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ふりちりすべる  作者: ぱじゃまくんくん男
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摂津転覆

 牛太郎は本来、上総介信長に摂津工作を命じられている。

 いや、命じられたというよりは、かつての池田城攻めで、池田勢に勝手に降伏勧告を申し渡してしまい、その責任で摂津池田勢の監視役を務めさせられた上での成り行きで摂津工作の担当者になっている。

 簗田左衛門尉が摂津工作にあたっている事実は、ほとんどの人間が知っていない。織田家中でも主君の上総介か、仲の良い木下藤吉郎、明智十兵衛、義兄の柴田権六郎ぐらいが、牛太郎の働きを知っているだけで、他の人間は、拠点にしている堺で牛太郎が遊んでいるものだと誤解している。

 息子の左衛門太郎でさえ、一時、激怒したのだ。

 無論、織田家の簗田左衛門尉なる者が堺に常駐していたことを、摂津の諸勢力は把握しているだろう。ただ、凡将の噂が功を奏しているのかもしれない。牛太郎が仕掛けている調略工作に対して、無防備であった。

 牛太郎は表にまったく出ていない。池田勢の荒木信濃守村重に謀反をすすめている程度である。

 それに、家出をした。一年近くも摂津を放っている。

 この間、さゆりが調略工作を仕切った。元々からその節があったので、牛太郎がいなくとも支障はまったくない。

 逆に進展した。

 摂津高槻城の和田惟増を殺害した。

 高槻城は元は足利直臣、和田惟政が城主を務めていたが、一年前の池田勢との戦闘で死んだ。

 今はその子、和田惟長が家督を継いで、幕府から城主を任されているが、二十歳そこそこで若かった。池田勢と松永弾正忠の圧力によって空中分解している高槻家臣団を彼がまとめることは不可能で、このため、叔父の惟増が彼を補佐していた。

 さゆりを指揮官としている簗田一派は、竹中半兵衛の推薦で紹介された小寺官兵衛の助言により、混乱する摂津を、ひとまずは、牛太郎に近しい池田勢、反織田を貫く三好三人衆、全国一向一揆衆を束ねる本願寺の三勢力に分断しようと目論んでいる。

 そのうえで、池田勢の重臣、荒木信濃守村重に謀反を起こさせて織田方に引き入れ、北摂津に楔を打つ狙いであった。

 達成に重要なのは、池田勢の勢力拡大である。昨年夏、池田勢は織田方の茨木城を攻め落とし、勢いそのままに高槻へと攻め込んだ。

 簗田一派の思惑通りに事が運んだが、松永弾正忠という邪魔者が入った。弾正忠は摂津に侵入する好機と見て、大和から出兵し、高槻城、池田勢を圧迫した。

 明智十兵衛と牛太郎の調停で、両者、兵を引き上げたが、高槻は疲弊し、その後も松永弾正忠に牙を剥けられてしまう格好となった。

 高槻城を弾正忠の掌中にさせてしまえば、摂津を三分させる計略が瓦解してしまう簗田一派は、高槻城に工作を仕掛ける。

 甲賀流あがりの簗田家与力、石川新七郎は、浪人に装って高槻城に潜入仕官する。

 空中分解している高槻家臣団を瀬戸際で支えている和田惟増を亡き者にさせ、重臣の高山飛騨守に謀反を起こさせることが目的だった。

 高山飛騨守は熱心なキリシタンである。高槻攻めのときに南蛮寺に罪をかぶせて町を放火した松永弾正忠になびくことはない。

 飛騨守に高槻城を乗っ取らせ、織田方、もしくは池田勢に付けさせる。

 そのためには和田惟増は殺さなくてはならなかった。

 新七郎は惟増に近づき、彼に城主惟長の無能ぶりが世間に広まっている。行いを正すよう苦言を呈されるべきだと告げた。

 逆に、惟長には女を用意した。京から連れてきた町娘で、愛らしい顔つきなのだが頭が弱かった。新七郎はこの女にキリシタンの教えを説いて信心させた。

 女はキリシタンの教えを純朴に守り続け、そのうち、信仰によって洗い流された美しい心が瞳に溢れ出るようになった。

 高槻は南蛮人が熱心に布教活動をしているため、惟長もさほどではなかったがキリシタンの教えを尊ぶ傾向があり、彼はこの清らかな女に執心したのだった。

 叔父の惟増は女の存在に意識を埋没させてしまっている惟長を注意した。しかし、惟長は戦国武将の叔父の言葉よりも、慈愛と清貧に満ちた女の存在のほうが遥かに高貴であった。

 そんなある夜、新七郎は盗み出してきた惟増の衣服を着て女を斬った。女の死体と衣服を城内のそれぞれの場に捨て、翌朝、惟長が叔父を呼び出した。

 何も知らない惟増はのこのこと惟長の前に出、怒り狂っている惟長に有無も言わせてもらえないまま斬り殺された。

 その叔父とそのあるじとの醜いいさかいに、高槻家臣団は辟易し、今や、その心には、自分だけはどう生き残ろうか、それしかない。

「あとは高山飛騨守だけや」

 さゆりから和田惟増殺害のあらましを聞いた牛太郎は絶句した。

 沓掛にいる。玄蕃允と勝蔵に城内の一室を与え、牛太郎は沓掛城で武田勢の動きを見つつ、休息を取ろうと考えていた。

 この城の主人よろしく、広間の上座でさゆりの話を聞いていたものの、部下が勝手に取った鬼畜めいた所業に言葉をなくした。

「飛騨守を引き入れる点で有利なのは、キリシタンてことや。上総介はキリシタンを保護にしておる。荒木信濃守のほうが首尾よく行けば、上総介の軍門に降りた信濃守に飛騨守は従うやろ」

 さゆりは百姓娘の姿のままである。玄蕃允と勝蔵の目を盗みつつ、牛太郎のあとに付いてき、若者二人の姿が部屋に消えると、牛太郎の前に現れた。

 ただ、その格好からはまったく不釣り合いな冷えた眼差しをしている。

「あんたには早う堺に戻ってきてもらって、信濃守をいち早くそそのかしてもらわんとあかん」

「よくもそうべらべらとなんでもなかったことのように喋れるな」

 声を低く唸らせて、さゆりを睨みつけた。

「無実の女の子を殺してまでやることだったのか。そこまでする必要があったのか。てかよ、え? それはお前の指示なのか、それとも新七が勝手にやったことなのか」

「何を言うているんや」

 さゆりは冷えた眼差しをいっそう凍らせて睨み返してきた。

「私らにとって、人は目的のための道具や。そんな甘いことを言うんなら、岐阜で奥方と一緒に巣ごもりしといてや」

「悪党め」

「阿呆言うなや。あんたも変わらんやろ。あんただって比叡山の焼き討ちに加わっていたんやろ。自分だけ棚に上げんなや」

「それとこれとは違うだろ、全然よ!」

「鬱陶しい。堺を飛び出しておいて偉そうなこと言うなや。あんたに言われて手を汚している新七の気持ちも考えてみいや! 誰が一番苦しいんや! 新七には妹の彩がいるんやからな! そこのところわかってから物を言いや! この阿呆!」

 そう罵ると、さゆりは腰を上げ、戸をぴしゃりと閉めて出ていった。


 意外な報せが沓掛の牛太郎のもとへ届いてきた。

 北近江の虎御前山に大規模な砦を築いた上総介が、朝倉勢の撤退と同時に木下藤吉郎隊だけを残して、軍勢のほとんどを岐阜に戻したらしい。

 武田勢が三河に侵攻すれば、尾張に大軍を引き連れてくる手筈は整えているという左衛門太郎からの文だった。

 速い。

 徳栄軒の大きさばかりに捉われていたが、織田の総帥はあの上総介信長である。牛太郎は小々反省した。

 信長なのだ。

 牛太郎は正月を沓掛城で迎えることにし、玄蕃允と勝蔵は先に岐阜へと戻らせた。

「佐久間のくそったれぶりを信長様に教えてこい」

 さゆりは勝手にいなくなった。

 武田の動向を見張るはずが、さゆりがいないとろくに情報が取れない。年が明けて元亀四年正月、沓掛城の奉公人や女中たちの年賀の挨拶が終わったあと、牛太郎は膳に箸を叩き投げた。

「なんにもわかんねえじゃねえかっ!」

 広間には誰もいない。

「クソッ!」

 牛太郎が沓掛城に長く腰を据えることは、美濃攻め以来まったくなかった。奉公人や女中たちも牛太郎の相手をする勝手がわからないので、ただただ事務的に牛太郎の世話をするだけである。

 牛太郎は庭先に出ると大声で栗之介を呼んだ。ややもすると、億劫そうに栗之介が顔を出してくる。

「岐阜に行くぞっ! 今すぐにだ!」

「なんだよ。ここでゆっくりするんじゃなかったのかよ」

「しねえっ!」

 浜松での活躍にのぼせていた牛太郎は、大きな勘違いをしていた。結局のところ、一人では何もできないのだ。動向を探ることすらできない。

 牛太郎は栗綱に跨り、栗之介と二人で清州に入ると、翌日には岐阜に帰還した。

 岐阜には軍勢が集結しており、物々しい気配が漂っていた。武田勢が三方ヶ原で徳川勢を破ったという話が城下に広まっているのだろう、町人庶民にいたるまで、どこかしら緊張感があった。

 稲葉山の屋敷の玄関に上がると、奥から赤子の泣き声が聞こえてきた。牛太郎は思わず頬を緩めてしまう。そういえば、三河守に、子供に駒を嫁がせる約束を無理強いさせていた。

 いずれは将軍家の正室。にたにたと笑いながら草履の紐を解いていく。

 ただ、出迎えがない。突然の帰宅とはいえ、気付くものだろう。栗之介が栗綱を馬屋に連れていっているのだから、わかるはずだ。

「おーい! 帰ったぞー!」

 反応はない。返ってくるのは駒の泣き声と女どもがはしゃいでいる声だけである。

「おーいっ! おーいっ!」

 反応はまったくない。牛太郎は舌打ちした。さゆりばかりか、梓やあいり、お貞までにもこの仕打ちである。三方ヶ原で死ぬ思いをしてきたというのに。牛太郎は苛立ちながら屋敷に上がり、黄色い声が跳ね上がっている居間の戸を力任せに引いた。

「何をやってんだっ! ご主人様のお帰りだぞっ!」

 出し抜けに怒鳴り散らしたが、すぐに牛太郎はたじろいだ。居間には色とりどりの着物に彩られた井戸端会議の真っさい中であった。

 牛太郎をぽかんと眺めるのは梓やあいり、女中の二人だけではなく、前田家の女房のまつやその娘の幸、まつの膝には一歳ばかりの女児、さらに木下藤吉郎の女房の寧々までいた。

 しんとしていた中、牛太郎の大声に驚いた駒が泣き出した。

「あ、すいません」

 牛太郎は戸を閉めた。そそくさと自室へ立ち去ろうとするが、

「旦那様っ!」

 と、お貞が追いかけてきた。あわてて牛太郎の足元に平伏する。

「申し訳ございませんっ」

「あ、いや、いいんだ、別に。ちょっと、汗をかいたから風呂でも召しあがろうかな。うん。あと、太郎はどこにいるのかな」

「若君は森様のお宅にお出かけになられています」

「あ、そう。じゃ、風呂が焚けるまで部屋にいるよ」

 と、逃げようとしたが、梓が居間から出てきた。

「なんじゃ、帰っておったのか!」

 梓に捕まってしまい、牛太郎は居間へと引き戻される。上座に座らされ、各家の女どもから年始の挨拶と浜松でのねぎらいの言葉をかけられていった。

 牛太郎は丸い顔をしかめながら、頭を掻いた。苦手だった。女たちがこうして一同に集まっている晴れやかさも苦手だし、まつや寧々は牛太郎のろくでもなかった清州時代からの付き合いである。

 女たちは正月初めの挨拶にと簗田家に集まり、梓が茶を振る舞ったり、香木を焚いたり、歌を詠んだりしていたらしい。そろそろ宴もたけなわとなったところで牛太郎が現れて、彼女たちは上げかけていた腰を再び据えた。

「玄蕃から聞いたぞ。亭主殿はずいぶんと無茶をしたそうではないか。耳まで失ったそうではないか」

 まあ! と、女たちは一様に声を上げた。人の目の前とあって、梓は毅然と振る舞っているが、その瞳は泳いでいた。

「いや、失っていないッスよ。ちょっとだけ、刺されただけッス。大したことないです」

「でも、激戦だったのでしょう? 牛殿の九之坪勢は全滅してしまったんでしょう?」

 女児を抱えるまつが、細い眉をすぼめながら、か細い声で牛太郎を気遣った。その雪のような美しさについついうっとりとしてしまって、梓に厳しい眼差しを注がれた。

 牛太郎はあわてて背筋を伸ばす。

「い、いやっ。そ、そりゃあ、まあ、相手は武田信玄でしたから、まあ、そこんところはやっぱり」

「牛さん、すごいねえ」

 と、まつの娘の幸が母親にそっくりな瓜実顔の頬を緩ませる。

「武田入道様と戦ってきたんだもんねえ。すごい。格好いい」

「いやあ。それほどでもないよお。負けちゃったしさあ」

 梓の眼差しがいっそう凄味を増して、牛太郎は咳払いした。

「ま、まあな、将たる者、兵隊たちあってだからな。そんな兵隊たちを全部失ってしまったから、そんなにあっしは大したことない」

「でも、あんまり無理はしないでください。藤吉郎殿は多くの家来の方々や兵卒たちに守られていますけれども、牛殿は裸一貫でいくさ場に出ているようなものなのですから」

 寧々の口をついた裸一貫の言葉が妙に染み入った。牛太郎と藤吉郎との間柄からして、この中では寧々がもっとも牛太郎を古くから知っている者だ。

 裸一貫か。確かに裸一貫から始めた。そして、今でも裸一貫なのかもしれない。家族も出来て、配下もあって、財力もひそかに持っている。

 一人では何もできない。何もできないが、よく振り返ってみれば、戦場にしろ、調略にしろ、常に裸一貫同然で身を呈してきたような気もする。

 そのときの結果はどうであれ、たとえ成り行き上のことであったとしても、自らが動いて切り込んでいったからこそ、家族もできて、配下もできて、一財をひそかに成したのかもしれない。

 最初はそれこそ裸一貫であった。ただ、切り込むたび、突き進むたび、自分に付いてくる者、自分を守ってくれる者が増えていった。

 一人では何もできない。だが、行動することはできる。暗愚であっても。

 あいりの腕の中で泣きやんだ駒が、潤んだ瞳でぼけえと牛太郎を見つめてきている。牛太郎は指先で駒の柔らかい頬を撫でた。

「今では牛殿もおじい様ですものねえ」

 寧々が言うと、まつが微笑みながらうなずいた。

「自分の子を育てているときも思いますが、久方ぶりにお会いした牛殿がそうしている姿を見ると、時の流れの早さがいっそう染み入ります」

「あっしもそう思いますよ」

 清州に住んでいたときの家はなくなっていた。しかし、過去は過去として胸の中に残り続け、それを糧とした未来もある。

「コマ」

 牛太郎は呼びかけた。おじいちゃんが将軍のお嫁さんにしてやるからな。


「浜松での件、口外はするなとのことです」

 左衛門太郎が言った。

「おやかた様からのお達しです。玄蕃允殿にも勝蔵殿にも伝えておきました」

 牛太郎は箸を止める。久方ぶりの家族団欒の夕飯であったが、左衛門太郎の言葉により、沈黙がおりた。

 黙々と白米を口に運んでいく左衛門太郎に理由を訊ねると、厳しい顔つきで一言、

「わかりませぬ」

「なぜじゃ。亭主殿は命を賭して戦ったというではないか。かような武勇を口外するなとは、なぜじゃ」

 おそらく、と、左衛門太郎は答える。考えられる理由は二つある。一つは初陣を果たしていなかった勝蔵を無断で連れていったからであろう。

 勝蔵は森家の当主であり、その辺りの足軽兵卒ではない。重臣家の当主の初陣とは、その家の将来を占う重大な催しごとでもあり、一族はこの日のために育ててきた若き武者の晴れ姿を見送る。家臣はこれから自分たちが守るべき若武者のいくさ姿に思いを馳せる。

 そんな勝蔵が勝手に一人で戦場に出ていってしまったなど、森家の人間に示しがつかない。

 牛太郎にも矛先が向けられる。まして、兵卒たちが全滅し、命からがら帰ってきたのだ。当主の森三左衛門、嫡男であった博兵衛を立て続けに戦場で失った森家からすると、牛太郎の行為は許されない。

 もちろん、勝蔵が三方ヶ原で暴れ回ったという話は多くの人間がとっくに耳にしている。日中、左衛門太郎が森家に詫びを入れに行ったさい、与力たちにさんざん叱られたらしい。ただ、いつまでもくだを巻く与力たちに激昂してしまった勝蔵が太刀を振り回してしまい、母親が出てくるまで収拾がつかなくなったそうだが。

 とにかく、上総介の真意は、建前だけでも牛太郎が浜松に連れて行ったのは山田三郎にしろということなのではないかと左衛門太郎は言う。

 二つ目は、佐久間右衛門尉の失態である。左衛門太郎は玄蕃允から佐久間の日和見行動を聞いた。

 玄蕃允と勝蔵は岐阜に帰ってくるなり、まっすぐに岐阜城へと登城し、上総介に佐久間右衛門尉の愚行を訴え、また、そのせいで平手甚左衛門が命を落としたとも。

 甚左衛門は、かつて自分の博役であった平手政秀の忘れ形見である。上総介は激怒した。しかし、すぐに居直り、勝蔵と玄蕃允に佐久間の失態は口にするなときつく命じてきたらしい。

 佐久間右衛門尉は織田家臣団の筆頭格である。その男が援軍に出て、何もせずにただ戦場から逃亡したなど、このうえない織田の恥である。

「佐久間の処分は俺がする。お前らは黙っていろ。浜松で起こったことは何も口にするな。いいな」

 馬鹿馬鹿しい。牛太郎はふてくされながら味噌汁をすする。戒厳令をしいたところで、家中の女どもは知っているじゃないか。噂はすでに広まっているじゃないか。

 上総介にしてはずいぶんとせせこましいことをする。牛太郎はほんの少し上総介に失望した。そういう体質こそが佐久間右衛門尉のような愚か者を産み出したのではないかと思い、おもしろくない。

「父上、明日、おやかた様にご報告のため登城してくださいよ」

 牛太郎は左衛門太郎の言葉を無視し、自室に戻ると不貞寝した。自分は命懸けで戦ってきたのに、岐阜に戻ってきたらこのざまだ。

 いや、そういう考えはやめよう。三河勢はそれこそ命懸けで戦っては散っていき、自分はといえば九之坪勢五十人を死に追いやってしまったのだから。

 残酷すぎる。牛太郎は寝返りを打つと、体を丸めて縮こませた。何かが重くのしかかってくるような気がする。

「亭主殿」

 と、梓が入ってきた。牛太郎は背中を向けたままじっとしていた。小袖の上に羽織った濃紺の打掛の裾を翻しながら、梓は牛太郎の枕元に腰を下ろした。

「近頃は、ここに帰ってくるたび、夜になると悩ましげな顔をするようになったな」

 梓は牛太郎の頭を撫でた。

「でも、わらわはいつも亭主殿が生きて帰ってきてくれるから、果報者じゃ。亭主殿はわらわのために帰ってきてくれると、近頃は思うようになった」

 打掛から香りが漂ってくる。牛太郎は梓のほうに向きを返すと、梓の太ももに顔を埋めて鼻の穴を膨らませた。

 甘いにおいがあらゆる鬱屈を忘れさせてくれる。

 そのまま寝てしまった。

 翌日、登城した。

「うつけが」

 開口一番、上総介は睨み下ろしながら牛太郎をそう叱りつけた。

「勝蔵を連れていったどころか、本気でタヌキ入道の首を取りにいったそうじゃねえか。お前は己の身の程をわかっているのか。あ?」

「申し訳ありません」

 と、牛太郎は頭を下げるが、声も顔も子供のようにふてくされている。

「うつけが」

 上総介はもう一度言った。語気からして、言葉ほどは怒ってはいなかった。ただ、しばらくの間、平伏する牛太郎を黙って睨みつけ、張り詰めた空気を作りだしていた。

「タヌキ入道は強かったか」

 父親が訊ねてくるような温和な物言いに牛太郎は思わず顔を上げてしまい、上総介に扇子で頭をはたかれる。

 牛太郎は頭をおさえながらうなずいた。

「そ、それは、もう、強すぎました。あっしなんて、毛ほども相手にしてもらえなかったッス」

「織田五万がタヌキ入道とやり合った場合、どうなる」

「五分五分ッス」

 フン、と、上総介は鼻で笑った。岐阜城下の気配と比べ、上総介には余裕が感じられた。

「して、入道はいつ死ぬ」

「もうすぐです。春までには生きていません」

 沈黙がおりた。遠くのうぐいすの鳴き声がかすかに聞こえてくる。

 上総介は小姓を呼んだ。持ってこいとだけ伝えると、小姓は姿を消し、何事かと思って牛太郎はまた顔を上げてしまう。

「相変わらず鈍牛のツラだ」

 上総介は肘掛に体を持たせ、扇子で顔を仰ぎながらにたにたと笑っていた。上機嫌である。牛太郎は、へえ、と、わけのわからない相槌を打って、顔を伏せた。

 小姓が居間に入ってきて、牛太郎の前に何やら置いた。

「おもてを上げろ」

 言われた通りにすると、牛太郎の目の前には、鞍があった。黒漆の居木に光沢貝が詳細に埋め込まれていて、それはふり散る桜花を表されていた。

 漆黒の夜に舞い散る銀色の花びら、その鞍は鮮やかで、華やかであり、牛太郎でさえ溜め息が出た。

「くれてやる」

「えっ?」

「お前の馬にな」

 と、上総介は体を前のめりにさせて目を押し広げ、半ばおどけていた。このような様子を目の当たりにするなど滅多にない。いや、かつてなかった。

「で、でも、こんなすごいもの」

「言っているだろうが。お前にくれてやるんじゃない。お前の馬にくれてやるんだ。お前の馬は、いらねえとでも言ったか?」

「いや」

 牛太郎は目を輝かせながら鞍を手にする。上総介からこうしたものを頂戴したことは今までになかった。

 それどころか、他の家臣でさえほとんどない。上総介は天下の名物の収集家であり、その上総介から贅沢品を貰い受けることはこのうえない名誉であった。

 にやけ笑いが止まらない。

「摂津に行け」

 悦に浸るのも束の間、上総介は激しさを内に秘める言葉短い口調に戻っていた。

「公方に弾劾状を送る。おとなしくするのはここまでだ。摂津も乱れるだろう。お前は堺に向かう道中、京の明智十兵衛を訊ね、あいつに公方を見限ることを決意させてこい」



 明智十兵衛光秀は、古き主君、斎藤道三を思い出していた。

 記憶に自分なりの解釈や補正がかかってしまっているのだろうか、一介の油商人から戦国の雄へと頭角を現し、その仁義なき智謀を「美濃のまむし」と揶揄された道三であったが、十兵衛の記憶の中ではいつも父のような微笑みを浮かべている。

 道三が実子義龍に討たれたとき、十兵衛は二十八であった。

 あれから十年以上が経っている。

 道三方に付いた十兵衛の一族は離散した。生き残ってしまった十兵衛は、明日への道を見失った。

 太刀を捨て、百姓でもしようか。そう思った時期もあった。

 しかし、十兵衛の体に流れる血は妥協を許さなかった。古来よりもののふの血を脈々と受け継いできた土岐源氏の誇りが十兵衛にはあった。

 世も世なら、俺は一国一城のあるじであっただろう。

 そして、世も世、戦国の時代なのである。

 道三が言っているような気がした。

「何もないところから始めたのが俺だ。十兵衛は何もないところから始められんのか」

 十兵衛は始めた。

 諸国を流浪し、自分が浮上するきっかけを探した。そうして、足利将軍家の落ち武者を見つけた。

 勝ち馬には乗れない。ならば、俺が勝ち馬にさせる。

 すべてを失った十兵衛にはそれしか方法がない。

 十兵衛は足利義昭の擁立を画策した。越前朝倉、南近江六角、果ては武田や上杉と、ありとあらゆる方法を模索した。

 やがて、綺羅星大名、織田上総介に辿り着いた。

 道三の娘婿である。

 当時、上総介は美濃を征服したばかりであり、京に一番近い者であることは十兵衛も承知していた。

 しかし、上総介は嫌だった。さまざまな理由を彼に勝手に押し付けて、上総介には見込みがないと十兵衛は決めつけていた。

 他のどんな有力者たちよりも若いし、もっとも勢いがあったし、尾張と美濃を押さえている時点でも、地政学上、武田や上杉よりも頭一つ抜けている。

 しかし、嫌だった。

 理由はわからない。でも、なんとなくわかる。道三の娘婿だからだ。美濃のまむしが唯一認めた男だったからだ。

 葛藤した。自分の立身出世のための野心と、自分のどうにもできない感情とがせめぎ合った。理屈で言えば上総介だった。感情で言えば上総介じゃなかった。

 男とは、理屈で生きるものだろうか、それとも、感情で生きるものなのだろうか。

 十兵衛の迷いを断ち切ったのは、かつて明智一族の配下であった者の孫娘、山内千代の言葉であった。

 目の前の貧者ではなく、あなたが手を伸ばしたのは、空に流れる雲。ただ、その雲を掴んだとしても、目の前の貧者を相手にしなかったものが、どうして天下を定める空となれるでしょう。

 男とはそういうものらしい。

 男とは雄大な空でなければならないらしい。

 もちろん、織田の人間であった千代の説得術であったことは十兵衛もわかっている。

 ただ、自分が目指している天下がちっぽけな頭上の空であったことを思い知らされた。

 十兵衛は義昭と上総介の仲介に働いた。

 それからというもの、上総介の躍進はそのまま十兵衛の躍進ともなった。

 今では所領は近江坂本五万石、役職は京都所司代。すべてを失った流浪人であったはずの自分が、まるで、上総介でなかったら今がなかったかのような躍進ぶりだ。

 これが目指していたものだったろうか。

 上総介には感謝しきれない事実がある。ところが、明智十兵衛光秀という自分は織田上総介信長という人間の中にすっかり埋没しているのではないか。

 上総介は主君ではない。かといって、義昭が主君でもない。主君の斎藤道三はとっくに死んでおり、今は明智十兵衛という人間をやっているだけだ。

「やあ、十兵衛殿」

 簗田左衛門尉が部屋に入ってきて、十兵衛は思い詰めていた顔つきをほがらかに崩した。

「お久しぶりです」

 従者から左衛門尉が訪れてきていることを聞いて、十兵衛は用件をすぐに察した。上総介に言われてきたのだろう。義昭を見限れと。

「公方を見限ってください」

 あまりにも単刀直入で十兵衛は笑ってしまった。

「まことに言っておられるのですか。拙者は足利直臣ですぞ」

「そんなこと、まだ言っているんですか、十兵衛殿は。年貢の納めどきでしょ」

 妙に自信たっぷりに言うから、簗田左衛門尉という男は不思議であった。

「しかし、織田上総介という人は拙者が公方様を裏切るほどの御仁でしょうか。この裏切りは拙者にはとてつもなく重いのです」

「いやあ、十兵衛殿」

 左衛門尉は茶化してくるように笑っていた。

「そこまで考えている時点で、決まっているようなもんじゃないスか」

 十兵衛も思わず笑ってしまう。確かにそうだ。自分が自分らしく身を立てていくにはどうすればよいか。しかし、自分の本音は勝ち馬になびきたいらしい。いくら、自分を綺麗に見立てようとしても、情けないかな、心のどこかで機を見、趨勢に流れようとしているのだ。

 上総介は嫌だ。が、義昭に付いても、たかが知れている。包囲網が組まれている今の情勢は義昭に有利であるが、しかし、義昭は明智十兵衛光秀個人の名を天下に押し出させてくれる器の持ち主ではない。

 理屈で考えれば上総介だ。

「一つ、お訊ねしてもよろしいですか」

 十兵衛が言うと、左衛門尉はうなずいた。

「簗田殿は上総介殿がまこと天下に武を布くとお考えなのか」

「さあ。どうですかね」

 と、左衛門尉はまるで何かを隠しているかのようなあからさまで首を傾げた。彼はいつでもそうなのだ。肝心なところで妙に冷めている。

「ならば、天下はどうなるとお考えか」

「どうなるかっていうより、どうするかが問題じゃないんスかね。よくわかんないですけど」

 十兵衛は笑みを浮かべながら首を振った。どう考えても自分は左衛門尉にすべてにおいて勝っているはずなのに、なぜか、肝心なところでかなわないような気がした。



 十兵衛の屋敷をあとにした牛太郎は、例のように相国寺で一泊することにした。

 相国寺は幕府の三代目将軍義満が創立者である。京最大の禅寺であり、かつては文学の中心地として栄えた。

 水墨画で高名な雪舟等楊も相国寺の出身である。

 だが、幕府を二分し、花の都を灰塵とせしめた応仁の乱以降、相国寺も戦火に巻き込まれ、今では仏敵織田上総介に所領を没収されるまでに至るほど没落してしまっている。

 相国寺の学僧、西笑承兌とは十兵衛の紹介で知り合った。

 承兌は若い僧のわりに、幅広い見識を持っていた。上総介に逆らう僧兵のような一辺倒の考えでもなく、かといって寺にこもって学問に埋没してしまっているような僧でもなかった。

 現実的な若者である。

 摂津混乱のどさくさで一財をひそかに成している牛太郎は、承兌と知り合ったのち、相国寺に五十貫の寄付をした。

 上総介の家臣でありながら、牛太郎は古き体制の最たる象徴である寺社に対して寛容であった。というのも、岐阜の願福寺とつるんで一儲けしているからだった。

 寺社に恩を売っておけば何かと便利であると、上総介がもっとも嫌っている寺社体制の利権にあずかろうという気が少なからずあった。

 金も有り余っている。

 とはいえ、無名の願福寺と、京都五山の第二位に列する相国寺ではわけが違う。相国寺からすれば、簗田牛太郎などという田舎侍などこちらから願い下げであり、さすがの牛太郎もその辺りは承知している。

 要は、相国寺を頻繁に訪ねるにあたって、欲はなかった。ただ単に寄付をした恩に着せて宿代わりにしているのと、承兌にそれとなく人生の指南をしてもらうためであった。

「どうでしたか、この狭い寺から飛び出した世は」

 いつものように与えられた一室で寝転んでくつろぐ牛太郎に、承兌はさっそく訊ねてきた。

「愉快であったでしょう」

「愉快なもんか」

 二か月近く相国寺に隠遁していた牛太郎は、勝手知る一室で耳糞をほじり出し、それを吹き捨てる始末である。

「さんざんだったぜ。小谷城攻めでは馬から落っこちるし、浜松では耳を切られるしでよ」

 浜松という地名が出ると、承兌は瞼を押し広げてきた。浜松といえば、近頃、武田徳栄軒が攻め込んだというではないか、と。

「その武田とやり合ったんだよ、おれは」

 上総介の戒厳令を無視して、牛太郎は承兌に浜松や二俣城での一カ月あまりの出来事を話した。徳栄軒にあしらわれてしまったこと、山県三郎兵衛尉との因縁がさらに深まったこと、そして、三河勢、九之坪勢、多くの味方が逝ってしまったこと。

「壮絶だったのですね」

「たったそれだけで済ませられるんだったらどんだけ幸せか」

 牛太郎はうつろな目を板床に落とした。

 生き残らせてもらえればもらえるほど、生の重さが次々とのしかかってくる。この期に及んで、ただ単に生きることなどできようか。死んだ者たちのために生きなければ、死んだ者たちのぶんまで生きなければ。なぜなら、生きながらえさせてもらったのだから。

 ただ、自分にはそれだけの価値があったのか。

 公ではないものの、牛太郎の働きは上総介に評価された。極上の褒美を頂戴した。牛太郎はそのときにやけた。が、一瞬の喜びにしかすぎなかった。

 それどころか、喜んでいいのかという罪悪感さえ生まれてきてしまう。

「無常だ」

 と、牛太郎はらしからぬ言葉を発した。すると、承兌はなんのことない様相で、

「ええ」

 と、うなずく。

「しかし」

 承兌は言った。

「人の死を悲しみ、己の生に苦しむ今現在の簗田殿は、悟りを開くに至っておりませぬ。悟りの扉にさえ手をかけておりませぬ。自分の人生を悟ったことのように言うにはまだ早すぎますよ」

「なんだと?」

 腹立たしかった。寺にこもっている承兌などにそのようなことを言われたくない。自分のほうがよほど世の中を知っている。承兌は阿鼻叫喚の比叡山や、地獄絵図の三方ヶ原を見ていない。そのくせ、偉そうなことをのたまっているのだ。

「お前に何がわかる」

「何もわかりません」

 と、承兌は微笑した。

「何もわからないのが人です。わかる人は聖人です」

「馬鹿馬鹿しい。くだらなすぎて反吐が出る」

「わからないことをわかったつもりでいるから苦しいのです。わからないことはわからないのです。生も死も、我々にはわからないことなのです」

「もういいっ! 帰れっ!」

「ゆっくりされていかれるのもほどほどにですよ」

 と、去っていく承兌は悪態も残し忘れなかった。

 承兌は仏に帰依している身でありながらささやかな野心を持っていることを牛太郎は知っている。上総介の圧力が厳しいこの時世で、没落した相国寺の再興を常日頃から考えている。

 それなのに、余裕を持っている。牛太郎は承兌のそのゆとりが羨ましい。あくせくすることもないが、時代の荒波に流されることもなく、己の道をしっかりと見ている承兌のような人間であったならと思う。

 ただ、おそらく承兌に言わせると、それは己の道ではなく、むしろ道ですらない。

 肉体は塊であり、心は形成されていくものであり、それを追求することが承兌の学問なのである。牛太郎が言う承兌の道とは、承兌からすれば学問の一つでしかない。

 そういった追及の行為はたいがい心の奥底から炎が噴き出してしまうもので、承兌の若さであったらなおさらなのだが、牛太郎が承兌に悪態をつかれようとも屈服してしまうのは、川に流れる水のような穏やかさで承兌は追及しているからであった。

 まず、かなわない。竹中半兵衛が天下の参謀であれば、西笑承兌は天下の学僧であると牛太郎は思う。

 承兌に否定されてしまって、怒鳴り散らした牛太郎ではあったが、相国寺に流れる悠久な静寂に身を任せているうち、自分を見つめ直そうとした。

 自分の中に存在している自分を見つめ、この世の中に存在している自分を見つめ、そして、この無常なる自然界の中の一員である自分を見つめた。

 何もわからない。わかりそうでわからない。だから、狂おしくなってくる。

 やがて、この気分で堺に行くのは危険かもしれないと思い始め、牛太郎は相国寺にもう何日か滞在しようかと考えた。

 無為にすごしていた家出期間とは違って、学ぼうかと考えた。

 だが、牛太郎にそのような猶予はなかった。翌日、承兌に、

「またそうしてゆっくりとするつもりですか」

 と、釘を刺された。

「織田様が公方様に村井民部殿を遣わし異議を申し立てたそうで、京の町は大騒ぎですよ。意見書の写しを織田様はあちこちにばらまいているそうなのですから」



 弾劾状の内訳はこうだった。


一、宮中への参内を怠らないように言ったのに、近年怠っているのはどういうことか。


一、諸国へ馬などを献上させるのは考え直せ。必要ならば信長が添え状を書き取り計らうと約束したはずだ。約束を違え内密で行うとはどういうことか。


一、幕府に忠節を尽くす者に相応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの身分ではない者を厚遇するのはおかしい。


一、将軍と信長の不和が噂される中、将軍家の重宝をよそへ移されている状況が京内外に知れ渡り信長の苦労も無駄になっている。


一、賀茂神社の所領の一部を没収し岩成友通(三好三人衆)に与え、内密で優遇処置をとったのはどういうことだ。


一、信長に友好的なものには、女房衆以下にまで不当な扱いをするとはどういうことだ。


一、何事もなく奉公し何の落ち度もない者達が扶持の加給がないため信長に泣きついてきたので将軍に取り次いだにもかかわらず、何も聞き入れられずに信長の面子は丸つぶれだ。


一、若狭の安賀庄の行跡について粟屋が訴訟を申し立てている件について信長ももっともだと思い進言しているのにいまだに何もされていない。


一、喧嘩で死んだ小泉が遊女屋に預けていた刀や脇差など身の回りのものを没収したのはなんなのか。将軍の欲得と世間に思われる。


一、元亀の年号は不吉なので改元した方がよいと一般的な意見で申しあげているのに改元のわずかな費用も献上せず引き伸ばしている。


一、烏丸光康の懲戒の件は、息子・光宜へのお怒りは仕方がないが、光康は赦免するよう申し上げたのに、密かに光康から金銭を受け取っている。


一、諸国から献上されている金銀がある。内密で蓄えているのは何のためか。


一、明智光秀が京の町で徴収した地子銭を預けていたのに、その土地は延暦寺領として、地子銭を差し押さえたのは不当である。


一、昨年夏、幕府に蓄えていた米を金銀に代えたそうだが、将軍が商売をするなど聞いたことがない。


一、寝所に呼んだ若衆を良し悪しに関わらず厚遇するのは世間から批判されても仕方がない。


一、幕府に使える武将達が金銀を蓄える事に専念している。将軍がそのような行動をするから部下がさては京都を出奔するのかと推察しているためと思う。


一、将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。



 承兌に見せてもらった意見書の写しを目にして、これは果たし状同然だと牛太郎は思った。義昭がこれを受け入れるはずがない。しかも、ここに書かれてある義昭の愚行が真実なのかどうかは牛太郎にはわからないが、天下の人々にこれを晒されてしまった義昭こそ面目がない。

「摂津が動きますよ」

 承兌は言う。

 包囲網が完成した今の状況にあって、屈辱を与えられた義昭は天下に号令して挙兵するであろう。上総介も弾劾状を突きつけた以上、迎え撃つに違いない。

 そのとき、摂津も動く。

「荒木信濃守殿をお味方に引き入れるにはこの機会しかありません。高槻城も同様です。摂津をひっくり返すには今です。今を逃し、公方様にお味方させてしまえば、摂津は永久に反織田様です」

 今の時点で織田と反織田、どちらに付けば有利かは明白である。ただ、注視すべきなのは、反織田の頭目が足利義昭であり、あるいは武田徳栄軒、三好三人衆、本願寺一向衆などの勢力が反織田の主導権を握ろうとしている点であると承兌は言った。

 既存勢力に味方してしまえば、同じことの繰り返しである。

「そこを突けばよろしいのでは」

 牛太郎は納得した。ただ、一つ、疑問に感じた。

「お前は織田に天下を取ってほしいのか」

「でなければ、何も変わりません。戦国の世が終わらないことには何も始まりません」

 承兌のわからないところだ。上総介がいる限り、相国寺の再興は難しい。それでも、織田に天下を取ってもらって戦乱の世を終わらせてほしいと言うのだから、一体、承兌にとって何がもっとも優先されているのか不明である。

 とにかく、牛太郎は京を立って、急いで堺に向かった。

 堺の屋敷の居間には半纏姿のさゆりが両手を両の袖の中に入れながらどかりと腰を据えていて、

「どこで道草を食っていたんや」

 と、薄い眉間にしわを寄せていた。

「ゆっくりしている暇なんてないで。さっさと池田に行って、信濃守を口説いてきいや」

「なんだと?」

 牛太郎が腰を下ろすと、彩が煎茶を運んできて、牛太郎の前に出した。さゆりを睨みつけながら、それをずずと啜る。おかしなことに、さゆりは床の間を背中にして、牛太郎の上座である。

「御主人様がようやく帰ってきたっていうのに、なんなんだ、その口のきき方は」

 さゆりは三白眼のきつい目で牛太郎の睨みをあしらいながら、団子鼻を突き上げて笑う。

「ようやく帰ってきただなんてよく言うわ。勝手に出ていったのはあんたやないか。つべこべ言う暇があるんなら、池田に早う行きい」

 牛太郎は床をどんと叩いた。

「おかしいだろ!」

 障子戸の前に座る彩が垂れ瞼に支えられた大きな瞳を牛太郎にしらりと向け続けてくる。半纏の袖に手を突っ込ませたまま、さゆりは鼻を突き上げて、牛太郎を冷えた眼差しで睨め落としてくる。

「なんで、お前がおれに偉そうに指図してやがるんだ!」

 さゆりは口を閉ざしたままでいる。彩は白々しく牛太郎を見つめてくるままである。

 なんなんだ、この敵地感は。さゆりも彩もまるで石ころのように冷たい。わざわざ浜松までやって来て窮地を救ってくれたはずなのに、掌を返したかのようだ。

 障子戸ががらりと開いて栗之介が無言で入ってきた。手にはなぜか黒漆の鞍を抱えていて、さゆりの背後の床の間にそれを置いた。

「おいっ。鉢巻き。おいっ!」

「なんだよ」

「なんだよじゃねえよっ。なんで、それを勝手に持ってきてんだよ! 岐阜のあずにゃんに預けたはずだぞ!」

「奥方から許しをもらったぞ」

「なんや、それ」

 と、さゆりが興味を持ってしまって、栗之介は栗綱が上総介に貰ったものだと言った。さゆりはへえと表情を崩し、鞍をまじまじと眺めた。

「見事やないか。上総介も栗綱にくれてやるなんて粋な男やなあ」

「おいっ!」

 牛太郎は腰を上げると、さゆりの手から鞍を奪い取った。

「気安く触んな! これは簗田家の家宝だぞ! お前らの汚い手でべたべた触んじゃねえっ」

「何を言ってんだ!」

 突然、栗之介に突き飛ばされ、牛太郎は鞍を奪い取られてしまう。

「これは栗綱が頂戴した鞍だぞ! 言っておくけど旦那のもんじゃねえからな! 旦那こそ汚ねえ手で触んじゃねえっ」

 呆気に取られる牛太郎を尻目に、栗之介は鞍を床の間に戻し、腰に引っかけていた手拭いで鞍を拭いていく。

「そやそや。あんたの家宝は奥方の小袖やろうが。そういえば、彩、ちゃんと買ってきた錠前付きの箱に着物をしまっているんやろうな。助平泥棒が帰ってきたから気をつけなあかんで」

 にやにやと笑うさゆりに彩はこくりとうなずいた。

「旦那様が戻られると聞いてから、着物はしっかりと保管しています」

 そうして、彩の冷ややかな視線が牛太郎に突き刺さった。

 牛太郎は恐怖に震えた。女たちが牛太郎に向けてくる軽蔑は想像以上に根深い。

「シ、シロジロは、まだ、か、帰ってこないのか」

「早う行きい、池田に」

「はい」

 牛太郎はそろりと腰を上げると、

「く、栗之介くん。行こうか」

 すごすごと居間をあとにした。


 摂津という地は京に近いこともあって、いにしえの時代から豪族たちの覇権争いが絶えなかった。

 この地に長年君臨した者はいない。しいて上げれば幕府の管領職を担ってきた細川家だが、それはこの地の豪族たちを黙らせていただけの影響力に過ぎず、たとえば、守護としての大きな資質で甲斐の国を一つにまとめ上げた武田家や、力を伸ばした土着豪族がそのまま家族的な結束を持った徳川家の三河などとは違い、誰かに仕えるということを一切知らない人間たちの集合体が摂津国であった。

 昨日の友は今日の敵を地でいく猛者どもである。

 簗田一派が摂津工作の根本としている北摂津の池田は、池田氏がはるか平安の時代から土着勢力とし根を下ろしている。源氏、楠木、足利、細川、三好と、時代の潮流に乗った覇者たちの配下となって、氏族を守り続けてきた。

 しかし、池田氏は転機を迎えている。豪族が乱立していた北摂津で、かつてない勢力拡大に邁進していた。親織田方であった筑後守勝正を追いだして当主となった池田九右衛門知正は隣接する仇敵茨木氏を滅ぼすと、当時は織田方であった足利直臣和田惟政を討ち取り、高槻まで攻め上がった。

 希代の大悪党、松永弾正忠の横槍で高槻城を攻め取るには至らなかったが、次には伊丹城を牽制し、三好三人衆、本願寺一向衆と肩を並べるまでの勢力となりつつある。

 摂津は西国と京を結ぶ要地であり、街道が走る北摂津はなおさらであった。この北摂津に覇権を打ち立てようとしている当主池田九右衛門は、ここで足利幕府内での権威を獲得しようと目論んでいた。時代の覇者の配下に甘んじてきた氏族であったが、たかだか一向宗の本願寺、織田との争いで疲弊している三好を押しのけ、自らが摂津の守護として名乗り出るのも遠くないと。

 織田方には付かないのか、という声も家臣団からはある。九右衛門は上総介の時代は一瞬の時代であろうと考えていた。実際、武田徳栄軒が西上している。浅井朝倉や長島の一向一揆に手を焼いている現時点で、将軍義昭が公に号令をかけてしまえば、上総介の時代は終焉するであろう。

 つまり、九右衛門の頭の中には天下泰平の時代が来るのかどうかという考察がない。むしろ、ほとんどの諸勢力が同じ考えである。血で血を洗うこの乱世が当然であり、まさか、この混乱を一つにまとめあげる人間が出てくるとは信じがたいのだ。

 それが古い体制に生きる人間たちの根本であった。体制は壊れない。いや、壊れてしまえば、自分たちはどうなるのか。恐怖である。

 が、古い体制の中で権勢を持っていない人間にとっては、彼らを目障りに思っていた。

 荒木信濃守村重もその一人である。

 信濃守は自宅に築いた茶室で、一人、田中宗易から譲られた高麗物の茶碗をじっと眺めていた。

 齢二十八である。この若さで、彼は茶道にひどく精通しており、田中宗易が唱えるわびさびの美を体現しようと日々精進している。

 それが武将の目指すところかと問われれば、笑ってごまかすしかない。武家の人間として生まれた信濃守だが、戦乱の世など彼にとってはどうでもいいことで、どちらにせよこの世は人と人とが醜く争う世なのだ。

 つまらぬ考えで血を流し、血を見るならば、大きな無常の世界にあるひとときの静けさに身を任せているほうがよい。

 追及すべきは天下の良しあしではなく、この無常なる世界に生きる人間のありようであはないか。

 茶道はそれを体現せしめる。茶器はただの物体でありながら、物体の無を雄大に、かつ、繊細に表現する。

「いくさなどではわかりえぬことだ」

 と、信濃守は瞳の奥をほとばしらせながら、高麗茶碗を額の高さまでかかげ、静かに笑みを浮かべる。

「だが、これを手にするわしにはわかるのだ」

 池田の田舎者どもにはこれがわからない。掌をころころと返す臆病者と自分を呼ぶ者もいる。

 残念ながら、わからない者にはわからないのだ。池田の今の勢いは、臆病者の自分が軍備を拡張させたからあるのだ。臆病者という先入観で人を見て、根本的なものには目を届けられないでいる。

 おそらく、織田上総介は違う。田中宗易を茶頭に迎え入れ、まったく新しい舶来のキリシタンの教えを保護し、天下の名物を収集しているという上総介は違う。

 何が根本であるか、あいつはわかっている。

 信濃守もまた若かった。むしろ、追及しすぎて、我欲が強い男であった。自分が知り得たこと、獲得したものをひけらかしたいのは人間には当然であった。

 また、勢いのある池田家にあって、父の代からの権勢を持っている信濃守が、茶室の中だけで自己存在を確かめるだけに飽き足らなくなったのは必然でもあった。

 簗田左衛門尉曰く、もしも、荒木信濃守が謀反を起こしたならば、織田上総介はこれを支援する。

「殿」

 障子戸の向こうから従者の声がして、信濃守は茶碗を下ろした。

「簗田左衛門尉殿がひそかにお見えされました」

「通せ」

 ついにこのときが来た。信濃守の手は小刻みに震えていた。主家を裏切る恐ろしさもあれば、念願かなう興奮もあって、信濃守の胸は緊張にとどろいた。

「お待ちしておりました、簗田殿」

 信濃守は茶室に入ってきた牛太郎に深々と頭を下げた。

 牛太郎は無言のまま大きな体をゆっくりと下ろし、唇を震わせている信濃守をじっと見つめた。

「まずは一服いただきましょうか」

「おおせのとおりに」

 信濃守は牛太郎の口利きで田中宗易から譲り受けられることができた、自慢の高麗茶碗で茶を点てた。信濃守が茶筌で椀の中をかき回し、牛太郎はそれをじっと眺める。

 久方ぶりに再会したはずの二人の時間は沈黙だけが下りていた。思惑はあっただろうか。繰り返されるように流れる時間の中で、ただただ、信濃守は茶を点て、牛太郎は差し出されるのをじっと待っていた。

 緊迫している。しかしそれは、織田がどうの、足利がどうの、謀反がどうのという次元の緊迫ではなかった。何度も茶を振る舞っては振る舞われている信濃守と牛太郎の世界は、茶碗の中の一点だけに留めおかれていて、その茶碗の中の無我の世界の前に突き出されたための緊迫であった。

 信濃守は無我の世界を牛太郎に差し出してきた。牛太郎は茶碗を取ると、無我の世界を見つめながら掌でそれをゆっくりと回し、時間をかけながら一息で飲み干した。

「結構なお手前でした」

 そうして、無我の世界に心を洗い流し、緊迫から解放された信濃守と牛太郎はさえざえとした感覚で言葉を発した。

「村重殿、時は来ましたよ」

「ええ。承知しております」

 静かにうなずいた信濃守の瞳は黒々と燃え立ち始めた。


 牛太郎が荒木信濃守の決意を確かめたとき、牛太郎と同じく北摂津を織田方に付かせようと試みて、一人の男が池田九右衛門と面会していた。

 山城勝竜寺城城主、細川兵部大輔藤孝である。

 細川兵部は、足利直臣であり、先々代将軍の義輝のころから仕えていた。和泉守護の細川家の血筋であり、父は将軍側近の三淵家の養子である。明智十兵衛のような浪人あがりとは毛並みも違えば、生粋の足利幕臣であった。

 十三代将軍義輝が松永弾正忠に暗殺されたさいには、義昭とともにわずか数人で京を脱出し、上総介の庇護の下、義昭が将軍職を掴むまでは、苦楽を共にしたのだった。

 その細川兵部が、池田九右衛門に目通りを願い、説き伏せようとしたのである。

「織田上総介にお味方しなされ」

 池田の家臣団は面食らった。剣術に優れ、和歌を好み、流行りの茶道にも精通していると聞こえに高い風雅な文化人の細川兵部が、眉尻を吊り上げて詰め寄るのである。

「時代は変えていかねばなりませぬ」

 池田城の広間は水を打ったように静まり返った。

 なぜ、細川兵部が幕府を見限ろうとしているのか。家臣団は見極めかねた。包囲網が完成されている中、誰がどう見ようと、趨勢は反織田に固まりつつある。

 家臣団の面々は、細川兵部の真意を知りたがった。幕府には何かがあるのではないかと疑った。

 摂津池田は、先代当主の筑後守勝正を追放して以降、九右衛門知正を当主に緒仕立てているとはいえ、それは傀儡に近かった。追放劇を主に演じたのは池田家臣団の二十一人で、この二十一人の家臣団の合議が池田家のかじ取りであった。

 二十一人の中でもっとも兵力と権勢を持つ者が荒木信濃守である。ただ、信濃守の姿はここになかった。

 臆病者の信濃守に聞かねば決められない。なぜなら、池田家の大半の兵力と軍備を保有しているのが信濃守なのである。

 もちろん、細川兵部も存じている。だから、ここに信濃守の姿が見当たらなくて、内心は空振りに終わったと決めつけていた。たとえ、九右衛門が首を縦に振ったとしても、信濃守がいなければ決議されたものがひっくり返される恐れがある。

 牛太郎にとって不幸だったのは、細川兵部が自らの独断で池田の説得にやって来たことだ。牛太郎が摂津の工作に奔走しているのは、ほとんどの人間の預かり知らぬところであり、もしも、兵部が上総介に一言置いておいたら、兵部は牛太郎と行動を同じくしたであろう。

 義昭を断腸の思いで見限った兵部は、よかれと思って北摂津に狙いを定めた。しかし、兵部の決死の覚悟が、傀儡でしかなかったはずの九右衛門に火をともしてしまった。

「足利将軍家に多大な恩を持つそなたが、将軍家を寝返るとは如何なものであろうか」

 九右衛門は齢十九と、非常に若い当主であった。そして、自分が傀儡であることも当然ながら理解していた。

 家臣団二十一人衆が細川兵部の説得に心を乱しているのを目の前にして、九右衛門は、当主である自分の意志を貫くべき場面はここでしかないと思った。

「初志貫徹、池田は上総介に付かぬ。摂津池田は足利将軍家にお味方し、天下を乱す逆賊、織田上総介を討つ」

 この若い当主は、時代の趨勢や将来への展望よりも、自分が池田家を主導することを重要視した。

 初志を翻せば、それだけ当主としての器が狭められる。初志を貫徹してこそ、当主としての威信を大きく発揮できる。

「これが摂津池田の思うところだ。そうであろう、皆の者」

 九右衛門は念を押した。家臣団は忸怩たる思いでうなずくしかなかった。傀儡であるとはいえ、当主は当主である。ここで異存を発するなど、池田九右衛門の面目を潰すなどという些末なことではなく、摂津池田の面目が立たないのである。

「しかし、九右衛門殿、時勢は――」

「将軍家に刃を向けようとは大悪党の松永弾正と同じことよ! 去ね!」

 細川兵部は立ち去るしかなかった。見誤ったと後悔しながら池田城を下りた。荒木信濃守から攻めれば、もしかしたら、このようなことにはならなかったかもしれない。

 いや、と、兵部は顔を上げた。まだわからない。信濃守を当たれば、決議は翻るかもしれない。

 兵部は足取りを速め、信濃守の屋敷へと向かった。

 牛太郎が細川兵部と再会したのは、調度、茶室をあとにしようとしていたときである。

「簗田殿ではないか」

 牛太郎は首を傾げた。突然、現れた男は自分を知っているような口ぶりであったが、覚えがない。いや、落ち着いた物腰と、鼻の下に勇壮にたくわえた髭、澄んだ瞳の向こうに帯びるはかとない憂いは、昔、どこかで見たような気もするが、記憶は曖昧であった。

「どちらさまでしょうか」

 図太いのか、馬鹿なのか、ぬけぬけと訊ねた牛太郎に、兵部は苦笑して返した。

 ずいぶんと前のことだが、南近江の観音寺城を落としたあと、明智十兵衛を先鋒に上洛したとき、兵部は牛太郎と同行している。

 そのことを兵部に聞かされた牛太郎だが、首をひねった。思い出せない。

「まあ、いいです」

 兵部は肩を落としながら牛太郎の隣に腰を下ろし、信濃守に視線を据えた。

「荒木殿。今しがた、拙者は池田城を訪れていたのですが――」

「兵部大輔殿。とりあえず、一服盛りましょう」

 腰を折られた兵部は、口許をむずむずと歪めたが、信濃守があまりにも真剣なので、「うむ」とだけ答えて、あとは黙った。

 信濃守が高麗物の茶碗に抹茶を落とし、湯を注ぎこむと、それを茶筌でかきまわしていく。兵部はじいっと信濃守のしようを見つめながらも、心はそこになかった。信濃守を口説き落とすことだけが先行していた。しかも、驚くことに、簗田左衛門尉牛太郎がいる。兵部には牛太郎がどうして信濃守と懇意にしているか計りしれなかったが、とにもかくにも、信濃守が織田方に心を寄せていると推測し、いっときも早く、信濃守を池田城に登らせたかった。

 茶碗が兵部の前に差し出された。茶碗を手にした兵部は、茶碗を回し、隣に座る牛太郎に一礼すると、中身を三口で飲み干した。

 京の文化人として、兵部も茶道のたしなみはこころえている。身のこなしようは実にしなやかで、茶室の沈黙に押し潰されることもなければ、一つ一つの動作には沈黙を受け入れる柔らかさがあった。

「結構なお手前でございました」

 空になった茶碗を膝元に置く。

 うぐいすの声が間近に聞こえてきた。みやびに濡れたその声は茶室を一瞬にして彩った。

 が、茶碗を兵部の膝元に置いたまま、信濃守と牛太郎が沈黙のままに見つめ合っている。

「何か」

 兵部が思わず訊ねると、信濃守も牛太郎も頬をしかめながら首を傾げた。

「なんだかねえ」

 と、牛太郎が言うと、信濃守がさらに首をかしげる。

「左様ですな。どこか、兵部大輔殿は、うーむ」

 兵部は目を泳がせた。自分の動作はまさに礼に従っていたはずだ。

「なんだか、心ここにあらずって感じでしたよ。細川さん。ここは茶の湯の室なんですから、心は外界と切り離さないとね」

「左様。兵部大輔殿には邪の念が感じられましたな。茶とは味わうものではなく、身を置くものでございます」

 兵部はがっくりと落ち込んだ。池田にまで足を運んでまで将来の時代に意を決しているというのに、まさか、このような者たちにけなされるとは、心底疲れ果ててしまった。


 この日、池田家を掌握した者は誰であったか。

 信濃守を筆頭とした二十一人衆の合議で左右されていた摂津池田の命運は誰に委ねられていたか。

 信濃守も牛太郎も気付かないでいた。当主、池田九右衛門が一寸の隙間を突いて、その存在を確立させたことを。

 窮鼠が猫を噛むようにして、ときに傀儡当主は己が建前であることを利用して、表舞台に躍り出る。

 歴史上、何度かあったことだ。

 そうとは知らず、信濃守は謀反に先だって二十一人衆の合議でもって、九右衛門を追放せしめようと考えていた。

 九右衛門は足利幕府に付くであろう。それに反対して自分が上総介に付くことを名乗り出れば、権勢を持つ自分に二十一人衆は付いてくる。

 だが、遅かった。

 信濃守を除く二十一人衆は、細川兵部が訪ねたさいの九右衛門の押し出しによって、嫌がおうにも、建前上、九右衛門に従わなければならなくなったのだ。

 政治屋は体裁が重要なのである。

 九右衛門を傀儡として当主に仕立て上げる体裁を築いた以上、この体裁を守らなければならない。

 九右衛門はこの体裁をうまく利用し、主導権を獲得した。

 信濃守に耳を貸す者はいなかった。

 普段は家にこもりがちな信濃守が積極的に同僚の家臣団たちの屋敷を回り巡り、それとなく、遠回しに、織田上総介の庇護を受ける自分に味方するよう説いたが、

「お主は本気でそのようなことを言っておるのか」

 と、ある者には冷たい目で見つめられ、また、ある者は、

「それはつまり、おやかた様を寝返るということに聞こえますが、左様なことであれば、すぐさま登城しなければなりませんねえ」

 と、わずか半日にして権勢を失った信濃守をあざ笑うかのような微笑を浮かべた。

 信濃守にしてみれば、狐に化かされたかのようである。

 まず間違いなく、二十一人衆は自分に味方するものだと考えていた。だが、信濃守は甘かったのかもしれない。謀反に対して、自分の権勢だけを頼りにしており、同僚たちに十分な根回しを行っていたとは言えなかった。

 信濃守がうなだれながら帰宅したとき、空には銀色の月がはりついていた。

「これはまずいですぞ、信濃守殿」

 手ぶらで帰ってきた信濃守に、細川兵部が声をひそめた。

「すぐに九右衛門殿に告げ口をする者が現れるでしょう」

 見事なまでの建前の下にひれ伏してしまった信濃守以下二十一人衆は、九右衛門が名実ともに当主となれば、今後、合議制を取る必要がない。

 では、誰が家臣団の中で当主の愛を得るか。

 新たな権力闘争が始まる。

 手っ取り早いのは手柄を上げることであり、信濃守に謀反の疑いありと弾劾することである。

「明日にでも信濃守殿を捕らえにくるやもしれませぬ」

 そう、次なる野心を抱いた者にしてみれば、家臣団随一の軍備を保有している信濃守などはさっさと殺さなければならない。

 信濃守はうろたえた。

「し、し、しかし、そ、そのようなことが、おこ、起こるわけが」

「起こりまする」

 兵部の鋭く突き刺す眼差しに、信濃守は唇を青く震わせた。

 かたわらで、牛太郎は呆然とした。しばらくの間は状況がつかみきれなかったが、瞳を泳がせてうつむいている信濃守を眺めているうち、理解した。

 この馬鹿野郎、しくじりやがった。

 牛太郎はわなわなと震え、拳を握り締めた。何をやっているのだと、怒りがこみ上げた。これまで費やしてきた労力と時間が、信濃守の見誤った自信のおかげで無駄になったのだ。

「逃げなされ」

 と、兵部が言う。

 終わった。摂津工作は終わった。

 いや。

 牛太郎は顔を上げた。まだ、終わっていない、と。信濃守が殺されるまでは終わっていない。ならば、それまでの間、できることはやらなければならない。

「逃げるんなら、岐阜に行ってください、村重殿」

 そして、兵部と共に上総介に面会してこいと言った。

「八方ふさがりになっちゃったなら、力でねじ伏せるしかないでしょ」

 要は上総介の兵力をあてにしろということであった。信濃守は救われたような目の輝きを見せた。ただ、兵部が眉をしかめた。

「しかし、果たして上総介殿が今の状況下で兵を出してくれるかどうか」

 牛太郎は黙った。出さないと思っている。織田家の戦略上、北摂津は二の次である。

 だが、ここで信濃守を失うわけにもいかなければ、北摂津を反織田方にするわけにもいかない。

 今までのすべてが終わってしまうのだ。

「出してくれるかどうかは行ってみなければわからないでしょう」

 牛太郎は兵部に睨むような視線を与えたが、言葉とは裏腹にそこには悲愴が入り混じっていた。ここで終わらせたくないという思いと、終わってしまうのではないかという恐怖が眼差しには同居していた。

「細川さん、村重殿、とにかく、明日、朝一番にでも池田を脱出しなさい。あとのことはあっしがなんとかしてみせるから」

「なんとかするとは、一体何を」

「なんとかです」

 牛太郎の瞳の中は行燈の火を受けて燃えており、それを押し付けられた兵部は唇を押し込めてただうなずいた。

 牛太郎は兵部と信濃守に決心させたあと、荒木家に用意された居室にこもり、荷紐をほどいている栗之介の手を止めさせた。

「どうしてだ」

「黙ってろ。言われた通りのことをしてろ」

 牛太郎は腕を組むと、じっと目をつむった。

 栗之介とともに堺に戻り、一度、計略を立て直すべきかもしれない。再び小寺官兵衛にやって来てもらい、策を練り直してもらうしかないかもしれない。

 しかし、九右衛門が当主としての当然の振る舞いを始めた以上、工作を挽回する猶予は、今日、明日しかないような、そんな勘が働いていた。

 さゆりに頼る時間もないし、そもそも、あの者に頼るのは癪である。謀反が失敗したとなると、叱られるに違いない。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 信濃守の脈がなくなった今、どうすれば、摂津池田を転覆させられるのか。

 信濃守以外に、人脈があるか。

 一人あった。中川瀬兵衛清秀。彼もまた二十一人衆の一人である。


 昨年の夏、白井河原で高槻城城主、和田惟政の首を自らの手で討ち取った中川瀬兵衛清秀は、その恩賞として摂津池田の呉羽台五百石を荒木信濃守から頂戴した。

 その信濃守が昨晩やって来て、

「あ、あ、足利幕府に付く、付くのが良策とは、わ、わしは思えぬ」

「しかし、弥介殿」

 と、瀬兵衛は従兄弟の信濃守をかつての幼名で呼んだ。

「そなたがおらぬ間に、おやかたは織田に付くと決めてしまいましたぞ。我ら家臣団もそれに従う他ありませんでしたわ」

「なら、な、ならば、わ、我らは、お、織田殿に付けばよ、よろしいでは、ない、ないのか」

「我らとは誰なのです」

「わ、我ら、我らではないか」

「弥介殿ですか」

 瀬兵衛の追及に信濃守は黙りこんだ。信濃守が摂津池田の主に立つのかと訊いたのだった。

 もし、自分と信濃守の共同統治でないのならば、何かの見返りがなければならない。金、石高、あるいは、

「茨木城ですな」

 昨年に攻め取った茨木城に守将を置かないでいるのは二十一人衆が暗黙のうちに牽制し合い、なおかつ、信濃守が他の者に力を得られることを恐れていたからである。

 それを寄越せ。

「か、考えさせてくれ」

 朝、布団の中で目を覚ました瀬兵衛は、まず、昨晩の信濃守の不甲斐なさを思い出して、舌を打った。

 二つ返事で了承さえすれば、信濃守は北摂津に覇を唱えることができ、自身は齢三十にしてようやく、福井村の土豪から城主へと成り上がれたのだ。

 瀬兵衛は居室を出て屋敷の縁側に腰かけると、しらしらと明けていく空を眺めながら、早朝の冷えた空気を寝巻き一枚で受け止めた。

「おはようございます、旦那様」

 従者がやって来て、傍らに白湯を置いた。瀬兵衛は椀を手にし、白湯をずずと啜る。

「今日も一段と冷えるの」

 その息は白い。

「春が待ち遠しいわ」

「はあ」

 従者は不思議そうに首をかしげた。朝早くから庭先に出てきて武芸の鍛錬をするのが瀬兵衛の日課であるが、この筋骨たくましい主人が季節の情緒に染み入ることなどそうそうない。

 瀬兵衛は椀に口をつけた。湯の温かさが体の端々にまで通っていく。

 行われるであろう二十一人衆の権力闘争、瀬兵衛はすでに不参加を決め込み始めていた

 白井河原の戦いで上げた武功により、二十一人衆の中で発言権を得つつあった瀬兵衛だが、それは従兄弟の信濃守の権勢の下によるところが大きい。

 昨日の細川兵部大輔との会見の席上に信濃守が呼ばれていなかったのは、おそらく、何かの力が働いていたのであろう。九右衛門が信濃守の排除を狙ったか、もしくは、二十一人衆の中の誰かがすでに暗躍しており、会見の場を取り仕切ったか。

 この静かな政争において、自然的に信濃守側となってしまっている瀬兵衛ははなから不利である。

 それに、同僚たちから信用されていないことも瀬兵衛は承知している。

 だったら、静観する他ない。ここでむやみに動いては、命の危険が生じる。

 信濃守が大胆な行動を取ってくれるのであれば、話は別なのだが、その可能性は低い。

「春が待ち遠しいわ。のう?」

「はあ。左様で」

 瀬兵衛は腰を上げると槍を手に取り、庭先へと下りた。まだ、空は明けきっていない。うっすらと青ばんでいるだけで、星がまだ残っていた。

 瀬兵衛は槍を構える。そこに流れている無にじっと相対し、邪念を消していった。熱が肉体に帯び始め、汗がじっとりと浮かんできた。

 槍一つで成り上がれる戦国の世などとは、誰が言ったものか。

 ちいっ、と、瀬兵衛は舌を打ち、槍を放り捨てた。心が乱れている。おもしろくない。

 従者が槍を拾い上げているのをよそに瀬兵衛が縁側に足をかけようとしたとき、門番が庭先に小走りに回り込んできた。

「旦那様」

 と、ひそやかな声で駆け寄ってき、瀬兵衛の足元にひざまずいた。

「朝早くから何事だ」

「それが、簗田左衛門尉殿が目通りを願っております」

「簗田だと?」

 門番はうなずくと、目通りを願う書状を受け取って来たと、それを瀬兵衛に差し出してきた。

 書状にはこうあった。

 北摂津の今後について、ご相談したい。

「よかろう。通せ」

 あの鈍牛が敵地にのこのことやって来て、このような早朝から押し掛けてくるとは、昨日の細川兵部大輔といい、何かあるに違いない。

 そして、書状には北摂津の今後とある。池田の今後ではなく、北摂津である。

 瀬兵衛は口端に笑みを浮かべた。摂津池田の政争どころではない、織田と反織田の大きな流れが感じられるのだ。


 牛太郎は一睡もしていない。

 実は中川瀬兵衛の脈を当たろうと思いついたときから、牛太郎は細川兵部と徹夜で話し込み、計画を練った。

 摂津工作に月日を費やしてきた牛太郎だったが、なにしろ、ほとんどの実務はさゆりに放り投げてしまっていたので、事情にうとかった。

 瀬兵衛を当たろうかと考えているが、どうすればいいものかと兵部に相談したところ、

「簗田殿は中川瀬兵衛と親しい間柄なのか」

 と、訊ねられ、親しくもないが交渉はできる程度の関係だと答えると、

「それは好都合です。信濃守と中川瀬兵衛は従兄弟なのですから」

 そう言われて、牛太郎はそのときにようやく、瀬兵衛が信濃守の権勢のおかげで二十一人衆に名を連ねていられていることを初めて知った。

 意外だった。牛太郎が感じていたところ、瀬兵衛は信濃守を侮っていたし、臆病者呼ばわりしていた。

 なるほど、瀬兵衛は信濃守という人間には不満があるのだが、なすすべない力関係の枠組みの中におさまるしかなかったらしい。

 すると、思いついた。

 このとき、牛太郎は天才的だった。たいがいの凡人の閃きなどは物事の一つだけを閃くにすぎないのだが、竹中半兵衛のような天才的な軍略家や、小寺官兵衛のような天才的な謀略家、引いては武田徳栄軒のような天才的な政治家は、情報の一つ一つを並べ立てた上で、大局を閃く。

 牛太郎は凡人どころか愚将である。だが、半兵衛や官兵衛と接し、それに徳栄軒との心理戦などの経験によって、自然に研鑽を重ねていたのかもしれなかった。

 北摂津の覇権の運びようを一瞬にして思いついたのだ。

 牛太郎はその策を兵部に話した。すると、兵部は舌を巻き、最後には、

「貴公は恐ろしい御仁だったのですな」

 と、唾を飲み込んだ。

 兵部が恐ろしいと言ったのは、牛太郎の頭脳に対してではないだろう。教養人の兵部は、不義理で非情なその策謀を考え出した牛太郎の人間性が恐ろしいと言ったに違いない。

 馬鹿を言うな、と、言いたい。牛太郎はかつて瀬兵衛にだまされて、池田城の牢獄にぶち込まれている。

 その仕返しだと思えば、不義理でも非情でもない。

 そもそも、自分が汚い真似をして、瀬兵衛だけが貧乏くじを引くのであれば、万骨も枯れずに済むのだ。

 瀬兵衛には泣いてもらうしかない。

「瀬兵衛殿」

 呉羽台の屋敷の居間にて、寝巻きから衣服を正した瀬兵衛に、牛太郎は濁った眼差しをにじり寄せた。

「茨木城を手に入れたいとは思わないか?」


 居間を閉め切る戸の障子を朝日が透かしている。雀の鳴き声がぽつりぽつりと聞こえてきていた。

「ほう。実に簡単に言うではないか」

 瀬兵衛は笑みを浮かべながらも瞼を大きく押し上げて、威圧的であった。ぴりっとした殺気が走り、居間に流れている空気が張り詰めた。

「ああ。簡単だとも」

 牛太郎が発した声は地をならすように低く、野太い。朝の光を背中だけに受けている彼の表情は影の中にひそんでいて、瞳の色は一点に漆黒、瞼の下をくっきりと縁どらせているくまが、黒さをいっそう際立たせていた。

「一両日中には、瀬兵衛殿は茨木城城主、いや、北摂津に覇を唱える」

「いかようにしてだ」

 と、瀬兵衛が広げた瞳孔が牛太郎を更に威圧した。

「それよりもまず――」

 牛太郎は影の中で静かに座っている。二つの目だけがそこで生きているかのようだった。

「瀬兵衛殿にその気があるのかどうかだ」

 まるで帳の向こう側にいるかのようであった。遠くのほうから目だけをひっそりと光らせて獲物を狙っている闇の獣のようであった。

「こしゃくな」

 瀬兵衛は獣の不気味さに抗うかのようにして語気を強くした。

「お主が荒木信濃守と懇意にしていることなど重々承知しておるのだ。そのようなうまい話を信濃守ではなく、わしに持ってくるとは、お主こそその真意を申せ」

 すると、牛太郎は口許を歪めて笑った。

「瀬兵衛殿、確かにな、うまい話なんてのは裏を返せば危ない話でもある。ただ、うまい話に乗るか反るか、うまい話を進めるか捨て去るかは、お互いの利害が一致するかしないかで済む話でもあるんじゃないのか」

「ならば、お主の利するところはなんだ」

「天下布武への道しるべとなること、ただそれだけだ」

「ほう。お主がそこまでの忠臣であるとはな」

「瀬兵衛殿にはわからないだろう。織田のためになるということは、あっしのためになることでもあるんだ。知っているだろ、木下藤吉郎、明智十兵衛、この二人は織田の重臣でもないのに、かたや北近江攻めを任される一軍の将であり、かたや坂本二十万石を与えられた浪人上がりだ」

 瀬兵衛は笑みを消して、押し黙った。

「信長様は能力のある者、貢献した人間に与える褒賞には惜しみない。摂津池田でくすぶっている瀬兵衛殿にはわからないだろうな」

「しかし、天下布武とやらが達成される望みなども薄いであろうな」

「本当にそう思うか」

「ああ。そうでなかったら、この地のおやかたも織田上総介に付いただろう」

「武田信玄が死んでいても、か?」

「なにっ?」

「今、東海道を攻め上がっている武田信玄が、その途中で死んでいてもそう思うのか?」

「笑わせるな」

 と、瀬兵衛は鼻で笑いながら、しかし、若干うろたえもした。

「かようなことが起きれば、日の本中の人間が大騒ぎするわ」

「いや、兵を出してすぐに遠江のほとんどを攻め取ったというのに、その後はいまだに三河を突破できていないじゃないか」

 それは事実であった。三方ヶ原で圧勝した武田軍であったが、年が明けてからは動きが鈍くなっており、三河に侵攻したとはいえ陥落した城は野田城という小さな属城のみ。遠江の支城を一日にして落としていった迅速さは失っている。

「武田信玄は死んでいる」

 と、牛太郎は言い切った。

 二人は沈黙のまま睨み合った。


「話を戻そう」

 牛太郎は背筋を反り返すと、着物の袖の下にそれぞれの手を突っ込み、たるんだ顎を引きながら視線を瀬兵衛に据えた。

「瀬兵衛殿はこのままその能力を発揮しないでいるつもりなのか」

 瀬兵衛は腕を組み、眉間に皺を寄せて、床のある一点を睨み続けた。初めて悩み始めた。

 屋敷の奉公人たちの声がちらほらと届いてくる。

 牛太郎は袖の下から手を抜くと、懐から書状を取り出した。それを瀬兵衛の前に差し出し、顔を上げた瀬兵衛をぐいと睨み上げる。

「支度金に二千貫を用意してやる」

 瀬兵衛は目の色を変えた。書状を引っ手繰ると、中を広げた。そこには瀬兵衛に二千貫を支払うという誓約書が茶屋四郎次郎の名で記されてある。

 以前にも、牛太郎は瀬兵衛との交渉で四郎次郎の名を使って百貫の手形を切った。

 無論、それは牛太郎の御用商人の四郎次郎がきっちりと支払っている。

「二千貫だと……」

 土豪の身分ではかき集めることも蓄財することも不可能な大金であった。

 しかし、摂津工作のどさくさで密かに一財を築いている牛太郎にとっては、さほどの痛手ではなかった。牛太郎の手足となって働いている四郎次郎が本願寺と三好に通行料を支払って淀川の水運業を独占している他、寄進札事業に出資した岐阜の願福寺からは年に三回、それぞれ五百貫強が送られてくる。

 瀬兵衛は証文に手を震わせながらも、疑った。

「た、確かに以前にもこのようなことがあったが、二千貫などとはにわかには信じられん。だいたい、この茶屋四郎次郎とは何者なのだ」

「今井彦右衛門の手下だ」

 と、牛太郎は嘘をついた。だが、堺の豪商であり、上総介の茶頭でもある今井彦右衛門の名は、二千貫という大金の信憑性を持たせるには十分だった。

 上総介の御用商人である今井彦右衛門が、数々の利権が生じる摂津が織田方の支配に移ることを願っていることなどは、畿内の人間であれば少し考えてみればわかることであった。

 まあ、実際、牛太郎の摂津工作は今井彦右衛門の協力を得ながらなのだが。

「わかった。よかろう」

 あれだけ牛太郎に突っ込んできていた瀬兵衛は、二千貫の証文を目の前にした途端、早かった。

「して、どのように茨木城を乗っ取らせてくれるのだ」

 口も滑らかである。牛太郎は、顔には出さなかったが、ほくそ笑んだ。これで、瀬兵衛を意のままに操れる、と。

 牛太郎は瀬兵衛に計略の概要を話し始めた。

「まず、瀬兵衛殿は急ぎ荒木村重殿の屋敷に向かい、村重殿の家臣団を自分のものにしろ」

「なんだと」

「村重殿は出奔した。昨日の件で身の危険を感じ、堺に逃げた。正直に言えば、あっしも最初は村重殿を口説いていたけれど、状況が変わった。瀬兵衛殿は荒木家に出向いて、親族ということで建前を並び立てて家臣団を物にしろ」

 そうして、池田九右衛門には、出奔した信濃守が高槻城に逃げたという偽りの報告をし、高槻勢がここぞとばかりに茨木城を狙い始めている。瀬兵衛はその押さえとして茨木城に出兵する。

「そのまま茨木城に居座り、独立してしまえ」

 瀬兵衛は黙りこんで、ただただ、牛太郎の鋭い眼差しを見つめた。

「手筈は整えている。高槻城にはあっしの与力が潜伏していて、そいつが高槻、茨木、池田に流言を広める。高槻勢が茨木を攻め込む準備をしていると」

 嘘ばかり吐いている牛太郎だったが、それは真実であった。夜も明けないうちに栗之介を堺のさゆりの元へと走らせている。

「それと高槻城でも近々謀反が起きる。高山飛騨守とかいうキリシタンが信長様に通じているからな」

 そうすれば、弱体している高槻も、瀬兵衛の物になると牛太郎は言った。

「わかっていると思うけど、あっしは信長様の代理だ。あっしはこれでも信長様に全部任されているからな。あとは、瀬兵衛殿次第だ」

 牛太郎の言葉を受けて、瀬兵衛はしばらくの間、黙って考えていたが、ややもすると、声を大きくして従者を呼んだ。

 牛太郎の背後の障子戸を従者が開けると、

「荒木信濃守の屋敷の様子を見てこい。それと、女に湯漬けを用意させろ」

 そう言って、証文を懐にしまいこみ、口端だけで笑った。

「お主を信用しているわけではないが、忙しくなりそうなのは確かだな」


 計略と引き換えに、牛太郎は呉羽台の瀬兵衛の屋敷に幽閉された。

 信濃守の出奔を確認した瀬兵衛は手勢を率いて荒木家に乗り込んでいっている。

「ゼニゲバだな」

 与えられた居室で、牛太郎は一人、けらけらと笑った。

 主を失った荒木家の家臣団を力と建前でねじ伏せようと、瀬兵衛は鼻息を荒くさせていたが、すべては最初から仕込んでいるのだった。

 信濃守は、一時のあいだ、自らの家臣団、軍勢を瀬兵衛に預けることに難色を示したが、牛太郎と兵部の説得により、信濃守は渋々、配下の者たちへ文をしたためた。

 自分が戻ってくるまでのあいだ、従兄弟の瀬兵衛に従え。

 自分を見限ったふりをし、瀬兵衛に従属するふりをしろ、と。

 ゆえ、瀬兵衛はやすやすと信濃守の軍勢を配下に置ける。

 あとは、栗之介から伝え聞いたさゆりが高槻城の新七郎に伝え、流言が広まるのを待つだけだった。

 瀬兵衛が茨木城に入り、高槻城の高山飛騨守が謀反を起こせば、摂津の情勢を有利に運ばせられる。

「どう考えてもおれのおかげだな」

 フン、と、鼻で笑った。


 瀬兵衛が荒木家を掌握したことは、権力闘争に動き出すと見られていた家臣団の出鼻をくじき、一朝にして、瀬兵衛は頭角を現した。

 信濃守と瀬兵衛を除いた二十一人衆は瀬兵衛のやり方にはらわたを煮えくり返らせ、当主九右衛門の前で面罵したが、瀬兵衛は図太い男であった。

「拙者を罵倒するのは筋違いであろう。信濃守こそ主家を裏切ったくせ者ではないか。むしろ、信濃守が蜂起する前に事をおさめた拙者に感謝してほしいぐらいだ」

 同僚たちからしてみれば、信濃守よりも厄介であった。

 二十一人衆の一部は、夜、ひそかに九右衛門に訴えた。瀬兵衛はそもそも意地の汚い男であり、今回も何かの野心があるに違いない。いつ、織田方に寝返ってもおかしくはない。

「殺すべきです」

「とはいえ、どうするのだ」

 と、九右衛門は困惑した。

 機を見て一挙に当主の権限を獲得した九右衛門ではあったが、それだけであった。そもそもの資質が当主として足りなかった。

 分裂しかけている家臣団を取りまとめることもできなければ、悪玉を排除する術も思いつかない。

 瀬兵衛は瀬兵衛で、そうした動きを警戒して、呉羽台に武装した軍勢を固まらせている。

「どうするのだ」

 九右衛門の苛立った声に、家臣たちは黙るしかなかった。

 すると、弾劾するだけで何も役に立たない二十一人衆ではなく、九右衛門の心は瀬兵衛に傾いていった。

 翌日、九右衛門は、自らの足で呉羽台の瀬兵衛の屋敷を訪ね、

「瀬兵衛、老人たちを黙らせることができるのはお主だけだ」

 と、力になびいた。むしろ、自分を支えてくれと懇願しているようなものだった。

 九右衛門が屋敷を去ったのち、瀬兵衛は盃を満たした酒をなめながら、牛太郎に笑いかけた。

「顔色をころころと変えるあのおやかたでは、池田は終わりだな。いつまでもこの主家に付いていく気など失せたわ」

 有頂天である。

 牛太郎は思った。人々の欲望渦巻く混沌としたこの世の中で、始めはその怪物たちを手玉に取ろうとする計略に臆し、ひどく難儀なものだと感じたが、実はそんなに大それたものでもなかった。

 突き詰めていけば、一人一人の心理が物事を動かしている。瀬兵衛も九右衛門も人間性が如実に現れた行動を取っており、その心理は彼ららしい心理であった。

 こいつらは目の前のことしか見えていない。

 だからこそ、操りやすい。

 信玄は違った、と、牛太郎は二俣城の戦いや、それよりもずっと以前、躑躅ヶ崎館で面会したときの徳栄軒の姿を思い起こした。

 徳栄軒の厳然としたいずまいと、落ち着きはらった表情は、自らの心理を覆い隠す鉄壁の仮面であった。一歩も二歩も相手の先を行こうとする人間は、徳栄軒のように自分の手の内を、己の胸の内を明かさないのだ。

 自分も謀略なんてしている以上、そうあるべきだな。

 牛太郎は瀬兵衛の有頂天ぶりを前にして、しみじみと感じた。


 池田家においてにわかに頭角を現した瀬兵衛であったが、牛太郎の助言で、高槻勢が出陣の準備をしているという流言が広まるまではおとなしくしていた。表向き九右衛門にこびへつらい、己が池田家にとって害ではないことを喧伝することに取り組んだ。

 家臣団こそはよくは思っていなかったとはいえ、九右衛門は従順な瀬兵衛を信用し始める。

 その矢先である。

 高槻城に不穏な動き有り。

 かねてから分裂していた高槻の家臣団が、足利直臣である城主の和田惟長を排除し、織田方に付こうとしている。

 この報告は間者や物見、民衆の噂にいたるまで、あらゆる方面から入ってき、池田九右衛門及び家臣団は対応を迫られた。

 高槻城が織田方に付いてしまえば、隣接する茨木城を空城のままにしておくわけにはいかなった。

「わしが詰めましょう」

 瀬兵衛の発言に家臣団は渋った。しかし、九右衛門が了承した。

 九右衛門は瀬兵衛を頼りにしている。

 瀬兵衛は取り急ぎ、四千の軍勢を集め、茨木城に向かった。

 池田家の人間が異変に気付いたのは翌日の昼になってからであった。九右衛門は瀬兵衛に茨木の知行を与えたわけではない。しかし、呉羽台の屋敷はおろか、荒木信濃守の屋敷まで、家族や奉公人の姿がなくなっており、もぬけの殻であった。

 報せを受けた九右衛門は、すでに茨木城に入ってしまった瀬兵衛に、理由を述べるため急ぎ登城しろという早馬を出した。

 瀬兵衛は無視した。

 摂津池田は混乱した。瀬兵衛を討つべきだという声もあったが、今、仲間割れをするべきではないという声もあった。せっかく、情勢は反織田に傾いているというのに、ここで勢力を弱体化させてしまえば、反織田の中での権威を失ってしまう。それに、瀬兵衛が寝返ったというわけではない。どちらかといえば、勝手な行動を取ったにすぎず、今のところは瀬兵衛をどうにかして懐柔し、ここを凌ぐしかない。

 阿鼻叫喚とする家臣団の様子に、九右衛門はどうしてよいものか決めかねた。

 そのため、あろうことか瀬兵衛を放っておくことにしてしまった。

 池田家の指揮系統は事実上崩壊した。惨憺たる現状に憂いを覚えた者は瀬兵衛に通じるようになり、後先を考えない者は権力闘争を開始した。

 茨木城を乗っ取った瀬兵衛は高見の見物である。

「あとは飛騨守が高槻城を乗っ取れば、わしは飛騨守を従え池田に攻め入れる。簗田殿、上総介殿にえらい大きな土産ができたな」

 瀬兵衛は高笑いし、牛太郎は愛想で笑った。

 おれのおかげだっていうのに。

 瀬兵衛はすっかり自分の力に酔いしれている。

 はりぼての城主なんだけどな、と、牛太郎は腹の内でせせら笑う。

「そんじゃ、瀬兵衛殿も晴れて茨木城を手に入れられたことだし、あっしは明日にでも岐阜に戻るわ」

 すると、瀬兵衛は笑いを止め、

「駄目だ」

 視線を据えてきた。

「支度金をまだ頂戴しておらぬ」

 チッ。ゼニゲバめ。

「だいたい、いつ、二千貫は来るのだ」

「いや、まあ、そのうちにでも来るだろう」

「本当だろうな」

「あっしは嘘と喧嘩は嫌いだ」

 そう言って、牛太郎は茨木城の広間をあとにした。与えられた居室に帰り、仕方なく筆と文を取る。堺の四郎次郎に宛てた。

 二千貫を茨木城に持ってこい、という文面だった。

 栗之介から伝え聞いて、四郎次郎はすでに金を用意しているであろうが、自分の指示があるまでは待機していろとも伝えていた。

 牛太郎の思惑のすべてがうまく運べば、二千貫を瀬兵衛にやらずに済んだ。しかし、最後の最後、例の男が、どうせ、京かどこかで遊んでいるのだろう、間に合わなかった。

 もっとも、ここで金を渡さなければ、後々、瀬兵衛が何を仕出かすかわからない。

「どうせなら千貫にしておけばよかったぜ、クソ」

 一人ごちながら、牛太郎は文を折り畳んだ。


 茶屋四郎次郎こと、中島四郎次郎清延が茨木にやって来たのは、牛太郎が文を送ってから四日後のことだった。二千貫と牛太郎の日用品を積んだ荷駄は堺の港から淀川河口までの航路を取ったあと、そこから北上して茨木にやって来た。

 四郎次郎と顔を合わせるのは久方ぶりで、去年の春に牛太郎が家出をして以来であった。

「旦那様、お久しぶりです」

 城内にて顔を合わせてきた四郎次郎はにこにこと頭を下げてきたが、牛太郎は睨みつけた。

「馬鹿野郎。ここでは旦那様なんて呼ぶんじゃねえ」

「あ。そ、そうッスね」

 摂津の工作を始めて以来、四郎次郎は一介の奉公人から淀川の水運業を切り盛りする雇われ豪商と登り詰めたはずなのに、間抜けさは相変わらずであった。

 そのくせ、見てくれだけは若干太った。ネズミか小猿みたいに貧相であった体格、面構えが、小豚程度に豊かになっている。肌も艶やかになっており、それを見て取った牛太郎は思う。

 この野郎、いいモンばっかり食ってやがるな。

 城の広間にて、四郎次郎は瀬兵衛に面会し、口上として、今井彦右衛門宗久からの二千貫を間違いなく届けに参ったと伝えた。

「左様か!」

 瀬兵衛はおもむろに立ち上がると、まず、自らの目で確かめねばならんと言って、庭先に出ると、荷駄車に歩み寄り、中身をまじまじと確かめた。

 瀬兵衛は笑った。

「たのもしいかぎりだ」

「摂津安定のため、有意義にご使用くださいませ」

 と、四郎次郎が手を揉むかたわらで、牛太郎は呆れた。瀬兵衛ときたら、金に目がくらんで重要なことを忘れている。

 庇護を与えるという上総介の正式な通達を瀬兵衛はまだ受けていないのだ。

 本来なら、まず先にそれを求めるものだろう。

 支払いが約束通りにされて、瀬兵衛は牛太郎の軟禁を解いた。ここに残るもよし、岐阜に戻るもよしということだった。

 牛太郎は不安になった。なぜ、瀬兵衛は上総介を気にしないのか。実は、独立をする気がなかったのではないか。

「それじゃ、岐阜の信長様の元に馳せ参じ、瀬兵衛殿が織田の味方になったと伝えに行こう」

 と、牛太郎は水を差し向けてみた。

「おお。そうだな」

 呆れた。瀬兵衛にとって上総介の通達は二の次だったらしい。

「しかし、手ぶらというわけにもなるまい。何か、献上するような物があればいいがな。上総介殿は収集家だと聞くからな」

 瀬兵衛は腕を組み、うーん、と、どこかしらじらしい仕草で考え込んだ。

「かといって、わしはなあ、元は福井村の土豪の出自ゆえ、上総介殿が喜ぶような代物など持っておらんからなあ。なにしろ、先立つ物がない」

 牛太郎は閉口するしかなかった。

「何か、いい案はないかの、簗田殿」

「い、今井彦右衛門に相談してみようか」

「そうだな! そうしてくれ。奴に茶碗でも用意させてくれ」

「そ、そんじゃ、あっしは堺に行ってくるか」

 牛太郎は頭を下げると、四郎次郎とともに広間をあとにし、居室に戻るとどかっと腰を下ろした。

「なんて奴だ」

「いいんスか、あんなこと言っちゃって」

「別にいいさ。どうせ、あいつはそのうちこの城の城主でいられなくなるんだからな」

 それにしても、

「本当に汚ねえ奴だ」


 牛太郎は四郎次郎や荷駄扶持の人間たちとともに茨木城をあとにした。

 とりあえず、堺に戻る。

「ていうかよ、お前」

 陣笠を目深に被り、蓑で体を覆った牛太郎は、かたわらを歩く四郎次郎の脇腹を掴み上げた。

「痛ッ。何するんスかっ」

「何するんスかじゃねえよ。なんだよ、この腹は。見ない間にぶくぶく太りやがって。何を食ったらこんなに太るんだ、あ?」

「旦那様に言われたくないッスよ」

 牛太郎は生意気に髷を結っている四郎次郎の頭に拳骨を落とした。

「減らず口叩きやがって。おれが浜松で死にそうになっている中、テメーは堕落した生活を送っていたんだろう。体に現れているだろうが、まったくよ」

「堕落なんかしてないッスよお! あっしは一生懸命働いていましたよお!」

「堺に戻ったら、しっかり帳簿を見させてもらうからな」

「そんなことより、旦那様――」

 と、振り返ってきたのは、牛太郎と同じように笠と蓑で体を覆い隠した荷駄扶持の人間であり、おかしなことに女の声だった。

「堺に戻るのではなく、高槻に向かったほうがよろしいかと」

「?」

 と、牛太郎は四郎次郎に目を向けた。四郎次郎は頭を押さえながら、言う。

「この者は彩ッスよ」

 牛太郎が覗きこむと、確かに彩だった。

 二千貫もの大金を運ぶさいの警護で付いてきたのだと彩は言った。

「ああ、そう。でも、どうせ、それだけじゃないでしょ」

 と、牛太郎は瞼を怪訝そうにすぼめて彩を見つめた。陣笠の下に顔を隠している彩はこくりと頷く。

「ただ、荷駄扶持の者がいるので、多くは語れません」

 牛太郎は四郎次郎に視線をきつく向けた。四郎次郎は鼻を突き上げて澄ましている。

「そういうことッス。まあ、いいじゃないッスか。彩と二人旅なんスから。旦那様は彩を気に入っているじゃないッスかあ」

 へらへらと笑う四郎次郎の頬を牛太郎は殴り飛ばした。

「笑ってねえで、とっとと堺に戻りやがれっ!」

 四郎次郎は尻尾を巻くようにして荷駄隊とともに土煙をあげながら走り去っていった。

 彼らがいなくなると、彩が陣笠を上げて笑顔を見せてくる。変装でそうしているのか、垂れ目の下から頬まですすまみれで、見てくれはまったく少年だった。

「敵地でたった一人、よくご無事で。なんなら、私を呼んでくれればよかったものを」

 牛太郎は頬を膨らませた。そんなこと言ったって、さゆりと彩に尻を叩かれた結果じゃないか。

 まあいい。

「で、さゆりんは今度はどうしろって言っているの」

「高山飛騨守に面会して頂きたいと」

「はあっ?」

 牛太郎はあからさまに眉をしかめた。

「なんで。なんで、おれがいちいちそんなことを。だって、飛騨守はキミの兄さんの新七郎があちゃこちゃやっているんだろう。おれが行く必要なんてあるのかよ」

「旦那様が中川瀬兵衛を垂らし込んだように、高山飛騨守も織田の庇護があると伝えなければなりません」

「だって、そんなこと――」

 すでに細川のおっさんか十兵衛あたりがやっているはずだろう。

 しかし、牛太郎は黙った。どうせ、何を言おうと、さゆりの下僕の彩は言うことを聞かない。ああ言えばこう言うに違いない。

「わかったよ。高槻まで案内してくれ」

 牛太郎は溜め息をついた。

 次から次へと奔走させられて、くたびれた。信濃守が失脚してから、瀬兵衛が茨木城を乗っ取るまで、牛太郎は軟禁させられているだけの生活だったが、その間の緊張感たらなかった。

 ようやく一息つけると思いきやこのざまである。

「そんな顔しないでください。ちゃんと、奥方様の小袖も持ってきていますから。もちろん、姐さんには内緒で」

 彩はそう言うと、右目をぱちりとまばたかせてきた。

「よ、よ、余計なお世話だっ!」

 牛太郎は怒鳴りつけるとどかどかと歩き始めた。なんてことだ。あーやがそんなお茶目な女の子だったなんて。

「旦那様!」

 牛太郎は恥ずかしさのあまりうつむいたまま言葉を無視する。

「旦那様! 高槻はそっちじゃありませんよ!」

 ぐう。

 牛太郎は踵を返し、箱を担ぎ上げた彩の後ろをおとなしく付いていった。


「久しぶりやな。元気やったか」

 甲賀流から解放されて、兄の新七郎とともに岐阜にやって来たとき、さゆりは笑みを浮かべながら彩の頭を撫でてきた。

「姐さんこそ」

 彩は涙した。

 織田軍が南近江に侵攻したさい、六角方甲賀流のさゆりが織田方から得てきた情報は、ことごとく外れた。逆に、織田方が有利になるように仕掛けたのではないかとさゆりは疑われ、結果、さゆりは甲賀流の男たちに殺されそうになった。

 さゆりの逃亡をひそかに手引きしたのは彩だった。

「やってくれたな、彩」

 逃亡の手助けをしたことを兄の新七郎は見抜いており、彼は左手に短刀を握り締めていた。

「親方衆に知れる前に、俺は甲賀流としてお前を殺さなくちゃならん」

 覚悟を決めたような新七郎の冷たい目を前にして、彩は両膝の上に乗せた両手を震わせるだけだった。

「言い残したことがあったら、この兄に言ってみろ」

 彩は恐怖のあまり声が出ない。

「どうした。言ってみろ」

「わ、私は――」

 彩の垂れ瞼から涙がとめどなくこぼれた。

「私は、私は、まだ、まだ、し、死にたくありません」

 そうして、彩は床に突っ伏して泣きあげた。

「愚か者め」

 新七郎は溜め息をつくと、短刀を鞘におさめた。

 その日から、新七郎は忍びから足を洗うことを考え始め、愚直にも、兄妹を養ってきた忍び衆の頭領に申し出た。

 許されるはずがなかったが、金銭と引き換えが条件とされた。

 その額は三百貫。用意できなければ、兄妹共々斬り殺すということであった。

 一介の下忍に過ぎない新七郎に三百貫など無理だ。新七郎は他に許されそうな条件を考えた。

 さゆりの首と引き換えならば。

 しかし、さゆりは変装の達人である。甲賀流の人間でさえ、彼女の本来の姿を知らない。さゆりを見極めるとしたらその丸い鼻だけだ。

 そもそも、逃亡した彼女は何をしているのか。何を目的に生きているのか。

 新七郎は諸国を駆け回った。彼女の故郷である大和や、人々の集う京や堺、摂津、紀伊など、あてどもなかった。

 が、思いがけぬ場所でさゆりを見つけた。

 山伏の装いで紀伊に入った新七郎は、ただの好奇心から、昨今、世間を賑わせている鉄砲衆を一目見ようと根来寺を訪ねたのだが、そこには火縄銃の使用方法を学んでいる団子鼻の野武士がいた。

 野武士は新七郎と目を合わせた途端、殺気を放ち始めた。それがさゆりだとわかった新七郎は、それとなく人目のない森の中に入っていき、さゆりもさゆりで後を付いて来ていた。

 先に仕掛けてきたのはさゆりであった。得意の毒矢を吹いてきたが、背後の衣擦れで読んでいた新七郎は瞬時に駆けて木の枝に掴まると、その上にひらりと逆上がりして毒矢を交わした。

 新七郎は更に上の枝に掴まって飛び上がり、素早く別の木に飛び移ってさゆりの背後を取り、懐から取り出し指の間すべてに挟みこんでいたくないをさゆりの背中目掛けて連続して投げた。

 さゆりが横転して交わしていったところを狙い澄ましたように飛び下り、最後に手にしていたくないでさゆりの首元を刺した。

 が、それは羽織を纏った丸太だった。

「あんたが私の命を取るなんてな、十年早いんや!」

 背後に回っているのはさゆりだった。地面から伸びてくるように太刀が振り抜かれてきて、新七郎は腰だけをひねってなんとか交わしたが、返す刀で振り落としてきた刃先を逃れられず、新七郎は頬をざっくりと斬られた。

 諜報と工作を仕事としていたさゆりの攻撃手段は毒矢と体術だけのはずだった。彼女が剣術を身につけているとは思いもしていなかったので、新七郎は劣勢を悟り逃げようとした。

 が、体が痺れてしまって、足が止まった。力が入らなくなって、そのまま地面に倒れた。

 太刀にも毒が塗られていた。

 フン、と、団子鼻を突き上げながらさゆりは切っ先を倒れ込んで動けない新七郎に突きつける。

「昔の同僚のよしみや。言い残したいことがあったら聞いてやるわ」

「だ、黙れ」

 と、手足の痺れを感じつつ、口許から涎をこぼしつつ、なんとか言葉を繋いだ。

「お、お前のおかげで、お、俺たち兄妹は、お、終わりだ。のうのうと、生きやがって。地獄に行っても、の、呪い続けてやる」

「弱肉強食や。往生しいや」

 さゆりは太刀を振りかぶった。

「な、何が弱肉強食だ! あ、彩に、命を救ってもらっておいて、お前だけ生きやがって、何が、何様だ!」

「さゆり様や」

 新七郎は歯を食いしばると、両目を血走らせながら手をぎりぎりと動かしてさゆりの足に掴みかかった。

「お、おれはいい! おれはいいから、彩だけは助けてやってくれ!」

 さゆりは振りかぶったまま、ぴくりとも動かない。

「彩を、彩を」

「彩に何があったんや」

 と、彼女は太刀を鞘におさめた。


 さゆりの計らいで、新七郎は簗田家の奉公人、中島四郎次郎から三百貫を譲り受け、兄妹は甲賀流を離れることになった。

「行く当てがないんなら、あっしの団子屋で働いてはどうだい。用心棒もいなかったし、人手も足らなかったから」

 彩は忍びの者ではなくなった。頬に刀傷を作った兄が気にもなったが、陰湿な甲賀流から脱出し、天下の自由を与えてくれた兄とさゆり、四郎次郎に感謝し、茶屋娘として懸命に働いた。

 ただ、天下に自由はあれど、混沌とする時代の乱れと、簗田家の人手の少なさが、彩の自由な日々を短いものにさせた。

「できるな、彩」

 岐阜から堺に移って日が経ったころ、四郎次郎が新しく始めた団子屋で岐阜のときと同じように働いていたら、摂津工作の番頭を務めていたさゆりに呼び出された。

「あんたも元は甲賀で鍛錬させられていたくのいちや。簗田の家のためと思って自らに鬼になるんや」

 眉尻を吊り上げ、瞳孔を大きくさせながら有無も言わせまいと迫力だけで静かに言う。鬼は、さゆりだった。


 太陽が傾きかけたころ、牛太郎と彩は高槻に入った。

 城下には行かず、郊外の廃村の空き家に腰を据えた。村は無残なもので、昨年の池田勢、松永勢の侵攻のときに焼き払われた跡があちこちにあった。

「ひどいもんだ」

 彩にみちびかれて入った家は火の手を逃れたらしいが、たった一年、住人を失っただけで、板壁は腐食を始めており、土間にはねずみの影が走っていた。

 笠と蓑を脱ぐと、彩が薪だか腐れ木だかを持ってきて、いろりに火を起こした。どうやら、慣れた様子を見ていると、彩は兄の新七郎と連絡を取るさい、この家を根城にしているらしかった。

 ぼんやりと火が染め抜いた土間で、牛太郎はふと片隅である彫像を見つけた。

 手に取ってみると、作りかけである。

「それはなんなんでしょう。観音様なんでしょうか」

「いや」

 牛太郎はヒエを鍋に入れている彩に首を振った。

「これはマリアだな」

「まりあ?」

「キリストのお母さんだ」

 牛太郎は作りかけのマリア像に息を吹いて埃を払うと、いろりの傍らに置いた。

「きりすととは誰なんですか?」

「キリシタンの教祖だ」

「はあ。キリシタンの」

 彩は竹筒の中の水を鍋に注ぎ込んでいきながら、よくわかっていなかった。

 郊外の集落にキリシタンの教えが浸透しているとは意外である。この時代はまだ宣教師は上総介の了解を得てようやく布教活動を始めたぐらいで、牛太郎が知っているのちのちの歴史で問題になるほどの広がりは感じていなかった。

 ただ、こうしてぼんやりと、作りかけではあるが、マリア像を眺めていると、不思議とその偶像から慈しみを覚える。

 時代に虐げられている民衆が、カトリックの教えに傾倒するのも無理はないのかもしれない。

 なにしろ、彼らからすれば光の見えない時代なのである。

「キリシタンとはそれほどいいものなんでしょうか」

 と、彩が竹筒の中の残りを碗に注いで、牛太郎に渡してきた。牛太郎は水を飲み干した。大して喉を潤わしてくれなかったが、水はもうない。

「すがれるものがなかったからだ。弱者にしてみれば」

 牛太郎は碗をひっくり返す。一滴、落ちた。

「神社も寺も自分たちのことばっかり考えているから、大部分の人間は愛想が尽きたんだろ。神仏は何もしてくれないってな。そこに新しい異国の神様が来れば、すがりたくもなる」

「はあ」

「まあ、何に信心するかは人それぞれだ」

 彩がつぶらな瞳でじっと見つめてくるので、牛太郎は照れ隠しに鼻で笑った。

「ちょっと偉そうな言い方だったけどさ。ハハ」

「旦那様は、旦那様は何に信心されているのでしょう」

 と、彩は真剣に食いついてきた。非常に興味ありげであった。それはつまり、彩にはそうした対象が無いことを物語っていて、そうした対象を切に求めている様子でもあり、しかし、ただの好奇心のようでもあった。

 一つはっきりと読み取れるのは、彩がそうしたものへの知識がまったくないということだ。

 忍びとして育てられたからかもしれない。

 それでも、彩はさゆりとは違う。さゆりは昔、甲斐信濃の山越えのときに祠の地蔵に手を合わせていたことがあったので、ほんの少しだけ自然神を敬っているのだろうが、彼女は基本的に合理主義者で、だからときに残虐な真似をできる。

 さゆりは絶対的に自分を信じている。

 反面、彩は多分無邪気なのである。どちらかといえば己の良心に従っているが、思想も教義も持ち合わせていないので、さゆりの命令は淡々とこなすのだろう。

 すると、牛太郎は彩がなんだか哀れに思えてきた。さゆりの言う通りになんでも働くが、ここで牛太郎に信仰について食いついてきたところを見ると、目の前の愛らしい子は、自分だけでは解決できない何かを抱えているのかもしれなかった。

 そもそも、牛太郎は今まで彩と二人きりになって話したことがなかった。

「おれは、そうだな、おれは何を信心しているんだろう」

 普段なら、どうでもいいわそんなこと、などと一蹴しているところだが、牛太郎もなかなか大人になってきてしまったので、自分の一言が少女の行く末を決めるのだろうと考えられるようになっていた。

 彼は腕を組んでしばし考え込んだあと、言った。

「まあ、信心するっていうのは、その教えを信じて規律を守っていき、守っていくことで、自分の人生を幸せにするってことだろうからな。別に何かを信心するんではなくて、自分がこうすれば幸せになれそうだって思ったことを守っていけばいいんじゃないかな。だから、おれはおれにそういうことを教えてくれる人を大切にする。あずにゃんだったり、相国寺の承兌だったり、竹中半兵衛だったりな」

 彩は視線を伏せて、ぐつぐつと煮え立っている鍋の木蓋を見つめている。

「そうすれば、策士が策に溺れることがあっても、訳が分からないまま人生に溺れることはないだろうと思うんだけどな」

「だとすると、私は溺れているのかもしれません」

「そんなあーやを助ける人間ならいくらでもいるじゃないか」

 はっとして顔を上げてきた彩に、牛太郎はにんまりと笑んだ。

「旦那様は――」

 彩はどちらかといえば呆然としている。

「よくわかりません」

 要は、彩はこう言いたいのだろう。

 世間では愚将と呼ばれ、左衛門尉の官位を携えているものの、功績は桶狭間の勲功ぐらいで、あとはこれと言ってなし。主君と嫁に怯え、欲望のままに独善的で、挙げ句には女の着物を盗み出して匂いを嗅いでいる始末。

「恐れながら、旦那様がかように知性がおありで心優しい方だと、私は今まで思ったことがありません。だって、今まで微塵も感じられなかったのですから」

「それはあんまりじゃんか」

 牛太郎は笑った。人が変わったかのように余裕を持っていて、大らかな声であった。

「でも、別にいいのさ。誰がどう思おうと。あーやたちが楽しく過ごしていけるんなら」

 彩は牛太郎に向けたつぶらな瞳を潤ませ、薄く小さい唇をきゅっと内側に押し込めた。

「摂津が終わったら岐阜に帰ろう」

「旦那様は、旦那様は――」

 彩は瞼の下を指先でそっと拭った。

「父上様のようです」

 彩や新七郎の父親は、やはり甲賀流の人間であったが、ある日、何らかの指令を受けて甲賀を旅立って以来、行方がわかっていない。

 おそらく、殺された。

 それはひどく昔のことで、自分の中での父親の記憶はおぼろげでしかないと彼女は言った。

「私は梓様やあいり様の幸せそうな御姿を見て羨ましく思ってしまいます。私は忍びの娘です。私は父上様や兄上を尊敬しておりますから、忍びの娘であることを恨んだことはありません。でも、梓様やあいり様を羨ましく思ってしまう自分もいるのです」

「そうか」

「姐さんはそんなことは思いません。姐さんはとても強い人なんです」

「わかったよ、あーや」

 牛太郎は彩の肩に手をかけると、自分の胸に引き寄せて頭を撫で上げた。

「さゆりんはさゆりん、あーやはあーやだ。やりたいことがあったり、やりたくないことがあったら、おれに言いなさい」

 彩は牛太郎の胸に埋まりながら、子供のように牛太郎にぎゅうっと抱きついてこくりと頷いた。

 そう思いたくはないが、彩は三好左京大夫をたぶらかすときに、多分、さゆりの命令で遊女の真似事をしている。

 華奢で小さい彼女をそうさせてしまったことに牛太郎は胸を痛ませた。

 ただ、彩を抱きしめる牛太郎は、彼女の髪に鼻を埋めて、匂いを嗅ぐことも忘れなかった。


 翌日、軟禁生活の中で悪臭ただよっていた牛太郎の衣服を彩が洗い、牛太郎がふんどし一丁で梓の小袖に顔を埋めていたところ、新七郎がやって来た。

 牛太郎は彼と会うのも久しぶりである。

 頭を丸く剃り上げ、頬の傷がこわもてに拍車をかけているのが新七郎なのだが、一年近く見ない間に髷を結っており、傷も消えている。

 素っ裸の牛太郎は梓の小袖を太ももの上に敷き、いろりの火に手をかざしながら、新七郎を怪訝にじろじろと眺めた。

「なんか、お前、顔が変わってないか」

「そりゃあ、もちろん」

 新七郎の傍らに彩が碗を置き、新七郎は中身をがぶりと飲み干して口を拭うと続けた。

「忍びこんでいるんだから、人相ぐらいはいじくりますわ」

「ふーん」

 牛太郎は新七郎をまじまじと見つめる。野盗のような顔つきだったくせに、高槻城の仮の家臣でいる新七郎は、どこか洗練されているふうで、垢抜けていないところもどこかにあって、摂津の一武将らしい姿形である。

 牛太郎は気になって訊ねてみた。

「ということはだな、お前やさゆりんの変装術で、太った顔を痩せさせることもできるのか」

「それはできませんな」

 にべもなく言い放つと、新七郎は牛太郎の意図することをわかったのだろう、口端にうっすらと笑みを浮かべた。

「変装の基本は、痩せることですからな」

 牛太郎はむかっとした。

「にたにた笑ってんじゃねえ。何しに来たんだ。さっさと用件を言え」

 牛太郎に促されて、新七郎は高槻城の様子を語り始めた。

 現在、高槻城内は各々の不信感が最高潮に達している。というのも、高山飛騨守に謀反の疑いがあるという流言が原因だった。

 誰が何のためにそのような流言を広めたのか、飛騨守や飛騨守に近い家臣たちからすれば検討もつかない。

 松永弾正忠が一枚噛んでいるのではないかという見方もあれば、叔父を感情のままに斬り捨ててしまった惟長が良し悪しを判別できなくなってしまって、そのような妄言を周囲に言いふらしているのではないか。

 もちろん、惟長自身も飛騨守に向ける疑いを日増しに強めていっている。

 ここにきて、そうした不信感が最高潮に達しているのは、畿内の情勢が変化しつつあるからだった。

 牛太郎が中川瀬兵衛の軟禁下に置かれている間、足利将軍と上総介に動きがあった。

 上総介からの弾劾状に挙兵を決意した義昭は、西近江堅田の山岡光浄院景友に命を下し、山岡光浄院は一向一揆衆と結託して、琵琶湖のほとり今堅田と石山に砦を築いた。

 これに対し、上総介は素早く動いた。柴田権六郎、丹羽五郎左衛門に出兵させて陸伝いに進軍させ、更に湖上からは明智十兵衛が向かった。

「十兵衛が信長様に付いたってことか?」

 牛太郎の問いに新七郎は頷いた。

 織田の軍勢は安普請の石山の砦を即刻攻め落とし、今堅田の攻城では、明智十兵衛隊が大いに活躍し、義昭の反抗を呆気なく鎮圧した。

 今、上総介は岐阜を出立して、京に入ろうとしているらしい。

「流れが変わってきているのを高槻城の人間たちも感じ取っています」

 なにしろ、反織田の筆頭格である武田が、年が明けて三か月を経ているにも関わらず、三河を突破してこない。むしろ、動きがまったくない。

 ゆえに、現在戦闘中の浅井や朝倉はおろか、反織田を表明している三好三人衆や松永弾正忠など、利に聡い連中は確定している勝利がなければ動かない。

 更に摂津に限って言えば、摂津池田の混乱に乗じて中川瀬兵衛が茨木城を乗っ取ってしまい、いらゆる力の図式の見通しが立たなくなってきている。

「不安が不信を募らせ、高槻城内は一触即発の状態です」

「ふむ」

 牛太郎はあらわにした肉をたるませて、腕を組んだ。肌寒さもすっかり忘れ、彼の体には熱が帯び始めている。

「ただ、旦那様、どっちに転ぶかわからん状況で、あんまりのろのろとしている訳にもいかんでしょう」

 新七郎の言う通りであった。武田軍の遅滞な動きにより、たとえ、上総介が包囲網に突破口を見出せたとしても、摂津には石山本願寺という強固な抵抗勢力があり、石山本願寺が健在なかぎり、摂津においての力関係は、織田に分が悪い。

 牛太郎は彩に訊ねる。

「さゆりんはなんて言っているんだ」

「姐さんは、とにかく飛騨守に面会して、惟長を追放するよう仕向けなさいと」

 うーむ、と牛太郎を考え込む。

「そんなこと言ったって、おれは高山飛騨守に会ったことがねえんだぞ。ヘタレ村重とかゼニゲバ瀬兵衛とは訳が違うだろ。飛騨守のことなんて何にも知らないんだから」

「かといって、臆しているわけにもいかんでしょう」

「いや、お前さ、よく考えてみろよ。流言が広まっていることに飛騨守は不信感を持っているんだろ。そこにおれがちょろっと出てきて、謀反しなさいって言ってみろ。飛騨守はおれを疑うだろうが。野心家ならわかんねえけど、飛騨守は敬虔なキリシタンなんだろ。そこんとこどうなんだよ」

「まあ、旦那様が言うように、確かに泥臭い男ではありませんが」

「うっかり殺されてもしてみろ。ミイラ取りがミイラになるもんだ」

「みいら?」

「いや、なんでもない」

 首を傾げる石川兄妹をよそに牛太郎は溜め息を長々と吐く。

 なにしろ、心理戦なのである。いや、いくさもはかりごとも変わらないだろう。己が敵と戦うということは、己の目標のために標的の日常を劇的に変化させ、あるいは破壊することなのである。ただ、己に目標があるように、敵にも目標がある。すると、敵と己の相対関係の線上にある心理の機微をつぶさに読み取っていかなければ、奇跡でもない限り、敗北が生じる。

 二俣城の戦いで学んだことだ。最後の最後まで徹底的に神経をすり減らさなければ負けてしまう。己も敵も同じ人間ではあるが、己は敵ではないし、敵は己ではない。考えていることはもちろん違う。

 状況が好転し、牛太郎の思惑通りに事が進み始めていても、油断はならない。浮かれてしまえばそこで最後、櫓がいかだに破壊されて水源を失ってしまう。

 じゃあ、高槻はどうするか。

 牛太郎は石川兄妹が黙っている中、考え込んだ。頭の中に今まで聞き入れてきたことを整理し、そして図式を描いた。

 一つ、この図式全体を雲のように覆っているものがある。不信感だ。

 牛太郎は閃いた。

「新七。お前、当主に進言できる立場にあるのか」

「まあ、家臣団の中ではわりと信用されているほうです。こういうときは新参者のほうを信じやすいですからな」

「そうか。だったら、まあ、あんまりやりたくはないけれど、当主のナントカに高山飛騨守を殺させろ」

「えっ!」

「当主に茶会か宴席でも開かせて、家臣たちを呼び出させて、その場で飛騨守を斬り捨てるよう当主に進言しろ」

「何を言っているんだ。そんなことをしたら、すべてが水の泡ではないか!」

「そうです、旦那様。何を血迷ったことを言っておられるのですか」

「まあ、聞け。最後まで聞け」

 やんややんやと騒ぎ立てる石川兄妹をなだめると、牛太郎は言った。

「呼び出される前に、飛騨守の耳にも入れておくんだ。当主は飛騨守を殺すつもりだって。それで、当主と飛騨守に斬り合いをさせろ。そのどさくさで、新七、お前が当主を殺せ」

 石川兄妹は黙りこんで、ただただ牛太郎に目を見張らせた。

「殺したらとっとと逃げてこい。その後におれが乗り込む。織田家に付けば飛騨守を庇護するってな」

 圧倒されている新七郎を前に、牛太郎は小袖を鼻に寄せ、匂いを嗅ぎながら言葉を放った。

「命令だ。明日か明後日にでもやれ」

「わ、わかり申した」

 新七郎はやや戸惑いの色を見せながら頷くと、彩に碗を差し出し、水を求めた。注がれた水をちびりとすすると、

「それより、旦那様。それは一体何をやっているんだ」

 と、小袖のことを言ってきた。牛太郎は匂いをすうすうと嗅いだまま、厳しい眼光で睨みつけ、答える。

「女房の匂いで気を落ち着かせているんだ。なんか文句あっか?」

「い、いや」

 新七は腰を上げると、「それでは」と言葉少なく頭を下げて、立ち去った。



 高槻家臣団の一人松尾新左衛門は、高山飛騨守の嫡男、高山右近助に耳打ちした。

「飛騨殿はおやかた様にお呼び出しされているようですが、危険ですぞ。おやかた様は飛騨殿をよく思っていない家臣たちとともに飛騨殿を亡き者にされる腹積もりです」

 すると、右近助は間延びした声を出しながら、微笑した。

「なんともまあ」

 二十一歳の優男である。色白で、骨格は華奢だ。身の危険を告げられたというのに、手にした茶碗に眺め入るその表情は、あどけなさがどこかに漂い、世間の流れにふわふわと浮いているような風情をかもしだしている。

「さもすれば、父上のことだから、黙って斬られてしまうかもしれませんなあ」

 右近助は茶碗を手元に置くと、煙管に煙草の葉を詰め始めた。

「イエスに傾倒しておりますから。拙者にはよくわかりませんが」

 煙草をぷかぷかと吹かし、その煙をぼんやりと見つめる右近助に、松尾新左衛門は訊ねた。

「右近殿も洗礼とやらを受けたとお聞きしましたが」

「左様。しかし、それは父上があまりにも熱心すぎるおかげであって、拙者自身はよくわかっておりませぬ」

 煙は二人の頭上を漂い、やがて消えていく。

「なので、拙者は死ぬわけにはいきませんがね」

 右近助は口許を緩めたまま、視線の先だけをひたりと松尾新左衛門に合わせてきた。

「お味方してくれるのでしょう、新左衛門殿」

 松尾新左衛門こと、石川新七郎はこくりと頷いた。

 話し合いと称して高山親子が高槻城広間に呼び出されているのは夜、戌の刻(午後八時頃)であった。

 春の訪れを知らせる強い風が吹きつけている。

「右近」

 広間に向かう途中、飛騨守はそう言って息子の肩を掴んだ。

「なぜ、太刀を二本も差しておる」

「わからないのですか、父上」

 右近助は腰に帯びていた太刀の一本の紐を解くと、それを飛騨守に押し付けた。

「おやかた様は拙者どもを殺すつもりですよ」

 飛騨守は太刀を受け取らず、ただ黙りこんで息子を見つめた。

「雌雄を決するときです」

「馬鹿を言えっ。誰にそそのかされたかは知らぬが、もしもおやかた様がそういうつもりではなく、本心から我らとの和解を願っていると思っていたらどうするのだ」

「そのときは、おやかた様を一方的に斬り捨てるのみです」

「なんと……、貴様は……」

 肩を震わせる父に、子の右近助はじいっと見つめ入る。

「ならん!」

 飛騨守は太刀を奪い取ると、放り捨てた。

「いつまでぬるま湯に浸かるおつもりですか。時代を切り開くのは神でもイエスでもなく、己自身ですぞ」

 右近助は飛騨守を睨みつけたまま太刀をおもむろに抜くと、

「先に行って参りまする」

 広間へと駆け出した。

「やめんかっ!」

 飛騨守の制止を無視し、灯籠の火に薄暗い縁側を駆け抜けていった先に、こうこうと照った広間の明かりを障子戸が透かしていた。

 異変に気付いた近習の者二人が腰を上げ、「くせ者ォ!」「ご謀反!」と叫びつつ腰の柄に手を伸ばしたが、右近助はそれぞれを一太刀で斬り捨てた。

 鮮血に染まった障子戸を開け広げると、そこには反高山の家臣たち六、七人と近習が揃っており、当主惟長も上座にいた。

「飛騨守、血迷ったかあっ!」

 と、惟長が叫び、連中はすでに腰を上げていた。

「消せ! 火を消せ!」

 声とともに燭台の火が一斉に消え、途端に広間は漆黒の闇に包まれた。しかし、右近助は惟長の居場所を確認していた。広間に上がり、闇の中を突っ切るが、どこからか伸びてきた刃が右腕を斬りかすめた。

 柄を握る右の手から力が失われていく。右近助は顔を歪めつつも、奥歯を噛み締め、足を踏み出した。

 ちらちらと映る影がある。右近助は左手だけで太刀を振り下ろした。

「うっ」

 斬った。が、呻き声はあれど、手ごたえは不十分であった。返す刀をやみくもに振り抜く。生温かい血が右近助に飛んできた。

「た、助けてくれえっ!」

 殺していない。右近助は歯を噛み締めてもう一歩踏み出すが、どこからか別の者に飛びつかれて態勢を失った。

「飛騨守はここだ! 斬れ! 斬れ!」

 右近助に掴みかかった者が声を上げた。右近助は残っていた左手で太刀をひねり返し、その者の背中を刺した。

「右近殿! 加勢いたずぞ!」

 松尾新左衛門の声とともに行燈の火が広間を染めた。示し合わせた通り、彼は高山派の家臣たちを引き連れて、反高山派の家臣たちと乱戦に持ち込んだ。

 右近助はしがみついてきた者を押し剥がすと、惟長を探す。しかし、太刀が襲ってきて、それを受け止めるので精一杯であった。

「誰か惟長にとどめを!」

 右近助はそう声を上げながら敵の太刀を振り払い、相手を袈裟に斬り捨てる。

 そのとき、刃と刃がぶつかり合い、血と叫びが飛び交う修羅場の中、真一文字に振り抜かれてきた太刀で右近助は首骨のすんでまで斬られた。

 現実と意識が引き離されていく刹那の間で右近助は見た。自らを襲ってきた太刀の持ち主は松尾新左衛門であった。


 春の風が、朽ちかけた空き家を叩く夜半、牛太郎は彩に揺り起こされた。

「なんだよお」

 瞼をこすりながら体を起こすと、暗がりの中にのっそりと佇んでいる男がいる。

 新七郎だった。

「旦那様。首尾よくいきました」

 牛太郎はあくびをかくと、彩に明かりを灯すよう申しつけた。いろりに火が落ちると、ぼんやりと浮かび上がった新七郎の姿に牛太郎はたじろいだ。

 顔から衣服にかけて血まみれであった。

「ご、ご、御苦労だった」

 暗殺を命じるだけは簡単だが、実際に行動を起こした新七郎の姿にはその壮絶さが如実に表われていて、牛太郎は思わず固唾を飲み込んでしまう。

 新七郎は頭を軽く下げたまま言う。

「当主惟長は家臣たちに連れられて高槻を脱出してしまい取り逃がしてしまいしたが、致命傷を負っているようで長くはないでしょうな。当主を失った城内は混乱の極みに達しておりますが、高山飛騨守は無事に生存しており、明朝にでも旦那様が赴けば、高槻城は高山飛騨守を頭にして混乱は収束されると思います」

 淡々と報告する新七郎に彩が濡れ手拭いを渡し、新七郎は衣服を脱ぎ捨てると、体中の返り血を拭き取っていく。

 手拭いはすぐに朱に染まった。

「それと、乱戦の中で飛騨守の嫡男、右近助重友も傷を負いました。これも存命しておりますが、首を半分斬られており、まもなく息を引き取ることでしょう」

「そうか」

「惜しい男を失くしました。右近助は若いながらも聡明で、摂津の次代を担う男は信濃守でも中川瀬兵衛でもなく、右近助だったでしょうから」

「そうか。まあ、お前が無事でなによりだ。とりあえずゆっくり休め」

「かしこまりました」

 新七郎はそう言うと、彩に湯を沸かさせた。髷を解くと、ざんばらの髪を短刀で手際よく剃っていった。


 高槻城で起こった事件により幕臣和田惟長と反高山派の家臣団は勢力を失った翌日、高槻城に出向こうとしていた牛太郎は、先に状況を偵察しに行っていた彩の報せに驚愕した。

 昨夜の事件をいち早く聞き知った茨木城の瀬兵衛が、飛騨守に使者をつかわし、今現在、面会をしている最中だという。

「あの野郎! 何を企んでいやがんだ!」

 瀬兵衛がそこまで嗅覚を鋭くさせているとは思いもしなかった。

 牛太郎は奥の手をひそませている。だが、そうとはいえ、このまま指をくわえて時間だけを待っていると、瀬兵衛の力が予想以上に膨らんでしまい、手の施しようがなくなることも十分考えたりえた。

「新七、京の細川兵部大輔のところに行ってこい。もし、細川のおっさんが京にいなかったら、坂本の十兵衛のところに行ってこい」

 坊主頭に頬の傷と、元に戻った新七郎を出立させると、牛太郎は彩を高槻城に忍び込ませた。

 日暮れに戻ってきた彩の報告によると、高山飛騨守は瀬兵衛と結託したらしい。飛騨守は高槻で表立って独立したと言える。

「ただ、それは中川瀬兵衛の旗の下に組したというわけではなく、どちらかというと不戦協定を結んだというふうです」

 牛太郎はほっとした。

「まあ、あんな奴に従うわけもないだろうな。飛騨守もそこまで馬鹿じゃないってことだ」

 ただ、飛騨守が織田に付くか反織田に付くかはまだわからない。瀬兵衛にしたって、牛太郎と交わしたのは口約束だけである。

 それに、高槻の地を狙っていた松永弾正が横槍を入れてきそうな気がする。

「あーや、堺に行ってさゆりんを連れてこい」

「えっ?」

「さゆりさんだ」

「で、でも――」

「なんだ」

「高槻に来てもらってどうしてもらうのか言わないと、ね、姐さんはおいそれと動きません」

 どこかしらさゆりを恐れているふうの彩に、牛太郎は、フン、と鼻を突き上げた。

「そんなことを言ったら、何様なんだと問い返してやれ」

「そ、そうしたら、姐さんは、私はさゆり様やって言います」

 彩の言葉が、団子鼻を突き上げているさゆりを容易に思い浮かばせて、牛太郎はむかっとした。

「おれは旦那様だ!」

 怒声にしゅんと縮こまってしまう彩。牛太郎はあわてて彩の両肩に手を置く。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

 彩は唇を尖らせると、つぶらな瞳をいじらしく上目にして不満を訴えてくる。それこそまったく娘のように。

 牛太郎もすっかり父親のようにして彩を甘やかしてしまう。

「ごめん。違うんだ。ごめん」

「私だって旦那様と姐さんの板挟みになって辛いんです」

「だよな。そうだよな。うん。わかった。おれが行こう。うん。一緒に行こう」

 ということで、結局、牛太郎は彩とともにその日中に堺に戻った。

 日はとっくに暮れている。堺の町に入り、屋敷の門前までやって来たものの、牛太郎は鼻の穴を膨らませて匂いを嗅ぎ取った。

「むう。メシを食っているな」

 手拭いを頬冠りにし、空き家にあったつぎはぎだらけの着物をまとう牛太郎は、傍らの彩に視線を向けた。

「今行くとまずい」

 そう言って彩の手を引き、門前を離れると、垣根の茂みに腰を屈めた。

 同じく百姓娘姿の彩は訳がわからないようで、首を傾げる。

「どうして逃げるんですか」

「おそらく、あの女狐、シロジロとねじり鉢巻きと一緒に食っているだろ?」

「多分、そうですね」

「いいか、あーや。おれにはなんとなくわかるんだが、あの女狐はすぐに格好つけたがる性質だ。私はさゆり様よ、って見せたい性分なんだ。あいつがさゆり様を全開にするときはたいがい誰かが周りにいるんだ」

 彩は首をいっそう傾げる。

「あーやにはわからないだろうけどな、あいつはおれと二人きりのときは、まあ、口答えはするけれど、最後には言うことを聞くんだ」

「そうでしょうか」

「そうだ。鉄砲隊をこしらえたときだってそうだった。最初は反対していたけれど、おれが将来の夢を語ったら、あの女狐は、だったら私がやるわ、旦那様のために、ってそれこそ感動の涙を流しながら最後には言うことを聞いたんだ」

「本当ですか? そんなことを姐さんが言うなんて信じられません」

 彩は眉をしかめて疑いをことさらに表していたが、牛太郎はフッと笑った。

「あーや、まあ、キミにはまだ早いかもしれんが、大人には大人の事情、いや、恋愛ってものがあるんだよ」

「ええっ!」

「しいっ!」

 牛太郎は人差し指を自分の唇にあてながら、もう片方の手で彩の口を塞いだ。

「声がでかい」

 彩は牛太郎の掌の向こうでもごもごと何事かを叫ぶが、牛太郎は覆いかぶせる。

「これはあーやとおれだけの秘密だよ。いや、さゆりんのためにも黙っておくんだからね。いいね?」

 彩はもごもごするのをやめたが、いまだ、その目は疑い深い。

「いいね?」

 念を押すと、彩は渋々というふうに頷いた。

 牛太郎と彩は垣根の向こうの明かりの行方が落ち着くまで、腰をかがめてひそんでいた。

 途中、堺会合衆が雇っている見廻りの雑兵に見つかったが、牛太郎は懐からすぐさま一貫文取り出してそれを押し付け、事無きを得た。

「でも、旦那様の言っていることが本当だとすると」

 葉の間から屋敷内を伺いながら、彩が言う。

「ずっと荒んだ日々を送って来た姐さんが、ちょっとは女らしい日々を送れるようになったのだと思い、嬉しいです」

「うむ」

「ああ、でも、そうだったんだ。だから、姐さんはあのとき必死になって浜松まで行ったんですね。旦那様が武田様と戦っているとき」

「うむ。そうだろう」

「ハア。羨ましい。私もいつか殿方に心を寄せてみたいものです」

「うむ。そうだな。いつか、あーやにはいい男を、いや、いい武将を見繕ってやるからな」

「本当ですか!」

「しいっ」

「ほんとうですか?」

「ああ、うむ。出来る限りな。うむ。そうだな、まあ、誰がいいかな。カツゾウ君はちょっとタチが悪いし、玄蕃も馬鹿だから、うーん。あ、でも、やっぱり、あーやは嫁がせない」

「えーっ、どうしてですか」

「可愛い娘には指一本触れさせたくない」

「もう。旦那様ったら」

「フヒヒ」

「ふふ」

 そんなざれあいをしているうち、居間の明かりが消えたようであった。牛太郎はもう一度人差し指を唇の前に当てると、うなずいた彩とともに腰をかがめながら歩き出し、門をくぐった。

 風のおさまった静かな月明かりの下、庭先に回ると、馬屋の中にいる影がぴくりと首を起こした。

 栗綱が両耳をぴんと張って、侵入者を見つめてくる。まさかの番犬ならぬ番馬の能力も持っているとしたらまずいと思い、牛太郎は小声で囁いた。

「クリツナ、おれだよ」

 栗綱は月光を瞳に浴びながら、両耳を左右にひらひらと振った。

「おれだ。泥棒じゃない。おれだ」

 すると、侵入者を牛太郎だと理解した栗綱は、鍵板をがつがつと叩き始めた。散歩に連れてけ、もしくは、戦場に出せということだった。

 その音がやたら響いてしまい、牛太郎と彩はあわてて庭先から離れ、木陰に隠れた。

「どうしたんだあ、こんな夜に」

 案の定、馬だけには敏感な栗之介が出てきた。栗綱は鍵板を叩き続けていたが、

「やめろって。何を興奮してんだよお。旦那が一生懸命頑張っているんだぞ。お前はいざってときにそなえて休んでろよ」

 と、栗之介が栗綱の鼻面を撫でて、やがて、栗綱はうとうとと首を落としていく。

 むう。

 牛太郎はちょっぴり感激した。

 栗之介が馬屋にいる隙に牛太郎と彩は屋敷に上がり込んだ。前を行く彩に習って忍び足で廊下を進んでいったが、さゆりの居室の前に辿り着く直前、牛太郎は彩の肩を掴んだ。

「あとはいい」

「で、でも、報告しなければいけないことも」

「いい。むしろ、あーやは自分の部屋に戻ってなさい。一応、まあな、報告もそうだけど、二人きりになるのは久々だし、まあ、おれもさゆりんも二人きりになりたいし、まあ、そういう大人の男女の事情だから」

 牛太郎があまりにも真顔だったせいで、彩ははじらいを隠すように視線をはずした。

 そうして、彩は静かにうなずき、自らの部屋に消えていく。

 牛太郎はしばらくの間、その場でじっと固まり、屋敷内の静けさを確認する。やがて、足を進め、さゆりの居室の前までやって来た。

 板戸に耳を傾ける。何も聞こえない。牛太郎は戸に手をかけると、そろそろと引いていった。そのとき、

 びゅうっ

 と、開いた隙間から刃が突き出てきて牛太郎は思わずのけ反った。

「なんのつもりや」

 低い唸り声が居室の中から届いてきて、

「い、い、いや、お、お、おれだ」

「わかってるわ。なんのつもりなんや」

「い、いや、なんのつもりでもない。決して、変なつもりじゃない。ただ、その、ちょっとお話しがありまして」

「なんの話しや」

「た、高槻城のお話しです」

 刃がすうっと居室の中へ消えていく。牛太郎はさゆりの殺気に一つ吐息を震わせたあと、こもれる月光だけの居室内を伺う。布団の上に座っている影が、じいっと睨みつけてきている。

 牛太郎は頭を軽く下げると、中に入り、きちんと後ろに体を向けてから戸を閉めた。

「なんや。急に帰ってきて。外でこそこそしていたのなんてずっと前からわかっていたかんな。なんなんや。夜這いなら命はないで」

「いや、そんな、めっそうもない」

「なんなんや」

「えーと、そのお――」

 牛太郎はひとしきりもじもじとしたあと、おもむろに両手を床につき、額をこすりつけた。

「すいませんしたあっ! あっしの不徳の致すところで村重の謀反に失敗しあしたあっ! ちょっと頑張ってみたんスけど、あっしじゃいっぱいいっぱいになっちゃったんで、助けてください、さゆり様っ!」

 春、風の音もなく、虫の声もなく、夜はしんと静まりかえっていた。

「言葉がないわ」

 ひどく淡泊なさゆりの声だった。



 簗田牛太郎は変わったと思う。彼に命を助けられ、素性を隠して家臣になったときから考えると、彼が手に入れた力は計り知れない。

 あのころはただの織田の武将でしかなかった。彼を支える者と言えば、自分か、息子の左衛門太郎ぐらいしかいなかった。

 今は違う。田中宗易や今井彦右衛門という大物が堺にいれば、知恵を与える者としては小寺官兵衛という怪物もいる。京の相国寺の承兌なる者は彼の生き方の道標となっているようだ。

 更に見渡せば徳川三河守。

 上総介の犬となっているのはともかく、一介の武将が一国の大名にあれほど懇意にされているのはどうすればなせる技なのか。

 それだけではない。彼が過去から親しくしている明智十兵衛や木下藤吉郎は、このまま行けばいずれは佐久間や柴田といった重臣たちを追い越し、上総介の副将、織田家の家老と登り詰めて行く器だ。

 更には佐久間玄蕃允や森勝蔵といった血の気の多い若者たちにまで慕われている。

 どうして、こんな凡将がかくも魅力的なのだろうか。かくいう自分も、その凡将に付いてきてしまった一人なのだが。

 簗田牛太郎は変わった。

 馬鹿らしいことだが、彼自身は自分が大きく変貌したことに気付いていないらしい。彼だけではない。息子の左衛門太郎もそうだ。簗田家の人間は、自分たちが織田家、いや、天下の趨勢において、重きを成していることを知らない。

「や、やっぱりさ、おれには荷が重かったんですよ。ね。だってさ、おれっていっつも誰かと一緒だったじゃん。さゆり様と一緒だったじゃないですか。こういうときって。ね。だから、助けてくださいよお」

 牛太郎は勘違いしている。摂津の工作は満を持している。当初に立てた到達点は間近にあって、今はただ、我慢して時間を待つだけなのである。

 ただ、彼は怖くなってしまったのだろう。信濃守の謀反に失敗し、自らの考えで咄嗟に計略を修正したが、その重圧から逃れたいがために泣きついてきたにすぎない。

 なにしろ、牛太郎が編み出した計は完璧なのだ。

「何を怯えてるんや、いまさら。あと二日か三日の辛抱やろが。じっとしい」

「じっとしていられないからここに来たんだろうが!」

「阿呆か。そんなら、私がおらんかったらどうしていたんや。じっとしていたんやろう。違うか」

「おらんかったらって、いるだろうが!」

 自分の力をわかっていない。

 さゆりは寝転がると布団をかぶった。

「あと、二日か三日や。それまでなんもやることはない。それまでせいぜい、びくついているんやな」

「お前は本当にこういうときに限って使えねえ奴だな! クソがっ!」

 牛太郎は戸をぴしゃりと閉めて出ていった。


 朝、さゆりは縁側に立ち、蕾がほころび始めた桜の木をぼんやりと眺めていた。

「春だねえ、さゆりちゃん」

 庭先を竹箒で掃いていた四郎次郎が、さゆりの視線の先に気付いて声をかけてきた。

「そうやな。それにしたって、あんたも毎朝よくやるな。商売で忙しいっていうのに」

「そりゃあ、あっしがやらなくちゃ誰もいないじゃないの。さゆりちゃんや彩は仕事で忙しいんだからさあ」

 四郎次郎は鼻唄でも口ずさみだしそうな軽快さで箒を動かしていく。

「健気やな。そんだけ働いても、あんたはあの人に殴られるんやから」

「さゆりちゃん、物は考えようじゃないの。だって、旦那様が殴れる人間はあっししかいないんだよ。あっしがいなくなったら、旦那様は旦那様じゃなくなっちゃうよ」

 さゆりは笑った。

「本当や。物は考えようや」

「そんなことより、昨晩、旦那様の怒鳴り声が聞こえたんだけど、旦那様は帰ってきたの?」

「そや。帰ってきおった」

「うまくいったのかい。高槻は」

「ああ、うまくいった」

「そっかあ」

 四郎次郎は晴れ渡った朝空を呆けるように眺めて、笑った。

「いよいよ旦那様も明智様や木下様みたいに、織田家中に名乗りを上げるなあ」

「それは期待しすぎや」

 さゆりは笑った。

「そんなことを夢見るより、早う朝食の支度をしたほうがええで。あの人、帰ってきているんやからな」

「そうだそうだ。旦那様に怒鳴られちゃうや」

 四郎次郎は箒を放り捨てると、あわてて縁側に駆け上がり、屋敷の中へ消えていった。

 屋敷の屋根を越えてきた朝日が、小さな庭に光をふんだんに注いでいく。雀が、一羽、二羽と、どこからかやってきて、春の朝は賑やかになりつつある。

 その中で、さゆりは飛び跳ねる雀をじっと見つめた。

 摂津の攻略が終わったら、自分はここにもどこにも必要なくなる。

 自分は男でも女でもない。もしも本当に吉田早之介であったら、何も気兼ねすることなく、これからも牛太郎の与力として簗田家を盛り立てていき、しいては簗田家臣として自分の家を興すのであろう。

 もしも、女であったら。

 ――。

 拾われた命。

 その使いようは、自分を拾った情けない男を、それなりに助けてやることであった。

 摂津池田で捕らわれたときから始まり、火縄銃を調達したいと言い出して一緒に奔走し鉄砲隊をこしらえた。金ヶ崎での死地をくぐり抜け、姉川では共に勝利を目指した。

 そして、浜松。自殺行為に走ろうとしている彼を救った。

 駆け抜けてきたすべての日々がありありと浮かんでくる。

「私がいなかったらとっくに死んでいたよね」

 地面の何かを取り合って、争いつつついばんでいる二羽の雀を眺めながら、さゆりは口許を緩めて微笑んだ。

「でも、もう、大丈夫だよね」


 さゆりんはやっぱり女でいたほうがいい。やっぱり、お前は女だ。もう、いくさ場には出るな。もう、ゆっくりしろ。


「女でいるにはこくすぎるもの」

 馬鹿な男。さっさと追い出してくれればどれほど楽だったか。

「どうした」

 栗之介が栗綱を連れて散歩から帰ってきた。さゆりはあわてて瞼の下をぬぐう。

「なんで、お前なんかが泣いているんだ」

 朴訥な栗之介でも、さゆりの普段にない姿に異変を感じたらしい。栗綱の口輪を手にしたまま、呆然とさゆりを見つめてくる。

「泣いてなんかいないわ」

 栗之介はただ見つめてくる。栗綱も澄んだ瞳で見つめてくる。

「春の匂いがきつかっただけや」

 すると、栗綱が栗之介にまるで話しかけるように顔をすり寄せる。さゆりはその無邪気な動物に悟られてしまったと思い、そこから逃げ出した。



「おい。さゆりんはどこに行ったんだ」

 牛太郎は出かけようとしていた四郎次郎を呼び止めた。

「朝メシにも来なかったし、部屋に行ったらすっからかんだぞ。どこに行ったんだ」

「えっ。朝、庭先にいましたよ。なんか、ぼけえっとしてたッスけど」

「どこに行ったか訊いているんだよっ!」

「そ、そんなのわからないッスよお。なんか、仕事でもしに行ったんじゃないんスかあ。てか、あっしも仕事ッスから」

 四郎次郎が逃げるように飛び出していき、牛太郎は地団駄を踏んだ。さゆりがごちゃごちゃ言おうと、とにかく早急に高槻に連れて行かなくちゃならない。吉田早之介のおべんちゃらで高山飛騨守を織田方に付けなくてはならない。

「クソッ。こんな一大事に何をやってやがんだっ」

 牛太郎は廊下を踏み鳴らしながら駆け回り、ありとあらゆる部屋の戸を開けていってさゆりを探した。

 どこにもいない。

 いないどころか、おかしい。さゆりの部屋に再び上がり込んだ牛太郎は、押入れを叩き開けると、布団を力任せに引っ張り出した。

 布団しかない。何もない。

 息遣いを荒くしていると彩がやって来た。

「どうしたのですか、旦那様」

 牛太郎はぜえぜえと呼吸を乱すだけで、呆然と突っ立っている。

「ね、姐さんは……」

「いないっ!」

 牛太郎は意味がわからなすぎて、視線の行き先を混乱させて、部屋をぐるぐると見渡した。

「いないっいないっいないっ!」

「ま、まさか、姐さん……」

 牛太郎は窓辺の障子戸を叩き開けた。

「どこだ! どこに消えやがった!」

「だ、旦那様、姐さんは……」

「あ、そっか。あの野郎、気をきかして高槻に行ったんだな。まったく、ツンデレなんだからよ。しょうがない奴だな」

 牛太郎は一人で勝手にうなずき、しょうがない奴だ、しょうがない奴だと呟きながら、彩を押しのけて部屋を出る。

「旦那様!」

 彩が追いかけてくる。

「姐さんは、姐さんは――」

「しょうがない奴だ。本当にしょうがない奴だ」

「旦那様、姐さんはもう帰ってこないんじゃ」

「あっ、そうだっ! せっかく堺に戻ってきたんだから久々にタナカのところにでも行ってやるか! いろいろと報せなくちゃならないかんな、うん!」

「旦那様っ!」

 牛太郎は居間の前で足を止めると、ぽけえっとした顔で彩に振り向いた。

「なんだい、あーや。そんなに騒いで」

「姐さんはもう帰ってこないんじゃないんですか!」

「ほっほっほ。キミは何を意味不明なことを言っているんだい」

「だって、もぬけの殻だったじゃないですか!」

「うーむ。言っている意味がよくわからないなあ」

「おい、旦那」

 と、栗之介の声がして目を向けると、栗之介はそこにいたのかどうかもわからかったほど薄暗い居間の中に憮然と突っ立っていた。

 その視線の先には床間に飾られた鞍がある。

「見てみろよ」

 促されて、牛太郎はどこか恐々と鞍に視線をやった。

 黒漆の居木に、散りばめられた光沢貝がひっそりと映えている。

「なんだよ。その鞍がどうしたんだ」

「よく見てみろって」

 牛太郎は舌を打ちながら居間に入ると、床間の前に突っ立って、鞍を見つめ下ろした。

 鞍に一輪の花が添えられている。

「なんだよ、これ……」

 気付いた牛太郎は一瞬呆然としたが、嫌な予感がしてあわてて花を手に取った。

 よく見てみると、紙をむすんで作られた造花であった。

「なんだよ。なんなんだよ、これは!」

 彩が駆け寄ってきて、牛太郎が手にしている造花を覗きこむと、ぼそりと言った。

「これって姫早百合ひめさゆりのつもりじゃ」

 牛太郎は唇を震わせて、折り紙の花を見つめるしかない。

 彩が見上げてきて言う。

「姐さんの好きな花です」

 そうして、彩は続ける。

 百合の花にちなんだ和歌が、古来の万葉集にはあり、和歌などに何の知識も持っていないさゆりなのに、一つだけ自分の呼び名にちなんで、気に入っている歌があるのだと。


 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ


(夏の野の茂みにひっそりと咲いている姫百合のように、人に知られない恋は苦しいことなんです)


「キミはいったい何を言っているんだい?」

 牛太郎は笑う。

「あーや」

 百合の造花を持つ牛太郎の手は震える。

「キミはいったい何を言っているんだい?」

 彩は苦渋に表情を満たして、ただ黙って牛太郎を見上げてくる。

 牛太郎の頭の中は真っ白だった。

「あいつがこんな粋な真似をするわけないだろうが」

「旦那」

 栗之介がぼそりと呟いた。

「あいつも女だったんだ」

「うるせえっ!」

 牛太郎は造花を床に叩きつけると、居間を飛び出した。屋敷中を駆け回り、ところかまわず戸を開けていった。

「どこだ!」

 いない。

「どこにいやがる!」

 いない。どこにもいない。いるはずがない。

 さゆりの不在が確信に変わっていく。変わっていくごとに、牛太郎は身を切り刻まれていくような思いになっていく。

 気持ちが急き立てられて、牛太郎は戸を開けていく。早く見つけなければ、もうずっと、見つからない。そんな気がして、急き立てられる。

 やがて、問いが生まれた。

 どうして、いなくなったんだ。

 理由がなければ、その理由を教えてくれなければ、自分はこの先どうやって生きていけばいいのか。

「いや、違う。絶対に違う。さゆりんはいなくなっていない」

 しかし、牛太郎のその声は涙声だった。



 こんなとき、牛太郎が唯一出来ることは、布団をかぶって丸まり、世間から自分を隔離することであった。

 現実を直視できない。ちっぽけな暗闇の中で頭を抱えておびえる。どうにもできない現実が今もなお続いていることに恐怖する。

 生きていくということがときに死することよりも恐ろしいことを、牛太郎は思い知らされる。

 昨日までさゆりはいた。いるのが当然だった。ところが、今日はいない。明日もいない。この先ずっといない。

 いて当然だった人間が、この先ずっといない。当然じゃない日々がすでに始まっており、じゃあ、当然の中で生きていた自分は、明日からどうやって生きればいいのだ。

 そして、昨日までの当然は、気付いてみれば実は当然ではなかった。

 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ

 信じたくない。さゆりがそんな思いでいたとは考えたくない。もしも、本当にさゆりが「姫百合」だったとしたら、

 おれはなんにも見えていなかった。

 さゆりは牛太郎にとってただの部下ではない。

 とてもいびつで、とても特別な関係で、皮肉っぽい滑稽な愛情で結ばれていた。

「私には帰るところなんてない。何もかも失ったんや。だから、あんたを殺すことだけが私の生きる目的や」

「勘違いするのもやめえ。私はもう女やない。あんたの家来や」

「殺そうと思っていたら、隙だらけのあんたなんかとうに殺しておるわ」

「あんたなんかに抱かれるなんて気持ち悪くてしょうがないわ! もう絶対にこっちに来んなや!」

「あんたが死んだら、私らはどうするんやあっ!」

「殿、どうしたのです」

「小ざかしい真似をするからしっぺ返しをくらうんや。ま、黙っといてやるわ。言ってしまったら、あれだけ大層にしていたあんたが可哀想な目に合うからな」

「殿、おかしな真似をしてはいけませんぞ」

「嫌やっ! 何と言われようと嫌やっ!」

「あんたは昔から私に惚れているやろ。その証拠に嫌がらないやんか」

「どういうことや、これは。なんで、あんたがこんなに着物を持っているんや。どういうことなんや。何のつもりなんや」

「鬱陶しい。堺を飛び出しておいて偉そうなこと言うなや。あんたに言われて手を汚している新七の気持ちも考えてみいや! 誰が一番苦しいんや! 新七には妹の彩がいるんやからな! そこのところわかってから物を言いや! この阿呆!」

「生きざまならよう見といてやったわ。ふふ。惚れ直したで」

 牛太郎の瞼からするりと涙がこぼれ落ちた。ただただ、とめどなくあふれた。今までに流したことのない涙だと、牛太郎は思った。

 思い出が、ただの思い出だけになっていく。ただの思い出には何の生産性も見当たらなかった。

 何の生産性も。

 思い出が、見つめることしかできないものになっている。

 悲しい。味わったことのない狂おしい悲しさである。でも、流れている涙がやたら澄んでいた。なんの濁りもない涙だった。

 牛太郎は初めて知った。自分でも、こんな清らかな心もちになれることを。悲しみというものは、突き抜けても突き抜けても清らかすぎる悲しみでしかないことを。

 ただ、流れる時間は悲しみに浸り続けることを許してはくれない。まがまがしい現実が蘇ってきて、体中を絞られるような苦しみが襲いかかってくる。

「おれはどうしたらいいんだ」

 牛太郎は布団を握り締めた。

 天涯孤独のさゆりを再び孤独にさせて、自分はのうのうと生きていけるだろうか。確かに、自分には梓がいるし、太郎もいる。愛情に不自由ない生活が待っていてくれる。

 でも、さゆりは孤独だ。

 孤独のさゆりと同じ時間を生きていくことができるのか。いつかどこかで孤独を抱えているさゆりがいるこの世界で、自分は梓を抱くことなど、孫娘を抱き上げることなどできるだろうか。

 簗田牛太郎という人間は、この戦国時代にあって一人ではやっていけない。だからこそ、女房の梓はもちろんのこと、血が繋がっていない左衛門太郎でも息子であって、駒は孫娘であって、あいりも貞も、四郎次郎も栗之介も新七郎も彩も、さゆりも、簗田家という家族だと信じているのだ。

「さゆりん」

 牛太郎は顔を埋めて嗚咽する。

「帰ってきてくれよお」

「旦那様」

 新七郎の声だった。しかし、牛太郎は構わずに泣く。

「彩から聞きました。一日中、そうしてばかりいては体に毒ですぞ」

 牛太郎は泣くだけである。

「旦那様、お気持ちはわかりますが、細川兵部大輔様と荒木信濃守殿を連れて参りました。今夜ばかりは仕方ないですが、明日の朝一番には茨木城に向かわなければなりません。旦那様、せめて、明朝、信濃守殿にお会いしてくだされ。そうしなければ示しが付きませぬ」

 牛太郎は嗚咽をどうにかこらえようとして唇を噛み締める。

「し、新七」

「はい」

「おれは、おれは、駄目な男か?」

「人に愛される男、すなわち、天下に愛される男です。さゆりが愛した人間は今も昔も旦那様の他にはおりませぬ。あの女でさえ愛した男です」

 牛太郎は声をあげてむせび泣くしかなかった。

「それでは」

 新七郎が去っても、牛太郎は一人泣きじゃくった。

 重かった。やくざな顔つきの新七郎のくせに、その言葉は重かった。

 天下に愛されている男。それはつまり、自分を必要としている人間がこの世の中に大勢いるということだ。

 さゆりを再び孤独にさせて、自分はのうのうと生きていけるだろうか。

 否、人生はのうのうと生きていけるほど甘くはない。たとえ人は誰かに愛されていても、それと同時に、孤独も背負う。

 そう、さゆりのいない孤独。誰かのいない孤独。悲しみは一人で噛み締めなくてはならない孤独。

 俺は一生涯戦い続けるぞ――。

 かつて、自らを尾張のうつけと嘲っていた織田上総介信長は、いつしか、己を超越し、覇王への道を駆け抜け始めた。

 簗田牛太郎政綱は、そんな上総介の家臣であった。

 そう。戦い続けなければならない。たとえ、上総介の家臣でなくても、戦い続けなければならない。人は誰しも戦い続けている。

 昨日までのことはなくなった。だが、明日、やらなければならないことがある。自分のために、家族のために、去っていったさゆりのために、やらなければならない。

 天下布武を。



 数人の従者と近習を連れて領内を見回ったのち、茨木城に戻って来た中川瀬兵衛を待ち受けていたのは、まさしく青天の霹靂であった。

 出迎えがない。頭を下げてきたのは門番の兵卒だけである。

「どういうことだ」

 瀬兵衛は馬上で呟いたが、このときはさほど気に留めていなかった。配下や兵卒たちは自分が城主となったことに慣れていないから、まあ、仕方ないことだろう。そのぐらいであった。

 異変を知ったのは御殿の前で馬を下りてからであった。

 ぞんざいな素振りで歩み寄ってきたのは元々信濃守の与力であった者で、平伏はおろか、頭も下げずに言い放ってきた。

「殿がお待ちだ。さっさとせんか」

 瀬兵衛は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。その者は昨日までは瀬兵衛を「殿」と呼んでいたのである。

 与力はぷいと顔を背けると、御殿の中へすたすたと消えていった。

 瀬兵衛は当然怒りに震えた。が、理解しがたい行動をされたゆえ、その怒りは不安定でもあった。

「どういうことだ!」

 雄叫びを上げると、与力を追いかけるようにしてずかずかと御殿の中へ入っていく。

 屋敷内はしんとしていた。奉公人も女中の姿もない。

 おかしい。

 瀬兵衛はあわてた。何かが起きてしまっていることにようやく気付いた。足は自然、大広間へと向かう。

 広間はなぜか信濃守の旧近習二人が番人を務めており、障子戸は開け広げられていた。

 床に膝をつける近習二人の冷たい視線を受けながら瀬兵衛は広間の前に立った。

 開いた口がふさがらなかった。

 大広間には荒木家の与力から奉公人までが居揃っており、それを統べる上座に座っているのは、荒木信濃守村重である。

 厳粛な空間を統率している信濃守は、声を上げた。

「せ、瀬兵衛っ!」

 信濃守は相変わらずどもっているが、瀬兵衛は立ちつくすしかない。

「わ、我の、る、留守の間、い、い、茨木城の守りを務め、大儀であった!」

 城内の人間の大勢がひしめき合う中、信濃守にもっとも近い場所にいるのは細川兵部大輔と簗田左衛門尉である。

 このとき瀬兵衛は、もはや茨木城主ではなくなった。池田家の家臣でもなかった。荒木信濃守の家臣にさせられてしまっていた。

 そもそも、茨木城に詰める四千の兵の大半は荒木家の所属なのである。

 この場において、瀬兵衛はたった一人。生き残るには、床に両膝を付けるしかない。

「は、ははっ」

「お、表を上げい、瀬兵衛」

 瀬兵衛は奥歯を噛みしめながら重たい頭をゆっくりと上げる。

「瀬兵衛! お、お主が留守を守っている間、わ、我は織田、か、上総介様から摂津の所領切り取り次第の御免状を頂いた!」

 視界に入るのは簗田左衛門尉の冷めた顔つき。

 やられた――。率直にそう思うしかなかった。

 すべては左衛門尉の掌の上で転がされていた。池田二十一人衆で権勢を失った信濃守を出奔させたと見せかけて、左衛門尉は、信濃守を織田上総介に引き合わせ、信濃守に織田方の摂津の統治者とさせた。

 だが、池田を追い出された信濃守に力はない。だから、自分を使って茨木にその礎を築かせたのだ。

 瀬兵衛は逆らいようがない。池田家の中で勝手気ままを働いた彼は、もはや織田方に付くしかないのだが、その織田上総介は信濃守を摂津統治者にさせると言っているのだ。

 細川兵部大輔がこの場にいるのが、それをはっきりと表している。

「せ、瀬兵衛! こ、今後も、あ、荒木家のために、お、お主の、お主の、力を、頼りにしているぞ!」

「ははっ」

 瀬兵衛は頭を下げながら、拳を握り締め、悔しさに涙を浮かべた。


 

 反抗ののろしを上げた足利義昭を従属せしめるために、岐阜を立って京を目指していた上総介の軍を、細川兵部は荒木信濃守と共に近江大津の逢坂というところで出迎えていた。

 中川瀬兵衛が池田の権力闘争にかまけている間に、信濃守を上総介に引き合わせるという簗田左衛門尉の案である。

 上総介から摂津統治を任ぜられれば、信濃守は労せずして北摂津の覇権を握る。

 兵部はいささか不安であった。左衛門尉はまるで引き合わせるだけで構わないような言いぶりであったが、果たして上総介は荒木信濃守を認めるだろうかと。

 なにしろ、上総介は無能な人間を嫌う。信濃守は残念ながら、見た目だけでは無能である。

 だが、出迎えを受けた上総介は上機嫌であった。

「兵部、御苦労であった」

 黒塗りの甲冑に身を固めて床几に座る上総介に、いつもの威圧感はない。足利幕府を正式に見限った兵部と、織田方に付くことを誓った信濃守が平伏する前で、口許をほころばせている。

「お前が荒木信濃守か」

「は、はいっ。せ、摂津国は、じゅ、じゅ、十三郡分国にて、せ、拙者は、城を、城を、構え兵卒を集めており、そ、それがしに、切り、切り取りを申し付けてくだ、くだされば、身命をとしまする」

「殊勝だ」

 上総介はすっくと腰を上げると、傍らに置いていた小姓に腕を出した。小姓は太刀を差し出し、上総介がそれを鞘からすっと抜く。

「信濃守、お前は茶碗に目がないと聞くが、太刀の目利きはどうだ」

 春の日差しを刃にぎらぎらと跳ね返させながら、上総介は笑っている。

「い、一瞥、し、しただけでは、ど、どうにも」

「そうか。ならば教えてやろう。これは郷義弘だ」

 兵部も信濃守もはっとした。郷義弘は南北朝時代の刀工で、彼が残した作品は大名たちがこぞって求めている天下の名物である。

「くれてやる」

 まさか、であった。入手が困難な郷義弘をたかだか北摂津の豪族にくれてやるのである。兵部は信じられない思いであった。

 だが、上総介は郷義弘の刃先で皿に盛られていた饅頭を三個突き刺し、それを平伏する信濃守に向けてきた。

「食え」

 何を考えているのだろう、兵部は青ざめた。信濃守を恐る恐る見た。

「は、は、はいっ。ありがたく、ちょ、ちょ、ちょうだいしますっ」

 信濃守は大口を開けると、両手は地に付けたまま刃に刺さった饅頭をほうばった。

 上総介は甲高い声で大笑いした。

 上総介が何を狙ってそのような真似をしたか、兵部には到底理解できない。だが、上総介の暴虐ぶりと、信濃守の物欲ぶりが如実に表れている、奇妙でうすら寒い光景であった。

 恐ろしい。教養人の兵部にとっては、上総介も信濃守も常軌を逸していた。

 そして、簗田左衛門尉も。

 兵部は信濃守とともに摂津に戻るすがら、何人たりとも殺さずに荒木信濃守の謀反を成し遂げさせた簗田左衛門尉の剛腕は理屈では証明できない危うさを感じ始めていた。

 これでよかったのだろうか。兵部は自問自答する。いや、完璧すぎるほどよかったであろう。だが、完璧すぎるのが逆に怖い。

「左衛門尉殿」

 大広間での演出を見届けたあと、二人きりになった。

「中川瀬兵衛がそなたに抱いた恨みは計り知れませんぞ」

 よかれと思って兵部はそう言った。が、左衛門尉が沈黙のままに兵部を見つめてくる眼差しの威圧感はすさまじかった。瞳は瞼にがっしりと据わっており、その眼光は刃のように鋭い。

 兵部は思わず視線を外してしまう。

 一体、この男は何者なのだ。愚将ではないのか。

 左衛門尉の存在の奥には激しさが見え隠れしている。謀略家にはあるまじき激しさだ。

 たとえば、上総介の種類と似ている。

 愚将と評判の男であったはずであった。しかし、この愚将は上総介とかなり近い距離にいる。

 逢坂で機嫌よく郷義弘を信濃守にくれてやった上総介だが、おそらく、上総介は荒木信濃守という男をすでに知っていた。

 知っていた、つまり、前々から左衛門尉が上総介に摂津工作のあらましを伝えていたに違いない。

 上総介は有能な人間を好むが、無能は嫌う。

 愚将と評判の簗田左衛門尉は、実は上総介の懐刀なのではないか。敵を騙すには味方をも騙すのが古来からの定石だが、上総介と左衛門尉を繋いでいる主従の関係は、まさしくそうだ。この二人は織田家中の人間たちを騙している。

 兵部は思う。自分は親友である明智十兵衛ほど将校としても政治家としても有能ではない。足利幕府を見限ったものの、織田家の中で飛び抜けた躍進を遂げたいとも考えていない。

 ただ、上総介に気に入られている十兵衛は、自分の実力を知っているゆえに名を上げようという男らしい野心を抱いている。

 出世頭の木下藤吉郎もそうだ。織田家の栄達は己の栄達とばかりに華々しい功績を上げている。

 だが、簗田左衛門尉はなんなのか。上総介の懐刀のような存在であるのに、それをひけらかそうともしないし、むしろ、ひっそりと謀略に徹している。

 野心はないのか。

「細川さん」

 左衛門尉がようやく口を開いた。

「あっしが瀬兵衛に恨まれたところで、世の中はもう動いている。瀬兵衛ごときにこの流れは止められませんよ」

 兵部は直感した。

 この男は時代の黒幕になる。


 茨木城での茶番劇を終えたのち、摂津茨木を領し織田家の配下となった荒木信濃守は、高槻城の高山飛騨守に牛太郎を使わした。

 牛太郎は述べた。

 織田家は北摂津を領することになった。ゆえ、飛騨守は荒木信濃守の与力となり高槻をそのまま統治しろ。

 飛騨守に断るすべはない。幕臣の惟政に反逆してしまった以上、生き長らえるには織田方に付くしかなく、それがたとえ宿敵の荒木信濃守の配下であろうと、背に腹は代えられなかった。

「かしこまった」

 簗田家の摂津攻略はひとまずの目的をようやく遂げた。

 戦火の中心として荒廃の限りを尽くした高槻の地に春の甘い風がゆっくりと流れていた。

 高槻城の門前にて、新七郎が季節の風にぼんやりと打たれていると、役目を終えた牛太郎が栗綱と栗之介に導かれて戻ってきた。

「次は小谷城攻めだ。おれはしばらく堺に残るけど、お前は太郎のところに戻れ」

 新七郎は無言のまま頭を下げた。

 主人はあれ以来変わった。口数が少なくなり、あれだけ激しかった感情の起伏も鳴りをひそめている。まるで、感情をその内に押しこめており、謀略家の凄味だけが日に日に増していっている。

 人間とはこうして前に進んでいくものなのか。

 栗綱の足音を耳にしながら、新七郎は視線を伏せてただただ後を付いていく。

 高槻にいい思い出はない。

 無常の風が新七郎の頬を撫でていく。

「旦那様」

 新七郎は牛太郎を呼び止めた。牛太郎はただ黙って新七郎を栗綱の上から見下ろしてくる。

「あの空き家に忘れ物をしてしまいました。旦那様は先に堺に戻ってくだされ」

 牛太郎はじいっと新七郎を見つめてくる。なんだか、その冷たい目に見透かされているようだった。

「わかった。ゆっくりしていけ」

「ありがとうございます」

 新七郎は頭を下げると、主人の姿が見えなくなるまで見送った。

 何人たりの命も殺めずに成し遂げたこの摂津攻略。荒木信濃守や細川兵部大輔の中ではそうなっている。

 しかし、彼らは何も見えていない。高槻では多くの犠牲が払われた。人の命も、誰かの尊厳も。

 新七郎は空き家とは違う方向に足を進めた。

 ゆえという女であった。元は京の宿場で働いていた娘。新七郎が目を付けたのは、その天真爛漫な笑顔であった。

 和田惟増を殺すために必要であった。

 ゆえは新七郎を信じていた。

「新さんのためなら」

 高槻城の和田惟長の傍に上がるよう指示すると、ゆえは目尻を柔らかくほぐし、にこりと微笑んだ。

「俺のためなら、か」

 ゆえを呼び出し、彼女の前で太刀を鞘から抜いたとき、ゆえは叫びも喚きもしなかった。

 ただただ、微笑んで見つめてくるだけだった。

 新七郎はためらった。しかし、やらなければならなかった。目的のため、簗田家のため、自分のために。

「ゆえ、すまん」

「お元気で。新さん」

 自分の宿命を知っていたのか、ゆえは。新七郎は涙ながらにゆえを斬った。

 寺の墓地は、高槻での戦火のあおりを受けて、卒婆塔が無数に立てられていた。キリシタンの多い地でもあるが、死後の世界を宗教にこだわれないほどに、多くの民衆が死んだ。

 ゆえの墓もここにある。

 命を失っていった人々を慰めるかのように、桜の大木が花びらを風に舞わせていた。

「ゆえ」

 新七郎は突っ立ったままささやいた。

「さらばだ」

 胸の上で十字を切ると、拳を握った。

「不憫なもんやな」

 はっとして振り向くと、卒婆塔が無数に並ぶ中で半纏姿のさゆりがにやにやと笑いながら立っていた。

「その子はキリシタンなのに、仏の墓で眠っておるんか。あんた、南蛮寺に移してやりい」

 新七郎は黙ってさゆりを睨む。

「昔の同僚のよしみや。最後に別れを告げに来てやったわ」

「お前、旦那様のあとをずっと付けていたな」

「そや。最後の最後でへまをやらかしかねないかんな。ま、あの人は一皮剥けたみたいや。もう、私がいなくても大丈夫やろ」

 後ろで束ねた髪の尾が、桜の花びらを乗せる風に揺れていた。さゆりは微笑んだまま新七郎に背を向け、立ち去ろうとした。

「それでいいのか、お前は」

「何がや」

「行く当てもないんだろう。お前の帰る場所は旦那様のところしかないだろうが。それでもいいのか」

 さゆりは背中だけを見せて、しばらくは黙って風に打たれていたが、横顔だけを振り向かせてきて言った。

「甲賀流のくのいちになったときから、私には行く当ても帰る場所もない。流れ流れることが私の生きる道や」

「止めはしない。止めはしないが、旦那様はいつだってお前を待っているからな」

 さゆりははかなげに笑うと、

「達者でな」

 そう言って立ち去っていった。

 が、そのとき、唐突にさゆりがばさりと倒れた。

「おいっ」

 新七郎は駆け寄った。瞼を瞑って倒れ込んでいるさゆりを抱きかかえると、彼女の首には細い針が刺さっていた。

 まさか、甲賀流の追手か。新七郎は懐に手を入れながら、腰を上げて辺りを見回した。

「ふふ」

 卒婆塔の間から小柄な女が笑いとともにゆらりと現れた。

「兄さんも姐さんも腕が落ちましたね。私にあとを付けられていることに気付かないなんて」

 矢筒を手にしているのは、彩だった。


 堺に戻ろうとしていた牛太郎であったが、途中、なぜか堺にいるはずの彩が背後から追いかけてきて、

「姐さんを捕まえました。急ぎ、高槻の例の空き家に行きましょう!」

「う、嘘だろ!」

 ここ数日、塞ぎこんでいた牛太郎は、喜びのあまり発狂した。栗之介に栗綱のきびすを返させると、栗綱を小走りに走らせる。

 彩が話したところによると、彼女はずっと兄の新七郎のあとを付けていた。というのも、さゆりは失踪したものの、性格上、摂津工作が最後まで成し遂げられるかどうか心配でどこからか様子を見ているはずだと彩は踏み、ならば、それが成し遂げられたあと、もしも、最後に別れの言葉をかけに来るとしたら新七郎だと思った。

「姐さんよりも私のほうが一枚上手だったってことです」

 彩は嬉しそうに言う。牛太郎はうんうんと大きくうなずく。

 高槻の空き家に到着すると、牛太郎は勢い余って馬上から転げ落ちながらも、おたおたと朽ちかけた戸に駆け寄り、力任せに開け広げた。

「この女狐野郎っ!」

 と、減らず口を叩いた牛太郎だったが、薄暗い居土間はさゆりが仰向けに寝ており、傍らに新七郎が座っていて、しんとしていた。

 牛太郎は拍子抜けしてしまい、立ちつくす。

「姐さんは眠り薬で寝ているだけです」

「そ、そっか」

 牛太郎は唇を結んだ。

「そっか。そっか」

 牛太郎はただただ首を縦に振ってうなずき、何やら拭いきれない感激にじわじわと身を絞られていった。

「そっか」

 鼻をすする。瞼をぬぐう。

「また泣いてんのかよ、旦那」

 背後で栗之介が笑っていた。

「泣いてねえっ! 目がかゆいだけだ!」

 彩がつぶらな瞳を潤ませて牛太郎を見上げてくる。牛太郎は皆から顔を背け、目をごしごしとこすった。

「あー、かゆい。かゆくてたまらん。花粉症だな。うん」

「旦那様」

 腰を上げた新七郎が歩み寄ってきて、頬の傷を歪ませて笑んだ。

「我らは先に堺に戻っています。あいつがいるから護衛はいらんでしょう」

 牛太郎はうなずいた。目をこすりながらうなずいた。

 栗綱だけを置いて、新七郎や彩、栗之介が去っていくと、牛太郎は玄関に立ちつくしたまま、居土間に寝ているさゆりを見つめる。

 起きたら、何を訊けばいいんだろう。何を話せばいいんだろう。

 そんなことを考えて戸惑っていると、栗綱がぬうっと首を入れてきて、じいっとさゆりを見つめる。

「なんだよ、お前」

 牛太郎は無垢な子供のような瞳でさゆりを見つめている栗綱の鼻面を撫でた。

「さゆりんだぞ」

 栗綱は瞳をちらりと牛太郎に向けてきた。首を玄関の外に出すと、そのままそこに脚を折り畳んで座り込み、出入り口を塞ぐかのようであった。

「そうだな、また逃げ出さないようにしないとな。もし、逃げ出すような真似をしたら、お前が捕まえてくれよな」

 また、ちらりと見上げてきたあと、栗綱は首を体の中に丸め込んで瞼を閉じた。

 可愛いんだか、可愛くないんだか。

 牛太郎は居土間に上がり込むと、煎餅布団の上で半纏をかけてすやすやと眠るさゆりの傍らに腰を下ろした。

「馬鹿野郎……」

 と、鼻をすすりあげる。

「何が気に入らなかったか知らねえけどな、黙って出ていく奴があるか」

 さゆりの寝顔は普段の冷徹さが微塵もなく、健やかな女の顔であった。

 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ

「何が姫百合だ。お前はさゆりんだろうが。変な真似をしやがって。そりゃあ、あずにゃんがいたりして、いろいろな束縛はあるけどな、おれはお前のことだって好きなんだからな。嫌いだけど好きなんだからな」

 牛太郎はさゆりの額に手を伸ばすと、乾いた髪を撫でた。思っていたより、彼女の頭は牛太郎の掌に比べてすこぶる小さかった。

 今後、どうすればいいのかわからない。さゆりの思いを受け止めるためにはどうすればいいのかわからない。梓がいる以上、側室なんて言語道断であるし、そもそもさゆりを女房として見られない。

「お前はそれをわかっていたってことか」

 さゆりはただただすやすやと寝息を立てる。

 牛太郎は重々しい吐息をついた。まさかこんなことになるなんて、さゆりを配下にしたときには思いもしなかった。

 あれだけ色恋沙汰には縁のなかった自分なのに、よもやこんなことで悩むとは。

 まあ、今後のことは今後考えればいいとして、今は二人きりである。

 牛太郎は塞ぎこんでいたのもどこへやら、にやにやと笑い始めた。岐阜を出て摂津にやって来てから三カ月余、すっかり御無沙汰である。いや、普段から諸国を駆け回りつつ、恐妻の影に怯えている牛太郎は、まったく遊んでいない。

 牛太郎はそろりそろりとさゆりの首元に鼻先を近づけた。

「何をやっているんや!」

 急にさゆりの瞼が開いた。即座に両手で伸びてきて、牛太郎の首をがしっと掴んだ。

「私が寝ているからって変な真似しくさって! あんたは相変わらず下衆やなっ!」

 ぎりぎりと首を絞められ、牛太郎は口から泡を吹いた。

「ご、ごめん。か、か、勘弁」

 さゆりが手を離し、牛太郎はごほごほとむせた。殺されるかと思った。

 さゆりは寝返りを打ち、牛太郎に背中を向けてくる。

「阿呆。なんであんたはいつもそうなんや」

「ひ、ひ、卑怯だぞっ! 寝たふりしやがって!」

「阿呆」

 さゆりがただ呟くだけで、牛太郎はなんだか拍子抜けしてしまう。

 しばらく、言葉はなかった。

 さゆりの背中と牛太郎の視線の間には、解き難い何重もの紐が絡み合っているような互いの感情だけが流れていた。

「なあ」

 牛太郎はぼそりと訊ねた。

「どこに行くつもりだったんだ」

「あんたに関係ないやろ」

「なんでだ」

「関係ないからや」

「わかった。だったら出て行け。もう何も訊かない」

 さゆりは振り返ってきて、睨みをきかせた。

「いや、嘘です。出て行かないでください」

 牛太郎はうつむく。

「おれにはさゆりんが必要なんだ。さゆりんを苦しませているかもしれないけれど、おれには必要なんだ。吉田早之介じゃない。さゆりんが必要なんだ」

 さゆりはじっと見つめてくる。

「あずにゃんには言っておくから。さゆりんっていう好きな人ができちゃったんでどうにかしてくださいって言っておくから。だから、どこにも行かないでくれ」

 うなだれる牛太郎を、さゆりはしばらく黙って見つめたあと、のそりと起き上がった。半纏を袖は通さず背負いこみ、体をその中で丸める。口をへの字に曲げたまま、猫のような丸い目でじっと牛太郎を睨みつけてくる。

「本当なんやろうな」

 鬼気迫るものを感じて、牛太郎はうなだれるだけである。

「本当に奥方にそう言うんやろうな」

「う、うん」

「そんなの無理に決まっているやろ。奥方が許すはずないやろうが」

 ぷいと顔を背けてしまう。

「い、いや、でも――」

 ちらりと目を向けてくるさゆり。

「なんや」

「そうでもしないと、さゆりんはどっかに行っちゃうんだろ」

「知らん」

 さゆりはまたそっぽを向いて、牛太郎はうなだれる。

「まあ、でもな、あんたがそこまで言うんなら、ちょっとは考えてやってもええかな」

 牛太郎はおもむろに顔を上げ、体は思わず前にのめった。

「本当かっ?」

「その代わり、もうなんにもしないかんな。調略もいくさも何もしないかんな。これからのことはあんたがやるんやからな」

「わ、わ、わかった。と、当然だ。お前はおれの心の恋人だ。もうそんなことはさせん」

 さゆりは笑いを吹き出した。

「なんなんやそれ。心の恋人って」

 顔を向けてきたさゆりは、険のあるはずの目尻を緩ませ、歯を見せて笑っている。

「あんたって人は本当に口だけは大層なんだから。適当なことばっかり」

「適当じゃない真実だ」

 ふふ、と、さゆりは笑う。

「ありがとう。嬉しいよ」

「え……」

「私もあんたのこと好きやで」

「えっ!」

 さゆりの思わぬ言葉に牛太郎は馬鹿みたいに飛び跳ね、心躍らせ、表情は喜色に溢れた。胸はどぎまぎと躍動し、喉元はこの甘酸っぱさに渇き切り、目は子供みたいにきらきらと輝かせる。

 さゆりは微笑んで牛太郎を見つめる。

「さ、さ、さ、さゆりん――」

 牛太郎は夢を見た。さゆりを愛人にしてしまえる、と。

 が、例のように丸い鼻を突き上げながら放ったさゆりの言葉が牛太郎の夢を無にかえした。

「ただし、あんたの言う通り、私はあんたの心の恋人や。体の交わりはなしやで。あんたなんかに抱かれるのなんか、気持ち悪くて仕方ないからな」


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