた様が怒っていますよ。せっかく、お市様を助け出したっていうのに。何をやってんだか」

 牛太郎はよくわかっていないので、

「何をやってんだって、なんなんだよっ。おれは何もやってねえぞっ」

 と、あわてて唾を飛ばす。

「まあ、おやかた様が呼んでおりますんで」

 事態が飲み込めない牛太郎は戦々恐々としながら上総介の元へ参じた。

「お、お呼びのようで」

 汗を滴らせながら平伏する牛太郎に、上総介は小谷城潜伏のねぎらいもかけずに一言。

「万福丸はどこだ」

「へ?」

 と、思わず顔を上げてしまう。いくさを終えたばかりからか、上総介は眉尻を吊り上げて、目は血走っていた。

「だ、誰ッスか、マンプク丸さんって」

「なんだと? お前は小谷の本丸に忍び込んでいたんじゃねえのか!」

「い、いやっ、た、た、確かにそうッスけど。忍びこんでいたことと、マンプクさんが何の関係があるのかさっぱり」

 とぼけているのではない。牛太郎は万福丸を存じていない。

 上総介は汗をだらだらと流す牛太郎を睨みつけていたが、やがて、溜め息をついた。

「お前ってやつはいつまで経っても間の抜けた牛だ」

 事情も教えてもらえないまま、牛太郎は追い払われた。まったく、理解できない牛太郎は、理由を藤五郎に訊ねてみて、初めてわかった。

「オヤジ殿が逃がしたんじゃないんですか」

「そんなわけあるかよ。おれはマンプク丸っていう子供がいることなんて、初めて知ったんだからな。勘弁してくれよ、クソッ」

 織田のために、上総介のために、心を鬼にして市を連れ出してきたというのに、あらぬ疑いをかけられてしまった事実に牛太郎は悔しくなった。本陣館にはもういたくなくなって、泣きながら簗田勢の陣へと去っていった。

 牛太郎の言葉に嘘偽りはないと悟った上総介は、市の元を訪れた。

「市、万福丸の行方を知っているであろう」

 江を腕に抱く市はただうつむいている。

「お前は万福丸が見つかれば俺が殺すとでも思っているだろうが、違う。俺は新九郎を恨んでおらん。そもそも、俺が協定を破って招いてしまったいくさだ。詫びることができるなら詫びて差し上げたい。だから、俺は新九郎の子を殺さぬ。むしろ、俺の養子とし、織田一門の列に並べたいのだ。そもそも、俺が万福丸を殺そうとする魔王なら、そなたの娘たちも殺しているではないか」

 声を放てば常に短い言葉で、人に媚びを売るような物言いを嫌う上総介なのに、ずいぶんと熱のこもった口調であった。

「市は、兄上様の言葉を信じてよろしいのですか」

「そなたに悲しい思いはもうさせたくない」

 市はしばらく押し黙ったのち、言った。

「万福殿は、家臣たちに伴われ敦賀に落ち延びております」

「左様か」

 上総介は市の居室を去ると、藤吉郎を呼び出した。

「おい、サル。お前、このいくさで手柄を上げれば浅井所領を褒美にもらうなどとほざいているそうだな」

「あっ、いにゃっ、それは――」

「だったら、くれてやる。ただし、万福丸を捕らえてからだ。俺は岐阜に戻る。お前はここに残り、敦賀にいる万福丸をしらみつぶしに追え。失態は許さねえからな」

 一ヵ月後、羽柴勢は敦賀にて万福丸を見つけ出し、身柄を確保した。藤吉郎はその旨をすでに岐阜に戻っている上総介に報せるとともに、万福丸を岐阜へと連行していったが、途中、大垣手前の関ヶ原で岐阜の上総介から早馬が届いた。

 万福丸を田楽刺しに処せ。

 藤吉郎の手は震えた。万福丸はわずか十歳。

「お、おりゃあがやらなきゃいかんのかえ」

 取り囲む小一郎も蜂須賀小六も、藤吉郎の呟きに口をきつく閉ざして黙っていた。

「やらなければなりますまい」

 半兵衛が言った。

「やらなければ、今までの苦労は露に消えますぞ。北近江三群の所領がほしければ、殿、やらなければなりますまい」

「どうにかならんのかえ! 半兵衛! おりゃあは子供を殺したくなんかないだぎゃあっ!」

「たぶらかそうとすれば、殿の首が飛びますぞ」

 藤吉郎はがっくりと肩を落とした。

「小一郎、小六。兵に命じて、万福丸様を串刺しにするんだぎゃ」

 備前守の遺児、浅井万福丸は関ヶ原で十年の生涯を終えた。


 後日、上総介から藤吉郎に北近江十二万石の所領を与える旨が記された朱印状が下され、藤吉郎は明智十兵衛に続く国持ち城主として小谷城を解体し、その木材を使用して琵琶湖のほとりの長浜に城を築き始めた。



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