三方ヶ原の戦い
武田の強さというのは、武田徳栄軒信玄の強さに他ならない。
甲斐の武田は昔から強いことは強かった。しかし、今ほど、全国の老若男女が知っているほどでもない。
徳栄軒が実父を追放して当主の座を乗っ取るまでは、武田家は一国の守護大名に留まっており、甲斐の国人や信濃の豪族、駿河守護の今川家、新興大名の北条家などと、地方の覇権を争う程度の勢力であった。
まさか、畿内の中央の舞台に躍り出るはずもない。
徳栄軒の登場が武田家を変える。まず、彼は争い続けていた今川、北条と婚姻同盟を結ぶと、甲斐領国の内政を確かなものにし、信濃の侵略に集中する。
山間の屈強な武者たちに苦戦しながらも、武田家は着々と信濃を蹂躙していき、知謀と武勇を兼ね備えた武田徳栄軒の名は知れ渡っていった。
しかし、とんでもない邪魔者が徳栄軒の前に立ちふさがった。越後の長尾景虎、今の上杉不識庵謙信である。
武田家の領土拡張はこの軍神に足止めされ、大決戦を五度に渡って繰り広げたが、雌雄を決することはできず、徳栄軒の野心は潰えたかに思われた。
しかし、情勢は変わっている。東海道の雄であった今川家が桶狭間の戦いで没落し、徳栄軒は機に乗じて領土を駿河へと拡大し、織田上総介の犬、徳川家と対峙することになる。
そして、諸大名の気運は反織田へと向いている。
不識庵との戦いにかまけて、織田の日の出の勢いに指をくわえているしかなかった徳栄軒は、今、万事を整えて上洛を果たそうとしていた。
今川の没落以降、背後の北条とは再び戦火を交えていたが和睦し、越後上杉家とも停戦に持ち込でいる。念のため、遥か日本海に面する越中国で一揆を扇動させ、不識庵の目を信濃から逸らさせた。
武田の強さは徳栄軒のこうした外交努力と謀略による。
だが、それだけではない。甲府を出立した二万の軍勢は、上杉との度重なる戦闘の賜物か、幾度もの軍改革が施され、厳しい訓練と死闘の経験を備えた屈強の兵である。
総兵力では、織田・徳川にひけを取るが、織田は各地で起こった包囲網に苦戦しており、徳川だけの兵数は一万余だ。
広大に渡る織田領の喉元をえぐるように、武田勢は東海道を算段だ。
「大丈夫ッスよ」
牛太郎は呑気であった。脂の乗った戻り鰹の身に舌鼓を打ち、ここ最近、本丸御殿に呼ばれるたび、遠州灘に打ち上げられた季節の味に興じている。
「しかしですなあ、簗田殿のその根拠とはなんなんでしょうかな」
鰹の身をぺちゃぺちゃと食べ、吸い物をずるずると啜る三河守。こちらも言葉ほどの緊張感はない。
「だって、武田信玄なんてもういい年した老人でしょ。信玄さえいなければ、武田なんて百姓侍の寄せ集めじゃないですか」
「いやいや、簗田殿」
と、言いつつ、三河守は米を掻きこむ。途中、喉を詰まらせてごほごほとむせ返り、胸を叩いて落ち着いてから、ようやく続けた。
「泣く子も黙る天下の武田騎馬隊ですぞ。配下には歴戦の猛将も揃っておりますゆえ、百姓侍などとはいかがかと――」
ごほごほっ、と、米粒を飛ばし、湯を飲み干した。
「ああ、ああ、焦るから。家康殿、焦ったって仕方ありませんよ。動かざるごと山の如しですよ」
牛太郎がしたり顔で言うと、三河守は太ももをぽんと打った。
「なるほどっ。敵のお株を奪うということですなっ」
幼年時代のすべてが人質生活で、今は上総介の飼い犬と化している三河守は忍耐強い。その一方で楽天家でもあった。忍耐とはじめじめとした暗闇の中でじっと時を待たなくてはならない。ゆえにたった一つのかすかな希望がなければ、耐え忍ぶことは人間として不衛生すぎる。
よもや、己がいずれ天下の覇権を握ろうとは、三河守は思いもしていないが、耐え忍べば何かがあることを、人質から脱却し、三河松平家の再興を果たした三河守は知っている。その何かを信じられるほどの楽天家である。
実際、牛太郎は三河守と時間を供にしていると、愉快であった。緊迫したこの情勢の中で、――もはや、徳川は終わりだという気配が漂う中で、三河守は人生を満喫している。こういった男と相対していると、こちらまで楽しくなってくるものだ。
もしかしたら、と、牛太郎は思う。この楽天家こそがやがては徳川幕府の総帥へと登っていくのだから、これこそ大将のあるべき姿なのかもしれない、と。
それにしても、
「それにしても、家康殿は太りすぎじゃないですかね。三河武者の主たる男がそれじゃあ、格好が悪いじゃないですか」
牛太郎は臆面もなく言うが、口を軽くさせてしまうのも三河守の人柄だろう。もっとも、牛太郎が三河守をどこかで侮っているというのもあるのだが。
「いやいや、簗田殿だって似たようなものじゃありませんか」
と、三河守はおどけて目を大きくする。
「そもそも、拙者はこう見えても若い時は痩せておったのですぞ。例えば、そう、いつぞや岐阜でお会いした簗田殿のご子息のような見映えのする武士だったのですから」
胸を突き出し、でっぷりとした腹をさすりながら、過ぎ去った己の姿を揚々と語った三河守に、牛太郎は蔑むような視線を送る。そもそも、三河守は「若い時」というほどの年齢ではない。おそらく三十になったかならぬかの齢である。
「それに拙者は太ってはいるものの、食っては寝て食っては寝ての暮らしをしているわけではございませぬ。山野を駆け廻り、川で水浴びをし、ただの太っちょではございませぬ」
「それって、あっしのことを遠回しにただの太った奴だと言っているようじゃないですか」
「い、いや、そ、そういうわけではございませぬが。そ、そうだっ。腹も膨れてしまったゆえ、食後の運動でもしましょうかな。うん、そうしよう。簗田殿も一緒にどうですか」
牛太郎はひそかに鼻で笑った。どんな醜態を晒してくれるか、見ものじゃないか。馬駆けならば牛太郎の栗綱に並ぶ馬はいないし、武芸をするにしても木刀を振り回しているだけだろう。
そういうことで、御殿の外に連れ出されたのだが、三河守が始めたのは鷹狩りであった。三河守の腕から放たれた鷹は勇壮に翼を広げ、獰猛な足で野鳥を捕獲する。
自分はまったく動いてねえじゃんか。
牛太郎は白々しい思いで三河守を眺めるが、当の三河守は澄み切った青空を旋回する鷹の姿に目を細めている。
「こんな時期に鷹狩りとは、おやかた様は肝が据わっておりますな」
背後から甲冑を着込んだ初老の男が歩み寄ってきた。吊るし上げの軍議で牛太郎に助け舟を出した夏目二郎左衛門である。皮肉とも取れる言葉であったが、顔の皺を緩めてにこにことしており、悪気はないのだろう。
「誰かと思えば夏目か。何事か起きたのか」
「いいえ。別段、これといった報せは受けておりませぬ。ただ、おやかた様が鷹狩りに興じており、これは一体どういうことなのか訊ねて参るよう皆々様から懇願されたゆえ」
「見ての通り、簗田殿と共に食後の運動だわい」
「なるほど」
「やることはやり、迎えるべき敵を迎え、臨むときが来れば臨む。今、むやみにうろたえたところで仕方ないであろう。皆の者にそう伝えたまえ」
やはり、ただの楽天家ではないらしい。
捕獲して一休みしていた鷹を鷹匠が連れ戻してきて、三河守が巻く皮手袋の上に渡す。
「簗田殿は――」
と、夏目二郎左衛門が目尻に深い皺を刻んで訊ねてきた。
「なにゆえ、浜松に参られたのでしょう。このような情勢でわずか五十の手勢でやって来るとは奇特なお方としかいいようがありませんが」
「それはまあ」
牛太郎は空に目を移しながらもっともらしい答えを探した。上総介の命令であり、武田家の敗北という確固たる自信があってこそのことだが、それを言ってもおもしろくない。
「三河勢には今までさんざん世話になってきましたから。その義理を果たしに来たんでしょうかね」
まるで他人事のような物言いだったが、三河守や夏目二郎左衛門には牛太郎のそれが悠然かつ雄大な姿に見えたらしい。
「左様でございますか。簗田殿は金ヶ崎のいくさのとき、犠牲になった兵たちのために涙を流されたと我らが兵に聞きましたが、耳にした通り、戦国の世には珍しい御仁ですな」
「夏目。簗田殿はかくあるからこそ我が友人なのだ」
浜名湖のほとりの森は初冬の風に色褪せている。たなびく雲は遠州灘の遥か果ての空に吸い込まれていくように流れていく。
翌日、只来城・天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城など、徳川支城はわずか一日のうちにことごとく落城する。
天竜川以東に配された数々の支城は、浜松、三河への侵攻を防ぐための防衛線であった。
ところが、武田徳栄軒の前に何の役にも立っていない。赤子をひねるかのごとく、たったの一日で、防衛線は崩された。
この報を聞いたとき、浜松に在する誰もが徳栄軒の流言に違いないと期待した。だが、物見を走らせたところ、事実なのである。
愕然とした。予想以上に強すぎる。
本丸御殿に緊急招集された軍議に牛太郎も参加していたが、お通夜同然の暗澹たる雰囲気に、牛太郎は三河武者たちを哀れに思った。
もしも、武田信玄が死ななければ、こいつらは信長にいいように使われて終わったってことか。
「まさに風林火山だな」
三河守だけがどっしりと構えている。
「考えねばなるまい。どうしたら、日の本最強の武田に勝てるかを。のう、皆の者」
諸将は引き寄せられるようにして主の三河守に視線を上げた。三河守は口許を緩めている。
「そうじゃ」
夏目二郎左衛門が言った。
「考えねばなりますまい。いくさは始まったばかりですぞ」
諸将は静かに頷く。
ふーん。牛太郎は、徳川三河守が徳川家康たるゆえんを、ぼんやりとながら感じた。上総介信長はその激しさで道を切り開き、織田家臣団は上総介の激しさに突き動かされるように付いていっている。
対して、徳川家は別物のように違った。地縁の豪族がそのまま大きくなったような、さも家族や兄弟の縁で結ばれているような一つの集団であり、徳川家というよりかは、主従関係がひとくくりに三河勢である。
徳川三河守家康はこの三河勢の中心に超然とした存在でいる。おそらく、三河守の代わりに三河勢の長となれる者はいない。
彼らは不思議な縁で結束している。
だが、それを強大にしたものが武田勢なのである。武田家臣団も三河勢のように結束しており、その中心は三河守などでは到底及びようもない武田徳栄軒信玄だ。
そんな隙のない敵をどう打ち崩すのか。
「今は持ちこたえるしかありません」
結論はそれしかない。絶望的で情けない限りではあるが、今は上総介の援軍を待つ他ない。
実際、織田の援軍が岐阜を出立したという報が牛太郎や三河勢に入ってきている。
ただし、
「岐阜からの援軍が到着するまでは早くても四日から五日」
「山県勢は長篠から東進しており、武田本隊と合流する構えです。おそらく、武田勢は二俣城の攻城にかかるでしょう」
諸将の言葉に、三河守はその丸い顔に初めて陰を落とした。
「二俣城を落とされては、掛川城、高天神城と、この浜松とが分断されてしまいます。さらに、浜松の防衛線はなくなります」
「天竜川を渡らせてしまったら、我らは終わりです」
酒井左衛門尉が言った。しかし、じゃあ、どうすればいい。場は水を打ったようにしんと静まり返る。
牛太郎は予想以上の絶望的状況に違和感を覚えた。本当に徳川は生き残れるのか、と。
後世からやって来た牛太郎には一つ気掛かりな点があった。その不安は普段は成りをひそめているが、時代の転換点に差し掛かったとき、常に顔を出してくる。
自分がいることによって、歴史が変わってしまっているんじゃないのか。
「二俣城に詰めるしかあるまいな」
と、三河守が沈黙を破って呟いた。
上総介の援軍が来るまで持ちこたえるためには、是が非でも天竜川を渡らせないことであった。
すぐに出陣となった。三河守自らが三千の兵を率いて、本多平八郎、内藤三左衛門、大久保治右衛門が三河守と共に浜松を出る。
牛太郎はというと、別段、九之坪勢を要請されたわけではないのだが、
「わしらも出るしかないだろ」
「簗田殿にあそこまで言われて、黙って指をくわえておられますか」
と、血気盛んな二人が詰め寄ってくる。
「馬鹿言え。今、どんな状況だかわかっているのか。間違いなく死ぬぞ」
牛太郎はすでに甲冑を着込んで準備万端の玄蕃允と勝蔵の前から逃げ去ろうとするが、勝蔵に腕を掴まれてしまう。
「ならば、簗田殿は何のために浜松までやって来たのですか。みすみす徳川殿を死地に見送るためだけに来たのですか」
「わしらは徳川殿の援軍ではないのか! 左衛門太郎殿はこういうときのために九之坪勢をオヤジ殿に付けたのではないか!」
牛太郎は今さら建前を並べ立てる玄蕃允を睨みつけた。
「お前らなあ、おれは援軍として信長様に派遣されたわけじゃねえんだぞ。お前らが勝手に付いてきただけだろうが」
「じゃあ、何をしに来たのです」
「何をしに来たのだ」
仲良く声を揃える玄蕃允と勝蔵に牛太郎は閉口してしまう。
「簗田殿!」
「オヤジ殿!」
何をしに来たのかと問われれば、何をしに来たのかは不明である。上総介に何を命じられたかと言えば、タヌキ入道を殺してこい――。
牛太郎は首を横に振る。
振り返れば、そもそもの始まりは山本山城攻めの失態からであった。尻込みしてしまった牛太郎は戦線離脱を計ったのだが、魂胆を上総介に見抜かれて浜松に送られた。
何をしに来たのか、おそらく、名誉挽回のために来たのだろうが、この状況では非現実的すぎる。
武田徳栄軒の死なのだ。それまでは何がどうであれ動いてはならない。
「二万の軍勢に三千で立ち向かう気でいるんだぞ。二俣城には千人ちょっとっていう話だかんな。むやみに命を落としてどうするんだ。おれはいいけどな、お前らはまだ若い。死ぬのをわかっていて、突っ込ませるわけにはいかないだろうが」
牛太郎はもっともらしく諭したが、二人は聞かない。
「寡兵を持ってして大軍を破るのが武士の誉れではないですか」
「だいたい、一番怯えているのはオヤジ殿だろうが」
「馬鹿なこと言ってんな! いくさはここだけじゃないんだ! これからもずっとずっと
いくさはあるんだ! こんなところで死んでたまるか! ボケ!」
牛太郎は勝蔵の手を振り払うと、さっさと立ち去った。
が、
「我ら九之坪勢は徳川殿に加勢いたすぞ! 尾張武者の底意地、武田入道に思い知らせてやろうではないか!」
玄蕃允の声とともにうおーっという九之坪勢の鬨の声が上がり、牛太郎はあわてて駆け寄ろうとしたが、玄蕃允が馬を奮い立たせて走り出し、同じく馬上の勝蔵も、九之坪勢も玄蕃允に続いて境内の外へと駆け出してしまった。
「何をやってんだ、馬鹿あっ!」
悲痛に叫んだ牛太郎だが、土埃がもうもうと舞っているだけでもはや誰の姿もない。
「どうすんだ、旦那ぁ」
栗之介が栗綱を引いてきた。牛太郎は頭を抱える。
もしも、自分の出現がどうであろうと歴史通りに事が運ぶのであれば、徳川三河守は死なない。本多平八郎も死なない。だが、二俣城がどうなるかは知らない。自分たちがここで死なない保証はない。
しかし、佐久間玄蕃允はともかく、森勝蔵を殺してしまったら、たとえ、ここで自分が生き残っても、岐阜に帰れないのではないか。
いや、若い二人を殺しておいて、自分はのうのうと生きられるだろうか。
馬鹿でどうしようもない二人だが、世話が焼けるほど、太郎みたいなもんだ。
進むも地獄、退くも地獄、ならば進むしかないだろう。
「鉢巻き」
と、牛太郎は栗之介に視線を向けた。
「お前はここに残っていろ。もし、おれに何かあったら、あずにゃんと太郎に伝えておいてくれ――」
牛太郎は拳を握りしめ顔を伏せると、肩を震わせながら言葉を絞りだした。
「伝えておいてくれ。今までありがとうって」
「旦那」
栗之介は主人の普段にはない表情に唇を噛みしめた。
「でも、旦那は一人で乗れねえじゃねえか。無理しちゃいけねえ。ここで待っているべきだ。もし、行くんなら、俺も行くぞ」
「いや、いい。多分、クリツナだったら一人でも大丈夫だ。なあ、クリツナ」
栗綱はちらとだけつぶらな瞳を牛太郎に向けて、あとはのんびりとしている。
「あの馬鹿どもを死なせるわけには行かねえだろ」
牛太郎は鞍に手をかけると、栗之介が渋々出してきた掌に足をかけ、跨った。そして、馬上から栗之介に笑みを見せた。
「甲府での恨み、晴らしてきてやるよ」
意を決した牛太郎に栗之介はこくりと頷き、牛太郎の両足と鐙を紐で縛り付けた。火縄銃と火打ち石を受け取った牛太郎は、火打ち石を懐に、火縄銃を背中の綱に挟み込んで、腰帯びの太刀と脇差をしっかりと押し込めると、手綱を振るった。
徳川勢の白の旗指し物には二通りがある。家紋の三つ葉葵を記したものと、浄土思想から来た言葉を記したもの、
厭離穢土欣求浄土――。
本来は、穢土を厭い離れるという厭離穢土と、浄土を願い求めるという欣求浄土の二つの言葉である。
この世は皆が己の欲求のためだけに働いて汚れきっている。ならば、一心に浄土を願い求めようではないか。
徳川勢三千は見附と呼ばれている地に着陣した。九之坪勢は遅れて合流する。
栗毛の艶やかな馬体が冬刺しの日差しを浴びながら首を大きく反らせて立ち止まったとき、極楽浄土の死地へと向かう兵卒たちは唖然とした。
栗綱号に跨っているのは勿論、簗田左衛門尉牛太郎である。
両脇を固める二人の若武者が見栄を切った。
「助太刀に参ったあ!」
「尾張武者の底意地、とくと見せてやろうぞ!」
だが、この二人、玄蕃允と勝蔵の表情はひきつっていた。瑞々しい唇が震えていた。世に知れた武者ならいざ知らず、昨日まで母御の乳房をくわえていたようなこの若僧どもの勇ましさときたらなんとも滑稽な――。
普段なら兵卒たちは笑っている。
しかし、この時間は非日常であった。どころか、悲愴さが輪をかけて悲愴を生みだしていく絶対的な悲愴の時間であった。
尋常な精神状態ではいられない。
うおおっと、徳川勢に歓声が湧いた。たった五十人の加勢なのに。何かが変わるはずもないのに。
今、彼らを高揚させているのは勝利への期待ではない。そのようなものはかほどもない。今、彼らにあるのは生きる喜びだけである。この一瞬の、死を目前にして、感じずにはいられない喜びである。
勝利も敗北も関係ないような軍人にしてみれば、いくさは祭りだ。
その中にいて、一人、牛太郎は黙り込んでいた。彼は祭りに加わっていなかった。栗綱の馬上から、徳川勢、九之坪勢、それに玄蕃允と勝蔵が沸き立っているさまをじっと見据えていた。
軍を率いる将として、どんな敗北も許されないのである。牛太郎は軍人ではないぶんだけ、冷静でもあった。そして、数々の死地をくぐり抜けてきた男だけあって、どんないくさであろうとも、活路がどこかにはあることを知ってもいる。
彼は脳裏に、かつて、躑躅ヶ崎館で相まみえた武田徳栄軒の悠然たる姿を思い浮かべている。若者二人を生かし、なおかつ二万の軍勢を打ち負かすには、武田徳栄軒それだけを自らの手で討ち取るしかない。牛太郎は死に突き進もうとする連中を遠巻きにしながら、そう己に言い聞かせていた。
「簗田殿!」
兵卒たちをかきわけてきたのは鹿角脇立兜の本多平八郎であった。
「なにゆえ、参られたか!」
鹿の角をかたどった飾立て物は勇壮に天を突いており、その姿を雄大に見せていた。引き締まった頬と燃えるように吊り上げた眉尻は、三河武者の将として申し分ない厳めしさである。
玄蕃允と勝蔵は下馬すると、本多平八郎の足元で片膝をつき、色艶の豊かな頬を火照らせながら、あたかも師に懇願するような筋の通った眼差しで訴えた。
「我らは織田家中の者として、危機に直面している三河殿を見過ごすような心構えで浜松にやって来たのではございませぬ!」
玄蕃允が太い眉をそそり立たせながら言うと、勝蔵が面長の端正な顔を上げた。
「我ら尾張武者と三河武者は南近江のいくさから異体同心でございます」
本多平八郎は勝蔵の真っすぐな視線にたじろぐように唇を中に押し込めた。無理はない。六角攻めのときから織田と徳川は一つであると言っても、そのころから勝蔵のようなあどけなさ残る若武者がいくさに出ていたはずがない。
本多平八郎は若武者たちの真摯な姿勢に、おそらく耐えかねた。
「簗田殿!」
と、彼らを率いる牛太郎に答えを求めた。
だが、牛太郎は栗綱の馬上にじっと跨ったまま、前方だけを見据えている。
「簗田殿! 本気なのか!」
牛太郎はちらりと視線を向けると呟いた。
「陽気の発するところ、金石もまた透おる。精神一到、何事か成らざらん」
本多平八郎は声を失った。そうして、彼の黒々とみなぎった瞳は、瞼の中にゆっくりと浸っていくように落ち着いていき、一方でまた、降り注ぐ陽光を晴々と照らした。
岐阜の屋敷、左衛門太郎の部屋の床の間に掛けられてあった言葉である。
なんなんだよ、お前の部屋は。殺風景だよな。あんな難しい文字を飾ってさ。
日々、自分に言い聞かせているのです。父上のようにつまらぬことばかり考えていてはいくさ人が務まりません。
お前なあ。なんなんだ、その言い草は。じゃあ、なんなんだよ、あれは。どういう意味なんだよ。
精神を集中して事に当たれば、どんなむずかしいことでも成し遂げられなくはないということです。
「本多殿。おれは死にに行くんじゃない。勝ちに行くんだ」
本当ならば行きたくない。しかし、行くことになってしまったら、やるしかない。
今までの牛太郎のいくさとは違った。今まで牛太郎を支えてきた左衛門太郎も、配下の者たちも、ここにはいない。
そして、行く手には九分九厘の死が待ち受けている。間違いなく全滅だろう。
「太郎――」
牛太郎は周囲の目も気にせずに一人呟きながら澄んだ冬空を仰いだ。
信玄を殺したら、ほめてくれよ。
戦略の立てようのない絶望的状況の中で、ようやく見出した抵抗は武田本隊への威嚇攻撃であった。最後の防波堤である二俣城を死守したい徳川方は、織田援軍が来るまでの間まで武田本隊が足踏みしてくれることを期待――、いや、祈る思いで武田本隊への急襲を試みていた。
だが、見附に布陣する徳川本隊に先んじて出撃していた内藤三左衛門の部隊から一報が入る。
「木原にて敵方の強襲を受け、一転、退却しております!」
徳栄軒は三河守の出方を読んでいたのだ。威嚇をするはずが、逆に蹴散らされてしまっている。
見附の徳川勢はあわてた。二万の大軍がここぞとばかりに押し寄せて来ているのは明らかであった。
「オヤジ殿っ、武田はこちらに向かってきているそうだぞ」
玄蕃允の目が泳いでいた。
「だから、どうした」
牛太郎は顔色一つ変えなかった。
「どちらにしろ、いずれはやり合うんだ。やり合うなら、相手が勢いづいていたほうがいい。迎え撃つよりも、攻め込む側のほうが油断する」
牛太郎をそこまで冷静にさせているのはなんだったのだろう。いや、牛太郎自身も謎だった。怖いぐらいに感情が麻痺していた。自分が自分ではないような、何か偉大なものに身を委ねている人形のような心もちだった。
腕も足も指先も目玉も、自分のものじゃないようにじっとしている。聞こえてくる兵卒たちの喧騒はどこか遠い世界から聞こえてくるようでいて、冬の空気の冷たさも感じない。かといって、高揚感で体が火照っているわけでもない。
あまりにも冷静すぎる。何もかもが他人事のようだ。
どうやら、おれはふっきれたらしい。
牛太郎は、簗田牛太郎という自分自身から何かを感じ取れなくなっていた。体温はあるし、血は流れているし、確かに胸打つ鼓動は早い。ただ、それを感じられない。今の自分は自分という別人を冷めた目で眺めている。
まるで、自分が生への執着を放棄したかのようだ。
そこに梓がよぎる。左衛門太郎がよぎる。さゆりもよぎれば四郎次郎もよぎった。越前の土くれと化していった沓掛勢も、延暦寺の炎に消えていった人々も、あの日あのときの場面が、切り取った写真のように何度も何種も牛太郎の目の前に現れては消えて行った。牛太郎はそれをただ眺めている。
やがて、牛太郎は閃くようにしてはっきりとわかった。残念ながら、人は孤独らしい。
ところが、この孤独感は不思議と狂おしくなかった。すうっと受け入れた。昔から、自分が生まれたときからその事実を知っていたかのように、当然のごとく孤独を受け入れた。
牛太郎は視線の先を遥か遠くに見据え、実際には何も映っていない、何も感じていない中で、この世にたった一人で佇みながら微笑んだ。
自分に死はあるか。当然、あるに決まっているだろう。
やがて、風を感じた。痛いほどに澄み切った冬の風だった。風は栗綱のたてがみを揺らし、彼の頬を撫でていく。牛太郎は息を深く吸い込んだ。聞こえてくる。うねりが。
まがまがしい声、悲痛な足音、人々の鼓動。
生のうねりが聞こえてくる。そして、人はうねりの中でしか存在できなく、存在するための使命を果たさなくてはならない。
たとえ、人の営みのすえに死が絶対であっても、生きなくてはならないのだ。いや、生きようとしなければならないのだ。
生きようとしなければ存在の意義は見当たらない。生きようとすればそれだけで存在の意義がある。
「簡単なことだ」
と、牛太郎は再度、笑った。やがて、その笑いは高笑いに変わった。
「オヤジ殿......」
玄蕃允が絶句している。勝蔵が恐ろしいものでも見てしまったかのように唖然としながら呟く。
「気が触れてしまったのか......」
「お前らにもいずれわかる」
若い二人に向けた牛太郎の瞳は凛々と輝いていた。
徳川方は見附に火を放ち、迫りくる武田勢の行く手を遮る方針に変えた。
「ただの悪あがきだ」
後方に退く徳川勢とともに動きつつも、牛太郎は馬上で呟いた。今、彼の頭の中は別人のようにさえざえとしている。いにしえの名軍師のごとく、戦況が手に取るように予見できた。
昨日からの動きを判断すると、武田本隊は常に徳川方の先手を打っており、また、機動力は迅速である。もしくは、武田勢を動かす指揮官の徳栄軒は、ひどくいくさ慣れしていて、あらゆる事象を想定している。
竹中半兵衛や小寺官兵衛の智謀を目の当たりにし、松永弾正忠や摂津の食わせ者たちと相対してきた牛太郎だからこそ、付け焼刃の戦術――、火を放って足止めさせようなどというその場しのぎの幼稚な考えは、徳栄軒にはまったく通用しないと見抜いていた。
徳栄軒は徳川方の動きが幼稚であればあるほど、容赦することもなく数倍にして智略を返してくるはずだ。
だが、状況が生き物のようにうごめく戦場という化け物は、簡単には勝者に勝利を与えない。
牛太郎はその瞬間だけを狙い撃つことだけに一世一代の勝負を懸けながら、九之坪勢を率いて見附から退く。
密かに企む牛太郎とは打って変わって、三河守はほうほうのていであった。武田勢の機動力、徳栄軒の戦術眼、自らの能力との違いに愕然としながらも、三千の兵を連れて必死に見附から逃れた。
三河守は決していくさ下手ではない。まだ、三河守が松平元康を名乗っていたころ、今川家の将として尾張織田に攻め入ったとき、彼は二十歳になるかならないかの齢ながら、三河勢を率いて織田の支城をことごとく落とした。
また、姉川の戦いでも、朝倉勢と正面から相対したときに、兵数は不利ながらも、これを打破し、織田の勝利に一役かった。
もしかしたら、三河守にはわずかながらの自信があったのかもしれない。そもそも、彼が率いる三河武者は屈強なのだ。
そんな三河守を武田徳栄軒はすべてにおいて上回っている。
見附を捨て去った徳川方は、一言坂の下りにて陣を整え直そうとする。なだらかな坂で、二万の大軍が翼を広げて展開するには不可能と見た。
包み込まれることはない。
が、武田勢は見附を早々と迂回し、徳川方に陣形を整える猶予も与えずに、武田菱の旗指物と「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」、いわゆる風林火山の旗指物を坂の上に翻えさせていた。
馬蹄が大地を揺り動かしている。一気に駆け下りてくるのは明らかだった。
三河守はあわてるしかない。どうしていいかわからない。迎え撃つのか、逃げるのか、判断することもできず、馬上にて軍配を手にしたまま瞳を瞼の中できょろきょろと転がすだけだった。
「おやかた様! 退きなされ!」
本多平八郎が槍先を陽光にきらめき照らしながら、三河守を促した。
「拙者が食い止めますゆえ!」
三河守は逃げた。いや、それしかなかった。
武田勢は一言坂を一気に駆け下り、手勢の本多隊に容赦なく突撃した。先鋒は「不死身の馬場美濃」との異名を持つ馬場美濃守信春であった。彼は武田の数々のいくさで先鋒を何度も務めていて、武田軍でも精強の中の精強であった。
三河の猛将、本多平八郎は、槍を振るいつつも退き、退きつつも槍を構えてなんとか食い止め、時を稼ぐが、馬場美濃守の軍勢はしんがり隊の構えを一段、二段と破壊していき、さらに、武田勢は小杉左近隊をぬかりなくしんがり隊の退路に先回りさせ、火縄銃を撃ちかけた。
ばらばらと岩が砕けていくように本多隊の兵卒が倒れていく。
血と断末魔の叫びが跳ね上がる状況で、本多平八郎は獣のように雄叫びを上げた。そして、名槍・蜻蛉切の先端を小杉隊に振り下ろした。
「突っ込むぞおっ!」
このとき、本多隊の兵数は二百にも満たなかった。無謀であった。しかし、無謀すぎるゆえん、本多隊は人間の体を成していなかった。
本多平八郎自らが先頭に躍り出、一直線になって小杉隊に襲いかかる。その目は血走り、その口は声を飛ばし続けた。本多隊の兵卒も怒り狂った餓鬼のごとく、突き進む。
彼らはまさに死の先の極楽浄土に向かっているようであった。もはや、本多隊は生きることを諦めている。だが、戦うことはやめようとしない。
生きることを諦めてはいない小杉隊の兵卒は、狂ったように突っ込んでくる本多隊を前ににわかに怯んだ。百戦錬磨の武田勢であっても、狂人と刃を交わしたことはない。小杉隊の兵たちは後ずさりした。
小杉左近が叫んだ。
「やり合うなっ! 道を開けろっ!」
将校の言葉に小杉隊の兵卒たちは突っ込んでくる本多隊から逃れるようにして、陣構えを割った。
突如として開いた道を本多隊が駆け抜けていく中、本多平八郎は馬を止め、
「武士の情けを心得ている者とみた! お名前を!」
「我が名は小杉左近! 気が変わらぬうちに早く行け!」
本多平八郎は視線だけを下げて謝辞すると、一言坂を抜けた。
そのころ、牛太郎は栗綱とともに、一人、天竜川沿いをさ迷っていた。
徳川本隊と共に浜松城を目指していた牛太郎は天竜川に差し掛かった時、手綱を絞って栗綱を止めた。
「簗田殿!」
勝蔵の声を振り切って、牛太郎は栗綱を天竜川の上流へと駆け上がらせていった。
迂回し、単騎、武田勢の横を突いて、徳栄軒の首を討ち取ろうという安直な考えを起こした。
おれが武田信玄を殺して歴史を作る。
と、息巻いていたのは見事であったが、たった一人で迂回しようというのが無謀であったことに気付くまでに、大した時間は必要なかった。
土地勘がまったくないのである。
「やべ......」
栗綱を止まらせると、牛太郎は呆然とした。どこへ向かえばいいのか見当がつかない。
荒涼とした畑と磐田原台地に点在する森が、視界にうら淋しく広がっている。ぽつりぽつりと集落が見受けられるも陽の光に霞んでしまっていて、人の気配はまったくない。
栗之介を連れて来なかったばかりに......。
「どうしよう。なあ、クリツナ、どうしよう」
栗綱は遠くの空をぼんやりと見つめていたが、主人の訴えを理解したのか、鼻面を上げると風の匂いをすんすんと嗅ぎ始めた。
何かをしている。
やがて、栗綱は自らの意思で歩を進め始めた。もしやと思い、牛太郎は期待した。栗綱は稀に主人の心の機微を感じたような行動を取る。犬のように従順で、猫のように甘えてくることもあれば、猛獣のように敵兵を蹴り殺す名馬である。
おそらく、栗綱はいくさに生きる馬として、己の使命の向くままに歩みを進めているのかもしれない。栗綱は自分の思うところを受けて、武田信玄の居場所へ導いているのかもしれない。牛太郎は来るべき武田徳栄軒との一騎打ちに口許を引き締めた。
やがて、栗綱は畑の畔で立ち止った。そして、草を食み始めた。
「おいっ」
牛太郎は手綱をしごいた。栗綱はびくともせずにむしゃむしゃと草を食べている。
「おいっ!」
牛太郎は鐙に縛り付けた両足で栗綱の脇腹を何度も叩いたが、栗綱は頑として食事を止めようとしない。
「何やってんだよ、もう......」
牛太郎は栗綱の馬上でうなだれた。栗之介を連れて来なかったばかりに......。
本多平八郎が無事、しんがりの役目を果たしたのかどうか、牛太郎は把握していない。ただ、あの様子だと、徳川本隊も九之坪勢も、武田勢を振り切って天竜川を渡れたことだろう。
磐田原台地にそよぐ冬の風が牛太郎をやけに心細くさせる。一言坂からの退却から時間が経つに連れて、胸の内にめらめらと燃やしていた気概の火は小さくなっていった。
おれが武田信玄を殺すだなんて無茶じゃないのか。そもそも、二万の大軍の中を突っ込むだなんて、いくら栗綱と言えど無謀すぎじゃないか。
だいたい、武田信玄は死ぬのか?
いつ、このいくさは終わるんだ。
普段とは違う自分を作り上げていたぶんだけ、絶頂を過ぎたあとに襲いかかって来た不安は並々ならない。
激しい不安はあらゆる疑問を生じさせた。なぜ、自分は武田信玄を討ち取ろうとしたのか、なぜ、自分が歴史を作ろうとしていたのか、それは果たして簗田牛太郎がやるべきことなのか。
だいいち、
「どうして、おれはここにいるんだ」
太陽が西の空へと傾きかけている。陽光が見えない粒となって霧散している。
鳥が黒い影となって横切っていった。
牛太郎ははっとした。
たとえ、ここで武田徳栄軒を討ち取ったとしても、終わりはない。このいくさが牛太郎の知っている歴史通りになったとしても、摂津に戻らなければならない。
摂津の騒乱が治まったら、次は何が待ち受けているのか。
「本能寺だ」
やがては明智十兵衛と木下藤吉郎が戦い、藤吉郎と柴田権六郎が戦う。
織田家中の内部分裂。
そのとき、自分はどのような行動をとればいいのか判断がつかない。藤吉郎に付いていけばよいと考えていた過去とは話が違ってきている。
妻は柴田権六郎の末妹。
終わりが見えない。天下がいつまでも平定されないように、牛太郎の人生もいつまでも安定を迎えられそうもない。
牛太郎は見知らぬ地に一人佇みながら、いつしか、上総介が言った「戦い続けなければならない」という意味の重さを初めて知った。
食欲を満たして、ぼんやりと遠くの空を見つめている栗綱の首筋を、牛太郎は暗澹たる思いで眺めた。投げ出したくなってきた。好きで簗田牛太郎をやっているわけじゃないんだ。
精神一到、何事か成らざらん。
牛太郎は唇をぎゅうっと噛みしめる。ここから再び足を踏み出すには苦渋すぎる。だが、堺から相国寺に逃げ出したようなことを再び犯すわけにもいかなかった。
梓に会いたい。今度、帰ったら、駒を抱き上げたい。牛太郎はうつむきながら、手綱を持つ手を震わせた。
そのとき、栗綱が尻尾を何回も上下に振った。
「お前......」
栗綱は前方を見据えたまま、傾きかけた日差しを浴びて金色に輝く尻尾を無邪気に振りしきる。
「お前、わかるのか」
牛太郎の問いかけに栗綱は尻尾を止めた。
もしかしたら、栗綱は死地に突っ込もうとしていた自分を思い留めさせるために動かなかったのかもしれない。
牛太郎はたてがみ越しに栗綱の首筋を撫でた。
「そうだな。死ぬわけにはいかないもんな」
牛太郎は浜松城に引き返そうと天竜川まで戻ってきたが、ここでも土地勘のなさが災いした。浜松城から一言坂に向かうさいに渡った場所は比較的浅瀬になっていたが、この地をまったく知らない牛太郎は渡河地点を知らない。
風雨の強い季節になれば、地元の人間には暴れ川と恐れられる河川であった。見た目では水量は大したことないが、どれだけの深さなのかは見当がつかない。馬で渡るのは危険すぎた。
下流にくだり、元来た道で浜松に戻ろうとも考えたが、武田勢の追撃が行われている恐れがある。
はやまったことをしたなあ、と、牛太郎は西日をきらめかせる川面を眺めながら、ほんのりと後悔した。
日没は間近である。夜になれば、いっそう迷ってしまう。牛太郎は渡河をあきらめ、上流へと向かった。
二俣城が天竜川を遡った丘陵にあることは、聞き知っていた。
信濃から遠江へと抜ける山間部の出入り口に位置する二俣城は、二俣川が天竜川と合流する場所にあり、せり出した台地に柵と石垣、曲輪を設け、北遠江の番人のように聳え立っている。
夜の闇が山々にひっそりと下りたころ、かがり火が焚かれた大手口にて、牛太郎は番をしていた兵卒たちに、
「織田家の簗田左衛門尉だ」
と、伝えた。
あやしい。なぜ、簗田左衛門尉がたった一人でやって来ているのか。しかし、噂に聞く奇怪な綱巻き姿であることは間違いなかった。
牛太郎は鐙と足を巻き付けている縄を切りほどいてくれるよう兵卒に頼むと、馬上から下り、本丸へと兵卒に案内された。
二俣城の城主代理は中根平左衛門正照という牛太郎よりは若干年上の男で、小柄で痩せ身ながらも、太い顎と盛り上がった頬骨が武骨らしさを表していた。
中根平左衛門は南近江六角攻めに参戦していたそうで、牛太郎と栗綱を見かけたらしく、特に栗綱の見事な馬体が印象的だったそうで、言葉を交わしたことはなかったけれども、牛太郎をよく覚えていた。
「お一人で二俣に来られるとはどうしたことか」
中根平左衛門は甲冑の上に陣羽織を着込んでおり、当然、一言坂での競り合いは把握しているようであった。
牛太郎は隊列からはぐれてしまったとは答えず、
「おそらく、武田勢が次に狙うはこの二俣城と思って、馳せ参じた」
などと、胸を突き出し、大層な面構えで言った。
平左衛門は眉をしかめる。返答になっていないし、簗田牛太郎たった一人が加わったとしても、何かが変わるだろうか。
もちろん、牛太郎は歓迎されないことぐらい予測していたし、いくさ場における火は、いまだわずかながらも灯っていた。
「二俣城防衛の秘策があります」
大手口を通って本丸に入ってきたときに、牛太郎は閃いていた。
まともに戦っては勝ち目がないし、まともに戦うこともさせてもくれない徳栄軒のいくささばきである。
機が訪れるまで、今は持ちこたえるしかない。
天竜川の渡河を睨むように聳え立つ二俣城は、徳川方の最後の要であるが、千人程度の兵卒しか詰めていない有様であった。
だが、防衛には十分な造りである。
大手口を柵で遮るよう、牛太郎は中根平左衛門に進言した。
金ヶ崎の退き口で織田勢がとった戦法を牛太郎は思い出したのだった。
二俣城にはこの大手口以外に侵入経路はなく、二万の大軍といえども、一斉に駆け上がってくるのは難儀と見た。
金ヶ崎と違うのは、二俣城が火縄銃をたいして備えていなかったことだった。このため、牛太郎は柵を三重に築かせ、足軽・弓兵を段構えに配置させるようにした。
更に、牛太郎は浅い知恵を絞りだした結果、天竜川の河原から岩や石を集めさせ、それらを飛び道具にさせようとした。
平左衛門は牛太郎の子供のような発想に訝ったが、
「石ころが降って来たらびっくりするでしょ」
と、牛太郎が自信満々に言うので、渋々、了承した。
かがり火を焚くのもやめさせた。
「何を考えているのか不気味に思うはず。奇襲をしてくるんじゃないかって余計な心配をするでしょ」
中根平左衛門は牛太郎の奇抜な発想に首を傾げっぱなしだったが、牛太郎は言った。
「守る側のことを考えるんじゃなく、攻める側のことを考えてみればいい」
牛太郎は今まで数々の攻城戦に参加してきた。そして、織田がもっとも苦しんだのは稲葉山城攻めであった。
二俣城は稲葉山城ほどの防御力を持っていないだろうが、しかし、一致結束している三河勢なら、兵糧が尽きるまでは持ちこたえられると牛太郎は踏んでいた。
事実、防衛拠点の二俣城には千人の兵卒を向こう半年は養える備えがあった。
半年、持ちこたえられたら、信玄は死ぬ。いや、死ななかったとしても、織田の援軍が来る。いや、援軍さえなかったとしても、半農半兵の武田勢は甲斐に戻るしかない。
月がこうこうと照っている。なんか、妙だな。牛太郎は自分のさえざえとしている脳裏と、やけに逞しい自信を不思議に思った。
いくさが手に取るようにわかる。攻め手、守り手、両方に欠けているもの。それらを一つ一つすくい上げて、吟味し、解決していけば、戦略戦術がおのずと見出されていく。
しかし、何か、新しい能力を得たという実感もない。むしろ、簡単なことだと思えてくる。
今ある戦局を、徳川方からでもなく武田勢からでもなく、もっと広い観点から――、地上を眺める鳥のような目で大局を見渡せば、どう動くか、どう動くべきなのかは、はっきりと判別できる。
なるほど。牛太郎は思った。戦略とは王道なのだと。それは誰もが考えられることなのだが、迷うことなく遂行してこそ初めて戦略の体を成す。だからこそ、戦略とは立てるのが難しい。すべてが人間の行うことであって、それを遂行するにはどんな戦略でさえ勇気がいる。
ただ、偉大なる人物は戦略を遂行することに迷わない。上総介しかり、徳栄軒しかり、最初に決定したことをどんな状況にあっても成し遂げるという決意を持ったものでしか、戦略は扱えない。
ただ、戦略とは誰もが考えられることなのだ。敵方のそれを冷静に分析し、こちらがその戦略に対して迷うことなく戦略を立てられるかどうかが、大局の決め手となるんじゃないか。
「笑っちゃうな」
牛太郎は一人、自嘲するかのように呟いた。
織田は常に戦略を立て続けてきた。諸勢力とどう当たるか、軍をどう動かすか。破竹の勢いで領土を拡大した織田家だが、上総介は神経質である。むやみやたらに攻め込んだ結果の大勢力ではない。
そして、その勢力拡大の方策を牛太郎自身も何度か進言していたのである。
それだけじゃない。混乱している摂津を平定に導き出そうと、自分たちは一つの戦略に従って動いているじゃないか。
ただ、である。
戦略を遂行していく途上、状況の推移によってさまざまな障壁、難問と当たる。それを円滑に成し遂げるため、あるいは打破するのために行うのが戦闘戦術であるが、牛太郎はこれまでの武田の動きを振り返るにあたり、武田勢には竹中半兵衛や小寺官兵衛のような奇策をもちいる気配がないと感じていた。
あいつらみたいな危ない人間だったら、とっくに変な真似をしている。武田は王道に従っている、と、牛太郎は確固たる自信を持った。
しかし、武田勢の戦略を理解したところで何も始まらない。理解したうえで、こちらはどうするかが難問なのだった。
盤石であるからこそ王道なのである。この固い岩を打ち砕く術はあるのか。
牛太郎は知れば知るほど武田徳栄軒という男の恐ろしさが感じられた。
そもそも、このいくさは始まった時点で武田の勝利は約束されているようなものだ。
振り返ってみればわかる。浅井の裏切りは昨日今日起こったことではない。二年前のことだ。更に、その後、三好三人衆、本願寺が摂津で蜂起し、伊勢長島では一向一揆衆が立ち上がった。
その間、武田は何をしていたか。果たして、北条や上杉とのいくさにかまけていただけであったのだろうか。攻めようと思えば、いつでも織田に宣戦を布告できる機会はあった。
つまり、徳栄軒は武田の勝利が絶対になるまで完璧な戦略を練っていた。
実際、徳川方にも織田にも、なすすべがない。
「いや、違う」
ある。なすすべはある。
今、戦っている相手は化け物ではない。人間だ。
「攻め手になって考えてみろ」
いくさが絶対ではないのは、人間が絶対ではないからだ。人間の行うことは絶対ではないことは誰もが知っているゆえ、果たして、どのような偉大な人物でも、
己の行いに絶対の自信を持てるであろうか――。
実は、その人物が冷静な人間で、智略に長けた人間であればあるほど、不安を抱くのではないだろうか。
仮に、牛太郎はもし徳栄軒が抱くとしたら不安はどこにあるだろうか考えた。
すぐに見出せる。
織田上総介信長が小谷攻めを終わらせ(もしくは中止して)、この遠江に軍勢を結集させることを武田徳栄軒は恐れている。
恐れているからこそ、徳栄軒は上総介がそれをできないような状況の中で出陣してきたのだ。
兵卒と兵卒の物質的な攻防には勝ち目がない。だが、心理には突け入る隙がある。
牛太郎はその日、寝ずに考えた。長期戦に持ち込むための揺さぶりを。
翌日、武田本隊が全兵力を持ってして、二俣城を包囲した。
切りだした台地を取り囲む数々の旗指し物を二俣城本丸から眺めながら、牛太郎は傍らの中根平左衛門に告げた。
「信玄もわかっているんです。この城を簡単に落とせないことを」
そう。武田勢に攻城の気配はない。
「いや、落とそうと思えば二万の大軍を注ぎ込んで落とせますよ。ただ、信玄はここでなるたけ兵を失いたくないんです。あいつらはこれから、三河、尾張と攻め上がる気でいるんですから」
「確かにそうだが――」
平左衛門は大地を覆い尽くす武田勢にやや尻込みしているようであった。
「中根殿」
と、牛太郎はこの小背の城代に視線を据え下ろす。
「この城はこのときのためにあるんじゃないんスか」
平左衛門は色黒の肌の中のやけた瞳で牛太郎をじっと見つめる。この綱巻きの奇怪な男は瞼に妙な涼しさをたたえていた。
「中根殿」
と、二人のもとに青木新五郎と松平善兵衛が甲冑を鳴らしながら歩み寄って来た。
青木新五郎は平左衛門とともに三河守から二俣城の守将として選ばれた男で、平左衛門の副将として従事している。牛太郎よりはやや若い。彼もまた三河武者独特の武骨な様相を骨太の輪郭に表している。
「武田が放ってきた矢にこんなものが付いてきましたぞ」
青木新五郎は一枚の紙を平左衛門に渡してきた。牛太郎も覗いてみる。降伏勧告であった。
「どんな罵声で返してやりましょうか」
そう言いながら、足軽大将の松平善兵衛が口端を歪めて笑う。彼は若い。瞳の潤いは二俣城に詰めている将の中にあってひときわ若い。おそらく、左衛門太郎よりも年下、玄蕃允や勝蔵と同じ齢だろう。
ただ、牛太郎の連れてきた小僧たちと違うのは、武田二万の軍に囲まれている状況で松平善兵衛の足はしっかりと地に着いている。
牛太郎はこの大人びた若者に興味を抱いて訊ねた。
「善兵衛殿はどんな文句がいいと思うんだ」
「笑止」
平左衛門と青木新五郎は吐息をついたが、牛太郎は笑った。実に清々しい。
「若さっていいもんですね、中根殿」
牛太郎は愉快さのあまり平左衛門の肩を抱いて、ぽんぽんと胸を叩いた。平左衛門の小さな体が、余計小さく感じてくるのは、平左衛門が臆している証拠である。
「簗田殿」
と、青木新五郎が眉を苦々しくひそめながら言う。
「大手口でいくら奮闘しようと、二万の大軍に攻め込まれてはひとたまりもありませんぞ。なら、ここで城を渡す代わりに城内の兵の命を保証させ、浜松のおやかた様と合流して後々の決戦に備えたほうが得策ではないのですか」
「まあ、それもそうッスけどね」
牛太郎は肥えた顔を平左衛門に寄せた。
「中根殿はどう思うんですか。決めるのは中根殿でしょ」
平左衛門は書状を両手で広げたまま、じっとうつむいている。
「わからん」
とだけ、言った。
浜松との連絡路を封鎖されている。三河守が右を向けと言えば右を向くが、今、二俣城の決定権は平左衛門に委ねられていた。
青木新五郎の言った通り、二俣城の兵をむやみに失うよりも、浜松に引き返し、態勢を整え直すほうが得策だ。
だが、二俣城を失うということは、掛川城と高天神城との街路を遮断されることになり、なおかつ、武田勢に遠江、三河への進軍の補給拠点を与えてしまうことになる。
それに天竜川以西に敵兵の侵入を阻止するのは、今川家の領土を徳川と武田で奪い取ったころからの最大の戦略的要綱である。
牛太郎の言葉、二俣城はこのときのためにあるというのが、正論なのだ。
「おめおめと城を捨てるなど、拙者にはできませぬ。拙者は一人になっても戦いますぞ」
松平善兵衛が二人の中堅幹部に詰め寄った。
「お主は功を急いているだけだ」
と、青木新五郎が語気を切迫させながらも善兵衛の両肩を掴んだ。
「おやかた様に逆らって追放された一族の名誉を挽回したいという気持ちはわかる。だが、いくさはここだけではない。浜松も三河も残っているのだ」
「違う!」
善兵衛は新五郎の両手を振り払った。
「敵前逃亡などという恥をかきたくないだけのことです! 今、ここで二俣城を捨てたら、浜松の者どもに後ろ指を差されるのは明白じゃありませんか!」
「三河武者はそのような下衆いた連中ではない!」
「よせ!」
平左衛門が一喝し、まるで親子のように揉めていた二人は口を噤んだ。
平左衛門は吐息を一つ長々とつく。そうして、迷いと不安に螺旋した目を牛太郎に向けた。
「簗田殿はどうあるべきだとお思いか」
平左衛門が愚将の噂高い牛太郎などに答えを求めてきたのは謎である。おそらく、決められなかった。ゆえん、徳川家の盟友の(ほぼ主家同然の)織田からやって来た客将にすがったのだろう。
牛太郎は広く渡った冬空の下に翻る、無数の武田の旗を眺めながら言った。
「二万の軍勢を持ってしても、どうして降伏勧告なんかを寄越してくるかを考えてみれば、信玄の思っているところを知るのは簡単じゃないですか」
牛太郎の冷たく澄んだ眼差しにつられ、三河勢の三人は揃って城下の武田勢に視線をやった。
「あっしは信長様と一緒に何度か城攻めをしたことがあるからわかりますけれど、こういうふうに上洛を狙うときや、敵が他にもいるときってのは、兵隊をあんまり失いたくない。一大決戦に向けて温存させておきたいもんです」
だから、力攻めをしてこないのだと牛太郎は言った。
「徳川を勝利に導くためには、織田の援軍が必要です。そのときまで、時間を稼ぐしかない。逆に、信玄は時間をかけたくない」
「だったら、これをはねつけた場合、武田は攻めかかってくるのではないか」
「そうッスね」
「そうですねって......」
牛太郎の軽薄ぶりに青木新五郎は唖然とした。しかし、牛太郎はにやりと笑みに陰をひそめた。
「あのタヌキ入道がなるたけ回避したいと思うってことは、逆を返せば二俣城がタヌキ入道も恐れるほど堅固だということでしょ。天下に名を馳せるあのタヌキオヤジがそう考えているんだ。もっと、自分たちに自信を持っていい。違いますか?」
青木新五郎も平左衛門も、吸い込まれるように牛太郎を見つめた。
「そうです。簗田殿の言う通りです」
若い善兵衛がにわかに血気帯びたが、「まあまあ」と、牛太郎は善兵衛を制す。
「善兵衛殿、降伏勧告を突き返し、相手を挑発するのもありだけど、逆にこちらを小さく見せて、相手を油断させるのもいいんじゃないのかな」
どういうことだ、と、平左衛門が問いかけてきたので、牛太郎は筆と紙を持ってきてくれるよう頼んだ。
従者に渡された筆で、牛太郎はすらすらと書いていく。
降伏勧告に従いたいのはやまやまだが、一度、浜松のおやかた様と相談したい。
実に情けない、実に優柔不断な守将であるのを見せかけた旨の返答をしたためると、善兵衛に渡した。
「もちろん、タヌキオヤジは家康殿と相談なんかさせないでしょう。どうせ、甘い言葉をかけてくるに違いない。でも、のらりくらりとやっているうちに、二俣城は大したことないと考えて力攻めを敢行してくるかもしれません。そのとき、兵も将も油断しているでしょうね」
「しかし――」
平左衛門があとの言葉を言い淀んだが、それを代弁するかのように新五郎が続けた。
「そのようにうまくいくか」
「うまくいくと信じなければ勝利はない。竹中半兵衛が金ヶ崎で言っていた言葉です」
「竹中半兵衛......」
「ちなみにあっしは昔、竹中半兵衛の家に一年間居候したことがありますけどね」
世に聞こえる参謀、竹中半兵衛の名が出た途端、平左衛門も新五郎も、牛太郎に向ける目の色を変えた。
心理戦が始まった。
高台を取り囲む武田勢目掛けて、書状を結んだ矢を放つ。しばらくの間を経て、武田勢から同じように放たれた一矢が二俣城の地面に突き刺さる。
――開城を受け入れれば二俣城の将兵、すべての命を保証する。
牛太郎は平左衛門の手から書状を奪い取ると、ぐしゃぐしゃに丸めて放り捨てた。
筆を取り、返答をしたためていく。
ならば、一度、包囲を解き、軍勢を十里後方に下げろ。その後、浜松のおやかた様と相談する。
牛太郎は松平善兵衛に書状を渡した。
「果たして乗ってくるだろうか」
平左衛門の問いに牛太郎は首を振った。
「乗ってきませんよ。軍勢を十里も下げるだなんて絶対にしない」
返答の矢を放ったあと、牛太郎は平左衛門に二俣城各所に配されている部隊長たちを集めさせた。
「実は武田信玄は病を患わせている」
牛太郎が言うと、部隊長たちはおろか、平左衛門や新五郎までもどよめいた。
「このいくさが始まる前から、武田に間者をひそませているんだけれど、そいつの話によると、余命いくばくもないってことだ」
「簗田殿! まことなのか!」
牛太郎は新五郎を睨みつけるようにして視線を置いたあと、さらに続けた。
「おれがのこのこと一人で二俣城にやって来た理由ってのはそれだ。織田の他の連中に手柄を取られないために、一人でやって来た。信玄が死ねば、武田の猛将たちの首が討ち取れるからな」
「だったら、勝ち目はあるんじゃ......」
と、一人の足軽組頭が呟くと、連中はにわかに勢いづき始めた。
「凌げば凌ぐほど、勝利は近づくんだ! お前ら、ここは是が非でも凌ぐぞ!」
牛太郎の檄に連中は声をあげた。彼らは足取り勇ましく配所へと戻っていく。
「徳栄軒が患っておるなど、まことなのか、簗田殿」
平左衛門の熱を帯びた眼差しに、牛太郎は一瞬迷ったが、こくりとうなずいた。兵卒たちの士気を高めるだけに留まる考えであったが、それで気後れしていた平左衛門の迷いがなくなるのだったら越したことはない。
そのうち、信玄は死ぬんだし。
厚い雲が太陽を遮り始めた。冷たさをました風が、二俣城の木々に吹きつける。牛太郎は杭に留め置かれている栗綱に歩み寄る。栗綱は強くなってきた風を相手に無邪気に首を振って遊んでいたが、主人の姿に気付くと、首を振るのをやめ、歩み寄って来る牛太郎をつぶらなまなこでじっと見つめた。
「おれの家の馬鹿どもが一人もいないってのが残念だな」
牛太郎は栗綱の鼻面を撫でる。栗綱は瞼をうとうとさせた。
「せっかく、おれがあの武田信玄と勝負しているっていうのによ」
......。
このおれが武田信玄とやり合っている。
徳栄軒が牛太郎の思惑通りに動くかどうかはわからない。ただ、牛太郎の着眼点は良かった。
風林火山の文言を旗に記している徳栄軒は、「孫子」を好んでいると思われる。その「孫子」にはこうある。
最もすぐれた統帥は敵の計画をくじくことであり、
次にすぐれた統帥は敵の結集を防ぐことであり、
その次が敵を野戦で攻撃することである。
最も愚かな統帥は城攻めである。
牛太郎は「孫子」はおろか、軍略書など読んだためしがない。攻城戦に成果をあげてきた織田の将にあって、城攻めが愚かだという認識もない。
だが、牛太郎は今までの経験で、戦局を考察できるようになっていた。
それに、牛太郎が他の織田の将とは違って、もっとも運が良かったこと、それは、破竹の勢いで勢力を広げた織田の数々の戦闘で何度となく勝者となったというのに、常に手柄を上げられなかった。
どころか、失態ばかりを犯していた。
しかし、失態を犯したからこそ、悔しさのあまり、経験したいくさの微細を忘れていない。
勝者は浮かれがちだ。浮かれるあまり、勝利の味だけを覚えていて、その勝利がどのような経緯で運ばれ、どのような手段でもぎとれたか、もっとも重要な部分が勝利の栄光にかすんでしまう。
平凡な成り上がり者が転落しやすいのに似ている。
その点、牛太郎は運が良かった。勝者の中にあって、いつでも敗者であった。
戦略の中心にいたというのに、敗者であったのだ。
武田勢から返答の矢文が届いた。
――今すぐに開城せよ。今すぐに開城した場合のみ、命は保証する。
「無視しましょう」
平左衛門にそう言うと、牛太郎は二俣城の各所を回った。守備兵の大半は大手口に詰めさせており、曲輪などには数十人の兵卒しかいない。それでも、先程の牛太郎の虚言が浸透したのか、兵卒たちの目にはたぎるものがあった。
牛太郎はその中で一人の中年の足軽兵を手招きした。駆け寄ってきた彼を人目のつかないところまで引き連れてき、耳元で囁く。
「日が暮れたら城を脱け出し、武田に投降しろ」
「えっ?」
「そうして、あいつらに言うんだ。二俣城内は開城派と籠城派に分かれて喧嘩しているって。兵隊たちもやる気がないし、兵糧も大してない。城内に残っても死ぬだけだから逃げ出してきたって言うんだ」
「で、でも、俺は最後まで戦いたいです」
「その気持ちはわかるけれど、戦いたいだけじゃ勝てないんだ。相手を油断させろ。お前にはその使命がある。油断させれば、負けるいくさも勝てるかもしれないんだ」
足軽兵は顔をうつむかせた。
「大丈夫。きっと、勝つ。あと、どさくさに紛れて武田から逃げることができたら、浜松の家康殿に伝えるんだ。二俣城で時間を稼いでいる間に、軍備を整えておけって」
牛太郎は足軽兵の腰をはたいた。
「頼むぞ。勝つも負けるもお前にかかっているんだ」
牛太郎はさらに十人ほどに声をかけ、それぞれの兵卒たちに偽りの投降をするよう促した。
本丸に戻り、平左衛門が構える陣内に入ると、床几に腰を下ろし、決して暑くないのに扇子で顔を仰いだ。
「明日か明後日には仕掛けてくるでしょう。平左衛門殿、岐阜への土産話として三河武者の武勇を見せてくださいよ」
中根平左衛門は唇を引き結びながら、こくりとうなずいた。
武田徳栄軒は牛太郎のこざかしい策をどう受けていたのだろうか。
降伏勧告に対しての優柔不断な返答、次々と投降してくる兵卒たち、かがり火のない暗闇の二俣城。
だが、二俣城の策がどうであれ、武田勢が悠長に構えていられないことははっきりとしている。
昼前、二俣城への攻城が始まった。
牛太郎は大手口の坂を抜けたところ、北曲輪の縁に立って、戦況を望む。
半鐘と太鼓の音が打ち響き、赤と紫の旗指し者が混ざり合いながら一気に大手口に詰めてくる。
しかし、幅の狭い坂を登ってくるのは二万の軍勢の中の一部である。
牛太郎は柴田権六郎ゆずりの太刀を抜き、その切っ先を大手口に詰めかける武田勢目掛けて振り下ろした。
「撃てええっつ!」
わずか二十丁弱の火縄銃が銃声を鳴らした。銃撃せしめたのはわずか一人か二人。竜のように駆けのぼる武田勢の勢いをそぐことはできない。
しかし、坂の中腹に築いた柵が武田勢の進路を阻んだ。それをよじ登ったり、あるいは力任せに押し倒そうと試みたりしているが、柵のきわに構えていた足軽兵たちの槍先によって、武田勢の兵卒は朽ちていく。
さらに無数の石が左右から武田勢の頭上に雨あられのごとく降ってきた。
突如の異変に武田勢の足が鈍った。
大手口前線で指揮を取る松平善兵衛の声で柵門が開かれ、足軽兵たちは錯乱している武田勢先鋒に突撃を開始した。
駆け上ってきた竜を押し返す滝水のように、三河勢は武田の兵卒たちを討ち取っていく。
「撃てえっつ!」
銃弾が放たれた。無数の石が放られた。すると、坂の脇から大木がめきめきと音を立てながら傾いていき、それに押し潰された者、それに進路を阻まれた者で、大手口の武田勢に怒号の渦が巻いた。
「引けえっ! 引けえっ!」
善兵衛は頃合いを計って足軽兵たちを柵の中に戻し、武者押しの声に押された武田勢が再び駆け上がってくる。
だが、柵のきわの槍の餌食にかかる。二段目の柵の向こうから放たれた弓矢が空を埋め尽くして降りかかる。
牛太郎の場からも、狼狽する武田勢の様子が見て取れた。
「武田の者ども、よく聞けいっ!」
三段目の柵の向こう、馬上の青木新五郎が高らかに声を上げた。
「お主ら甲斐の田舎者など、この二俣城には一兵たりとも入れさせんわ!」
新五郎の声とともに、左右から点火された藁が大手口の坂に放り込まれる。その火は大手口を一気に包み込み、紅蓮の炎の中に息絶えていく者もあれば、進軍とは逆行して逃げ出す者も現れた。
炎の中を駆け抜ける勇敢な兵卒もいた。しかし、三河勢は弓矢と石と銃弾を容赦なく浴びせかけ、柵門が開かれる。炎の中に戸惑う武田勢へと三河勢は一糸乱れぬ隊列で槍を突き刺していき、武田勢を後退させた。
「矢文を放てっ!」
牛太郎と同じく、北曲輪で戦況を眺めていた平左衛門が声を発すると、弓兵が冬晴れの空高く引き絞った弓は、放った矢に大きな弧を描かせて武田勢の本陣近くへと落ちていった。
文にはこう書いてある。
厭離穢土欣求浄土。
武田勢の最初の攻撃はそこで終わった。武田の旗指し物が引いていくのを見届けると、牛太郎は平左衛門とともに大手口まで下り、善戦した兵卒たちのねぎらいもそこそこに柵の破壊に取り掛からせた。
夕刻、武田勢は第二波の攻城戦を仕掛けてきた。牛太郎はやはり平左衛門とともに北曲輪の縁で、火の手が消えた坂を駆け上がってくる武田勢を見下ろしていた。
予想通り、武田勢は先鋒部隊に弓と火縄銃を備えてきている。
しかし、柵は消えている。
武田勢は戸惑った。が、勢いそのままに駆け上がった。石と矢と銃弾が雨あられに降り落ちるが、武田勢の波は留まらない。
が、大手口の坂を登り切ったところ、正面曲輪に三河勢の足軽兵すべてを結集させていた。息たえだえに上がりきった武田勢が光景を新たにしたのも束の間、
「殲滅しろおっ!」
松平善兵衛の掛け声とともに三河勢の槍が一斉に襲いかかり、弓を引き絞る間も、火縄に点火するひとときも許されないまま、武田の兵卒たちは土と化していく。
「押しきれえっつ!」
青木新五郎が手綱を振るって、馬を駆けさせた。足軽兵たちが武田の亡きがらを踏みつけながら、一段、また一段と大手口の坂まで押し返していく。
坂は武田勢で溢れていた。頂上で押し返されたせいで、一人、また一人と転げ落ちていき、それは雪崩が形成されていくように波及され、青木新五郎がそこに追い打ちをかける。
「押せえっ! 押せえっ!」
三河勢の目は血走っていた。鐘と太鼓の音が鼓動をたかぶらせ、高揚は頂点に達した。うおおっという雄叫びを誰もが自らで発していき、脳内の扉が殺戮の快楽を開放させた。自らの体中の全神経を一点に絞って、敵の喉元に槍を突き刺す。肩をぶつけ、敵を転げ倒し、太刀を頭部に振るう。
「引けえ! 引けえ!」
武田の将校が叫んだ。武田勢は我先にと坂を下りようとするが、大数が詰め寄っていたせいで、混乱した。
三河勢は背を向けた敵方をさらに追い込む。坂を駆け下りる三河勢は勢いを増した。
勝てる。
北曲輪から戦況を望んでいた牛太郎は、拳を握った。もちろん、武田勢二万を殲滅できるという思いではない。二俣城の最大の勝利は武田勢に攻城をあきらめさせることである。
牛太郎の瞳孔は開きっぱなしだった。たいして動いてもいないのに、大量の汗が頬をつたっていた。胸は打ちふるえていた。
篭絡策が成果に結びついたかどうかはわからない。だが、一つ一つの考案が紡ぎ合って、この大手口の坂へと結ばれたことは確かであり、もしも、考案の一つが欠けていたら、目の前の攻防はなかったかもしれない。
竹中半兵衛はいくさになると狂い出すが、その気持ちが牛太郎にもわからなくなかった。自分の思い通りに生死の行く末が運ばれる。こんな快感が、かつてあっただろうか。
その夜、かがり火が二俣城を闇の中にこうこうと浮かび上がらせた。
二俣城攻防戦は続いた。
この攻防は常に大手口の坂で行われ、大木が進路を阻んでいたり、雨音にまぎれて柵をいつのまにか立てたり、武田の死体で塁を築いたりと、ありとあらゆる策をもちいては、武田勢を悩ませた。
二俣城内の兵卒に死傷者はほとんどない。逆に武田は見繕っただけでも二百は死んでいる。
ときに、大手口からの侵入をあきらめて、崖をよじ登ってくる部隊もあったが、そのほとんどは二俣城内に達する前に落下してしまい、城内に手をかけても、櫓から放たれた矢によって、侵入を拒まれた。
やがて、武田勢の攻城も、一日に一度であったのが、二日に一度、三日に一度と、回数を減らしていった。
むやみに攻めこめば余計な死傷者を出し、兵卒の士気も下がる。しかし、二俣城を落とさないわけにはいかない。だが、攻め側というのは野戦と大きく違って、戦術の手段が数限られていた。
あの武田徳栄軒に何もさせていない。
この事実が二俣城の将兵たちを勇気づけた。
牛太郎は栗綱の頬を両手で撫でまわしながら笑っていた。
「見たか。なあ、クリツナ。見たか。このおれのすさまじさを」
本当なら、簗田家の面々に見せてやりたい。しかし、いない。三河勢の前で高笑いするわけにもいかない。なので、牛太郎の自慢相手は栗綱だけだった。
「お前が喋れたらよお!」
嬉しさのあまり栗綱の顔を抱き寄せた。栗綱は牛太郎に頬ずりしてくる。
「そうか、そうか、お前も嬉しいか。だよな、そうだよな、おれが武田信玄に勝っているんだぜ。そりゃ、嬉しいわな」
「簗田殿」
松平善兵衛の声がして、牛太郎はあわてて振り返った。
「こ、これは善兵衛殿。ど、どうしましたかな?」
この半月の攻防戦の間、善兵衛は痩せた。頬骨が浮かび上がり、瞼の下にはくぼみがくっきりと縁どられている。
若々しさはなくなった。ただ、瞳のぎらつきは日々増していった。善兵衛のいくさぶりは、三河武者がどのようにして形成されていくかを表しているかのようだった。
「武田勢に赤備えが加わっているようですぞ」
山県勢であった。ようやく現れた宿敵に、牛太郎は表情を変えた。善兵衛とともに北曲輪までおもむき、いぜん、包囲体勢を敷く武田勢の中に山県三郎兵衛尉を探す。
ここからだと兵卒の顔形までは判別できない。ただ、赤と紫の旗指し物がひしめく中に、その存在をことさら強調している朱色の塊があった。
武田騎馬隊の精鋭たちである。
善兵衛が言った。
「武田は総力を集めましたな」
五年前、甲府で相対したときからその様相は何も変わっていない。湯村山の温泉で頭を湯に押し込んできた山県三郎兵衛尉が、五年のときを経て目と鼻の先にいる。
「善兵衛殿」
牛太郎は山県赤備えを静かな目で見つめながら言う。
「あっしと山県クソサブロウには浅からぬ因縁がありましてな」
牛太郎は五年前の事件を善兵衛に話した。襲撃されたことを知っている人間は織田家中の中でもわずかで、左衛門太郎でさえ知らない。そのときに甲府まで供してきた栗之介と四郎次郎だけである。
かつて、上洛を狙っていた上総介は背後を安定させるために武田徳栄軒に媚びていた。ゆえに、武田に命を狙われたなど大ごとに発展してしまうから、牛太郎は上総介に口止めされていたのである。
しかし、もはや、関係ないだろう。
「あっしの夢は山県クソサブロウをこの手で殺すことです」
善兵衛は牛太郎の横顔をじっと見つめた。
「ただ、今はそんな私情を捨て、二俣城を守ることだけに精神一到します。あっしのクソサブロウ殺したさのために、犠牲を払うわけにはいきませんから」
山県勢五千のうち、半数以上の足軽兵は大手口を突き破りにかかってくるだろうが、おそらく、騎馬に特化している赤備え隊は攻城戦に参加しないであろう。山県三郎兵衛尉も前面に出てくることはない。
今は山県への意欲をあきらめるしかない。
ふと、善兵衛が北曲輪に配されている鉄砲隊の一人に歩み寄り、火縄銃を受け取った。火縄に点火すると、銃口を赤備えに向け、一発、銃声を天高い空に鳴り響かせた。
無論、銃弾が届くはずもなかったのだが、善兵衛は火縄銃を鉄砲兵に返すと、曲輪の岸壁に仁王立ちし、小便した。
「赤備えよ、見ているかあっ! 我のいちもつは見ての通りしぼんでおらんぞ!」
兵卒たちが笑い上げた。どころか、善兵衛に感化されて、一人、また一人と善兵衛に並び立ち、小水を放った。
「武田の頭上に小便できるとは、なんとも心地よいもんじゃのう!」
「悠々と小便させてくれるとは、武田の奴等は情け深い者どもだわ!」
この光景を城下の武田勢は見て取れたのか、それとも善兵衛の放った銃声に対抗したのか、何発かの銃弾を浴びせてきた。もちろん、届くことはない。
げらげらと笑い上げる三河勢たち。
「簗田殿もしなされ! 愉快このうえありませんぞ!」
善兵衛に促されて、牛太郎は着物の裾をたくし上げた。山県の苦々しい表情が思い浮かばれる。牛太郎は高笑いしながら、小便した。
包囲されながらも、士気は逆に高まっていく三河勢を前に、武田勢は総力を結集させたものの、目立った攻城を仕掛けなくなった。あったとしても、様子見の小競り合い程度で、すぐに引き返して行く。
「援軍はまだなのか」
ただ、焦りの色を隠せない人間もいた。守将の中根平左衛門と副将の青木新五郎である。二俣城の兵卒たちが、天下の武田勢を小馬鹿にし始めたのが、不安をよぎらせる。
「徳栄軒がこのまま指をくわえて黙っているとは思えん」
「いや、手立てがないんですから、信玄は指をくわえているしかないんです」
牛太郎は平左衛門と新五郎をなだめるように言った。
「何かを企んでいたとしても、それはこの二俣城に対してではなく、浜松か、岐阜。家康殿をおびき出そうとするか、信長様がこちらに向かえないような謀略を仕掛けているかです。でも、家康殿も信長様も、信玄の危なさを知っているから、やすやすとは乗ってきません」
「しかし、援軍が来なければ埒が開きませんぞ」
「焦ってはいけません。こちらが埒を開けようとしてはいけません。戦略は気を長く、戦術は気を短く。竹中半兵衛の言葉です」
だが、さらに半月の膠着が続いたのち、事態は一転した。
二俣城の水が枯れた。
二俣城は終わった。
井戸のない二俣城は水源を天竜川に頼っていた。川の岸辺、断崖沿いに櫓を立てており、そこから瓶を吊り上げて水を汲んでいたのである。
武田勢は二俣城兵の目を盗んで、おそらく夜半、天竜川の激しい水流に足を取られながらも、どこかに攻め手がないか、詮索していたと思われる。
二俣城の造りをつぶさに知り得た徳栄軒は、水源の破壊を狙った。大量のいかだを作らせると、天竜川上流からそれを流し、いかだを櫓にぶつけさせた。
平左衛門や牛太郎らが徳栄軒の奇策に気付いたときには手遅れだった。無数のいかだが天竜川を埋め尽くしており、水流の暴れに乗ったいかだは櫓に次々と襲いかかった。
櫓は轟音を響かせて次々と崩れ落ちた。
兵糧はある。しかし、水がなくなった。
追い打ちをかけるように、武田から矢文が届いた。
――命の保証はする。早急に開城せよ。
いつのまにか、二俣城は徳栄軒の掌の中だった。櫓以外に水源がないことを聞いたとき、牛太郎は目の前が真っ暗になっていくようであった。唇を噛みしめる平左衛門の姿も、無念そうに瞼を閉じる新五郎も、発狂寸前の声をあげて悔しがる善兵衛も、牛太郎の視界にはあったが、何も見えなかった。
口髭の下で悠然と微笑を浮かべる徳栄軒の姿だけが見えていた。
兵は善戦している。むしろ、押し返している。でも、たったこれだけのこと――、水がなくなったっていうそれだけのことで、おれは負けちまうのかよ。
不甲斐ない。これほどまでに、自分の不甲斐なさを感じたことは今までなかった。できることなら、腹を切って死んでしまいたい。それほど、悔しいし、恥ずかしい。
武田徳栄軒信玄と対等に渡り合えていると自惚れていた自分は、なんて滑稽だったことだろう。
「干からびるまで戦いましょうぞ!」
声を大きくした善兵衛だったが、顔つきは悲愴に満ちていた。
「中根殿!」
平左衛門は武田からの書状に目を落としたまま、動かない。
「青木殿!」
新五郎は首を振った。
「戦うも何も、相手が攻めてこなければ戦えまい。我らが開城しなければ、徳栄軒は我らが煮干しになるまで包囲するだけだ」
それが徳栄軒の狙いであった。水を失わせてもなお、命の保証をさせるということは、二俣城兵に唯一の逃げ道を与えている。徳栄軒は今後のことを考えて、二俣城兵が狂人の決死隊となって城から打って出てくるのを避けている。
一言坂の本多隊の例もある。負けはしないが、決死隊からの攻撃で与えられる死傷者と士気の減少を考えたら、たかだか千人余の兵など逃がしても構わない。
その辺り、徳栄軒は三河武者の気質を把握していたと思われる。
「そもそも、二俣城を失ったとしても、すべてが失われるわけではない。浜松のおやかた様に合流し、もう一度、一矢報いればいいではないか。なすすべもなく、むやみに兵を殺す必要がどこにあるだろうか」
「しかし!」
「申し訳ない」
と、口を閉ざしていた牛太郎が肩を震わせながら頭を下げた。
「あっしが浅はかであったばっかりに」
「何を言いますか、簗田殿」
平左衛門が武骨な顔に柔らかい笑みを浮かべながら牛太郎の肩に手を置いた。
「一カ月以上も持ちこたえられたのは簗田殿のおかげです。我らがあの武田徳栄軒を苦しめたのは他でもない事実じゃ」
「申し訳ない。申し訳ない」
牛太郎は瞼から溢れ出そうな涙をこらえるのでせいいっぱいであった。水源のことが念頭にあったら、結果は違っていたはずだ。なのに、そこまで頭が回らなかった。知ったかぶりをしていただけだった。半兵衛なら、半兵衛なら、結果は違っていたはずだ。
自分は――、愚かすぎる。
「簗田殿! 簗田殿はそれでいいのですか! 簗田殿はここで退いてしまっていいのですか!」
食らいついてくる善兵衛に、牛太郎は真っ赤に充血した瞳を持ち上げた。
「二俣城兵、千人を虐殺するわけにはいきません」
善兵衛は言葉をなくした。
降伏を受け入れる矢文が放たれ、冷たい雨がぱらぱらと降ってきた。二俣城内に詰める三河勢を一同に集めたのち、血と汗が染みついた大手口を抜けていく。
武田勢がずらりと並ぶ前を、三河勢は首を垂らしながら進んだ。
「どうした、三河の田舎侍が! おめおめと退散か!」
「お前らはどうせ死ぬんだからよ、最後まで戦ってもよかったんじゃねえのか!」
武田の雑兵たちから罵声が浴びせかけられ、思いあやまって太刀に手をかける兵卒もいたが、傍らの仲間に咎められて、唇を噛みしめる。
武田の兵卒とて、悔しさに代わりはないのである。大手口の攻防で何人もの同僚を失った男もいれば、敵を目の前にして槍を振るえず、何一つ手柄は立てられなかったのだ。
「いやあ、敵を目の前にして出す小便は気持ちがいいなあ」
と、武田の兵卒にいちもつをあらわにして、三河勢向けて小水を垂れ流してくる者があった。笑いが響いた。
が、一瞬にして戦慄が走った。小便を放っていた者の胴体が二つに割れてしまったのであった。
三河勢は思わず足を止めた。兵卒を斬り捨てた者は、朱の鎖帷子を身に付けた馬に跨る朱の鎧兜の男であった。
「無礼を働く者は甲斐に去れ!」
牛太郎もそれを目撃していた。その厳めしい風貌ははっきりと覚えている。赤備えのその男は、山県三郎兵衛尉である。
そして、山県も、とりわけ目立つ栗毛の馬と、その鞍上の綱巻き姿の牛太郎に気付いた。
「簗田あっ!」
山県は冷徹に斬り捨てたときの静けさ漂う顔つきを一変させ、単騎、三河勢の隊列に近寄ってきた。三河勢は槍を構え、武田の兵卒たちも山県の後ろに付いてくるが、山県は腕を伸ばして武田勢を制すると、牛太郎を睨み据え、静かに声を放った。
「なにゆえ、貴様がここにおる」
「お前を殺しに来たんだよ」
牛太郎の言葉に、山県に従っていた兵卒たちが槍を構えながら騒ぎ始めた。三河勢も同じように目を据わらせ、槍を突き出した。
張り詰めた空気が、細く冷たい雨に打たれて静けさを増していく。
鼻の頭からしずくを垂らし、顎の雨滴をぬぐいながら牛太郎は言った。
「山県。いくさはまだまだこれからだからな。覚えておけ」
朱の兜の下で、山県はひっそりと笑みを浮かべる。
「望むところだ。簗田牛太郎」
牛太郎と山県は手綱をふるうと、馬を歩かせて互いにその場から去った。
雨にかすむ野を横目に、無言の隊列に混ざって街道をひた進み、浜松城郭がうっすらと見えるようになったころ、
「旦那っ!」
畔に立って隊列を見送っていた栗之介が陣笠を跳ね上げながら牛太郎に駆け寄って来た。
「旦那っ! 旦那っ!」
栗之介は言葉が浮かばないらしい。
牛太郎は一カ月ぶりに見た栗之介の浅黒い顔に安堵した。長く続いていた緊張感からいっとき解放されたようで、わざわざ自分を探しに来た栗之介を有難く思ったが、牛太郎は照れ臭さに敗北の悔しさが混じって、つっけんどんにかえした。
「なんだよ」
「もう、戻って来ねえかと思ったよ」
栗之介は瞼をこすりながらそのまま栗綱の鼻面を撫で、
「良かった。クリも大丈夫だったんだな。良かった」
と、栗綱に額をこすりつけた。それに応えるように栗綱は栗之介の顔を舌で舐める。
「良くねえ。まだ、いくさは終わってねえんだ。良くねえんだ」
まるで、牛太郎は自分自身に言い聞かせるかのようだったが、栗綱の口輪を手に取った栗之介は、馬上の牛太郎を見上げながら言う。
「生きていればどうにかなるだろ。生きていればよお」
牛太郎は白い吐息をつくと、鉛色の雲の下にかすむ浜松城をきつく見つめた。
二俣城から退いてきた将たちは、そのまま足取り重く浜松城の三河守の前に参列した。もちろん、牛太郎も登城した。
本丸御殿の広間に入ったとき、はっとした。二俣城の将たちを出迎えた三河武者たちの中に、長髭の佐久間右衛門尉信盛の姿がある。
他にも滝川彦右衛門一益、水野藤四郎らがいた。
援軍が来ていたのか。それなのに、どうして、二俣城の加勢に来なかったんだ。
牛太郎は織田の将たちの姿に呆気に取られながらも、二俣城防衛を共にした中根平左衛門や青木新五郎と同じく三河守を正面にして平伏した。
平左衛門が悔しさに肩を震わせながら、絞り出したような声で言う。
「おやかた様、申し訳ありませぬ......」
「よい。お主らはよくやった。責めるな。これもわしの能のなさじゃ」
三河守の顔つきはしばらく見なかったうちに変わっていた。相変わらずの肥え太りした丸い顔ではあるが、口許を引き絞り、眼差しはどこかぎらりとしている。
「すべてが失われたわけじゃない。まだ、いくさはまだじゃ。そのときは頼むぞ、中根、青木」
平左衛門と新五郎は震えを大きくしながらも、頭をより深く下げ、返答の声を発した。
「それに、簗田殿――」
ふいに三河守は腰を上げた。平伏し続けている牛太郎の前まで歩み寄って来ると、三河守は腰を下ろして着座し、その頭を床にこすりつけた。
「面目ないっ! 友人がたった一人戦地で働いているというのに、当のわしは浜松でのうのうとしておった! 簗田殿、簗田殿っ、面目ないっ! この通りじゃっ!」
嗚咽をもらしながらの三河守に牛太郎はあわてた。
「ち、違いますって。あっしは、ただ、何も」
「面目ない。面目ない」
すっかり取り乱してしまっている三河守を酒井左衛門尉と本多平八郎が上座まで引きずり戻し、場は三河守が泣きやむのを待った。
ただ、三河守に感化されて鼻をすすり上げる者もいる。
すべてが終わってしまったかのような悲痛な空気が、広間に圧し掛かっていた。中根平左衛門と青木新五郎も泣き出してしまっている。
牛太郎は瞼をぎゅうっと瞑り、唇を中に押し込めて、自責の念に改めて襲われた。もしも、二俣城さえ死守していれば、もしも、水源を見逃さなければ、未来はあった。
いや、違う。まだ、希望はある。武田信玄は死ぬんだ。まだ、いくさは終わっていない。
「しかしだのう、牛太郎」
佐久間右衛門尉だった。長髭を指先でつまみながら、細目の中の瞳を怪訝に光らせた。
「お主は何をやっておったのだ? 三河殿が頭を下げるようなことなどしておらんであろう」
牛太郎に衝動が走ったが、ぐっとこらえて頭を下げた。
「た、確かに何もしていません。ただ、そこにいただけです」
「違いますっ!」
青木新五郎が声を跳ね上げた。
「簗田殿の策のおかげで二俣城はここまで持ったのです! 簗田殿がおられなかったら、二俣城はとっくに攻め落とされており、千人の兵も殲滅されておりました!」
「左様! 簗田殿は二俣城を救った三河勢の恩人でございます!」
中根平左衛門の言葉に三河守以外の誰もが耳を疑う様子であった。
「いやいや、織田の将だからといって遠慮するでない。牛太郎ごとき、邪魔ばかりであっただろう」
佐久間右衛門尉は笑い上げた。悲痛な場にあって、その様子は異様だった。
「佐久間様、お控えなされ」
水野藤四郎が佐久間を制したが、当の佐久間は興を削がれたように不服に眉をひそめ、水野を睨みながら、鼻で笑った。
「わしはただ、場を和ませようと思っただけじゃ」
三河武士たちの訝った視線が佐久間に集中したが、泣きやんでいた三河守が、
「もうよい。各々、籠城に備えて英気を養え」
そう言って、広間を立ち去った。
牛太郎は平左衛門や新五郎とともに広間をあとにした。
「簗田殿、あのお方は一体誰なのです」
新五郎が鼻息を荒くしている。
「たとえ簗田殿が活躍されていなかろうと、前線で戦っていた者に対するなんたる愚弄か」
「いいんスよ。青木殿がそう言ってくれるだけで、あっしは有難いんですから」
「あの方は佐久間右衛門尉殿ですな、簗田殿」
平左衛門が牛太郎に視線を送って確かめると、うなだれながら首を横に小さく振った。
「織田の重臣の佐久間殿がやって来ながら、なぜ、二俣城に援軍を寄越してくれなかったか」
牛太郎は思わず足を止めてしまう。牛太郎は平左衛門や新五郎に、織田の援軍が来るまで持ちこたえると言っていたのだ。
それを反故にしてしまったことになる。
「牛太郎」
二人の前でうつむいて立ち尽くしていたところに、水野藤四郎がやって来た。
「牛太郎、話がある」
と、牛太郎の肩に手を置き、平左衛門と新五郎に目配せした。彼らが去っていくと、藤四郎は牛太郎は城内の隅に連れていき、耳打ちした。
「玄蕃允を説得せい」
意味がわからない牛太郎は、顔を上げて藤四郎の目を覗きこむ。
藤四郎とは大した面識もない。ただ、藤四郎が上総介の父の代から織田に仕えていた古参武将であり、三河守の母方の叔父であることは知っていた。
「玄蕃を説得しろって、どういうことッスか」
藤四郎は年季の入った瞳の奥を牛太郎に寄せると、声を小さくして言った。
「佐久間様の命じゃ。武田が浜松を籠城するときには、我ら織田は直前に脱出する」
「そんなっ!」
藤四郎は牛太郎の口を咄嗟に塞ぎ、静かにせい、と、声音を低く、眼光を鋭く突き刺してきた。
「旦那っ」
栗綱の口輪を取る栗之介が、陣笠の先端から雨滴を垂らして呼んでくる。
「旦那っ、ぼさっと突っ立って何をやってんだよ。風邪ひいちまうぞっ」
鉛色にうねる遠州灘を遠目にして、牛太郎は愕然としていた。
佐久間右衛門尉が引き連れてきた軍勢の数は三千に過ぎなかった。一万の徳川方にそれが付いたところで、本隊と山県隊が合流した武田勢二万五千には遠く及ばない。
しかし、牛太郎が上総介に要請したのは「わずかながらの軍勢でも構わないから」なのだった。
甘かったとしか言いようがない。武田勢の動きを肌で感じるところ、徳栄軒には死ぬ気配がまったくない。
それでも、三河勢を見殺しにして自分たちだけ逃げるとはいかがなものか。
牛太郎が姿を消している間にやってきた佐久間勢は、九之坪勢を率いている玄蕃允を呼び出し、彼に方針を伝えたらしい。
だが、玄蕃允は言うことを聞かないでいて、三河勢とともに籠城すると騒いでいると、水野藤四郎は言った。
「お主が説得しろ」
本気で言っているのだろうか。信長がそんなことを許すだろうか。佐久間は本気なのか。
織田は腐っている。水野藤四郎も滝川彦右衛門もどうして佐久間に従うのだ。牛太郎は憤りさえ覚えた。いや、違う。牛太郎はすぐに首を振り、金ヶ崎の退き口を思い出した。織田には木下藤吉郎もいるし、明智十兵衛もいる。
それに、森三左衛門だっていた。
宇左山城を文字通りに死守した三左衛門は、三河勢と何ら遜色のないもののふであった。
「サンザ殿がいれば。サンザ殿が援軍であれば」
牛太郎は雨に打たれながらも、分厚い雲の向こうにある天を見ようとした。涙がこぼれた。悔しくて仕方なかった。
負けたことも、自分が不甲斐ないことも、織田の将に腐った者たちがいることも。
牛太郎は打ちひしがれて、地面に手を突くと、声をもらして泣いた。
責める必要はない。責める必要はない。しかし、牛太郎はこの世の愚かさすべてが自分の愚かさであるような気がしてならなかった。
後世の時代からやって来て、自分は今までの十年間、何をやって来たのだろうか。こんなことのために十年を費やしてきたのだろうか。
ここで死に花を咲かせたとしても、三左衛門に合わせる顔がない。
無力すぎる。
「旦那......」
栗之介が濡れそぼって泣きじゃくる牛太郎に歩み寄ってきたが、言葉はかけられなかった。
栗綱が首を伸ばしてくる。そうして、頬に伝う涙を舌で舐めた。牛太郎は顔を上げる。栗綱は牛太郎の顔をしきりに舐める。その黒くつぶらな瞳は、哀しみに満ちていて、優しみに溢れていた。
牛太郎は栗綱の顔を抱いた。わんわんと泣いた。
栗綱は知っている。牛太郎の勇気と嘆きを。
城下に下りて、九之坪勢が宿陣する寺に一カ月ぶりに戻ってきた牛太郎は、雨に冷えた体を湯船に沈め、決心した。
玄蕃允も勝蔵も九之坪勢も岐阜に戻す。しかし、自分は残り、山県三郎兵衛尉と最後まで戦う。
「そうだ。おれはあいつを殺すためだけに生きてきたんだ」
牛太郎は二俣城下で山県と出くわした日中の出来事を思い出していた。
小便を垂らしてきた兵卒を有無も言わさずに斬り捨てた山県は、もしかしたらいいやつなのかもしれない。
憎き山県とばかりに恨みを引きずってきた牛太郎だったが、思えば、山県が自分を殺そうとしたことは、主君の徳栄軒に命じられたことなのである。
あのとき、睨み合ったとき、恨みつらみを越えた何かが自分と山県の間にはあった。むしろ、昔年の友人と再会したような気分であった。
だからこそ、山県を殺さなければならない。そして、もしも、自分が殺されるのであれば、山県三郎兵衛尉のその手でなければならない。
このままいけば、浜松城は落ちる。が、その最後の抵抗のときに、牛太郎は山県と刺し違える決心をした。
「これが最後だ」
牛太郎は湯船から上がった。
もう、何もいらない。梓の顔が脳裏によぎるが、
「おれは戦国武将だ」
何もいらない。徳栄軒が死のうがどうであろうが、構わない。歴史が変わっていようがどうであろうが、これは自分の人生だ。
最後の最後に自分の生きざまを確かめるのみである。そうすれば、三左衛門も笑ってはくれるだろう。
牛殿らしからぬ生きざまであったな!
牛太郎は湯屋から出ると、その足で玄蕃允の居室の板戸を跳ね開けた。
「おいっ! イノシシ野郎っ!」
しかし、牛太郎ははっと目を押し広げた。
居室には若者たちがたむろしている。玄蕃允はもとより、勝蔵、なぜか松平善兵衛、それにもう一人、見たことのない優男。
「なんだよ、オヤジ殿は。騒々しいな」
あろうことか、四人は酒を飲んでいる。あれほど禁酒を促していたのに、勝蔵の頬は真っ赤に染め上がってしまっている。
「な、なんで、善兵衛殿がここにいるんだ」
善兵衛はにこりと笑った。二俣城での悔しがりようが嘘のように、爽やかな微笑みであった。
「簗田殿と酒を酌み交わしたくなってやって来たのですが、簗田殿には拙者と歳の近い配下の方々がいらっしゃったようで、つい、意気投合してしまいました」
「水臭いではないか、オヤジ殿。一人で二俣城に行ってしまうとは。手柄を一人占めしたそうじゃないか」
「そうだ」
勝蔵が椀の中身をがぶりと飲み込み、熱っぽい吐息をつくと、すでに据わってしまっている目で牛太郎を睨み上げてきた。
「俺たちは浜松で飼い殺しだ。そのくせ一人でいくさ働きとはやってくれるじゃねえか、あーっ!」
「よせよせ、勝蔵。せっかく身を粉にして働いてきた簗田殿をそう出迎えるとはあんまりではないか」
と、誰だかわからない優男の若者が勝蔵をなだめ、勝蔵は不思議とその若者には従いおとなしくなる。
「だ、誰だ、キミは」
「ああ。お初にお目にかかります。拙者、平手甚左衛門と申します。もっとも、左衛門太郎殿とは懇意にさせてもらっているのですがね」
むう。名乗られたところで、なぜ、平手甚左衛門が悠々としているのか牛太郎は見当もつかない。
「平手殿を知らないとは、オヤジ殿はよっぽどだな」
甚左衛門は、かつての上総介の教育係であり、次席家老でもあった平手五郎左衛門政秀の忘れ形見らしい。
上総介の命で佐久間右衛門尉とともに浜松にやって来たが、
「籠城戦になったら浜松から脱するなど有り得ませぬ」
と、若気の至りで玄蕃允とともに佐久間に反抗しているようであった。
こいつらは何をべらべらと喋っていやがんだ。徳川方の善兵衛がいるんだぞ。
牛太郎は気が気でなかったが、善兵衛は佐久間の企みを聞いてもなお、憤ることもなく、にこやかである。
牛太郎は思わず訊ねた。それでいいのか、と。
「ここは浜松。これは武田と徳川とのいくさであって、三河勢のいくさです」
「馬鹿言うな、善兵衛とやら」
勝蔵は酒をあおると、据わった目で善兵衛を睨みつけた。
「俺らはなあ、わざわざ浜松まで来て、一度も槍をふるってねえんだぞ。ここで岐阜に帰られるか。ここで岐阜に帰れば名ばかり武者よ」
「フン。別に山田三郎は帰ってもいいんだぞ。お主が森勝蔵だとは誰も思っていないからな」
「なんだと! コラ!」
玄蕃允の悪態に腰を上げた勝蔵だったが、甚左衛門に止められて、おとなしく着座する。
「玄蕃もいい加減にせい。善兵衛殿が笑っておられるぞ」
「いや、喧嘩するほど仲がいいと言いましょう」
「善兵衛殿。喧嘩するほど仲がいいかもしれませんが、こうも喧嘩をされては周囲も疲れてしまいますわ」
「おいっ!」
と、牛太郎は和気あいあいと酒を酌み交わしている若者たちを一喝した。
「お前らは佐久間殿と一緒に岐阜に帰れっ! 甚左衛門殿もだ! お前ら小僧がいたって何の役にも立たねえ! おれだけが浜松に残る!」
「おい、オヤジ」
勝蔵がゆらりと腰を上げると、
「今の話を聞いてなかったのか?」
猛然と牛太郎の頬を殴りつけた。齢十五の小僧のものとは思えない勝蔵の硬い拳に吹き飛ばされた牛太郎は板戸を外し、廊下にまで転げ倒れた。
「俺たちはなあ、佐久間のような日和見ジジイとは違えんだよっ!」
「勝蔵っ、やめろっ」
甚左衛門と善兵衛が勝蔵の腰に抱きつくが、勝蔵は我慢ならなかったらしく、二人に阻まれながらもなおのこと牛太郎に襲いかかろうとしてくる。
相当の鬱積が溜まっているらしい。恐怖を克服して一言坂に出たものの、敵方と相対することもなく退却し、一カ月間、武田勢が二俣城を包囲する中で、ただ、浜松で指をくわえているしかなかった。
「オヤジ殿」
玄蕃允が倒れ込んでいる牛太郎の前に中座し、奥に秘めた眼差しを注ぎ込んできた。
「山田三郎の言う通りだ。俺たちを小僧扱いするな」
牛太郎は玄蕃允を睨み返す。
「小僧扱いだと?」
牛太郎は玄蕃允の頬を殴りつけた。
「扱いもくそもお前らは小僧だろうがっ!」
おもむろに腰を上げた牛太郎は居室の中にずかずかと上がり込み、押さえつけられている勝蔵の頬を殴りつけ、甚左衛門の頭に拳骨を落とし、善兵衛にまで拳を落とした。
「何しやがんだっ! オラァ!」
「お前ら小僧はおっかさんのおっぱいでも吸っていろ!」
ふいに玄蕃允が背後から掴みかかってきて、牛太郎はぶん投げられた。玄蕃允は牛太郎の上に乗りかかり、牛太郎の顔面に拳を入れた。
「お前に何がわかる! わしにはな、帰る場所などないのだ!」
玄蕃允はさらに拳を振りかぶる。そこに善兵衛が掴みかかって、牛太郎から玄蕃允を剥がし取ると、今度は善兵衛が玄蕃允を殴りつけた。
「年配者に拳を入れるとは何事だっ!」
「よそ者は黙ってろっ!」
玄蕃允が善兵衛を殴り返す。取っ組み合いになり、押しつ引かれつで廊下になだれ込んでいく。
「何をやっておるんだあっ! やめんかあっ!」
甚左衛門が廊下の二人に駆け寄るが、解放された勝蔵がここぞとばかりに二人の揉み合いに参戦し、理不尽な不意打ちを玄蕃允と善兵衛に食らわした。
「やめろって言っているだろうがっ!」
甚左衛門が勝蔵を殴りつける。目玉を剥き出してしまっている勝蔵は甚左衛門を殴り返す。収拾がつかなくなってしまう。
牛太郎は善兵衛が持ってきたらしき酒瓶の中身を四人目掛けて撒き散らした。そうして、瓶を床に叩きつけて割った。
「喧嘩したいんならおれとやれ! いくさに出たいんなら、おれを倒してから行け!」
酒瓶が割れた大きな音に動きを止めた四人は、仁王立ちの牛太郎を見つめた。牛太郎は呼吸を荒げ、目はかつてないぎらつきだった。
大男が余計大きく見える。
若者たちは牛太郎の背後にゆらめいているものが、自分たちにはないものだと理屈抜きで感じた。いや、愚将で、情けないあの簗田牛太郎が、そこに仁王立ちしていることだけでも、牛太郎の意思の強さを知った。
「なにゆえ、そこまでして、わしらを止めるんだ」
玄蕃允が唇を震わせた。が、勝蔵だけは酩酊してしまっていた。
「望むところじゃねえか、この鈍牛!」
勝蔵が飛びかかってくる。牛太郎は放たれてくるであろう勝蔵の右拳を予想し、腰を屈めて勝蔵の腰に飛びかかっていく。しかし、喧嘩慣れしている勝蔵の膝が牛太郎の顔面を直撃し、ううっ、と、顎を上げてよろめいたところに右拳を見舞わされて、牛太郎は吹っ飛んだ。
倒れ込んだ牛太郎の顔面に勝蔵は蹴りを浴びせてくる。牛太郎は襲いくる足の甲に目を瞑りながらも、勝蔵のふくらはぎを抱いた。そうして、噛みついた。
勝蔵の悲鳴が上がり、牛太郎は噛みついたまま足を引き寄せて勝蔵を薙ぎ倒す。
そこへ、三人が割って入り、牛太郎は玄蕃允の腕で勝蔵から引き剥がされる。
「何をやってんだ、オヤジ殿! あんたが勝てるわけないだろう!」
善兵衛と甚左衛門に抑え込まれた勝蔵が、獣のように狂った雄叫びを上げていた。
「どけっ!」
牛太郎は玄蕃允を振り払おうとする。
「どけっ! お前ら、どけっ! おれがな、おれが、三左殿の代わりに、やってやるわ。これはな、親子喧嘩だ! どけっ、玄蕃っ!」
瞳孔を開け広げる牛太郎に思わず圧倒されて、玄蕃允は力を緩めてしまう。牛太郎は玄蕃允を突き倒すと、善兵衛と甚左衛門を引き剥がし、倒れ込んでいる勝蔵の腹に乗り上げて、勝蔵をめった打ちにした。
「お前がなあ。お前がなあっ!」
牛太郎はぼろぼろと涙をこぼしながら、勝蔵の顔を殴りつける。
「お前が死んだら、おれはどうすればいいんだ!」
鬼気迫る牛太郎に他の三人はしばらく圧倒されていたが、甚左衛門が牛太郎を掴んで止めた。
「もう、やめてくだされっ」
甚左衛門も泣いていた。
「もう、簗田殿の気持ちはわかりましたゆえ、やめてくだされっ」
解放された勝蔵だったが、唇から血をこぼしつつ、吐息を荒げるだけで牛太郎と見つめ合う。
「いいか、お前ら」
牛太郎は甚左衛門に組みつかれたまま、呼吸を整え直しながら、若者たちに視線を送った。
「お前らはな、あと十年生きてもおれより年下だ」
甚左衛門の腕を振り払うと、牛太郎は涙と血を袖で拭い、もう一度、しっかりとした眼差しを若者たちに送った。
「あと十年生きて、いくさ働きなんかよりももっと大切なものを見つけろ。死に花ってのは、そのときに初めて咲くもんだ。自分の生きざまを見つめろ。どうせ死ぬんなら、土になるより、花を咲かせろ。生きざまの花を咲かせろ」
勝蔵が起き上がった。ふらふらと歩み寄り、牛太郎と睨み合うと、一発、牛太郎を殴りつけた。
「だったら、オヤジの生きざまとはなんだ!」
牛太郎は一瞬うつむいてしまう。だが、すぐに視線を持ち上げて言った。
「ここにあるだろう。お前らと向き合っているのが、これがおれの生きざまだ」
実は、牛太郎も彼らから聞いて初めて知ったことだが、四人とも父親を喪っている。
勝蔵は森三左衛門の息子であるから、前々から知っていたことではあるが、平手甚左衛門の父の政秀は、かつて、尾張のうつけ者として名高かった上総介を戒めるために腹を切った。
甚左衛門は平手堅物という兄がいて、今はその養子となっている。
松平善兵衛は、祖父と父が三河守に刃向かって一揆衆と共に蜂起してしまったため、流浪の少年期を過ごしていたが、父が亡くなると、三河守はこの一族を許し、大草松平家の当主となった善兵衛は三河岡崎城主の、三河守の嫡男、岡崎三郎に仕えている。
玄蕃允は三年前にやはり父を病で亡くし、若くして一家の主となった。だが、彼は佐久間一族の分家であり、玄蕃允自身の粗野な物言いもわざわいして、佐久間右衛門尉から遠ざけられていた。
「だから、わしは功を上げたいんだ」
玄蕃允が訴えるように牛太郎を見つめた。もう、玄蕃允には岐阜を出たころの牛太郎をあなどる気配はない。
「拙者も同じゆえ」
徳川方の善兵衛がうつむきながら言う。
「おやかた様にお許しをもらい拾い上げてもらった以上、おやかた様のために戦わなければなりませぬ」
勝蔵は腫れ上がった顔でふてくされたように牛太郎を見つめて黙っている。
「簗田殿」
甚左衛門がまっすぐな眼差しをにじり寄せてくる。
「かつては町娘の子であった左衛門太郎殿が侍大将まで昇り詰めて活躍されている中、拙者どもは何をやっているのか。拙者どもの気持ちも察してくだされ」
「馬鹿を言うな」
牛太郎は、何を言おうと食い下がってくる若者たちの情熱から逃れるように視線を伏せた。
「太郎はお前たちと違う。太郎は死ぬためにいくさをしたことなんて一度もない。太郎は常に勝とうとしている。それが太郎とお前らの決定的な違いだ。だから、あいつは出世したんだ」
「だったらだ、オヤジ」
と、勝蔵は酔っ払っているせいなのか、牛太郎をいつのまにかオヤジ呼ばわりである。
「左衛門太郎がここにいたら、佐久間と共に逃げているというのか」
「それはないだろうけど」
「左衛門太郎もきっと俺らと同じように武田に立ち向かうはずだろう。俺たちも左衛門太郎と同じように武田と戦う。それだけだ」
「違う。あいつはお前らと違って頭がいいんだ。半兵衛にいくさの手ほどきを受けたぐらいなんだぞ。虎御前山から退却するときとか、姉川で斜めに突撃したときとか、あいつはな、あれでもいろいろ考えていて、無謀な戦いはしないんだ。勝つためにいろいろ考えてやっているんだ」
「じゃあ、わしらも考えればいい。武田に勝つための手段を」
「馬鹿を言うな! ここで死んだら元も子もないだろ! 浜松が落ちても、三河だって残っているし、いずれ、信長様が小谷城を落としてやって来るんだ!」
「それは、簗田殿も同じことではないですか」
甚左衛門に、牛太郎は口を噤まされた。
「あと、十年生きられるかどうかは、やってみないとわかりません。何も、負けが決まったわけではございません」
「違う違う違う! おれはな、お前らを死なせたくないだけなんだ!」
牛太郎は額を床にこすりつけた。
「わかってくれ! 頼む! もう、誰かが死ぬのはこりごりなんだ! 知っているやつが死んでいくのはいやなんだ! 若いお前らだったらなおさらなんだ!」
自分の思いを必死に訴えかけてくる牛太郎を前にして、若者たちは押し黙るしかなかった。
牛太郎が元いた平和な時代では死は当然ではなく、どこかぼんやりとした必然であった。偶然に近い絶対であったり、事故みたいなものであったりした。
この時代にやって来てから、最初のうちは、目の前の死にたいして鈍感ではあった。前田又左衛門が拾阿弥を斬り捨てたときも、桶狭間で今川治部太輔が討ち取られたときも、数々の戦場で血が流され、命が絶えていったとしても、それは目の前で起こっている出来ごとでありながら、自分自身とは遠くかけ離れた世界で起こっている出来事であった。
いや、むしろ、それほどまでに死が溢れていた。当然でなかったことが当然すぎて、牛太郎は目を背けていたのかもしれなかった。
しかし、金ヶ崎で沓掛勢の大半を失ったときから、牛太郎の中に生死の無常さが湧き上がった。
金ヶ崎の退き口は、手柄欲しさに牛太郎が自らしんがりを名乗り出たのだった。そうして、沓掛勢は主人の牛太郎を、命を賭して守り抜いていった。
残酷な事実が牛太郎に突きつけられた。沓掛勢を生かすも殺すも牛太郎の手によるものであった。牛太郎があのとき手柄欲しさに名乗り出なければ、この世を去っていった沓掛勢四百人の人生は続いていたのだ。
もちろん、四百人の中には玄蕃允や勝蔵ぐらいの若者もいた。
さらに、牛太郎の面倒を見てきた森三左衛門の討死にが牛太郎を敏感にさせた。
それまでは自分の死を恐れていた。しかし、それ以上に、周囲の死を恐れ始めた。
「俺は戦国の男だ」
むっすりとしていた勝蔵が言った。
「オヤジにそこまで言われて、はいそうですかと引き下がる戦国武者がいるか?」
「そうだ。槍もろくに振れないオヤジ殿をみすみすいくさ場に置いていって、わしは叔母上や左衛門太郎殿に合わせる顔などないわ。オヤジ殿の言っていることは、そのままわしらの言いたいことだ」
「違う」
牛太郎は首を小さく振る。
「何も違いませぬ、簗田殿。拙者どもは死ぬために戦うわけではないのです。功を上げ、名を上げるために戦うのです。簗田殿もそうしてきたんでしょう。簗田殿もそうやってここまで生きてきたんでしょう」
「違う!」
「おい、オヤジ。いい加減、駄々をこねるな。こいつらはどうか知らねえけどな、俺は簗田左衛門尉の配下の山田三郎だぞ。主人と共にするのが当然だろうが」
「今さら、そんな屁理屈並べんな!」
「屁理屈並べているのはオヤジだろうが。いい加減、観念して、奥方の小袖にしがみついていろ」
牛太郎は凍りついた。
玄蕃允がにやにやと笑みを浮かべながら勝蔵に訊ねる。
「なんだ、奥方の小袖とは」
勝蔵もにやにやと笑みを浮かべた。
「いやな、オヤジが二俣に行っている間、オヤジの部屋の整理をしていた馬丁をふと見かけて、その中に場違いの見事な桐箱があったからな、オヤジは何かの宝物を持ち歩いているのかと馬丁の者に訊ねたところ、いや、違う。これは奥方の小袖だと言う。オヤジは女の小袖を集めて、その匂いを嗅ぐのを趣味としているとんでもない性癖の持ち主なのだ」
「ま、まことか、オヤジ殿!」
と、玄蕃允が飛び跳ねるようにして前のめりに体を寄せてきたが、牛太郎はただ黙る。
「まあな、あんまり言いふらすとオヤジに悪いから黙っていたんだがな。おい、玄蕃、あんまり公言するんじゃねえぞ」
「いやいや、オヤジ殿を小馬鹿にしてしまうと、例の奥方にどやされてしまうからな」
「ということは――」
善兵衛もにやにやと笑っていた。
「簗田殿は二俣城で奥方の小袖がなかったゆえ、今すぐにでも小袖にしがみつきたいのですな?」
「黙れ」
「いや、黙っていられましょうか」
甚左衛門が言う。
「簗田殿を野放しにさせておいて、岐阜中の小袖がなくなったらたまったものじゃありません」
甚左衛門が囃し立てると、若者たちはげらげらと笑い上げた。
「さすがは天下の簗田左衛門尉よ! やることなすことずば抜けておる! これは是が非でもオヤジ殿を岐阜に返さなくてはならんな!」
「左様。こんな愉快な男を死なせるわけにはいかん」
「おい、オヤジ。俺にも奥方の小袖の匂いを味わわせてくれよ」
「ふざけんなっ! クソガキども! 誰がお前らなんかに嗅がせてたまるかよ! 浜松で死んじまえっ! クソ野郎!」
牛太郎は笑い立てる若者たちから逃げ去るように居室を立ち去った。
牛太郎の二人の与力のうちの一人が堺にいる。
女である。しかし、甲賀の忍び上がりで、かつて諜報活動に従事していた彼女は、変装を得意としていた。
普段は男装し、吉田早之介を名乗っている。
忍び名はさゆりである。
着物嗅ぎの性癖を発見されて堺から逃げ去ってしまった牛太郎に代わって、摂津工作に日々を費やしている。
「姐さん、旦那様は浜松に向かったそうなんですが、大丈夫でしょうか」
彩が細い眉尻を垂れ下げながら言うと、つぼみのような唇を不安げにきゅっと押し込める。
彩も甲賀のくのいち上がりであった。甲賀衆から脱け出した兄とともに牛太郎に拾われ、しばらくは簗田家の女中、簗田家の奉公人中島四郎次郎が経営する団子屋の娘として働いていたが、簗田家の人手の少なさから、摂津工作のためにくのいちに舞い戻っていた。
「大丈夫じゃないやろうなあ。そんでも、あの人は今までどんな死地もくぐり抜けてきた。運があるんや。私が三度殺そうとしても死ななかった人や。なんとかなるやろ」
「でも、今までは姐さんや若君が傍にいたからで、今回は栗之介と九之坪勢わずか五十人を引き連れてのことなんですよ」
「彩。あんたや私が今やらなあかんことはなんや」
さゆりが突きつけた鋭い目に彩は顔を伏せると、「申し訳ございません」と、さゆりの前から立ち去っていった。
彩に言われなくても、さゆりは今すぐにでも浜松に飛んでいきたかった。牛太郎、一人では何もできないことなど、さゆりが一番よく知っている。
だが、堺から離れるわけにはいかなかった。自分が離れてしまったら、摂津工作を見る者がいなくなってしまう。
牛太郎の悪運を信じるしかない。
主人が九之坪勢を率いて浜松に向かったという一報を聞いてから一カ月後、浜松の栗之介から文が届いた。
達筆である。栗之介は読み書きができないから、誰かに代筆してもらったのであろうが、あの栗之介が文を寄越してくるなど、かつてない出来事であった。
さゆりは息を呑みながら文を開いた。
一言坂のいくさで主人は隊列からはぐれてしまい、帰ってこない。しかし、武田に包囲されている二俣城を脱してきた足軽兵によると、牛太郎は単身二俣城に乗り込んでいる。
「一体、何をやっているんや......」
さゆりは一人、呟いた。
なぜ、あの主人が自分を護衛する隊列を捨ててまで、包囲されている二俣城に行ったのかわからない。牛太郎の意図がさゆりにはまったく読めない。
「あかん」
その夜、さゆりは、彩と中島四郎次郎を前にして、初めてその顔を切迫させた。
「このままいくと、あの人は死ぬ。連れ戻さなあかん。私ら全員がいくさ場で滅びるんならわかるけれど、あの人だけを死なせて、私らが生き残っているわけにはいかんわ」
「でも、姐さん、どうやって」
「私が浜松に行く」
「で、でも、摂津はどうするの。さゆりちゃんがいなかったら摂津は誰が。それこそ、旦那様があとで怒るよ」
四郎次郎があわてふためきながら言ったが、さゆりは首を振った。
「摂津よりも、主人の命や。あの人が死んだらどうにもならん。それに、新七がおるやんか」
「でも、兄さんはまだ高槻城に」
「はよせいって伝えておくんやっ。和田惟増を殺させたんやから、明日か明後日にでも高槻城はどうにかなるやろ! 彩! 摂津はあんたがなんとかするんやっ! 四郎次郎も銭稼ぎばっかやないで、たまにはこっちも見いっ!」
さゆりは支度を始めた。いくさをする気はない。小袖の裾をたくし上げ、半纏を羽織り、陣笠と蓑を被ると、太刀と脇差は置いていき、懐に短刀を、巾着に矢筒を忍ばせて、一人、堺をあとにした。
甲賀流の中でも優秀なくのいちであったさゆりは、長年培った脚力と方向感覚で、山道を駆け上がり、けもの道の草木を薙ぎ倒しながら東進した。
あのとき、引き留めておけば。
さゆりの無念さが募っていく。牛太郎が逃げ出したとき、すぐに追いかけて引き戻していれば、主人が変な真似をすることはなかった。
身の程知らずが。どうして、浜松なんかに行ったんやっ。
さゆりは冷たく降りしきる夜雨の中を走り、わずかな時間を仮眠にあてて、また走った。やがて、山々を抜けると、雨上がりの夕日に彩られた伊勢の海が広がった。
「あと、少しや」
さゆりの頬は草葉の先端に切られて傷だらけであった。白い息がとめどなく吐かれていた。足は泥だらけになり、太ももまで泥が跳ねあがっていた。
死なせん。あの人だけは死なせん。あの身の程知らずが死ぬのなんて嫌や。
しかし、さすがにくたびれてしまって、山を下りたところで寝床を探していると、
「おい」
途中、二人の野盗に絡まれた。野盗はへらへらと笑いながら歩み寄ってきて、おそらく強姦を企んでいたが、さゆりは有無も言わせないままに野盗の首に腕を絡めると、そのままへし折って息の根を止めた。腰を抜かして逃げ出したもう一人には毒矢を吹き、殺害した。
「女はそこまで甘くないわ」
さゆりは野盗の死体の股間をそれぞれ蹴飛ばしてから立ち去ると、寝床を探した。
織田と一向一揆衆の戦火のあおりを受けた集落があって、焼け落ちた家や、人骨が散らばっている道を行くと、倒壊せずに済んでいる廃屋があった。
そこで一泊すると、翌朝、伊勢湾沿いをひた走り、清州、沓掛へと入った。
沓掛は牛太郎の所領である。城下の町人や旅人にそれとなく訊き回ると、二俣城が武田に降伏したことを初めて知った。
ただ、牛太郎が無事だったかどうかは誰も知らない。むしろ、牛太郎が二俣城に詰めていたことすら知っていない。
そして、浜松から逃げてきたという行商人に遭遇した。
「一昨日、武田様が二俣城から出陣したという噂を聞いて、あわてて浜松から逃げてきたところだわ。もう、浜松は終わりだ。三河も、尾張も、武田様が攻め込んでくる」
「二俣城と浜松は近いんか!」
「天竜川を渡って、目と鼻の先だよ。今頃、浜松城は燃えてしまっているかもなあ。てか、あんた、泥だらけの傷だらけじゃんか。関西訛りだしよ、どこから来たんだ」
「鬱陶しい!」
さゆりは行商人を突き飛ばすと、我を忘れて駆け出した。
二俣城に時間を割いてしまった武田勢は、失った時を取り戻さんとばかりに、二俣城入城からわずか三日後、全軍を率いて西進を再開した。
この一報が浜松に届いたとき、武田勢を籠城戦で迎え撃つと軍議は一致していた。浜松城郭に各部隊が配置され、佐久間勢も籠城の構えを取っていたが、そこに九之坪勢が佐久間勢の退路を断つように陣取り、水野藤四郎が詰め寄ってきたが、牛太郎は聞く耳を持たず、代わりに玄蕃允が藤四郎を突き飛ばして、九之坪勢の陣から追い出した。
「逃げるなら堂々と逃げるがよかろう! 三河殿に逃げたいと申して逃げればよかろう!」
玄蕃允が見境なく騒ぎ立てるので、藤四郎は立ち去った。それからしばらくして、佐久間右衛門尉自らがやって来たが、やはり玄蕃允が牛太郎の居場所まで通さなかった。
いや、殴り飛ばした。
尻もちをつきながら、佐久間は喚き立てる。
「げ、玄蕃っ! 貴様っ! 誰に何をしたかわかっておるのかっ! 追放だっ! 貴様など一族から追放だ!」
すると、背後から玄蕃允の肩をのけて、槍を担いだ男が現れた。勝蔵だった。酔っ払っていた。恐怖をまぎらわすために、失敬してしまっていたのである。
佐久間の傍らに従っていた者たちが九之坪勢の乱心に太刀を抜いたが、
「よ、よせっ。こ、こやつは森三左の子、勝蔵だぞ!」
佐久間の声に従者たちは戸惑った。森勝蔵が上総介の寵愛を受けていることは周知の事実である。
だが、酩酊している勝蔵は槍を振り回し、従者たちを容赦なく突き殺していくという狼藉を働いてしまい、最後に、佐久間の喉元に槍先を突きつけて、唸った。
「去ね」
佐久間は尻もちをついたまま、後ずさりした。
「な、なにゆえ、お、お主がいるんじゃ」
「初陣だ!」
勝蔵は高笑いしながら去っていき、玄蕃允も佐久間に唾を吐くと、勝蔵とともに去っていった。
「お前らは本当に......」
牛太郎は溜め息をついた。
「オヤジ! これはいくさ前の余興よ!」
「大叔父のあの顔ときたらなかったわ。胸がすうっとしたわ」
勝蔵と玄蕃允は互いに笑い合い、すっかり仲が良くなってしまっている。
もう、止められないだろうな。牛太郎は無邪気な若者たちを眺めながら、半ば嘆き、半ば微笑ましく思った。
ところが、昼前、緊急の招集がかかった。
徳川、織田の将校が本丸御殿の広間に一同に会すと、酒井左衛門尉忠次から招集の理由が告げられた。
「物見の報告を察するに、武田勢の進路は浜松城を見過ごして、堀江城に向かっておる」
場はざわめいた。
「そんなはずがない! 浜松を見過ごすなど有り得ん! 酒井殿、それは誤報ではないのか!」
「いや、念のために何人もの物見を走らせたが、やはり、武田勢は堀江城に進路を取っている」
すると、三河守が腰を上げ、しんと静まり返った諸将を見渡していった。
「徳川は、打って出る」
「何を言っておるのじゃ、三河!」
水野藤四郎が甥の三河守に激昂した。
「これは徳栄軒の策じゃっ! 城内からおびき出そうとし、二俣城の二の舞を避けて、野戦にてお主を討ち取ろうとする徳栄軒の策じゃぞ!」
「左様! ここで我らが打って出ても兵力の差は歴然としておりますぞ!」
と、佐久間右衛門尉が言ったが、三河守は穏やかなこの男には不釣り合いなほどの厳しい目を佐久間に注いだ。
「浜松から逃げおおせようとしている者たちの言葉に貸す耳はござらん」
張り詰めたものが走った。
「手助けは無用。これは徳川と武田のいくさゆえ、上総介殿にはそうお伝えくだされ」
「あっしは行きますよ」
と、牛太郎は三河守を望んだ。
「あっしは織田も徳川も関係なく、家康殿の友人として参らせてもらいますよ」
「何を生意気な口を聞いておるか、牛太郎!」
すると、三河守は佐久間の声を遮るようにして牛太郎に歩み寄ると、膝を曲げ、牛太郎の手を取り、目を潤ませながら言った。
「ありがとう、簗田殿。この恩は、生涯、いや、あの世に行っても忘れませんぞ」
「だったら、家康殿、いずれ、あっしの孫娘と家康殿のお子さんを結婚させてくださいよ」
三河守は笑い上げた。徳川方の諸将も牛太郎の肝の据わりように思わず笑った。
「左様! そうしましょうぞ! むしろ、わしから願いたいくらですぞ! のう、皆の者!」
諸将はうなずいた。その顔はどれも柔らかかった。悲愴と緊迫が嘘だったかのように、場は晴れやかだった。
徳川方は籠城から一転、野戦にて雌雄を決することとなった。
武田勢が進路を取る堀江城までの街道は、途中、祝田の坂という木々に囲まれた細く薄暗い坂道があり、徳川方はそこを下りていく武田勢を背後から襲い、混乱せしめ、あわよくば徳栄軒の首を討ち取ろうという算段だった。
だが、浜松城を出立した一万の軍勢の中にあって、牛太郎は必ず返り討ちに合うと予測していた。
武田信玄は誰よりも上を行っている。絶対におびき出すための罠だ。
しかし、今、もう一度、牛太郎は狙いを定めていた。籠城戦では、徳栄軒の首は討ち取れない。しかし、野戦であれば、好機はある。
「オヤジ殿!」
馬上に揺れながら、玄蕃允が笑っていた。
「軍議でかぶいたそうだな! 善兵衛殿から聞いたぞ!」
「かぶいたんじゃねえ。遺言を残しただけだ」
「なんだって!」
「なんでもねえよ! べらべら喋ってんじゃねえ! 舌を噛み切るぞ!」
「旦那あ」
栗之介には聞こえていたらしい。口輪を取って走りながらも、馬上の牛太郎に振り返ってきて、泣き出しそうな顔だった。
「鉢巻き。お前はちゃんと岐阜に帰って、あずにゃんや皆に伝えておいてくれよ」
すると、牛太郎の鼻先に横から槍が飛んできて、牛太郎が思わずのけ反ると、勝蔵だった。
「オヤジ、死なせねえよ」
勝蔵は器用に槍を振り回して脇下に戻した。
なかぞらに燦然と輝く太陽の日差しを、兵卒たちの兜が跳ね返し、それらは舞い上がる土煙の中でぎらぎらと跳ね上がっていた。
どこに行くのか。おれはどこに行くのか。
砕け散る光のまばゆさに瞼を細める。光と土煙が混ざり合った見通しの悪い白濁の世界の向こうは、もっと、もっと遠くまで道が続いているようだった。
兵卒の進軍が、延々と続くような錯覚がした。
まるで、死に向かっているようだ。
「伝令っ! 武田勢、三方ヶ原にて着陣っ!」
進軍に逆流してきた騎兵が、そう叫び続けながら九之坪勢の脇から去っていった。
やはり、徳栄軒は堀江城など目指していなかった。徳川方が浜松から出るやいなや、三方ヶ原台地にて陣形を整えたのだった。
武田徳栄軒はいくさ場の王者であった。
三方ヶ原台地に布陣された武田勢に寸分の隙もなかった。どころか、ここで徳川三河守を根絶し、三河勢の再起を阻むという意欲が陣形に表われていた。
山県赤備えを前方に配し、武田軍の副将格の内藤修理亮隊と武田一門の穴山梅雪隊で赤備えの両脇を固め、この先鋒部隊が三河守本隊に一挙に突入する。
さらに、やや西に離れたところに、不死身の馬場美濃と武田随一の勇将小山田左兵衛尉、土屋右兵衛尉が、若干斜に向いて配置していた。
塊であった。三河守を防御する備えを突破し、破壊し、三河守を討ち取ることだけを狙った陣構えであった。
これを見た三河守は武田の王者に対し、無謀にも、翼を広げた。三河守本隊、その両脇に佐久間右衛門尉と水野藤四郎、この三隊の前に、本多平八郎、酒井左衛門尉を中心とした翼が東西に広がり、武田勢の塊を包みこみ、四方から圧迫しようと夢見た。
水野藤四郎はこの陣形に反対した。しかし、三河守は聞かなかった。前方の平八郎と酒井左衛門尉、そして自分自身が塊の突撃を食い止めれば勝機はあると譲らなかった。
牛太郎率いる九之坪勢は本隊の傍らにいた。三河守の懇願で、九之坪勢は本隊とともにあったが、牛太郎は悩んでいた。
たとえ栗綱でも、武田本陣まで届かないのは火を見るより明らかだ。
会戦は姉川しか経験していない。いや、三河守も同様である。小競り合いの野戦は何度も経験しているが、大軍と大軍が雌雄を決する一大会戦は、この時代のこの国ではほとんどなかった。
これは小競り合いではない。栗綱が天を駆け抜ける名馬であろうと、一騎で本陣を強襲しようなど夢物語だ。
雌雄を決するのである。ここで両家の浮沈を決定づけるのである。
いや、武田勢が三河勢を叩き潰すいくさだ。
上杉不識庵との会戦を何度も行ってきた徳栄軒は、三河守のすべてを凌駕していた。
二万五千の大軍勢から太鼓の音が一斉に鳴り響き、それは大地を、空をも震わせんばかりだった。
喚声と唸り声が怒涛のように押し迫ってきた。
徳川方も一斉に駆け出した。
玄蕃允が槍先を陽光にきらめかせた。
「尾張九之坪勢、遠江の地にて大輪の花を咲かせてみせるぞ!」
死ぬ気だ。
「我に付いて参れえっ!」
勝蔵を乗せている馬が前脚を掻きあげ、太ももの鶴丸紋が羽ばたいた。
牛太郎は瞳孔を開きっぱなしだった。瞼をいっぱいに押し広げ、目玉が飛び出んほどに血走らせていた。唇を噛みしめ続け、鼻息を荒くし、やがて、ぞわぞわと震えが足の先から頭の頂点へと立ち昇っていった。
口を大きくして吠えた。迷いを、不安を、恐怖を、すべてを打ち消すために吠えた。目玉はあらぬ先を見据え続け、眉間には皺を刻みこみ、背中の火縄銃を抜き取った。股に挟み込むと、脂汗を滴らせながら火打ち石で火縄に点火した。
栗綱の脇腹を蹴飛ばす。
栗綱の目尻が切れ上がった。瞼が押し広げられ、血走った。前脚を掻きあげて、天に向かっていななくと、振り上げた蹄で大地を踏みしめ、首をぐっと前に沈みこませると、栗色の馬体は躍動した。
栗之介をあっという間に置き去りにしていく。
「オヤジ殿っ!」
「オヤジっ!」
九之坪勢を一気に追い抜いていく。
そして、本多平八郎隊に追いついたとき、すでに徳川方の白い旗指し物は次々に薙ぎ倒されていっていた。
「クリツナあっ!」
牛太郎は左手で握る手綱越しに栗綱の首を押した。栗綱は本多隊目掛けて全速力で突っ込んでいくと、すんでのところで跳躍した。
無数に伸びた白の旗指し物が栗綱を避けていくかのようでいて、深い竹藪の中を切り裂いていくようでいて、眼下の甲冑の兵卒たちが景色のようでいて、栗綱と自分以外のすべての時間が止まったかのような、優雅なひとときであった。
ふと思う。まるで、英雄みたいだ。
着地と同時に、栗綱の前脚が朱色の兵卒たちを踏み砕いた。牛太郎はさらに栗綱を押した。四方を朱の色に固められながらも、栗綱はさらに駆け出した。弾き飛ばした。飛んできた槍を交わした。武田の騎馬は栗綱の迫力に気狂いして、目を剥きだしながら伸ばした首を左右に大きく振り、馬上の制止も無視して栗綱の突破から逃げた。
牛太郎は左手を手綱から離し、内股で鞍をきつく締め上げ、鐙に縛り付けた両足を踏み締めると、火縄銃を構えた。
「山県あっつ! 覚悟しろおっ!」
一際目立つ朱の兜が見え、驚愕する山県三郎兵衛尉の目に己の目が交錯したとき、牛太郎は引き金を引いた。
「殿おっ!」
轟音が響いた。
悲鳴が上がった。討ち取った――。
しかし、牛太郎は後ろにのけ反ってしまっていた。それでも、鞍を締め上げていたぶんだけ、腰は伸びなかった。すぐに態勢を戻せた。
「簗田あっ!」
銃声で騎馬が混乱する中、山県が栗綱の突撃を交わしつつ、すれ違いざまに槍を振り抜いてきた。槍の刃は牛太郎の鼻先まで伸びてきていた。このとき、牛太郎は自分でも信じられないほど、槍の軌道が見えていた。
牛太郎はすんでのところで首を傾けて、槍を交わした。宙に残っていた切っ先が頬をかすめ、左耳を横に裂いていったが、痛みはまったく麻痺していた。
栗綱は山県隊を抜けた。山県隊の後方には徳栄軒の子、諏訪四郎勝頼の部隊が控えていたが、距離はあった。
牛太郎は山県隊を振り返った。討ち取った感触はあったのに、山県は槍を振るってきた。誰かが盾になったのか――。
このとき、牛太郎は興奮してしまっていた。当初の目的を忘れ、山県三郎兵衛尉を討ち取ることだけしか頭になかった。
手綱を引き絞ると、栗綱を止めさせ、火打ち石を取り出した。
火縄に点火する。
が、弾を持ってきていないことに今さら気付いた。
「クソッ!」
牛太郎は火打ち石を叩き捨てると、火縄銃を背中の綱に挟みこみ、柴田権六譲りの太刀を抜きながら栗綱を旋回させた。奮い立って首を左右に振り続けている栗綱の脇腹を再度叩く。
三郎兵衛が部隊の指揮を放棄して、馬上で待ち構えている。
弾き飛ばしざまに振り抜こうと、牛太郎は太刀を振りかぶった。
しかし、十人ばかりの鉄砲隊が三郎兵衛を守るようにして一斉に整列し、牛太郎と栗綱に銃口を向けてくる。
「邪魔するな! どけえっ!」
三郎兵衛が叫んだが、銃弾は放たれた。
栗綱が空を飛んでいたのを、中根平左衛門ははっきりと目にしていた。
「簗田殿はどこに行かれたのだ!」
本多平八郎の言葉は稚拙だったが、襲い来る赤備えの兵卒を必死で薙ぎ倒していきながらだった。
「なぜ、簗田殿が!」
青木新五郎が槍を振るいながら叫ぶ。
平左衛門は二俣城での恥を挽回しようと、自ら志願して正面の本多平八郎隊に加わっていた。
「簗田殿は死に行ったのです!」
松平善兵衛は戦場にあって、泣いていた。
「何を泣いておるんだ! 善兵衛! しっかりしろおっ!」
平八郎に檄を飛ばされて、善兵衛は雄叫びを上げた。
「拙者とて死を覚悟している」
平左衛門は呟いた。そうして、槍を振り上げた。
「二俣城の借りを返すんじゃあっ! 怯むなあっ! 押せえっ!」
すると、汗と鮮血にまみれて凌いでいるうち、なぜか、赤備えの圧力が衰え始めた。
「好機!」
と、疾風のごとく突っ込んできたのは九之坪勢であった。朱の兵卒たちを弾き飛ばすように薙いでいき、たった五十の部隊が聞こえに名高い赤備えを、そして、騎馬さえも駆逐していく。
その中に鬼神のごとく次々と首を跳ね飛ばしていき、悪魔のように笑い上げている少年がいた。
勝蔵だった。
「どうしたあっ、赤備えよっ! お前らはこんなもんかあっ!」
が、本多隊と九之坪勢は内藤修理亮隊と穴山梅雪隊の突撃に見舞われた。一挙に数十人が絶命し、さらに突破を許した。
「止めろおっ! 止めろおっ!」
平八郎が叫び上げる。本多隊を突破されれば、三河守本隊である。
青木新五郎が踵を返し、濁流のごとき内藤隊に果敢に突入していく。松平善兵衛があとに続く。しかし、馬上の善兵衛は併走してきた何者かに襟首を掴まれて、鞍から振り落とされた。
「善兵衛! 生きろ! 生きていつか二俣城の借りを返してこいっ!」
平左衛門がかつての二俣城の守兵たちを連れて内藤隊へと飲み込まれていった。
「オヤジ殿はどこなんだあっ!」
玄蕃允が天に向かって吠えた。矢が一直線になって玄蕃允の額へと空を裂いてきた。玄蕃允は目を見開くと、矢を籠手で払い飛ばした。馬の手綱をしごく。槍を斜に構えると、朱の塊に突っ込んでいく。
「勝蔵! 先に行っているぞ!」
玄蕃允の言葉に、勝蔵は笑いを止めた。鮮血に塗りたくられた顔の中で、白目を剥き出して叫んだ。
「やめろおっ!」
そのとき、赤備えの後方で、羽ばたくように中空へと飛び出した栗色の馬体が見え隠れして、玄蕃允は手綱を引き絞った。
「オヤジ殿だ」
「引くぞっ! 引けいっ!」
平八郎が檄を飛ばし、勝蔵が叫ぶ。
「オヤジが後方で錯乱させてるじゃねえかっ!」
「言うことを聞けいっ、小僧っ! おやかた様が討ち取られたら、このいくさは終わりだぞっ!」
勝蔵は奥歯を噛み締め、きしませた。平八郎の言う通り、山県隊は食い止められていても、内藤隊と穴山隊の勢いが洪水のようにとめどない。このままでは本多隊は包み込まれて終わりだ。
「玄蕃!」
勝蔵の声に玄蕃允はしばらく動けないでいたが、
「引くぞっ!」
九之坪勢に号令し、山県隊に背を向けた。
本多隊と九之坪勢は山県隊が戸惑っているあいだに後進する。内藤隊と穴山隊から背中に矢と刃を向けられ、一人、また一人と朽ちていくが、武田勢の突破に前進してきた三河守本隊が距離を縮めてきていた。
本多隊はもう一度、前方に向き直り、改めて相対する。
両脇の穴山隊と内藤隊が、足踏みしている山県隊の前方を埋めるようにして駆け抜けてくる。
そこに、きらめく光のようにして栗綱が飛び出してきた。武田勢の勢いを削ぐようにして栗綱は兵卒たちを弾き飛ばし、馬上の牛太郎は太刀を振り抜いていた。
左肩が血で真っ赤に染め上がっている。
「オヤジ!」
牛太郎の一騎駆けのすさまじさに勝蔵は震えた。
「織田の人間は、わしは、オヤジ殿の何を見てきたんだ」
玄蕃允も我を忘れて呆然としてしまっている。
「簗田殿に続けえっ!」
平八郎が槍を振り落とした。本多隊と九之坪勢は武田勢に突入していく。
栗綱が後ろ脚で兵卒の顔を破壊し、前脚で押し潰し、武田勢の兵卒たちは槍を弓矢を栗綱に向けるが、栗綱はまるで一寸先を読んでいるかのように集中攻撃をひらひらと交わしていき、交わしながらも跳ね上がって暴れ回る手のつけようのなさであった。
「なんなんだ、この馬はっ!」
兵卒が思わず叫んだ。その兵卒の鼻頭を牛太郎が振り回す太刀が切り裂いた。
牛太郎は何も考えていなかった。山県三郎兵衛尉の前面に現れた鉄砲隊が射撃してきたとき、人生の終わりを悟った。
だが、走馬灯を見る前に、栗綱が勝手に飛んだ。
そこからの光景は、もう視界に入れているだけで、記憶にもないし、判別もできない。ただただ右手で手綱を握り締めながら、目の前の何かに向けて太刀を振り回しているだけである。
そんな中、死と生とが交互に螺旋している曖昧な時間の中で、牛太郎の意識の奥底は触れてはいけないものに触れた気がしていた。
見てはいけないものを見たような気がした。
「オヤジいっ!」
勝蔵の声に呼び覚まされたように牛太郎は瞳を取り戻した。自分の太刀が空振りした兵卒の首が、突如、勝蔵の槍で胴体と切り離された。
「また、抜け駆けかあっ!」
勝蔵は大口を開けて笑っていた。しかし、矢が肩口に刺さった。勝蔵は顔を歪めながらも舌を打ち、矢を抜き取って放り捨てると、咆哮を上げながら槍を振り下ろした。
玄蕃允が汗を滴らせながら敵兵を槍先で突いていくが、ついに柄が折れてしまった。玄蕃允は太刀を抜いた。
「我は佐久間玄蕃允盛政なりいっ! 武田の者ども覚悟しろおっ!」
馬上に仁王立ちして名乗りを上げた玄蕃允に武田の兵卒たちが群がるように襲いかかる。
「愚か者があっ!」
と、玄蕃允の前に本多平八郎と三河勢がなだれこんだ。平八郎が一閃するも、武田勢の猛攻は留まるところを知らなかった。それでも、三河勢は槍で腕を貫かれてもなお太刀を振り下ろす兵卒もいれば、目玉を矢に射抜かれても雄叫びを上げながら武田勢に飛びつき、脇差で敵兵の首を掻き切る兵卒もいた。
その後に伸びてきた無数の槍で絶命してしまったが。
駄目だ。もう駄目だ。
牛太郎はもはや太刀を振るっていなかった。栗綱は汗を腹からしたたらせながら必死に馬上の牛太郎を守ろうと暴れていたが、牛太郎はあきらめてしまっていた。
気付けば左腕のところどころが赤い。
血だ。
よもやの混乱をきたしてしまった山県赤備えであったが、山県三郎兵衛尉は内藤隊と穴山隊が前方で突進している中、あわてふためることなく、部隊の隊列を直させた。
与力の者が身を呈して盾になっていなかったら、簗田左衛門尉に殺されかけており、決着をつけたい気持ちもあったが、山県は私情を捨て、赤備えを迂回させた。
前方の武田勢を回り込み、馬の姿をした化け物と相対してしまって足元がおぼつかなくなっている部隊に山県は檄を飛ばした。
「これが武田の天下への名乗りぞっ! 三河守の首を討ち取りし者は、未来永劫、子々孫々までその名を轟かせるぞっ!」
赤備えの目はぎらついた。
「我に続けえっ!」
山県は先陣を切って徳川本隊に馬を駆け出した。血の色の騎馬隊が大地を響かせた。
佐久間右衛門尉からはそれが見えた。
「佐久間様あっ!」
平手甚左衛門が佐久間に激昂した。佐久間隊はこのいくさでいまだ一歩も動いていない。そして、ここで動かなければ、徳川本隊は赤備えの餌食となってしまう。
「野戦になりえたとしても静観しろというのがおやかた様からの命だ」
「虚言を申すなっ!」
「誰に物を言っているのじゃ! わしは織田軍の大将ぞ! おやかた様の代理ぞ!」
「話にならんわっ!」
甚左衛門は瞼を籠手で拭うと、手綱を振るい、荒野に駆け出した。
塊となって突進してくる赤備えにあわてふためいていた三河守の前方に、黄色地に黒の永楽銭が記された旗指し物を背負う者が単騎、現れた。
「三河勢よっ! 我は尾張の名無しの権兵衛だっ! 尾張武者の散り花、しかと目に焼き付けておけっ!」
「な、何をやっているのだ、あやつは!」
三河守は狼狽した。馬上にある以上、名のある武将に違いない。
「止めろっ! あやつを止めんかっ!」
しかし、平手甚左衛門は山県隊へと駆け出した。織田永楽銭を背中にはためかせながら、冬枯れの荒野を疾走した。
「我は織田の平手甚左衛門なり! 山県三郎兵衛尉おっ! 尋常に勝負いたせえっ!」
先陣を切っていた山県は、単騎突っ込んでくる若武者の心意気にほだされそうになって、自らの手で斬り捨てようとしたが、構えかけた槍を斜に下ろすと、甚左衛門の脇を颯爽と通り過ぎていった。
山県のすぐ後ろを付いてきていた騎馬隊が多数でこれを仕留め、首を掻き取った。
「おやかた様! もはや退くしかありませぬ!」
旗奉行の成瀬藤蔵という者が三河守を促した。
「し、しかし」
三河守は単身切り込んでいった尾張武者の最後に呆然としてしまっていた。
成瀬は三河守が跨る葦毛の馬に鞭を振るった。口輪を取っていた馬廻の者が葦毛馬を力ずくで一転させる。三河守は手綱を引き絞り、
「何をやっておるかあっ! わしは最後まで戦うぞ!」
「鳴らせっ! 太鼓を鳴らせっ! 退却だっ!」
成瀬の声に退き太鼓が鳴らされ、さらに成瀬は鞭を二度、三度と振るって、葦毛馬を駆け出させた。
三河守を護衛するように徳川本隊は三河守に続いていく。
「我らはしんがりだっ!」
成瀬は三つ葉葵の下に厭離穢土欣求浄土の墨字が入った纏の大将旗を背後に押し立てさせ、粉塵を撒き散らしながら押し寄せてくる山県赤備えを迎え撃った。
成瀬隊の大半が騎馬隊に蹴散らされ、一瞬にして土となった。しかし、退き太鼓が討ち響く中、成瀬隊は纏の大将旗の周りを囲って防ぎ続ける。
成瀬は三つ葉葵がはためく下で声を発した。
「武田の者ども! 我が徳川三河守家康ぞ! この首、この旗、欲しければ思う存分向かって参れっ!」
赤備えの兵卒が一斉に群がってくるが、大将旗の周囲は頑強な断崖のごとく朱の波を押し返した。
「おのれえっ!」
「どうした、これが天下無双の赤備えか!」
そのうち、退いてきた前線の部隊も次から次へと大将旗を通り抜けていく。
「違う! それは三河ではないっ! 構うなっ!」
山県が気付き、太鼓を打ち鳴らさせるが、成瀬隊は一歩、前に進み出、目の前の武田勢を斬り伏せていき、兵卒の端々にまで一兵たりとも通させないという意志が表われていた。
そのとき、
「馬場美濃守信春! 三河殿の首、貰い受けた!」
徳川方の右翼を粉砕してきた馬場隊が突っ込んできた。
成瀬隊はあっというまに消し飛び、纏の大将旗はもぎ倒された。成瀬は槍を振るい、一人、斬り伏せた。しかし、十数本の矢が襲いかかり、最後は人形がそうなってしまったかのように串刺しにあった。
成瀬の最後の槍働きの甲斐あってか、三方ヶ原台地に布陣していた徳川全軍は蜘蛛の子を散らすようにばらばらに退却していた。
だが、成瀬隊と向かい合っていた山県三郎兵衛尉は三河守の退路を読んでいた。本陣の徳栄軒に騎兵を走らせて徳川本隊の退路を知らせたあと、自隊は先回りをするために方角を変えた。
徳栄軒は戦局がこのようになった場合のことを想定し、二俣城に入っていた三日間、決戦地の三方ヶ原、浜松周辺を入念に調べ上げていた。
徳栄軒の大目的は三河勢の殲滅ではない。屈強な三河勢の主人であり、精神的支柱である徳川三河守の首であった。
一度、戦場に引きずり出したら、三河守に二度と浜松城の門をくぐらせないよう、諸将に重ねて申しつけていた。
迂回した山県赤備えと同時に、馬場隊、穴山隊、内藤隊は徳川本隊の追撃に走った。ついで、諏訪三郎隊、徳栄軒の本隊も動き出す。
諜報と、篭絡と、策謀とに、王者らしからぬ細やかさで勤しんできた武田の虎であったが、このとき、ついに牙を剥いた。
三河守の側近に鳥居四郎左衛門という男がいる。
本多平八郎と同じぐらいの齢であるが、平八郎と違うのは、松平善兵衛の祖父のように、一度、三河守に刃向かった時期があったことである。
三方ヶ原台地での決戦前、武田勢の進軍の物見に走ったのは四郎左衛門であった。
武田勢が浜松城を通り過ぎる進路を取っていたことを、四郎左衛門は物見の役目通り浜松城に持ち帰ったが、その道中、これは徳栄軒の策ではないかと疑った。
武田の隊列が怪しかった。
赤備えの山県三郎兵衛尉、不死身の馬場美濃は、数々のいくさで先鋒を務めた猛将である。しかし、武田勢の隊列はこれらの将を隊列の先鋒に置かず、最後尾に置いていた。
二万五千の大軍を容易に陣替えするための隊列なのだ。
四郎左衛門は浜松に戻ると、まだ、諸将が招集される前、三河守に武田勢の進軍が浜松を通り過ぎる方向であると同時に、これは徳栄軒の策だと訴えた。
「後方に赤備えと馬場美濃を置いているゆえ、出てはなりませぬ」
しかし、三河守は妄想してしまった。
「四郎左、仮に徳栄軒の策であっても、武田の進路には祝田の坂があるではないか」
あの細長く薄暗い坂を下りているときであれば、浜松の地を知らない徳栄軒は、
「策士、策に溺れると言うではないか」
と、あなどってしまったのである。
「おやかた様! 敵はあの武田入道ですぞ! そのようなことなど百も承知で進んでいるのですぞ! こちらより一枚も二枚も上手であることを、なぜおわかりにならないのですか!」
言い方がまずかったのかもしれない。三河守はむっとしていた。
「なら、どうするのだ。籠城し、指をくわえて武田勢を見送るのか。徳栄軒が悠々と浜松の地を進んでいくのを、我ら三河武者は指をくわえて見ているというのか」
「左様! いくさは意地ではございませぬ! 勝利あってこそのものではありませぬか!」
「ならば、その勝利が籠城で得られると申すか!」
「今は耐えなければなりませぬ! 上総介殿の援軍を待つ他ありませぬ!」
「そんなもの来るか! 来たとしても、あの佐久間の日和見ジジイのように逃げおおせるのが関の山だ!」
「なりませぬ! 何がどうあれなりませぬ!」
すると、主従の争いを目にしていた成瀬藤蔵がおもむろに言い放った。
「臆病者が! 貴様はそれでも三河武者のはしくれか、四郎左!」
あのとき、四郎左衛門を臆病者呼ばわりした成瀬は、まるで己の意地を貫き通すかのように、しんがりを務め、朽ち果てた。
日が暮れ始めている。夜になれば勝利を引き寄せていたとしてもいくさには不利益である。徳川本隊の退却も必死であったが、三河守を討ち取ろうとする武田勢も必死である。
武田勢が死の物狂いで追いついてきた。
四郎左衛門は決心する直前、馬上からこの空を仰いだ。紅に染め抜かれた空は、まるで世界の終焉のように美しかった。
四郎左衛門は手綱を引くと、反転し、単騎、武田勢へと突っ込んだ。
「武田徳栄軒の首、頂戴したく候!」
四郎左衛門は押し寄せてくる波へ猛然と斬りかかるも、馬を駆けさせた。四郎左衛門の唯一の幸運は、穴山隊と内藤隊が隊列を揃えていなかったことだった。三河守の首欲しさに兵卒が我先にと駆けていたおかげで、兵と兵との間に、細い道があった。
四郎左衛門は槍を振るいながら、そこを駆け抜けた。
さらに、追撃戦を行っていたはずなのに、狂気をはらませて逆送してくる三河武者を目にして、諏訪三郎勝頼の部隊がひるんだ。
四郎左衛門は一瞬、期待した。徳栄軒と刺し違えることができるかもしれないと。
しかし、諏訪三郎隊を抜け切った四郎左衛門に、馬体をぶつけ、跳ね返してくる者があった。
もう一歩のところで立ちはだかったのは、
「三河武者の武勇、あっぱれ。この土屋右衛尉昌次がお相手つかまつろう」
その声は喧騒の中に冷たく響きながらも、真っすぐであった。
四郎左衛門が人馬ともによろめくところへ、土屋右衛尉は槍を振り抜いてくる。四郎左衛門は自らの槍の柄でそれを受け止める。
腕がしびれた。
土屋隊の兵卒がここぞとばかりに駆け寄ってきて狙いを定める。
「手出し無用っ!」
右衛尉昌次が兜の下の目玉を剥きながら一喝すると、手元に引いた槍を「ぬんっ」と、さらに突き出してくる。四郎左衛門は間一髪で交わしたが、兜のはいだてが割れた。
衝撃が脳内を襲う。が、四郎左衛門は噛みしめた奥歯を砕きながら、右衛尉昌次のがら空きの胴目掛けて槍を抜き払った。
もらった。
しかし、右衛尉昌次は柔軟に腰を引いて、槍先をすんでで交わした。
「やるではないか、三河武者」
右衛尉昌次は瞳孔を押し広げながら口端を緩めて笑った。圧倒的な強さが滲み出ていた。四郎左衛門はこの一騎打ちに負けるかもしれないと思った。武田の武将は槍さばきでさえ天下無双か、と。
だが、たとえ、勝ったとしても、兵卒たちの槍の餌食になって終わりなのである。
四郎左衛門は吠えた。槍先を無数に突き出し、息をもつかせぬ猛攻に出た。
右衛尉昌次の柄が無情にも四郎左衛門の槍を受け止めていく。
「どうした! こんなものか!」
そして、槍がとうとう折れた。四郎左衛門は柄を放り捨てると、太刀を抜いた。荒い吐息で右衛尉昌次を見つめ、最後の一太刀を狙った。
右衛尉昌次は槍を斜に下ろし、全身をがら空きにしたまま、馬上にて泰然と四郎左衛門を見つめてきていた。
「三河武者。名を申せ」
「鳥居四郎左衛門忠広!」
「鳥居四郎左衛門の生きざま、お見事であった!」
太刀を右衛尉昌次に振り下ろしていったとき、喉元に飛んできた槍先で四郎左衛門は二十八年の生涯を終えた。
牛太郎は耳が痛くて痛くて仕方なかった。どうしてこんな思いをしなくてはならないのか理解できなかった。
馬上にありながらうつ伏せになって、栗綱のたてがみに顔を埋めて泣いていた。
おれが、何か悪いことしたか?
おれは、何か悪いことしたか?
どうして、おれは戦わなくちゃいけないんだ?
『それを望んだのはお前だろ』
『望んだんじゃない! そうするしかなかったんだ!』
『望んだからこそ、そこにいたんだろうが。望まなければ、ここにいることもなかった。すべては望んだ結果だ』
『黙れ! だいたい、お前は誰なんだ! 偉そうな口叩く前に、お前がやれっ、ボケ!』
『フン。愚か者。お前はいつまで経っても牛太郎だな。牛太郎なら牛太郎らしくしていればいいのによ。愚か者』
『何がわかる。お前なんかに何がわかる。のうのうと生きているやつに何がわかるってんだ』
『歌えよ』
『なんだ?』
『歌えよ』
『何を言ってんだ! 死ねっ!』
『歌えよ! 兄弟! ここは生の歓喜の場だ! ここは極上の生だ! 目の前は歓喜で満ち溢れている! 生きる喜びはすべての生に平等に与えられているんだ! 見てみろ! みんなが声を合わせて生きている! 痛みも苦しみも平等に与えられた生だ! この世は生で成り立っている! お前が求めていたものが目の前にあるじゃないか! 歌え! 高らかに! 喜べ! 大いに!』
聞けよ、クリツナの鼓動を。
見ろよ、玄蕃允の息遣いを、勝蔵の震える唇を、ねじり鉢巻きの汗を。
嗅げよ、この風の香りを。
感じろ、生のうねりを。
『おい! 太郎! お前はどうしてそうやってパパを小馬鹿にするんだ! そうやってなあ、馬鹿にしてばっかいると、お前が欲しがっていた漫画日本の歴史・全二十巻を買ってやんないぞ』
『別にいいですよー。母上に買ってもらいましたから』
『な、なんだと! ちょっ、あ、あずにゃん! どういうことだ、一体!』
『どういうことも何も、別にいいではないか。そなたに新しいパソコン買うよりか、よっぽどマシじゃ』
『ぐぬぬ。お、おい! 太郎! ちょっと寄越せ!』
『やめてください! ばっちい手で触んないでくださいよ! デブ!』
『ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえ! 寄越せったら寄越せ!』
『何をやっているのじゃ!』
『うるせえうるせえ! おれは知りたいことがあるんだ! 武田信玄はいったいいつ死ぬんだ、クソッ!』
ふむふむ。なになに? 三方ヶ原の戦いで家康をこてんぱんにのしたけれど、そのあと死んだ。なるほどね。
それにしても、実によく調べているな。信玄なんてそっくりじゃんか。ま、キモブタ家康はイケメンすぎだけど。
むう。でも、キモブタの身代わりになって配下の奴らが死んでいくのか。成瀬藤蔵、鳥居四郎左衛門、鈴木久三郎、夏目二郎左衛門。
夏目のジイサンまで死んじゃうのか。
ん? なに、これ?
「兄弟! お前はお前の道を駆けろ!」
牛太郎はがばと顔を上げた。
そこは陽が暮れて、赤紫色に滲んだ空。やがては星空が漆黒の闇を彩る大きな空。
大地を踏み叩いていく馬の蹄。冷たい風にそよぐほうき草。地平線の向こうに広がる太陽の残り火。
玄蕃允の目が怯えている。勝蔵は唇を噛み締めて悔しさを滲ませている。前を行く本多平八郎の背中は小さかった。
栗之介が栗綱の口輪を取って、必死に走っている。
あとに付いてくるのは徳川旗をはためかす本多隊。
九之坪勢は、いない。
己の体の異変に発狂して我を失ってしまった牛太郎は、三方ヶ原台地からどうやって去ってきたのか覚えていない。
退き太鼓が鳴っていてもなお、敵方と戦い続ける狂人を乗せた凶馬を指笛で呼び戻したのは栗之介であった。
主人と愛馬を一度は見失ったが、栗之介は激闘の中を逃げまどいながらも、牛太郎と栗綱を追い続けた。
指笛に気付いた栗綱の口輪を取り、あらぬ世界に意識を飛ばしてしまっている主人に成り代わって、本多平八郎の背後に栗綱を導いたのだった。
「鉢巻き、お前、生きていたのか」
牛太郎はすっかり我を取り戻していた。
「そう簡単に俺は死なねえよ! 死ぬときは旦那と栗綱と一緒だ!」
「言うじゃんか、鉢巻き」
牛太郎は微笑んだ。
「お前、おれの一番家来にしてやるよ」
そうして、牛太郎は前を走る平八郎を呼んだ。どこに向かっているのか訊ねると、浜松城に退いているのだと、悔しげに、半ば怒り心頭であった。
「家康殿は無事なのか!」
「わからん! わからんが、ご無事であることを祈らなければなりますまい!」
そのとき、夕闇の果てにたいまつの明かりがちらちらと見え隠れして、平八郎は馬を止めた。
「三河殿かっ?」
玄蕃允が言ったが、違う。たいまつの火は、本多隊の向かう先、浜松城とは反対の方角へと動いていっている。
「三郎兵衛だ」
牛太郎が言った。平八郎が驚いた。
「そんな馬鹿な! 勝手知る我らよりも、甲府の武田勢がここを先回りしているはずが!」
牛太郎は栗綱の腹を叩くと、駆け抜けざまに本多隊のとある兵卒から槍を奪い取った。
「簗田殿おっ!」
栗綱は闇を駆け抜けた。牛太郎は手綱をしごいた。木々をかわし、野原を疾走し、夜空には一番星が瞬いていた。
俺は俺の道を行く。それが全力で生きるということだ。
三河守の進路に先回りすることができた三郎兵衛は、赤備え隊を猛烈に駆けさせていた。
このまま弾き飛ばす。
たいまつの火の下に浮かび上がる朱の鎧兜を視界にし、武田勢二万五千の野心を、その胸中一手に燃え滾らせていた。
三河守の首を取れば、鳥合の衆と化した三河勢を殲滅していくのは容易だ。上総介信長は浅井朝倉に釘付けにされていて、武田との総力戦には持ち込めない。
三河岡崎、尾張清州、そして美濃岐阜へと駆けのぼれば、遥かなる京の都は目と鼻の先だ。
甲斐の山の中から、ついに天下へと羽ばたくときが、目前にある。
薄闇の向こうに三河勢が見えた。
「叩き潰せえっ!」
三郎兵衛は前方へと槍を振り落とした。赤備えの騎馬隊が猛然と飛び出していった。
しかし、闇に閃光が走った。槍が朱の甲冑を破砕し、火花が散ると、飛び出していった騎馬が骨を軋ませて倒れていく。
「山県あっ!」
暗がりではっきりとは見えないが、その声は簗田左衛門尉だ。
そうして、鹿角脇立の本多平八郎と本多隊の残兵、鬼神のごときいくさぶりであった二人の若武者も左衛門尉に加わり、山県隊をもっとも苦しめた部隊の再度の出現に、赤備え は足踏みした。その間に、三河守の本隊が迂回していってしまう。
「化け物には構うな! 三河だけを目指せ! 構うなっ! 放っておけっ!」
山県隊の一部が化け物たちと応戦している隙に、大勢は三河守を追った。三郎兵衛も馬を返した。
「三河の首だ! 三河の首だけを狙えっ! 雑魚にも化け物にも構わず三河だけを狙えっ!」
このとき、三郎兵衛には一抹の不安がよぎった。もしも、ここで三河守を討ち取らなければ、武田は永遠にこのしつこい三河武者たちと戦わなければならないのではないか。このしつこさに武田は耐えられるだろうか。いや、負けてしまうんではないか。
「負けるなっ! 三河勢に負けるなっ! 我らは武田の赤備えぞっ!」
三郎兵衛は兵卒たちを必死に叱咤した。まるで、勝者ではなかった。
赤備えは三郎兵衛の意気に応えるように全力で走り抜け、騎馬が三河守本隊を急襲した。進行に乱れをきたした三河守本隊を赤備えの足軽たちが取り囲んだ。
ところが、三河守本隊から弓矢が立て続けに発射されてき、それが騎馬の体へとことごとく刺さった。馬の乱れに、隊は乱れた。
なんて、しつこいやつらなんだ。
「怯むなっ! 押せえっ! 馬を捨てろっ!」
が、三郎兵衛が跨る馬の尻にも後方から飛んできた矢が刺さり、悶えた馬が前脚をかきあげてしまって、制御不能となってしまう。
三郎兵衛は馬を叱咤しながら振り返る。
山県隊の一部を撃破して突破してきた本多隊と、三郎兵衛の馬廻を固める足軽兵がやり合う中で、一人、違う世界に立っているかのように時を止めて馬上からこちらに向けて弓を引き絞って来る若武者がいた。
「我の名は松平善兵衛っ! 山県三郎兵衛尉、覚悟っ!」