設楽原決戦
夜半、突然、簗田勢の陣屋に半鐘の鳴る音が聞こえてきて、燭台の火が揺れる中で仮眠のうちに瞼を閉じていた与力たちは、ふと顔を上げた。
「何事だ」
太郎が一早く腰を上げたちょうどそのとき、雨降りしきる戸外から治郎介が陣屋に飛び込んできて、叫んだ。
「陣替えです! おやかた様本隊が山を降りています!」
続けて、利兵衛も押し入ってきた。
「本陣から伝令です! 本隊は極楽寺山から前線に移るとのことです!」
「治郎、馬を引けっ! 新七! 玄蕃殿! すぐさま隊を整えるのだ!」
新七郎と玄蕃允はそれぞれ兜を被り、顎紐を締め上げると、治郎助と利兵衛から松明を受け取ると、闇深い戸外へと出ていった。
「利兵衛は栗之介とともに栗綱を連れてくるのだ。急ぎ、支度せよっ!」
「はっ」
利兵衛は駆け出していく。
「父上っ!」
牛太郎は何やら寝言を立てながら寝返りを打ち、太郎に背中を向ける。睡眠の間だけはしっかりと緊張から解放している牛太郎を、太郎は何度も揺すった。
「父上っ! 起きなされっ! 陣替えですぞっ!」
「ん?」
「奇襲です!」
「なんだってっ!」
牛太郎は跳ね起きた。両手を持ち上げながら、辺りをきょろきょろと見回し、足元にあった太刀をあわてて拾うと、腰に差し、つたない指先で紐を締めていく。
「き、き、奇襲って、な、な、なんなんだよ。ど、どこが攻められてんだよ」
「藤吉郎殿の隊が」
「お、おいっ! 本気で言ってんのかっ!」
太郎はうなずいた。そんな太郎を、蒼白した顔でおもむろに突き飛ばし、戸外へ勢い良く駆け出していくと、兵卒たちが掲げている松明の火を頼りにして辺りを見渡し、浮かび上がる雨の中に栗綱の姿を求める。折しも、栗之介に導かれて、蓑を纏った栗綱が小走りに駆け寄ってきた。牛太郎は鞍に飛びつくと、あぶみに足を掛け、右足を振り上げて跨った。
「利兵衛はどこだっ!」
「ここにおりますが」
松明の火のもとに丸い顔を表しており、頬を伝う雨しずくを琥珀色に光らせていた。
「格さん助さんはっ!」
「ここで」
牛太郎の右隣にいた。陣笠を捲り上げてきて顔を覗かせてきたが、火を持っていないので、わからなかった。弥次右衛門も七左衛門の後ろで闇に溶けこむようにしている。
「はいじゃねえだろうが! で、助さんはどこにいんだ!」
治郎助は、跳ね飛んで暴れ回る黒連雀をようやっと引いてきたところであった。太郎がすかさず跨り、
「治郎、陣屋の火を落としてから、付いて参れ」
首を振り乱してしずくを散らす黒連雀を手綱でなだめつつ、初めて言った。
「さあ、父上、陣替えです」
鞭をしならせて空を斬ると、黒連雀はいななきを上げてから駆け出していってしまい、大将の出立に気づいた兵卒たちも、泥水を跳ね飛ばしながらあわててこれを追っていく。
「陣替え、だと?」
牛太郎は利兵衛を見下ろす。
「陣替えですよ。それがどうかしたのですか?」
「太郎は奇襲だって言っていたぞ」
「それは殿がなかなか起きてくれなかったからではないのですか? それにしたって、このようなときに、よく眠れますね、殿は」
牛太郎は手綱を取る手を震わせた。
「うるせえっ! 減らず口叩いてねえでさっさと進めっ!」
この夜、上総介本隊は極楽山から前線の中央、茶臼山へと本陣を移した。ここからは設楽ヶ原のほとんどを眺望することができ、戦況のつぶさを目に取ることが可能であった。
本隊には親衛馬廻衆の他に、柴田勢、簗田勢、さらに原田勢と赤母衣黒母衣に統率された鉄砲隊が配備されている。武田の攻撃的鶴翼陣形を破壊せしめるには、中央突破が必須であるが、織田軍はあくまでも防御側の姿勢を取っている。
鶴翼は、相手方よりもより兵数の少ない軍が敷く陣形であり、両翼に攻撃力に優れた部隊を置いて、前線を突破し、敵本陣の後方へと回りこんで、後詰の中央部隊とともに挟撃するのが勝利への方程式であった。そのため、武田の両翼は、数々の戦場で先鋒を務めた馬場美濃と山県三郎兵衛が担っている。戦闘の第一陣は両翼の攻撃から始まり、序盤、中央部隊の大半は動かない。
もし、織田軍が乱戦に打って出るなら、中央突破を狙い、それが鶴翼陣に対する定石なのだが、織田軍は武田兵とがっぷり四つに組んで、これを打ち破る自信がなかったのだ。
だから、茶臼山本隊は中央部隊の突撃を待つしかなく、しかるに両翼の攻撃を耐えられるか、耐えられないのかが、設楽ヶ原決戦の序盤の大きな転換点となる。
ここで辛抱強く持ちこたえ、武田大膳が焦りを生じさせて中央部隊を動かしたときに、初めて、上総介本隊の鉄砲隊が火を噴くのだった。
そして、上総介が茶臼山に陣替えしたのには、二つ、理由があった。一つは雨足が弱まってきていたこと、もう一つは、ここにいる戦場の誰をも裏切る奇策を仕掛けたことである。
この二つの理由、人智の能力ではどうしようもない天運が、織田軍が総力を挙げて紡ぎ出した設楽ヶ原決戦における道天地将法の五事(孫子の言う始計)の最後の一事になるであろうと踏んで、上総介は本陣を前線に移したのであった。
やがて、闇がうっすらと白んできたころ、雨は止んでいた。雲はちぎれちぎれに裂かれていき、その間には星の輝きが滲みゆく明空が見受けられた。
織田軍三万八千は驚愕した。あれだけ降り続いていた雨が、まさに決戦を直前にして、織田上総介の覇道への野心により打ち払われた。
まさに人智を超えた第六天魔王よ――。
ただ、当の上総介は、合理主義の性格からして、己の力が天を引きつけたなどという大それた感慨は覚えなかった。結局は雨が止んだ。そして、雨が止んだときに決戦を迎えることができた。
上総介はこの運を無邪気に喜び、そうして、たまたま狐の鳴き声が聞こえてきたので、木々のこずえを撫でながら吹いてくる雨上がりの風を浴びながら、歌を詠んだ。
きつねなく声もうれしくきこゆなり松風清き茶臼山がね
総大将の歓喜は、言葉はなくとも全軍の端々までが共有しており、
「このいくさ、勝てる」
と、空を仰いでいた太郎が、珍しく口走るほどであった。彼の呟きを聞いて、七左衛門と弥次右衛門は喜色を表情にしのばせて、顔を見合わせた。治郎助は茶臼山のふもとから、連吾川の向こう武田本陣をじっと見つめる。
「者ども、聞けいっ!」
玄番允が、隊列を組んでそのときを待つ兵卒たちに声を張り上げた。
「日の本中を騒がせる決死のこのいくさにて、天は我らに味方したぞ! 名高い武田騎馬とて、八幡大菩薩のご加護を得た我らに敵はない! 思う存分、槍を振るえ!」
うおっ、と、鬨の声が上がった。
「殿」
利兵衛が、武者震いなのか、ただの臆病風なのか、槍を手にする腕を震わせながら、牛太郎を見上げてくる。
「ついに。ついに」
どうやら感激しているらしい。牛太郎は思わず頬を緩めた。対武田作戦を任じられてから今まで、利兵衛は牛太郎の道程のほとんどに付き添ってきた。一人の女中をめぐった醜い因縁も、この瞬間だけは夜明けの風がさらっていった。
「そうだな。ついに来たな。でも、まあ、あわてるな。おれらが相手にするのは武田本隊だ」
出来れば、山県を迎え撃ちたかったが。勝敗を付けたかったが。
流れる雲が、地平線の向こうの朝日を受けて、袖裾を紫色に溶かしている。深い青に突き抜けた東の空が朱色に燃え立つ。黒緑のうちに息をひそめている設楽ヶ原が、ほのかに明るんでいく様子を眺めながら、牛太郎は宿敵を思った。
甲府志摩の湯で、素っ裸のままに罵り合ったころから、何年を経たであろうか。面を合わせたときから常に敵同士であったが、あのとき、こうして、向かい合うとはお互いに想像にしなかったであろう。
武田、織田、互いの野望をそれぞれ背負って、雌雄を決するとは。
牛太郎は牛太郎のやり方ですべてを揃え、この決戦を迎えた。あとは、山県。倒せるものなら倒してみろ。赤備えの強さ、見せてみろ。次はお前が、甲州武者の意地を見せる番だ。
開戦のときを知らせるかのように、金色の朝日が姿を現した。
静寂を打ち破ったのは、伊那街道に陣取る大久保新十郎隊の銃声であった。典型的な三河武者の新十郎及び治右衛門の兄弟は、この東三河の地で行われる決戦を徳川三河勢の戦いと位置づけており、防衛に徹するとはいえ仮に織田勢に先陣を許してしまったら、織田の飼い犬として、後々までの笑われ者になるであろうとし、三河武者の誇りがそれを許さなかった。
ゆえに、柵の中で堅守に徹するという作戦を無視し、大久保勢は柵の前に足軽及び銃兵を張り出させ、連吾川の向こうで頃合いを見計らっていた武田軍に挑発の銃弾を撃ちかけた。
武田軍は受けて立った。押し太鼓が打ち鳴らされ、猛然と駆け出した。
戦端を切り開いたのは、武田軍の左翼、山県三郎兵衛赤備えである。
清らかな青い風を貫き通す幾筋もの暁光を受けて、朱の鎧兜は噴き上がった血潮のように躍動を始めた。跳ね上がる泥と鳴らされる太鼓の音が馬蹄の響きに入り混じり、兵卒たちの咆哮が空気を震わせる。
山県赤備え、二千。雨上がりの設楽ヶ原が揺れた。
迎え撃つ大久保勢。新十郎の激により、柵の格子に銃口を並べ立て、鉄砲隊三百が一斉に銃身に頬をにじり寄せた。
しかし、真一文字に押し寄せてくると見えた赤備えは、連吾川を越えてこず、唐突に斜に馬首を向けた。
赤備えは川の下流をひた走り、馬防柵の迂回を狙った。
新十郎は一瞬にしてこれを悟ったが、すでに銃口は火を噴いた。間断なく轟いた三百発の銃声は、進路を交わした赤備えのほとんどを仕留められず、硝煙だけをたなびかせる。
「治右衛門っ!」
新十郎は太い眉を突き上げ、目玉をむき出しながら柵の中から大喝した。と、同時に柵の外に張り出していた治右衛門は、槍先を前方へ振り倒した。
「者ども、行けえっ! 赤備えの突破を許すなあっ!」
治右衛門の大音とともに押し太鼓が鳴らされ、ヒグマのような雄叫びを揃え上げた三河勢は、槍を向かうところに突き下ろし、血走りの眼光を赤波に睨み据え、鬼子の形相で駆け出した。
「一番槍を上げろっ!」
治右衛門は雄々しい髭をなびかせながら、三河勢一体の中心として馬上に揺れながら槍を斜に構えた。
街道から逸れた赤備えの最先鋒は、緩んだ土壌に騎馬の四肢が絡め取られ、その速度は削がれていた。ここを治右衛門隊の弓矢が襲った。次いで、銃弾が撃ちかけられた。治右衛門自身も泥沼に馬を入れていき、騎馬足軽にぶつかっていった。
一番槍は誰よりも早く駆け抜けていた三河の若い兵と思われたとき、彼の槍先が突き出される間もなく、騎馬から伸びてきた刃が彼を跳ね飛ばした。それにあとを追って、一騎、二騎、三騎と、疾走の勢い任せて三河勢の最前を蹴散らしていき、打ち鳴らされる太鼓は地獄の門扉を叩き開けるような宿業の響き、喉の奥まで見え隠れするほど吠え上げている騎馬兵卒の形相に、三方ヶ原のときのような生易しさは皆無であった。
「怯むなあっ!」
三河勢は奥歯に力を込めた。獣を乗り回す地獄の使者たちに視線を据え、その顔をよく見た。弓矢がたちどころに放たれた。槍が突き抜かれた。
「蟹江七本槍大久保治右衛門にて候! 赤備えの者どもよ! いざ、尋常に勝負!」
治右衛門の槍が長髭の流れとともに振り抜かれ、赤覆面の騎馬兵卒はこれを己の槍で受け止め、払い退け、咆哮した。
「大久保治右衛門、何する者ぞっ!」
罵倒とともに仰け反らされた治右衛門であったが、歴戦のこの猛者はすぐさま鞍に腰を落とし、払われざまの刹那に槍を持ち替えて、突き出した刃先で
「うおらあっ!」
騎馬兵卒が、唯一、武具を纏っていない二の腕を貫いた。騎馬兵卒は悲鳴こそ上げない卓越された武者であったが、覆面から覗く瞳孔を広げ、噛み締めた歯を剥き出しにし、苦痛を表していた。
兵卒は右腕を捨てて、左だけに槍を握った。その槍は治右衛門に振り落とされてきたが、これを篭手で弾き飛ばした治右衛門、己の左手で槍を引き抜き、柄を両手で握り締めると、血しぶきとともに体勢を崩している兵卒の頭目掛けて槍を振り抜き、猛烈な腕力がなすままに彼の頭を打ち抜いて、白目を剥いた兵卒は力なく馬から落ちた。
三河足軽がこれを仕留めている間にも、続けざまに首級に襲いかかってきた騎馬兵卒の顔面に槍を貫き通し、吠えた。
「どうした赤備えっ! こんなもんかあっ!」
「ぬかせえっ!」
と、目玉を剥き出しながら、馬上に揺れる新たな騎馬兵卒が、三河足軽を蹴散らし泥を跳ね飛ばしながら猛然と治右衛門に突っ込んでき、手綱を離して頭上に高々と持ち上げた槍を、治右衛門に振り落としてきた。治右衛門は槍で抑え受けたが、赤鉄面の雄々しい騎馬が治右衛門の馬を突き飛ばし、治右衛門の巨体が馬体とともに揺れた。
そこを目掛けて、乱戦をぬって出てきた武田足軽が、
「その首もらったあっ!」
治右衛門の頭へと槍を突き上げてくる。治右衛門は咄嗟に交わしたが、兜のはいだてを打ち抜かれて、鼓膜がやられた。瞬間、朦朧とした。治右衛門を狙った武田足軽は、治右衛門を守る三河兵の太刀に槍とを押し引き合わせるが、騎馬兵卒がその間隙を突いてニの槍を振り下ろしてくる。しかし、背後から援護射撃を繰り返していた三河兵の矢が、この武者の鼻先をかすめ、武者が躊躇したところ間髪入れずに、さらに矢が放たれて、甲冑の壷袖に刺さった。彼がこざかしそうな表情で弓兵たちに目を向けたところで、治右衛門の槍が頭部に振り抜かれてき、騎馬武者はすんでのところで槍を立てて防ぐ。
そのとき、柵の向こうから退き太鼓が鳴らされた。奥歯を噛み砕いてしまって、口端から血を垂らしていた治右衛門は屈強な騎馬兵卒と打ち合いながらも、
「引けいっ! 引くのだっ!」
号令し、しつこい騎馬兵卒を力任せに弾き飛ばすと、即座に手綱を引いて反転し、歯の残骸を血唾で吹き飛ばしながら、手綱を押した。
「なりふり構わうなっ!」
背を向けて逃げ出した三河勢に赤備えは牙を剥いた。馬を奮い立たせると、わらわらと退いていく三河兵の背中へ駆け抜けざまに槍を突き刺し、抜き払い、ぬかるみに足を取られて倒れこんだ者は踏み潰し、この勢いをなんとか防ごうとする勇猛な者とは鍔迫り合うも、三人四人と寄っていたかって組み伏せて喉笛を掻き切り、連吾川の淵に転がり落ちていく者、川面に飛沫を上げながら取っ組み合い、相手を突き飛ばして柵のほうへと乱戦から脱出していく者、押し太鼓の激しい鳴りと兵卒たちの怒号、悲鳴が渦巻き、連吾川沿いは一挙に阿鼻叫喚の修羅場と化した。
しかし、赤備えが勢い余って次々と連吾川を渡り始めたとき、三河勢の大半はすでに柵の中に収まっており、彼らの槍と引き換えに構えられたのが、馬防柵の格子に整然と並び揃えられた三百丁の冷たい鉄であった。
連吾川を駆け上がり、あるいは跳躍してきた赤備えは、銃口が居並ぶ異様な光景を前にしても、なお、興奮おさまらず馬防柵の突破を計って突っ込んできた。
連吾川の向こうから退き太鼓が鳴った。しかし、遅かった。朱兵それぞれが打ち寄せてくる波のように広がって、騎馬兵卒の振りかぶった槍の先が馬防柵の格子の中を突き抜かんとしたとき、武田足軽が馬防柵を乗り越えようと飛び掛からんとしたとき、
「撃てえぇいっ!」
冷鉄の銃口に火が明滅した。大轟音が発せられた。硝煙が靄となって広がった。瞬間、柵に寄せてきていた朱兵は岸壁に跳ね上げた白波のように吹き飛んだ。馬はもがき倒れた。轟音に驚いて制御不能となった。騎馬兵卒はたちどころに落馬していき、足軽兵卒は呻きを上げながらぬかるんだ足元に崩れていく。
「行くぞおぉっ!」
新十郎が荒れ狂う馬を御しながら怒号を放ち、大久保勢の押し太鼓が打たれた。柵門が次々に開かれていき、ここを新十郎に率いられた三河勢が駆け出していき、混乱している赤備えに襲いかかる。
連吾川の向こうから退き太鼓が必死に打ち鳴らされる。赤備えの兵卒たちは起こった出来事に目を回しながらも必死に引き返していき、言うことを聞かなくなった馬は捨てていき、これを新十郎は先頭を切って薙ぎ払っていく。
またしても連吾川の淵で死闘が繰り広げられ、しかし、形勢は逆転、三河勢が赤備えを川面へと叩き落とし、突き殺し、向こうへと駆け上がっていく。
ところがここに、甘利郷左衛門率いる武田鉄砲隊が待ち構えていた。数こそ大久保勢の比ではなかったが、赤備えの援護には十分であった。銃弾は三河勢に向けて散発的に撃ちかけられ、三河兵卒がこれにやや虚をつかれたところで、天に反り上がった金箔大天前立てが暁光を照射した。
「一網打尽にしろおっ!」
山県三郎兵衛が采配を振り下ろすと、踵を返した赤備えは、その瞳を燃えたぎらせながら再度突撃を始めた。
いくさをあきらめるような者であったら、天下無双の武田騎馬隊を率いることは永遠にないだろう。
無謀で、希望の見当たらない戦場であったとしても、いくさ場に足を踏み入れてしまったら、勝利を絶対的に目指さなければならないのが、軍人の務めである。
それが将たる者の、悲しさであり、生きがいであり、存在の意義なのだ。
徳川三河の首。
初陣を果たしてから二十年余。山県三郎兵衛尉昌景は勝利への門戸をこの一点に賭けた。戦力の源泉である三河勢の主人、三河守の首さえ討ち取れば、残るは弱小の織田兵のみ。敵方の布陣を考慮すれば、連合軍の足並みは一気に乱れる。
目指す勝利への方策はそれしかない。
「身が朽ちても走り続けよ」
開戦前、三郎兵衛は、赤備え二千に通達した。二つの意味があった。軍人である以上、生に執着するな。そして、大将である自分が討たれても、構わず走れ。
一方で、三郎兵衛は、死を覚悟しながらも、その興奮に乗じて玉砕など犯さないよう、常に冷静であろうとして、震える心をなんとか押さえつけ、戦況をつぶさに捉えようと努力した。
命を投げ捨てたら、それこそただの無駄死だ。
いくさは水もの。流れの中にはきっと光明がある。
だが、伊那街道を守備する大久保兄弟の捌きは巧みであった。連吾川沿いである程度競り合うと、頃合いを計って退いていく。この背後を襲おうとして深追いすると、屈強な騎馬隊が整然と並べられた火繩銃の餌食となってしまい、退いた部隊を相手にせずに下流への迂回の姿勢を取ると、柵の中からすぐさま、兄の新十郎か、弟の治右衛門が飛び出してきて、進路を遮ってくる。そうして、四ツに組もうとすると、肩透かしを食らわすように引いていってしまう。
まともに戦わせてくれない。まともに戦おうとすると、銃弾によって大損害を与えられてしまう。
それでも、三郎兵衛は競り合いながらも、遮られながらも、あらゆる死地をくぐり抜けてきた彼にしか見えない戦場の糸を手繰りながら、徐々に徐々に、わずかながらではあったが、部隊を南へ、下流へと招いていった。
馬防柵さえなければ、そこを突破すれば、遊撃を主とする騎馬隊により、防衛戦は撹乱できる。
が、戦線を尻目に、密かに下流へと迂回していたはずの与力率いる部隊が、三郎兵衛のもとに戻ってきてしまった。
「殿。渡れませぬ」
悲愴が彼の表情を覆っていた。
「なにゆえだ」
「連吾川が吉田川と連なる地点は、一度落ちたら最後、騎馬どころか足軽兵卒も這い上がれぬ断崖となっております」
武者押しの声と、鳴り響く太鼓の音が、吠え合う兵卒たちの頭上を虚しく渡っていた。
織田上総介はやはりぬかりない。
いや、昨年ごろから三河遠江を徘徊していた織田方の将。この詳細を探ろうとして修理亮が放った忍びが一人も戻ってこなかったという説。
これを築き上げたのは近頃新たな官位を得たという――。
「簗田の仕業か」
根拠は薄い。ただの直感であった。しかし、自信のある直感であった。
二俣城で武田の大軍を焦らさせたのは、間違いなくあの男だ。
――山県。いくさはまだまだこれからだからな。覚えておけ――。
あのとき、簗田が見せた不屈の眼差し。おそらく、湯村山の一件があの男をそうさせたのだろう。でなければ、わずかな手勢で三方ヶ原に馳せ参じるはずがない。
三郎兵衛は采配を固く握りしめた。
高見の見物とは出世したな、簗田牛太郎。
引きずり出してやる――。
「小幡隊、小山田隊に伝令を放て。我ら山県隊はこれより捨て身で敵陣に突っ込み、柵外に出撃してくる敵方を、競り合いつつ北方に誘導する。両隊はこの空いた間隙に突撃せよ」
「しかし、殿っ!」
与力は、猛々しい眼光の三郎兵衛に、悲痛な声を浴びせた。
「敵陣中央には近づいてしまえば、三河本隊、織田本隊に押しつぶされてしまいますぞっ! いくら先鋒とは言え、それでは玉砕ですっ!」
「これは武田のいくさだっ!」
与力は黙った。
馬防柵の向こうで退き太鼓が鳴った。赤備えと鍔迫り合っていた三河勢は一転して踵を返し、これまで何度となく繰り返してきたように柵のほうへと引いていく。
三郎兵衛は采配を振り上げた。
「突撃!」
大将の声とともに押し太鼓が激しく打ち鳴らされる。その音頭は、これまでの追撃の響きではなく、突撃の音であった。赤備えの兵卒たちは、指揮官の決意を感じ取ったのだろう、ある者は槍の柄を固く握りしめ、ある者は馬の尻に鞭を打ちつけ、ある者は不敵に笑った。
己らを奮い立たせる雄叫びが、朱染一致の巨濤となって噴き上がる。三郎兵衛は采配を腰に差すとともに、従者から真紅の槍を受け取り、馬の腹を蹴り込んだ。
「我に続けえいっ!」
とうとう大将自らが槍を手にしたとあって、赤備えの者どもは、あの、戦場の狂人と化した。
「雑魚に構うなっ! 柵だけを目掛けろっ!」
このとき、赤備えの強烈な突撃力を削いだのは連吾川であった。これがなければ、騎馬隊は三河勢に猶予を与えないまま突っ走り、一気に柵へと押し寄せられたであろう。
優秀な騎馬は川幅を跳躍したが、中には駄馬はいなくとも、平凡な馬はあるのだった。足軽に至っては、一度、土手を下りてから駆け上がらなければならなかった。習練を繰り返してきた突撃隊列は自然乱れ、光陰のごとく、一斉に突撃するのは不可能であった。
それでも、彼らは超越した。幾度も競り合ったすえの、この突撃にすべてを賭けた。一斉とまではいかなくても、一部の精強な者たちが三河鉄砲隊の銃口が火を噴く前に柵に押しかけた。
一騎、二騎、と、次から次に馬体を柵にぶつけ、構えている鉄砲衆を格子の間から槍で貫いた。あるいは、達者な者は鞍から柵の向こうへと跳ね飛んでいき、孤軍奮闘、太刀を振り回して大久保陣を掻き乱した。
「怯むなっ! 撃て! 撃てえっ!」
新十郎が、飛び込んできた兵卒を自らの手で始末しながら、取り乱している鉄砲隊に激を飛ばす。途切れ途切れながらも銃弾が連射される。決死隊の様相を呈していた突撃兵は、至近距離からの弾丸を受けて、続けざまに崩れていくが、彼らを盾にしていたかのように、朱色の影から朱色の第二波が襲い現れる。
徳川鉄砲隊に三段撃ちの技術はない。鉄砲隊の背後に備えられていた三河足軽たちがすぐさま柵越しに迫り寄り、一気に槍を突き立てた。しかし、百戦錬磨の赤備え、三百の銃弾はかわせなくても、槍を防ぐには難儀しなかった。
山県隊、大久保隊、双方、馬防柵越しの乱れ打ちとなった。
三河足軽が食い止めているこの間、鉄砲隊は汗をしたたらせながら、弾を込めていく。
柵をよじ登ってきた武田足軽が、鉄砲隊の背中に太刀を浴びせかける。侵入者に気づいた三河足軽が一斉にして彼を串刺しにする。馬体の波状突撃により、馬防柵に軋みが上がる。
山県隊の決死の攻撃に、大久保治右衛門は決断した。
「打って出ろおっ!」
治右衛門の声が轟いて、柵門が開かれ、押し太鼓が鳴らされた。弟は、馬防柵の守備を兄に任せ、自分たちが山県隊と競り合う間に鉄砲隊に時間を与えようとした。
だが、三郎兵衛はこのときを待っていたのだった。腰に差していた采配を再び手にすると、めまぐるしい乱戦の渦をかきわけるようにして指揮を振るい、赤備えの一方を馬防柵に張り付いている新十郎の部隊に向けつつ、治右衛門の部隊に騎馬隊列を矢継ぎ早に投入していった。
競り合いつつ、左翼から中央へと転戦していくのは、与力の言うとおり、玉砕であった。織田徳川連合はまったくの防衛を決め込んでおり、大久保隊の他は、伊那街道での攻防などまるで素知らぬ顔で、馬防柵の中にいまだに引っ込んでいる。そこには榊原小平太と本多平八郎の三河屈指の部隊が布陣しているのが三郎兵衛にも見て取れていた。中央に移っていけば、山県隊はまたたくまに押しつぶされるだろう。
だが、左翼は手薄になる。
さらに、三郎兵衛はある推測を立てていた。
もしかしたら、三河勢は柵から出てこられないのでは。
本多平八郎や榊原小平太、大久保兄弟などの豪傑は違うとしても、当の三河勢を率いる徳川三河守が、三方ヶ原のときの惨敗からして、武田騎馬隊と向かい合うのを恐れているのではないだろうか。
三河勢の性質からして、復讐心から野戦に打って出てきそうなものだが、まったく動かない。それに、彼らは主人の指示にもよく従う連中なのである。
あとは、三河守を飼い犬にしている織田上総介。ここまでの城郭を野原に築きあげるなど、武田に対する警戒心はよっぽどである。
彼らの頑なな臆病風ほど、付け入る隙かもしれない。
大久保隊を北方に押しつつ、後詰の突撃が繰り出されたあと、自分たちは連吾川を越えて再び体勢を取り戻す。そのとき、馬防柵にひびが入っていれば、勝機はかすかながらでもある。
そのとき、奴のことだ、出てくるであろう。
「押せえっ! 銃弾に怯むなあっ!」
すると、連吾川の向こうから押し太鼓の鳴りが聞こえてきた。
赤備えがこじ開けた街道へと、小幡隊二千が猛然と駆け抜けてきた。
弾正山に陣を敷く徳川三河守は、伊那街道の地点、徳川勢から見て最も最右翼の激戦を、祈るような心持ちで見つめていた。
赤備えの山県隊に誘導されて手薄になったところに、小幡隊が突撃をかけてきた。三百の火繩銃と命を惜しまない三河兵の働きでもって、新十郎はこれをなんとか退き返したが、次いで、小山田隊の怒涛の唸り声が連吾川を越えてきた。
右翼を集中的に攻撃されている。
三河守の側近である鳥居彦右衛門元忠が言った。
「おやかた様。このまま大久保殿の陣に応援を回さないでいると、敵方に突破されてしまいます」
「わかっておる。わかっておる」
三河守のこめかみから顎にかけて汗が滝のように流れていて、彼はそれを拭いながら、悲愴な眼差しで激戦地を眺める。
「わかっておるが、動かせまい。お主もわかっておろうが」
確かに武田騎馬隊は恐ろしい。上総介にも時が来るまで打って出ないように言い聞かされている。ただ、部隊を動かせない大きな理由は、何もそれだけではなかった。
仮に本多隊や榊原隊を回してしまったら、連吾川の向こうに控えている武田本隊が押し寄せてきたとき、馬防柵の防衛線の空白地点を狙われてしまう。
「とはいえ、突破されては元も子もありますまい」
「ならん。目先の危険を恐れて動いては、本来の目的が遠退く。お主も三河の者なら新十郎と治右衛門を信じてみんか」
「信じていないわけではありませぬが、しかし――」
「辛抱だっ! 今は辛抱なのだっ!」
三河守は彦右衛門を黙らせたものの、太腿を揺さぶりながら、どうにもならない焦りを抑えつけるように、親指の爪を前歯で噛み締めた。
夜明けとともに火蓋が落とされてから、一刻(約一時間半から二時間余)。山県隊、小幡隊、小山田隊と、伊那街道を驀進してくる武田軍の猛攻を、徳川勢大久保隊は見事なまでに凌ぎ切っているが、茶臼山本陣から戦況を眺める織田将校たちには焦りが生じていた。
中央に転戦していた山県隊赤備えは、小幡隊の突撃が始まってからしばらくすると、退き太鼓を鳴らして連吾川の対岸へと散り散りに戻っていき、体勢を整え直そうとしている。
三百丁の火縄銃にこらえきれずに敗走した小幡隊も、山県隊に合流する構えで、再度、左翼突撃を行う姿勢にも見えた。
今、小山田隊が攻防を繰り広げている背後には、武田典厩の黒備えが控えており、この部隊が次の左翼突撃に投入されるのは明らかであった。
掘久太郎は、上総介の傍らに取り付いている長谷川藤五郎の背後にひそかに忍び寄り、彼の肩を叩くと、上総介の目の届かないといころ、本陣の隅に誘い込んだ。
「竹。これはまずいぞ」
と、久太郎は囁く。
「後詰の岡崎殿か若君の部隊を回さなければ手遅れになるやもしれん」
藤五郎は顔をしかめた。
「そうは言っても、誰がおやかた様に進言するのだ。明智日向のような御仁がおれば話は別だが、権六には物申せる気概はないし、五郎左殿は前線であるし、俺たちはあくまで側仕えの身だぞ。それとも、お前、俺に物申せと言う気か。若君を出せと」
「左様」
「滅相もないこと言うな。殴られるのが関の山だ」
「じゃあ、どうする。貴様とて、今の状況が危ういことぐらいわかるだろう。おやかた様怖さで、織田を滅ぼす気か」
「なら、菊、お前が申せ」
「拙者には無理だ」
「卑怯者め」
「貴様とて同じではないか。卑怯者」
二人とも上総介の寵愛を受けた小姓上がりの側近である。領内政策やいくさの後始末といった事務をそつなくこなす秀才なのだが、同世代の簗田左衛門太郎のようないくさ場の叩き上げではないため、戦時中の進言をするのはもっての他であった。
だが、朝倉追討戦の失態以来、上総介の激情を恐れている家老衆たちは、まったく当てにならなく、主君に物申せるのは自分たちだけしかいないという自覚も、若い二人にはそれなりにあった。
「そもそも、俺たちが卑怯なのではない。年寄りどもが情けないだけじゃないか」
「わかった。拙者が悪かった。もうやめよう、竹。そういうことはあまり言うもんじゃない」
「じゃあ、どうする。二人で殴られるか?」
背中にビロードのマントを垂らす上総介を、藤五郎と久太郎は遠目にちらと見た。
「だいたい、おかしくないか」
と、藤五郎は言う。
「こういうとき、おやかた様はすぐに手を打つはずだ。なのに、突っ立っているだけで、まったく動かないじゃないか。これは一体どういうことなんだ」
「動けないだけなのかもしれん。万全の構えを敷いたつもりなのだから。もしくは意固地になっているか」
「なわけあるかい。おやかた様が」
「しっ。竹、声が大きいぞ」
二人がそうこうしている間にも、新たな太鼓の音が聞こえてき、喚声が、硝煙の香りとともに風に乗ってきた。
小山田隊に続いて、武田典厩黒備えが連吾川へと押し寄せていく。
「もう駄目だ。菊。おやかた様に言ってこい」
「貴様が行くのだ、竹」
「いいや、お前が行け」
二人は睨み合う。ところが、ややもすると、藤五郎が急に声を上げた。
「いやっ、そうだ、オヤジ殿を連れてこよう。あの人だったらさんざん殴られているから屁でもないし、おやかた様ももしかしたら聞く耳を持つかもしれない」
「おお。簗田殿か。それは名案だ。あの人をつい忘れていた。よし。使いを出して、本陣に登らせよう」
「急げ、菊」
久太郎がうなずいて背中を返そうとした、そのとき、藤五郎が、
「あっ!」
と、大きな声を上げた。
「おいっ! 菊っ!」
久太郎があわてて振り返ると、藤五郎が指差す先から灰の煙が膨らみとなって立ち昇っている。
長篠城の方角であった。落ちたか、と、二人は顔を真っ青にさせ、力ない足取りで見晴らせるところまで歩いていったが、しかし、よくよく目を凝らしてみると、違う。煙は長篠城ではなく、長篠城を取り囲む山、武田軍の付け城からであった。
「ど、どういうことだ」
久太郎が唖然としていると、藤五郎も、
「長篠の兵が打って出たのか」
起こっている出来事がにわかには信じられなかった。
すると、
「竹っ! 竹はどこにおるのだっ!」
上総介の甲高い声が茶臼山に鳴り響き、藤五郎は即座に駆け寄っていく。久太郎も遅れて、そろそろと歩み寄っていく。
「どこをほっつき歩ってやがる、この小僧がっ!」
と、藤五郎の頭を軍扇ではたいた上総介は、
「長篠城の救援に成功したと、さっさと全軍に伝えろっ!」
内訳を存じていたのは徳川三河守と一部の三河勢だけで、織田軍に至っては、上総介以外の誰もが知り得ていなかった。
昨晩の陣替えの直前、上総介は酒井左衛門尉を本陣にひそかに呼び寄せ、長篠城救援のために部隊を進軍させるよう命じていた。陣替えとともに設楽ヶ原を抜け出していく酒井隊に、上総介は織田馬廻衆二千と鉄砲衆三百を加えさせ、鳶ヶ巣山に陣取る武田兵庫介の排除とともに、武田軍の退路の遮断を狙った。
東三河に連なる丘陵の道なき道を進んでいった奇襲隊は、設楽ヶ原に目を奪われていた武田軍の虚をついて、鳶ヶ巣山を急襲し、激戦のすえにこれを撃破すると、長篠城内に詰め入り、救援成功の狼煙を上げた。
「嘘だろ、おい......」
本陣からの伝令を聞いた牛太郎は、絶句してしまう。
酒井左衛門尉の進言を受けて、軍議で見せた上総介の表情は、間違いなく困惑していた。しかし、その後、上総介は酒井の進言を振り返りつつ、熟慮したのだろう、長篠城の救援に成功する、すなわち武田軍を前後から挟撃できるということになる。
すると、武田はどう動くか。敗走するか、もしくはいくさを長引かせるわけにもいかずに全軍総突撃をかけてくるかのどちらかである。
偶然か、必然か、上総介は予見していたのか、狙っていたのか。
左翼突撃に心血を注ぎ込んでいた武田軍だが、このままいくさを続けるには、左翼だけではなく、右翼、中央、背後と、攻撃力を四方に散らさなければならなくなる。体勢を整え直していた山県隊、小幡隊、小山田隊は、左翼への波状突撃を断念せざるを得ない。
「まさか、誰も知らないだなんてありかよ」
「ししし」
「なんだよ、ジジイ。知っていたのか」
「いいや。知りませんよ。ただ、旦那様がそんなことを言うのもおかしなもんだと思いましてね」
どうする。
鳶ヶ巣山砦陥落の一報は、右翼に陣取る馬場美濃守にも伝えられてきた。
しかし、織田徳川連合軍は依然として動かない。
上総介と三河守は、てぐすねをひいて、武田の次の一手を待っているのだろう。
武田大膳大夫が、このまま戦線を引き上げることもなく、必ず攻撃を仕掛けてくると予測しているのだ。
そして、かの若殿は、織田の重臣の寝返りという妄想に固執している。彼こそが寝返れば勝利が得られると信じている。
馬場美濃は床机から身を起こすと、陣幕を捲って外に出、頭巾を少しつまみあげながら、向かう先の丸山砦を望んだ。
「重臣とは、奴のことか」
びっしりと柵を張り巡らせた中に身を潜めている織田徳川連合軍にあって、丸山の佐久間右衛門尉だけは怪しい布陣であった。この部隊だけが連吾川を越えてきており、柵も立てていない。鶴翼の陣形に対する定石的な配置であるが、この砦を守るのが、なぜ筆頭家老で副将格の佐久間なのか。織田の陣容からすると、自分だったら、羽柴藤吉郎をここに置く、と、馬場美濃は思う。
若殿を誘い込むためなのだ。そして、若殿もまんまと計られている。山県が配された左翼と違い、右翼の馬場隊は、真田隊、土屋隊の後詰を要してはいるものの、長篠城攻めの激戦で消耗した結果、七百ばかりの手勢となってしまっている。
つまり、大膳は、佐久間が寝返るからと見て、右翼に兵力を注がなかったのだ。
「殿は夢見がちなのかなあ」
ならば、夢から覚ましてやらなければ、このいくさは終わるまい。佐久間が寝返らないとはっきりわかれば、兵を引くだろう。
佐久間隊はおそらく五千から六千。
七百の手勢でどこまでやれるか。
馬場美濃は従者に馬を引かせてくると、齢六十とは思えない素軽さで馬上の人となった。
すると、風月に浸していた茶色い瞳を徐々に鋭くさせていき、顔に刻まれた皺は表情の緊張とともに肉の筋となっていく。眉尻は吊り上がっていく。
彼の異名は、不死身の馬場美濃であるが、若いころは違った。
不死身の鬼美濃。
「我が生涯の集大成、とくと味わえ」
岸壁に打ち跳ねる波のごとく、武田軍左翼の波状突撃は火繩銃の打撃により、成功を見なかった。さらに鳶ヶ巣山砦も落とされ、武田本陣は戦略の転換を余儀なくされるはずであったが、信玄台地才ノ神にて戦況を見届けている武田軍総大将大膳大夫勝頼は、終始床几に腰掛けたきりで、指令を下すどころか、開戦以来一言も言葉を発してなく、鳶ヶ巣山陥落の報でさえ、表情一つ変えなかった。
宿老たちに君側の奸と忌み嫌われている長坂釣閑斎などの側近たちも、大膳の、触れたら指先を切り裂かれそうなその冷徹な気配に、無言でいるしかない。
ただ、背後にも敵軍に構えられて戦況が切迫している一方で、本陣にはまだどことない期待感が漂っていた。
丸山の佐久間右衛門尉。
無表情の大膳は、ひそかに怒り狂っていた。いや、この怒りは、父の死以来、ずっと腹の底に押し殺してきたものである。
馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理。宿老たちは、武田の総帥が徳栄軒から彼に代わった途端、消極的な戦略をこの齢三十の総帥に求めた。
なにゆえ。
大膳からしてみれば、西上作戦で失ったものは、武田徳栄軒一人である。武田軍はなんら痛手を受けておらず、ただ単に、司令官の不在に混乱して、西上から引き返したにすぎない。
しかし、宿老たちは、徳栄軒がいないという、たったそれだけの理由で、西上作戦の再開に猛然と反抗したのだった。
つまり、織田徳川を相手にするには、大膳では務まらないということなのである。
馬鹿にしおって。
老害極まりなかった。きっと、宿老たちは、これまでの華々しいいくさ遍歴において、自らの自信に凝り固まり、経験のない勢いだけの若さを疎ましく思う、年寄りらしい気質なのだ。
彼らは武田徳栄軒、いや、武田晴信とともに生きてきた男たちである。武田晴信あっての彼らだったから、主君は唯一、他には認められないのである。
さらに大膳は正嫡ではない。彼の母は徳栄軒の側室であり、かつて武田と敵対していた諏訪の姫である。この点においても、譜代の者たちにはしこりがあるのだろう。
一人の人間を、その血筋やその位で判断するという、愚かしい思考。
それらを黙らせるには、結果を出すしかない。徳川という屈強な輩を撃破し、織田という巨大な壁を打ち破り、誰もが崇める武田徳栄軒がとうとう成し得なかった東海制覇、濃尾平野への進出を成功させれば、そのときこそ、武田は再び一枚の岩となるであろう。
設楽ヶ原における雌雄を賭けたこの決戦。己のしていることが独善的すぎることはわかっている。だが、総帥としての信念のままに道をひた走らなければ、大膳はいつまでも父の亡霊にさいなまれるのだ。
武田の当主は俺だ。徳栄軒ではない。
しかし、右翼先鋒の馬場隊が丸山に攻撃をしかけていったとき、大膳は思わず床几から腰を上げ、戦況を凝視した。
佐久間隊が旗色を変えない。
七百の手勢で丸山に押しかける馬場隊と六千はある佐久間隊の攻防は激戦であった。
「何をやっている」
初めて大膳の口をついた言葉であった。
攻撃を与えられたと同時に寝返りを名乗るというのが、佐久間右衛門尉との密約であった。ところが、そのような気配は微塵もなくて、丸山を埋め尽くしている織田永楽銭の黄旗は、どうかしてしまったかのように、馬場隊に弓矢を射かけ、槍を競り合わせている。
「長坂」
と、大膳は三白眼の厳しい目を長坂釣閑斎に振り向けた。
釣閑斎は丸めた頭に汗を噴き出しながら、丸山の攻防をじっと眺める。
「お、おそらく」
大膳は、釣閑斎の唇の震えを睨めつける。
「佐久間は、よもや前線に配されてしまったため、今はその機会と見ていないのでは」
それについて、大膳は何も反応せず、眉根をしかめたまま、丸山の攻防に目をくれる。
一抹の不安がよぎった。
――織田の簗田出羽守が昨年より不穏な動きをしております。奴に近づく忍びはことごとく戻ってきておりません。
簗田出羽守の名が大膳の頭に張り付くようになったのは、内藤修理のその発言からであった。
織田領内に忍び込ませている忍びらが持ち帰ってくる情報や、佐久間右衛門尉の密書によると、簗田出羽守なる男は、出自不明ながらに織田上総介に取り入り、その威勢を利用して譜代の家臣を手玉に取るような怪しい者らしい。二俣城の戦い、三方ヶ原のときも、なぜか徳川三河勢とともに行動しており、それはおそらく、織田が援軍に出向けないため、三河勢をなだめるための使者だったというのが、大膳側近たちの見方であり、珍奇衆などという訳のわからない役職や、愚将の評判もあるため、気に留めていなかった。
そうして、たかだか沓掛二千石の城主でしかない簗田は、筆頭家老の佐久間と浜松城で仲違いしており、その後、簗田が出羽守を拝領される一方で、佐久間は朝倉追討戦で他の将たちとともに、上総介に殴り倒されたという。
佐久間は、君側の奸に操られる上総介に嫌気を差し始めた。はずなのである。
だが、それこそが、簗田出羽守の謀略であったら、武田は終わりだ。
「まさか、そのようなことができるはずがない」
なにしろ、それが謀略であったら、あたかも簗田出羽守が、この決戦を用意していたかのようではないか。武田軍は何も呼ばれてやって来たわけではない。長篠城攻めも、設楽ヶ原の決戦も、大膳の意思で決定したことなのだ。
用意していたはずがない。織田徳川のあの野戦築城も、織田上総介という稀な名将のその場の判断によるもので、大量の火繩銃も、織田が弱兵卒ゆえに元から備えていたもの、鳶ヶ巣山への奇襲も、桶狭間や北近江で風雨を突いて襲撃を行った経験が上総介にあったからこそ。
じゃなかったら、もしも、これが用意されていた決戦だとしたら、あまりにも壮大すぎる。
大膳の葛藤をよそに、丸山に動きがあった。
満身創痍であるはずの馬場隊七百は、二手に別れて佐久間隊を攻撃し、馬場美濃の巧みな指揮下にあって、激戦のすえ、佐久間隊を丸山から逃亡させた。
織田永楽銭の黄旗が、連吾川を越えて、馬防柵の中へ激流のように逃げていく。
「おやかた様、好機です」
釣閑斎が言った。
「馬場殿がいくらいくさ上手であろうと、佐久間隊六千がこれをこらえきれないはずがありませぬ。奴は敗走の振りをして柵内に戻り、機を見て茶臼山本陣を襲撃するはず。今、我らが動けば、織田徳川は大混乱に陥りましょう。背後には長篠城兵が控えているため、早急に全軍突撃の下知を」
大膳は何も答えずに戦場を眺望する。丸山陥落を受けて、柵の向こうの織田軍が布陣を変えている。武田軍から見て最右翼に移っていくのは、大将旗からして丹羽越前守。さらに山の影から羽柴筑前守の隊列が現れた。
羽柴筑前の部隊に鉄砲衆はさほどいない。後詰だったのだろう。おそらく、丸山陥落は上総介にとって予期せぬ出来事だったに違いない。また、丹羽越前が動いたことにより、茶臼山麓の柵に張り付いているのは滝川伊予守といくばくかの本隊のみで、中央は手薄になっていた。
ただ、羽柴筑前が山の影に隠れていたように、茶臼山の裏手も大膳には気がかりだった。全軍に突撃をかけさせたとき、もしも、中央部隊が壊滅してしまったら、右翼左翼が分断されて、敗北が決定してしまう。
だったら、綻びの出た右翼を攻め立て、佐久間の寝返りを促すほうが。
「おやかた様っ! 馬場様から使いの騎馬がっ!」
馬廻の何者かが叫んで、大膳は眉をしかめながら振り返った。馬場美濃の使い番が息を切らしながら駆け寄ってきて、大膳の目の前に片膝をついて、
「恐れながらっ、馬場美濃守よりっ!」
大膳は冷たい眼差しだけを使い番に注ぐ。
「丸山を占拠して我らは優勢であるが、敵は兵と鉄砲がはなはだしい。味方の損傷が少ない今、一応の戦果も挙げて面目も立ったゆえ、これを機会に退陣されたまえとのことっ!」
大膳の三白眼は氷のごとく冷え切った。
「馬を引け」
と、彼の声があまりにも小さかったので、ここにいる誰もが顔を上げ、棒立ちした。
すると、大膳は瞼をいっぱいに押し広げ、赤兜に施されたヤクの白毛を逆立たせんばかりに吠え上げた。
「全軍に伝えよっ! 我らはこれより総突撃をかけるっ! 甲州武田の命運、この一戦にて切り開けっ!」
才ノ神の武田本陣から法螺貝が鳴らされ、太陽に焦がされる設楽ヶ原には、立ち昇る蒸気の中で、固唾を飲み込む緊張が走った。
羽柴隊、丹羽隊を左翼に配して布陣を整え直した上総介は、総突撃の構えを見せる敵方に対して、滝川隊を柵前に押し立て、茶臼山にひそめてあった前田又左衛門及び佐々内蔵助の鉄砲隊を滝川隊の背後に整列させた。
さらに、柴田権六郎を呼び寄せ、
「九郎左(塙備中守)を麾下に置き、こましゃくれとともに臨戦体勢を整えろ。敵右翼の動きによって、彦右衛門(滝川伊予守)に回るか、五郎左に回るか、お前が判断しろ」
「御意」
茶臼山本隊から切り離された柴田隊が、簗田隊とともに隊列を整えている間、武田軍の猛攻が開始された。先陣を切ってきたのは最右翼、信州先方衆として武田家に貢献してきた故真田幸隆の子、真田左衛門尉信綱、治部丞昌輝の兄弟であった。
これを迎え撃つのは北方に配備された丹羽・羽柴の両隊である。五郎左衛門の激により、丹羽隊鉄砲衆が縄に点火していくが、一方で、羽柴隊の大将の様子がおかしかった。戦場では陽気な出世意欲のままに騒ぎ立てるはずのこの男が、設楽ヶ原に着陣して以来、いや、岐阜を出立したときから、このかたずっと、不機嫌そうな表情でいて、口数も少なかった。
静かにいてくれるに越したことはないのだが、あまりにも静かすぎるので、昨晩、弟の小一郎は率直に、やる気がないのか、と、訊ねてみた。
すると、藤吉郎は表情をますますむっとさせていき、けっ、と、珍しく舌打ちすると言った。
「このいくさは牛殿に出し抜かれたいくさだぎゃ。こんなおもしろくないいくさがあるかえ?」
なんでも、牛太郎が、又左衛門や内蔵助に決戦の展望を教えたばかりか、自分を無視してまで、参謀である竹中半兵衛に助言を求めていたということをどこかで知ったらしく、馴染みの自分を除け者にして、一人で功績を立てようとしていると、腹が立っているらしい。
「そんなのは仕方ないのでは。兄上は越前のことで手一杯だったのですから、簗田殿も遠慮したのでしょうよ」
「なわけあるかえっ! あの男はおりゃあの出世が嫌なんだぎゃあっ!」
山の影に身を潜めるという惨めな布陣も、牛太郎の仕業だと言って、小一郎が反論しても聞かない。
そのため、佐久間隊の敗走により、急遽前線に進軍するよう、茶臼山から下知が飛んできたとき、藤吉郎はほくそ笑んだ。
「功を立てて、牛殿を泣かせてやるだぎゃ」
そうして、動き出した真田隊を馬上から眺めていたわけだが、このとき、武田右翼がどの地点を攻め立ててくるか、まだ予測が付かなかった。藤吉郎と五郎左が構える最右翼か、滝川伊予守が構える中央寄りか、連吾川を越えてくるまでは柵の中でじっとするしかなかった。
すると、真田隊はまだ連吾川を越えてこなかったが、その馬首は、真正面の丹羽・羽柴隊ではなく、滝川隊に向けられた。なるほど、より兵数の多い丹羽・羽柴隊を相手にするよりも、柵の前に張り出ている滝川隊を相手にしたほうが、背後に茶臼山本陣がそびえていることもあり、効果的だ。
というふうに、藤吉郎は見た。
金箔の軍配を白濁の空に高々と突き上げると、
「羽柴勢は北方より迂回だぎゃっ! 武田の側面を突くだぎゃあっ!」
これを聞いた半兵衛が、
「何をおっしゃっておるのかっ!」
と、言って馬をにじり寄せてきて、藤吉郎の掲げていた軍配に手を伸ばし、それを力ずく下ろす。
「今、柵を抜けたら、この地点が空いてしまいますぞっ! 左翼を突破されてはおしまいですっ! 我らの敗北を招くことになりますぞっ!」
「うるしゃあっ! 柵の中にこもっていたら、功など上げられにゃあっ!」
「何を愚かなっ!」
「愚かも何も、奴らは向こうに行っているでにゃあかっ!」
「それが陽動だったらどうするのですっ!」
「そんな細っかいことが、奴らにできるわけにゃあっ!」
藤吉郎は暴れ回ったすえに半兵衛の手を振りほどくと、馬を蹴飛ばし、軍配を掲げながら、
「おりゃあに付いてくるだぎゃあっ!」
と、隊列を北方に進めて行ってしまった。
半兵衛はあわてて周囲の兵卒たちを呼び止めるが、当然、ほとんどの者は大将に従って、柵の守備から離れて駆け出していってしまい、残ったのは、小一郎とわずかな手勢だけであった。
そして、半兵衛の危惧は当たった。真田隊は連吾川手前で一度足を止めると、進路を翻し、北方の丘陵を回りこもうとして再左翼の守備を捨てた羽柴隊の空白目掛け、連吾川を飛び越え、駆け抜けてきた。
丹羽隊の火繩銃が軒並み発砲されたが、射程距離から離れてしまっており、まったく当たらなかった。
半兵衛、小一郎がわずかな手勢で守る再左翼に、真田隊はここぞとばかりに猛攻をかけてきた。一斉に押し寄せてきた足軽兵卒が柵の格子から槍を突き出してき、小一郎、半兵衛部隊はこれを防ぐのに手一杯で、次々に柵をよじ登って越えてくる兵卒を跳ね返す余裕がなく、絶体絶命となった。
「柵外は相手にするなっ! 目の前の敵だけを見ろっ!」
半兵衛は馬上で采配を振りながら必死に鼓舞し、小一郎は槍を突き回しながら、
「持ちこたえろっ! ここを破られては終わるぞっ!」
しかし、真田隊は押し太鼓を打ち鳴らし続けながら、
「柵を壊せっ!」
諸将の激とともに大勢の兵卒が馬防柵を押し倒そうとし、傾きは前に後ろに今にも崩れんばかりだった。
「兄上は何をやっておるのだっ! 早く呼び戻せえっ!」
増え続ける武田足軽を食い止める小一郎も半兵衛も、汗をしたたらせるその顔は、悲愴というより、藤吉郎に対する怒りに溢れていた。連合軍右翼の大久保隊があれだけの猛攻を跳ね返したというのに、羽柴隊が任された左翼がたったの一撃で突破されてしまっては、決戦の勝敗に関わらず、失態以外のなにものでもなかった。北近江二十五万石を勝ち取った出世物語が、一日にして泡沫するのであった。
だが、残酷なまでに劣勢であった。土屋隊が背後に控えているため、丹羽隊も動くに動けなかった。柵を越えてくる武田足軽は増殖を続け、馬防柵近くで奮戦している小一郎にも命の危険が迫った。
このとき、半兵衛は命を捨てることを決意した。
「我こそは羽柴筑前が家臣、竹中半兵衛重治にて候! 真田の者どもっ、我が首討ち取れば、このいくさ一番の勲功ぞっ!」
小一郎を死なせるわけにはいかなかった。
武者にしては色白細身のこの優男が、そびえ立たせる一ノ谷兜からして、天下に名高い竹中半兵衛だと気づいた真田隊の足軽たちは、随一の首級を手にしようとして鼻息を荒くして襲いかかってきた。
半兵衛は目を閉じて呟いた。
「南無八幡大菩薩。いくさに身を投じてきたこの命を捧げるゆえ、願わくば我が隊に勝利のご加護を」
そうして、切れ長の瞼を押し広げ、太刀を抜いたそのときであった。突然、青黒い閃光が半兵衛の眼前に走り、それは襲いかかってきていた武田足軽を一瞬にして蹴散らした。
八幡神に通じたか。
「我こそは簗田右近大夫広正っ! 武田の者どもっ、存分にかかって参れえっ!」
「太郎っ」
半兵衛は柄にもなく感動して、叫んでしまった。日差しを浴びて燃えたぎる黒漆の甲冑と、黒光りする馬体は、すべての兵卒を飲み込まんばかりに巨大に映った。黒連雀の四肢が武田足軽を払いのけていき、馬上の太郎が槍を振り抜けば、敵方が次々に倒れていく。人馬一体となって余すところなく蹴散らしていくさまに、半兵衛は少年時代の太郎の姿と重ね合わせ、涙ぐんだ。
簗田隊は大将に続いて次々に乱戦へと突入してき、
「三方ヶ原の借り、突き返しに参ったわあっ!」
玄番允が太い眉をいからせながら猛然と槍を振るい、新七郎もこれに続いて武田足軽を押し返していく。さらに沓掛鉄砲衆の銃口が火を噴いた。金ヶ崎、姉川の激戦で活躍してきた彼らは、織田軍のどの鉄砲隊よりも熟練されていた。一人一人が放つ銃弾は、狙った相手を的確に一撃で仕留め、騎馬足軽の援護に大きく貢献した。
真田隊の攻撃は簗田隊に堰き止められ、勢いも柵前に引き戻された。さらに、土屋隊が滝川隊へと突撃を開始したため、丹羽五郎左が再左翼の応援に回ってきた。
半兵衛は柵門を開けるよう命じ、ここから簗田隊が一挙に飛び出していった。
よもやの反抗と、織田兵卒とは思えない簗田隊の強靭さに、一度はたじろいだ真田隊だが、
「怯むなっ! ここを突破すれば、我ら真田が一番手柄ぞっ!」
左衛門尉信綱の激に息を取り戻し、簗田隊を押し戻した。
すると、部隊の体勢を整えた丹羽五郎左が半兵衛に一度目配せし、半兵衛がこれにうなずくと、五郎左は、
「引けえっ!」
退き太鼓を鳴らさせた。これを聞いて簗田隊は一斉に柵の中へと引き返し、丹羽隊鉄砲衆が真田隊に銃弾を浴びせた。
それでもなお、真田隊は馬防柵に突っ込んできた。ところが、真田隊の側面から、怒号を放ちながら押し寄せてくる羽柴隊があった。急襲された真田隊は攻防から身を退かせ、連吾川の向こうへと敗走していった。
「真田、どうだぎゃあっ! 見たかあっ! おりゃあが織田の出世頭、羽柴筑前守秀吉だぎゃあっ!」
柵の向こうで、軍配を振り回しながら騒ぎ立てている藤吉郎を遠目にして、半兵衛も小一郎もため息をついた。
全軍総突撃の号令がかけられると、土屋は真田兄弟とともに丸山の馬場美濃の元を訪れ、右翼攻撃の手段を求めた。
「平八郎」
齢三十一の土屋右兵衛尉昌次は、彼もまた、他の譜代家臣と同じように、徳栄軒や老臣たちからは幼名のままで呼ばれていた。
「わしはここに残り、もしものときは若殿のしんがりと転ずる。お主は真田隊に続いて、滝川伊予守の部隊を叩き、ここを突破して、茶臼山を一挙に襲撃せよ」
口数の少ない土屋は、眼差しを屹と据えて、うなずいた。
もっとも、この突撃は玉砕の様相を呈している。馬場美濃の悲しげな微笑からも、真田兄弟が握りしめた拳からも、それは感じられた。
有り得ないことだった。百戦錬磨の武田軍が、敗北を悟りながらも、勝利を夢想して特攻するなど、絶対に有り得ないことであった。
設楽ヶ原に広がる草花が日差しのうちにかすんでいる。死地へと背中を押す太鼓の音と、轟く銃声と、誰かが死んでいく声を遠巻きにしながら。
徳栄軒の傍に少年のころから仕えてきた土屋は、わりと奉行方であった。各方面の国人衆の執り成しや、関東の諸勢力との外交に精を出してきて、徳栄軒の言う兵法とか戦術とかには見識があるわけではなかった。
それでも、この突撃が無策ゆえんの特攻であることぐらいは、わかりきっていた。
皆がわかりきっている。
だが、それでも突撃する。敗北を悟っていても、夢想の勝利を目指して死地を駆け抜ける。
土屋は決心する直前、馬上からこの空を仰いだ。陽光が、昇発する大地の息吹に溶けこんで、まるで夢と現実の境目を失ったような白みがかった空だった。
武田の将とでしか生きられない。
土屋は居並ぶ将兵たちの前に躍り出た。
「我らはこれより織田本陣目掛けて突撃を開始する。このいくさ、もはや織田上総介の首以外に勝利への道はない。そして、これができるのは我らの他にはない。槍に屈せず、銃弾に怯えず、命を惜しまずに走り続けるのだ。皆の衆、天下に名を馳せる武田の生き様見せてやろうぞっ!」
鬨の声が鳴り響いた。
「我に続けえいっ!」
大将自ら先陣を切り、土屋隊は茶臼山城郭へと猛進していった。
「おらあっ! らあっ!」
鞍上で体ごと手綱を押し通し、馬に激を飛ばしながら、土屋は三方ヶ原の記憶を蘇らせた。武田本隊目掛けて、たった一騎で突っ込んできた鳥居四郎左衛門のことを。
決死の覚悟とは、こういうものだったのか。
かけ声を放つ彼の形相は般若のごとくであった。具足の下は汗みずくとなり、眉尻からも顎からもしたたり落ちた。咆哮を飛ばして愛馬に連吾川を飛越させ、
「うおおォっ!」
びっしりと並び立つ黄旗を前に槍を抜く。しかし、ひそかに愉快であった。きっと、鳥居四郎左衛門もこうした武者震いを起こしていたに違いない。
お前を討ち取った者として、恥ずかしくない最後を迎えてやろうじゃないか。
渡河してきた土屋隊に対し、滝川隊は、柵の中にこもるどころか、騎馬を奮い立たせて迎え撃ってきた。
「織田上総介の首いっ、土屋右兵衛尉が頂戴に参ったあっ!」
土屋は隊列を引き連れて猛然と突っ込んでいき、駆け抜けざまに織田兵卒を一閃した。さらに続いてきた決死の兵卒たちが、勢いそのままに滝川隊を飲み込んだ。
破壊的な一撃にあわてた滝川隊の将校たちは、激を飛ばし自軍を鼓舞するが、土屋隊は立て続けに斬り伏せていく。
織田兵卒たちはひるんだ。まず、彼らは弱兵卒であった。次に、本格的な武士団と真っ向から刃を交えた経験が少なかった。せいぜい、姉川の戦いを生き残った兵卒が混じっている程度であった。
そんな彼らが相手にしたのが、最強の武田兵である。滝川隊は一度競り合っただけで腰砕けになり、兵卒たちは次から次に逃走を始めた。
さんざんな様子を見かねた伊予守は、この醜態が織田全軍の士気に関わると思い、競り合いから引き返すよう早々に命じた。
だが、織田にとって誤算でだったのは、兵卒たちが四方ばらばらに逃げ出してしまったことであった。
これによって、
「突っ込めえっ!」
土屋隊は柵へと一気に抜けてきた。滝川隊の鉄砲衆が待ち構えていたが、時間を稼いでくれなかったため、彼らの行動は遅れた。銃口を構えようとした刹那、土屋隊は柵に押し寄せていき、鉄砲衆に槍を突き出して討ち取っていき、それらの背中を駆け上がっていくぐらいの勢いで、後続が柵をよじ登っていき、また、柵を破壊して、なだれ込んでいった。
ただ、茶臼山本陣及び、弾正山徳川本陣前の馬防柵は三重に築かれていた。土屋隊が破壊した柵の向こうには、さらに馬防柵が築かれており、新たな鉄砲衆が控えていた。ニの柵に控えていた銃口から一斉に射撃が開始され、一の柵を突破してきた騎馬は次々に撃たれた。
土屋の愛馬にも銃弾が食い込み、馬は悲鳴を上げながらもがき倒れ、土屋も放り投げられた。しかし、すぐに起き上がり、槍を捨てて、太刀を抜くと、その刃先を柵の向こうに振り下ろしながら、
「命を惜しむなあっ! 惜しむ者に上総介の首は討ち取れんぞおっ! 行けっ! 行くのだっ!」
大将の激を受けて、土屋隊兵卒たちは、地に伏せて悶え苦しむ同輩や騎馬には目もくれず、ニの柵へと槍を突き出していく。柵をよじ登っていく。
ニの柵の鉄砲衆が背中を返して三の柵へと逃げ出していった。
「今ぞっ! ここが好機ぞっ!」
土屋隊は三の柵の前へと飛び降りていく一方で、ニの柵の門を破壊し、押し太鼓が打ち鳴らされるまま、茶臼山に翻る織田上総介の馬印の金の傘を間近の頭上に垣間見た。
だが、その麓、最後の三の柵には、おびただしい数の鉄砲兵がひそんでいたのだった。織田鉄砲衆たちは、怒号と悲鳴が渦巻くこの戦場にあって、それこそ、そこに構え込む無機質な銃身のような冷たい気配でいて、射程を覗き込むその眼光は、目前の獲物だけに研ぎ澄まされていた。
彼らは織田本隊、前田又左衛門、佐々内蔵助の指揮下の者たちであった。
「撃てえいっ!」
「撃てえっ!」
「撃てえっつ!」
鉄砲組頭の号令が立ちどころに放たれ、銃口は一斉に火を噴いた。土屋隊は弾き飛ばされた。それでもなお、兵卒たちは太刀を片手に二の柵を越えていき、負傷しながらも腰を上げ、三の柵に押しかけていく。
「二の列構えっ!」
即座に新手の銃身が一斉に構えられた。興奮の絶頂に達している土屋隊の兵卒たちには、何が起こっているのか判断できなかった。何も見えなかった。何かが見えていたとしたら、それは遥か茶臼山の山頂に聳える織田上総介の馬印だった。
「撃てえっ!」
「撃てえっ!」
例えるなら、今までずっと色の形成されてきた光景が、一瞬にして、真っ白なあてもない世界になってしまったようなものだった。突破を狙った者たちは、誰一人、三の柵に手をかけることもなく、死んだ。中空には硝煙とひとときの静寂が立ち込め、地は無数の死体に埋め尽くされた。
当然ながら、武田兵には、今、行われているのが三段撃ちなのだという認識はない。火繩銃は、一発放てば、次の射撃にまで時間を要するのが常識であった。そのため、残酷にも、彼らは火繩銃の威力に怯むどころか、同輩たちが命と引き換えに作り上げた時間を無碍にしないようにと足を止めなかった。
土屋も同じく、部下たちを叱咤激励しながら、自らも柵に手をかけて、よじ登った。
すでに三列目鉄砲衆が構えている。
「首級だっ! 銃口を向けろっ!」
と、鉄砲組頭の何者かが、甲冑に身を固めた土屋の装いに反応した。
三段目が撃ちかけられた。
土屋は柵の上で十数発の銃弾を一瞬にして浴びた。
少年のころから徳栄軒の傍に仕えてきた彼は、かつての川中島の戦いで、突撃をかけてきた上杉勢に対し、身を呈して主君の危機を救った豪傑であった。しかし、そんな昔日の走馬灯を見る猶予も与えられなかったまま、土屋右兵衛尉昌次は三十一年の生涯を設楽ヶ原に終えた。
土屋隊の果敢な突撃により、茶臼山の麓の馬房柵がこじ開けられたのを見て取った内藤修理亮は、土屋隊の後続に配下諸隊を繰り出した。しかし、土屋隊を殲滅せしめた織田本隊鉄砲衆は、佐々内蔵助の独断指令により、一糸乱れぬ機敏な動きで三の柵から二の柵へと移って配列した。
三段撃ちの猛威が後続突撃へと容赦なく振るわれ、内藤隊は馬防柵にまったく近づけず、この間に体勢を立て直していた滝川隊と、丸山から本陣近在まで退いていた佐久間隊が、一斉射撃ののち、柵を飛び出していき、圧倒的兵力に任せて屈強な武田兵と競り合ったあと、また、馬防柵に引込み、三段撃ちを見舞わせた。
一方で、右翼突撃に失敗し、満足に戦えそうな者は約五百となってしまっていた真田隊だったが、連吾川に引き返したと同時に、左衛門尉信綱、治部丞昌輝、それぞれ二手に別れ、再度隊列を編成し、三列縦隊の構えを取った。丹羽隊が撃ちかけてくる銃弾の被害を最小限におさえるためであった。
あらかじめ連吾川に渡し板を並べていた真田隊は、織田軍最左翼に二度目の突撃を開始し、風を切り裂くような速さで襲いかかった。丹羽隊は銃弾を撃ちまくったが、本隊鉄砲隊ほど修練されていないので、効果は薄かった。弟の治部丞昌輝に率いられた真田隊は馬防柵に瞬く間に押しかけてき、例のように柵を隔てた乱戦に持ち込むと、柵を乗り越えていき、ここに控えていた丹羽隊を滅多切りにしていって、柵から後退させた。
さらに兄の左衛門尉信綱は柵前に張り出していた羽柴隊を急襲せしめ、これを北方にじりじりと押し返していった。
「何をやっているんだぎゃあっ! 相手はいくらもいねえだぎゃあろおっ!」
不甲斐ない羽柴隊に簗田隊が加勢した。彼らは真田隊の突撃が再度始まるのを予見した半兵衛の言葉に従い、羽柴隊が通った迂回進路と同じ道程を辿ってきていた。
左衛門太郎が眼前を駆け抜けていき、藤吉郎は騒ぎ立てる。
「おみゃあっ! 何をしに来たんだぎゃあっ! 邪魔するでにゃあっ!」
「邪魔するも何も、筑前殿の危機ではありませぬか!」
そうして、藤吉郎は、自隊に混じって真田隊とやり合う簗田隊の中に、栗色の怪物を探した。しかし、どこにも見当たらなかった。
「あの男は高見の見物かえっ!」
簗田隊が加勢してきたと同時に、防衛線の危機に晒されていた馬防柵の攻防に、柴田隊の応援が駆けつけてきた。それでも、兵力では圧倒しているにも関わらず、命を捨てて戦う真田隊の攻撃を、どうにか持ちこたえるので精一杯であった。
手勢の真田隊相手に、応援に継ぐ応援部隊を最左翼に投入して動揺を見せ始めている連合軍の様相に、内藤修理は中央部隊の一斉突撃を命じた。
ただし、茶臼山麓の馬防柵には想像を絶している火力が備えられているため、
「三河の首を討ち取る」
あえて、強力な三河勢に突撃をかけていった。
まず、中央に布陣していた原隼人佑が連吾川を越えていった。弾正山下の守備をつかさどる石川与七郎数正の部隊は、各隊と同様、襲いくる騎馬武者に銃弾を放ち、太鼓を打ち鳴らすと、足軽たちが硝煙をちぎりながら柵から飛び出していく。彼の部隊は西三河の兵卒が多くを占めており、生粋の岡崎松平足軽であった。
一方、原隼人佑は親子二代で武田軍の陣場奉行(決戦地や陣形を選定する役)を務めてきた男で、本来ならば肉弾戦を指揮する立場になかったが、競り合いはうまかった。織田徳川連合軍の押し引きは、この決戦で何度も行われてきていることであり、原隼人佑は猛りに猛る兵卒たちをなだめては叱咤し、励ましては落ち着かせ、石川隊が柵に引いても無理には追わずに弓矢を射かけ、柵から飛び出してきたら大喝して武者たちの背中を押した。
弾正山の山頂からこれを眺めていた三河守は、武田軍左翼部隊が消耗していることもあって、本多平八郎に部隊を中央に寄せてくるよう指示した。
本多隊は動いた。中央弾正山付近に寄せてくると、石川隊が競り合いから引いてきたのを見計らい、自隊の鉄砲衆を引き連れて、馬防柵を飛び出していった。
本多隊が急遽突撃をかけてきたため、原隊は泡を食った。本多隊鉄砲衆が原隊を射程におさめて一斉に銃弾を放った直後、平八郎に率いられた騎馬足軽が突入してき、
「亡き三河勢の仇いっ!」
本多隊はこのいくさで初めての戦闘であったため、力がみなぎっていた。
原隊は、本多隊との攻防、多くの銃弾に多数の死傷者を出した。
原隼人佑が後退して敗走すると、次いで武田逍遥軒の部隊が突撃を繰り出してきたが、本多平八郎は相手にせずに早々と柵の中へ退いた。
復讐の塊と化している本多隊といえども、あくまでも戦法に徹していた。逍遥軒の兵卒たちは勇猛なまでに遁走する三河勢の背中を追いかけていってしまい、待ち構えていた石川隊鉄砲衆の餌食となった。それでも、武田兵卒たちは最後の一人になるまで戦おうとする意気のままに、柵のきわでよく戦った。
このころ、右翼ではなおも真田隊の手勢が奮戦している。羽柴隊、簗田隊、柴田隊、丹羽隊といった、織田の中核を担う部隊を向こうに回して、逃げ出すものは一人とていなかった。泥水を跳ね飛ばしながらのこの武者振りは、熱気の中に拡散する日差しさえも払い打つような、鮮血の輝きであった。おそらく、もっとも槍を振るった兵卒などは二十人以上なぎ倒していた。
しかし、圧倒的な数と、撃ちかけられてくる銃弾の前には限界があった。弟の治部丞昌輝は乱戦の中で負傷し、一度、体勢を整え直そうと、中央の内藤修理と合流しようと考え、柵から退いていった。
沓掛鉄砲衆が狙いすました弾丸が、兄の左衛門尉信綱を集中的に打ち抜いたのは、ちょうど、弟が引いたときであった。
治部丞のもとに兄の壮絶な最後は知らされなかった。なぜなら、大将を失ってもなお、左衛門尉の配下にあった兵卒たちは槍を振るい、最後の一人になるまで戦い続けたからであった。
中央三河陣を攻め立てていた武田逍遥軒隊も敗走を余儀なくされた。削りに削り取られた武田軍は、すでに甚大な被害を被っていた。それでもなおのこと、織田徳川連合軍は打って出てこない。
内藤修理は内心迷った。主君に退却を促すべきか、それとも、わずかな望みだけを抱いて、果敢に突入すべきか。
ただ、一つだけは明確に判断できた。敵に背中を向けて戦場から逃げ落ちるぐらいなら、潔く最後まで戦い、死んでいくのを是とするのが甲州武田の兵卒たちなのであった。
命の無駄遣いかもしれない。ところが、主人に従う者は、すでに仕えたときから、その命を捨てているのだった。それが平安のころから続いてきた東国の郎党たるゆえんであり、武士団なのである。
修理は迷いを打ち消すかのように細長い吐息をついたあと、采配をゆっくりと振り上げた。
「突撃」
押し太鼓がかまびすしく鳴らされ、内藤隊千五百は怒涛のように柵へと立ち向かっていった。
この攻撃は、開戦以来、武田軍の幾度とない攻めの中でも、もっとも激烈であった。死してもなお立ち上がるという言葉がふさわしいぐらいに、兵卒たちはおびただしい銃撃を受けても戦い続けた。一言坂で同じような真似をしたさしもの本多隊も、内藤隊との競り合いに苦戦した。
さらに修理のいくささばきは妙技であった。本多隊、石川隊と競り合っては、引き返して隊列を整え、再び突撃をし、一人一人の形相ときたら、まこと降り注がれる雨弾に逆に食らいついていくがごとくで、一撃ごとに柵を破壊し、あるいは三河勢を討ち取って、これを六度繰り返した。
ついには一の柵、ニの柵を破り、うち数十名が三の柵までを突破した。彼らは押し寄せてくる三河兵たちの刃をかいくぐり、抜き身の太刀を手にしながら一心不乱に弾正山本陣へと駆けた。
本隊馬廻衆に討ち取られていく同輩たちに後ろ髪を引かれながらも、大将首一つだけを狙った決死隊が向かってくるのを聞いた三河守は、おおいにうろたえて陣城へと逃げていき、
「おおいっ! 彦右衛門っ! どうにかせいっ!」
と、震え上がったが、魔獣のような咆哮と、それに押しつぶされた悲鳴がすぐ間近にまで聞こえてきた。
そこに、引立烏帽子の牛太郎がそれとなく現れた。
「おい、格さん。ようやく出番だぞ。家康殿を守って勲功を立てろ」
牛太郎は、いつもの従者たちと揃って弾正山にいた。簗田隊が最右翼に回っていった隙を見計らい、太郎や玄番允がいる居心地の悪い自隊よりも、牛太郎を英雄扱いしている三河勢のもとにひそかに移っていたのである。
牛太郎に後押しされて、七左衛門は目をぎらつかせながら、決死隊と馬廻衆が刃を交える陣幕の向こうの喧騒へと駆けていった。治郎助が後を追うように兄に付いていき、あとの従者たち、弥次右衛門と利兵衛はぼけえと立っているだけで、栗綱はその辺の草を食べていた。
武田兵を討ち取ったという報告が使わされてきて、精鋭の兵卒たちで周囲を固める三河守は、安堵の息をつくと、再び物見塚まで戻っていった。牛太郎もあとをついていく。
連吾川の向こうには、赤備えの生き残りが見える。
かつて、飯富虎昌という男がいた。
宿老中の宿老として武田軍に重きを成し、甲山の猛虎と敵から恐れられた豪傑であった。信濃豪族を相手に九十七の首級を挙げたこともあり、また、そのころはまだ長尾景虎と名乗っていた不識庵率いる八千の軍勢を相手に、わずか八百の兵で城を守ったこともあった。
武田騎馬隊赤備えを最初に組織したのも彼である。
山県三郎兵衛尉の兄だ。
二十歳以上も年上で、父と子ぐらいの齢の差があったこの兄に、三郎兵衛は尊敬の念という言葉だけでは済まされない思いを抱いていた。
天下無双の武田騎馬隊のまさに中核。どんな敵にでさえ立ち向かう勇気と、したたかな戦術眼を併せ持つ彼に憧れたし、一方で、同じ血を持つ兄弟を公言するのにはためらいもした。
勇壮な赤備え。
三郎兵衛こと、当時の源四郎は、いくら切磋琢磨しようとも、あまりにも兄が偉大すぎて、己など、そのまばゆい背中を眺めて見るだけが関の山かもしれない。
飯富虎昌という男がいたころは、確かにそう思うときもあった。
無論、徳栄軒、そのときの武田晴信は、虎昌の武勇に絶対の信頼を持っていた。嫡男の太郎義信の博役に任命したほどで、それは飯富家にとっては栄誉なことであり、源四郎は兄を誇りにさえ感じた。
ところが、飯富虎昌という男は自害した。
源四郎の密告で。
ある日、嫡男義信は、灯篭流しをすると言い出して、近しい者を集めた。その場所が飯富邸であった。そして、源四郎は彼らの謀議、兄の言葉をふすま越しに聞いたのである。
「おやかた様を亡き者にし、若君を甲斐の守護に押し立てよう」
源四郎は初め、驚愕し、愕然とした。どうすればよいのかわからなかった。そのうち、怒りさえ湧いた。その大部分は兄が主君を裏切ろうとしていることへの怒りではなく、兄の眼力のなさに対する怒りであった。今の武田があるのは間違いなく武田晴信という主君がいるからであって、義信は仮に凡人ではなかったとしても、父を凌ぐ器ではない。
源四郎は兄ではなく、武田の道を取った。
「兄が若君を担いで、おやかた様を謀殺せしめようと企んでおります」
源四郎は主人に密書を送った。
企ての発覚に、義信は寺に幽閉され、兄は腹を切った。源四郎は、兄よりも主君を取った忠誠を買われ、断絶していた山県の名跡を与えられるとともに、裏切り者の兄の赤備えを引き継ぐこととなった。
ただ、時を経ていくごとに、本当に兄は主君を裏切ろうとしていたのかと思うようになった。あの日、義信が飯富邸に近しい者を集めたとき、兄は、源四郎が屋敷にいることをわかっていたはずだ。謀略を働かせようとする人間が、そのようなつまらぬ過ちを犯すはずがない。そして、源四郎が、兄よりも主君を取るような人間だと承知していたはずだ。
そして、義信にも、
「源四郎はいない」
と、言ったのではないのか。
あえて、謀議を聴かせたのではないのか。
汚名を被ろうとも、自らの命を絶とうとも、博役であった兄は、そうすることでしか、主君への忠義を果たせなかったのではないのだろうか。
もっとも、そのとき、源四郎がそう思ったとしても、やはり、密告以外に道はなかった。
謀略の露見による醜態により、それまでの兄の武勇は掻き消えた。また、源四郎が山県の名跡を継いだことにより、飯富家は断絶した。
兄が唯一残したものは、赤備えだった。
もしかしたら、徳栄軒も、兄があえてそうしたことを悟っていたから、赤備えを源四郎に継がせたのかもしれない。
そう。武田赤備えとは、単なる朱色の群れではない。武田武士団に流れる血脈の表れなのである。
内藤修理による弾正山本陣への突撃も失敗に終わり、武田軍はいよいよ敗色濃くなりつつあった。
「者ども、よく聞けい」
左翼突撃の激戦に消耗し、わずかな手勢のみとなった赤備えを、小幡隊、小山田隊の残兵と合流させ、隊列を改めて組んだ三郎兵衛は、疲労の果てに導かれた澄んだ眼差しを据えている兵卒たちに言った。
「三方ヶ原で我らは三河の首を討ち取り逃した。そして、今、あのときとは逆転し、我らの首が三河の者どもに討ち取られんとしている。しかし、もしも、お主らに意地があるのならば、一度は狙った三河の首、その手にしてみせ、おやかた様のもとに参上つかまつるのだ」
兵卒たちは静かにうなずいた。震えている者もいたし、涙を流している者さえいた。当然、恐怖ではない。
「我ら武田騎馬隊は死してもなお、天下に轟くっ!」
雄叫びが沸騰した。
「かかれいっ!」
三郎兵衛の朱槍が振り下ろされ、赤備えは縦列隊形を取って走り出した。騎馬がしなやかに四肢を駆動させ、燃え立つ赤鎧を揺さぶりながら、その鼓動はゆるやかな大地を叩き込み、打ち鳴らされる太鼓と、声、声、声。血のにおい漂う風を打ち払い、泥にまみれながら、ほのかに花咲く川を越え、同輩たちの亡骸が横たわる死地を駆ける。叫ぶ。抜けていく。
このとき、武田軍右翼で真田隊を殲滅し、残るは中央とした織田の部隊が、弾正山手前の柵外に押し出てきていた。滝川隊、佐久間隊を茶臼山手前に残し、柴田隊、羽柴隊、丹羽隊、簗田隊が織田永楽銭の黄旗を並べ立てていた。
勝機にはやったか、ここにきて連合軍の従来の戦法が乱れている。三郎兵衛は瞳孔を押し広げた。
織田の弱兵どもなど、赤備えの敵ではない!
乱発された銃弾をかいくぐり、武田騎馬隊の真髄が織田の兵卒たちに注ぎ込まれた。衝撃が黄旗を次々となぎ倒していった。一騎が駆け抜けざまに、一人、二人、三人と軒並み槍の餌食としていき、赤い火の玉が黒光りする具足の波の中を縦横無尽に飛び交った。
「迎えっ! 迎え撃つんだぎゃあっ! 赤備えを討ち取って功名を挙げるんだぎゃあっ!」
「怯むなっ! 九之坪勢の無念、忘れたかっ! 仇はすぐ目の前ぞっ!」
「者ども、我が父上に成り代わり、宿敵を討ち取れいっ!」
沓掛鉄砲衆が脂汗を滲ませながら、銃口を構える。しかし、躍動する騎馬に照準が定まらない。次々に繰り出される騎馬隊の縦列突撃に織田部隊の列は乱れに乱れ、そこを赤備え足軽兵卒が長槍を揃え立てて押し込んでくる。
柴田権六、丹羽五郎左、ともに、柵外では武田軍に到底適わないと見て、一事退却の令を放った。
ところが、
「おりゃあらこそが天下の羽柴筑前の部隊だぎゃあっ! 手柄、手柄、手柄だぎゃあっ!」
「殿っ! 目を覚まされなされっ! 手柄など命の前には無用ですぞっ! もはや勝ち戦なのですぞっ」
「うるしゃあっ!」
頑なに立ち向かおうとしている羽柴隊を見て、左衛門太郎は武田騎馬と槍を混じえながら、新七郎に声を放った。
「筑前殿に兵を退かせよと通告してこいっ!」
「我らも引くべきですっ!」
「今、我らが引いたら、筑前殿は討たれるぞっ! 早く行けっ! 行くのだっ!」
しかし、柴田隊、丹羽隊が抜けていった穴を赤備えは突いてくる。騎馬遊撃にかき乱され、決死の覚悟で吠え立てる足軽兵卒の波濤に、簗田隊、羽柴隊は柵のきわまで押し込まれていく。
柵の中から本多平八郎が激昂した。
「織田は早く引けえっ! 貴様らは何をやっておるのだあっ!」
敵味方入り乱れての打ち合いに、柵の内にひそむ石川隊、本多隊の鉄砲衆は一斉射撃を駆使できない。散発的に銃弾を放つだけで、しかしそれも、駆け巡る騎馬を撃ち落とすことができない。
「殿っ! あれは簗田殿の隊ですぞっ!」
「わかっておるわっ!」
平八郎は拳を握りしめ、一度、弾正山本陣に目をやった。
「柵門を開けっ! 打って出るぞっ!」
――。
芥子粒ほどまでに消えかかっていた武田の勝利であった。だが、切れそうな糸を手繰り寄せているうち、三郎兵衛は視界に見えてくるかもしれないと感じた。
内藤修理の怒涛の攻撃により、徳川本陣にはひびが入っている。織田徳川の足並みが揃わない今、ここを突き抜ければ、徳川三河守の首。
まだ、大膳の本隊が控えている。三河守さえ討ち取れば、瓦解した連合軍を戦場から敗退せしめるのは難儀ではないはずだ。
三郎兵衛は朱槍を固く握ると、血走りの目で吠えた。己の体に残るあらゆる力を奮い立たせ、馬の横腹を蹴り込んだ。
全身全霊をかけて弾正山へと。
「我こそ山県三郎兵衛尉っ! いざ、参るぞっ!」
三郎兵衛は数人の精鋭を引き連れて、乱戦に飛び込んでいった。朱槍を振り回して織田の兵卒たちを次々となぎ倒していき、大将自らの奮迅に赤備えはいっそう燃え立った。
「織田が何する者ぞおっ!」
「わしらは武田の兵卒だっ! 戦うのみ! ただ戦うのみだ!」
「許すなっ! 一兵たりとも進ませるなあっ!」
「我こそ簗田羽州が子息、右近大夫!」
「のけえっ! こわっぱっ!」
三郎兵衛は咆哮のままに槍を振り抜く。左衛門太郎が受け止める。槍のぶつかりざまに、黒連雀が巌のような馬体を、三郎兵衛の愛馬に激突させる。
左衛門太郎の若さほとばしる眼差しと、甲山の猛虎の眼差しとが見合う。
「長年の因縁、父に成り代わって討ち果たしてくれるっ!」
「ぬかせっ!」
突き出してきた槍を、三郎兵衛の朱槍が受け払う。振り下ろされてきた朱槍を、左衛門太郎の槍が防ぐ。
力と力が競り合う。
「どけえっ、小僧っ!」
「ほざけっ、山県っ! ここからは一歩も行かせぬわっ!」
しかし、三郎兵衛の精鋭近習が黒連雀にぶつかってきて、邪魔者に怒り狂った黒連雀がいななきながら前脚をかき上げた。精鋭近習の馬は黒連雀に蹴飛ばされ、左衛門太郎も馬上の武者に槍を振り抜くが、この隙に、三郎兵衛は鐙を蹴り払い、手綱を押し込んだ。
「逃げるか! 山県っ!」
「貴様の首に価値はないっ!」
しかし、飛び交う怒号の中で、聞き覚えのある声が三郎兵衛の耳へと貫いてきた。
「山県あっ!」
漂う硝煙を切り裂き、敵味方かまわずに兵卒たちをなぎ倒して一伸びに向かってくるのは、赤と黒が混ざり合う中で、ひときわ目立つ栗毛の馬体。馬上にあるのは引立烏帽子の武者。
簗田なのか――。
「これで終わりだあっ!」
栗綱とともに突き進む牛太郎は、朱の兜目掛けて銃口を覗き込み、引き金を引いた。
あの空は、どこからが空で、どこまでが空なのだろうか。
始まりも終わりもない、この無限の世界で、人々の意識とはどこからやって来たのだろうか。どこへ消えていくのであろうか。あるいは、延々と続くものなのだろうか。
実は意識とは永遠に消滅しないものであって、しかし、それは人智では証明できないから、生きているのか、死んだのか、そうした区別できる判断基準でもって、喋らなくなった意識、動かなくなった意識は、この世界から消滅したと見誤っているのではないのだろうか。喋ったり、動いたりしているのは、肉体を借りて、意識を表現しているだけにすぎないとも限らなくはないのだから。
もしかしたら、この空には、誰かの意識があるのかもしれない。もしかしたら、意識とは、ここにあって、ここにはないものなのかもしれない。
どちらにしろ、なんにせよ、意識とは証明されないのだろう。
ただし、全知全能の宇宙にたたずむ孤独の己こそが、与えられた生命の中で、この意識を証明できるのだった。それは確固たる自分であった。どこからやって来て、どこへ消えていくのか、それはわからない。ただ、この瞬間、この意識が、この肉体、この精神にあることだけは誰にでもわかるのだった。
人間は生まれながらにして、意識を己のうちに証明している。
生死の眼差しの交錯は、二人の男、それぞれの意識と意識とが邂逅されたひとときであった。銃口を構えて、相手を覗き込む簗田牛太郎の目。手綱を返し、朱槍を握り締めて向かっていく山県三郎兵衛の目。
語らずとも、通じていた。
これまでのこと。
これまでの思い。
今、ここにある覚悟。
身が朽ち、肉体が滅んでいったら、この意識はどうなるのかわからない。どこか新たな場所に行くのか、さ迷うのか、消滅するのか、わからない。
しかし、生き残った者の意識の中には、いなくなった相手の意識の断片が刻まれるであろう。
死してもなお、生かしてくれる。二人は互いをそう信じ合いながら、
殺し合う。
狙いを絞って銃口から放たれたはずの弾丸は、三郎兵衛が馬を切り返したことにより、その命を仕留め損なった。しかし、朱槍を手にしていた右の腕を弾き飛ばした。血飛沫の衝撃により三郎兵衛は槍を落とした。それでも、苦痛に顔を歪めながらも、三郎兵衛は左の手で太刀を抜いた。
牛太郎も顔色一つ変えず、駆けていくままに火繩銃を捨てると、切り結んだまなじりで太刀を抜いた。
主人を背負う互いの馬が駆け寄り合う。
「これで全部終わりだっ、山県っ!」
牛太郎は両手で握りしめた太刀を頭上に振りかぶった。
「お前に俺がやれるかっ、簗田っ!」
三郎兵衛は片手の太刀を振りかぶった。
馬同士がぶつかり合い、振り下ろされた鍔と鍔がかち合った。血走った目を衝突させた。歯を食いしばった。
「うおおっ!」
牛太郎は瞳孔を剥き出しにして吠えながら、力だけに任せて太刀を押し込め、競り上げようとした。本来なら、牛太郎ごときの腕では、三郎兵衛には到底かなわない。だが、三郎兵衛は負傷していた。それに、牛太郎は、栗綱という名馬と異体同心であった。瞳を黒々と燃やす栗綱は、鶴首のまま三郎兵衛の愛馬を押し込めていく。
が、三郎兵衛の意地がまさった。武田の意地、赤備えの意地、戦国乱世を駆け抜けてきた男の意地。瞼の中を真っ赤に走らせ、唸り声を喉の奥からほとばしらせると、血みどろの右手で太刀の柄を握りしめ、
「うおらあっ!」
牛太郎の太刀を跳ね飛ばした。
「簗田あっ、俺とともに散れいっ!」
三郎兵衛はよろめいている牛太郎の頭部目掛けて太刀を振り落とした。だが、栗綱が前脚を振り上げながら、馬体を起こした。三郎兵衛の馬が弾き返され、太刀は空を切った。
「おのれえっ!」
例のごとく鐙に足を縛り付けている牛太郎は、愛馬が立ち上がっても落ちなかった。いや、体も反らなかった。長年、この狂馬を乗りこなしてきたうちに、栗綱の母馬に振り落とされた昔のことが嘘のような成長を見せていた。
いや、今の彼の中では、栗綱と共にする躍動が当然のこととなっている。太刀を振り回すこと、銃弾を放つこと、戦場を雄飛すること、彼の中では当然のこととなっている。
簗田牛太郎はまず間違いなく豪傑ではないが、広大な戦乱を必死に突っ走ってきた男であるのは確かであった。出自不明、何の頼りも持たずに始めた第二の生涯は早十五年。
栗綱が着地する。研ぎ澄まされた潤い。設楽ヶ原決戦という大舞台を引き起こしたこの男は、藍染めの陣羽織の裾をはためかせながら、太刀を左手にし、揺るぎない瞳で宿敵を見つめていた。
陽気の発するところ、金石もまた透おる。精神一到、何事か成らざらん。
「望むところよっ!」
「往生しろっ!」
二人はそれぞれ太刀を振り落とすと、再度鍔を競り合わせた。互いに歯を食いしばりながら、火花を散らせ、彼らの戦場はここだけであった。
「殿おっ!」
三郎兵衛の配下が突っ込んできた。突き立てる槍は牛太郎の首だけを狙っていた。牛太郎には見えていなかったが、栗綱が体を翻し、後ろ脚で蹴散らした。そのはずみで牛太郎は体勢を崩し、あわてて手綱を取る。
三郎兵衛の眼光がぎらついた。太刀を振りかぶる。
が、駆け込んできた何者かの槍が三郎兵衛の馬を突き刺した。馬は悲鳴を上げながら暴れ駆けてしまう。
槍を手にしていたのは利兵衛だった。さらに左衛門太郎の黒連雀が駆けつけてきて、三郎兵衛配下を吹き飛ばす。一方で赤備え精鋭たちも三郎兵衛の危機に騎馬を駆け巡らせてくる。
「殿っ! 早く、早く、お逃げ下さいっ!」
利兵衛は涙目になりながらそう叫んでいた。
「馬鹿野郎っ! 逃げんなっ! 山県をやれっ! 格助っ!」
そう放っている間に、精鋭が一騎、牛太郎に襲いかかってきた。
「父上っ!」
左衛門太郎が悲痛に呼んだ束の間、銃声が起こった。狙撃された騎馬武者は鞍を空にして落ちていき、牛太郎が投げ捨てた銃身を構えている者は於松であった。
そして、
「大将首、取ってやらあっ!」
七左衛門と治郎助が暴れ狂う馬目掛けて突入していき、馬上の三郎兵衛に槍を突き立てた。三郎兵衛は七左衛門の槍を払いのけ、治郎助の槍をすんでで交わした。
主人の危機を間近に猛然と駆け抜けてきた赤備え精鋭が、宿屋兄弟を吹き飛ばす。
蹴りこまれた七左衛門は呻きながらも起き上がったが、治郎助が肩を押さえてもだえている。弟は肩口を斬り込まれていた。
「治郎っ!」
「大丈夫だから、旦那様を」
その前を栗綱が疾走していった。牛太郎は太刀を構えながら、一心不乱に三郎兵衛へと迫った。だが、赤備えの騎馬武者が立ちはだかった。身を呈して栗綱の進路を止めてきた。
「殿、先をっ!」
「どけえっ!」
牛太郎の振り払った太刀が、武者の顔面を真一文字に斬った。鮮血が噴き出したが、しかし、浅かった。
「行かせるかあっ!」
血で染まった顔に白い歯を剥き立たせて、武者は槍を打ち下ろしてきた。柄が、引立て烏帽子を通して、牛太郎の頭に猛烈に直撃した。牛太郎は目を回して、よろめいてしまう。
「旦那様あっ!」
七左衛門が駆けつけてきて、槍を突き伸ばす。武者が七左衛門の槍を払う。後からやって来た利兵衛が馬を刺す。打ち合いの隙に、駆けつけてきた栗之介が鐙の縄を切りほどき、朦朧としている牛太郎を鞍から引きずり下ろす。
馬をなだめつつ、三郎兵衛はその光景を視界から振り払った。太刀を握り返し、負傷した右手で手綱を振ろうとした。
そのときであった。
「山県三郎兵衛尉!」
三つ葉葵の旗が乱戦をかき分けてきていた。
「三方ヶ原が辛酸、この松平善兵衛晴らしに参ったっ!」
十数丁の銃口が三郎兵衛ただ一人に構えられた。
「撃てえいっ!」
善兵衛の太刀が振り下ろされるとともに、火蓋が一斉に落とされた。
喧騒の時が止まったかのように、銃弾だけが空間を伸びてくるかのように、瞬く間もない速さで三郎兵衛に迫ってきた。
武田の夢。
意識とはどこからやって来て、どこへ消えていくのだろうか。
いや、永遠に続くのかもしれない。
赤備えを率いていた三郎兵衛は、今まで、自分の兄がどこかにいるような気がしていたし、自分の主君がどこかにいるような気がしていたのだ。
だから、きっと、三郎兵衛、いや、飯富源四郎の夢も、誰かがどこかで感じるはずだろう。
きっと。
利兵衛や栗之介の呼びかけは聞こえていた。ただ、それは言葉というよりも、騒音にしか感じられなくて、彼らが何を訴えかけてきているのか、さっぱりわからなかった。
白く濁った空だけが牛太郎の視界に広がっている。溶け込むような雲が、ゆっくりと流れている。
「......」
山県――!
牛太郎は焦点を合わせると、その瞳を大きくさせながら、おもむろに体を起こした。
目に見えないものを唖然として見送る。
戦場は変貌している。
どの部隊と競り合っているのか、三河勢が武田旗を川沿いへと押し出している。
茶臼山、弾正山の双方からは法螺貝の音が轟いており、総反抗の合図であった。
そんな中、栗綱が牛太郎たちからやや離れたところでぽつねんとたたずんでいる。両耳を張り立たせながら、戦線の川沿いを眺めており、いったい、何を思っているのか。
日差しを受けて金色にも輝くたてがみが、風にそよいでいる。
「殿っ! 殿っ!」
牛太郎があまりにも放心してしまっていたからだろう、利兵衛がにわかに体を揺さぶってきた。
「鬱陶しい。やめろ」
と、顔をしかめながら、利兵衛の手を肩でのける。すると、槍で打たれた頭に痛みが走って、牛太郎は烏帽子を抱えながらしゃがみこんだ。大きなたんこぶができていた。
「おいっ、大丈夫なのか、旦那っ」
さすがの栗之介も、栗綱べったりではなかった。
「心配すんな。痛いだけだ」
牛太郎は痛みに表情を歪めながら、手をついて腰を上げた。涙目の利兵衛に太刀を手渡されて、億劫そうに鞘におさめる。
すると、急に呟き出した。
「青山北郭に横たわり、白水東城をめぐる――」
牛太郎が何を口走っているのか、従者たちにはわからなかった。
「この地ひとたび別れを為し、孤蓬萬里にゆく。浮雲、遊子の意。落日、故人の情。手をふってここより去れば、しょうしょうとして班馬鳴く」
唐代随一の詩人、李白のものであった。
青々とした山々が町の北に連なり、白く輝く水が町の東を廻っている。この地で別れを告げ、君は孤独なよもぎのように遥かかなたに旅立っていく。浮雲は旅人の心のようにただよい、夕日は私の情を物語っている。手を振って分かれゆけば、悲しそうに馬もいなないている。
「ど、どうされたのですか、殿」
頭がおかしくなってしまったのではないかと言わんばかりの利兵衛に、フン、と、牛太郎は鼻を背けた。
「細川さんに教えてもらったのを思い出しただけだ」
白く輝く水どころか、夕日どころか、辺りはすっかり武田騎馬隊の残骸である。
「そんな訳のわかんねえことよりよ、旦那」
そう言いながら、栗之介は牛太郎の背後に目をやって、促してきた。
そこには、鮮血まみれの七左衛門が突っ立っている。手には何者かの首を下ろしていた。
「七左が首を討ち取ったぞ。旦那をぶっ叩いた奴を」
「きっと首級ですっ! でも、私も、私も、手伝ったのですよっ!」
ところが、当の七左衛門はまるで憮然としている。牛太郎は頭のたんこぶを撫で回しながら、口端を歪めた。
「なんだよ、喜べばいいだろうよ」
「いえ。危うく旦那様を死なせてしまうところでしたから。それに、治郎だって」
うつむく七左衛門。弥次右衛門に肩で支えられている治郎助は、可愛げのある弟らしく、ただただ笑っている。
「生きてりゃいいだろ。だいたい、かっこつけんな。どうせ死に物狂いだったくせに。喜ばなきゃ、そいつだって浮かばれないだろうが」
七左衛門は唇を尖らせた。
本陣からの号令により、織田徳川連合軍は柵外へゆっくりと進出し始め、緒隊各々、行き交う使い番が声を張り上げ隊形を揃えていく。牛太郎がいる辺りは、すでに本多隊、石川隊が飛び出ていたが、柵の向こうを岡崎次郎三郎の後詰部隊の旗が埋め始めていた。
「山県は、死んだか」
「善兵衛殿の鉄砲隊が討ち取りました」
連吾川に起こっている銃声。善兵衛は三河守嫡男の岡崎三郎に仕えている足軽大将のはずだが、直訴したのだろう、本多隊と行動を共にしているらしい。
「そっか。善兵衛がやったのか」
そういえば、三方ヶ原のときも、二俣城兵は本多隊とともに前線に出ていた。中根平左衛門、青木新五郎。
牛太郎は空を仰いだ。
「ししし」
於松が腰を曲げながらのそのそと歩み寄ってくる。左の肩には十兵衛譲りの火繩銃を担いでいるが、右手にはどこから拾ってきたのか朱槍を携えている。
この老人のことだから、どさくさに紛れて戦利品を物色しているのだと思い、牛太郎は眉をしかめて語気を強める。
「ジジイ。薄汚ねえ真似してんじゃねえ」
「違いますって、旦那様」
と、朱槍を牛太郎に手渡してき、茶色にあせた瞳でねっとりと見上げてくる。
「山県の槍ですわ」
両手に抱えた朱槍に思わず食い入った。一般的な槍よりも柄が太く、ずしりと重かった。刃先には生々しい血が付着している。
「どうせいくさが終わったあとには乞食が持っていっちまうんだから、旦那様がもらっちまえばいいんじゃないんですかね」
於松は弥次右衛門に火繩銃を押し付け、自分はそのまま腰を下ろしてあぐらをかいた。ぶら下げていた瓢箪の栓を抜き、水を飲みながら言う。
「本当は山県の首が欲しかったんですがねえ。赤備えが泣きながら持っていっちまいました」
牛太郎は押し黙ったまま朱槍を見つめる。
「山県殿は強かったですか」
「当たり前だろうが」
と、牛太郎は笑う。持っていろ、綺麗に磨いとけ、と言って、利兵衛に朱槍を渡すと、ついしがた皆々が激しく吼え上げていた場所を見渡した。折れた矢や旗が散乱し、四肢を震わせながら息絶えようとしている馬、無言で土に伏せている赤い屍の数々。
陽光の押し照る戦場。設楽ヶ原を囲む山々は青い。
「あいつらだから、おれだって本気になったんだ」
牛太郎は自分で言っておきながら、うつむいて少し笑った。長年の目的を果たしたにもかかわらず、感傷的になりがちな気分をまぎらわそうと冗談のつもりで言ったのだが、従者たちはいつものように騒がない。むしろ、小馬鹿にしてくれたほうが助かったのに、彼らは実に清々しそうに牛太郎を眺める。
「まあ、お前らがいなければ負けていたよ。今ごろ死んでいた。なあ、格さん」
「だ、旦那様」
「お前もだ、利兵衛」
朱槍を大事そうに抱える利兵衛は、牛太郎を見つめるままに瞼いっぱいに涙をためた。
「ヤジエモンは助さんを連れて本陣に戻れ。手当てをしてもらってこい」
牛太郎はぼんやりしている栗綱を呼んだ。振り返ってきた栗綱は、一度牛太郎をじいっと見つめたあと、鶴首になりながらゆっくりと歩み寄ってきた。
牛太郎は鞍に手をかけ、馬上の人になると、太刀を抜き、設楽ヶ原の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。何らかの語りが生臭い戦場の匂いとともに、全身へと注ぎ込まれていく。
戦争とは決闘であって、暴力である。暴力によって、自分の意志を相手に押し付けようとする。そして、暴力を徹底的に行う側が優勢を得、意志の勝利を獲得する。だから、戦争に人道主義や善意の感情を持ち込んではならない。
絶対的な殺戮こそ、戦争なのだ。そう、意志を果たすためには手段を選んではならない。
もちろん、戦場に馳せ参じている者は、誰もがそれを理解しているはずだ。理解できない者は戦場に現れる資格を持たない。
だが、暴力を行わせる意志だけが古今東西のいくさ場を生み出していたかといえば、違うだろう。そのいくさ場には数多の生涯があり、それぞれの人生の背景が交錯していたのであって、だからこそ、古来源平の戦いから、ありとあらゆるいくさには後の世に受け継がれる物語があった。
牛太郎と三郎兵衛との戦いは終わった。しかし、自らの意志を押し付けたことによって三郎兵衛の生涯を終わらせた牛太郎の戦いは終わらない。
三郎兵衛の意志は、牛太郎に十分に伝わっていたからだ。
吸い込んだ息を大きく吐き出した牛太郎は、手綱を握り締めると、陽光に彩られる眼差しを従者たちに向け、薫る風のような若々しい笑みを浮かべながら言った。
「お前らは夢を見ているか」
――内蔵助。俺に付いてこれるかあ?
火繩銃を担いだまま馬に跨り、浴衣をはだけさせ、腰には瓢箪やら革袋やらをぶら下げ、当主らしからぬうつけの姿。みずみずしく輝く瞳、ひょうひょうと浮かべる笑み、鳥を撃ち落とさんばかりに甲高い声。
織田上総介に仕えてきた内蔵助の感覚とは、野武士のようなものでしかなかった。
事実、彼は尾張春日井に起こった土豪の末裔である。若かりし頃から上総介の馬廻として仕えてきたが、それはまだ主従ともども尾張という野を駆け巡っていたときのことで、上総介という青年親分に率いられる地侍たちの一人が内蔵助であったのだ。
今でこそ、茶の湯を強要される織田の者どもだが、濃尾平野に覇を唱える前までは、それこそ郎党らしく暴れ回るだけの日々であり、明日とか、将来とか、そんなものは無い。立ち向かう輩を斬れば斬るほど功名は増していき、突き進めば進むほど所領が増えていく。織田の存続という大義のもとに暴力の限りを尽くし、獰猛であればあるほどそれが戦国乱世の正義である。
内蔵助に限らず、皆がかつてはそう信じていたろう。前田又左も、丹羽五郎左も、森三左も。なにせ、鬼五郎左、攻めの三左の異名を取った背中には憧れたものだ。
そんな織田郎党に掲げられたのが天下布武である。
「おやかた様がまたかぶいたか!」
最初、内蔵助の受け止め方はそんなものでしかなく、上総介らしい壮大な文言に血気をはやらせた。戦場は、尾張の田舎から、ついに天下へと広がっていく。聞こえに高い豪傑たちとはいかほどのものであるか。
いや、俺こそが天下に名を馳せる。
ところが、上総介が目指す天下布武とは、夢幻の霧を切り裂いていくような猛々しいものではなくて、ひどく現実的な事業であった。
有名無実と化した足利将軍を押し立て、上洛を果たせば浮世の妖怪のような公家たちと交わり、いざいくさとなっても大兵力を動員して、個々人の力が発揮される場所などは提供されない。
挙句には、明智十兵衛、木下藤吉郎と、ちょっとひねればへし折れそうな連中ばかりが重きを成していく。
もはや、尾張の郎党ではなかった。上総介は親分から主君へと変貌し、その周囲にはびこった連中の能書きが織り成すのは、織田という政権であった。
乱世を駆け抜けているはずの武人ですら、祐筆などと同じ、政権の手駒でしかない。
いつしか、内蔵助はそう思い始めていた。
だが、彼はこの設楽ヶ原において、ある執念を燃やしていた。
未の刻(午後二時ごろ)。織田徳川連合軍は堰を切ったように連吾川の戦線へと打って出たが、織田軍総反撃の先陣を切ったのは佐々内蔵助率いる黒母衣衆であった。上総介に今こそ反攻の時機と進言したのも彼である。
内蔵助の進言が上総介に通ったことなど、初めてかもしれない。
この男は設楽ヶ原の野を駆けながら不敵に笑っている。三段撃ちなどというせせこましさから解放された彼は、水を得た魚のごとく、充実しきっていた。明智十兵衛、羽柴藤吉郎、簗田左衛門太郎などに次々と追い抜かれていき、はちきれんばかりの図体を持て余して、かびの生えた石ころみたいにくすぶっていた昨日までの内蔵助はいなかった。
「松千代、父の生きざま、しかと見とけ」
呟きながら槍を高々と突き上げた。
「ぶち殺せえっ!」
槍を振り下ろした先は内藤修理亮隊。柵ぎわの消耗戦によりもはや千にも満たないが、徳栄軒の片腕であった男である。相手に不足はなかった。
戦場の勝敗よりも、この一太刀に、佐々内蔵助成政という男をどう見出すかが、設楽ヶ原決戦における彼の人生の務めであった。
耳にしたことがあった。
父上は筋肉達磨と小馬鹿にされているではないか。羽柴殿のほうが、よっぽど功を上げておられる。そのくせ、羽柴殿に目くじらを立てておるのだから、実は分別をわきまえていないのでは。
そんな生意気な口を陰で叩いた愛息は、長島侵攻の折、流れ弾に当たって、たった十四年で生涯を終えた。
「惨めな息子らしい無様な死に方だ」
と、内蔵助はたった一人の男子を喪ってもなお、配下の者たちの前では歯牙にもかけない様子であったが、
「内蔵助」
長島から戻ってきて数日後、上総介に呼ばれたときのことだった。
「俺は、織田郎党を率いる親父として、お前のかけがいのない息子を戦場の犠牲にしてしまったことを申し訳なく思う。許せ」
その言葉に内蔵助はしばらく呆然とした。そうして、滲み出る涙を隠すようにして額をこすりつけ、肩衣に盛り上がる体躯を震わせた。
「も、もったいなきお言葉。松千代丸は果報者です」
――内蔵助。俺に付いてこれるかあ?
魔王織田上総介を、今、うつけ呼ばわりする者はいない。ただ、いまだに親分だった。彼は尾張のころと変わらず、織田郎党を率いているのだった。
松千代丸に陰口を叩かれたのも仕方ないかもしれない。自分は何もわかっていなかったのだから。
郎党に忠義などという大それたものはない。兄弟の血よりも濃い絆、結束、連帯、仁である。
「我らこそが真の織田郎党よ! 甲斐の山猿ども! 尻尾を巻くなら今のうちだぞっ!」
「何をおっ!」
「もう勝った気でいんのかあっ! この野郎っ!」
武田兵は鼻息を荒げ、内蔵助へ一斉に槍を突き立てていくも、
「うおりゃあっ!」
大槍が地を這うように振り回されて、兵卒たちはまとめてなぎ倒されていく。内蔵助は高らかに笑い立て、
「どうしたっ! 武田の兵など大したことねえじゃねえか!」
「こしゃばってんじゃねえ!」
と、一騎、内蔵助の悪たれ口に憤怒しながら突っ込んできて、槍を叩き落としてきた。内蔵助は身を傾けて怒涛の槍を受け流すと、自らの槍を横に一閃し、甲州武者の頭部を狙い打った。が、相手はさすが武田の馬上の男で、交わされた槍をすぐさま振り上げてきて、内蔵助の槍を払い退けた。
内蔵助は手にしびれを覚えながらも、ぐっと握り返し、瞳孔をぎらつかせて殺気だっている男に構えを直しながら、にたりと笑みを浮かべる。
「山猿のわりにはなかなかやるじゃねえか。名を名乗ってみろ。いくさ土産にしてやる」
「調子ずくんじゃねえっ!」
怒りの甲州武者は槍を無数に突き立ててき、さらに周りの武田足軽たちも狩りたてるように襲いかかってきて、内蔵助は槍先を防ぐのが精一杯となった。がなり声をあげながら迫ってくる武田連中の攻撃をこらえているうち、内蔵助も鬱憤が溜まってきて、最初は自分から挑発したくせに激怒した。
「鬱陶しいんじゃあっ! コラあっつ!」
滅多やたらに槍を振り回し、見境もうしなって、野獣の雄叫びを上げていく内蔵助。槍の打ち合いというよりも、人馬と兵卒たちが揉み合うような状態となり、内蔵助の援護にあとから突入してきた簗田隊が足軽たちを蹴散らしていき、
「撃てえっ!」
いつまでも苦闘している内蔵助に成り代わって、左衛門太郎の激が武田武者を銃弾の的にした。
絶命し、鞍から落ちていった甲州武者を、内蔵助はしばらく肩で息を切らしながら見つめていたが、邪魔に入ってきた者が太郎だと知ると、細切りの瞼を吊り上げて睨みつけた。
「しゃしゃり出てくるんじゃねえ、小僧」
太郎は内蔵助に向ける眼差しに怒気をはらませる。
「恐れながら、馬鹿の一つ覚えのように突っ込んでいって勝利が得られましょうか。命を無駄に投げ打つ場面ではありませんぞ」
「馬鹿で結構! 死んだら死んだでそれまでよ!」
内蔵助は大槍を握り直すと、手綱を引いて馬を奮い立たせた。
「俺の背中でも眺めて能書き垂れていろ!」
黒母衣を流しながら、再度、斬りかかっていった内蔵助の後ろ姿に、太郎は呆れたような笑みを浮かべると、槍を振り上げ、
「我らも遅れを取るなっ! 本陣はすぐ目の前だぞっ!」
兵卒たちから上がった喚声とともに、黒連雀の腹を蹴り込んだ。
夜明けより始まった決戦は、稀に見る長時間の死闘であった。
そして、雌雄は決した。柵外に全軍躍り出てきた連合軍の勢いに、武田軍は防戦一方であり、かすかな勝利の道筋さえ見当たらない絶望のときが歩み寄ってきていた。
押し寄せてくる連合軍の大兵力を間近にして、才ノ神本陣は将校あわてふためく騒乱の渦と化し、当初は何ら進言をすることのなかった連中も、このときばかりは大膳に次々と詰め寄り、全軍退却の指示を放つよう訴えた。
床几に腰を据える大膳は、目を閉じている。佐久間右衛門尉の寝返りなど、この状況ではもっての他、上総介にまんまとしてやられた挙句に、大勢の死者を出してしまったことに後悔の念しか湧かず、かといってどんな言葉を発しても、惨めな己をよりいっそう惨めにしていくように思われ、無表情でいることがせめてもの抵抗であった。
「おやかた様」
長坂釣閑斎が言った。
「このままでは本陣を急襲されてしまいまする。後詰の穴山隊を当て、その間、我々は退きましょう」
大膳は目をつむったまま、何もこたえない。
「おやかた様っ! おやかた様が討たれては武田は終わりです!」
このときほど武田の二文字が重く感じたことはなかった。まるで、初めて、武田全軍総帥が自分であることを認識した。
一体、自分はなんのために存在しているのだろう。天下無双の武田騎馬隊を一瞬にして葬り去ってしまった自分は、一体、なんのために生まれてきたのだろう。
「あいわかった」
表情こそ変えなかったが、大膳は押しつぶされそうな虚無をこらえながら、ゆっくりと腰を上げた。木々の梢からすべり抜けてくる風に、ヤクの白毛をなびかせながら、遠い目で戦場を眺め、言った。
「わしはこれより退却に取りかかる。そう各陣に伝令を放て」
総大将の言葉により、武田軍の敗退は確定し、これより先、全将兵の行動は存続を賭けたしんがり戦に向けられ、才ノ神本陣は大膳を生き残らせるという唯一の目的のためだけにあわただしくなった。
ところが、いざ、引かれてきた馬に跨ろうとした大膳のもとに、思わぬ一報が寄せられた。
「穴山梅雪殿! すでに戦場から撤収! 穴山隊残兵も散り散りに設楽ヶ原から退いております!」
本陣の将校たち、すべての顔面が蒼白した。開いた口もふさがらなかった。一門衆筆頭とはいえ、あろうことか、梅雪は総大将を差し置いて逃げ去ってしまったのである。
驚天動地。武士団には有り得ない出来事であった。
さらに、
「典厩殿の部隊も退く格好です!」
「どういうことなのじゃあっ!」
釣閑斎が額を真っ赤に火照らせながら、手にしていた軍扇を叩きつけた。
「なにゆえじゃっ! 総大将を見捨てる愚か者が古今果たしておったかあっ!」
武田一門の二人による不義理もさることながら、後詰の穴山隊が忽然と姿を消してしまったことは、大膳本隊の危機であった。退却戦は敵の追撃が当然行われ、総大将を逃しつつこの追撃を食い止めるためには、しんがりが絶対不可欠だった。ところが、早朝から行われた激戦のすえ、満足な部隊は穴山隊のみだったのである。
一方で、織田徳川連合軍の様相は見るからに健在であった。茶臼山、弾正山、それぞれの裏手に詰めていた子息の部隊がここぞとばかりに現れてきて、上総介と三河守の狙いは明らかに武田全軍の殲滅であった。
さらには追い打ちをかけるように次から次へと悲報が飛んできた。
「土屋右兵衛尉殿、討死!」
「真田左衛門尉殿、討死!」
「山県三郎兵衛尉殿、討死!」
皆、並ぶ者はいない豪傑であった。あまりの悲惨な結末に、将校たちから言葉は失われた。
どこかから嗚咽まじりの声が聞こえてくる。
武田は、もう終わりだ――。
「もはや、是非にも及ばん」
芦毛馬に跨る大膳はそう呟きながら太刀を抜いた。両軍入り交じる激戦地に目掛け、白毛が逆立たんばかりに瞳孔を広げた。しかし、大膳の決意の形相に将校たちは皆が皆、顔色をはっとさせ、大膳に詰め寄った。
「なりませぬ! おやかた様だけでもお逃げ下さい!」
「甲府に戻れば、また、やり直せますっ!」
「のけえっ!」
「おやかた様がいなくなっては、誰が武田を再建できましょうか!」
「黙れっ! 山県たちを殺しておきながら、わし一人おめおめと甲府に戻れるかあ! どけえっ!」
「どきませぬっ!」
「大殿様は、徳栄軒様は、何度も何度もやられては立ち上がったのです! 退くも勇気です! おやかた様っ、武田は、終わってはおりませぬ!」
「いいから、どくのだ!」
大膳は吠え立てながら馬を蹴り込むが、将校たちが十数人がかりで馬を止めるので、芦毛馬も暴れ回ってしまい、騒然とした。
すると、揉み合うところに旗指物をへし折ったままの使い番が駆け寄ってきて、ひざまずきながら叫んだ。
「丸山砦、馬場美濃守より! 我、これよりしんがりとして織田徳川を迎え撃つゆえ、各人、急ぎ退かれよとのこと!」
大膳は唖然とし、肩から力をなくしていった。
宿老たちを突き放していた彼にしてみれば、馬場美濃のそれは残酷すぎる忠義であった。一門衆の二人が大膳を早々と見限ったのに対し、一切の進言も無視された挙句、敗北に向かわせた大将をなおも生き残らせようとする馬場美濃の忠義とはなんなのか。
鉄仮面を剥いで、瞳を彷徨わせる大膳に笠井肥後守という将校が静かに言った。
「おやかた様。馬場殿は戦場の男です。おやかた様が生き残らなければ、馬場殿は無駄死です。家臣が主人を思うように、主人も家臣を思うのであれば、せめて馬場殿には最後の花を咲かせてあげなされ」
「それで、それで、わしが許されるはずがなかろう」
「許すも許すまいもありましょうか。武田四郎殿は我らの主人です」
笠井は兜の庇に隠れがちな表情に、ほんのりと笑みを浮かべる。
魂は六道世界を輪廻するという。
天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。
いずれも苦しみからは免れられない世界なのだが、修羅道から地獄道まではもっとも業苦の激しい世界である。
ただ、それぞれの道にはありとあらゆる生命を救う菩薩が在って、故人は三途の川を渡る間際、六文銭を手にして、これらの地蔵菩薩に一文ずつ渡していく。
あるいは、三途の川のほとりにいる者に六文銭を渡さなければ、身ぐるみ剥がされるともいう。
いずれにせよ、死を迎えた者の棺には死後世界への冥銭としておさめられる。
真田の旗印は六文銭である。
治部丞昌輝の父、真田幸隆が武田晴信に仕えるさい、武田家のために命を賭していく覚悟の表れとして、六文銭を旗印にしたらしい。
「兄者は船賃を払ったのだろうかの」
治部丞は連吾川の対岸から押し寄せてくる織田軍佐久間隊、勘九郎隊を眺めながら、少し笑った。
左衛門尉信綱の部隊は跡形もなく消えている。
才ノ神のほうを振り向くと、大膳本隊の旗指物がようやく動き始めていた。
武田は終わりかもしれない。この決戦で被った被害はあまりにも大きすぎる。兵力もさることながら、歴戦の勇将たちが次々と死んだ。
それに引き換え、織田徳川連合の将を討ち取ったという報せがまったくなければ、戦っている相手は織田上総介信長である。
誰が止められよう。
父が哀れに思った。真田を興したものの、信濃勢とのいくさに破れて自領を追われ、流浪の末に甲州武田家に帰属し、だからといって容易には領地を回復できなかった。耐え忍びながら、やっとの思いで徳栄軒の信頼を得るようになり、信濃先方衆として越後上杉との戦いに明け暮れつつ、武田家に忠誠を誓ってきたのだ。
徳栄軒のあとを追うようにして死んでいった父は、設楽ヶ原で起こっているこの光景を見たら、何を言うだろう。
武田が終われば、真田も終わる。
「いや、源五郎がおる」
武田一門衆武藤家の養子となった真田兄弟の三番目、源五郎昌幸はこの決戦に参加していない。幼いときに武田家への人質として甲斐にやられたが、風の噂だと、徳栄軒に気に入られたほどの頭脳明晰な弟らしい。
徳栄軒のしようを傍で見ていたのだから、たかだか真田ぐらい生き永らえさせてくれるだろう。
「むしろ、兄者やわしなどより、源五郎こそ父上の跡を継ぐべきなのかもしれんな」
治部丞は微笑を浮かべたまま、槍を握りしめ、手綱を絞り上げた。
突っ込むことしか能のない愚兄にできることは、父が興し、弟が繋げていく真田の名に武辺者の箔を付けること、ただそれのみ。
「者どもおっ! 六文銭の旗印にかけて、しんがりの花、冥土への土産にしようぞっ!」
治部丞の咆哮に、百にも満たない決死の連中が、いちようにして清々しく笑った。
連吾川を越えてきた織田軍の大兵力が、喚声のとどろきをあげながら嵐の入道雲のようにして迫ってきていた。踏み潰さんばかりに、飲み込まんばかりに、黒いうねりを寄せてくる。
「魂を刻めいっ!」
治部丞昌輝以下真田隊兵卒たちは、絶望的なまでの圧力に立ち向かう。潰されまいと、飲み込まれまいと槍を振るい、敵兵にしがみついてでも先を通さまいとし、善戦した。
しかし、織田勘九郎は本隊鉄砲衆を組み従えてきていた。
治部丞昌輝は兄の最後と同じように、おびただしい数の銃弾を受けて、齢三十二、六文銭の旗印のもと設楽ヶ原に散った。
武田本隊退却の兆し。
連合軍の追撃戦が始まった。上総介は依然、茶臼山本陣で戦況を眺めていたが、三河守が弾正山を下りた。嫡男の次郎三郎信康、通称岡崎三郎に伝令を放ち、本多隊と入れ替わって前線に赴き、大膳の首を必ず討ち取るよう申し付けた。
しかし、傍らの鳥居彦右衛門が渋った。
「おやかた様。若君はこれが初陣ですぞ」
「んなこと、知っておるわい」
と、三河守はぎょろ目を戦場に据えながら、薄べらな唇を押し曲げた。
「ならば、なにゆえ。手勢とはいえ、相手は武田の猛者ですぞ。彼らは死に物狂いでしんがりを務めます。若君にもしものことがあればどうするのです」
「何を言う。彦右衛門。桶狭間のとき、わしは幾つだったか覚えとらんのか」
彦右衛門は黙って三河守を見つめる。
「十と七つだ。三郎と同じではないか。そのとき、わしはどうであったか。あやつと同じように岡崎の者どもを連れて、鷲津と丸根を落とした。あのときのわしに親父はおったか」
「おりませぬ」
「わしは見てくれはすっかり狸だがの、胸の内はいつまでも獅子のままだ」
「とはいえ、後悔先に立ちませぬ」
「馬鹿者おっ! わしなんか今まで後悔しっぱなしの人生じゃ! 言われんでもわかっておるわっ! だからといって、失敗を恐れるあまり浜松で寝ておるかあっ? んなことができたら、わしはとうの昔に隠遁しておるわいっ!」
そこまで言われてしまっては、彦右衛門も従う他なかった。
父の命を受けて、岡崎三郎は川向こうの激戦の様相を見取りながら、じりじりと進出した。
「父上は己を獅子とのたまったか」
馬を並足で進ませながら、三郎は傍らの岡崎衆に向けてそう笑った。これが初めての行くさ場とは思えないほど、目玉はぎらついており、口端の笑みだけが齢相応に艶やかである。
「鷲津と丸根の砦を落としたときと同じ齢などと、よく言うわ。わしだったらな、清洲まで乗り込んでいたわい。当然、上総介の栄華もなかったわ」
「若っ!」
たしなめられるのも無理はない。三郎は九歳のときに織田の姫を迎えており、上総介は舅である。
倣岸不遜、物申すことはいちいち怖いもの知らずで、姿こそ青年期の三河守に瓜二つだが、辛抱に辛抱を耐えてきている父との違いは、若さを自由に弾けさせているところであった。
こんな男だから、上総介にへこへこと服従している父は好きではなかった。
しかし、三河という地は好きであった。百姓のように素朴で、英雄のように猛々しい三河武者たちが三郎は好きだった。
岡崎松平が今あるのは、こういう者たちが先祖代々から支えてきてくれたからこそ。
連吾川を越え、武者押しの声とたちどころに響く銃声を間近に聞きながら、三郎はふとふんどし一丁で現れたあの男を思い出した。
「鳥居強右衛門とか言ったな」
「長篠城からの者ですか?」
「ああ。聞けば奴は岡崎の者で、何代も前から松平に奉公していたらしいじゃないか」
強右衛門が磔に処されたのは、設楽ヶ原に着陣してから知った。
「奴が仕出かしたことに比べれば、わしの初陣などなんてことないわ。そもそも、わしには強右衛門のような男が多く従ってくれておる。わし一人が弱かろうと強かろうと、三河勢は巌のごとく頑強なのだ」
だから三郎は、三河勢を引き連れる者として、猛々しくありたいと日ごろ考えていた。
「わしには初陣もへったくれもない。岡崎三郎として生を受ける前から、わしは三河武者の魂と共にあったのだ」
服従している父は嫌いだが、主君として仕方なく辛抱していることぐらいわかっている。だから、子である自分が先陣を切るぐらいの思いで三河勢と共に戦場を駆け巡りたい。
「大膳の首、三方ヶ原に晒して亡き同輩たちの鎮魂としようじゃないか」
三郎の口端には自信という余裕が滲み出ていたが、その眼差しには若さゆえの貪欲、陽光を跳ね飛ばさんかぎりにぎらついている。
「さあ、行くぞっ!」
才ノ神から武田本隊が動いたことにより、前線は、追う者と追われる者、討とうとする者と必死に抵抗する者という構図に変貌したが、退却戦を開始した武田軍にとってたった一つだけ幸いしたのは、設楽ヶ原のぬかるんだ地形であった。
渡河地点が限られているため、武田騎馬隊が全能力を発揮できなかったように、連合軍の追撃も全部隊をもって一斉に仕掛けられなかった。
中央では内藤修理、原隼人佑がよく踏ん張り、大膳が才ノ神から西へ脱出する時間を稼いだ。それでも、徐々にじりじりと後方へ押し込まれていき、山県隊の援護をしていた甘利郷左衛門の鉄砲隊の生き残りは、とうとう銃弾も尽きてしまった。甘利は自らも抜刀し、押し寄せてくる石川隊、岡崎三郎の部隊の兵卒たちを斬り捨てていくが、注ぎ込まれてくる三河勢の兵力はとめどなかった。
甘利は将校でありながら、槍を貫かれ、太刀を浴びせられ、矢じりに射ぬかれ、太腿から血を滴らせながらも。退いては三河勢を食い止め、食い止めては戦った。しかし、振り抜いていた太刀は激戦に耐えられなかった。もう何人目だったろうか、三河兵卒の首を斬り込もうと刃でえぐったとき、ぐにゃりと三日月に曲がってしまった。
使い物にならなくなった愛刀を唖然として見つめ、甘利は泣いた。まるで、自分の信念も限界に達して、手にしているもののように折れてしまった。
土屋も死んだ。真田も死んだ。山県も死んだ。甘利は慟哭のままに空へ向かって咆哮し、太刀を投げ捨てると、脇差を抜いて叫んだ。
「あの柵さえなければ! なければ我らが!」
甘利は自らの腹を切って、自害した。
中央の原隊、内藤隊を相手にする連合軍は、この敵方を包囲しつつあったが、武田兵卒の決死の抵抗のために隊形は乱れ、敵味方色とりどりの旗指物が入り交じる激戦となっていた。
「押せえっ! 大膳を逃すなあっ!」
玄蕃允は汗を垂らしながら、躍起になって兵卒たちに激を飛ばし続ける。
勝利は約束された。しかし、どうしてそこまで必死なのか、自分でも滑稽に思うところはあったが、三方ヶ原とは立場が逆転している今の状況が彼を焦らせていたのだった。
あのとき、武田軍が徳川三河守を取り逃がしたことが、この現状なのだと思う。確かに織田軍の用意周到な作戦の成果が三方ヶ原とは真逆の結末を引き寄せようとしているのだが、織田徳川対武田の流れの根源にあるものは、徳栄軒が死に、三河守が生き残ったという一点だろう。
三方ヶ原の惨敗から二年余、三河勢は復讐の刃を極限にまで研いでいた。
憎しみは連鎖する。武田軍がこれで終わったという保証は誰にもできない。大膳を討ち取ってこそ、本当に息の根を絶やせるのだ。
ただ、かつての三方ヶ原で玄番允が勝蔵とともに死を覚悟して、追撃をしつこく防いでいたように、目の前の原隼人佑の手勢も頑強な人柱となっていた。
「どうしたっ! ここが正念場だぞっ! 怯まなあっ!」
玄蕃允は鼓舞する。簗田隊兵卒は奮い立って襲いかかる。しかし、武田兵は唸り声を響かせながら槍を振るい、気迫で圧倒してくる。
自らが同じ立場を経験している玄蕃允はわかっている。死を覚悟した兵卒というのは常軌を逸しており、もはや人ではない。人の形をした戦闘動物である。肉体はあたかもすべてを弾き飛ばす鋼になったかのように感覚は覚醒され、邪念が削ぎ落ちた目にはあらゆる動きがくまなく見て取れてくる。
超越してしまっている者をむやみに叩き潰すのは至難の業だ。
と、玄蕃允がひっそりと怖じ気づき始めていたら、彼の脇を颯爽とすり抜けていく金色の物体があった。
どこに消えていたのか、栗綱と牛太郎であった。藍染めの陣羽織と烏帽子をなびかせながら、鮮やかな朱槍を手にしている。さらにその後ろを七左衛門と利兵衛が雄叫びを上げながら付いていっていた。
「ビビってんじゃねえっ!」
牛太郎の激とともに栗綱が決死隊へと激突し、馬上から朱槍を振り抜く。緩慢な槍捌きは見るに無残な情けなさであったが、牛太郎は構うことなく簗田隊兵卒たちへと振り返り、
「このボケどもがあっ! 全力で立ち向かえっ! 戦え戦え戦えっ!」
突然現れた牛太郎の勇姿に、兵卒たちの顔つきが変わる。玄蕃允も震えた。
さらにはあの七左衛門までが、
「うおおっ!」
人が変わったかのような鬼の形相で武田兵に槍を突いていく。
七左衛門を何度も長良川に投げ捨てている玄蕃允、目が覚めた。
「オヤジ殿に続けえっ!」
簗田隊兵卒たちの士気は高揚した。彼らからしてみれば、隠居まがいの人物になりつつある牛太郎の登場は、勝利への執念というものを念押しさせ、勝利というものにかすみがちだった戦士の勇気を再度よみがえらせた。
簗田隊の面々は原隊各々を次々に殺傷していき、父親がまた無茶な真似をしていると聞き知った左衛門太郎が、乱戦を切り分けて合流してきた。しかし、そのころには原隊の残存はわずかで、意を決した原隼人佑が名乗りを上げながら自ら飛び出してきた。沓掛鉄砲衆は一斉に銃口を構え、隼人佑を蜂の巣にし、原隊は殲滅された。
それでも、あきらめていない男が一人いた。
内藤修理亮昌豊だった。
大膳が才ノ神から退き、馬場美濃が丸山を下りたことを確かめると、与力たちを集め、
「三河の首、討ち取りに行く。よいか。最後の気力を振り絞るのだ」
静かな表情で配下の者たちにしんがりの後事を託すと、修理自らが二十名弱の精鋭のみで突進を開始した。彼らは連合軍が手薄なところ、葦原やぬかるみをかき分けながら前進していき、連吾川を越えると、柵外に押し出てきていた徳川本陣前へと一躍駆け抜けた。
しかし、三方ヶ原で惨敗し、設楽ヶ原でも危険を見た三河守は臆病なまでにぬかりなかった。本多隊、榊原隊、大須賀隊に本陣前をきっちりと固めさせており、あたかも武田徳栄軒のお株を奪ったかのよう、鳥居四郎左衛門が一騎で大将首だけを狙いに行ったことを思い出したかのように、勝機にはやることなく勇将たちを控えさせていた。
それでも、修理は迷うことなく声を発した。
「突破するぞ!」
橙色に濃くなり始めた陽光を受けながら、修理は山のように並び立つ隊列へと突っ込んでいった。
武田の副将にはあるまじき無謀な突撃だった。でも、もはや残された策はそれしかなかったのだ。
甲州武者として最後まであきらめない。それでよしとしよう。
修理と精鋭たちは千倍以上の部隊を相手に奮闘した。一人、また一人と馬から落ちていき、榊原隊の弓矢が雨のように降り注がれてくる。それでも、修理は甲冑に無数の矢が突き刺さり、蓑のようになってもなお、汗を飛ばし、声を絞った。
だが、一本の矢が馬の目玉を貫いてしまって、修理は振り落とされてしまう。修理は槍を拾い上げ、ずらりと取り囲む三河勢になおも立ち向かおうとしたが、一斉に突き立てられてきた槍の餌食となって、壮絶な最後に幕は引かれた。
十数年前のこと。
「旦那様。ここはあの牛男の屋敷では」
「そうだ。だからどうした」
「なにゆえ。清洲をうろついているだけでもはばかれるのに、よりにもよってあんな得体の知れない男のもとをどうして訪ねるのですか」
「なにゆえと言われれば、もうすぐいくさだからだ。今川が大軍を率いて尾張に乗り込んでくるからだ」
「いや、だから、なにゆえ、かの者を訪ねるのですか」
「フッ。何もわかってねえな、又兵衛。まあ、わからねえだろうな。あいつはな、牛はな、とんでもねえ野郎なんだ。だから、俺は今川とのいくさまで牛と共にする。まあ、そのうちお前にもわかる」
そのとき、前田又左衛門利家は若かった。名無しの牛太郎が、後世から来た人間だという与太話をすっかり信じ込んでいた。
主人の上総介が陽気な気分で牛太郎を雇ったからだ。つまり、そのころの又左は武将としての暴力だけに身を投じていて、自身の判断といえば、拾阿弥が腹立たしいとかの感情だけで物事を左右させており、考えるべきして考えなければならない理性を放棄していた。そういうものはすべて織田郎党親分の上総介が行うことで、又左がすることは憎き相手をぶん殴ったり、ぶち殺したりすることだけであった。
与太者の牛太郎を上総介が生かしたならば、自分もそれを信じて生かす。それが槍の又左だったのである。
ところが、親分の逆鱗に触れて追放され、森部の戦いで功績を上げて織田郎党の一味に舞い戻ってきたものの、追放されていた不遇の時期、又左は考えざるを得なかった。
まつを、家族を、ひどい目に合わせてしまっている。
唯我独尊で生きてきた又左が、初めて外界に目を向けたときだった。
俺は俺で生きていける。でも、妻のまつは、娘の幸は、俺がなければ生きていけない。いや、俺に付き添ってくれている又兵衛も、奉公人たちも、皆、俺がなければ野垂れ死にだ。
又左は暴力に身を投じるのをやめた。
藤吉郎の存在も大きかった。腕が達者なわけではないが、その代わりに口達者。百姓の出だからか、誇りと意地がないはずないのに、それらをかなぐり捨てて、ただひたすらに泥水をすすっている。
家長とはかくあるべきなのではないか。己が支えなくてはならないものを守るために攻める。自分を攻める。考える。感情論ではなく、今、何が一番重要かを考える。
そのうち、物事を見通すようになってきて、段々とわかってきた。前田家を継いだ己にとって何が重要か、織田にとって何が重要か、そして、簗田牛太郎がとてつもない策士であったことを。
牛太郎が後世から来たという話は嘘だ。あれは桶狭間合戦という奇策を編み出した牛太郎が、織田家に奉公したいばかりに上総介に興味を引かせるための詭弁だったのだ。
なにしろ、その後のことを振り返れば牛太郎が大法螺吹きだったということがわかる。摂津池田勢を無条件に降伏させておきながら、その後に裏切られた。足利公方を押し立てておきながら、包囲網を築かれた。
嫁には毎度半殺しにされているし。
しかし、この設楽ヶ原決戦を立案した牛太郎の能力は本物だ。
ほとんどの戦場では醜態を晒しているはずの牛太郎が、どうしてときにこのような光源を放つのか、又左には理解できなかったが、多分、天才と馬鹿は紙一重なのだろう。
それに、牛太郎は、まつと幸に香木をくれたらしい。自分がいないときには朝飯にありつきにやってきたらしい。
自分を追い越して出世しても、その憎めなさは変わらない。
総攻撃の下知が渡って、内蔵助に遅ればせながら、又左衛門も同様、赤母衣衆及び自身の配下の者どもを連れて、武田軍への追撃に転じていた。武田の主だった部隊が朽ちていき、大膳本隊の将兵たちも食い止めにかかってきていた。両軍入り乱れる打ち合いの最中を又左は突っ走る。
「牛のいくさに華を添えてやる」
疾走のうちにそう呟くとどうであろう、華という言葉が、仮死していたかぶき者の血潮を沸き上がらせた。
すると、ちょうど、退いていく騎馬武者の姿を前方に見てとった。いや、敵味方が揉み合う渦中で、その騎馬武者だけが目に留まったのは、実にゆうゆうと馬を走らせていたからだ。退却の必死さは皆無で、その自信にあふれた背中は、追いついてこいと言わんばかりであった。
「そこの者っ! よほど腕に自信があるかっ!」
又左が呼び止め、手綱を絞った騎馬武者は、たいそう不適な面構えでのっそりと振り返ってくる。又左の従者たちがこれに襲いかかろうとしたが、
「待てっ!」
と、又左は制止し、馬をゆっくりと旋回させる。切れ上がった目尻を騎馬武者に留め置き、どこか年長者風情で語りかける。
「お主、この負け戦にて、死に花を咲かせたいのであろう」
すると、騎馬武者は鼻で笑った。
「笑止。おまんみたいな織田のモンなど相手にしとらん」
「何をお。俺が尾張の前田又左衛門と知ってのことかあ」
「前田? フン。どこの誰だか。この弓削左衛門を倒したいなら、本多平八か、榊原小平太でも連れてこい」
又左は槍を構えた。
「言ってくれるではないか、かぶき者。ぬかしたからには命乞いなどするなよ。者どもっ、手出しは無用ぞっ! 武田の剛気、槍の又左が一撃で仕留めてやるわっ!」
「尾張武者はよう吠えるのうっ! 勝ち戦、拾っておけばいいものを!」
弓削左衛門とやらも槍を構え、馬上の二人は戦場の喧騒を聞きながら、互いの眼差しをじりじりと寄せ合う。
太陽が傾きかけている。陽光は細かな粒となってまばゆく放散しており、彼らの兜を淡く照らし上げている。
弓削左衛門の顔つきからは余裕が感じられた。よほど、腕達者なのか、それとも槍一本に生きている男だからなのか、武田軍敗北の悲愴は彼にはまるでない。
又左は思う。まるで、在りし日の自分と対峙しているようだった。
だが、今の自分は、暴れ回っていたときの自分を遥かに凌駕している。若者に尻込み又左などと罵られようとも、男が守るものは自分の意地ではない。前田又左衛門をここに存在させてくれるすべての者たちだ。
「うおりゃあっ!」
又左は手綱を押すと、馬を激しく迫り寄せた。緊張がかち割られたように弓削も馬を激突させてきた。互いに槍を振り抜く。一撃目は相手の力量を試すかのように柄と柄をぶつかり合わせ、どちらがより腕自慢か、血走った目をぶつけながら渾身の力で競り上げようする。
しかし、腕力は五分五分。それぞれが互いを認めて槍を退かせる。
「やるではないか、弓削左衛門!」
「フン。ならば、これでどうよ!」
弓削の槍が又左の胸元へ一突きに伸びてくる。又左は半身を返して交わそうとする。が、しかし、伸びてくると思われた槍が一重の瞬間に翻り、はっとして槍先を確認したときには、弓削の左腕は振り上げられていた。
又左は咄嗟に手綱を引いて、馬ごと交わそうとしたが、
「あ痛っ!」
弓削の槍先が又左の太腿をえぐり裂いた。又左はその拍子で馬から転げ落ち、弓削はすかさず槍頭を突き落とさんとしてくる。
絶体絶命。
ところが、
「うおらあっ!」
主人の危機に村井又兵衛が馬ごと邪魔に入ってき、弓削に槍を突き出した。弓削はあわてて交わす。
「何を、この卑怯者めっ! 尾張モンは一騎打ちもできぬ無粋な輩かあっ!」
「お主が殿の相手をするなどおかしなことよ! 拙者が相手してやるわっ!」
「この野郎おっ!」
怒り狂った弓削は、湯気が立たんばかりに顔を真っ赤に染め上げて又兵衛に怒涛の突きを繰り出した。又兵衛は弓削の気迫に押されぎみながらも、なかなかどうして巧みな槍さばきで、弓削の咆哮を交わしていく。
その間、負傷した又左は赤母衣や配下の者たちに引きずり出されていく。斬りつけられた太腿を抑えながら。違う。違うのだ。俺はちょっとばかり年を食ってしまったのだ、と、自分を慰めながら。
「どうした、弓削左衛門。拙者を討てずして、前田又左衛門を討てるのか」
怒涛の攻撃に疲れてしまったらしく、弓削は肩で息をつきながら、又兵衛を睨みつける。
「次はこちらから行くぞっ!」
又兵衛の波状の槍突きが繰り出された。弓削は又左とやり合っていたときの余裕もなくて、表情を苦闘の汗でしめらせながら、又兵衛の槍突きをどうにかこらえていく。
そのうち、又兵衛も疲れて手を止めた。
「さすがは武田」
と、息を荒げながら笑う。弓削も汗水をぬぐいながら笑う。
「おまんのほうが旦那より強いんじゃねえのか」
「腕自慢だけの男に付いていくだけであれば、忠義などなかろう」
「なるほどな」
弓削左衛門と村井又兵衛の死闘の一騎打ちは、太陽が西空にかかるまで行われた。赤母衣も、又左の従者たちも、二人の壮絶な打ち合いに歓声を上げ、あるいは見とれた。
手当てを受けた又左はひっそりとしており、立場がなかった。
やがて、二人は競り合いのすえに落馬した。それでも太刀を抜き合い、刃を噛み合わせながら、組みつ解かれつ転がりつつ、将と将の打ち合いというよりも、男が裸になって取っ組み合いの喧嘩をしているような泥まみれの様相となった。
そうして、偶然にも又兵衛の太刀が弓削の喉元を刺した。激しい死闘にひたと静寂が訪れた。弓削はかろうじて息を留めていたが、立ち上がった又兵衛は息を整えながら、
「弓削左衛門、あっぱれであった。甲州武者の最後、しかと胸に刻み残すぞ」
太刀を振り下ろして首を打ち落とし、夕差しの設楽ヶ原に鮮血を降らせた。
激闘を勝ち抜いた又兵衛に、赤母衣、従者たちは、わあっ、と、駆け寄り、又兵衛を称賛する。又左はといえば、足を引きずりながら後からこそこそと歩み寄っていく。
「よ、よくやった、又兵衛」
「武田は強いですな、殿」
「お、おう。そうだな」
この間、武田勢のほとんどは連合軍の大波に飲み込まれていた。大膳も北西へと退却しており、銃声と喚声は丘の向こう、寒狭川近辺から届いてきていた。
武田大膳大夫四郎勝頼。父は武田徳栄軒信玄。
何度となく繰り返されてきたことだった。偉大すぎる父を持つと、息子は苦労する。偉大すぎる男は神格化され、死後は生前の功績以上の栄誉を放つといっても過言ではない。
神を凌駕する者が果たしているだろうか。何をしようと、どんな勝利を得ようと、神には及ばない。そして、息子は神と比較されてしまうのである。
おやかた様ならば違った、と。
大膳大夫、いや、四郎の進まざるを得ない道とは、終わりの見えない長い長い茨の道であり、走れば棘が刺さり、立ち止まれば血が滴る苦悶の人生である。
不幸だ。
と、夜な夜なひそかに嘆いたことがある。この嘆きを打ち破るには猛進するしかなかった。突き進むことで、父の亡霊を振り切るしかなかった。
だが、真に不幸だったのは、どうやら、自分に率いられた甲州武田全将兵だったらしい。
設楽ヶ原から脱してきた大膳。本隊の兵卒たちは襲いかかってくる連合軍の勢いをせき止めようと、大膳を見送っていっては道を塞ぎ、時を稼ぎ、死に絶えていき、同輩たちの声がなくなると、また再び大将旗に別れを告げていき、死地へと赴く。
陽光が山道にすっかり届かなくなったころには、大膳を取り巻く者は百人程度の精鋭しか残っていなかった。
屈辱。いや、違う。大膳の背後から武田将兵たちの息吹は消えていき、それは狂おしいぐらいの後悔であった。
父の亡霊に怯えることなど、今となってはどれほどのものであったか。これこそ、茨の道ではないか。
大膳は涙を流すような男ではない。ただ、朦朧としていた。自分がどこを走っているのか、自分はどこに向かおうとしているのか、判別できないままに馬の背に跨っているだけであった。
しかし、寒狭川にかかる桟橋を前にして、その馬も、どうしたことか立ち止まってしまった。疲れてしまったのか、主人の動揺が伝わってしまっていたのか、押しても叩いてもまったく動かなくなってしまう。
大膳は滲みゆく空を仰いだ。
これが宿命か。
「おやかた様っ、降りなされ! 拙者の馬に乗り換えなされ!」
笠井肥後守が脇に付けてきて、そう言いながら自身は鞍から下りた。
「早くしませんか! 追っ手はすぐそこまで来ておりますぞ!」
「もうよい。わしが逃げようとも、お主が逃げられぬではないか。もうよいのだ。わしも最後を迎えることにする。それでよい」
「なりませぬっ! 甲斐には、武田には、あなた様をお待ちになられる人々が大勢おりまするっ! 今一時の死にたさで、甲州の者たちを上総介の暴虐のうちに苦しめさせるのですか! 将兵から百姓町人まで、上総介は一夜にして灰とさせますぞ! それでよいのかっ!」
笠井の激昂に、大膳は唇を噛み締め、手綱を握り締めながらうなだれた。
「あなた様が生きていれば、どうとでもなりまする! 三河守を見なされ! あれだけ打ちのめしたにも関わらず、不屈の思いで這い上がってきたではありませぬか! 武田四郎殿は徳川三河よりも劣っているのかっ!」
多分、配下の者にここまで叱責されたことなど、かつてなかっただろう。
「おやかた様。大殿様はあなた様が思うほど大したことはござらん。大殿様とて、信濃勢に敗れ、不識庵に何度も敗れ、数々の優秀な者たちを失い、こうして泣きながら甲府への帰路を辿ったのです。しかし、すべてを失ってもなお這い上がってきたからこそ、大殿様はお強かったのですぞ!」
大膳はうなだれたまま下馬した。そのまま笠井の足元に膝を付き、嗚咽した。
「すまん。すまん。笠井」
笠井は片膝を付き、大膳の手を取った。
「何を。命は義によって軽く、命は恩のために奉る。あるじに仕える者は皆その一点であります。そうして、拙者に情けをかけてくれるならば、我が子を取り立ててくだされ」
あくまで、この男は清々しい笑みを忘れなかった。
「者ども、おやかた様と拙者の甲冑を外し、入れ替えろ。これより拙者が武田四郎となり、織田徳川の輩を地獄の底に引きずり込ませる」
「笠井、すまん」
「さあ、おやかた様、立ち上がりなされ! もたもたしてはおられませぬぞ!」
大膳が着込んでいた大鎧と白毛の兜が従者たちにより外されると、笠井はそれを着込み、影武者に転じた。
大膳は馬に跨り、最後に、すまん、と一言残した。
「おやかた様! ご武運を!」
渓谷には影もなくなり、薄暗闇が静けさを包み込んでいる。笠井はたった一人、駆け登ってくる松明の火をみとめると、太刀を抜いた。
追撃の一番手となっていたのは滝川隊所属の滝川源佐衛門助義と数名の武辺者たちであった。
笠井は放った。
「我こそ武田大膳大夫よっ! 織田の者ども、我こそはと思うのであれば、この大膳と一騎で相対してみよ!」
白毛の兜を纏った男の突然の名乗りに、滝川源佐衛門たちは足を止め、槍を構えつつ警戒した。
「どうした。総大将の首、一騎打ちのすえにこれを討ち取れば、末代まで残る武勇の誉れぞ。それとも、織田の者どもは最後まで数に頼ることしかできぬ雑兵くずれか」
「大膳。気でも狂ったか」
と、言いつつも、滝川源佐衛門は槍を放り捨て、腰の物を抜刀した。
「だが、その意気やよし! 武田の惣領たる腕前、存分に試させてもらおう!」
笠井と滝川は打ち合った。織田方は笠井が武田の当主だとすっかり信じ込んでしまい、手出し無用こそ敗者への情けとして、二人の壮絶な格闘を黙って眺めた。次々と追撃兵が追いついてきたが、敵方総大将がたった一人で立ち向かってきていることを知ると、感動した。
ただ、それこそが笠井の狙いであった。追撃の足をこの地に止め置かせ、ひたすら時間を稼ぐことに集中した。笠井の腕であったら、滝川源佐衛門をすぐさま仕留められたのだ。
陽は落ちている。
笠井肥後守の捨て身の影武者役により、大膳は寒狭川の吊り橋を無事に渡り終える。
と、向かう先に、山間をいっそう照らし出している炎の一群があった。長篠城兵か、それとも連合軍が先回りしていたか、大膳はそう観念した。
しかし、よくよく見てみると、旗指物は紫。染め抜かれた風林火山の文言。
麻布の頭巾を被る馬場美濃守であった。
「馬場っ!」
大膳が叫びながら馬を止めると、馬場美濃は頭巾を外しながらゆっくりと下馬し、大膳のもとに片膝をついた。
「ご無事でなにより。あとはこの老人にお任せくだされ」
「よい! もうよい! 笠井が食い止めてくれておる。お主もわしに付いてこい!」
馬場美濃は微笑した。
「ありがたき幸せ。しかし、甲府までは長い道のり。若を悠々とお返しするためには、ここで時を稼がなければなりませぬ」
「もうよい。よいのだ。わしが悪かった。わしが悪かったのだ。わしにはお主が必要だ。だから、馬場美濃。お主も甲府に戻るのだ」
馬場美濃は皺を緩めて微笑んだ。腰から采配を抜くと、それで馬の尻を叩いた。馬は大膳を乗せたまま、駆け出していく。
「いくさ場で死ねるのも、また本望なのですぞ、若」
笠井肥後守と滝川源佐衛門の打ち合いはなおも続いている。鍔を競り合わせては弾き飛ばし、間合いの緊張に浸っては、また太刀を振り下ろす。織田の将兵たちは静かな観衆と化してしまい、息を呑んでただただ見つめる。
だが、追いついてきた簗田郎党によって影武者の正体が判明する。
「旦那様」
格闘を見に行っていた於松が栗綱に歩み寄ってき、牛太郎に囁いた。
「あれは大膳じゃないですねえ。大膳の側近が演じているだけですわ」
「なんだと」
すると、それを盗み聞いていた玄蕃允がおもむろに鐙を蹴り込んだ。観衆を蹴散らさんばかりにかき分けながら駆け出していき、牛太郎はあわてて叫んだ。
「太郎っ! あれは大膳じゃねえ!」
玄蕃允の飛び出しに呆然としていた太郎はにわかに顔つきを変え、黒連雀に鞭を振るう。牛太郎も栗綱の腹を蹴り込む。新七郎、七左衛門、利兵衛も簗田親子のあとを追う。
騒ぎ立った織田勢から騎馬が駆け出てきたかと思うと、笠井と滝川の横を疾走していってしまった。そうして、群衆からあれは影武者だという声が上がる。笠井は眉間に皺を寄せつつ、飛び出していった騎馬に思わず振り返ってしまった。
「おのれえっ!」
滝川の太刀が笠井の一瞬の隙を襲った。笠井の反撃は遅れた。このため、二人の太刀は両者の体をえぐり抜き、笠井肥後守、滝川源佐衛門、それぞれ腰から砕け落ちていき、相討ちと果てた。
設楽ヶ原決戦の敢行が決定されたのち、本陣をあとにした四人の将は降りしきる夜雨の中、ひそかに大通寺山に集った。
馬場美濃守信春。
内藤修理亮昌豊。
山県三郎兵衛尉昌景。
土屋右兵衛尉昌次。
取り立てて何かを仕出かそうとしているわけではなく、むしろ、誰かが誰かに呼びかけたわけでもなかった。なぜか自然に、足が馬場美濃の陣屋に向いたのである。
そして、今更、決戦を回避させようと息巻くわけでもなかった。何を口にしても、愚痴になってしまうことはわかりきっている。どうすることもできなかったことへの悲しみ、ただそれだけに無言のままに打ちひしがれている。
「せっかくだから、盃でも交わすかの」
と、しおれた空気を嫌ってか、馬場美濃が最年長者らしい飄々とした物言いで提案した。無論、死に盃である。
馬場美濃は従者に命じ、盃を用意させ、大通寺の井戸から水を汲んでこさせた。ほどなく戻ってきた従者は馬場美濃の意図を把握してか、涙で表情を潰しながら各将が手にする盃に水を注いでいく。
「おやかた様が逝かれてしまったとき、わしも後を追おうとしたのだが」
しかし、馬場美濃は笑みを浮かべている。
「石和の源五郎がやけに涼しげな顔で申しおった。死ぬぐらいの覚悟があるならば武田のために働いて死んでみればいかがですか、などと」
馬場美濃のおどけた調子に、寡黙な修理も無骨な三郎兵衛もくすりと笑った。ただ、彼らより一回り年下の土屋は首を傾げる。
「石和の源五郎とは?」
「高坂弾正殿のことよ」
三郎兵衛が教えると、土屋は苦笑した顔の前で右手を振った。
「いやいや、勘弁してくだされ。恐れ多いにもほどがあります。聞かなかったことにしましょうか。いや、拙者はこの場にいなかったことにしましょう」
「なんじゃ、平八。普段は口数少ないくせに、弁明となると達者ではないか」
土屋は顔を真っ赤にさせながらうつむき、三人の宿老たちは笑い立てた。
ひとしきり笑うと、また、雨の打ちつける音だけに陣屋は静まる。燈台の火が盃の水面にゆらゆらと映り込み、四人はいちようにしてそこにうつむく。
「こうして藹々と語り合うのも、初めてですな」
修理がしみじみと言う。
「将というより同輩、同輩というより友。そんな感じがいたします」
「そんなもんじゃ。本来、武士団というのはそんなものだったのだ。しかし、それでは立ち行かなくなるから、序列の組織の枠を作らなければならんかった。ただの、結局同じ最後を迎えるとなると、侍大将も足軽雑兵も変わらん。同じいくさ場で同じ思いで死ぬ。何も変わらん」
そもそも、と、馬場美濃は言葉を繋いだ。
「武田晴信という人が当主になるまでは、わしなんて甲府をうろついている小鼠にすぎんかったのだ。源四郎とてそうだろう。飯富殿の背中を眺めていただけの小倅よ。修理だって、平八だって。所詮は皆、武田でなければ人でもなかった山猿よ」
「左様」
三郎兵衛がうなずく。
「武田でなければ、拙者どもは将でなかった。おやかた様でなければ、拙者どもが夢を見ることはなかった。京に旗印を打ち立てる。そんな憧れを抱かせてくれて、拙者どもは戦国乱世の果報者だったでしょう」
「そうじゃな。その日の飯も満足に食えずに土くれと化していった者たちが、この世には大勢いるのだからな。わしらは飯どころか、夢さえ見ていたからな」
彼らはしみじみと思い出す。主君とともに駆け抜けてきた数々の戦場、うなだれながら帰途についた敗北の道、甲府を染める白雪、夕日。
「異国の地に散るのも、また将らしい生き様かな。どちらにしろ、わしらは武田菱のもとでしか死ねん」
馬場美濃は目尻の皺を緩めたまま、ゆっくりと腰を上げた。修理も三郎兵衛も立ち上がる。
「大殿様は退屈しているでしょうから、武功を引っ下げて向かいましょう」
と、土屋が腰を上げ、四人はうなずきあったあと、盃の中を一気に飲み干し、それを床に叩きつけて割った。
織田上総介の強烈な輝きにより、武者どもが野心と欲望を剥き出しにして凌ぎを削り合ってきた戦国乱世は終わりを迎えようとしている。
武勇を誇った武田軍を、弱兵の織田軍が撃破した上総介の業績は、個々人の腕っ節だけが評価される時代を確実に終わらせるものであった。人員、武器、兵糧。数を支配する能力に長けた者が勝者となりうる時代の幕開けであった。
ともすれば、寒狭川の橋詰にて連合軍の追撃を盾となって防ごうとしている馬場美濃は、変革の波に愚直に逆らおうとする古い時代の残骸かもしれない。
それもよいだろう。と、馬場美濃は笑っている。乱世最後の墓標となるのも悪くはない、とも。
修理亮、源四郎、平八郎。それぞれ生きた年数は違った。自分のように六十年も生きていれば、平八郎は自分の半分しか生きられなかった。
それもそのはず、皆、戦国乱世を生涯としたのだ。
一日の残り火が淡く消えゆく空を仰いでいたら、馬場美濃は、ふと、源九郎義経と武蔵坊弁慶の最後の逸話を思い出した。
弁慶は辞世の句を主人にこう送った。
六道の道の巷に待てよ君後れ先立つ習いありとも
九郎義経はこう返した。
後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで
どちらが先に行っても死後の分かれ道で待ち合わせようという弁慶の言葉に対し、九郎義経は、後世になっても後世になってもめぐりあおうと答えたのである。
東三河の空にも星は輝いている。目尻から伝うものは、長い年月に干からびた頬を潤していく。馬場美濃は最後の最後でこうした涙を流せる生涯に感謝した。
主君に恵まれた。
同輩に恵まれた。
時代に恵まれた。
ああ、生きてきて良かった。
簗田出羽守、簗田右近大夫、大石新七郎、宿屋七左衛門、長束利兵衛、そして佐久間玄蕃允は、寒狭川にかかる桟橋を渡り、武田大膳大夫の首一つを狙いに突っ走っていた。利兵衛が木の根に足を引っ掛けてほどなく脱落したが、七左衛門は水夫上がりの強靭な足腰からなのか、栗綱黒連雀兄弟に食らいついてきている。
簗田隊の兵卒を捨ててまでひた走るのは、大膳を逃すわけにはいかないという焦りからだった。復活した三河勢を引き合いにして、武田が再び一枚岩と化すのを玄蕃允が危惧しているように、牛太郎も同じように三方ヶ原の辛酸を舐めており、そしてこの決戦に挑んだのだ。
武田軍を完膚なきまでに叩きのめしたのは事実である。だが、織田が安泰となったわけではない。石山に本願寺あれば、越後には上杉がある。
ここで絶対的に勝たなくてはならない。
しかし、牛太郎一味の前に前時代の残骸が立ちはだかった。
わずか五人の兵卒を従える男は、頭巾の下の色褪せた瞳を、松明の火にこうこうと照らし上げ、その眼差しは一直線に獰猛。刻み込んだ皺は乱世を生き抜いてきた男のまがいなき証明。槍を握り締める拳は鉛の塊のようであり、人馬ともども浮かび上がった影を背景にして威風堂々と巨大であった。
「不死身の馬場美濃か」
と、玄蕃允が呟きながら槍を構える。
「臆しましたか、玄蕃様」
新七郎が言うと、玄蕃允は笑った。
「何を言う。馬場美濃の首討ち取れば、これとない大手柄よ」
ところが、二人が戯言をほざいている間に、
「どけ! ジジイっ!」
猪突猛進、牛太郎が栗綱とともに突っ込んでいってしまう。馬場美濃の前を塞いだ兵卒たちを弾き飛ばし、栗綱がそのままぶちかますと、牛太郎は振り上げていた朱槍を打ち落とす。もちろん、馬場美濃は難なくこれを受け止めるが、しかし、牛太郎が手にしている槍に目を奪われた。
「おのれえっ!」
怒りの声を放ちながら、馬場美濃は牛太郎を弾き返す。牛太郎はよろめいて、あやうく落馬しそうになるが、両足を鐙に縛り付けていたおかげで難を逃れる。
「それは源四郎の槍ではないかっ! この不届き者があっ! 名を名乗れっ!」
フン、と、牛太郎はつまらなそうに鼻を鳴らし、言う。
「簗田出羽守だ」
「なに?」
とぐろを巻いていた怒りが、影に吸い込まれていく。馬場美濃は引立て烏帽子の男の研ぎ澄まされた瞳を見据える。
一方で、玄蕃允が五人の兵卒たちに襲いかかっていた。黒連雀が猛獣のごとく暴れ回っていた。太郎が槍を払い抜き、新七郎が吠え立てる。
「お主があの二俣城の簗田か」
「お前らに殺されかけたあの簗田牛太郎だ」
すると、馬場美濃は口端を緩め、小さく笑った。馬場美濃が、不死身の馬場美濃たるゆえんの獰猛さが、顔に刻まれた年輪のうちへとみるみるうちに溶けていく。
「お主、源四郎とともに生きるつもりか」
「笑わせんな、ジジイ。おれはいつだってあの馬鹿と生きてきたんだ。あの世に行ったら伝えとけ。生まれ変わってもおれの敵でいろってな」
「ハッ」
と、馬場美濃は黄色い歯をあらわにして笑った。
そして、満面の笑みはすぐに苦悶の歪みへと変わった。七左衛門の槍が馬場美濃の脇口を貫いていた。
血の雨が降る。馬場美濃は襲ってきた槍を掴むも、目玉を剥き出しながら呻き、腰を折っていく。
「覚悟おっ!」
太郎が黒連雀とともに飛びかかってきて、伸ばした槍頭が馬場美濃の喉笛を的確に捉えた。鮮血が噴き出す。
「うおォっ!」
「終わりだ!」
新七郎の槍が、玄蕃允の槍が、宙をさ迷う馬場美濃の意識へと容赦無くとどめを差した。
もう、馬場美濃守信春はこの世にいない。抜け殻となったむくろだけが地上へと崩れ落ちていき、その指先も、その目も、血溜まりの中に固まった。
牛太郎は厳しい目で亡骸を見つめる。今しがた笑っていた者が、ただの肉塊になっている。
「父上」
牛太郎は手綱を引いて、栗綱の鼻面を来た道へと返した。
「帰るぞ」
「何を言っているのだ、オヤジ殿。大膳を追わずにどうするのだ」
「もういい。もう暗い。あとは滝川とかにやらせておけ」
長きに渡った死闘は、ここに終わった。
岐阜城にて天下布武の印を掲げたころより始まった織田上総介信長の大事業であったが、畿内を制圧し、包囲網を打破してもなお、天下人の資格が尾張の片田舎より起こったこの出来星大名にあるのかどうか、この日まで人々は懐疑的であった。
多分、織田軍の進む道が覇道であると信じて疑わなかったのは、当主の上総介一人であったかもしれない。
年中働いている彼の家臣たちには天下を望む余裕などまるでなかったし、そもそも、応仁の乱以降百年も続いている群雄割拠の無法時代が終焉する見通しなどは、ほとんどの人間には立てられなかった。
というのも、この畿内七道には、自称武士の暴力団が星の数ほど跋扈しており、彼らは日々縄張り争いに熱中している。それぞれの規模が大きかれ小さかれ、自分たちの繁栄もさることながら、まずは生存であらなければならない彼らは、暴力団の摂理として、自然と均衡を保っており、そうした均衡を破壊する者が奸雄だとか英雄だとかと呼ばれ、例えば古くは北条早雲だとか斎藤道三だとか三好長慶で、近いところだと武田信玄、上杉謙信であった。しかし、彼ら乱世の奸雄、戦国の英雄であっても、いずれは奸雄同士、英雄同士ぶつかり合わざるを得なく、その危機への回避戦術もあって、自然と、しかし無意識ながら、巨大な者なりの均衡を保っていた。
この大小の均衡、すべてを打ち破って天下人となるなど、まず、考えられないことであった。なにしろ暴力団どもは生存のために富国強兵し、敵が強くなれば自分も強くなろうとするのだ。生存の道を必死に模索するのだ。武田信玄がいくら強かろうと、上杉謙信が立ちはだかり、軍神と恐れられるその上杉謙信でさえ、いまだ北陸を脱せられないのだ。
しかし、天正三年五月二十一日(西暦1575年7月9日)。
設楽ヶ原において織田上総介信長は均衡を破壊した。
もちろん、織田軍は稲葉山城奪取以来、新しい道を走ってきた。革新を恐れる者たちが徒党を組んで立ちはだかった包囲網さえ壊した。実績は十分にあった。
ただ、今までのそれは、総帥上総介の性格もあって、慎重に慎重を期し、調略を駆使し、虐殺を繰り広げ、じわじわと勢力を拡大していっている陰険な側面があり、織田軍の目覚しい活躍によって得られたとは、とてもじゃないが言えたものではなかった。織田家が天下にもっとも近いのは確かだが、軍人としての織田上総介に覇者の資質があるのかどうか、いや、覇者など誕生するのかどうか。
その疑惑が、この日、一挙に薙ぎ払われたのである。
均衡の一番手でもあった武田家をたった一日――、百年のうちのたった一日で、太陽の沈むところへと叩き落とした事実は、人々にとって鮮烈であった。
時代は変わる。
と、雑兵はともかくとして、戦後処理のために長篠城に集った織田軍の将たちは、天下布武を、初めて形あるものとして意識し始めた。勝利の喜びもさることながら、明日への高揚を抑えきれなかった。
自分たちは、何か、とてつもないことをやろうとしている。いや、とてつもないことをやっている。
ただし、設楽ヶ原決戦は、あくまでも長篠城防衛戦の延長線に起こったことであり、織田軍の立場というのは徳川への援軍であり、新たに領地を獲得したわけでもないから、論功として、誰々が何万石の領土を与えられたというのはなかった。
目立ったのは長篠城守将の奥平九八郎貞昌ぐらいで、上総介から諱の信の字を与えられて信昌を名乗ることを許された他、三河守からは名刀を授与された。
まあ、恩賞はなかったものの、この決戦に比類なき活躍をした者たちが、上総介、三河守、それぞれの主人の脳裏に焼き付いたのは確かだった。
大久保新十郎、治右衛門兄弟。丹羽越前守。佐々内蔵助。前田又左衛門。
それと、簗田出羽守に右近大夫の親子。
「勲功第一は当然ながら簗田殿でしょう」
討ち取った首検分と論功行賞が終わったあと、長篠城本丸をあとにしようとしていた牛太郎に、奥平九八郎はそう言いながら歩み寄ってきた。
「いや、そんなことはありません」
牛太郎はどこか哀しげにうつむいて、珍しく自重の色をふんだんに表す。
「あっしはここまでぎりぎりの戦いになるとは思ってませんでしたから」
連合軍も膨大な死傷者を出している。前線を動き回っていた簗田隊も、結構な数が死んだ。大量の火繩銃による先守後攻の戦法が勝利へと結びつけた一因でもあるが、そもそもの兵力の分母の差が勝因であったことも否めなくはない。
強いとわかっていた武田軍がそれ以上に強すぎた。それに尽きる。
「瀬戸際であればこそ、敵方もやって来てくれたのでしょう。恐れながら、拙者は始めから承知しておりましたよ」
九八郎は優男らしく目尻を緩やかにしながら、はっきりとした口調であった。その端正な顔が、炎の煤なのか、薄汚れている。
「長篠城守兵五百、すべての者がここに生死を賭け、将来の運勢を決しようとしました。死んでいった者とて、悔いはありませぬ。拙者はそう信じて明日からを生きようという所存でおります」
「父上」
と、傍らの太郎が笑みを浮かべながら言う。
「皆、奥平殿の思いと一緒です。父上とて、そうだったじゃありませんか。命をかえりみずに、赤備えに立ち向かったではありませんか」
口許を引き結んだ牛太郎は、黙ってうなずいた。
「簗田殿。また、来てください。今度は酒でも馳走させてください」
九八郎に、笑みを作って答えた牛太郎は、深々と頭を垂らすと、太郎とともに長篠城本丸をあとにした。
かがり火が長篠城の激闘のあとを照らし上げている。
「丹羽様が言っていました。今日の勝利ですべては変わると。織田徳川武田のみならず、日の本のすべてが変わると。ねえ、父上。それをやったのは簗田出羽守じゃないんですか」
太郎はやたらと饒舌であった。いくさ場での武者振りもすっかり抜けていて、元の澄んだ太郎、それでいて、息子は気色悪いぐらいに懐っこくなっている。
嬉しいのかな。沓掛城からたった二人で始まって、十何年も連れ添ってきた駄目な親父、愚かな養父が、世の中を変えた(と、誰かが高揚してしまうような)一大事を成し遂げたことが、太郎には自分事のように嬉しいらしい。
「お前」
牛太郎は足を止め、息子のすすけた顔を見つめた。
「なんでしょう」
「いや、なんでもない」
ありがとう、と、言おうとした口がむずがゆくなった。
その晩、牛太郎は眠られぬ夜を過ごした。どんなところでも熟睡するこの男が、文字通り一睡もできなかった。
山から下りてきたらしき小動物が、陣屋の外をこそこそと動きまわっており、時折、ちょっとした物音を立てるので、そのつど牛太郎はびくりと体を震わせた。
それ以外はふくろうの鳴き声が聞こえてくるぐらいだった。
むしろの上に寝そべる牛太郎は、目を瞑っても、目を開いても、昼中に起こっていた一秒一秒の長い一瞬を闇の中にまざまざと映した。いや、思い出したくなくて振り払おうとしても、光景は蘇るのだった。火繩銃のけたたましい轟音や、太鼓の音、馬のいななき、蹄が大地を蹴り払う響き、兵卒たちの息遣い。取り憑かれたように、牛太郎の耳にはそれらが聞こえてき、寝返りを打って逃れても、今度は山県の形相や馬場美濃の笑みが目の前に現れた。
取り立てて、感情が湧いているわけではない。連中を殺してしまった罪悪感や、他に策があったのではないかという後悔などではない。どちらかというと、いくさ場の影が強烈すぎて、脳裏から離れてくれなかったのだ。
そのうち、時間を遡るようにして、武田軍、いや、山県との因縁が思い出されていった。三方ヶ原で相対したときや二俣城で睨み合ったとき、湯村山で対峙したとき。
どちらにせよ、宿敵はもういない。
結局、牛太郎は起き上がり、太刀と脇差を締めると陣屋の外に出た。残党の夜襲に備えて、胴丸も篭手も身につけたままでいる。あぐらを組んでうつむいていた栗之介をつま先で起こすと、柵と藁だけの急ごしらえの馬屋から栗綱を無理やり引き出すと、鞍を整え、陣を出た。
大通寺山を下り、松明も携えずに寒狭川を渡り、伊那街道を進んでいく。栗綱は眠りながら歩いているのか、首をうなだれぎみにして一歩一歩のっそりと歩む。口輪を取る栗之介も、栗綱に合わせているかのようにしてうつらうつらと頭を揺らす。
月はすでに沈んでいる。
設楽ヶ原に向かう。
森の上に、星はふっていた。淡くまたたくそれらは、深い夜空を海のような青に染め広げていた。
かっぽら、かぽら、と、愛馬の足音は、星明りに包み込まれながら山の草木に消えていく。影もない夜道。牛太郎はただただ前だけを見据えている。
人は、たくさんのことを忘れる。
そのときの怒りも、そのときの悲しみも、いつかは他人事であったかのように過ごすようになる。平和に、健やかに、優しく暮らすために。
誰かの死も、自分が生きるためにはいらない。この世のどこかで誰かが苦しんでいようとも、関わりたくはない。たとえ、いっとき、その惨劇に同情したとしても、一日の眠りから覚めてしまえば、残酷な事件は悪い夢であったかのように消えている。
誰かの死、苦しみは、健康な人々の願いと望みがかたどる世の中の大きな仕組みの中で埋没し、あるいは抹消し、いつだって虚無の風となって地表をうらさびしくすべっている。
だから、人々の歴史など、残骸の積み重ねでしかなく、その残骸を海の彼方に引き波とともに流していってしまうのが創世である。
牛太郎は、時代がさらっていった設楽ヶ原決戦の残骸を確かめずにはいられなかった。彼は勝利というものに奢りたくなかった。忘れる人になりたくなかった。
自分が引き起こしたことだから。
設楽ヶ原が一望できる才ノ神に登ったとき、夜空は白白と薄ばんできていた。一等星だけが輝いていて、あとはどこまでも高い濃紺の彼方に消えている。
栗綱から下馬した牛太郎は、武田大膳大夫が眺めていたと思わしき景色を前にたたずむ。
音もなく流れる連吾川。
何もなかった。何かがあったことが疑わしきほど、何もなかった。
それでも、時代とは、新たな装いに変えていっては進むのだろう。何かがあったことなど消し飛ばして。願いと望みを糧にして。待ったなしに流れるのだろう。
なにしろ、犠牲に振り返らないのが時代を形成する人間の人間たるゆえんだ。
それはいつの時代に生きる人も変わらない。昨日までの古い時代を生きてきた人でも、今日からの新しい時代を生きる人でも、きっと、変わらない。
忘れること。それが宿命なのである。
設楽ヶ原には何もない。
「おみゃあ」
はっとして振り返ると、藤吉郎が薄闇の木陰から牛太郎を睨みつけてきていた。傍らには半兵衛もいる。
「馬丁だけ連れて、こんなところで何をしているんだぎゃあ」
「藤吉郎殿こそ、半兵衛と二人きりで」
けっ、と、藤吉郎は舌打ちしながらも、牛太郎にのそのそと歩み寄ってき、隣に小さな肩を並べてきた。鼻先を突き上げながら設楽ヶ原を睨み下ろす。
「おりゃあに内緒でおみゃあがやったことを半兵衛から聞き出すためだぎゃ」
「内緒でって、別にそういうつもりじゃないんスけど」
「じゃあ、なんなんだぎゃ。半兵衛には小谷にまで会いに来て、どうしておりゃあのところには顔を見せなかったんだぎゃ」
「殿。もういいでしょう」
半兵衛がなだめながら近づいてきたが、
「おみゃあは黙っていりゃれえ!」
怒声を打ち響かせて、半兵衛に溜め息をつかせる。
しかし、怒鳴ったあとは、不機嫌そうなしわ潰れの顔を眼下に向かせるだけで、詰め寄ってこなかった。子供のように唇を曲げて、じっと黙っている。
「太郎から聞いたぎゃ」
と、今度はやけにぼそぼそと口を開いた。
「おみゃあ、陣替えのときに全然起きなかったくせに、おりゃあが夜襲を受けているっていう嘘を聞いたら飛び起きたみたいだぎゃあな」
「さあ。どうだか」
と、牛太郎は鼻で笑った。
山の向こうが夜明けの光で淡く染まっている。
「これでおみゃあもそのうちに国持ち城主になるだぎゃあろ。どこの国を与えられるかわからにゃあけども、おみゃあもようやくおりゃあに肩を並べられるわけだぎゃ」
「あっしは別にそんなのどうでもいいッスよ」
「格好つけるなぎゃ」
藤吉郎は睨み上げてくる。
「おりゃあみたいな百姓とか、おみゃあみたいな馬鹿牛が大出世すれば、世の中おもしろくなるんだぎゃ。虎松とか夜叉丸みたいな鼻垂れ小僧に夢を見させてやれるんだぎゃ」
鼻息の荒い藤吉郎の後ろで、半兵衛が微笑を浮かべている。
「太郎に聞けば、おみゃあ、いちいち悩んでいるようだぎゃあけど、おりゃあたちにはおりゃあたちなりに、そういう生き方もあるだぎゃあろ」
牛太郎は笑いながらうつむいた。革の手袋で目頭をこすった。
「どうせ、いつかはおりゃあたちも死ぬんだぎゃ。だったら、小僧たちに生き様を残してやるのも野良猿野良牛の務めだぎゃ」
牛太郎はうなずいた。何度も。
夜が明けていく。東の空が赤く燃えていくのとともに、山々から伸びてくる光は、設楽ヶ原の夢の跡を眼下にゆっくりと浮かび上がらせていった。