三方ヶ原の戦い2
「善兵衛」
と、城代の中根平左衛門は、おのおのの守備位置に配された二俣城の兵卒たちを眺めながら言った。
「この世は穢土と思うか?」
善兵衛はうなずいた。
「なぜじゃ」
「武者は死ぬまで戦い、人々は死ぬまで飢えております。終わりの見えない世ゆえ、穢土であります」
「いかんな、善兵衛」
平左衛門は武骨な頬を緩ませ微笑んだ。
「終わりが見えないのは武者が戦い続けているからであろう。だが、我ら三河武者は極楽浄土を求めて戦い続ける。三河武者と他所の馬の骨との違いじゃ」
「死ぬまで戦うということでしょう?」
「違うな。我らはこの世に浄土を打ち立てるために戦うのじゃ。武者が戦う根本的な理由は、手柄を立てるためでも、領土を拡大するためでもない。この戦乱の穢土を終わらせるために戦うのじゃ」
平左衛門は善兵衛の肩に手を置いた。
「あのおやかた様と共になら、三河の者たちと共になら、わしはそれができるんじゃないかと夢見ているんだがな」
「左様、中根殿の申す通りだ」
青木新五郎が歩み寄って来た。
「天下泰平の世を築くのは織田上総介ではない。おやかた様だ。三河武者の真髄はそれだ。だから、善兵衛、お前はおやかた様に拾われたと思うな。天に拾われたと思え。泰平の世を築き上げる、三河武者として拾われたとな」
中根平左衛門も青木新五郎も、馬場隊に突入していき散っていき、もはや、この世にはいない。
弓がきりきりと音をたててしなる。
名将、山県三郎兵衛尉が視線の先にいる。
天下に名乗りを上げるのは武田か。
「否っ! 我ら三河勢よっ!」
放った。
貫け。
喧騒の時が止まったかのように、矢だけが空間を伸びてくるかのように、瞬く間もない速さで三郎兵衛に迫ってきた。
武田の夢は始まったばかりである。
三郎兵衛は瞼をくわと押し広げる。邪念はない。体はいくさに染み込んでいる。長い年月をかけて、数々の戦いを経て、山県三郎兵衛尉昌景はここにいる。
矢は、三郎兵衛がかたむけた顔をかすめていった。
善兵衛は弓を捨てる。太刀がたいまつの火にきらめいた。手綱をしごき、赤備えと本多隊が騒然と鍔競り合う中、馬を駆けさせ、三郎兵衛に一直線に襲いかかっていった。
「笑わせるなっ、こわっぱっ!」
三郎兵衛も馬をしごき、善兵衛に向かっていった。
善兵衛が太刀を振りかぶる。三郎兵衛が槍を振り抜く。間合いは五分五分。しかし、三郎兵衛の経験が勝った。槍は善兵衛の首を襲った。
ただ、激戦の疲れがどこかにあった。手元がわずかに狂って、善兵衛の首を払ったのは刃ではなく、柄だった。
善兵衛が馬上から崩れ落ちる。三郎兵衛は槍を持ち直す。地面に落ちた善兵衛目掛けて槍先を突き向けた。
「武田の勢いはもはや天下の大勢を決しておるっ!」
余裕はない。三郎兵衛の目は血走っていた。情けにも、心意気にも、構っていられなかった。
しつこければ、しつこいほど、そのつど、
「叩き潰すまでよっ!」
そのとき、何かが飛んできた。いや、襲いかかってきた。三郎兵衛の体は馬上から宙へと吹き飛んだ。
大きな岩をぶつけられたような衝撃。多分、あばらがやられた。
三郎兵衛は地面に打ちつけられた。すぐさま、馬廻の者たちが駆け寄り、三郎兵衛の前を守った。
それでも、栗色の怪物は身を呈して三郎兵衛の盾になっていく馬廻りを次々と蹴散らしていき、三郎兵衛に押し寄せてくる。
「殿っ!」
与力が馬から下りてきた。抱え上げられた三郎兵衛は鞍に手をかけ、与力の手を借りてなんとか馬上に戻った。
「ここは我らが! 殿は三河の首をっ!」
が、同時に与力は腕を貫かれて、悲鳴を上げた。槍の持ち主は顔中を血に染めて笑い上げる悪童であった。
もう一人の若武者が太刀を振りかぶって突っ込んでくる。
「三郎兵衛尉! もらったあっ!」
三郎兵衛は体を屈め、なんとか、太刀を交わす。
「しぶてえ野郎だな! 山県!」
と、悪童が槍を突き出そうとしてきたが、与力が割って入った。
しぶといのはどっちだ。三郎兵衛は必死に手綱をしごき、乱戦から脱け出す。恐ろしい。自分が三河守の首だけを狙うように、あいつらは自分の首だけを狙っている。
「山県あっ!」
簗田左衛門尉の声に三郎兵衛は目を見開いた。
三郎兵衛は手綱を引いて、馬を返した。
栗色の怪物に跨った簗田左衛門尉が槍を振りかぶって駆け抜けてくる。
「死ねえっ!」
三郎兵衛は太刀を抜こうとしたが、栗毛の馬は予想以上に早かった。暇がなかったし、痛めた体も思うように動かない。
もうすでに、槍は三郎兵衛の頭上にある。
しかし、槍は兜を叩いただけだった。がつんと叩いただけだった。
そのまま、栗毛の馬は通りすぎていく。
下手な槍さばきであった。
拍子抜けしたと同時に、三郎兵衛は冷静さも取り戻した。太刀を抜くと、いなくなってしまった簗田左衛門尉のことは考えずに、三河守本隊とやり合っている赤備えを鼓舞した。
「ここが天下の分かれ目ぞっ!」
天下の分かれ目か。三郎兵衛の檄は三河守にも届いてきていた。
ならば、そうはたやすく、武田に天下を取らせてはなるまい。
三河守は軍配を掲げた。三河勢の意地を見せんと、軍配を振り下ろそうとしたそのとき、手にしていたものを颯爽と奪い取っていく者があった。
「逃げてくだされ、おやかた様。生きてくだされ、三河のために」
鈴木久三郎だった。
三河守がまだ岡崎城にいたとき、勝手に鷹場の鳥や堀の魚を取って食ってしまった者たちを三河守は牢に押し込めた。
それを聞いた鈴木久三郎は、三河守が上総介から頂戴した酒を、
「おやかた様のご厚意だ」
と、三河勢に振る舞ってしまった。
激怒した三河守が鈴木久三郎を呼びつけて太刀を突きつけたところ、
「魚や鳥が天下を取らすか! 人が天下を取るのではないか!」
久三郎の言葉に衝撃を受けた三河守は人々を牢から解放した。
「やめろ、久三郎!」
もう、三河勢に天下はない。天下がなければ、いさぎよく散り花を咲かせるだけ。
「わしは逃げおおせたくはない! わしも皆とともに死なせろ!」
「あんたは俺たちのおやかた様だ! 主君をみすみす死なせる奴があるか!」
久三郎は軍配を星空へとかかげた。
「三河勢よ! 天下無双の武田に一花咲かせるときが来たぞ!」
久三郎は軍配を振り下ろす。
「我に続けえいっ!」
三河勢は奮起した。赤備えを、追いついてきた内藤隊を、穴山隊を、六、七千はある軍勢を、迎え撃った。
三河守は何もできない。何もできないでいる自分がここにいる。何かができると信じて生きてきた人間は、何もできない人間であった。
三河守は慟哭した。
「家康殿っ!」
はらはらと涙を頬に伝わらせる三河守の横に馬を止めたのは、簗田左衛門尉であった。
「簗田殿お......」
左衛門尉は左頬から肩にかけてを血で真っ赤に染めている。
「何を泣いていやがんだ! いまだ、戦乱の夜明けだぞ! 生き延びて、死んだ奴らに報いてみせろ!」
「し、しかし!」
「おれはあんたの味方だ!」
梓のことを思った。
浜松城まで数里。
三河守、それに三河守の近習数人とともに馬で闇をぬっていく。栗綱の脱出を見かけた玄蕃允と勝蔵も牛太郎を追ってきている。
梓を思った。
後方には馬蹄が轟いている。振り返れば、赤備えがたいまつの火に浮かび上がりながら、猛然と追いすがってくる。
三郎兵衛だけが身代わりを見抜いていたらしい。引き連れて来ている軍勢は五千の山県隊の中でもわずか数百。
牛太郎は梓を思い出す。真っすぐに見つめてくる黒い瞳。木曽川に映る月影のような瑞々しさ。はかない微笑。無邪気な喜びに満ちた微笑。
しっとりと柔らかい黒髪、その香り。
不思議と、あの鬼梓は思い出さない。優しい梓、愛らしい梓しか思い出せない。
自分の幸せは梓がいたからあった。
自分の人生を劇的に変えたのはタイムスリップでもなければ、信長でもない。
梓だ。
「玄蕃! 勝蔵! 家康殿だけでも逃がすからな!」
玄蕃允と勝蔵はうなずいた。
三河守は馬上にうつむき男泣きしている。
あと一歩で追いつかれる。武田の騎馬は実に鍛錬されている。牛太郎だけであったら、栗綱の脚で颯爽と駆け抜けられる。だが、牛太郎は三河守だけは生かさねばならなかった。
三河守が生きていれば、いずれ天下は治まる。
三河守がいれば、梓は泰平の世を迎えることができる。
おれがキモブタを生かし、歴史を作る。
これが、天への信義だ。
「家康殿! うちの孫娘の約束、忘れるなよ!」
牛太郎は栗綱の手綱を引いて、赤備えに向き直った。
「簗田殿!」
三河守は近習たちに周囲をがっちりと固められ、牛太郎の後方から消えていく。
「オヤジ」
「オヤジ殿」
玄蕃允と勝蔵は口許にそれぞれ笑みをたたえている。たった半日で、若者たちの顔は見違えるほど精悍に締まっていた。
「結局、お前らを死なせることになっちまったな。申し訳なかったな」
「本望よ」
「冥土の親父と兄者への手土産に山県の首を持っていってやる」
赤備え数百の相手をするのは、わずか三人。
「じゃあ、勝蔵。山県の首、お前に取らせてやるよ。おれが栗綱でぶつけに行ったところを、お前はその槍で突き殺せ。玄蕃は勝蔵を守れ」
「不服だが、花を持たせてやるわ、山田三郎」
「恩にきるぞ、佐久間玄蕃允殿」
牛太郎は微笑んだ。いい人生だったと思った。
地上を揺らせて迫りくる赤備えに瞳を据える。
「山県は弱っているぞ!」
栗綱の脇腹を蹴り上げようとしたそのとき、牛太郎の背後から前方へと徳川旗を翻す多数の足軽兵たちが雪崩を打って赤備えに突っ込んでいった。
「どういうことだ」
玄蕃允が目を丸める。三河守の鎧兜と似たものを着込んだ男が颯爽と現れた。
男は兜の下の目尻に深い皺を刻みこんで微笑を向けてくる。
「簗田殿、御苦労であった。あとはわしに任せ、城へとお戻りなされ」
夏目二郎左衛門であった。
「駄目だ!」
二郎左衛門を死なせたくない。二郎左衛門は死ぬ。しかし、死なせたくない。だから、自分が歴史をほんの少しだけ変える。
「おれが代わりに行く! おれが家康殿の身代わりになる!」
「客人を身代わりに立てるわけにはいきませんよ」
すると、何者かが宙を飛んできた。牛太郎の真後ろ、栗綱に跨ってき、牛太郎の背中越しに栗綱の手綱を取り、鼻面を浜松城に向けさせると、栗綱の脇腹を蹴り込んだ。
「何をしやがんだあっ!」
牛太郎は暴れたが、
「あんたの命を取るのは私や」
さゆりだった。牛太郎はおもわず振り返ったが、
「前だけを見い。落ちてもしらんよ」
「嘘だろ」
牛太郎の瞼に涙が溜まった。
誰しも、命を捨てなければならないときがあれば、一方で、誰しも捨ててはならない命を持っている。
三河守が三河勢の主人であるように、牛太郎は簗田家の主人なのだ。
「いつ、浜松に来たんだ」
「ついさっきや。おかげで、もう、くたくたや」
「おれの死にざま、奪いやがって」
「生きざまならよう見といてやったわ。ふふ。惚れ直したで」
牛太郎は嗚咽した。
浜松城の大手門をくぐり抜け、玄蕃允と勝蔵も牛太郎に付いてきていた。城内には栗之介が待ち構えていて、脚を掻きあげて立ち止まった栗綱に駆け寄ってくると、牛太郎の両足と鐙とを縛り付けている縄を短刀で切りほどく。
牛太郎は力尽きるように転げ落ちた。
さゆりが闇の中に消えていく。
玄蕃允が牛太郎に駆け寄ってき、牛太郎の肩を抱いた。
「オヤジ殿! 大丈夫か!」
退いてきた兵卒たちがぞくぞくと門をくぐり抜けてくる中、勝蔵は唇を噛みしめて突っ立っていた。
栗綱が四股を震わせながら、栗之介が持ってきた桶の中の水に首を突っ込んでいる。槍にかすめ取られたらしき傷が無数にあった。牛太郎は玄蕃允の腕を振りほどくと、栗綱に歩み寄り、栗綱の馬体を抱きしめて、いっそう泣き声を強くした。
泣いている者がもう一人いる。三河守だった。地面に突っ伏して、
「わしのせいじゃ。わしのせいで、皆が、皆が逝ってしもうたあ」
「三河! まだいくさは終わっておらぬぞ!」
叱咤しているのは水野藤四郎であった。
「何を言うかあっ!」
勝蔵が藤四郎に駆けつけ、力任せに頬を殴りつけた。
「我先に戦場から逃げ出した者がほざきやがってっ!」
玄蕃允や三河勢が多数で勝蔵を止めにかかる。
「佐久間の日和見はどこにいるんだ! あーっ! 俺らが、三河勢が必死で戦っているときに、お前らは何をしやがっていた、あーっ!」
「喧嘩をしている場合ではないのだ! 殴りたければあとでゆっくりと殴らせてやるわ!」
藤四郎の言葉に勝蔵の火がさらに燃え上ったが、藤四郎は眉間に皺を寄せながら、地面に突っ伏している三河守を見やると、視線を持ち上げた。
「門を閉めるなっ! 味方を迎え入れろ! 味方を見殺しにするな! 武田勢が打ち入ってきたら、この水野藤四郎が迎え撃つ! かがり火を焚け! 最後の戦いだ!」
「何が最後の戦いだ!」
おもむろに突っ込んできたのは牛太郎であった。藤四郎の胸倉をつかみ上げると、
「おれたちにとっては全部が最後だったんだよ! 初めから終わりまで、全部最後だったんだよ! それをなんだ! いまさらなんなんだ!」
牛太郎は玄蕃允や三河勢に引き剥がされていくが、なおのこと暴れた。
「おれたちはお前なんかのために戦ったんじゃねえぞ!」
「わかっておる。わかっておる!」
「もう、ええ加減にせいっ!」
泣きじゃくりながら、三河守が立ち上がっていた。
「糞食らえだわい。わしなんか、糞食らえだわい! 全部、わしが情けなかったせいなのだ!」
そうして、また、三河守は地面に突っ伏した。三河守の悲痛な泣き声に皆が押し黙るしかなかった。
「叔父御。叔父御。もうわしは何も考えられん。あとは叔父御がやってくれい」
まるで、黄泉の国から這い出てきたかごとく、三河勢の小隊が次から次へと現れては、三河守への襲撃を阻んでいく事態に、山県三郎兵衛は半ばおののいていた。
忠誠心だけでは片づけられない。
彼らを突き動かしているものはなんだ。
「どうした、赤備えよ! ここを抜ければ、天下が見えるぞ!」
三河守の身代わりとなっている者の笑い声が夜空に響き上がった。
「殺せっ!」
三郎兵衛は必死だった。怒号は悲鳴のようであった。
「殺せっ! すべて蹴散らせっ!」
殺さなければならない。根絶やしにしなければならない。武田の人間として、天下に覇を唱える集団の一員として、三河勢は生かしてはならない。もし、一人でも生かしてしまったら、武田は終わりそうな気がする。
三郎兵衛は怒声を張り続け、兵卒たちの背中を押した。
あと一歩。あと一歩なのだ。
いくら、天下無双の騎馬隊と称賛されているとはいえ、手に入れているものは何の役にも立たない名誉だけでしかない。
どれだけ称賛されても、ここで道を切り開かなければ、自分たちは甲斐の盆地の百姓侍として時代の流れのうちに埋もれてしまうのだ。
だから、この生ける死体たちを完全に葬らなくてはならない。
「押せっ!」
兵卒たちは槍を一斉に突き出した。
「駆けろっ!」
騎馬が三河勢を薙ぎ倒していく。
身代わりを討ち取った。
三郎兵衛は休む間もなく浜松城へ突っ切る。
が、城郭を前にして、三郎兵衛は迷った。浜松城はかがり火で赤々と闇に浮かび上がり、あろうことか大手門が開け放たれている。
「殿っ! ここは一気に攻め込みましょう!」
与力が訴えてきたが、三郎兵衛はうなずかない。
策ではないか。
隠れた策士、簗田左衛門尉の罠ではないか。
三河勢はとにかくしつこい。最後の一人になろうとも降伏の姿勢を見せてこない。
「深追いは禁物だ」
三郎兵衛は馬を返した。
野戦と攻城戦は種別がまるで違うし、武田勢は三方ケ原台地での戦いには用意周到であったが、そこに浜松城攻略のすべはない。
攻城には攻城のやり方があり、野戦には野戦のやり方がある。三郎兵衛率いる赤備えは騎馬隊を主力とした野戦部隊である。
そもそも、入ってくださいとばかりに大手門が開け放たれているのがおかしい。
「しかし、殿っ! ここが好機では!」
「好機は過ぎた。三河を討ち取る好機はいくらでもあったが、討ち取れなかった。我らのいくさは終わったのだ。あとはおやかた様のいくさだ」
牛太郎は宿泊寺の一室で休んでいた。赤備えが退いていくのを見届けたあと、牛太郎の耳の具合を見た玄蕃允と勝蔵に、とにかく休んでおくよう押し込められた。
栗之介に手拭いで出血を押さえてもらうが、急にいくさ場の緊張から解放されたおかげで、めまいを起こし始めた。
「旦那。とりあえず、横になっていろよ」
栗之介に素直に従って、板床の上のござに寝転がる。
目の前がうっすらとしていく。視界が白く濁り、頭の中が曖昧になっていく。
「さゆりんは? さゆりんは?」
牛太郎は口だけを動かしてもごもごと言った。
「どっかに行っちまったよ」
「さゆりんは? どこに行ったんだ?」
「だから、わかんねえって」
牛太郎は濁った記憶に手を伸ばし、さゆりが呟いた一言をなんとか手繰り寄せる。惚れ直したとかなんとか言っていた。
惚れ直した、ということは、まさか、本当に自分に惚れていたということなのだろうか。
「さゆりんは?」
「だから、わかんねえって言ってんだろ」
だったら、探してこい! と、普段なら怒鳴り散らしている牛太郎だが、気力がなかった。
今すぐにでもさゆりに会いたい。牛太郎は心細い。梓にかける思いとはまた別次元の思いが募っていく。
梓がいれば命を賭して戦える。さゆりがいれば生きていける。
でも、朦朧としていた。
「御愁傷さまやな」
牛太郎は瞼を開いて起き上がった。頬かむりをした半纏姿のさゆりが部屋に入ってきた。
「さゆりん。さゆりん」
「なんや、気持ち悪い」
と、さゆりは牛太郎が伸ばしてきた手を打ち払い、牛太郎をござに押さえつけた。
「栗之介、この人を押さえといてや。しっかりとな」
栗之介が言われた通りに牛太郎の肩を押さえつけ、両腕に足を乗せる。
「な、何をするんだ」
牛太郎が弱々しい声で言ったが、さゆりは何も答えずに針を見せてきた。
「おいっ!」
やろうとされていることがなんとなくわかって、牛太郎は気力をよみがえらせた。
「麻酔とかしろよっ! おいっ!」
「なんや、マスイって」
「やめろっ! やめろっ!」
割られた耳がさゆりの手に取られて、牛太郎は今日一番の暴れようであった。しかし、栗之介にがっしりと押さえられてしまっている。
「今、縫っておかないとどうにもならんって。あきらめるんや」
「いいっ。耳が三つでもいいっ。だから、勘弁してくれっ! だいたい、それ、ただの縫い針じゃねえのかよっ! おいっ!」
さゆりは有無も言わさずぐさりと針を刺してきた。激痛が走って、牛太郎は悲鳴を上げながら飛び跳ねた。無論、栗之介に押さえられている。
「旦那。無茶するからこんな目に合うんだ」
牛太郎は痛みに悲鳴を上げ、涙を流した。まして、耳元でそれをやられているから、肉を貫く音が恐ろしい。牛太郎は赤子が泣き叫ぶように絶叫する他ない。
「やかましいんや。男ならこらえんか」
さゆりの声は淡々としている。彼女のその躊躇のなさが牛太郎の声を余計に大きくさせる。
「やかましいっ! 栗之介、この人の口になんか詰めるんやっ。やかましくてしゃあないわっ」
「詰めておけって言ったってなあ」
牛太郎が叫ぶ中、栗之介とさゆりは辺りを見回した。そうして、さゆりはにやりと笑った。
「ええもんがあるやんか」
さゆりは桐箱の蓋を開けると、花散らしの小袖を手にした。
「や、やめろっ! それだけはやめてくれえっ!」
「奥方の匂いでも嗅いで落ち着きいや」
さゆりは笑みを浮かべたまま瞳を輝かせると、小袖を牛太郎の喉奥にまで押し込めた。
さゆりの縫合によって牛太郎が失神している間、大敗北を喫した三河勢は一矢報いようと、浜松城北方にある犀ヶ崖で野営中であった武田勢を夜襲したらしい。
どこまでもしつこい三河勢に武田勢は狼狽したようだが、兵力の絶対数がまったく違う。勝敗がどうのというより、三河勢の意地を見せただけの奇襲であった。
翌朝、牛太郎は浜松城に登った。夜通し城郭に詰めていた玄蕃允、勝蔵と合流し、本丸御殿の三河守のもとを訪ねる。
「武田に目立った動きはありませぬ」
と、酒井左衛門尉が言った。彼もまた三方ヶ原台地での戦いによって顔には疲労が浮かんでいた。
「簗田殿」
酒井左衛門尉は牛太郎の名を呼んだあと、しばらく目をじっと伏せ、その後、深々と頭を下げてきた。
「簗田殿がおらなかったら、おやかた様は今こうしておられなかったかもしれませんでした。いや、三河勢はなかったかもしれませんでした。感謝しても感謝しきれぬ思いでございます」
九之坪勢は全滅した。玄蕃允と勝蔵がかろうじて生き残っただけで、尾張からやって来た五十人は三方ヶ原台地に骨を埋めた。
徳川方の死者は二千人を越えている。負傷者ともなるとその倍以上である。一方で、佐久間右衛門尉の軍勢に死傷者はいない。
同じ織田の援軍である簗田九之坪勢がいかに三河守の生存に貢献したことか。
「簗田殿、わしは――」
黙りこくっていた三河守が口を開いた。目つきも口調も、昨日までの三河守のものではなかった。黒目がちのぎょろりとした瞳には貪欲な光がかすかに見え隠れしており、その声は地を這うように低い。
「わしは甘かった。わしの甘さのせいで三河の家族、九之坪の友人たちを多く死なせてしまった」
三河守は傍らに置いてあった巻物を手にし、紐を解いた。牛太郎に、その醜い自画像を見せてきた。
「これこそが徳川三河守家康。この醜い男こそ三河勢のあるじ。なんと情けないことだろう。しかし、わしはこの三河守の失態を忘れませぬ」
さらに、三河守はこのいくさでの敗北を生涯忘れぬよう、また、自分自身の情けなさをあえて流布させて己の戒めとなるよう、偽りの記録を残したと言った。
三方ヶ原台地から命からがら逃げ出してきた三河守は、浜松城に到着したとき、その恐ろしさのあまり脱糞した、と。
「わしが情けないままに死んでいけば、脱糞の三河と後世に語り継がれるでしょうが、しかし、わしはその汚名がかすむほどの大将になってみせまする」
殺意さえ感じる鋭さを眼底にひそませる三河守を前にして、牛太郎は思った。徳川家康という男はこのとき誕生したのだと。
とはいえ、徳栄軒の西進にどう対処すればいいのか。牛太郎にはわかっているが、三河守や酒井右衛門尉は決死の覚悟なのである。
なので、牛太郎は言った。
「家康殿、このまま武田が西上を進めたとしても、浜松城を包囲したとしても、じっと耐えてください。一歩も動かず、ただ、時間が過ぎるのだけをひたすら待っていてください」
それはどういう根拠なのかと酒井左衛門尉に問われる。
牛太郎は登城前、さゆりから今の情勢を聞いてきていた。
さゆりは天下の情報集積地である堺で包囲網打破の工作に動いており、浜松に来る途中には清州や沓掛で新しい情報も仕入れてきている。
今、武田が西上作戦を決行していられるのは、織田軍が北近江の戦線に捉われており、それは武田徳栄軒の大戦略でもあったのだが、あの上総介信長がいつまでも小谷城を攻めあぐねるはずがない。
それを読んでいる徳栄軒は、北近江の浅井とともに、越前の朝倉とも連携を取り、朝倉を北近江に当たらせようとしているが、越前朝倉はこの期におよんで腰をなかなか上げなかった。
日に日に劣勢となっていく小谷城の浅井備前守は、越前朝倉に何度も援軍要請を通達し、最終的には織田勢を挟み打ちにできるという虚言を用いて朝倉を引っ張り出してきたが、北近江にやって来てそれが事実でないと知った朝倉は、小谷城と虎御前山が見渡せる小谷山頂上に布陣したまま一向に動く気配を見せず、挙げ句に越前に引き返してしまった。
おそらく、その報告は武田徳栄軒のもとに来ているか、もしくは近々に届くだろう。
「風林火山の武田勢でも、どんなに早くたって、このまま攻め上っても美濃に辿り着けるのは一か月以上、いや、二か月はかかります」
さらに岐阜城は、織田勢も苦しめられた難攻不落の稲葉山にある。浅井朝倉が北近江で引きつけ、もしくは織田勢が岐阜に戻って来る瞬間に東西から挟み打ちにできなければ、武田勢は織田五万の大軍勢と血みどろの戦いに持ち込まれてしまう。
上洛を狙う徳栄軒にとって、無駄ないくさでしかない。
「だから、朝倉が北近江にいなければ武田勢も深くまで進めないんです」
進軍を止めるに違いない、と、さゆりは読んでいた。牛太郎はそれをそのまま三河守に伝えただけだが、三河守は、
「簗田殿は大局を見ていらっしゃるのか。わしも見習わなくてはならん。わしも大局を見なければ」
と、ぶつくさと呟いたが感心もしていた。
それに、信玄は死ぬ。だから、もう、むやみにいくさをする必要はない。
もちろん、それは言わなかった。
兵卒のすべてを失った牛太郎や玄蕃允、勝蔵にとって、浜松に残りたい気持ちはあったが、残っても意味はなかった。佐久間右衛門尉と仲違いをしているのもあり、三人は岐阜に戻り、もしも、これ以上の危機にあったらすぐさま自分に要請をするよう三河守に告げた。
そのときこそ、織田の大援軍を連れてくるから。
「絶対に」
牛太郎の言葉に三河守は瞳を潤ませ、ひとつうなずいた。
「また、兵隊たちを殺しちゃったか」
浜松城を下りる途中、牛太郎は呟いた。金ヶ崎のときほどの痛みはなかった。玄蕃允と勝蔵を生き残らせることができたからかもしれない。だが、従えていた兵の人生を終わらせてしまった罪悪に麻痺しかけている自分に危うさも感じた。
勝ってはいない。負けたのだ。いや、命のやり取りに勝敗などあるのだろうか。
「また、忘れられないいくさになっちゃったな」
青い空の下、もやになるまで広がる遠州灘を眺めながら、牛太郎は、
「いくさにも負けて、勝負にも負けて、全部負けた」
と、痛感した。
「わしは負けてないぞ」
玄蕃允が瞳をぎらつかせながら言う。
「死んでない。だから、まだ明日はある。明日勝てば、帳消しだ」
「十ぐらい勝たなければ帳消しにはならんだろう」
と、勝蔵が言った。
「勝負だ、玄蕃。どっちが早く十戦勝つか、勝負しようじゃないか」
「拙者も加わりましょう」
三人は振り返った。松平善兵衛だった。
「ただ、拙者は二十戦勝ちまする。甚左衛門殿の分もいれて」
そういえば、と、牛太郎は善兵衛に問い質した。平手甚左衛門はどうしたのだと。甚左衛門の分とはなんなのだと。
三人は善兵衛の口から、甚左衛門の最後を初めて聞いた。
遠州灘の波間に浮かんでいた白い大群が、一斉に空へと飛び出していく。澄んだ青空と日差しを受ける海の間、その羽ばたき、その鳴き声が聞こえてきそうなほどの鳥の大群は、百合かもめだった。
三方ヶ原台地に散った奴らは、遠州灘の白い鳥になったのか。
「そのほうがいい」
牛太郎は呟いた。若い三人には牛太郎の言葉が、甚左衛門など死んでしまったほうがよかったというふうに聞こえたのだろう、それは一体どういう意味なのだと語気を荒げて詰め寄ってきた。
牛太郎は関せずに、百合かもめの行方をじっと見つめる。
「甚左衛門も夏目のじいさんも、みんな、鳥になった。それでいい」